【鳴神来たりて(仮題)】のための創作ノート⑦

 【第七章 交錯】

      1
 御雷は、大きなくしゃみを一つした。
「誰か、俺の噂でもしているのかねえ。」
 風邪を引いているわけでもあるまいが、昼夜の寒暖差が大きい時期ではある。
 深夜、二時。もう日付が変わって、土曜日になっていた。
 狙撃練習を終えて、公園で小休止を取っている。
 コーヒーの空き缶を、ゴミ箱に投げ入れた。大欠伸をする。
 スープラの奏でる低いアイドリング音が、眠気を誘う。
 運転席に戻ったが、シートベルトをせずに軽く目を閉じる。
 御雷といえども、週末は待ち遠しい。教師の仕事に手を抜いていない証拠ではある。
 教師という仕事は危険だ、と御雷は思う。
 生徒に教えるという立場ではあるが、生徒から学ぶことも多い。御雷が経験の豊富な教員であるといっても、転勤する度に新しい発見がある。さらにいえば、出会った生徒一人一人が、全て異なった個性を持っている。
 当たり前の話ではある。だが、それが面白い。
 授業に没頭し、放課後の補習では全力で指導に当たる。休み時間には雑談に興じたり、たまには相談に乗ってやったりもする。
 そんな、教師としての日常は、御雷にとっては毒だ。
 腹立たしいことも、当然ある。しかし、やりがいも、ある。興味深い同僚にも恵まれている。
「正規教員になれ…か。」
 それも、いいかもしれない。一教諭として教育に人生を捧げるのも悪くない。そう感じている自分を、はっきりと御雷は自覚している。
「でも、そうはいかないんだよな。」
 御雷は他の教員ができないこと―――血を流すために稲美中に赴任してきたのである。普通の教員になったら、それはもはや御雷ではない。
 為すべきことを、為す。そして、それはまだ始まったばかりなのだ。
 河津組襲撃の件で警察が動いてる気配は、相変わらず、ない。報道も一切なかった。
 一度、何食わぬ顔で中華料理店に顔を出してみたが、「諸事情により閉店」の張り紙が一枚してあっただけだ。首を捻る演技をしてから店を離れた。常連客が事情を知らずに訪れた、というポーズだ。
 警察が動いていないということは、河津組は大量の死体を処理して、襲撃事件そのものを「なかったこと」にしたのかもしれない。
 状況を見れば、そして仲間内にモグリの医者でもいれば、夕食に毒が盛ってあったことなどすぐに露見するだろう。中華料理店の主人が酷い目に遭っていなければよいが…。人の良さそうな笑顔と、サービスしてくれた品々を思い出しながら真剣にそう思った。
 御雷が出前を利用して襲撃を掛けたから、主人にとばっちりが行ったのだ、とは考えない。十分な博愛精神と実利主義が絶妙に一人の人間の中で共存しているのだ。
 全てを組の手で隠蔽するのなら、主人の身はさほど危険ではないだろうという読みはあった。「何もなかった」のに、主人を拷問に掛けたり殺したりすれば、それは逆に「あの店を起点に何か大変なことが起こった」というサインを出すようなものだ。とはいえ、主人も自分が不自然に眠らされていたことに不信感はあるだろうから、状況を問われた上で口止め料を渡されて、今原市から去った―――というあたりが一番無難な後始末の仕方だろう。主人が約束を守れば、警察に駆け込むことはない。
 沢田…か。事務所詰めのローテーションから考えれば、発見したのは沢田その人のはずだ。組長の口振りからも、彼が会長の寵愛を受けているのを御雷は知っている。それなりに能力は高いはずだ。
 となれば、若いながらも奴が後始末の指揮を執った可能性は高い。
 その前提で、呟いてみる。
「沢田という男も、なかなか肝が据わっているらしい。隠しきろうとするとはね…上手くいっているところを見る限り、組長が死んでも大きな混乱はない、か。」
 御雷は、少しだけ迷っている。
 西本は、殺す。稲美中の暴力と混乱、そして薬物の全ての交差点に立っているからだ。裏の世界に生きるという、奴の決意は固い。更正の見込みは無い。だから消せばいい。
 ただ、薬を辿ってみると、供給源には沢田がいる。奴も、消すべきだろうか。
 河津組自体を潰すことまでは考えていない。それはあくまで警察の仕事だ。御雷が暴力団に絡むのは、生徒に関わる問題についてのみ、である。
 あくまで、御雷武は教師として考え、行動しているのだ。その基準があまりにも教育界の常識とかけ離れているだけのことだ。
 だが、教師としての御雷が蒔いた種は少しずつ育っている、と感じている。
 やる気のある生徒、真面目に努力する生徒が称賛される雰囲気。無気力だったのは生徒集団だけではない。それ以上に諦めの境地に達していた教師集団も変わりつつある。
 保護者の認識も、変わらざるを得ない。
 金曜日の午後、馬越の両親が見舞金として百万円を持参した。週明けになると踏んでいただけに意外だったが、校長室で御雷が受け取った。管理職は席を外す。録音されている可能性も考慮して、一言一句前日の猿芝居を再現してやった。
 予想に反して守矢も復帰している。思いの外、精神的にタフだったようだ。馬越夫妻に頭を下げられて目を白黒させていたのが、妙に可愛らしかった。
 思い出して、御雷の唇に小さな笑みが灯る。
 本来なら、百万円もの見舞金を受け取ることには問題があるのかもしれない。管理職もそれを危惧してはいた。御雷は、「学校再生専門員の活動費は現地調達が許されている」という条項を盾に取り、県教育長に「問題ない」と明言させた。守矢が直接受け取るのはまずいから、一旦御雷が全額受け取ってから、活動費の一環として半額を彼女に渡してやる。
 分厚い封筒にどぎまぎしていたが、校長室でのやりとりを巧くまとめて説明してやると、「痛快だわ」と早速毒舌を吐いてみせた。
 先日の夕飯の件もある。臨時収入があったから、ということで田中と菊池に何か欲しいものがないか尋ねてみた。
 二人とも、「あんなことでお礼なんてもらえない」と恐縮したが、御雷は引き下がらなかった。「年長者の言うことには従うものです」の一言で押し通す。嘘は、言っていない。
 結局、菊池には「ちょっといいランニングシューズ」を贈ることになった。もう、一緒に店へ行って商品は決めてある…のだが、彼女の足のサイズである二十三センチに希望の色の在庫がなかった。取り寄せるまでしばらくかかるそうだ。
 田中の方は、いろいろ迷っている。欲しいものも食べたいものもたくさんあるらしい。が、結局決めきれずに、こんなことを言い出した。「何でも一つだけ言うことを聞いてくれるというのは、どう?もちろん、その時にできることしか頼まないから」…一番面倒臭い、というより危険な願いだ。特に、田中は何を考えているかわからない。
 御雷は少し考えて、「『これ以上は無理』というラインを引かせてもらえるなら」という条件付きでOKした。
 それしても。馬越夫妻の報告を思い出して御雷は苦笑する。
 結構な重傷に見えたし、診断書にも右手が完全に潰れて云々、と書かれていたのだが。
 あっさりと月曜日には退院するという。何度か手術をしなければならないのは嘘ではないようだが、かなり大げさに書類には書いてもらったようだ。
 麻薬の買い付けに関しては、カラスの携帯に馬越から連絡が入った。予定の時間と場所、取引量は変わらない。ただ、馬越の代理として白石直哉が来るという。顔を見ればわかるのだが、もっともらしく合い言葉を伝えてやった。
 御雷は目を開けた。スープラのコンソールに目をやる。メーター類と共に並んでいるデジタル時計を見た。そろそろ、いい時間だ。
 携帯電話を取りだして、番号を入力する。通話ボタンを押した。
 呼び出し音。
『もしもし。武さんですか。』
 名乗る前から、K2の声は弾んでいる。息遣いからも、待ちかねていたのがわかる。二十年分の思いが言葉にならずとも伝わってくる。
 どれだけ待たせ続けたのか…と、さすがの御雷も申し訳なくなる。
「うん、ぼくだ。元気か。」
 変なことを言う、とK2は笑う。
『私は病気にはなりませんよ。知っているくせに。』
 つられて、御雷も笑った。
「お前こそ、そういう意味じゃないってわかってるだろう。」
 ええ、と応えるK2の表情がわかるような気がした。穏やかな笑みを浮かべているのだろう。
『心の方ですね。大丈夫、私は元気です。この前、電話をいただいてから、ずっと。』
 もっと早く連絡してやればよかった、と思う。逆に言えば、御雷からの連絡が途絶えていた二十年間、彼女は元気ではなかったということでもある。
「ちゃんと、ご飯は食べてるか。」
『はい。三食きちんと食べています。朝夕はちゃんと自分で作っていますよ。』
「風呂もちゃんと入ってるか。」
 K2はたまらず吹き出した。
『武さんは、埃まみれの私を想像しているのですか?髪はボサボサ、服はボロボロ…私だって、女の子なんですから。そこは、きちんとしています。』
 女の子ねえ…と御雷は声に出してみる。
「お前、今年でいくつになったんだっけ。」
 ぐっ、とK2が言葉に詰まる。
『…初代の身体が誕生してから、四十六年経ちますけど。』
「四十六歳の、女の子か。」
 からかうような響きが、ある。
『もう、年齢のことは言わないでください。中身はずっと女の子なんですから。それじゃ、駄目ですか?』
 むくれ顔が目に浮かぶような声に、「ごめん」と素直に言えた。
「悪かったよ。長く放っておいたぼくが、悪いんだ。」
 真面目な声に戻す。
「お前が言うとおり、中身が大事なんだ。人間らしく生活してくれてて安心した。」
 少なくとも、今の俺よりはずっと人間らしい。
『【人間】の定義にもよるとは思いますけど。身体の組成を除けば、私は自分を人間だと認識しています。』
「ああ。ぼくも、そう思う。たしかに、お前は女の子だよ。」
『私のことを全く顧みてくれない武さんのことだけを、一途に慕い続けている可哀想な女の子です。』
 御雷は一方的に責められている気分になる。
「なあ、K2。」
『はい?』
「この二十年間、お前はずっとぼくに遠慮してきたんだろう?」
『ええ。率直に言えば、その通りです。』
「今は、全く遠慮が無くなったな。」
 御雷の苦笑に、K2は朗らかなくすくす笑いで返してみせた。
『我慢するのを、やめることにしたんです。』
「我慢を、やめる?」
 息遣いの変化と、頷く気配があった。声に、僅かな緊張がある。
『ずっと―――人形でいようと努力しました。私の存在が、あなたを苦しめてしまってはならないと。』
 その思いを想像すると、御雷には返す言葉がない。無言のうちに彼女にそれを強いたのは、俺だ。
『でも。』
 意外にも明るいトーンでK2は言った。
『二十年の間、あなたへの想いは変わることはありませんでした。この前、あなたの声を聞いたとき、はっきりわかったんです。【ああ、私はこの人のことが本当に好きなんだな】って。』
 言葉に淀みはないが、声には微かな緊張と恥じらいがある。彼女にとっても勇気の要る発言―――言おうと心に決めていたのだろう。
『だから、たとえあなたに疎まれることになったとしても。あなたに嫌われたとしても、自分の気持ちに正直になろうと決めたんです。』
 あくまで静かな口調ではあったが、御雷の心に染み入るものがある。
「嫌いになんか、なるもんか。」
 K2は次の言葉を待っている。
「初めて逢ったときから、ぼくはお前のことが好きだよ。」
『女性として?』
 御雷は溜め息と共に答えた。不思議とK2には率直に話すことができる。
「そう。一人の女の子として、お前のことが好きなんだ。」
『まあ。』
 その声には、喜びと驚きと安心と――明らかに呆れている響きがあった。
『それでは、武さん。姉様と私の二股をかけていたということですか?』
 何だか、雲行きが怪しくなってきた。
「ちょっと待て。それはもの凄く誤解を招く言い方だぞ。大体、お前は、あの頃はまだ『人間』になる途中だったじゃないか。」
『では、お尋ねしますけど。』
 言葉遣いは違うのに、恭子に問い詰められたときを思い出す。それはつまり、逃げ道が無いということだ。
『もし、あの頃、私が既に【人間】であったならば…。』
 予想していた詰問口調ではない。御雷は耳を傾ける。
『私と姉様を同時に愛していただくことはできたのでしょうか。』
 思い詰めたような声に、K2の真意を知った。
 元々、K2は恭子の死後、御雷のパートナーとなるべく生み出された存在だ。それは、K2自身に、「自分は恭子の身代わりでしかないのか」という疑問を抱かせる。自分の、存在意義に関わる大きな問題だ。
 御雷の答えは最初から決まっている。
「もしそうだったら、二人ともぼくの奥さんにしようとしただろうな。―――まあ、外観が十六歳のままだと、少し困ることになるだろうけど。」
『まあ、呆れた。』
 そう言いながら、K2の声が潤んでいる。
『同時に二人の妻を持とうだなんて。やはり、撃墜数千二百のスーパーエースだと、これも仕方ないことなのでしょうか。』
 笑って同意してやる。
「そうさ。ぼくは、欲張りなんだよ。相手の女性が同意してくれるなら、ね。」
 あなたの言っていることは無茶苦茶です、と泣き笑いの声が返ってきた。
『でも、私を一人の女性と認めてくださっていると聞いて、とても幸せです。』
 今が切り出し時だと御雷は判断した。
「そのことなんだが、ぼくから一つ提案がある。」
『結婚なら最初からOKですが。』
 気が早いところは相変わらずだ。御雷は頭を掻いた。
「いや、そっちじゃなくて。」
 明らかに落胆した気配があった。
『ねえ、武さん。』
「うん?」
『こう見えても、私は結構モテるんですよ。』
「だろうな。」
『研究所の職員からも随分お誘いをいただいています。私、普段は髪も黒くしてますし、炭素基系の人類だと勘違いしている方も多いみたいで。あまり放置されると、私だって気持ちが動いてしまうかもしれませんよ。』
 御雷の唇に淡い笑みが浮かぶ。
「いいや。お前の気持ちは動かない。」
 たじろぐ気配がある。
『なぜ、そう言い切れるんですか。』
「決まっているだろう。このぼくが、お前はぼくのものだと決めたからだ。」
『もう…強引なんだから。』
 溜め息をつきながらも、満更ではない様子に、御雷はしてやったりと笑う。
『でも、あなたは私に【相手は自分で決めろ】と言いましたよ。』
「言ったね、確かに。だけど『俺のことは好きになるな』とは言わなかったよ。」
 K2は何ともいえない声で唸った。
『こんな調子で、姉様も丸め込まれていたのかしら。演算速度だけでいえば私の方が優れているはずなんですが。あなたと話していると、どうも調子が狂います。』
「それが、『人間』ってものだよ。単に性能の善し悪しで関係が決まるわけじゃない。」
 人間、という言葉にK2が反応する。
『そういえば、私。ここ数年は眠るようになったんです。』
「へえ。疲れるようになったのか?」
 御雷の声に、微かな不安が宿る。未知の素材でできているK2のボディと頭脳には、意外な弱点や予想外の劣化がないとも限らないのだ。
『いえ。疲れはしませんが…その、なんというか。昼間経験したことや思考したことを整理するために睡眠を要求されるようになったんです。私自身、最近まで気付かなかったのですが…。』
「じれったいな。勿体ぶらずに教えてくれ。」
 すうっと深呼吸するのが聞こえた。
『私にも【無意識領域】があるのを発見したんです。』
「それって、つまり…?」
『私自身が意識しない間に、何かをしている可能性がある、ということです。それは、主人格である私にもコントロールできない領域です。』
 御雷が無意識領域のかなりの部分を意識でコントロールできるように改変したのと、ちょうど逆のことが起こっているわけだ。
 ふうん、と御雷は考える。
「自分でも思ってもみなかったことをやらかしている、という可能性もあるわけか。」
『はい。無意識に願うことの恐ろしさを、実感しているところです。』
 声が、重い。感じるものが、あった。
「何を、願った?」
 言えません、とK2は応えた。
『言えば、きっとあなたに叱られます。―――あなたは、必ず私を嫌いになる。』
「もしかして…ぼくの身体のことか?お前が直してくれたこの身体に、何かまずいことがあるのか。」
 最近は体調不良を感じることが多い。といっても、「身体が重い」くらいな感覚だが。
 御雷の質問には直接答えず、K2は言った。
『私は、あなたと離れている間に、大きく四つの研究を進めてきました。一つ目―――最優先は、あなたの脳内にある破片を取り出す方法。これは不完全ながら目処が立ちました。』
「ああ。お前が頑張ってくれたおかげで、ぼくは手術を受けられるところまできたわけだ。」
『成功率は三割程度。最初はゼロだったことを考えれば、成果はあったといえます。この成功率でも、手術を受けますか。』
 受けたい、と御雷は即答した。そのために待ち続けたのだ。
「もし失敗しても、死ぬのが少し早まるだけだ。」
『破片への処置については、逆方向からのアプローチも試みました。研究の二つ目は脳内の破片を取り出さず、そのままの状態で危険性を取り除く方法です。発想の逆転で、破片が動き回らないように脳内に固定してしまいます。』
 なるほど。破片が暴れない安心感は大きい。MRIだって受けられるだろう。熱の問題はあるにしても。
「だけど、それじゃぼくの寿命や痛覚は今のままだ。このまま生き続けるための研究なら…。」
 要らない。
 はい、とK2は声を落とす。
『ですから、この研究テーマは三つ目のテーマの母体として活用しました。』
「それは、何だ?」
『今は、詳しくお話しすることはできません。ただ、私が無意識に願ってしまったばかりに、武さんの身体に変化が起きています。それを何とかするための研究だとだけ。いずれ、あなたがアメリカに帰ってこられたときに直接お話しします。』
「電話じゃ駄目なのか?それとも、すぐに命に関わるような問題ではない?」
 受話器を握るK2が表情を歪めた―――ように思えた。
 声が苦い。
『今すぐ命に関わることではありませんが、直接話したいんです。私の話を聞けば、きっとあなたは私のことを嫌いになります。面と向かって言って欲しいんです。【お前が嫌いだ。顔も見たくない】って。もう、会えないままで置き去りにされるのは嫌なんです。たとえ耐えがたい言葉であっても、直接言って欲しい。』
 K2が、嫌われることを前提に話していることに、御雷は腹が立ってきた。
「何を願ったか知らないが、無意識にやってしまったことなんだろう?」
『はい。あなたに施した手術の不備を、なんとかしてあげたくて。』
「不備?二十年前の技術と機材では、あれ以上は望めなかったはずだけど。」
 たしかに、とK2は肯定した。
『仰るとおり、限られた条件の中で、私は最善を尽くしました。それは嘘ではありません。でも…私の見通しが甘かったのも事実です。自分では完全だ、と思っていたのですが。』
 一旦言葉を切って、呼吸を整える。
『あなたの身体に、変化のきっかけを与えたのは私のミスです。』
 姿の見えぬ不安が、御雷の中で頭をもたげる。何も言えない。
 話題を変えたのはK2の方だった。
『ところで、お仕事の進捗は順調ですか。』
 順調だとは答えられなかった。かいつまんで、状況を説明してやる。
『なるほど。最近は常に疲労感があるわけですね。』
「うん…疲れを感じることが多いのは確かだよ。胸が空っぽになったような気になることもある。」
『その原因の一端が、身体の変化にあるとは思います。武さん自身も気付かないうちに、変化に対応するために脳の処理能力を使っているんです。』
 自分の責任だ、と再びK2は謝罪した。
「いいよ。無意識なら、仕方ないさ。それが『人間』ってことだ。お前も、苦しいんだろう?」
 はい、と答える声が沈んでいる。
『人間であることが、こんなにも苦しく切ないものだとは…。』
「人間になったことを後悔しているのか?」
『いいえ。それは、少しも。苦しさも喜びも、みんな一緒にして飲み込もうと決めています。それが、私の考える【人間らしさ】ですから。』
「だったら、もう悩むな。どのみち、この仕事が終わったら一度そちらに戻る。その時に話してくれればいいさ。」
 御雷は、今日はもう話を切り上げるべきだと感じている。頼みたいこともあったのだが…K2の落ち込み方を見ると、日を改めるべきだと思った。が、意外にも彼女の方から助け船を出してくれた。
『ごめんなさい、私ばかり話して。武さんの提案を聞いていませんでしたね。』
 言っておこう、と思った。大事なことは言葉にして伝えねばならないことを、御雷は学んでいる。
「あのな、K2。」
『はい。』
「そのK2という呼び方を、そろそろやめたらどうだろう。」
『それは…恭子と名乗れということでしょうか。』
 そうだ、と御雷は言った。
『でも…それでは姉様に申し訳ないような気がします。姉様に成り代わるようで、少し気が引けるんです。』
「でもな…、お前は生まれたときからキョウコなんだぞ。K2という名は、いうなれば『恭子のレプリカ』という意味だよ。だけど、実際にはそうじゃない。」
 K2は耳を傾けている。思考を巡らせている気配がある。
「たしかに、外見は恭子の写しかもしれない。でも、中身はまるで違うだろう?」
『ええ。姉様は、私の内面が自由に成長できるように、敢えてご自身には似せませんでした。』
「だから、お前は今のお前になれた。恭子とは全く別の人間にな。お前は恭子のレプリカなんかじゃない。『本物のK2』だよ。それとも、キョウコという名は嫌か?」
『そんなこと、あるわけないじゃないですか。』
 声が震えていた。
『姉様から頂いた、大切な私の名前です。ただ…姉様と同じ名をそのまま名乗るのには抵抗があります。』
 だったら、と御雷は提案を加える。
「違う漢字を、選べばいい。お前が一番愛着を持てる字を。恭子も、子供の頃そうやって自分の名を付けたと聞いたぞ。」
 人工的に天才を生み出す実験の検体であった恭子は、マシューに引き取られるまでは個体名を持っていなかった。キョウコという名を選んだのも、それに「恭子」という字を当てたのも、彼女自身だ。
「まあ、ちっとも恭しくはなかったけどな。」
 亡き妻を思い出して笑みを浮かべられる自分に、御雷は少なからず驚いている。
 K2が小首を傾げる―――様子が見えたような気がした。
『では、武さんが提案してください。あなたが私に一番相応しいと思う字を。』
 御雷は少し考える。
「…難しいな。帰るときまでに考えておく、というのはどうだ。それでも思い付かなかったら、相談して決めよう。」
『約束ですよ。』
「ああ、約束だ。」
 この約束は守ろう、と思った。K2との約束を違えることはできない。それが、彼女の献身に対する御雷なりの報い方だ。
 K2が、不意に声の調子を変えた。
『ときに、武さん。ちょっと伺いたいのですが。』
「何だよ、改まって。」
 数瞬の沈黙。御雷は心の内を見透かそうとする鳶色の視線を感じる。
『私に話してくださっていないことがありますよね。』
「全部、話したよ。」
 迂闊にも声が裏返った。
 K2の声が僅かに尖る。
『女が、いますね。』
 御雷は答えない。女―――菊池に振り回される形になっていることは否定できない。だが、菊池は俺の女ではない…少なくとも、今は、まだ。
 K2は心底情けなさそうに深いため息をついた。
『私というものがありながら、また別の女にうつつを抜かしているなんて。本当は、それで仕事が遅れているんでしょう?』
 御雷は狼狽を押し隠す術に長けている。話題をすり替えればいいのだ。
「『また』とはなんだ。こんなことはこれまで一度もなかったさ。」
 失言、である。
 電話の向こうでK2が低く笑った。
『それは、【これが初めてだ】と解釈してよろしいのでしょうか?女がいることを認めるのですね?武さん。』
 丁寧な言葉遣いに、却って冷たい怒りが込められているようで、御雷は小さく身震いする。
 案に反して、K2の溜め息は優しいものであった。
『やれやれ、と言いたいところですが。それが御雷武さんですものね。』
 仕方がない、と笑ってみせる。
『きっと、私とその人と、【両方とも好きだ】くらいのことは平気で言うんでしょう。あなたという人は。』
「…怒らないのか?」
『怒ってますよ。』
 御雷は小さく肩を竦めた。穏やかな声で言われると却って恐ろしい。何しろ、彼女は御雷の業を継承する者の中で、史上最強なのだ。
『でも、先程お話ししたように、私には大きな負い目がありますから。もし、全部お話しして、それでも許して頂けたなら。一つだけお願いがあります。』
 正面から来られると逃げられない。そもそもK2の指摘は的を射ている。
「…きかないわけにはいかないみたいだな。」
 溜め息と共に敗北宣言した。K2が笑みを浮かべる気配がある。
『その人と私、二人ともあなたの奥さんにして頂きたいんです。』
 御雷は少しばかり混乱する。
「ちょっと待ってくれ。二人の妻をもつのは、まずいだろう。」
 K2は動じない。
『【できる】と仰いましたよ。御雷武さんは欲張りなんでしょう?』
「だから、それは相手の女性がOKしてくれないと、無理だってば。」
 ふふん、とK2は鼻で笑う。
『わかりました。その女性の説得は私がします。必ずOKさせてみせますから、安心してください。』
 その自信が、御雷を不安にさせる。
『…冗談ですよ。』
 K2の声は完全な棒読みだ。
 まったく、冗談じゃない。
 御雷は出てもない汗を拭う仕草をする。無意識の行為だと気付いて苦笑する。
「お前と話していると、どうも調子が狂う。ぼくがお前に勝てない理由が、わかるような気がするよ。」
 リズム、というのだろうか。拳を交えて勝てないのは、K2の身体能力が御雷を上回っているからという理由だけではない。こうやって言葉を交わしているときでさえ、気が付けば主導権を握られているのが、その証拠だ。
 考えてみれば、彼女と出会ってから、一度も勝てたことが無いのではないか。
 ふと、そう思い付いた。
 恭子にも、K2にも、負けっ放しだ。
 まったく…この姉妹ときたら。
 それは、決して嫌な気分ではなかった。素直に白旗を揚げることにする。
「わかったわかった。負い目と言えば、ぼくにだってある。」
『浮気をしたことですか。』
 御雷は目眩がした。
「だから…まだしてないって。」
『これから、するんですよね。』
 K2の声に嗜虐の響きがあるように思えるのは被害妄想だろうか、と思った。そして、気が付いた。
「おい。浮気も何も、ぼくらの間にはまだそういう関係はないじゃないか。」
 またしても、失言であった。K2がにんまりと笑う顔が目に浮かぶ。
『ええ、今は【まだ】です。ですが、今の言葉は【いずれそうなる】と解釈しておきます。』
「もう…好きにしてくれ。さっきまで泣きべそかいてたやつと同一人物とは思えないな。」
 けろりとした調子でK2が応じる。
『切り替えは早いんです、私。父様から、目から鱗が落ちるような言葉を頂いたもので。』
「聞くのが怖い気もするけど、教えてくれるかい。」
 堂々と、彼女は宣言した。
『【それは、それ。これは、これ。】です。』
 便利でしょ、とK2は笑った。御雷はがっくりと肩を落とす。マシュー、お前…。
 義父を恨んでも仕方がない。
「じゃあ、ぼくもその流儀でいくことにする。お前に、頼みたいことがあるんだ。」
 御雷は、順を追って依頼事項を説明した。K2の声が高くなる。
『まあ、なんて図々しい。私にそんなことを頼むなんて。』
 見えないのはわかっているが、御雷は片目を瞑って笑顔を見せた。
「図々しいのはお互い様さ。確かに、頼んだぞ。」
 K2が図々しく振る舞ってくれたおかげで、彼女に対して気を遣わずに済んでいることは自覚している。自分の過ちを後悔しているという、彼女の告白に嘘はない。その上で御雷の気分を軽くしてくれる気遣いが嬉しかった。
 一つ、思い出す。
「そういえば、四つ目の研究テーマを聞いてなかった。一体何なんだ?」
『今はまだ…とても言えません。』
 こういうのも豹変というのだろうか。こちらまで恥ずかしくなるほどに、恥じらいを含んだ声でK2は答えた。
『あなたとそういう関係になるまでは、内緒です。』
 妙に艶っぽい声に、思わず御雷は赤面した。

      2
 起きたら、もう九時過ぎだった。
 石上邸の中は静まりかえっている。
 柔らかなベッドの中で、御雷は静けさを楽しんでいる。敷地が広い上に、住宅街の奥に位置するために、人の気配や車の通過音が殆ど感じられない。
 腹が減っている。が、もう少しベッドの中でゴロゴロしていたかった。
 昨夜はK2と話し込んでしまったおかげで、すっかり夜更かしをしてしまったのだ。
「あいつめ…結局、自分の言いたいことだけ話しやがったな…。」
 天井を見ながら呟く声は、自分でも驚くほどに穏やかだった。思い起こせば、K2の手の平の上で上手に転がされただけのように思えた。可笑しくなって、御雷はくすりと笑った。
「どこまで本気なんだか…。」
 恭子。君の妹は、しっかり人間をやってるよ。彼女に漢字の名前を贈ろうと思うんだが、君ならどんな字を当てるのかな。
 時々、御雷は恭子の面影に呼びかけることがある。無論、返事など期待していない。
 ただの、習慣だ。
 大きく伸びをして起き上がる。素足で床に立つと、ゆっくりと身体をほぐした。
 そんなことをせずとも、脳から各筋肉に信号を送れば、肉体の暖気は終わる。だが、それではあまりにも味気ないではないか。
 だから、昔と同じやり方で入念に身体と意識を覚醒させる。
 小便をし、顔を洗う。まじまじと鏡で見てみる。
「顔が変わってきてるのも、K2の言う『変化』に含まれるんだろうか。」
 そもそも手術の不備とは何なのか。
「聞いときゃよかったな。…いや、あのまま話し続けたらどうなっていたことやら。」
 冷蔵庫を開いて、袋詰めのフランクフルトソーセージを取り出す。大きめの鍋に湯を沸かして放り込む。パンケーキミックスを取り出すと、水で溶いてフライパンで手早く薄手のパンケーキを何枚も焼く。ホットケーキ用の粉と違って甘くないし、卵や牛乳を入れなくてもいいところが手軽である。
 マグカップに熱いコーヒーと冷たい牛乳を一対一の割合で注ぐ。
 御雷はパンケーキにフランクフルトを挟んで食った。味を変えるためにマスタードを付ける。
 バナナを食い、ヨーグルトを食い、野菜ジュースを飲む。少し考えて、インスタントの味噌汁を定量の一・五倍の湯で溶かして飲んだ。御雷の生まれ育った地域では、甘い味噌を使う。関東風のインスタントは、御雷には塩気が強すぎるのだ。
 飯を食ったら、便意を感じた。いつものことだ。
 腹を軽くした後も、テレビのニュースを見たりしながら、何をするでもない時間を楽しむ。
 今日は土曜日だ。今ごろ、他の教員たちは部活動の指導に当たっていることだろう。
 ご苦労なことだ、と思う。アメリカでは部活動など存在しない。それぞれの生徒は思い思いにクラブスポーツを楽しんだり、文化活動を行ったりする。
 日本の学校は、何もかも背負い込もうとしすぎるのだ。本来ならば、個人や家庭、あるいは地域の問題に属することまで引き受けようとする。
 分を超える責任を背負い込むのはある種の傲慢だ、と御雷は考えている。
 それにしても。
 稲美中の教師陣の数名を思い浮かべて、溜め息をつく。
 部活動に熱心なのは、まあいい。御雷に、その熱意はない。大切な個人の時間を割いてまで生徒の指導に当たることは、今の彼にはできない。
 しかし。部活動の指導には熱心に取り組むが、他の仕事にあからさまに手を抜いたり、あまりにも仕事ができない教員に対する見方は厳しい。
「自分が何で給料を貰ってるか、忘れてるのかな。」
 声に出してみて、少し違うと感じた。部活動は、あくまで教師のボランティアという体裁を取っている。それ自体が給与の対象ではないのが事実ではある。それよりも。
 毎日放課後になるまでは眠ったような顔をして過ごしている教諭の顔を思い浮かべてみる。部活の時間になると、ようやく起きる、という感じだ。噂では、土日は丸々家を空けることが続いて、最近は夫婦仲も怪しいと聞いた。同僚の私生活にさほど興味はないが、教員というものも存外口さがないものだ。
「――ああ、ただの『趣味』なんだ。」
 納得のいく答えだが、呟いた口の中が苦い。指導者=監督が、生徒ではなく自分のために指導することの愚かしさ。審判に見つからないように反則を犯すテクニックを伝授した指導者を、御雷は知っている。
 まったく…生徒をどのように育てたいのか。目先の勝ち負けにこだわって、大事なものを見落としているのではないか。
「生徒に勝利を味わわせたい、だと?嘘をつくな。お前自身が勝ちたいだけだろう。」
 と、吐き捨ててはみるものの、直接は言えない。御雷の立場上は。
 勝てば、それでよい―――殺し合いの世界ならそれは正解だ。だが、それを教育の場に持ち込むことには賛成できない。
「そうはいっても、生徒に活動の場を保証することも必要、か。面倒なことだ。」
 とはいえ、御雷自身が休日の使い方を変えるつもりはない。
 今日は、久しぶりに石上暁子に会いに行くつもりであった。
 欠伸を一つして立ち上がろうとしたとき、電話が鳴った。仕事用の携帯電話だ。学級担任でもない彼に、急な呼び出しが掛かることはまず無い。それほどの緊急事態は、むしろ御雷自身が生み出す可能性が高い。
 職員会で開示された稲美中の教員の電話番号はすべて登録してある。何名かとは携帯電話の番号も交換している。やはり、若手の方が持っている率が高い。
 相手の名前は表示されていなかった。公衆電話からだ。
「もしもし。御雷です。」
 事務的な声を作った。
『ああ、御雷先生ですか。お休み中だったんでしょう?どうも、申し訳ありません。』
 若い男の声が、愛想よく言った。少しも申し訳ないと思っていないのが伝わってくる。御雷の唇に小さな笑みが浮かぶ。
「あんたか。あんまり調子がいいから何かのセールスかと思ったよ。」
 いやいやいや、と恐縮してみせる。
『あんまりぶっきらぼうなのも、いかがなものかと思いましてね。』
「愛想がいい役人ってのも、気持ちのいいもんじゃない。あんたの前任者は、いかにもお役人って感じだったけど。」
 御雷は顔も知らない文部省の役人のことを思う。学校再生専門員は御雷一人ではない。それぞれに担当者が付いている。
「で、今日の用件は?」
『あれ?何だか機嫌が悪そうですね。』
「悪そう、じゃなくて実際悪いんだよ。」
 思い出しても腹が立つ。
「何故、校内人事に口を出した?おかげで、こっちは色々と困ったことになっている。」
 ああ、あのことですか、と悪びれもせずに男は言った。名は知らされていない。そういう関係だ。
『あれは、私じゃありませんよ。実は、私がお知らせしたいのもそのことでして。』
「あんたじゃない?」
 学校再生専門員個人と、その仕事を知っているのは省内でも一握りの人間だ。無能では務まらない。この男も、若くしてエリートコースに乗った者の一人であるはずだ。
 だからこそ、文部省の暗部を知ることも余儀なくされる。秘密を共有することで文部省という巨大な組織と一蓮托生になるわけだ。
『あれはね、御雷先生。私なんかよりずっと上の方から出た指示ですよ。』
 相手の意図を掴みかねて黙っている。男は構わず話を進めた。
『単刀直入にいきましょう。誰かが、あなたの行動に制限を掛けて、監視しようとしています。』
「誰か、といっても文部省内の人間だろう?学校再生専門員制度反対派の巻き返し工作かい?」
『まあ、そんなところです。いや、もっと悪いかもしれません。これまでは賛成派だった者まで一枚噛んでいるようで。』
「何だか複雑そうだな。ぼくは、シンプルな話が好きなんだ。」
『いえいえ、突き詰めれば単純な話なんです。今、省庁再編の話が進んでいるのはご存じでしょう?』
「かなり体制が変わるらしいな。…ああ、業務整理の一環か。」
『あなたも、身も蓋もない仰り方をしますねえ。ご自身のことなのに。』
「ビジネスの話だからね。」
『まあ、仰るとおりです。今度、うちは科学技術庁と一緒になる見通しです。その際に、業務の引き継ぎをしなければなりませんが…。』
「表に出せない仕事もある、ということだね。ぼくとしても、そろそろ廃業を考えていたところだよ。制度そのものを終了させてくれればちょうどいい。」
『それが、そう簡単にもいかないんですよ。』
 男の声が苦いものになる。
『新たに編成される省の中での立場を固めるために、現在の文部省事業の瑕疵を暴いてやろうと動いている連中がいるんですよ。』
「つまり、点数稼ぎか。確かに、ぼくらがやっていることが表に出たら―――いや、出さずに済ませるために詰め腹を切らされる人間が出るだろうな。」
『私もその一人ですよ、御雷先生。』
 御雷は低く笑った。
「直接の担当者が知らぬ存ぜぬでは通らないだろう。それで、他の専門員にも監視が付いているのか?」
『いえ、私たちが掴んでいる限りでは、あなただけです。』
 御雷はあからさまに不機嫌になる。
「なんでまた、ぼくなんだ?他にも専門員はいるじゃないか。」
 御雷だけで全国をカバーすることはできない。殆ど顔を合わせることもないし、総員が何名になるのかは知らないが、少なくとも十名やそこらはいるはずだ。
 男の分析には容赦がない。
『それはですね、御雷先生。あなたが学校再生専門員第一号だからですよ。正確には、あなたの働きを見て、学校再生専門員制度は創設されました。二十年もの間、常にトップエージェントとして最前線に立ち続けているあなたは、制度の根幹を成す存在なのです。だからこそ、あなたの仕事ぶりを詳細に調べ上げ、あなたの存在意義を否定すれば、制度そのものを否定することができる。さらに、相手に取って幸いなことに。』
「ぼくは他のどのエージェントより血を流す、か。」
『あなたは、華のある仕事を好みますからねえ。』
 事故死ではない。とてつもない腕を持った死に神が、お前たちを狙っている。そう思わせることが、ワルの予備軍を引き返させることにつながる。
 だから、最高難易度の殺しを、一つは組み込むことにしているのだ。
「状況は、わかった。監視者の情報をくれ。」
 御雷の決断は早い。
『殺すんですか。』
「人聞きが悪いな。まだ仕事の途中なんだ。教師が巻き添えを食らったとしても仕方ないだろう?…ま、できれば決定的な証拠を握られないように気を付けるさ。ぼくだって、殺しは好きじゃない。」
 はあ、と応える男の声は疑心に満ちている。それでも話を続けた。
『それが…わからないんですよ。』
「はあ?」
 男の、歯切れが悪い。
『稲美中学校については、内偵をうちのチームがしたわけではないんです。もちろん、元になったのはあなた自身の希望です。あなたの住居等についても、私が手配しました。』
 石上邸のことは男には知らせていないが、教師としての仮住まいとは別に住処を持つことには暗黙の了解がある。
「普通は、内偵からぼくの派遣、そして仕事が終わった後の後任の手配まで、一括して行うよな。」
『ええ、オールインワンでパッケージングされています。壊すのはあなたの仕事。その後立て直すのは、それを得意とする人にやってもらうのが常ですが…。』
「一番大事な情報収集のところを他所にやらせたのか。」
 御雷の冷たい怒りを、男は受け流した。伊達に彼の担当官をしているわけではないのだ。
『やらせたのではなく、持って行かれたんですよ。おそらく―――内偵を行った者が、そのまま監視役として残っているかと。』
 声を潜めるようにして続けた。
『私も迂闊でした。思えば、今回の仕事は最初から、きな臭かったんです。』
 御雷は唸った。
「わざわざ電話をしてくるなんて、珍しいと思ったら。やれやれだね。」
『まったくです。内輪のごたごたでご迷惑をおかけして申し訳ありません。おかげで、改めてお願いしなければならなくなりました。』
 御雷の唇に薄い笑みが浮かぶ。
「ああ。もし、ぼくが尻尾を掴まれて全てが明るみに出そうになったら。」
『死んでください。』
 心得た、と御雷は応えた。そこまでのヘマをすれば、どの道生きて帰ることができない状況に陥っているはずだ。
『よかった。これで、安心して眠れますよ。』
 苦笑しながら電話を切ろうとした御雷に、男が囁いた。
『別ルートで、あなた個人の情報が流出しました。くれぐれも気を付けてください。』
 御雷の頬が、一瞬痙攣する。
「誰だ。」
『さて…ね。米軍ルートのようですが、死人に尋問するわけにもいきませんしね。』
 これは、ボーナスですよ。含み笑いとともに、電話が切られた。
 何がボーナスだ。携帯電話を睨み付ける…が、すぐに溜め息をついた。
 ソファに寝転んで天井を眺める。
 サイモンとは別のルートで、圧力なり懐柔なりが行われている。御雷の根っ子の部分はアメリカにある。恨みを買っているにしろ、追われる理由なら心当たりは腐るほどあった。
 そして、改めて思い出す。
 俺の身体。そして脳。俺の存在自体が機密扱いだった…な。
 人を兵器として運用する実験が今も続いているのだ。
 それにしても。
「なぜ、『今』なんだ?誰がぼくの情報を欲しがるっていうんだろう?」
 考えても答えは出ない。技術漏洩があったとしても、とうの昔に人体を意図的に御雷と同じ状態に改造することは不可能だと、結論が出たはずだ。
 情報を漏らした本人に訊くわけにもいかない。数日前の首都圏の新聞に、小さな記事が出ていることだろう。不幸な交通事故の記事が。
 建の教えを思い出す。
 考えることは大切だ。立ち止まってみるのも大切だ。だが、立ち止まって考え込むのは駄目だ。どうせ前に進むなら、歩きながら考えろ。
「今思うと、割と雑なことを言ってたんだよな、先生も。」
 死者に対する言葉は厳しいが、御雷の貌は穏やかだ。
 誰が俺の邪魔をしようとしているは知らない。ただ、仕事を少しばかり急ぐだけのことだ。
 時計を見る。十一時半になろうとしている。
 御雷は慌てて着替えを済ませると、スープラのキーを掴んで玄関を出た。

      3
 しばらくぶりに会う石上暁子は、やはり童女のような笑顔を見せてくれた。ひとしきり話し込みながら、一緒に食事を摂る。外来者用の昼食を事前に注文してあった。
 高齢者用に、塩分を控えめにしてある―――ということはない。むしろ、味覚の衰えに合わせて、少し濃い味にしてあった。暁子は大分食が細くなってきている。塩分の過剰摂取よりも、食べられないことの方が問題だ。
 だから、施設の医師とも相談して、「とにかく暁子が美味いと感じること」を可能な限り優先してもらっている。
 皺深い顔は、相変わらず気品のある美しさを湛えていた。やや頬がこけた感じがするのが、御雷の胸を刺す。できれば、もっと会いに来てやりたいが…。
 他愛もない話を続けていたとき、ふと暁子が御雷の手を握った。
「兄さん。」
「ん。なんだい。」
 暁子の瞳は明るい色をしていた。もともと、色素が薄いのだ。
「兄さんは、何だか疲れているみたい。顔色が、少し悪い。」
 御雷は手を握り返す。
「心配させてすまないな。ぼくは大丈夫だよ。だから、お前も少し昼寝をするといい。」
 暁子は素直に自室に戻ってベッドに入った。彼女が眠るまで、御雷は見守ることにする。いつもと同じだ。
「あのね…最近よく夢を見るの。」
「ふうん。誰か出てくるのかい?」
「ええ。お父さんと、お母さん、それに兄さん。みんなが一緒に暮らしているの。前に住んでいたあの家に戻っているのよ。」
 そうか、と言って御雷は一瞬目を瞑る。
「父さんと母さんは、元気なのかな。」
「夢の中では、とても元気よ。でも、目を覚ましたら、私には兄さんしかいないの。」
 暁子の両親は、もう何十年も前に他界している。
「ぼくは、お前を置いていなくなったりしないよ。」
 掛け布団を、軽く叩いてやる。一定のリズムが、暁子を眠りに誘う。
「私が兄さんを置いていくかもしれないわ。お父さんとお母さんが、もうすぐ迎えに来てくれるような気がするの。」
 御雷は、辛うじて声を絞り出す。
「だったら、ぼくがちゃんと見送ってやる。ぼくはまだ一緒には行けないからな。」
 暁子が、閉じかけた目を開けた。淡い色の瞳が御雷の美貌を映している。
「約束してくれる?」
「ああ。兄さんは約束を破らない。だから、ぼくが来るまではちゃんと待っているんだぞ。」
 うん、と答えて暁子は目を閉じる。手を握ってやると、すぐに眠りに落ちた。
 風邪を引かぬよう、腕を布団の中に戻してやる。
 そっと部屋を出ると、暁子の担当職員に声を掛けた。
「少し、元気が無いようですね。」
「そうなんです。お食事の量も減っています。特に疾患があるわけではないのですが…何分ご高齢なのと、若い頃に随分ご無理をされているので…。」
 体力の低下が著しい、という。
「まだ七十歳を少し出たばかりだというのに…仕方がないことなんでしょうか。」
 職員は首を横に振った。
「残念ですが、自然に任せるしかないとお医者様も仰っています。ゆっくりと、人生の最期に向かうだろうと。」
 御雷は頷いた。延命治療をする予定はない。
 できることならば。暁子を安らかに逝かせてやってくれ。
 御雷は誰にともなく祈った。

 午後九時。
 例によってコンビニで買ったおにぎりを三つ胃に収めた後、御雷はスープラを峠に向けた。免許も、車検証も、それに合わせたナンバープレートも、全てが「田中吾郎」のものだ。
 土曜の夜の、祭が始まる頃合いだった。
 御雷はドリフト組の車列に並んでスタートを待つ。助手席には濃いグレーのフライトジャケットが伏せられている。左手が、その下で減音器付きのボウランドを握っていた。
 合図に合わせて一台ずつ飛び出していく、新旧の国産スポーツカーのテールランプを眺めながら、御雷はぼんやりと考えている。
 片瀬啓介を、殺す。
 その結論は、四月当初からの奴の様子を見た上で出したものだ。とにかく、「酷薄」を絵に描いたような少年だった。小柄な外見に騙されれば痛い目に遭う。暴力に対する歯止めがない。必要なら刃物を持ち出すことにも躊躇はなかった。
 馬越が騒動を起こす少し前に、生徒指導の青山が背中を刺されたことがあった。原因は、やはり校内での喫煙を咎められたとか、そのような些細なことである。幸いにも、青山が日頃から服の下に入れておいた分厚い電話帳が刃を防いでくれた。おかげで、僅かに飛び出した切っ先が、肌を浅く傷付けただけで済んだ。
 だが。
 片瀬は、あろうことか、そのナイフの柄を蹴り込もうとしたのだ。小柄ではあっても、体重を乗せた蹴りであれば、青山の体内に刃をねじ込むことは可能だ。
 間一髪の所で田中が片瀬を蹴り飛ばしたため、それ以上のことにはならなかったが…。
「片瀬…やっぱりお前は死んだ方がいい。」
 左手で強くボウランドのグリップを握りしめる。ぐるりと全周を囲むチェッカリングが、手の平に食い込む。全鋼製のグリップは、やはり冷たい。
 手に震えが来ないところまで力を緩めると、銃器と自分の境界線が曖昧になるような感覚があった。
 正確には、自分自身が武器になる感覚だ。
 鋼のメカニズムと一体になる瞬間は、御雷が己の生を実感できる数少ない時間だ。
 運転席と助手席のウインドウを全開にする。デフロスターを作動させる。
 スタートの合図を待つ御雷の口元がほころんでいる。
 微かに笑みを浮かべているのだ。
 自分が菊池の調子外れな歌を真似していることに、御雷は気付いていない。
 スタート係がニンジン――誘導灯を振った。
 無造作にアクセルを踏み込む。
 短いスキール音。猛烈に加速する黒い車体。
 最初のコーナーに飛び込む際のドリフトアングルの付け方も、殆どカウンターステアを当てずに右手だけで操作するのも、練習と同じだ。
 毎回、難易度の高い殺しを実行するときに、御雷は思う。
 練習こそが本番だ。繰り返し繰り返し策を練り業を高めることには、緊張と悦びがある。その一方で、実際に殺すときには意外なほどに感慨がない。
 スープラを走らせるのも同じ事だ。御雷は走行ラインを紅い線としてイメージしている。練習通り、そのラインに車を乗せて走らせるだけのことだ。
 出鱈目な歌を口ずさみながら、御雷は次々とコーナーをクリアしていく。スープラのテールは大きく左右に振り出され、激しいタイヤスモークと派手なスキール音が一際ギャラリーの注目を集めた。
 長い上り坂。大きく踏み込んだアクセルの開度も、いつもの通りだ。
 ボウランドを取り出して、構えた。スーパータイジャーの光点が明るい。ダットサイトの筒の中で乱反射を起こさないギリギリの所まで輝度を上げてあるのだ。
 一台で走るのなら、光量を絞ってシャープな光点で狙う。だが、複数の車が走ればテールランプの明かりもある。ときには対向車が来ることも。
 光量の変化に対応するためには、たとえ逆光であってもダットを見失うことがあってはならない。
 これも、練習で学んだことだ。
 このコースの最高速を記録した直後、フルブレーキングしながら右の直角コーナーに飛び込む。理想的なドリフトアングルで飛び出すと、そのまま四輪を流しっぱなしでS字コーナーに入る。
 そこに、いるんだろう?片瀬。
 一瞬、ヘッドライトの明かりに浮かんだ奴の横顔を目に焼き付ける。
 今、行ってやる。
 大きく車体を横に向けたまま、ギャラリーコーナーの前を通過する瞬間。
 ボウランドの銃口が綺麗な軌跡を描いてスイングした。
 御雷はトリガーを三回絞る。
 押し殺したような銃声はバックファイヤの音よりも小さく、弾き出された空薬莢は薬莢受けで回収される。
 ガンスモークは乾燥したフロントガラスを殆ど汚すことはなかった。全開にした窓からすぐに流れ去る。
 セフティを掛けてボウランドをジャケットの下に戻す。
 両手でステアリングを握り、さらに加速する。
 峠の頂点で、コーナーの路面が大きくうねっている。グリップ走行で進入し、路面のうねりで四輪の荷重バランスが崩れるのを利用してテールを派手に振り出した。端から見れば破綻寸前の走りなのだが、御雷にとっては予定通りだ。
 まだタイヤのグリップは、車体をコントロール下に置くことを可能にする程度には残っている。
 道は下りに変わった。だらだらと下りながら曲がっていく先に、九十度の右コーナーがあり、さらに左のヘアピンカーブへと続く。路肩がないためギャラリーはいないが、最も難易度が高い区間だ。重いスープラにとっては苦手な区間でもある。
 御雷は躊躇無くアクセルを踏む。今の彼にとって速く走ることは、いち早く犯行現場を離れることを意味する。
 直角コーナーの進入では最初から車体を横向きにし、四輪の抵抗を利用しながら曲がれる速度まで減速する。四本のタイヤが一際激しく煙を上げる。
 グリップを回復させないまま、高低差のあるヘアピンカーブに突入した。振り戻しを利用して一瞬で車体の向きを変える。クリッピングポイントでは、長いフロントノーズがガードレールに擦りつけられそうな程に接近した。
 御雷は終始、小さな声で歌を口ずさみ続けている。その瞳に、夢見るような不思議な色が浮かんでいた。
 峠の出口で一時停止の標識を守り、広域農道に合流する。制限速度を守って走り去った。
 かくして、狙撃者は誰にも見とがめられることなく犯行現場を後にすることに成功したのであった。

 片瀬は、自分に何が起きたのか、最期まで知ることはなかった。
 もし、彼が気まぐれを起こして、昼間峠を訪れていたなら。
 彼は発見したはずだ。
 自分の定位置の背後に据え付けられた、丸い鉄板製のターゲットを。そして、そのターゲットに無数の凹みが穿たれていることを。ターゲットが取り付けられている樹の幹には、外れた弾が、これも無数の弾痕を残していた。
 それが意味するところを理解できれば、片瀬は峠でドリフト見物などしなかったに違いない。馬越の見舞にでも行ってやればよかったのだ。
 だが、そうするにはあまりにも片瀬は酷薄すぎた。だから、御雷の読み通りに行動し―――死んだ。
 片瀬はお気に入りの場所で、樹にもたれて座っていた。両眼は開いたまま、瞬き一つしない。
 眉間に開いた穴は、三連射の二発目が穿ったものだ。
 頭上に据えられた丸い鉄板に、後頭部の射出口から吐き出された脳髄と大量の血液が撒き散らされていた。
 ほんのしばらく前に御雷が白いペンキを塗ったターゲットが、今は赤く染まっている。
 赤いターゲットに呼ばれたように、空で赤い月が不吉な光を投げていた。禍々しい赤い光の中、座り込んだ片瀬の身体から、温かい液体の海が静かに広がっていく。
 ゴムの灼ける匂いや違法改造車の排気ガスの匂いを圧倒するように、血の匂いが辺りに立ちこめ始めていた。

      4
 片瀬の死体が発見されたのは、日曜も日が高くなった頃だった。
 一人で特等席を独占していることが災いし、闇の中で彼の命が失われたことに誰も気付かなかったのだ。
 ただでさえ交通量の少ない旧道である。家族連れは通らず、休日で通勤に使う者も今日だけは通らない。
 発見したのは県外から大型バイクを連ねてやってきたツーリングの一団であった。
 通報を受けて飛んで来た今原署の署員は、異様な光景に息を呑んだ。
 単なる射殺体である。額にただ一発銃弾を受けているだけの死体は、むしろ綺麗な部類に入る。
 腹を撃たれたり、刃物で切り裂かれたり、あるいは可燃性の液体を掛けられた上で焼き殺されたり。時間が経てば、小動物に食い荒らされたり虫が集ったりする。水中に遺棄されれば、時間をおいて酷い姿で浮かび上がることもある。
 損傷の激しい死体は、嫌でも死というものを意識せざるを得ないだけの凄惨さをもっているものだ。
 片瀬の場合、それは無かった。光を失った瞳は生前の凶眼ではなくなっている。むしろ自分の死を実感できていないきょとんとした表情が、愛らしくさえある。
 小柄であどけない少年の、射殺体。
 御雷なら平然と言ってのけるだろう。「害が無くなれば、片瀬だって可愛いものだ」と。
 捜査員を慄然とさせたのは、死体がもたれかかった樹に穿たれた無数の弾痕であった。その数が、そして頭の高さに来るように設置された練習用のターゲットが、殺人者の周到な計画と異様なまでの準備の緻密さを示している。
 普通であれば、こんな難しい状況下では撃たない。峠を走っている連中から情報が集められた。当日の状況を総合してみると、走行中の車の中から撃ったとしか思えない。
 助手席から撃ったとしても、難しいことに変わりはない。だが、スタート係の記憶によれば当日の参加者は一人が多かったというし、少なくとも助手席から銃器を突き出して走る車が目撃されてはいない。
 一応、助手席に人を乗せていた者を中心に捜査してみるが、もとよりお互いに知り合いというわけではないため、雲を掴むような話に終始する。
 周辺のNシステムの情報も解析されたが、決定打は出ない。
 片瀬自身を洗うと、色々と不審なものが出てきた。
 乗ってきたスクーターは盗難車であった。ポケットの中のナイフと、煙草は予想通りだった。が、体内から麻薬を使用している痕跡が得られたことは大きかった。以前から、不良少年グループの一員として、触法行為に関しては警察のブラックリストに載っている。実は、小学生のときから。
 仲間の中には暴力団との付き合いが噂される者もいるが、麻薬が出てきたことである程度裏付けられたことになる。
 強引に物語を作るとするならば。
 敵対組織に関係する者―――そいつも多分中高生ぐらいだろう―――が、何らかの理由で片瀬を殺した。要するに、暴力団同士の抗争の代理戦争のようなことが、下部組織である不良少年たちの間で行われているのではないか。
 実際の所、その説を唱えている捜査員ですら、自説を微塵も信じてはいない。マスコミ発表用に、それなりに面白いストーリーを用意しているだけのことだ。
 これは、プロの仕事だ。練習に使った弾の数を見ただけで、自在に弾薬の補充が可能であることがわかる。ケチなチンピラの所業ではない。
 この事件の根は、深い。
 案の定、上から深追いするなという指示が下りてくる。
 捜査員たちにはわかっている。このような指示が出たときの展開が。
 これから、たくさん死ぬ。そして、それは地方の所轄がどうにかできるようなものではないのだ。
 生徒が射殺されたということは稲美中にも伝えられる。生徒指導に警察から連絡が入り、管理職や担任に情報が伝わる。捜査中であるため、細かい情報は伏せられている。
 校長は全職員に非常招集を掛けた。昼飯を食おうとしていたときに呼び出しを受けた者も多い。
 稲美中の職員室には御雷の姿もあった。うんざりした表情と欠伸を噛み殺し、神妙な表情を保っている。
 尾内校長が、現時点で判明していることを伝達する。銃撃による殺害、という話が出ると職員室はざわめいた。
 隣の席の菊池を見ると、顔色が悪い。血の気の引いた唇を噛み締めていた。
 銃撃による死。
 彼女にとっては思い出したくもない記憶に繋がっているものだ。
 校長が話をまとめにかかる。
「――というわけで、詳細についてはまだわかりません。ですが、マスコミにとっては格好のターゲットであることも確かです。マスコミだけではなく、保護者からもみなさんに何らかのアプローチがあるかもしれません。その際に、決して憶測でものを言わないでください。外部への対応は全て教頭先生に回してください。生徒への説明はきちんと集会を開いて行います。時期は―――新聞に載るのとタイミングを合わせた方がいいと考えています。」
 片瀬の死体はまだ警察にある。通夜もできないのだが、管理職と担任が弔意を伝えに行くのだという。それ以外の教員については、ひとまず解散ということになった。何しろ、日曜日なのである。生徒一人が死んだことは大事件ではあるが、教師にも自分の家庭というものがある。
 あっさりと引き上げていく…のだが、皆無口だった。無意識のうちに事件のことを口にしないよう、言動に制限を掛けているのだ。
 御雷は、虚ろな目で座っている菊池には、敢えて声を掛けなかった。急ぐともなく、何気ない様子で職員室を後にする。
 その背に、田中が暗い視線を注ぐ。
 こいつ…とうとう、本気を出し始めた。これで、三人。いや、馬越も入れれば三人半というところか。
 何人、殺すつもりなのか。
 胸の中の呟きとは別の言葉が口から出た。
「菊池ィ、こういうときは飯だ。せっかく外に出たんだから、昼ご飯を食べて帰ろう。今日は私がおごるからさ。」
「じゃあ私はお寿司がいい。」
 田中はじろりと守矢を睨む。
「なんで洋子がおごられる気満々なのよ。」
 んー、と声を出しながら守矢は天井を眺めた。やがて、満面の笑みを浮かべて親友に人差し指を立てて見せた。
「私の、快気祝い。」
 化粧で隠してはいるが、まだ痣が残っている。髪型で誤魔化すこともできるだろうに、長い髪を後でまとめている。敢えて、顔をきっちりと出すあたりが、田中と馬が合う所以だ。新調した眼鏡が、細面の顔によく似合っている。
 田中はまじまじと守矢の顔を見つめた。
「洋子、あんたって、よく見ると美人だね。」
 思わぬ言葉に、毒舌家に似合わず赤面する。
「何よ。藪から棒に。」
 田中はにやりと笑った。
「別に。高校時代からあんたの隠れファンが結構いた理由がわかっただけの話。黙って澄ましていれば、確かに綺麗な文系知的女子に見えるわね。」
「数学科の教師に向かって『文系女子みたい』って…褒めてないわね。というか、私の隠れファンって何よ?そんな奴誰も私の前には現れなかったわよ。」
 田中は説明してやる。
「だから…隠れているうちに、あんたの実態―――毒舌に恐れをなして姿を消しちゃうのよね。もし、あんたが毒舌を封印していたら、彼氏どころか、今ごろは結婚して子供の一人くらいいたんじゃない?」
 失ったものの大きさが実感として降ってきて、守矢は思わず頭を抱える。
「青い鳥か!憧れの結婚生活が、実はすぐそこにあったなんて…。」
「鳥かごを開けて逃がしちゃったのは洋子自身だけどね。」
 本気で落ち込む姿に、少し可哀想になってきた。
「わかった。今日は二人ともおごってやろう。」
 尊大にいってから、器用に片目を瞑って笑う。
「ただし、回る寿司だぞ。」
 ようやく、菊池が笑顔を見せた。

 スバルを駆って、御雷は坂道を下る。
 稲美中を背に、幹線道路まで細い道を下るのだ。
 小さく欠伸した。
 狙撃が上手くいったことを知って、安堵した。手応えはあったと感じたが、実際に片瀬の死体を確認したわけではない。
 時々、ルームミラーに視線を走らせる。
 尾行は付いていない。
 これから、学校関係者に警察が張り付くようなこともあるだろう。そこは何とかしなければならない…のだが、御雷の仕事には常について回る問題ではあった。
 必要であれば警察関係者であろうと始末するまでだ。―――もし血路を開けなかったら、自分が死ぬだけのことだ。
「その時は、K2に詫びながら死なねばならない…か。」
 声に出してみて、今更のように実感する。
「約束なんてするもんじゃないな。」
 K2に会って話をする約束。彼女に名前の漢字を贈る約束。
 石上暁子の死を見届ける約束。
 菊池由美を守る約束。
 そういえば、田中に礼をするという約束はまだ果たされていない。
 英語の学びを保証する約束は、生徒自身によって実現しつつある。彼がいなくなってもやっていけるように、教材も準備してある。
 御雷は、自分自身のことを特別律儀な人間だとは思っていない。
 ただ、一度交わした約束は、必ず守らねばならない。少なくとも、守るために全力を尽くさねばならない。そう考えている。
 とはいえ、何事にも優先順位というものがある。
 彼が最も優先すべきは、稲美中の荒れの原因を綺麗に取り除くことであった。
 それができなければ、己の存在意義など無いに等しい。
 血を流す武器に、己を変える。それが、生きた証。
 御雷は、そういう男であった。

      5
 教員として借りている住宅に戻ると、スバルをガレージに仕舞った。
 建物の出入り口に目立たぬように貼ってあった細いマスキングテープも切れてはいない。古典的なやり方だが、御雷が極細のペンでサインし、封印として機能するよう仕掛けておいたのだ。
 もし招かれざる客が注意深い人間であったなら、封印を発見して侵入を諦めるであろう。
 しかし、それは同時に御雷が侵入者を意識していることを知らせることにもなる。何か隠し事をしているのではないか、と勘ぐられることにも繋がりかねない。
 諸刃の剣、である。気付かぬ振りをしている方が、先手を取りやすくはあるが、向こうから引き下がってくれればそれに越したことはないとも考えている。
 ベレッタは仕事用のビジネスバッグに移している。
 ひんやりとした室内に入り、念のため各部屋を見て回る。盗聴電波も調べてみたが、反応はない。
 休日の非常招集であったから、御雷はジャージ姿だ。ごろりと横になる。本当なら、太った体格の擬態を解いて、本来の姿でリラックスしたいところだ。そうするなら、この大きいサイズの服は邪魔になる。
 だが、と御雷は薄暗い天井を睨む。
 尾行は警察だけとは限らない。
 文部省内の勢力争い―――学校関係者にはこの家の所在は知られている。監視者が誰であれ、見張られていると考えておいた方がいい。
 そして、米軍ルートからの情報漏洩。
 得体が知れない分、こちらの方が気持ちが悪かった。ただ、その情報がどこに流れるのかと考えたとき。いくつかのシミュレーションを行い、直ちに問題になるのは河津組の関係者に知られることであろう、と思う。
 何といっても、河津組は御雷によって存亡の危機に陥りかねないほどのダメージを負わされている。御雷に余裕があったのは、彼自身が暴力団との接点を持っていなかった―――河津組には存在すら知られていなかったからである。御雷の一方的な都合で襲撃を掛けられた河津組が不幸だったというしかない。
 御雷の存在が、襲撃犯として認知されれば立場は逆転する。仮にも準公務員である。勤務先も住居も、丸裸にされると思って間違いない。
「最悪の場合、河津組そのものを潰してしまうことも必要かな。…西本共々。」
 言葉にして考えを整理するのが習慣になっている。
 御雷は自分の唇が笑みを浮かべていることに気付き、少しだけ呆れた。
 文部省の担当官は「死ね」と言った。それは受け入れたが、その場合には盛大な花火を打ち上げて少しばかり慌ててもらおう。
 火消しと後始末は役人の仕事だ。
 身動きが取れなくなる前に、同時進行で準備をしておく必要がある。
 決断してからの行動は早い。
 ジャンプスーツとフライトジャケットという、お決まりの格好に着替えると、ヤマハを引っ張り出した。威力の大きなボウランドは石上邸にある。ベレッタだけが頼りなのは、この際仕方がない。
 目視で索敵する。のみならず、五感の全てを限界領域に押し上げて周辺を探る。完全とはいえないが、差し当たって危険な存在は察知できない。
 御雷はバイクを出した。
 走り始めて五分ほどで、尾行の存在に気付いた。
 地味な国産小型車だ。目線だけでミラーを確認すると、小さな車に不釣り合いな人相の悪い男が二人。
 河津組の方か、とも思うが人相の悪さなら刑事たちも負けてはいない。ただ、捜査車両によく使われる車種ではないことが、警察である可能性を低いと判断させた。
 人気の無い場所に誘い込んで始末するのは簡単だ。何なら、今すぐ、走行中に後ろ手で撃ってやってもいい。
 問題は、その行為が相手の警戒心を高めるだろうということだった。尾行者が河津組関係者だと仮定するならば、もし御雷が襲撃犯だという確信があれば尾行などというまどろっこしい方法は取らないはずだ。
 こういう場合は、あくまで気付かぬ振りをするのがよい、と判断した。
 御雷は西本に映像を撮られたことも、それを沢田らが見たことも知らなかった。が、玄はともかく他の連中が、丸っこい見た目の一講師に組事務所襲撃などという大それたことができるとは信じていないのも事実である。たとえ、個人としての体術がいかに優れていようと、できることとできないことがあるはずだ。
 ヤクザといえども常識には縛られる。
 だからこそ、尾行し、観察し、玄の言葉の裏付けを取ろうとする。その、沢田の指示を、玄は止めなかった。「餌に傷を付けなければ、別に問題はない」ということであった。
 御雷はコンビニに入った。弁当と茶をのんびりと選ぶ。缶コーヒーもだ。
 ヤマハの荷台に取り付けたコンテナ状のボックスに入れると、再び走り出す。
 尾行車は付いてきている。
 特に飛ばすでもなく、すいすいと軽快に走る。山手に近付いてきたところで公園に寄った。
 御雷はのんきな表情を浮かべてベンチに腰掛ける。買ってきた弁当を広げ、野鳥のさえずりを楽しみながら食事を摂る。コーヒーを飲み干すと、几帳面にゴミを分別してゴミ箱に放り込む。
 休日に林道ツーリングを楽しむ、という体裁で尾行者を連れ回しているのだ。一度も振り返ったり存在に気付いた素振りは見せない。
 昼食後、公園脇の道から山に入った。この道は狭いが普通乗用車なら何とか通り抜けることができるだけの道幅がある。ただし、離合スペースは皆無だ。
 さらに。奥の方で路面が大きくえぐれ、乗用車では通過できない場所がある。
 ヘルメットの下で、御雷は意地悪い笑みを浮かべている。体型が福々しいだけに違和感があった。この姿は善良な教師を演じるための仮面だ。
 未舗装の細い道を、御雷は結構なスピードで走った。逃げ切ろうとする走りではない。相手には気付かない振りを続けている。つまりは、追ってこられるスピードしか出していない。コーナーでは派手に土埃を巻き上げ、後輪をスライドさせながら曲がる。
 尾行者の運転技術はまずまずだった。スリッピーな路面をものともせず、一定の距離を空けて追ってくる。時々、前輪駆動車特有のタックイン現象を生かして車体の向きを変えているのを、ミラーの隅で捉えている。それでいて、無駄な土煙を上げないように気を遣っているのも伝わってくる。
 なかなか、いい腕だ。でも、物理限界は超えられないぜ。
 十キロばかり走ったところで御雷はスピードを上げた。追跡車も間隔を一定に保つために加速する。
 と、追跡車のフロントガラスの視界の中で、御雷がシートから腰を浮かすのが見えた。
 激しく暴れる車体を巧みに押さえ込んだと見えるや、大きく空中に飛び出した。一際大きな地面のこぶに跳ね上げられたのである。
 それも計算ずくなのか、着地とともに何事もなかったように走り出す。相変わらずのツーリングペースだ。
 追跡車の方はそういうわけにはいかなかった。路面は、荒れているなどという生易しいものではなかった。豪雨によって土石流が洗った跡、である。古い土石流の傷跡が、整備されないままに残されているのだ。
 何しろ、今原市には金がない。
 激しく車体を揺さぶられ、車体の底を擦り、挙げ句に大きな石に乗り上げて止まった。運転手が下りて確認してみると、エンジン下部のオイルパンが割れて、大量のエンジンオイルが流れ出していた。
 憎々しげに睨む視野の中を、御雷の後ろ姿が悠々と走り去っていく。
 いっそ、後から撃ってやろうか。助手席の相方が言ったが、止めた。そんなことをすれば玄に殺されるのは自分たちだ。
 助けを呼ぼうと携帯他電話を出して、目が点になる。「圏外」の表示が出ていた。
 御雷は声を出して嗤っていた。この道には、今原市内でも数少ない、携帯電波の空白地帯があるのだ。無論、こんなときのために用意したいくつかの逃走ルートの一つである。
 少々遠回りしたが、石上邸に辿り着く。
 体型を変え、服装を変えた。軽トレッキングにでも行くような服装だが、バックパックが大きい。
 少し危険はあったが、時間が惜しい。公共機関を使わずにスープラをガレージから出す。今日は石上剣名義の車両ということになっている。
 いつもの通勤路とは別ルートで稲美中学校に戻る。
 以前、麻薬の買い付けを終えた馬越を追跡し、学校に先回りするために通ったルートである。
 御雷は県道を外れて山手の脇道へ入る。舗装が古く、傷んでいる。スープラには少々狭く感じられる。稲美中の上手――山側に出るため、だらだらとした上り坂が延々と続く。運転はしにくいが、距離的には近道なのである。
 住宅地を抜け、溜め池の脇を通り、短い切り通しを抜ければ、もう学校だ。
 御雷は、溜め池の手前で左折した。稲美中の裏山の頂上には展望台があり、その手前は駐車場になっている。そこへ、向かう。
 日曜の午後である。、山歩きや犬の散歩をしている近隣の住民とは出会わなかった。市外からハイキングを楽しむ連中にも会わない。彼らは朝方に登ってしまう。
 ちょうど、空白の時間帯を狙って、ここへ来たのだ。
 駐車場にスープラを突っ込むと、大きなバッグを背負って、御雷は来た道を下っていく。足取りは軽い。
 本気で膂力を振るわなければ、体温の上昇もそれほど気にしなくて済む。それでも時々冷たい水を口に含む。
 車道を離れ、遊歩道に入る。しばらく歩いてから、遊歩道からも逸れる。腰まである藪をかき分け、御雷は斜面を下っていく。この辺りはマダニの被害が多いから、服の中に侵入されないようにした上で、殺虫剤を振りかけてある。
 地形図は頭の中に入っているが、そんなものが無くとも方向を間違えることはなかった。
 御雷が真っ直ぐに進んでいる先に、稲美中学校の白い校舎の先端が見えている。通称「離れ小島」の最上階が見えているのだ。
 藪が、切れた。斜面に開けた小さな空き地に出たのである。稲美中に向かって張り出した小さな尾根のてっぺんが剥げたように植物がない状態になっていた。
 腰を下ろして校舎を眺めてみると、上手い具合に離れ小島の一階―――ワル共の溜まり場にある嵌め殺しの窓を通して中を見ることができた。
 決して偶然ではない。赴任前からこの辺りを歩き回り、条件に合う場所を見付けておいたのである。
 レーザーレンジファインダーで計測すると、窓までで約五十メートル。近いが、高低差があるので道からも、校舎内からも見つかる可能性はほぼ無い。
 ここを、狙撃ポイントに決定する。
 御雷がバッグから取り出したのは、ダットサイトが載ったルガー10/22である。二十年経っても、やはりこの銃を使うのであった。二十五発入りのマガジンも用意してある。ストックと機関部に分解してあったそれを、手早く組み立てる。
 次いでバッグから取り出したのは、金属製のアタッシュケースのような物体であった。艶消しの灰色に塗られている。取っ手が付いているそれは、航空機内に持ち込み可能な程のサイズである。御雷は軽々と扱っているが、実に二十キロ近い重量がある。無造作に地面に置いた。
 最後に取り出したのは、まだ珍しいタブレット型コンピュータだ。この時代には無線でインターネットに接続する技術が確立されていないため、「端末」という名称は馴染まない。当然ながら無線LAN機能など搭載されてはいない。
 そこで。
 御雷はタブレットの端子にケーブルを繋ぐ。本来は、ごく短い距離で液晶プロジェクター等にデータを飛ばすための発信装置を繋ぐ端子である。例えば、室内におけるプレゼンテーションなどに使用する際に役に立つ。発言者は自由に歩き回りながらプレゼンを行うことができる。
 もともとはビジネスの現場で活用されている技術ではある。電波自体は室内での使用を想定しているため、極弱いものだ。
 しかし。御雷が送信機として繋いだのは、裏の仕事で使うための携帯電話端末であった。衛星経由でアメリカとの会話を行うことができるそれを、御雷はコンテナハッチの開閉リモコンとしても活用している。
 要するに、携帯電話の通話電波を使えば、より遠くまで情報を伝達することができるということだ。
 初めに、電話でK2を呼び出す。電話機をポケットに落とし込む。
「今から、起動する。通話を維持したまま、命令の伝達ができるかい。」
『ええ。特に難しくはありません。一回線を仮想的に二回線として扱うことにします。』
 御雷は耳に挿したイヤフォンでK2の声を聞いている。両手をフリーにするためだ。彼の声はポケットの中の携帯電話がきちんと拾ってくれる。外見こそ市販品のようだが、一つ一つの部品の品質がとてつもなく高いのだ。といっても、分解した程度では見分けが付かないように偽装してある。専門家が部品単位で比較実験を行わなければ、容易には露見するまい。
 御雷はタブレットの電源を入れる。起動に掛かる時間は、それほど長くない。ホーム画面には、授業で生徒に見せてやる予定の動画がいくつか貼り付けてある。それらに混じって、目立たないアイコンが、一つ。
 タップすると、小さなウインドウが開いた。味気ない数字や言葉が並んでいる。それが機材の状態を示していることを御雷は知っている。
 電源…待機状態。機体状態…収納モード。火器管制システム…停止。登載火器…無し。予備弾薬…無し。
 「起動」を示すアイコンにタッチする。電源が「待機」から「稼動」に表示が変わる。機体状態が「収納モード」から「展開」に変わる。
 御雷はトランクから二メートルほど離れた。
 微かな振動音がして、トランクが開いた。蓋が開いたのではない。トランク全体に切れ目が入り、無数の細切れのような細く長い足を持った姿に変じたのである。例えるならば、金属でできたゲジゲジのような姿だ。
 中央の胴体の部分に異様なものが立ち上がっていた。双眼のテレビカメラである。フレキシブルアームの先に取り付けられたボックスに、丸い二つのレンズが光る様は、顔のように見えなくもない。
 胴体の前半分には、さらに異様なものがあった。銀灰色の三本の腕―――色を除けば人間の腕が生えている。右腕が一本、左腕が二本。トランク内に収納するために、ミイラ化した死体のように細く作られている。
『システムチェック完了。人工筋肉に動作命令を伝達します。』
 人工の腕が、ぴくりと動いた。わさわさと指を動かし、各関節の動きを確認する一連の動作を行う。
 タブレットの画面に「銃器装備」の指示が出ている。御雷はマガジンを抜き、チェンバーを空にしたルガー10/22を右手に持たせてやった。左手の一本が自然な動きでストックに手を添え、右肩でバットプレートを受けた。フレキシブルアームが勝手に動き、右眼――カメラのレンズをダットサイトに当てる。左眼は素通しで景色を映している。
 ライフルのゼロインは済ませてある。弾薬の諸元も入力済みだ。
 御雷は画面を切り替えて、狙撃モードにしてみる。
 ウインドウの中に、稲美中学校の校舎が映っている。離れ小島の最下層、嵌め殺しの窓を通して室内を見ることができる。
 毒々しいピンク色のマーカーが画面上に浮かんでいる。小さな十字のマークが狙点を示している。右眼から得られたダットサイトの照準情報を、左眼の映像に映し込んでいるわけだ。
 最初はダットサイトを覗くためのカメラ一台で照準システムが作られていた。だが、それだと電子的に倍率を上げたときにダットまで拡大されてしまい、使い物にならなかったのだ。
 改良を加えながら、これまでのいくつかの仕事でも使ってきた。体術と銃器という、原始的な道具で闘う御雷にとって、裏の仕事に用いる数少ないハイテク装備である。
 狙撃支援ロボットとでもいえばいいのか。遠隔操作で銃撃を行い、仕事が済めば回収場所まで自律的に移動する。現場を離脱する際に、使用した銃器を捨てて、ロボットだけが脱出するのが成功の秘訣であった。
 銃器を発見されるより、ロボットの存在を知られる方が遥かにまずい。
 最初は、小型のロボットを得意とするサイモンに依頼した。それなりの水準ものはできたが、耐候性や稼動時間、さらにはよりきめ細やかな狙撃や自動マグチェンジ等の要求に応えることができなかった。
 そこで、サイモンは駄目出しを受けたプロトタイプを研究施設に送り、K2に改善を依頼した。彼女が出した結論はひどくシンプルなものだった。
 駆動系にはK2由来の人工筋肉を使用する。自家発電可能なそれを使うことで、バッテリーの問題は解決する。モーターやギアを使うわけではないからゴミ等で故障することもない。狙撃に使う腕の動きは滑らかになり、反動の処理も向上した。
 改良ついでに、K2が直接リモートコントロールすることもできる仕様にしてあるが、御雷はこれまでそれを依頼したことはない。
 御雷は画面上のマーカーに人差し指を当て、あちらこちらに動かしてみる。同期して銃口が向きを変える。
 「動作確認」を選び「ドライファイヤ」を試してみる。マガジンは挿入せず、機械の腕がボルトハンドルを操作した。チェンバーは空だ。
 再びマーカーを動かして、室内の一点を狙ってみる。よく、ワル共が寝転がっている辺りだ。日曜なので人影はない。画面をスワイプして拡大する。スコープの倍率を上げるのと機能的にはよく似ている。一旦マーカーから指を離し、軽く二回タップした。
 ぱちん。
 ルガー10/22の撃針が空を打った。
『よそさうですね。』
「そのようだ。あとは、当日か。狙撃が終わったら、こいつの誘導を頼むよ。」
 本来なら、自律的に回収場所まで移動できるのも、狙撃支援ロボットの大きな特長である。しかし、ここでは自立航行機能が上手く働かないことがあった。GPSを活用しても、予定外の所に現れたりする。何度かテストした結果、K2に回収だけ手伝ってもらうことにしたわけだ。
『お安い御用ですが…風に対する着弾補正もお手伝いできますよ。』
 御雷は呆れたように笑った。
「お前らしくもないな。いくらお前が優秀で、衛星回線を使ったとしても、アメリカからだとタイムラグでどうしようもないだろう?」
『では、私に少しチャンスをください』
 御雷は付き合ってやることにした。
 もう一度、ドライファイヤ―――空撃ちモードで試してみる。
 狙点を定める。画面の隅にガラスに貼り付けられた毛糸がなびいているのが見える。風速を計るために御雷が貼ったものだ。わずか五十メートルの距離であっても、軽い二十二ロングライフル弾は横風の影響を無視することができない。
『右から、四メートルの風』
 K2の声と狙点が僅かに右――風上に向かって移動するのは同時であった。その後、風向きや風力の変化があったが、K2の補正が遅れることは一切なかった。
 さすがの御雷も唖然とする。
 なぜ?と問う御雷に、K2はどう説明したらいいか迷っているようであった。
 うーん…と考え込んでいたが、細かく説明するのは諦めたようだ。
『実は、私と【この子】は、通信用の電波を使って情報のやり取りをしているわけではないんです。覚えていますか?私の頭脳がまだ別体のスーパーコンピュータだった頃のことを。たとえ電気的な繋がりがなくとも各筋肉間で情報を共有して最適化が進むのを止められなくて困ったことがあったでしょう?」
 覚えている。K2と道場で本気で試合って、死にそうになったときのことだ。
『私は、自分自身のことも研究しています。私とはどんな存在なのか。何ができて何ができないのか。どんなポテンシャルが眠っているのか。そうした中でわかったんです。』
 K2が息を継いだ。普通に声帯を使って声を出すには呼気が必要だ。
『これは、一種の量子通信です。』
 御雷には小耳に挟んだ程度の知識しかない。
「あの、SFとかに出てくるやつかい?距離に関係なく、時間差もないっていう。」
 K2が小さく笑う。
『正確には違うものですが、人類の思考フレームにその概念を落とし込むのが難しくて…。結果としてそのような効能が得られるとだけ、ご理解いただければ十分です。』
 ふうん、便利なものだな。感心したものの、疑問もあった。
「電子的に介入できるなら、どの機械に対しても可能なのか?」
 否、とK2は答える。
『このロボットには私由来の微細構造―――言うなれば、私の細胞を培養したものが組み込まれています。自分に由来するものとの間に、私は【量子リンク】とでもいうものを構築することができるのです。』
「自分の細片の動きや所在を知ったり、操ったりできるってことかい?」
 K2が首を捻る気配があった。
『それは、微細構造の量にもよります。それから、たとえ量自体は大したことがなくとも、私自身が強く命じて指向性を持たせた微細構造は強い力を持つようになります。』
 御雷には今ひとつピンと来ない。が、今は彼女の能力を頼もしいと感じた。
「それじゃあ、準備を頼むよ。」
 余っている左手にマガジンを渡してやると、器用に銃に装着した。二本の予備マガジンは指の間に挟んで待機状態を作る。右手がボルトを操作して初弾をチェンバーに送り込んだ。セフティを掛ける。
「一つ、約束だ。トリガーを引く命令は、ぼくが出す。お前は狙点の調整だけ手伝ってくれ。」
『わかっています。私は手を汚すなというんでしょう?』
「ま、これだけ頼っておいて、言えたことじゃないんだけどね。」
 苦笑しながら、狙撃システムの上から防水布を被せた。目隠しになる。
 タブレットのみを収めたバックパックは軽い。
 御雷は飛ぶように斜面を登り、他の人間に出会わぬよう注意を払いながらスープラに戻る。
 車に妙な細工はされていなかった。
 本当は石上邸でゆっくりと眠りたい。だが、長時間自宅を空けているのも不自然だ。
 仕方なく、バイクで平屋に戻った。
 敷きっぱなしの布団に寝転ぶと、耳元でK2の声がした。イヤフォンは挿しっぱなしにしている。
『一つ言い忘れていることがありました。この電話にも、実は私の微細構造を小型のチップに偽装して使っています。』
「ああ、だからお前の声と狙撃アシスタントの動きにタイムラグがなかったのか。納得した。」
 つまり、今まで衛星回線で話していると思っていたものが、いつのまにか量子通信による直接通話に変わっているというわけだ。
『もしかして、怒ってます?』
 御雷の声に切れがなくなってくる。
「いや、電話代がかからなくて助かるよ。でも、今は少し眠りたい。…もしかして、腕時計にもお前に直通のセンサーを仕込んでいるのか?」
 K2はあっさりと認めた。彼の体調をモニターし、必要な支援をサイモンに要請するのは自分の役目だと自認しているのだ。
「大した世話女房ぶりだな。隙がない。」
 御雷の笑いは本物だ。もう、半分眠り掛けている。
 思いがけず、K2の反応は真剣だった。
『眠る前に、聞いてください。やっぱり…ご報告することにします。』
 これほどに口惜しげな彼女の声を聞いたことがない。そのことが、御雷を眠りの淵から引き戻す。
『隙がないなんて、とんでもない。実は…中央演算装置から、あなたに関するデータが外部にコピーされた痕跡を発見したんです。』
 研究施設時代に取られた各種データだけではない。激しい損傷を受けた身体を奇跡のように甦らせた、K2の術式。新たな機能制限と姿を変える能力。
 そういった諸々の情報を抜き取られたという。
『あんまり腹が立ったので、盗んだ相手方の電脳を焼き潰しました。』
「可愛い顔をして、怖いことをするね。相手はわかったのかい。」
『いいえ。とにかく盗んだ相手の形跡を辿って、とっておきのデータ爆弾を送りつけてやりました。あなたの情報を盗むなんて、私は許さない。』
「で、どうなった?」
『西部の陸軍基地が、三ヵ月機能を停止したそうです。』
 可愛らしい声で愉快そうに笑うのが、怖い。
 軍が身内にハッキングを仕掛けるとは穏やかではない。
 K2が声を改めた。
『この状況では、戦略的なシミュレーションはあまり意味を持たないかもしれません。ですので、私は自分の直感に従って行動することにします。近々お届けする荷物の中に、一応備えとなるものを入れておきます。』
 これからは、私と話したいときはダイヤルなしで直接呼びかけてください。
 それだけ言うと、K2は沈黙した。
 身体は眠っているのに、思考だけが冴えているような状態になる。
 もはや、間違いはない。御雷に用のある者が、この日本にいる。アメリカのデータに加え、文部省から日本におけるデータを引き出していることからも明らかだ。
「ハンターのつもりで乗り込んでみたら、ぼく自身が獲物だったとか…勘弁してほしいね。本当に。」
 呟きに、悲壮感はない。
 目を閉じた。状況がどうあれ、必要であれば十分な睡眠を取る。
 それが御雷という男だ。

      6
 月曜日。
 まだ傷の癒えぬ馬越は自宅で療養している。応急的に傷を塞いではあるが、ここから先は整形外科の守備範囲だ。最低でも数度の手術を受けねばならない。特に、右の拳に関しては他人を殴ることはおろか、柔道選手としてやっていくことも絶望的だと言われている。
 稲美中学校は、いたって平和であった。
 片瀬が死んだことはまだ伏せられている。警察からも正式に発表があったわけではない。
 彼が死んだことを知っている生徒は、西本と石川賢治。そして、南方猛。この三人に片瀬を加えれば、稲美中のワルの四天王ということになる。
 優れた頭脳と胆力を持ち、裏社会で生きることを既に決めている西本は、全体のボス格に当たる。御雷には中心人物である西本を最初に始末するという選択肢もあった。にもかかわらず周辺部から攻めたのは、ただの気まぐれではない。
 始末されるラインを明確に示すことで、「生死のボーダーラインを超えるか否か」という選択肢をワル共に突きつけるのだ。
 生き続けたければ、生き方を改めればよい。
 四天王―――半ば馬鹿にしつつ教員たちが呼んでいるわけだが―――は、全員消すつもりであった。
 石川は、半グレの違法漁師になることを公言して憚らない。南方はとにかく頭が悪い上に破壊的な暴力を振るう。死んだ片瀬は深刻な刃傷沙汰を起こすのは時間の問題だった。
 一番のポイントは、彼らが西本の供給する薬によって「飼われて」いることである。馬越を介して買うのではない。いわば、河津組の駒として、既に押さえられているわけだ。
 ダニは成虫になる前に潰しておく方がいい、というのが御雷の考えだ。
 その四天王の残党が、不気味なほどに大人しい。
 西本は、御雷の動きをつぶさに観察している。
 玄の指示であった。
 奴は、舌舐めずりでもするような声で告げたのだ。
「毎日学校に行き、御雷を観察しろ。大人しく授業を受けて、奴の言葉一つ聞き漏らすな。例の女が餌に使えるかどうか、判断できる材料ももう少し欲しい。変わった動きがあれば、どんな小さなことでも知らせろ」と。
 本当は、御雷のことが怖くなってきている。にこやかでいながら、躊躇いもなく馬越を自滅に誘った手際の良さ。一瞬浮かべた、表情。
 外見はまるで違うのに、どこか玄に似ていると思った。
 芽生えた恐怖心は、監視には役に立った。御雷から目を離すことができなくなってしまったのだ。
 忌々しいことだが、授業を妨害しようとした数々の試みは徒労に終わったことを認めざるを得ない。御雷は生徒たちの心を掴み、学習しようという熱意がクラスに、そして学年全体を満たし始めている。そして、稲美中そのものの雰囲気が大きく変わってしまった。
 悔しいが、御雷は優秀な教師だ。
 西本も、それは感じている。ただ、その優秀さは修羅場をくぐって身に付けたものだ、という直感がある。
 菊池に対しても、西本は悔しさを感じている。
 雰囲気が変わった。前のおどおどしていたときよりも、遥かに綺麗になったと思う。
 高校生のような童顔は相変わらずだが、何となく手が届かなくなったような感覚があった。
 理由は簡単だ。
 常に側に居る御雷の存在だ。
 玄に言われるまでもない。彼女の眼差しや、表情を見ればわかる。
 あれは、恋をしている女の態度だ。好きな女のことであるからこそ、西本にはそれが手に取るようにわかった。
 悔しい。
 だから、玄が御雷を始末するというなら諸手を挙げて賛成する。が、餌となった菊池はどうなるのか?ヤクザ共の慰み者にされた上で埋められるのか?それとも、薬漬けにされた上で売春婦にでも堕とされるのか?
 そんな女を抱いたことがあったし、女を埋めるのを手伝ったこともあった。
 惜しい、という気持ちはあるが、同時に仕方がないとも思っている。
 すべては、己が裏社会でのし上がるための第一歩だ。
 そう割り切れるだけのものを、西本は持ち合わせていた。
 だから。恐怖を押し殺し、悔しさを黙殺して、御雷を観察し続けることができるのだ。
 本当に、玄の言うような死に神なのか。それは、彼が予言した「御雷の周りでは、大勢死ぬ。特に、ワルが」という言葉が現実のものになれば証明される。
 だから、西本は待っていた。仲間が殺されていくのを。
 西本祐司は、そういう男に成長しつつあった。
 そんな西本の視線を意識しながらも、御雷は平然と教師生活を満喫している。

 夜。
 御雷はカラスの扮装を纏い、カラスの身振りを真似、声を模倣して街角に立つ。
 黒衣の密売人の元を、ひっきりなしに客が訪れる。電話で予約を受けた数を捌ききると、場所を変えて待つ。そこでも、かなりの数の客が薬を買いに来た。
 事前に、次回の入荷の見通しが不透明であることを伝えていたため、一人が買っていく量も多い。グラム一万円程度だから、格安とも言えないが、それこそ飛ぶように売れていく。
 更に場所を変える。
 一晩で四千ものパケを捌けば、さすがに警察からお目こぼしはもらえないかもしれない。
 御雷は釣り銭を出さない。売るのは四パケから。つまり、一グラムが最低の量ということになる。殆どの客は万札で支払いをする。
 見る間に溜まっていく一万円札は、最終的に一千万円ほどになるはずだ。御雷は几帳面に百枚溜まるごとに輪ゴムで束にしてやる。用意した黒いデイパックに放り込む。
 最後にやって来たのが欅橋であった。ここまでの動きは、普段のカラスと変わらない。
 ここでも、客の数は多かった。計算通り、販売用のパケを全て売り切ることができそうだ。
 御雷は待った。白石直哉が馬越の代役として現れるのを。
 白石は、御多分に漏れず盗難品と思われるスクーターでやって来た。お椀を伏せたようなヘルメットを後頭部にぶら下げている。相変わらずの猿顔だ。色が白い。
 律儀に合い言葉で互いを確認する。
 やはり、いつもより購入する量が多いようだ。
 御雷は声を掛けてやった。
「おい、いつもの奴はどうしてる。怪我をしたとか連絡があったが。」
 白石は物事を深く考えない男だ。裏世界の人間と接触することに緊張も感じている。思わず答えてしまう。
「あいつなら、家で寝てる。怪我が痛むんだとさ。」
「なら、帰りに薬を届けてやったらどうだい?痛みが楽になるってのは、お前も知ってるだろう?」
 御雷の聴覚が、複数の足音が接近するのを察知する。ゴム製のソールで足音を消してはいるが…派手な商売をしたからな、今回は。
 そんな思いも知らず、白石は御雷の提案に目を輝かせた。
「そりゃいいや。ちょうど帰り道だ。」
 静かに、と御雷は声を潜めて囁いた。
「警察が、来る。お前は強引に突破しろ。奴らの狙いは俺の方だ。ちゃんと引きつけてやるから捕まるなよ。」
 スクーターを押し出してやる。
 それを合図にしたかのように、いくつもの人影が欅橋に迫った。白石のスクーターはそれをはね飛ばす勢いで突進し、包囲網を抜けた。
 見届けて、御雷は欅橋の中央に走る。その動きが、捜査員の知るカラスの動作よりも桁違いに素早くて、彼らの驚きを誘う。
 捜査員の対応が、一瞬遅れた。その隙を御雷は見逃さない。
 欄干にワイヤー付きのカラビナを器用に引っ掛け、橋から身を躍らせた。ブレーキの効きは極端に弱めてある。こんなものなどなくても、この高さならどうということはない。
 常人のふりをするのも大変だ。
 河原に着地するとリガーベルト自体を切断して身体から離した。
 土手沿いにも数名の捜査員は配置されていた。が、河原にはいない。足場が悪いのと、土手を押さえておけば、河原から出さずに済むという計算が働いている。そうこうしているうちに、応援が川上・川下の両方から河原を封鎖するだろう。
 だが、御雷はそんな時間を与えるつもりなど更々無かった。
 直ちに、暗い河原を一切照明を点けることなく、全力疾走で川上に向かったのである。
 御雷の脚は速い。人体が秘めるポテンシャル一杯を発揮することで、文字通り飛ぶように走る。足場の悪さをものともしない。視覚を押し上げ、真昼に匹敵する視界を得るのと同時に、可聴域を超えた音を使ってエコーロケーションも行っている。
 走りながらカラスの扮装を脱ぎ、バラバラに捨てる。身軽になると、更にスピードが上がった。
 目の前を蛇河の本流が横切っている。今日は水量が多い。スピードを落とさずに跳び越えた。九メートルを優に越える距離を跳んで、まだ着地に余裕がある。すぐに走り出す。百メートルを九秒足らずで駆け抜ける様は、まさに走るというより「飛ぶ」感覚に近い。
 闇に溶ける御雷の服装を、土手からは十分に視認することはできない。
 慌てた捜査員たちが的外れな場所にライトの光芒を走らせている様を背に、悠々と駆け去って行く。
 彼を捉えようとするであろう捜査員を出し抜くために御雷が用意した方法は、極めてシンプルなものであった。
「あり得ない場所をあり得ない速度で走って逃げる」である。
 実際、土手に配置されていた捜査員は御雷の動きを追いきれず、すぐに彼を見失った。
 河原に隠してあったヤマハのエンジンを掛け、土手に駆け上がる。
 遠くから赤色回転灯とサイレンの音が追ってくるのを感じたが、それだけだった。周到に調べ上げたルートの一つを用いて広域農道に出て、コンテナ基地に向かう。コンテナ内に現金を仕舞った。馬鹿共が自分の命の代金として払った金だ。大切に使わせてもらうことにする。
 御雷は麻薬を売る人間を嫌悪している。他人の命を食い物にするから。同時に、麻薬に溺れる人間も嫌いだ。自分の命をあまりにも軽く扱うから。
 どちらも、死んでしまえ。そう思っている。
 だが、金に罪はないのだ。それは、河津組から現金を頂いたときと同じ理屈である。
 自分自身が売人を演じたことに罪の意識はない。
 簡易トイレで用を足し、少しだけ仮眠を取った。体温が少々上がりすぎた。
 外部の状況はカメラや集音マイクで知ることができる。特に緊急車両が走り回っているような様子もない。
 どのみち、家には帰らねばならない。
 御雷は体型と声を教師用に調整する。コンテナに収まったスバルに乗り換え、広域農道に出た。
 石上邸には寄らずに、粗末な平屋に帰る。途中でコンビニに寄って夜食を買った。買い出しが、外出の名目ということになる。
 自宅周辺の監視はなかった。侵入者もいない。この前見せてやった、あまりにも無防備な姿に、監視者の方が毒気を抜かれたのかもしれない。
 いずれにせよ、今日はもう寝る。成果を確認するのは、明日だ。

      7
 火曜日。
 いつものように、御雷は早朝から出勤した。
 警備装置を解除して職員室に入る。
 その前に、運動場への大階段にある植え込みを確認してみる。昨夜白石が置いたと思われる麻薬の包みがあった。五人分。馬越の分は買い付けの帰りに届け、白石本人の分も既に抜いてあるわけだ。
 生徒玄関の周辺を掃き掃除しながら、登校してくる生徒たちに声を掛ける。
 最近は、御雷が声を掛ける前に「おはようございます」と挨拶の言葉を投げかけてくる生徒が増えた。自発的に挨拶をするのが当たり前になりつつある。いいことだ、と思う。
 生徒たちに向けられる御雷の眼差しは優しい。
 その一方で、油断なく彼らの動向に注意を向けてもいる。
 西本と白井は二人乗りで登校してきた。二人とも眼の下に隈が浮いている。
「おはよう。」
 御雷が声を掛けても目を合わせようともしない。いつものことだ。
 昨夜は、お楽しみか。それでも遅刻せずに来るとは、どういう風の吹き回しだろう。
 小さく肩を竦めただけで、それ以上考えるのはやめた。職朝―――職員朝礼の時間だ。
 職員室に戻ると、何名かの教員の姿がない。担当学年の生徒の様子を見守るために、教室前の廊下に立っているのだ。荒れた学校に限らず、輪番制で置くようにしているところは少なくない。大抵は副担任の仕事だ。稲美中では男性副担任がその仕事を担う。
 今日の担当は矢沢だ。
 御雷は菊池の隣で、今日の予定や各担当からの連絡事項を聞く。管理職の話は聞き流しておいた。
 校長の話が終わると、平教員たちは自分の持ち場へと移動を開始する。菊池も二年五組の教室へ行き、朝の会を行うのが常だ。が、今の彼女にはやらねばならぬ事があった。
 自宅療養をしている馬越の、保護者からの電話連絡を受けることである。
 欠席するからには、保護者から欠席連絡をもらわねばならない。馬越の場合、しばらく休むことは確定している。とはいえ、今後担任業を続けていくなら、この機会に学んでおいた方がいいこともある。
 御雷は、見舞金を持って来た馬越夫妻に、「休みが続く間は、面倒でも毎朝欠席連絡を入れるように」と要請し、呑ませた。
 菊池にはわからない。それは、必要なことなのか?
 御雷の回答は身も蓋もないものだが、的は射ている。
「まあ、『学校はお子さんのことを気にしていますよ』というポーズが半分です。いずれにせよ、ご機嫌伺いというか、馬越の様子を尋ねるために毎日電話を入れるつもりなんでしょう?だったら、向こうから電話してもらえば面倒が無くていい。それに、こちらから掛けた電話のタイミングが悪かった、なんてこともないですから。」
 なるほど、と思った。朝のうち、という制約はあるものの、馬越夫妻にとって都合のいいタイミングで電話をしてもらえれば、向こうに「鬱陶しい電話だ」と思われることもない。それに、連絡をもらったことに対して、こちらは労いや感謝の言葉を掛けることができる。
 最初に面倒な頼みを承諾させてしまえば、後はお互いの関係が悪くなることはない。少なくとも、「わざわざご連絡いただき恐縮です」とか「どうか無理をせず、お大事に」などと丁寧に対応する菊池に対する心証は悪くならない。
 これも、最初に嫌われ役を引き受けてくれた御雷のおかげだ、と感謝している。同時に、彼の心理誘導の手腕に怖さを感じているのも事実だ。自分が御雷に対して抱いている好意もまた、誘導されたものなのではないか。
 その疑いは拭いきれないが、彼が菊池に指一本触れようとしないのも事実だ。それに安心している自分と、不足を感じている自分がいる。
 時々、菊池は自分という人間がいくつにも引き裂かれそうになる感覚に襲われることがあった。自分の中に、幾人もの菊池由美が居て、それぞれが矛盾したものを抱えているのだ。
 常に穏やかな笑みを浮かべたような御雷の横顔を見ていると、疑問が湧いてくる。この人は、自分が感じているような葛藤を唯の一つも持っていないのだろうか。
 その御雷は、いつものように職員室の出口で菊池を待っていた。
「菊池先生、馬越からの連絡待ちですか。」
 困惑した表情を浮かべて答える。
「ええ、そうなんですが…今朝はまだ電話がないんです。」
 御雷は渋い表情を作る。
「もう面倒臭くなったんですかね。ほんの数分の手間なのに。」
 教頭先生、と御雷は小泉に声を掛ける。
「こういう場合はこちらから連絡して確認した方がいいですね。」
 小泉は理解する。御雷は、菊池に担任の行動パターンを教えようとしているのだ。
「そうですね―――菊池先生、お手数ですが馬越の家に電話してもらえますか。馬越の場合は自宅から出ることもないでしょうが、過去の例だと登校中に事故に遭ったのを親も知らなくて、無事に学校に着いたものだと思っていた…なんてこともあるのですよ。」
 過去の実例を示してやる辺り、小泉はちゃんと若年教員を育てようとしている。親も学校も生徒の所在を掴めない、という事態に陥ってはならないのだ。
 職員室の電話が鳴るのと、二年一組の担任がぱたぱたと足音を立てて教室から戻ってくるのはほぼ同時だった。
「すみません。白石直哉がまだ来ていないんですが、欠席連絡はありましたか?」
 教頭が電話を取った。
「はい。稲美中学校教頭の小泉です。ああ白石さん?ちょうど担任がおりますので電話を替わります。」
 一組の担任が電話に出る。
「いつもお世話になります。直哉君はどうかしましたか―――。」
 言葉が途切れ、見る間に顔色が青くなる。
 ただならぬ雰囲気に、御雷も戻ってくる。
「ええ?それは、一体――はい。ええ、わかりました。とにかく落ち着いてください、お母さん。救急車は?…わかりました。」
 小泉が素早くメモを書いて渡してやる。担任はそれに目を落としながら言葉を紡ぐ。
「急を要することですから、ひとまず電話を切ります。済みませんが、後で連絡が取れる電話番号を教えて頂いてかまいませんか。管理職にも状況を話して対応させていただきます。」
 母親の携帯番号を聞き出して、担任は受話器を置いた。唇が、白い。
「どうしました?」
「白石が死んだそうです。」
 菊池と御雷は顔を見合わせた。
「今朝、起こしに部屋を覗いたら、息をしていなかったと。」
「それは、母親も取り乱すでしょうね。」
 小泉が爬虫類の冷酷さを露わにする。
 悪くない。
 御雷は分析する。死にそう、なら慌てる必要がある。死んだ後なら慌てても無駄だ。
 一方の担任は、取り乱しそうな己を必死で抑えているのがわかる。それでも報告を続けた。
「それが…白石が倒れている側に注射器があったとかで。それで、警察も来る騒ぎになっているらしいです。」
 小泉の片眉が上がる。決断は早かった。
「ただ事ではありませんね。校長先生にも報告を。菊池先生は、すぐに馬越に電話をしてください。今日に限って連絡がないのも気になります。」
 教頭が案ずるところはわかっている。白石と馬越は、つながっている。一人に異変があれば、あるいはもう一人も。
 教頭と一組の担任が校長室に入ったのを見届けて、菊池は馬越宅に電話を掛ける。
 自宅の電話―――繋がらない。留守番電話になっているわけでもない。
 母親の携帯電話―――繋がらない。
 父親の携帯電話―――繋がらない。
 延々と続く呼び出し音の響きだけが、菊池の耳に残る。
 御雷は内心呆れている。まだそれほど普及していない携帯電話を、あの夫婦は持っていたのか。他人から金をむしりながら、文明の利器の恩恵を享受していたというわけだ。
「駄目です。―――もしかして、まだみんな寝ているとか?」
 菊池の藍色がかった瞳が不安に揺れている。
「だと、いいんですが。」
 御雷の声は硬かった。彼自身、予想していなかったことが起きているのかと思えば…。わかってみればなんということはない。そうか、そういうことだったのか。
 どんな表情を浮かべていいかわからない。だから無表情のまま言った。
「馬越の家に行ってみた方がいいかもしれません。矢沢先生に五組のことを頼んできます。」
 御雷は体格に似合わぬ素早さで、職員室を出た。足音を立てないので生徒も注意を向けないが、かなりの俊足ぶりを発揮する。
 矢沢に、白石に何らかの異変があったこと、馬越にも同様の恐れがあることをかいつまんで伝える。管理職の許可なく、詳細は話せない。ましてや、耳のいい生徒なら断片的にでも聞こえてしまうかもしれない。ともかく、家庭訪問の必要があるかもしれないから、五組のことはよろしく、とだけ頼んだ。菊池と御雷が抜ける授業のことも頼んでおく。念のため確認したところ、二年生には他に欠席者はいない―――片瀬は生徒の間では欠席が続いていると思われているが、奴がもう登校することはない。
 こういうときに根掘り葉掘り尋ねないのが教員というものだ。説明は、事が済んだ後でいい。まずは、目の前の生徒たちが困らないようにすることを優先すべきなのだ。ベテランである矢沢はそのことをよくわかっている。一言、「気を付けて行ってきなよ」とだけ言うと、気障なポーズを取って見せた。
 御雷が職員室に駆け戻ると、青い顔をした校長、教頭、そして一組の担任が校長室から出てきたところだった。
 菊池が馬越宅に電話を掛けたときの状況を報告する。管理職の表情が曇る。
 御雷は進言した。
「校長先生、大体の事情はわかっているつもりです。馬越の家が心配です。すぐに家庭訪問をするべきだと思いますが。矢沢先生に、学級と授業のことは頼んでおきました。」
 二年生には他の欠席者がいないことを報告し、他学年の欠席状況も直ちに確認するべきだと述べる。
 校長は頷いた。
「では、お願いします。状況によっては警察への連絡をお願いすることになるかもしれませんが…。」
 自分に対応できるだろうか。不安そうに顔を強ばらせている菊池の背中を軽く叩いた。
「大丈夫ですよ。ぼくが一緒に行きますから。狭いですが、ぼくの車に乗ってください。その方が、早い。携帯電話を忘れないで。」
 菊池の手を引くようにして、御雷は職員室から出る。教頭が校内放送ではなく、内線電話で各担任に呼び出しを掛けているのが聞こえた。異常事態についての情報が決定的に不足している今、生徒に無用な混乱を起こさせる必要はない。それは、正しい判断だ。
 これが…白石と馬越だけの問題ならば、な。せいぜい、情報を伏せておいてくれよ。
 御雷の唇に一瞬浮かんだ淡い笑みを、彼の後を歩く菊池は見ることができなかった。
「少し、飛ばします。怖くても、今日だけは我慢してください。」
 スバルの助手席に納まった菊池に声を掛けて、御雷は車を出した。
 スムーズな走りに、菊池は状況を忘れて見惚れる。
 アクセルの開け方が。ステアリングの切り方が。そしてシフトチェンジの操作が。
 どれを取っても、正確で、丁寧で、しかも尋常でなく速い。しっかりとブレーキングして、強力な減速Gが発生しているにもかかわらず、乱暴に身体を振り回される感覚がない。
 それは、加速も同じ。コーナリング中も同様だ。
 スピードメーターを覗くと、教員の運転としてはあり得ない速度を示している。なのに、怖くない。苦しくない。加速から減速、コーナリング、再びの加速―――それらの繋がりが異常なほどに滑らかで、継ぎ目がないように感じられるからだ。
 一瞬、御雷の細く長い指が執拗なほどの丁寧さで女体を愛でる姿が頭に浮かび、菊池は胸の内で自分を叱りつけた。
 こんなときに、私は何を考えているんだろう。
 御雷が車や銃器に接するときに見せる繊細さが、女体に触れるときのそれと同種のものであることを、菊池は知らない。
 御雷はヒール&トウで巧みに車速を落とし、路地に入り込んだ。スバルですらドアミラーを擦ってしまいそうな道幅しかない。
「こんなところに道があったなんて…。」
「走りにくいけど、ずっと早く着けるんです。」
 前を見据えたまま応じる御雷は意識していないだろう。運転に集中しているから。
 彼は、自ら「前の家庭訪問のときは菊池にとって最もよいルートを提案したのだ」と告白したのだ。
 菊池は理解する。御雷の運転技術は確かに大したものだ。だが、それ以上に、常に影から彼女を支えてくれる御雷武その人が側にいてくれるからこそ、怖さを感じずに済んでいるのだ。
 ものの数分で着いた。さすがに、車を降りると足下がふらついて、御雷に支えてもらう。
 馬越の家は、漁村の外れというよりも、漁村に接した住宅街の外れに建っていた。
 それなりに敷地も広く、二台の乗用車が停まっている。両親ともに在宅中のようだ。兄だか姉だかがいるはずだが、県外に就職していてここには住んでいない。
 スバルを敢えて路上駐車したのは、庭にタイヤの跡を残さぬようにするためだ。駐車禁止の対象にもなっていない。前回もそうしたのは、馬越夫妻が何かと難癖を付けてくるタイプだと知っていたからだった。敷地内にものを持ち込む行為はなるべく避けたかっただけのことだ。
 建物自体は、ごく普通の平屋建てである。極端に大きくはないが、それなりに金の掛かった日本家屋であった。
 どこから、これだけの金を引っ張ってきたのやら。玄関の前に立って、御雷は前回と同じ事を思う。
 菊池を後ろに立たせて、ドアフォンのボタンを押す。反応がない。
「稲美中学校の菊池と御雷です。いらっしゃいますか。」
 マイクに向かって呼びかけても、返事がない。
「いないんでしょうか。」
 いや、と御雷は二台の車を指す。
「いるはずです。タクシーやバスを使うような人たちでしょうか?」
 囁くように言った。
「金を使ったり、面倒なことをしたがる人たちじゃありませんよ。きっと、いるはずです。―――元ハードボイルド愛好家なら、わかるでしょう?」
 車のボンネットを指してやる。菊池の表情が引き締まる。
「そうか…冷たいです。朝から動かしてないみたい…。」
 御雷は頷く。
「ま、昨日から帰ってない、という可能性もありますが。」
 何気なく、という様子で、玄関の引き戸を開けてみる。
 からり、と音がして戸が開いた。
「鍵が掛かっていません。」
 戸を開くと、二人は玄関に入った。直接奥に呼びかける。
「御免ください。稲美中学校の菊池と御雷です。いらっしゃいますか。」
 やはり、返事はなかった。
「何だか、空気が冷たいです。」
 菊池の声が震えている。人の気配がしない。早く出たい…そう思いながら目をやると、御雷の横顔に厳しい表情が浮かんでいた。
「不安が、的中したかもしれません。ちょっと、見てきます。」
 靴を脱ごうとする御雷の腕にすがった。
「待って。もし…中で死んでいるとして。例えば強盗とかがまだいる可能性だってあるじゃないですか。」
 御雷は笑顔を作って見せた。菊池にも、それが自分を安心させるための表情だということぐらいは察しが付く。それでも―――。
 御雷は何の前置きもなく、菊池の髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。乱暴、ともいえる手付きで頭を撫でる。
 さすがに抗議しようと見上げた眼前に、御雷の顔があった。互いの息遣いを感じられるほどに近い。
「ほら、菊池先生。今、『私は子供じゃない』って言いかけたでしょう?」
 当たりだ。
「その通り、あなたは子供じゃない。だから、我慢してください。殺人犯が潜んでいることも考えて、大きな声で呼びかけたんですから。」
 そういうことか、と納得する。仮にそういう危険な人間が潜んでいたとして、彼らが一番嫌がるのは騒がれて周囲の注目を集めてしまうことだ。大声で呼びかければ、冷静ではいられない。気配にしろ、物音にしろ、必ず何らかの反応を示す。
 鈍感なテレパスの感覚でも、呼びかけ前と呼びかけた後で、家の中の空気に何の変化もないのは感じ取れている。
 それに、と続ける御雷の表情が少しだけ硬くなる。
「職員室で聞いたでしょう?注射器があったって。憶測が許されるなら…ですが、自分で薬物を注射した可能性もあります。」
 あなたは、ここにいてください。
 御雷は強く念を押した。
「あなたは、一度見たものを忘れるのが苦手なんでしょう?」
 菊池は少なからず驚く。特技でもあり、嫌な記憶がいつまでも付き纏う原因にもなっている。
 御雷にとっては、姿を変えてなお自分を言い当てられた苦い経験がある。現場の詳細を見て覚えられるのは得策ではない。
「見なければよかった、というものが奥にあるかもしれません。ぼくが先に行って見てきます。」
 御雷は靴を脱いで上がり込んだ。廊下を少し進むと、直角に右に折れてから奥に伸びているのが見えた。
 菊池の視界から外れたのを確認して、御雷は皮肉な笑みを浮かべる。
 これは、厳密には不法侵入だ。本来なら、警察なりに連絡して確認してもらうのが筋である。が、今日は白石の件もある。緊急度の高さや、極度の動転を理由に言い抜ける自信があった。
 ゆっくりと歩を進めながら、廊下に沿って並んでいる部屋を見ていく。
 開けっ放しの扉から見える室内は、どこも散らかっている。この乱雑さは住人の人柄そのままだ。
 いくつかの部屋を見た後、御雷は見付けた。
 馬越夫妻の寝室である。
 素っ裸のままで、既に事切れている。嘔吐物が乾いているところを見ると、死んだのは昨夜だ。二人とも注射器の針が腕の静脈に入ったままになっていた。よく見れば、注射痕が目立つ腕だった。
 おそらく。二人は麻薬を使用して情事に及ぶつもりだったのだろう。御雷は経験がないからわからないが、薬が効いた状態で行うセックスは例えようのない快楽をもたらしてくれるという。
 しかし、残念なことに二人は本物の天国に旅立ってしまった。…いや、地獄かな、と思い直して可笑しくなった。もとより御雷自身は魂の存在も、死後の世界も信じてなどいない。
 御雷は侮蔑の眼差しを、股間を丸出しにして死んでいる夫妻に投げかける。
 シアン化ナトリウム――青酸ソーダ入りの麻薬なんて使うからだ。
 事の次第は、おおよそ御雷が想像したとおりだったようだ。
 馬越が入手した薬を、両親も使っていたのだ。つまり、一家揃って麻薬中毒に陥っていたわけだ。馬越経由で両親が覚えたものか、それとも元々親が薬漬けだったから馬越自身も早くから薬を始めたのか。そこはわからないが、大した問題ではない。
 今は馬越本人を見付けるのが先決だ。
 廊下の突き当たりが、馬越の部屋になっていた。
 子供部屋というには、あまりにも荒んだ空気が淀んでいる。壁はヤニで黄色く汚れ、馬鹿馬鹿しいほどに乳房の大きい金髪女のピンナップが貼ってある。床に投げ出されているのは下らない漫画とエロ本の類いぐらいだ。申し訳程度にダンベルやトレーニング機材が置かれていた。
 部屋の隅に置かれたベッドの上で、布団を被って震えている人影があった。
 いた。
 床に転がっている食いかけの菓子の袋を避けながら、御雷は近付いた。
「馬越。無事か。」
 囁くような御雷の声に、びくりと大きく震えた。容赦なく布団を引き剥がす。
 馬越は酷い顔をしていた。まるで―――一晩で老人になったかのように、生気がない。眼だけがギラギラと光っているのは、恐怖と混乱と…ある種の飢餓だ。
「話せ。何があった。」
 目を逸らそうとする馬越の顎を掴んで顔を引き起こす。眼を覗き込む。
 勝負は初めから決まっていた。親子揃って、御雷に対する言いようのない恐怖心が心に刻まれてしまっているのだ。おまけに、馬越は両親が苦悶する声を聞くか、断末魔を見るかしてしまったのだろう。
 悪夢のような経験だったはずだ。
 あっさりと心が折れた馬越は、御雷が見付けるまで布団を被って震えていたというわけだ。そんな状態で逆らえるわけがない。
 ぽつりぽつりと話し始めた。
 月曜の深夜、白石が持って来た麻薬を、両親はことのほか喜んだ。そろそろ手持ちが乏しくなっていたのである。一旦全量を親に取り上げられた馬越は、仕方なく前月の残り分を使って凌ぐことにした。翌日、自分の取り分を取り返せばいい。どのみち、麻薬が届いた日は激しいセックスを楽しむのが両親の習慣だ。気が済むまで楽しませてやらないと、親父に殴られることになる。
 自分も早く傷を治して西本に女を世話してもらおう、と自慰に耽っていたとき。明らかに悦楽の呻きとは異なる声が両親の寝室から聞こえてきた。嫌々ながらも松葉杖を突きながら、様子を見に行った。尋常ではない雰囲気がある。そこで目にしたのは、注射器を腕に刺したまま、嘔吐しながら死の痙攣を起こしている両親の姿であった。
 一目見て、助からないとわかった。原因は何だ。薬か?白石が毒でも持って来たのか?あるいは不甲斐ない自分を、西本が殺そうとしているのか。
 激しい混乱と恐怖に襲われて、馬越は判断力を失った。もともと頭の回転は鈍い方だ。それでも、この状況で警察や救急を呼べば自分自身の薬物使用まで問題にされることくらいは察しが付いた。馬越の能力ではそこまでが限界だった。思考停止に陥って朝まで震えていたところに御雷がやって来たというわけだ。
「ということは、薬は全部親の部屋にあるわけか。」
 馬越は頷いた。
 御雷は内心舌打ちをする。親の部屋には入らない方がいい。
 ここにいろ、と言い置いて、一旦玄関まで戻る。暗い表情を作ってから、菊池の前に姿を現した。
「どうでした?」
「あなたは、見ない方がいい。」
 強く何度か瞬きしながら言う。目に焼き付いた光景を消し去るように。
「親の方は二人とも死んでいるみたいです。馬越は辛うじて息がある。救急車と警察を呼んでください。状況は白石と同じ――注射器がありました。嘔吐もしています。これだけのことを連絡できますか?ぼくは馬越の様子を見ています。できることがあるかもしれない。向こうから何か指示があったら、奥には来ずにここから叫んでください。それでぼくには届きますから。」
 不安の色しかなかった菊池の瞳が、一瞬絶望を映し、次いで違う色を浮かべるのを御雷は見た。―――鋼の色。こういう眼をしたときの菊池は、強い。
 返事をする代わりに菊池は携帯電話を取りだした。一刻を争うのだという判断は、正しい。
 頼みます、と言い置いて馬越の元に戻った。早ければ数分で救急車が来てしまう。
「もう大丈夫だ。俺がお前を助けてやる。」
 ぞっとするほどに優しい声で御雷は言った。
「右の袖をめくれ。腕を出すんだ。」
 御雷は、上着のポケットからラテックスゴムの手袋を出して着けた。それを見た馬越の目が、飛び出しそうに見開かれる。
「い、いやだ。」
 声は上ずってまともに出せない。
「手間を掛けさせるなよ。俺も忙しいんだ。」
 御雷の指先が左腕に触れると、腕全体の感覚が無くなった。同様に右腕の感覚も奪う。左脚はギプスで固定されているから、もう動けない。
 御雷は室内を見回して微笑した。馬越が普段使っているとおぼしき小皿を発見したのだ。上手い具合に、側には十分な水が残ったペットボトルもある。皿の上には小さな匙が載っていた。
「こういう道具はな、見えないところに仕舞っておくもんだぞ、馬越。」
 にこやかに言いながら、スーツの襟の裏から極小さなものを取り出した。それを見て馬越が呻く。
 見慣れた小袋―――パケだ。
 御雷が馬越の左手にハサミを握らせる。ギプスで固められた右拳と右膝にパケを挟んで固定してやると、優しく手を添えて、パケの端を切り落とさせた。
 二人羽織のように、背後から馬越の身体を操る。
 ハサミを捨てさせ、パケに持ち替えさせる。
 小皿に指紋を付けさせてから、パケの中身を全て小皿に出させる。
「一回分には少し多いけどね、馬越君。」
 御雷の唇から滑り出た声に、馬越は絶望する。
「君には俺が売った薬をきっと気に入ってもらえると思うよ。」
 カラスの声で、底意地悪く嗤う。
 ポケットから取り出した注射器も、カラスから奪ったものだ。だから、馬越家に落ちていても違和感は無い。やはり馬越の手足を駆使して封を切らせる。
 自分の手がペットボトルの水を小皿に注ぐのを、馬越は悪夢でも見ているような気分で見詰めていた。粉末は簡単に溶けた。
 片手で薬液を注射器に吸い上げるには、それなりにテクニックが要る。
 御雷は、馬越の左手の関節に巧みに力を加え、複雑な動作をやりおおせた。多少空気を吸っても気にしない。
 しっかりと注射器を握り直させる。予告もなく右腕の静脈に針を入れた。
「心配しなくても、お友達の白石君も死んだそうだよ。」
 御雷の声が、変わる。
「注射器のピストンを押せば、お前は死ぬ。この前、お前は俺を殺す気で殴ろうとしたな?」
 手足の感覚はなくとも、恐怖に震えることはできる。高熱でもあるかのように、激しく震えながら、「許して」と繰り返す。
 御雷の唇に、淡い笑みが浮かんだ。黒曜石のような瞳が、無表情に馬越を見ていた。
 こいつの唇は、こんなに紅かっただろうかと、馬越はふと思った。恐怖に震えながら。
「俺はね、自分を殺そうとした奴を許せるほど、人間ができてないんだよ。残念だけど、これでお別れだ。」
 馬越の親指が、強くピストンの尻を押した。麻薬と青酸ソーダの混合液が静脈に放たれ―――全身に散っていった。
 御雷は素早く身体を離し、ベッドから立ち上がる。シーツを整えて自分の痕跡を消した。ラテックスゴムの手袋は裏返しに外し、堅く縛ってポケットに落とし込む。表面に薬剤が付いていれば危険だ。
 混ぜ物なしの過剰な量の麻薬。そして、シアン化ナトリウムの毒性。それらが効力を発揮するのは早かった。白眼を剥いた馬越が仰向けに倒れるまで、数秒。痙攣を起こし、嘔吐物が口から溢れるのを見届けると、御雷は口元を押さえて部屋から出た。
 まだ、救急車のサイレンの音はしない。菊池の声が聞こえた。
「御雷先生。救急車が出払っているって。応援を頼んでも、まだ十分近くかかるそうです。それから、患者の側からすぐに離れるように言われました。」
 玄関に戻る。
「それじゃあ間に合わない。何があったんですか。側に居ないと心肺蘇生措置もできないというのに。」
 怒気を含んだ声で尋ねてやると、菊池自身戸惑っているのがわかった。
「それが、今日に限って救急要請が殺到しているらしくて。警察の方も一一〇番通報が立て続けにあって、大変なことになっているようです。多分、警察が来る方が早いと思います。状況から判断して、毒物による二次被害を避けるために救急隊員が到着するまで患者に近付いてはならないそうです。救命措置もしてはいけないと。」
 菊池はまだ学校には連絡を入れていなかった。御雷が状況を報告する電話を入れる。菊池にも聞かせて、御雷が見たものを理解させる。
「―――ええ。親子で何か薬をやっていたらしくて。救急も警察も出払っていて、まだしばらく待たされそうな勢いです。今見たときは、馬越本人にだけは辛うじて息がありましたが…多分、間に合いません。」
 御雷の分析が、菊池の胸を刺す。だが、それは多分正しい。
「はい、わかりました。警察や消防の到着を待って学校へ帰りますが、きっと時間が掛かります。警察から話を聞かれることになると思うのですが、今朝からの一連の流れと、普段からの馬越の行動について知っていることを話しますよ。」
 不審死ということになれば、発見者であり日頃の接点もある御雷や菊池が協力を依頼されるという形を取りながら事情聴取を受けるのは仕方のないことだ。校長が異論を挟む余地はない。
 緊急車両の到着を待ちながら、御雷は考えている。
 何故、今日に限って救急車が出払っているのか。警察が人手不足に陥る状況とは、何か。
 答えに辿り着いて、御雷は笑みを浮かべそうになった。
 四千ものシアン化ナトリウム混入済みのパケだ。売りながら、御雷は客の多さと客層の広さに少しばかり驚いたものだ。まさに老若男女、全てが客だった。中高生と思われる見知らぬ顔の少年や少女もいた。会社員風の男もいれば、教員の匂いのする女もいる。
 これほどまでに、今原市には麻薬が蔓延しているというのか。御雷は絶望的な気分になったが、それらの何分の一かでも使われたとしたら。夥しい数の死者が発生するはずだ。
 この、緊急車両が足りない状況は、俺自身が作りだしたものだったのだ。意図せぬうちに、馬越を殺すための時間を自分で確保していたというわけだ。
 そう考えると救急車の到着時間を睨みながら焦りつつ馬越を殺したことが馬鹿らしくなる。もっと、気の利いた言葉でも掛けてやればよかった。
 菊池と御雷は、玄関先に並んで立ち、無言で救急車の到着を待っている。
 不意に菊池が御雷の腕に自分の腕を絡めてきた。見れば、整った童顔の鼻が赤い。眼も充血している。
「菊池先生…?」
「ごめんなさい。少しだけ、甘えさせてください。」
 御雷は目を閉じた。菊池の心を折るようなことをしたのは、この俺だ。わかってはいたが、実際に落ち込んでいる様を見せられると無下に突き放すことはできなかった。
「ええ。でも、少しだけですよ。」
 立ったまま、御雷は菊池の肩を抱いた。彼女は頭を御雷の肩に預けてきた。艶やかな黒髪からは、甘いシャンプーの香りがした。顔を見られないように俯いているが、泣いているのは明らかだった。
 菊池の肩は、見た目以上に細かった。なのに御雷に触れている身体は熱く、十分な肉感が感じられた。見た目以上に、メリハリのあるプロポーションなのだ。
 どうしようもなく菊池が欲しくなっている自分を、御雷は叱りつける。
 お前は、自分が心を折った女を、どんな顔をして抱くつもりなのだ。それとも、御雷という人間は、これも行きがけの駄賃であると嘯くことができるのか。
 苦しい、と御雷は思った。肉体的な苦痛とは無縁の彼だが、まだ痛みを残しているところがあったらしい。
 この俺が。もう何も新しく手に入れることはすまいと決めていた、この俺が。こんな気持ちになるのか。
 菊池に見えないように、唇に皮肉な笑みを浮かべたとき、サイレンの音が近付いて来るのが聞こえた。
 警官と救急隊員が到着し、必要なのは救命活動ではなく現場検証であることが確認される。
 予想通り、今原署に同行を求められ、発見時の状況について詳細に説明した。発端となった白石の不審死や、そこから急遽家庭訪問をすることになった経緯まで正確に話す。さらに、日頃つるんで悪さをしている連中についても確実な事実に限定しながら情報を提供した。
 二人の聴取は別室で行われた。それぞれの言うことに矛盾がないか検証するためだ。
 御雷については、遺体発見現場の状況や発見時は息があったという馬越について細かく説明を求められた。現場に残されていた様々な痕跡との矛盾点がないことが確かめられると、ようやく解放されることになった。
 雑談めかして刑事が尋ねた。
「息子だけ死ぬのが遅かったのはどうしてだと思います?」
 うーん…と天井を見上げながら考えるフリをする。そもそも、事件に関して警察から何の情報ももらってはいないのだ。それでも、答えてやることにする。
「よく、テレビで見るような注射器がありました。もしそれが原因なら、息子だけ注射をするタイミングが遅かった、とか。今のところ、他の原因は思い付きませんね。」
 何で今日に限って似たような事件ばかり起きるのかな。
 つい、独り言を言ってしまった刑事が、慌てて手を振った。
「今のは聞かなかったことにしてください。」
「本当なんですか。」
 仕方ない、という風に声を潜めて刑事が告げる。
「まあ、明日の新聞には載るんですけどね。同じような死に方をした人がかなり出ています。」
 念を押すように御雷に顔を寄せる。
「まだ捜査中なんで、今日の現場で見たことは他言無用に願います。報道でも詳細は伏せて発表されるはずです。故人の人権にも関わることだし、それに…。」
 真顔で御雷は頷いた。
「死んだのが中学生ですからね…わかっています。ぶっちゃけの話、ぼくらとしても、生徒が薬物に手を染めていたなんていうことは大きな不祥事ですから。ただ、管理職への報告はかまわないでしょうね?ぼくらの義務ですから。もちろん、守秘義務は守ります。」
 それには及ばない、と刑事は言った。もう隠しても仕方がない、と思っている。
「実は、生徒が死んだのは稲美中学校だけではないんですよ。既に、関係校の校長先生たちには署まで来ていただくよう要請済みです。状況の説明と、情報の取り扱いについてのお願いは直接警察が行います。」
 この事件での死者数は、最終的にどこまで膨らむかわからない。
 だからこそ、情報の出し方には細心の注意が必要だと考えているのだ。
 御雷は内心ほくそ笑む。情報が伏せられるのは都合がいい。
 しかし、警察にとっては決定的な判断ミスだ。馬越宅に残されたパケを分析すれば、すぐにシアン化ナトリウムが検出されるだろう。なりふり構わず、危険な薬物が混ぜ込まれた麻薬が出回っていることを周知すれば。
 あるいは被害の拡大を抑えることができるかもしれない。
 もっとも、麻薬自体が危険な薬物なのだが…と御雷は皮肉に考える。
 いずれにせよ、今回のケースでは時間は御雷に味方する。
 早々に毒物が混ぜられた麻薬が出回っていることが知れれば、使うのを躊躇う奴が出るかもしれない。それでは苦労してパケを準備し、大量に売りさばいた甲斐が無いではないか。
 死ぬべき奴は、死ね。
 御雷はそう思っている。
 カラスもそうだった。やがて警察はカラスと事件との関連に気付くだろうが、奴はとっくに墓穴の中だ。
 取り調べ室を出ると、菊池が待っていた。瞼が腫れぼったいが、彼女のことだ。きっと自分の言葉でしっかりと説明したのだろう。
「お待たせしました。帰りましょう。」
 その後は、二人とも無言で廊下を進む。一階のロビーに下りたところで校長の尾内が入口から入ってくるのが見えた。
「ああ、二人ともお疲れ様。」
 そう言う尾内の方が、疲労の色が濃い。先程刑事が言っていたように、状況説明や情報の取り扱い―――要するに口止めが行われるのだろう。被害者が複数校に跨がっているということだから、来た者から順番に説明を受けるのだろう。今原市教育委員会からも教育長あたりが呼ばれているはずだ。
「校長先生こそ、大丈夫ですか。お顔の色が優れませんが。」
 御雷の言葉の中に「しっかりしろ」というメッセージを読み取って、尾内は緊張する。これも―――こんな惨劇すらも学校再生に必要な手順だというのか。
 もう後戻りできないことを、改めて噛みしめる。元はと言えば、自分が文部省に要請したことだ。
 無理に笑顔を作った。
「私は大丈夫です。お二人は疲れたでしょう。今日はもう帰って休んでください。」
「ぼくは、何とか。でも、菊池先生はさすがにショックが大きいみたいで。当たり前ですけど。」
 菊池は俯いたままだ。涙が、一粒だけこぼれた。
 娘のような年齢の菊池が憔悴しているのを見るのは、尾内にとっても辛い。
「菊池先生には辛い思いをさせてしまいましたね…。御雷先生、後をお願いできますか。」
「ええ。ちゃんと学校まで連れて帰ります。後は…田中先生や守矢先生もいますから。」
 たしかに、女性同士の方がいいこともあるだろう。
 納得して歩き去ろうとした尾内を、背後から御雷が呼び止めた。
「校長先生。」
「何でしょう。」
「これからも、よろしくお願いします。」
 何ということはない声と表情ではあったが。
 そこに込められたニュアンスに、尾内は心臓を掴まれたような気分になる。それでも、こう言うのが校長の務めだ。
「こちらこそ。最後までよろしくお願いしますよ、御雷先生。」

      8
 結局、学校に戻る車中で菊池は一言も喋らなかった。
 御雷も、敢えて声を掛けることはしない。
 たった一言喋っただけで、堪えていたものが崩れてしまうことが、人間にはあるものだ。
 菊池が沈黙を以て己の内にあるものに耐えているなら、それを妨げてはならない。
 そう考えている。
 菊池が御雷の存在を心の支えにしていることは、何となくわかる。それも、ある程度は仕方のないことだと諦めている。
 しかし、御雷に依存しきってしまうのは駄目だ。この女を、俺なしでは生きられない人間にしてしまってはならない。
 だから、慰めない。言葉でも、態度でも、もちろん身体でも。
 大切に思えば、却って冷淡とも思える態度になる。
 御雷は、そういう男であった。
 菊池が初めて涙を見せたのは、職員室で田中や守矢の顔を見たときだった。子供のように声を上げて泣き崩れる彼女を、二人が別室に連れて行く。
 放課後の校舎内に生徒の姿はない。
 御雷は校庭で部活動に励む生徒たちを眺めて小さく溜め息をついた。
 教頭には帰校の報告をしたが、馬越宅の状況についてあれこれ尋ねられることはなかった。校長から指示を受けているのだ。他の教員にも白石と馬越が死んだという事実だけは伝えられているようだ。それなりに、気を遣ってくれている雰囲気がある。
 白石の担任は体調を崩して早退したらしい。それも仕方のないことだ。
 御雷も、帰ろうと思っている。校長から許可ももらっている。
 自分が酷く疲れているという実感があった。警察は、やはり苦手だ。御雷自身が法の番人だったのは、遙かな過去の話である。
 だが、菊池を放置するのも躊躇われた。かといって、乱れた感情を吐き出している最中であろう彼女の様子を見に行くのは更に躊躇われた。
 ひょっこりと田中が職員室に戻ってきた。
「菊池先生の様子はどうですか。」
 御雷の声に待ちかねていたような響きを感じて、田中は小さく笑った。この男にしては、珍しい。
「少し、落ち着きました。けど、大分参っているみたい。」
「警察でお昼を出してくれたんですが、殆ど食べられなかったみたいです。」
 ぼくも、半分しか食べられませんでしたが、と付け加える。無論、食べられなかったのではない。食べなかっただけだ。だから、今は苦しいほどの空腹を感じている。
「田中先生。」
「どうしたんですか。改まって。」
「今日は、菊池先生を一人にしない方がいいと思うんです。田中先生の所に泊めてあげられませんか。逆に、あなたが菊池先生の家に泊まってもいい。」
 教頭に視線を送ると、小泉も同意した。
「たしかに…菊池先生は責任感の強い人ですからね。一人で思い詰めてしまうのが心配ではありますね。」
「それは、別にかまいませんけど。私も同じことを思って、御雷先生に頼みに来たんですけど。」
「ぼくに?」
 田中は大きく頷いた。
「こんな時だからこそ、好きな人の側に居て、あれこれ身の回りの世話でもしていれば気が紛れるかと思って。」
 おいおい。ちょっと待て。今夜も俺は忙しい。
「それは、駄目ですよ。」
「何故?いくら御雷先生でも、さすがに今日は菊ちゃんを手込めにしようとはしないでしょう?」
「手込めって…いつの時代ですか。」
 思わず笑ってしまう。少しだけ、身体が軽くなった気がした。
 こんな時だからこそ、敢えて馬鹿馬鹿しいことを言ってみる―――田中には、場を明るくする才能があった。
「まったく、田中先生には敵いませんよ。」
 笑顔を収めて、真っ直ぐに田中の瞳を見据えた。
 黒曜石のような瞳の底に強い光が宿っているのを見て、あの田中が頬を赤らめた。
 何という眼で女を見るのだ、この男は。平和そうな外見に騙されると痛い目に遭わされそうだ。田中は動悸を抑えようと努めながら、そんなことを思った。
「でも、駄目ですよ。菊池先生を泊めるわけにはいきません。まあ、彼女の作る飯を食べられないのは残念ですが…やっぱり駄目です。」
 どうして、と重ねて尋ねた。
「ぼくと居ると、今日のことをどうしても思い出してしまうからですよ。」
 ああ、と田中は理解する。
「彼女には、死体を見せないようにしました。でも、人が死んでいる現場には特有の空気感みたいなものがあるでしょう?菊池先生は、そういうものに割と敏感なようなので。」
 田中は目を丸くする。
「それって…霊感みたいなもの?」
「さあ、どうでしょう。本人が聞いたら怒りそうですが、割と鈍い方ですよね?菊池先生は。」
 この指摘には頷くしかない。良くも悪くも、それが菊池の持ち味だ。
「でも、時々、意外なほどに鋭い指摘をしたりすることはありませんか。一度見たものを驚くほど詳細に記憶していたり。」
「うん…私もそれは経験があります。」
「多分、ですが。菊池先生は『忘れる』ことが苦手なんだと思います。ふだん鈍いのも、敢えて自分自身の感度を下げているように思えてならないんです。嫌な記憶を取り込まずに済むように。」
 それは、あるかもしれない。以前に菊池から身の上話を聞かされたことがある田中には、納得できる話であった。
「だから、今晩はぼくと一緒に過ごさない方がいいんです。できれば気分転換させてあげてください。」
 お願いします、と御雷は頭を下げた。
「それはいいけど…。わかりました。ぐずぐず言うようなら、みっちりと道場でしごいてやりますよ。」
 余計なことを考えられないくらいに肉体を追い込んでやれば、意外に感情や思考の切り替えが上手く行ったりするものだ。
「今原市の体育館でやってますから、暇なときに覗きに来てくださいよ。菊ちゃんもきっと張り切るから。」
 言いたいことを言ってしまうと、田中はさっさと職員室から出て行った。
 稲美中に田中が居てくれてよかった。この時の御雷は心からそう思った。

 翌日の新聞には、一面にでかでかと今原市の名前が出ていた。大量の不審な死を遂げた者が発生している、という内容だ。
 御雷は新聞を取っていないから、出勤途中にコンビニで購入して、そのまま駐車場のスバルの中で広げてみる。深夜のニュースで扱った内容よりは詳しく書いてあった。
 曰く―――今原市を中心に、隣接する郡市で毒物による中毒症状を訴えて救急搬送される者が相次いだ。家族が見付けたときには既に死亡していた者も多く、現在わかっているだけで二十名余りの死亡が確認されている。それぞれの被害者同士に接点は見つかっていないが、死亡現場からいずれも麻薬の包みと注射器が発見されたことから、日常的に薬物を使用していたと見られる。残されていた薬物から、猛毒のシアン化ナトリウムが検出されており、何者かが大量殺人の狙いをもって毒物を混入した麻薬を売ったものと考えられる。警察では麻薬の販売ルートを調べるとともに、テレビ放送で麻薬使用者らを対象に薬物の使用をやめるよう異例の呼びかけを行った。今後、さらに被害者が増える可能性もあるため、予断を許さない状況だといえる。なお、被害者の中には小学生から高校生までの子供も含まれており、県教育委員会は臨時の校長会を開いて、子供達への啓発活動の強化を中心とした対策や、その他の子供達に対する心のケアについて協議を行った…云々。
 そういうことらしい。
 現時点では、保護者説明会を開いたり、臨時集会で生徒に状況を知らせたりすることは難しいだろう。そう思いながら、御雷は出勤する。普段より随分遅い。職員室に入ったのは、もうすぐ職員朝礼が始まろうかという時間であった。
 今日も職員室は慌ただしい雰囲気に満ちていた。欠席者が四人。家庭からの連絡は悲痛なものであった。昨日の白石のケースと全く同じだ。職朝は省かれることになった。
 名を聞かずとも、御雷にはわかる。来ないのは、まず二年生の遠藤秀一。あとは三年生が四人だ。その中には生徒会役員もいれば、常にトップクラスの成績を誇る俊英もいる。
 御雷は事前にビデオカメラの映像で確認しているが、三年団の教員にとっては寝耳に水だろう。慌てふためいて対応しているように見えるが、その実不思議な落ち着きがある。
 三年生の六道と近藤が、死んだ。二年生の片瀬が死んだ。白石と馬越も死んだ。
 まだ死ぬ奴が出てくるのではないか。
 無意識のうちに心の準備ができつつあるのだ、と御雷は分析する。
 それは大事なことだと思うが、「今年に限って生徒がたくさん死ぬのは何故だ」という思考に繋げてもらっては困る。
 西本が執拗に御雷を観察していることにも気が付いてはいた。おそらく、河津組の差し金だろう。奴らを少し混乱させてやらねばならない。
 御雷が自分の席に座ると、菊池の方から声を掛けてきた。
「昨日はありがとうございました。いろんなことを御雷先生に助けてもらったのに、お礼も言えなくて…ごめんなさい。」
 まだ、顔色が優れない。
「気にしないでください。動転して当然ですよ。それより…昨夜はちゃんと眠れましたか。」
 意外なことに菊池は苦笑してみせた。
「昨夜は田中先生にみっちりと鍛えられましたから。何も考えられないほど疲れさせてくれたので、今朝は起きられませんでした。」
 田中がコーヒーカップを持ったまま、ニヤニヤと笑っている。
「その顔…まだモヤモヤしてるな。今日も揉んでやるから覚悟しなよ。」
 菊池が助けを求めるような視線を御雷に向ける…のに対して、笑顔で応えてやった。
「田中先生の言うとおりですよ。自分の中の感情が燃え尽きるまで、身体を追い込むのもいいもんですよ。」
 恨みがましい眼で、菊池が睨む。
「助けてはくれないんですか。」
 御雷は器用に片目を瞑って笑った。
「『今はないものについて考えるときではない。今あるもので、何ができるかを考えるときである。』ですよ。あなたには田中先生がいます。精一杯稽古に励んでください。」
 がっくりと机に突っ伏す様を見て、御雷は少しだけ安心する。
 修羅場を経験して、この女はまた少し強くなった。
 田中を便利に使わせてもらおうと思う。彼女がいてくれれば、菊池は元気でいられるだろう。そして田中が彼女を守ってくれるだろう。
 御雷が稲美中を去った後も。
 仕事を進めるということは、離任の日が近付くということでもある。
 雑な仕事は好まないが、攪乱と御雷にとって都合のよい誤解を生み出すためには、熟考よりも拙速を尊ぶことも致し方ない。
 惨事と混乱の中だからこそ、今が攻め時なのだ。
 
 昨夜のうちに、二年生教室のある教棟――「離れ小島」の一階部分にある嵌め殺しのガラス窓を割っておいた。
 校舎というものは、外に面している窓には軟式野球の打球程度なら簡単に弾き返すことができる強化ガラスを用いているものだ。非常に高い強度を誇る強化ガラスではあるが、一旦傷が付けば、一気に崩壊するという性質を持っている。
 強化ガラスは普通の板ガラスを加熱し、急冷却することで作り出される。ガラス表面には圧縮応力層、ガラス内部には引張り応力層が形成され―――などと説明しても混乱するだけだ。要は、二種類の応力がパンパンに張り詰めた状態を作ることで、外力に対して非常な抵抗力をもたせているとイメージすればいい。もし、張り詰めて均衡を保っている二種類の応力のバランスを崩せばどうなるか?内に張り詰めていた力がガラス自体を砕いてしまう。
 だから、強化ガラスはある程度の深さの傷が付けば、たとえそれが小さなものであっても、ガラス全体が細かな破片となって砕けてしまうのだ。粒状の破片になるため、比較的安全性は高いが、樹脂フィルムなどを幾重にも挟んだ防犯ガラスに比べれば、はるかに割りやすい。
 単に鋭利なもので――点で突いてやればいいのだ。御雷は自動車用品店で売っていた、非常時にサイドウインドウを割るためのグラスブレイカーで、窓を無造作に叩く。粉々になったガラスは室内に落ちる。窓枠に残った破片を丹念に取り除き、室内に滑り込む。
 警備装置は貴重品や生徒の個人情報、あるいは危険物のある場所を中心に設置されている。決して校舎全体をカバーしているわけではない。
 室内に入り込んだ御雷は、掃除用具庫から箒を出して、ガラス片を綺麗に部屋の端に掃き寄せた。ガラスの破片に気付いたワル共が、自分で片付けた、という体裁を取るためだ。さすがにガラスまみれの空間で寛ぐ気にはならないだろう。
 だが、御雷が使った箒には、奴らの指紋が付いていない。チャンバラごっこに使ったとしても、指の向きを調べれば持ち方は判ってしまう。それでも、「指紋がない」よりはましか…。
 少し考えて、二本の箒を奴らがよくダベっている場所に転がした。どこから持って来たのか、擦り切れた体育館用のマットが敷かれている。古い廃棄用のものを持ちだしてきたものか。彼らにとってはソファであり、ベッド代わりにもなる。邪魔になるものは自分たちで勝手にどかしてくれるはずだ。べったりと指紋を付けながら。
 今の季節、窓から入ってくる風は心地よいものだろう。ガラスがなくても「誰がやったのかは知らないが、具合がいい」程度の認識しか持つまい。むしろ、校舎を損傷した犯人を称賛するかもしれない。
 準備を調えると、御雷は窓から外に出た。ガラス面に貼っていた毛糸は失われているため、改めて窓枠に貼り直す。
 下ごしらえは上々だ。料理と違うところは、当日にならないと何を料理するかわからないところだけである。

 いつものように、御雷は授業を始めた。二年五組の英語科である。馬越以外は全員出席している。相変わらず西本の視線は御雷に注がれていた。特に邪魔をするということもない。
 不気味ではあるが、授業は格段にやりやすい。
 御雷は単元のまとめを兼ねて発展的な学習をさせてやろうと考えていた。
 日本人の中学生が、留学生とともにアメリカに住む彼女の祖母に会いにいく、というストーリーを扱ったばかりである。その中で触れられていたアメリカの街の様子や観光地等の生の映像を見せてやる。事前に、映像から引き出すべき情報の項目を挙げたワークシートを配布している。
「それじゃあ、準備ができたら動画を流すからね。メモするのは英語でも日本語でもいいから、気楽にいってみようか。」
 投影スクリーンは各教室備え付けのものだが、そこに映像を映し出す小型のプロジェクターは御雷の私物だ。手にしたタブレット型コンピュータから伸びたケーブルが、ネイビーブルーのジャケットのポケットの中に消えている。
 スクリーンにはタブレットの画面が映し出されている。いくつものアイコンや、動画のサムネイルが並んでいる。
 久しぶりに御雷の授業を見学している菊池は、ほう…と驚きの溜め息を吐く。生徒たちが、御雷の用意した機材に完全に馴染んでいるのを感じたからだ。近くの生徒に尋ねてみる。
「ねえ、御雷先生は、よくああいう機械を使うの?」
「はい、いつもじゃないけど。動画を見せてくれたり、聞き取りの練習をするときにも使います。あと、授業中も成績データを入力していることがありますよ。」
「ああ、私たちが記録簿にいろいろ書くのと同じ事を、コンピュータに直接入れているわけね。」
「そうみたいです。最初は目の前で記録されるのは嫌だったんだけど。御雷先生は基本的にみんなが頑張っているところを記録してくれるから、もう慣れましたけど。」
 記録簿。補助簿。古くは閻魔帳とも呼ばれることもあった。教師にとっては日々の授業や課題について記録し、生徒の評価や指導の改善に生かすための大切な情報の記録媒体だ。
「私が生徒だった頃は、タブレットなんて使う先生はいなかったけれど。」
 まだ若いつもり―――実際若いのだが、それでも時間の流れを感じずにはいられない。
 御雷が最初の動画をタップした。すぐにタブレット全面に動画ウインドウが広がり、坂の多いサンフランシスコの街並みが映し出された。可愛らしいケーブルカーが走る様に、生徒の視線が引き寄せられる。教科書では文章で説明されていたことを、ほぼそのままの映像で見せてやる。
 生徒たちは瞬時に映像に入り込む。それは、菊池も同じだ。
 御雷は、狙撃支援アプリを起動させた。タブレットの画面では、動画の画面に被さるようにウインドウが開いているのだが、プロジェクターには送られない。
 狙撃システムをコントロールするための画面は、御雷にしか見ることができないようになっているわけだ。
 口では動画の中のそれぞれのシーンについて解説を加えながら、指先は狙撃支援ロボットの起動操作を行っている。耳にイヤフォンを挿してはいなかったが、御雷にはK2の声を聞くことができた。
 プロジェクターのスピーカーから出ているのは動画の音声だけではない。同時にK2からの通信もポケット内の携帯電話を通して流されている。ただし、K2の声は常人の可聴域を遥かに超えたところで発せられているため、御雷以外には認識できないのだ。
『狙撃支援ロボット起動。量子リンク良好です。システム異常なし。登載銃器正常。照準システム正常。離脱ルートセッティング完了。防水カバー排除完了。いつでも、撃てます。』
 ウインドウを狙撃モードに切り替えた。味気ない文字情報だけの画面から、カメラを通して見た『離れ小島』の映像に切り替わる。
 動画はチャイナタウンに変わっている。御雷はすいすいとタブレットの画面に触れながら解説を続けている。
 狙撃ウインドウをタブレットの画面全体まで大きくする。窓の奥に、人影が、四つ。スワイプして倍率を上げる。
 一際大柄な影は南方猛だ。熟れすぎた果実のような、白井希美。パシリ担当の田村浩二も、顔を見れば決して嫌々つるんでいるのではないのが判る。もう一人は――。
 御雷の表情が僅かに曇る。解説は淀みなく続けている。動画はフィッシャーマンズワーフに切り替わった。
 四人目の生徒は玉井淳也であった。まだ奴らと切れていなかったのか…と口の中が苦くなるような思いがあった。授業を抜け出しているのだから、そういうことなのだろう。
 御雷は狙撃マーカーを動かして一人一人の頭を狙ってみる。二十二口径弾は、強化ガラスを抜ける際に弾道に大きく影響を受ける。ガラスの割れる音は彼らを慌てさせるだろうし、初弾を外せば御雷が思い描くような仕事にならない。だから、事前にガラスを除いたのだ。
 四人は雑談に興じ、分け合って煙草を吸った。
 やがて、宴が始まった。
 白井が男三人に薬を打ってやる。彼女は西本から直接麻薬を供給してもらっているため、安全だというわけだ。自分にも打つ。
 すぐに薬が全員に効いてくる。
 白井の動きに、御雷はある種投げやりで捨て鉢なものを感じる。その直感は当たっていた。
 男三人が見守る前で、白井はセーラー服を脱ぎ捨て、白い裸体を惜しげもなく見せ付けながら、露骨に誘惑し始めたのである。
 へえ、と御雷は驚きを感じる。解説は続けている。
 目の前に西本がいる。奴は、自分の情婦(いろ)が今まさに他の男と寝ようとしていることを知っているのだろうか。
 自分が五組で授業をしている間に、溜まり場に現れたワル共は全員撃つつもりであった。既に仲間内から死亡者が出ている状況下で、なおも行いを改められない奴は、切除の対象になる。
 すぐに撃つつもりであったが、少しだけ成り行きを見守ることにする。
 ウインドウの中で、我慢しきれなくなった南方が白井をマットに押し倒すのが見えた。前戯もそこそこに男根を白井の股に突っ込む。避妊具は着けていない。激しくのたうち回りながら腰を振り、汗まみれになりながら喘ぐ姿は、浅ましい動物そのものだ。交尾を間近で見ていて興奮したものか、田村と玉井も下半身裸になって、粗末な男性器をおっ立てている。
 白井は全員と寝るつもりなのだろう。
 よりによって、学校でやるなよ。
 皮肉な笑みは、御雷の胸の中に仕舞われる。
 おそらく。原因は西本の心変わりだ。あいつは、この頃菊池にご執心のようだから。
 それで、ヤケになったのか、西本への当てつけかは知らないが、こんな無茶苦茶な行為に及んだというわけだ。
 そこまで西本が菊池に入れ込んでいるなら、なおのこと菊池の守りを固める必要がある…。
 そう思いながら、マーカーを南方の横顔――耳の穴に合わせた。南方が尻を痙攣させ、ダイレクトに白井の中に射精するタイミングに合わせて、タップを二回。柔道で潰れた耳から血を吹き出し、南方の瞬きが止まった。腰は惰性で二、三回動いて止まった。
 乾いた発射音が、遅れて聞こえてきた。二十二ロングライフル弾をライフル銃で撃つなら、五十メートルも離れれば聞こえる発射音は極軽いものになる。
 百キロ近い体重をもろに受け止めて身動きが取れなくなった白井の眼を撃った。
 性器を勃起させて呆然と目の前の殺人に目を奪われている田村の男根の根元を撃った。堪らずしゃがみ込む首筋に数発撃ち込む。
 あっという間に、三人の中学生が人の形をした肉になるのを、玉井は信じがたい思いで見ていた。そして、当たり前のことに気が付いた。
 次は、自分の番だ。震えが全身に走る間も与えられはしなかった。
 玉井…最後まで親不孝だったな。これで、お別れだ。
 微塵の躊躇いもなく、御雷は玉井の顔を二回タップした。
『全員、ほぼ即死ですが、まだ撃ちますか。』
 返事の代わりに、御雷は画面をリズミカルにタップし続けた。
 菊池は異変に気付いた一人だった。
 動画を見ていて、「まるで実際に街を歩いている人間の目線のようだ」と感心していた。
 と、あることに気が付いた。画面に時々黒いノイズが入るのである。黒いコマが一瞬挿入されるような感覚がある。気を付けていないとわからないが、ほぼ一定のリズムで、数秒に一回。
 どこかで見たような。とてもよく知っている現象―――これは、まばたきだ。ということは、この映像は本当に誰かの目が見た光景を記録したものなのか…。
 菊池は、映像がK2の視覚記録であることを知らない。
 小さく混乱しかけたとき、乾いた破裂音が遠くで鳴るのを聞いた。
 銃声だ、と思った。菊池は聞いたことがあった。ただ彼女がかつて聞いたのは、もっと近く―――本当に目の前だったが。
 一瞬、御雷が顔を上げた。が、気のせいだったのかとでもいうように、授業に戻ってしまう。途切れることなく英語と日本語を織り交ぜながら解説やらワークシートのヒントを与えてやったりしている。
 破裂音はしばらくの間続いた。大した音ではないから、初めは気が散っていた生徒もすぐに慣れてしまった。
 御雷はウインドウをぼんやりとした視線を装いながら眺めている。マグチェンジ。
 やがて、異変に気付いたらしい教師の一団がどやどやと溜まり場にやって来た。
 やっと来たか。生徒ばかり撃たれるというのもバランスが悪いからな。
 御雷はマーカーを動かした。
 お前は部活だけじゃなく、少しはまともに仕事をしろ。
 御雷は個人的に嫌いな、その教師の尻に一発撃ち込んだ。飛び上がったかと思えば、そのまま尻餅をついて悲鳴を上げる。
 悲痛な悲鳴は、二年五組まで聞こえてきた。
 御雷は画面から顔を上げた。
「今のは、何でしょう。」
 菊池に問いながら、狙撃支援アプリに狙撃終了の指示を入力する。
『狙撃終了の命令を受諾。銃器及び弾倉を投棄。移動形態に変形して回収地点に向かいます。タブレットから狙撃アプリを消去してください。以上で直接通信を終了します』
 K2の声が作戦終了を告げる。今ごろ、巨大なゲジゲジのような姿から、蛇のような姿に姿を変えた狙撃支援ロボットは、人間が決して通ることができない低木の下や狭い隙間ばかりを選んで、御雷に回収される予定地に向かいつつあるはずだ。
 御雷は、そっと狙撃支援アプリをタブレット上から消去する操作を行った。

      9
 さすがに今度ばかりは騒然となった。
 稲美中学校には何台ものパトカーが駆けつけている。
 現場検証が行われている間、生徒たちは自分たちの教室に留め置かれている。
 管理職は教育委員会への報告や、家庭への配布文書を作成するのに忙しい。
 校内で銃撃による死者が出たのである。銃声を聞いた生徒も多い。中学生ともなれば、物々しい雰囲気から、ただ事ではないことぐらいは悟ってしまう。
 このまま、何事もなかったように帰らせるわけにはいかない。不確定な情報が一人歩きするのも困るし、それ以上に生徒の安全確保について保護者からクレームが付くことを恐れているのだ。
 こういうケースでは、情報の出し方が難しい。校長と今原市教育長は、県教委とも相談の上、無難な対応を取ることに決めた。
 警察とも相談して、出せる範囲で情報を出すことにしたのである。
 詳細は不明ながら、非常事態が発生したことを知らせ、学校の安全が確認されるまでの間、臨時休校とする。捜査の進展も見ながら、保護者説明会を開くこととし、授業の再開や、説明会の開催日については、決まり次第担任から連絡する。家庭においては無用の外出を避け、戸締まり等に注意を払って過ごすよう保護者に協力を依頼する。
 そのような内容が記された文書を、生徒たちが持ち帰ることになっている。
 非常に特殊な事案であると思われること、それでも万一の場合に備えて生徒の安全を最優先にすることなど、教務主任の伊賀が書き上げたのは名文と呼ぶに値する内容と表現力であった。
 物腰の柔らかいベテランの刑事たちが、各クラスで同時に聞き取りを行った。銃撃事件があったことを知らせ――死者が出たことなどはまだ伏せているが――、銃撃があった時間帯の生徒たちの動向や、銃声その他で気付いたことはなかったか…などというようなことが尋ねられる。
 銃声を聞いた者は多かったが、それを銃声だと認識した者はいなかった。当然ながら、教室で授業を受けていた者には鉄壁のアリバイがある。
 それは、教師についても同じだ。
 「全員を疑え」が絶対のセオリーではあるが、生徒の目の前で授業をしている教師に犯行は不可能である。実現するには身体が二つ必要だ。御雷や菊池は、生徒同様通り一遍の聞き取りをされただけで解放された。
 菊池はそのまま保護者への連絡に追われている。生徒を迎えに来るように要請しているのだ。必要なら親の職場へも連絡を入れる。顔色は悪く、唇にも血の気がないが、気丈にも電話をかけ続けている。
 死亡した生徒の担任は、実況見分に呼ばれている。二年生ばかり、一組から四組まで、それぞれのクラスから被害者が出ていた。担任が不在の学級については、学年主任をはじめ、副担任が代わって連絡する。菊池同様電話にかじりついている。一、三年生の担任も同様の動きを始めている。稲美中の電話回線は二本しかないから、自前の携帯電話を使っている者も多い。
 御雷は、二年五組の連絡を半分受け持ってやる。こうショックが続くと、本当に菊池は倒れてしまう。
 自分の行為が菊池を打ちのめしていることは自覚しているが、彼女を気遣う気持ちにも嘘はない。
 矛盾はあっても躊躇いは、ない。
 御雷は、そういう男であった。

 生徒全員を保護者に引き渡し終えたときには、午後七時を回っていた。生徒の聞き取りが終わった後、一旦全員を体育館に集め、改めて校長から現在の状況と臨時休校の間の過ごし方について説明があった。後は、保護者が迎えに来た者から、順に帰って行く。何人かの親は渋々という感じではあったが、それでも全員が帰路に就いた。
 生徒が帰っても、教師は帰れない。少なくとも、多くの教員は事件の詳細を知らされてはいないのだ。
 はっきり言って、銃器を使った犯罪に対して日本の教育現場は無力といっていい。実際には、一人の刃物男を制圧できる程度の訓練ですら、行われている学校の方が少ないのが現実だ。
 今回の事件に対して打てる対策などなきに等しい。それでも情報の共有化は図らねばならない。
 教頭より、被害者―――殺された四人の名前が挙げられる。それぞれの生徒が全身に十発余りの小口径の銃弾を浴びており、おそらくそのうちの一発が致命傷になったであろうこと。
 さらに、南方と白井は性交の真っ最中であり、残る二人も白井と寝る順番待ちをしていたであろう状況証拠があった…さすがに女性教員の前では報告しにくい内容ではある。
 狙撃に用いられたライフルはすぐに発見された。学校からわずか五十メートル。裏山の尾根の上で、三本の弾倉を撃ち尽くした状態で見つかっている。犯人のものらしい足跡はなかった。
 ただ、細く鋭い杭を何本も地面に打ち込んだような痕跡と、重く長いものが引き摺られたような跡が銃器の周りにあった。異様なことだが、犯人が這いずって移動した可能性もある。
 だが、期待はあっさりと裏切られた。引き摺り痕は、すぐに低木の茂みの中に消えていたのである。地面からの空間は二十センチもない。人間が通り抜けられるだけの空間が無いのである。無論、御雷は狙撃支援ロボットを設置後、自分の足跡を消しながら車まで戻っていた。
 結局、大したことはわからぬまま、臨時の職員会はお開きとなった。明日からは休校日だ。教員にとっても精神的なショックは大きい。状況を勘案して、職務専念の義務が免除されることとなった。管理職や教務主任、生徒指導主事あたりはそうもいかない。マスコミへの対応も含めて、職員室に詰めることになる。
 さて、と御雷は考える。
 残るターゲットは西本祐司と石川賢治だけである。休校日の間に姿をくらませる可能性は否定できない。ここまで仲間が殺されれば、明確な意図を持った攻撃を受けていることを自覚するだろう。
 そうなると、狩り出して殺すには少々手間が掛かる。隠れるとすれば、沢田のところだろう。ことによると、本当に河津組を潰す気で取り組まねば、こちらの身が危ないかもしれない。
 休校日の過ごし方について、御雷は考えてみる。有難いことに教員業は休みだ。一刻も早く西本と石川の立ち回り先を押さえたい、という気持ちはある。が、この状況で活発に動けば、周囲に潜んでいるであろう警察の情報網に容易く捉えられるだろう。
 ここは一つ、ゆっくり骨休めをした方が、仕事の仕上がりをよくすることに繋がるのではないか?そんな風に考えることにした。
 一つ心配なのは菊池のことだ。
 西本が彼女に強い関心を寄せているのは、御雷も知るところである。とにかく菊池を見る目が違う。彼女を傷付けようとした仲間をひどく痛めつけたこともある。何より、ほぼ夫婦同然であった白井との関係が、急速に冷めているという噂であった。今日の事件の状況を見れば、それもあながち間違っていないような気がしてくる。白井はどうしてそこまで壊れてしまったのか。
 おそらく。
 嫉妬に狂った白井は、薬の量を増やすことでストレスに対処しようとしたのだろう。だが、それは白井という人間を壊すことにも繋がる愚かな試みであった。最終的に、己の内面が吹き出すのを押さえられなくなってしまった。
 捨て鉢なのは自己評価の低さ。他の男に抱かれようとするのは西本に対する執着の深さの屈折した顕れ。そして、十分に奴に抱いてもらえない欲求不満の表れだ。複数の男を同時に受け入れようと誘惑したのは、己の魅力に不安を感じていることの裏返しだ。
 それらが白井自身を喰い尽くしたのだ。
 御雷が放った銃弾が命を奪う以前から、白井という人間は既に死んでいたのである。
 かつて御雷は「自分はどう生きればいいのかわからないのだ」と語ったことがある。
 田中と菊池に、教諭になることを勧められたときのことだ。
 どう生きればいいのかわからないのは、きっと白井たちも同じだったのだろう。
 だが、断じて同じではない。
 自分で手を下してみて、御雷は殆ど初めて自覚した。
 俺は、どう生きればいいのかわからないのでは、ない。
 どう死ねばいいのかわからないだけなのだ。
 学校再生専門員を続けていれば、やがて命を失うことがあるかもしれない。そう思いながら、二十年が過ぎた。
 今は、どうだ?と自問する。
 終わりの見えない退屈な生を、生き続けたいとは思わない。
 しかし、今は死ねない。少なくとも稲美中での仕事を仕上げるまでは。
 守りたいものがある。
 御雷は、改めて田中に頼んだ。休校中の菊池の身の安全を、である。
 田中は快諾してくれた。
「本当はさ。二人でデートにでも行けって言いたいんだけど。この状況じゃ、そうもいきませんからね。」
 菊池は不満そうだ。また子供扱いされていると感じているのかもしれない。
「そんな顔をしないでください。まだ銃撃犯も捕まっていないし、西本たちも気が立っているはずです。」
 何気ない調子で情報を与えてやる。
「気付いていましたか?西本はあなたのことが好きなんですよ。」
 菊池はぎょっとした。その様子に、田中の方が驚きを隠せない。
「おい、鈍感にも程があるでしょうに。あいつがあんたを見る目は、完全に『女』を見る目なのよね。これはまずいかも、と私も思ってたんだ。」
「だって、私は十歳も年上なんですよ。いくらなんでも、そんな。」
「関係ありませんよ。あいつを、年相応の子供だと考えてはいけないでしょう?」
 たしかに。他の連中とは、違う。一人だけ大人びたような雰囲気を纏ってはいる。そして、西本こそがまだ原石でしかなかった白井に手を付け、あのような女になるよう全身を開発してやった張本人なのである。
 少年でありながら、女体を熟知した指先が己の肌に触れるのを想像して、菊池は身震いした。
 それを見ながら、御雷は己を振り返って苦笑いする。俺が女を知った頃はどうだったか。それを知ったなら、菊池はもう俺を身近には置かないだろう。
「もう、時効ですけどね。」
 思わず呟いた声を、菊池が聞きとがめる。
「え?何ですって?」
 微笑で誤魔化した。
「落ち着いたら、いくらでも遊びに行けますよと言ったんです。」
 話の流れ的に、どこへ行きたいか尋ねないわけにはいかなかった。
「遊園地とかは嫌ですよ。人混みは苦手なんです。」
「そうですねえ…。」
 人差し指を下唇に当てて、しばらく考え込む。
 美術館か博物館ぐらいにしてほしい、と御雷は思った。百歩譲って、大型ショッピングモールでの買い物に付き合うぐらいなら我慢する。
 菊池の顔が輝いた。名案が浮かんだらしい。
「アメリカ。」
「はい?」
 御雷は困惑を声に乗せた。菊池は実に歯切れよく希望を言葉にしてみせた。
「アメリカに行って、御雷先生が通った学校や、住んでいた街を見てみたいです。」
 これは、また、意外な…。やっとのことで、声を絞り出す。
「連れていくのはかまいませんが…しばらくは帰れませんよ。そうなると、もう旅行になりますね。」
「できれば、向こうに住んでみたいぐらいですよ。」
 菊池はいつもと変わらぬ笑顔で言ってのけた。
 考えておきます、と言い残して職員室から出て行く御雷の足取りが、いつになく危うい。試合後のボクサーのようだ、と田中は可笑しくなる。
「効いてる効いてる。菊ちゃん、凄いところにパンチを打ったねぇ。」
「え?何がですか。」
 当人は眼をぱちくりさせている。
「おい、マジか。」
 細い肩を掴んで揺さぶった。声が大きくなる。
「あんたねぇ、『あなたの故郷に行きたい』『しばらく帰れなくてもいい』『むこうに住みたい』って、言われた方はどう受け取るかわかってんの?」
 まだピンときていない。ならば、これでどうだ。
「あんたはね、『あなたの故郷であるアメリカで、あなたと一緒に暮らしたい』って言ったのよ。」
 あ、と菊池は口を押さえた。瞬時に真っ赤になる。これは、女性からのプロポーズだ。
「菊池ィ、見かけによらず大胆だな。ついに押し掛け女房になる覚悟を決めたか。」
 面白がって茶化す田中の方を、不意に真顔で見る。
「もし、御雷先生がいいって言ってくれるなら、それもいいかも。」
 吉本新喜劇ばりにずっこけながら、田中は豪快に笑った。
「あんたも、大物に成長したじゃない。」
 だけど、あの男だけはやめた方がいいかもしれない。あんたとは、相性が悪すぎる。
 恋に落ちた後輩の目をどう覚まさせるか。
 笑顔の下で田中は暗く思考を巡らせていた。
その頃。
 スバルのハンドルを握りながら、御雷は大きなくしゃみをした。やっぱり、風邪だろうか。
 休校日の間は自堕落に過ごす時間も作ろう、と心に決める。
 ちらちらとミラーに目をやるが、尾行は付いていない。
 車窓の風景が田園部に変わってきた頃、一台の自動販売機の前で車を停めた。運転席のドアを開けたまま、御雷はスバルを下りる。自動販売機に近付き、小銭を何枚か投入する。冷たい缶コーヒーを買った。最近少し蒸し暑い日が続いている。
 自動販売機の後から滑り出たものがあった。速い。御雷と入れ違うように、運転席側の道から車内に入り込む。
 金属製の蛇であった。狙撃支援ロボットが現場を離脱するときの形態の一つである。全体が小片状の金属部品と人工筋肉の組み合わせで作られているため、パーツの位置関係を調節することで活動環境に適した形態を取ることができる。今回使用したのは、静的安定度に優れたゲジゲジのような多脚形態と、移動速度及び移動ルートの自由度に優れた蛇のような形態である。他にもいくつか形を変えられるが、御雷自身が苦手としている百足のような形態だけは使ったことがない。
 金属製の蛇は助手席のシート状に腰を落ち着けると、全身のパーツを組み替えて最初のトランク状の形態に戻った。何食わぬ顔で御雷が乗り込み、ドアを閉める。
 そのまま、コンテナ基地へ運び込んだ。今は石上邸と頻繁に往復するのは避けた方がいい、という予感がある。
      *
 毒物混入麻薬―――御雷が売り捌いた薬の被害者が、ついに五十人を超えた。
 河津組組長である沢田は、頭が痛い。
 これまでは、河津組が大量に仕入れる麻薬を使って、多額の活動資金を得てきた。他の組へも薬を融通してやることで、緩やかな協力関係―――実質的に河津組傘下となった小組織も多い。
 事実上、今原市を中心としたかなりの範囲で、麻薬の独占販売を行っているのだ。
 それだけに。
 一度付いた傷は致命的なものになる可能性があった。
 つまり。
 今原市で売られた麻薬に猛毒が混入してあったおかげで多数の死者が出た。実際には一人の売人に扮した御雷の仕業だが、他の組織や薬を買い求めるものはそんなことは知らない。そして、疑心を抱くようになる。
 河津組の扱う麻薬に手を出すと、死ぬかもしれない。一般人には、現物を見ても、それが安全なのか、それとも毒物が混ぜられているか知りようがないのだ。
 結果、取引量はじりじりと下降線を辿っている。右肩下がりの傾向が続くならば、河津組は業態変化を余儀なくされる。
 御雷という男。もし玄が言うとおりの男ならば、よくもこんなことができたものだ、と逆に賛辞を贈りたくなる。といっても、玄の話を丸々信じたわけではないし、次の大きな取引の準備も忙しい。
 河津組の扱う薬に疑義があるのなら、いっそ新しい薬を輸入して、古いパケと交換してやればよい。そうすれば誰も死なずに済むし、組の信用も回復するだろう。
 「損して得取れ」はヤクザの世界でも同じだ、と沢田は考えている。武闘派でありながら、知性は高い。
 そこへ、西本と石川が駆け込んできて、学校で起きた事件について語る。
 沢田は二人がホラを吹いているのかと思った。
 御雷が教室で授業をしている時間帯に、外部からワル共を銃撃した奴がいる。それが現実だとすると、チームで行動しているということか。
「一人だと思うよ、組長。」
 玄が、立っていた。西本と石川が凍り付く。いつ現れたのか。それとも最初からいたことに気付かぬほど、穏形の技に優れているのか。
「それにしても、今回は派手にやったなあ。薬でざっと五十人。撃たれて死んだ奴も含めると稲美中の生徒が十人余り、か。」
 玄はアロハの内側から安い板チョコを出して、バリバリと咀嚼する。沢田は、玄が普通の食事を摂っているのを見たことがない。時折こうやってチョコレートを囓るのが常なのだ。
「なあに、人間の臓器の中で一番エネルギーを食うのは脳味噌だからな。時々は燃料を足してやらんと頭がぼおっとするのよ。」
 ついっ…とサングラスの下の目線が、西本に据えられる。
「小僧、お前の女が殺されたのは知っておるな?」
 自宅の庭先に建てられた専用のプレハブでしばらく待ってから来たが、結局白井は戻っては来なかった。
 被害者の一人だという予感があった。
 玄は、四人の殺害現場の写真を見せてやる。今原署に潜らせてある内通者からの情報である。
 写真を持つ西本の手が、わなわなと震えた。
 自分を裏切った、白井への怒り。
 自分の女を抱いた、南方への怒り。
 自分の女を抱く気満々で待っていた田村と玉井に対する怒り。
 下半身が他の男と繋がったまま死んでいる情婦の姿は、西本にとっては恥辱以外の何者でもない。
 どうにもできなかった、己への怒り。
 そして。玄が言うように、全ての事件が御雷の仕業だとしたら。
 西本は、御雷への怒りを加えないわけにはいかない。
 玄は、微に入り細に入り、近頃の御雷の様子を尋ねる。最後に言った。
「で、例の女―――菊池先生とやらは、どうだ?餌になると思うかね?」
 西本の中での評価は既に固まっている。
「なる、と思います。すくなくとも、賭けてもいいくらいの確率はあると感じました。」
 玄が、眼を細める気配があった。
「ときに小僧、お前は菊池先生のことを好いとっただろう?餌にしてもかまわんのかね。」
 本心は隠し切れなかったか、と驚きはするが、西本の決意は揺るがない。
「それよりも御雷の野郎をぶっ殺すのが先です。」
 そりゃそうだ、と沢田も同意する。
「堅気の女を引っ張り込むのは気が引けるが、もともと堅気を薬漬けにする商売をしているわけだからな。その菊池先生には気の毒だが、協力してもらおう。」
 ちらっと西本の瞳を見る。
「役目が終わったら、菊池先生をお前の新しい情婦(いろ)にするかい?お前にその気があるなら、他の連中に手を出させたりはしないが。」
 こういうちょっとした気配りができるのが、沢田が慕われる理由の一つだ。
「ま、力尽くで自分のものにしようなんて野暮な真似はよしときな。」
 のんびりと玄が言う。
「好きな男が目の前で殺されたら、菊池先生はお前のことを憎むだろう。それを全力で口説き落とせ。あるいは、口説かれたフリをするだけで、お前の寝首を掻こうと狙ってくるかもしれんが…想像してもみろ。己の命を常に狙う女と臥所を共にするなど、これ以上愉しいことは中々無いに違いないわ。」
「玄さんが女の扱いを語るなんて珍しいな。」
「儂にだって血気盛んだった頃はあるさ。」
 サングラスの下で、片目を瞑って笑ってみせる。
「こう見えても、若い頃は結構もてたもんだよ。」
 さて、と玄は声を改めた。
「決まりだな。御雷が女から離れるようなことがあったら、すぐに情報を入れろ。攫うのは、儂がやってやるよ。」
 近所へのお遣いを頼まれるような気軽な口調の中に、怖い響きがあった。

      10
 実に、蒸し暑い夜であった。
 稲美中学校が臨時休校になって二日目である。御雷は、その日一日を本当に自堕落に過ごした。
 好きなほど眠り、適当にインスタント食品で食事を済ませる。だらだらとテレビを見たり、買っただけで開いてもいなかった本を読んでみたりする。合間にK2に連絡を入れて、狙撃を手伝ってくれた礼を言う。いくつか名前の漢字を提案したが、全て却下されてしまった。彼女曰く、「愛が足りない」のだそうだ。確かに、そこまで自分を追い込んで絞り出した案ではない。が、キョウコに当てる字は候補が多すぎる。「次はもっとよい案を出す」と約束させられた。
 夕方になって、そのK2から小包が届いた。差出人はKyoko (02)となっている。
何だ、お前自身もK2をやめたがってるんじゃないか。御雷は可笑しくなる。
 包みを解くと、ダマスカス鋼のナイフが二振り出てきた。大きくて、分厚い。片刃の形状をしているが、グリップまで一体の鋼材で作られている。しかも刃が付けられていない。刃先はそれなりに薄くて鋭く見えるのだが、せいぜいペーパーナイフ程度にしか使えない。
 電話が鳴った。誰かはわかっている。
『荷物が届いた頃だと思うのですが。』
「よくわかったな。見てるのか?」
 ある意味、そうなのだろう。腕時計に備えているセンサーは、体温と同時に心拍数も測定している。変化があれば、何かがあったときだ。
 美しい縞模様が現れた鋼材を眺めながら、御雷は問う。
「ダマスカス鋼にしたんだな。本物かい?」
 高級ナイフに用いられるダマスカス鋼は、異種の金属を積層し鍛造することで、縞模様を表面に浮かび上がらせた鋼材である。正確には、「ダマスカス鋼の見た目を再現したもの」といったほうがいい。
 御雷も詳しく知っているわけではないが…古代インドで製造されたウーツ鋼の別称であることくらいの知識はある。木目状の紋様を特徴とする鋼であるのは「もどき」同様だが、本物の方は鍛造によって模様が形成されるのではなく、るつぼ内での製鋼過程で内部結晶作用が起こることによって特有の紋様ができあがるのだという。
 製法が失われて久しいはずだが。
『再現しました。』
 K2はあっさりと言ってのける。
『今回の用途に、最も適した素材だと判断しました。チタンでは損耗に耐えきれませんし、日本刀では異質な鉄を打ち合わせた構造が、振動の伝達を不安定なものにしてしまいます。』
 なるほど、それでダマスカスか。振動ブレードに適した材質を研究した者など、彼女ぐらいなものだろう。
「試し切りはしてみたのかい?」
 もちろん、とK2は答えた。
『よく切れますよ。とにかく硬いですから、もし研ぐなら超高圧水流か超音波が必要です。』
「お前…日本の漫画を読んでるだろ。」
『アイデアの出所はともかく、切れ味は私が保証します。』
 まあ、出来上がったものが確かなら、御雷にも文句を言う気は無い。だが。
「ところで、一緒に入ってたこれは、何?」
 怪しげな透明の筒に、これまた見るからに怪しい蛍光イエローの液体が詰まっている。太めの油性ペンほどの大きさであった。針こそ無いが、この形状は…。
『注射器(インジェクション)です。』
「だから、何のだよ。」
『この前お話しした【備え】です。これを使えば、あなたは助かります。でも、私のことは嫌いになる。だから…本当に死にそうになったとき以外には使わないで。』
 K2は沈黙してしまう。
 仕方なく、寝室の隠し物入れに仕舞っておくことにする。
 何だかよくわからないが、K2がわざわざ送りつけてくるくらいだから、きっと役に立つ。そして、相当にやばいものだ。
 石上邸の静けさが恋しくなった。が、しばらくは向こうへは行けまい。
 疲れると、無性に甘いものが食べたくなることがある。脳が糖分を欲しているのかもしれない。おまけに、今夜はやけに蒸し暑い。
 エアコンを入れたが、口寂しさは去ってくれない。
 冷たいものが欲しい、と思った。が、冷蔵庫には冷凍食品の類いしか入っていない。
 一旦欲しいと思ったら歯止めが利かない。これも自堕落な一日を過ごした影響かもしれない。
 御雷は、どうしてもアイスクリームを食いたくなった。
 砕いたアーモンド入りのチョコレートでコーティングした棒付きのバニラアイスを思い浮かべると、堪らなくなる。
 外出するのは億劫だが仕方がない。
 ジャージにスニーカーという軽装で、一番近くのコンビニまでスバルを走らせた。といっても、一旦街道まで出なくてはならない。
 着いてみれば、店の駐車場は満車であった。
 今夜の俺は、ついてない。
 御雷は低く唸った。別の店にするか…一瞬迷ったが、隣に市営体育館があるのを思い出し、その駐車場に車を突っ込んだ。
 体育館には灯りが点き、バレーボールをやっているとおぼしき声が聞こえる。二階の武道場にも明かりが点いている。
 本来ならば、体育館の利用者のみが駐車場を利用することができる。特に罰則があるわけでもないが、そのような注意書きの看板が立てられている。
「すぐ出るからさ。勘弁してくれよ。」
 誰にともなく謝って、車を降りる。
 アイスを買い込み、ついでだからとスポーツドリンクの二リットル入りペットボトルも二本購入する。発汗機能を失っている御雷にとっては、適度に身体を内側から冷やす必要がある。
 何しろ、蒸し暑い。
 車のところに戻ると、体育館の正面玄関から、道着姿の子供達が出てくるところだった。
 御雷は納得する。コンビニの客層を思い出したのだ。彼らは、稽古上がりの子供達のために、飲み物や甘いものを買っていたのか―――親というのも有難いものだ。
「せんせー、さようならー。」
 可愛らしい声で二階の窓に手を振る小学生たちを、微笑ましい思いで眺める。
「おう、風呂に入って早く寝ろよー。」
 ぎくりとした。この声は。
 こそこそと車に乗り込もうとした御雷を呼び止める別の声があった。
「あれ?御雷先生じゃないですか。」
 菊池…。今夜も絞られてるのか。
「あ、本当だ。御雷先生、差し入れに来てくれたんですか。」
 田中…そういえば、今原市の体育館で空手教室をやってると言っていたな。今日が、それか。
 御雷は仕方なく二階の窓を見上げた。二人と目が合う。
 目敏くレジ袋越しにアイスのパッケージを見付けて、女たちの顔が輝く。
 御雷は笑うしかない。
 今夜の俺は、ついてない。

 結局、六本入りのアイスは三人で二本ずつ食った。御雷もそれなりに満足する。
 二階の道場で飲み食いするのは、原則として禁止されている。が、空手教室の指導者で、武道場を借りている田中自ら「暑いときはアイスに限るわ」とかいいながら食っているのだからどうしようもない。
 これから、一般の教室終了後に菊池と二人で行う護身術の稽古が始まるところである。御雷は差し入れ―――本人にそんな気はなかったのだけれど――だけ預けたら退散するつもりだった。それを強引に引き留めたのは田中だ。耳元で「落ち込んでいる菊ちゃんを励ますと思って協力して」と囁かれては、断れない。その田中は、電話する約束を忘れていたとかで、一時的に席を外している。
 菊池は、既に汗だくになっていた。小学生に混じって練習メニューをこなすのも、楽なことではない。練習強度自体は成人用に上げられているし、菊池以外にも成人の受講者がいるから手を抜くことも許されない。
 性格的に、たとえ誰も見ていない自主トレでも、菊池は手抜きをしないのだろう。
 御雷はそう思っている。
 ごめんごめんと謝りながら田中が戻って来た。
 板の間に胡座をかいて座り、女たちの稽古を見学することになった。もぐもぐと口を動かしているのは、買い足してきた菓子パンを食っているからだ。
 田中と菊池が向かい合って立つ。あれこれ個別の技を教えるのではなく、実戦形式の中で、流れで技を出せるようにする稽古だ。
 菊池も基本の部分は習得しているということだ。
 田中が動いた。御雷は少し驚く。
 ノーモーションからの突き。一撃で倒すほどの威力は無いが、速い。
 それを、菊池は躱した。髪の毛が大きく揺れたのは、田中の拳が顔面を狙ったものだったからだ。
 顔を殴りにいく方もどうかしてるが、あれを躱すのも尋常ではない。御雷は内心呆れている。
 田中の突きは、見せかけだ。躱して体勢を乱した菊池の襟をしっかりと掴む。そのまま右手一本で背負い投げに行く。軽い菊池の身体が弧を描き、板の間に叩きつけられた。受け身は取れているが、これは痛い。
 菊池が「田中の個人教授場はとにかく痛い」と言っていたのを思い出す。他の連中が辞めていったのも当然だ。
 たしかに、空手教室ではないな、これは。
 菊池は、襟を掴んでいる田中の腕に両脚を絡めて、肘の関節を極めようとする。
 そうだ。転がすだけの投げで人を殺すことはできない。生きている限り反撃の糸口を探せ。
 御雷は自分の思考が既に護身の技から離れつつあることに気が付かない。
 田中は肘を捻って逃れ、逆に菊池の顔を踏みにいった。手加減しているとはいえ、えげつない。菊池は踏み足を避ける動作から足首を取る動作に繋げ、アキレス腱をねじ切ろうとする。
 しばらくの間、二人の女は互いの関節を取ろうと、板の間で組んず解れつの攻防を繰り広げた。
 へえ。大したもんだ。
 菊池の健闘に、御雷は驚きを禁じ得ない。田中がかなり手加減してやっているとはいえ、稽古の内容自体は古流―――比良坂の稽古そのものである。
 その家に生まれ、幼少期から鍛えられたのならともかく、成人してからここまで遣えるようになる人間は多くない。
 指導者がいいのか。菊池の「努力する才能」の賜物なのか。
「多分、その両方だな。」
 独りごちる。
 やがて、二人の動きが止まった。菊池は大汗をかいているが、息を切らしてはいない。なるほど、たしかに田中の言うとおりだ。
 当の田中は、多少汗ばんでいる程度で、表情は涼しげだ。こいつも、化け物級ということか。
「さて、ここからは役割を決めて、状況練習になるんだけど。今日は『約束練習』はやめて、本物の暴漢に襲ってもらおうよ。」
 約束練習とは段取り――決まった筋書きの通りに技をかける練習である。対戦型のスポーツでは、当たり前のように行われる練習方法だ。武道であれば、約束組み手と言った方が通りがいいかもしれない。
 菊池は戸惑っている。
「本物の暴漢って。」
 田中の笑みが深くなる。
「うってつけの人がいるじゃない。身長一メートル七十五センチ。体重は?」
「大体百キロです。」
 そう答えてから、御雷は尋ね返した。
「ぼくが、暴漢役をするんですか。」
「そうよ。適任でしょ。」
 田中は当然とばかりに答えた。菊ちゃんを守るためなら協力してくれるでしょう?
 要するに、菊池にやられればいいんだろう?まあ、それぐらいなら…。
 不承不承引き受けることにする。
「じゃ、これに着替えて。」
 田中が放った道着を受け止める。御雷にも着られるサイズだ。
「まるで、ぼくが道場に来るのを予想してたみたいですねえ。でも、黒帯が付いてますよ。」
 いいからいいから、と男子更衣室に追いやってしまう。
 数分後。
 更衣室から出てきた御雷は、道着が意外なほど似合っていた。が、当人は不満そうだ。
「ズボンっていうんですか、下が随分短いですね。」
 田中は頭を掻いた。
「確かに。というか、御雷先生ってぱっと見より脚が長いんですね。」
 肉付きは誤魔化せても、眼や、手足の長さまでは隠し切れない。
 といって、素顔と本来の体型を見せるわけにもいかない。不格好なのにもすっかり慣れてしまった。
「で、ぼくはどうすればいいんです?菊池先生と殴り合えって言うんじゃないでしょうね。」
「襲って。」
「へ?」
 思わずおかしな声になってしまう。
「だから、菊ちゃんを襲って。」
「いや、その。襲うっていっても色々あるでしょう?命を奪うのが目的で襲うのと、強盗目的とでは、襲い方も違う。」
 そうねえ…と田中は少し考える。
「せっかくだから、菊ちゃんが一番苦手なやつにしましょうか。」
 菊池の汗の量が増えたような気がした。
「それって、もしかして。」
「そ。菊ちゃんの身体目当てで御雷先生が襲ってくるの。」
 御雷は露骨に顔をしかめた。
「嫌ですよ。強姦の真似事をするなんて。」
 数知れぬ程に女を抱いたが、暴力や脅しで身体を開かせたことはない。これからも、それはしないと決めている。ましてや、菊池の過去を知っているのである。彼女の忌まわしい記憶に触れる気にはなれなかった。
「じゃあ、痴漢なら?」
「具体的には、どんな?」
「えーと…シンプルに、後から抱きついて、菊ちゃんの胸を触る。」
 悪くない。御雷は素早く思考を巡らせ、思い付く。ここで悪のりすれば、菊池が俺のことを嫌うように仕向けることができるかもしれない。ごく自然に、ロクでもない人間だということを知らせてやればいいのだ。
「わかりました。じゃあ、どの程度手加減すればいいですか。」
 わざと、そう言った。
 田中の眼が険しくなる。菊池も不満そうに唇をへの字に曲げている。
「本気でやってくれないと。」
「それでは意味がありません。」
 抗議は二人同時だった。御雷は苦笑する。
「それじゃあ、菊池先生。ぼくは本気であなたの胸を触りに行っていいんですね?」
「どうぞ。」
 つんとした声で菊池が応える。
「道着の上から触るだけでは済ませませんよ。」
 菊池が笑顔を見せた。こいつ…こんな笑い方もできるのか。
 初めて見せた、凶暴な笑みだった。美貌だけに、怖い。
「直に触られても怒りませんよ。できるならば、の話ですけど。」
 面白い。
「後悔しても、知りませんよ。」
 御雷は田中を見る。
「本気でやっていいんですね?」
「いいわよ。好きなだけ揉んじゃっていいから。」
 苦笑しながら菊池の背後に立つ。
「どう攻めればいいですか。」
 間抜けな質問だと自分でも思う。しかし、合図して攻めれば稽古にならない。不意打ちに備えて身構えている状態からの反撃が、菊池に与えられた課題だ。
 田中の答えは明快だ。
「はじめ、の合図を掛けるから。その後は御雷先生の好きなタイミングで襲いかかって。ただし、打撃で気絶させるとか、絞め技で落としてから触るのは禁止。」
「後から殴ったり絞めたりなんてしませんよ。」
 御雷の苦笑が深くなる。あくまで、稽古だ。田中が頷いた。
「では、はじめ。」
 空気が、ぴりっと電気を帯びるような気配があった。
 御雷はまた少し驚く。
 気配の源は―――菊池だ。田中に視線を送ると、ウインクを返してきた。
 なるほど。菊池が自らの周囲に張り巡らせた警戒網が、気配として感じられるのだ。この中で動けば、背後からの襲撃であろうと察知されるだろう…と思う。
 当人にその認識があるのかはわからないが、これは「勘」などという生易しいものではない。
 手を伸ばせば届くところに、小柄な背中がある。緊張はしているが、力みはない。よく鍛えられている、と思った。
 御雷は、動けない。
 面白い。
 再び、御雷は思った。唇の両端が、僅かに上がる。
 田中は驚いた。
 御雷が消えた―――ように思えたのである。無論、姿は見えている。ただ、その気配が唐突に消えたので、脳が視覚情報に疑問を覚えただけのことだ。
 無造作に御雷が出た。ノーモーションの動き。足音はしない。
 瞬時に菊池に密着しそうなところまで接近する。御雷は押さえていた気配を、すべて解放した。
 菊池は、戸惑っていた。
 御雷の居場所が掴めない。気配がない。足音も聞こえない。息遣いも…ない。
 田中を相手にしてすら、全く掴めないということはないのに。
 戸惑いが頂点に達したとき、すぐ背後に巨大な気配を感じた。凄まじいばかりの、殺気だ。
 いつの間に。
 反射的に振り返った視線の先に御雷はいない。
「こっちですよ。」
 御雷の声は背後からした。回り込まれたのだ。気配は、囮だ。
 強い力で抱きすくめられる。
 蛇のような素早さで右手が道着の襟を割った。そのままTシャツの首元から中へ滑り込む。
 ちょっと、待って。
 そう言わせてはもらえなかった。
 長くてしなやかな指が、汗で湿ったスポーツブラの縁を器用に越えて侵入してくる。汗ばんだ乳房を御雷の手が這い、指先が乳首を捉えた。人差し指と中指で器用に挟み込む。
 菊池の全身を軽い痙攣が走った。その首筋に、御雷は舌を這わせた。若い女の汗の匂いと塩っぱさに、どうしようもなく性欲が疼くのを感じた。
 全ては田中の死角で行われていることである。
 菊池は一瞬意識が遠のくような、身体の芯が疼くような感覚に襲われる。が、彼女はそこで終わらなかった。
 懐に入っている御雷の手首を道着の上から掴み、関節を極める。同時に彼の脚に自分の脚を絡めながら、強く後に跳んだ。
 二人分の体重を乗せて後頭部を強打するわけにはいかない。御雷は菊池を抱きすくめていた左手を解いた。
 その瞬間を、菊池は待っていた。後に倒れようとする動きはフェイクである。誰しも倒れまいと無意識に抵抗する。
 胸を触らせたまま、御雷の手首は離さない。強烈な肘打ちを彼の鳩尾に入れた。常人なら胃が裂けるほどの威力に、さしもの御雷も肺から息を絞り出す。力が、緩んだ。
 菊池は無造作に投げた。手首の関節を極められているから、御雷には抵抗の仕様が無い。板の間で背中を強打する。
 菊池は御雷の右腕を絞り上げた。両脚を絡め、瞬時に手首に加え肘の関節まで極めてしまう。
 みしり、と右腕が軋んだ。
 痛みは感じないが、堪えていれば折れる。
「痛い痛い痛い!」
 御雷は叫んだ。
「参りました。勘弁してください。」
 少しだけ、菊池は力を緩める。
「この右手…。」
 珍しく無表情だ。
「随分慣れてるみたいですけど。」
 御雷は照れたように笑った。
「いやあ、鷲掴みにすると痛いかと思って。」
 乳首を挟んだときのように手をわさわさと動かしてみせる。
「褒めてません。」
 菊池は渾身の力を込めた。
「痛いってば!何をそんなに怒っているんですか。」
 また、少しだけ緩める。
「別に、怒ってません。ただ、他にもたくさん女の人を触った手で触れられたのが不愉快なだけです。」
 セリフが完全な棒読みだ。あの一瞬で、女性に対する経験の豊富さを読み取られた―――のも、当然か。
 つい、苦笑いしてしまう。
「何が可笑しいんですか。」
 菊池が全力で絞り上げる。御雷は悲鳴を上げた。
「本当に折れますって。田中先生、止めてくださいよ。」
 そこまで、と言った田中の声は明らかに呆れている。
 やっと解放された御雷は、大の字になってうーんと唸った。菊池は赤い顔をして道着の乱れを直している。これで、少しは嫌ってもらえるだろう…か。
「菊ちゃんをあんなに怒らせるなんて…御雷先生も、こう言っちゃなんですけど、馬鹿ですねえ。」
「油断してました。暴力女は田中先生だけだと思っていたんですが。」
 田中は怒らない。
「否定はしませんけどね。で、どうです?菊ちゃんの技は。」
 御雷は身体を起こした。
「どうもこうもありませんよ。ここまで手酷くやられるとはね。でも、あの肘打ちは気を付けないと。ちょっと強力すぎます。」
 まだ顔を背けている菊池に声を掛ける。
「菊池先生、肘を痛めたんじゃないですか?冷やした方がいいですよ。」
 田中が菊池の胴着の袖を捲ってみると、右肘が赤く腫れている。事務所で氷を分けてもらって、氷嚢で冷やしてやる。
 御雷の身体を殴るということは、そういうことである。菊池に無用の怪我をさせないために、御雷自身が致命的なダメージを受けない程度に衝撃を受け止めてはやった。それでも、この始末だ。
 今になって痛くなってきたのか、菊池は顔をしかめている。打った瞬間の、堅い板のような感触を思い出していた。
「菊池先生の長所は、反応速度の速さですね。田中先生の突きを避けるなんて、誰にでもできることじゃありませんよ。それに、何ですか。あの―――。」
「ぴりぴり来るやつ、でしょ?」
 達人同士が対峙するとき、そういうものを感じることはある。だが、菊池はそういう者ではない。
「よくわかんないけど、厄介よねえ。」
 私たちにとっては、という言外の響きがある。
「全くです。特技といっていいでしょうね。」
 菊池の場合、そういう方向にテレパスとしての力が集約されているのか、とも思う。
 どちらにしても、そろそろ潮時だ。
「それじゃあ、ぼくはそろそろ帰ります。菊池先生も怒らせちゃったし。」
 直に触っても怒らないって言ったのに、とぼやいてみせる。
「あれは…御雷先生の触り方がいやらしかったからです。…別に、触られたことを怒ってるわけじゃないし。」
 口を尖らせる菊池の顔が赤い。
 可愛いな、と思った。同時に激しく狼狽する。
 菊池の怒りの原因が、彼女の知らぬ他の女たちへの嫉妬だとわかったから。触れられたことに対してはむしろ恥じらいを伴いながらも受け入れていることが伝わってきたから。
 俺は、またしても悪手を選んでしまったのではないか。火に油を注いでしまったのではないか。
 それもこれも、元はといえば…。
 原因になった女が、腰に手を当てて微笑んでいた。
「まだ、帰しませんよ。というより、本題はここからなんです。」
 田中は不敵に笑った。
「この前の、私のお願いをきいてくれるって話、覚えていますか。」
「ええ。ぼくにできることなら、と言いました。ただし、受けるかどうかはぼくが決める約束です。」
 それでいい、と田中は言った。
「私の願いは、ただ一つ。御雷先生と手合わせをお願いしたいんです。」
 やっぱりか。そんな面倒なことは御免だ。
 断ることは最初から決めていた。
「あの、婿探しの件ならお断りしましたよ。ぼくでは相手にならないと。」
 田中の薄い唇が動いた。
「…学校再生専門員。」
 御雷の頬が一瞬痙攣するのを菊池は見た。

      11
 田中の願い―――彼女が御雷に試合を申し込むことは、菊池にも容易に想像が付いていた。それを御雷が受けないだろうということも。
 だが…何だか様子が変だ。
「その顔…図星だったみたいですね。」
 田中は笑っている。御雷は笑わなかった。
「…カマを掛けましたね。田中先生。」
「ええ。確信はありましたけど、念のためにね。」
 ごりっ。
 御雷の肉の底で殺気が凝る。
 こいつが、文部省の監視者だというのか。
 そう考えれば納得できる点は多い。昨年度から引き続き稲美中に勤務し、御雷との接点も多い。馬越を潰した現場にも、こいつは居た。おまけに、武道にも通じ、眼がいい。見られれば情報が筒抜けになると思って間違いない。
 何より―――あの比良坂の、娘だ。
 殺さなくては。
 今なら、殺せる。
 視界の端に、正座して見守る菊池の姿が見えた。
「どうします?御雷先生。」
 御雷は答えない。いつもは福々しい笑みを浮かべている口元が、今は力が入って白っぽくなっている。
「私はね、自分の力がどれ程のものか試したいだけなんですよ。」
「それで、ぼくの秘密をネタに勝負を強要するんですね。」
 御雷は腹を立てていた。この、美しく、身勝手な女に対して。
「それがどれほど危険なことか、あなたにはわかっているんですか。」
 自分を抑えられなくなっていた。やはり、今回の仕事はイレギュラーだらけだ…と頭の隅で思った。
 ぎりっ。
 奥歯が軋むほどに力が入る。絞り出した声は酷く苦かった。
「あなただけじゃない。秘密を知れば…ぼくは、菊池先生まで殺さねばならなくなる。」
 思わず腰を浮かしかけた菊池を、田中が制した。
「菊ちゃんは黙ってて。いろいろ聞きたいことはあるだろうけど。今は、こいつがとんでもなく危険な奴だってことをわかってくれればいいから。」
 御雷から目線を切らず、距離も詰めない。
「ぼくが、菊池先生の方を先に殺すとは考えないんですか。ぼくにとってはあなたより、むしろ彼女の方が厄介だ。」
 田中の口元に、淡い笑みが浮かんでいた。半眼になった切れ長の眼が、仏像を思わせた。
「あんたが菊ちゃんを真っ先に殺すとは思わない。殺すなら、一番最後。稲美中での仕事が完了してからのはず。だって―――。」
 悪魔のような笑みだ、と思った。
「あんたは菊ちゃんに惚れてるんでしょ。」
 御雷は舌打ちした。
「口数が多いひとだな。他人のことをペラペラと、よく喋る。」
 田中は肩を竦めた。小さく笑う。
「性分なものでね。ともかく、これまであんたは菊ちゃんを何だかんだいって守ってきた。常に危険から遠ざけるように気を配ってきた。それは、あんたが義務感だけで行動しているわけではないからよ。」
 菊池に視線で同意を求める。彼女は黙って頷いた。
「私もね、あんたと菊ちゃんがくっついても、まあいいかと思ってたのよ。」
 芝居がかった仕草で天を仰ぐ。御雷に戻した視線の底に、危険な光がある。
「だけど、馬越を殺したのは不味かったわね。」
 御雷の表情は動かない。
「何を言っているのかさっぱりわかりませんね、田中先生。」
 ふん、と鼻で笑われる。
「初め――馬越が手と脚を怪我したのは、あんたが誘ったのよね。」
 否定しても仕方がない。小さく溜め息を吐く。
「ええ。自滅するように、ぼくが誘いました。」
「あれは見事だったわ。見ていて胸がすっとしたもの。『これが、学校再生専門員の手際か』と感心した。」
 非難されるならともかく、褒められると居心地が悪い。
「学校再生専門員って、何ですか。」
 御雷は目を瞑った。彼女の疑問に田中は答えてやるだろう。
「荒れた学校から、荒れの原因を取り除く専門職のこと。文部省から直接派遣される特殊な技能を備えたスペシャリスト集団…と聞いてるわ。」
「荒れの原因、って。」
 ねえ、菊ちゃん。と田中は思考を促した。
「もう、何人死んでる?」
 殆ど一瞬で、菊池の顔から血の気が引く。理解したのだ。
「思い出して。馬越の家に、何故御雷先生が付いて行ったのか?馬越を殺すチャンスはなかった?ずっと菊ちゃんから見えるところにいたの?」
 菊池の身体が小刻みに震えていた。思い当たる節なら、いくらでもあった。
「ここしばらくの間に、今原市では不審死が相次いでる。馬越や白石みたいな死に方をした奴だけで、四十とも五十とも。おまけに、うちの学校では銃撃事件まで起きた。おかげで学校は随分平和になったけれど。」
「なるほど、と言いたいところだけど、すべて仮説ですね。現に、ぼくが授業をしている最中に銃撃事件が起きた。どう説明するんです?」
 言葉に詰まるかと思いきや、田中は満面の笑みを浮かべた。
「正直言って、まるでわからない。でも、聞いたことがあるの。はじめてあんたの名前を聞いて、姿を見たときには『まさか』って思ったんだけど。」
 笑みの質が変わる。凄絶な―――これは、殺気だ。
「父が、言っていた。『学校再生専門員の中に御雷武という男が居る。素手でも滅法強い上に、銃器の扱いが巧みなんだ』ってね。もう、十五年も前の話だけど――」
 やはり、聞いていたか。退職後も守秘義務ってのは残るんだぜ、比良坂よ。
「私の父も、学校再生専門員だった。そして―――やっぱり人殺しだったのよ。」
 言ってしまってから、田中はふと笑った。
「あんたからも、血の匂いがする。」
「あなたの目的は何ですか。父親の復讐、ですか。」
 違う違う、と手を振って笑う。
「父が十五年前あんたに負けたのは、弱かったからよ。だから、右眼を潰された上に丸三日間生死の境を彷徨うことになった。危うく、私たち家族は路頭に迷うところだったわ。」
 そもそも、学校再生専門員同士が争うことなど起こりえない。それぞれが別の学校へ派遣され、互いに干渉し合うことはない。それが、御雷と比良坂の場合は、赴任先がたまたま隣接する学校だったのが間違いの始まりだった。ワルの繋がりは校区を跨いで多校に渡る。勢い二人は顔を合わせることが多くなった。それまでにも、文部省の研修等で偶に顔を合わせることはあった。
 だが。御雷の技を実際に見て、比良坂は驚いた。あまりにも自分たちの伝える業との共通点が多い。業の源流を探り、先祖たちが何を思って業を練り上げ伝えてきたのか。それを知りたい。切に願う者にとって、同類との出会いはまたとないチャンスであった。
 相手を喰らう。つまり、闘って倒す。それを繰り返していけば、各地に散らばった業は集約され、最後に残った者が、先祖が夢見た境地に至れるだろうという予感があった。
 比良坂は学校再生専門員の道を踏み外した。
 こともあろうに、仕事が継続中のある日、御雷に強引に試合を申し込んだのである。いわば決闘だ。
 結果、右眼をえぐり取られ、両腕は無残に折られ、脳に深刻なダメージを受けた。さらに胸郭は馬に蹴飛ばされたかのごとく拳大に陥没していた。命を取り留めるまでに三日かかり、そして比良坂は学校再生専門員ではなくなった。
「親父が負けたのは自業自得みたいなものなの。私はね、全盛期の父より強い。御雷にだって勝ってみせる。だから、あんたには、私も菊ちゃんも、殺すことはできないわ。」
 そういうことか。ここで俺を倒せば、二人が命を落とすことはない。しかし…。
「ぼくを、ここで殺そうというんですか。」
「そこまでやるつもりはないけれど。本気でやらなければ死ぬかもしれませんよ。」
 田中は頭を振った。眼は笑っていない。
「私は、怒っているんです。御雷先生は、菊ちゃんを騙している。優しく支える振りをしながら、その実、菊ちゃんの心を折るような事件を起こしているのは、他ならぬあんただ。」
 御雷は菊池の視線を強く感じた。お前が今どんな顔をしているのか、俺にはわかる。だから、お前の顔を見ることができない。―――俺は、弱い人間なんだよ。
 唇に皮肉な笑みを浮かべるのに、少しばかり苦労する。
「それで、可愛い後輩を守るために、ぼくを叩きのめそうというんですね。」
 一応、頼んでみる。
「もうすぐ、ぼくの仕事も終わります。そうなったら、ぼくは稲美中からいなくなる。あと少しの間だけ、見逃してもらうわけにはいきませんか。」
 田中の返事には感情がなかった。
「それは、駄目。このままあんたが居なくなったら、菊ちゃんの中にはずっとあんたへの想いが残ってしまうから。」
 声が変わる。
「だから、この場で御雷武がどんな男かしっかりと見てもらう。そうすれば、菊ちゃんだって目を覚ますわ。」
 つまり。殺人者を忌避する菊池の深層意識に訴えることで恋心を冷まし、御雷に対する嫌悪感を植え付けようというのである。
 田中にとって意外だったのは、御雷の口元に一瞬寂しげな笑みが浮かんだことだった。
「そういうことなら、受けましょう。場所を、移します。」
 先に立って、畳敷きの部屋――柔道場へ歩き出す。
 その背中に、菊池が声を掛けた。
「本当、なんですか。みんな、御雷先生が殺したんですか。」
 御雷は答えない。学校再生専門員にも守秘義務がある。少なくとも自分の口から喋るわけにはいかない。
「ちゃんと答えて!」
 叫び声が、胸に痛い。振り向いた御雷の唇に、淡い笑みが浮かんでいた。
「ぼくのことを『嘘つきだ』と言ったのは、菊池先生、あなたですよ。」
 歌うように続ける眼差しに、夢見るような趣があった。
「最初に言ったはずです。ぼくは、あなたには相応しくない人間だ、と。」
 再び歩き出す。背中で言った。
「あなた自身の眼で、そのことを確かめなさい。」
 御雷は菊池の視線の外で唇を噛みしめている。
 これでいい。お前は、俺を嫌いになれ。

 柔道場は静まりかえっていた。今日は夜稽古もない。
 御雷はすたすたと部屋の中央に進む。
「何故、柔道場なの。」
「野試合―――野外での闘いに近いのは、板の間より畳の上だからです。」
 三メートルほどの距離を置いて、対峙する。
「一つ確認させてください。これは『殺し合い』なんですか。」
「違うって言ったわよね。だから勝敗のルールを決めましょう。」
 御雷は頷いた。
「ぼくの身体には、時間制限があります。何しろ汗をかけないもので。どう頑張っても十五分が精一杯です。それ以上やると、本当に死んでしまいます。」
「ふうん。じゃあ、時間を長引かせればあんたを殺せるわけだ。」
 怖いことをさらりと言ってのける。
「そういうことです。銃も刃物も要らない。ただぼくが自滅するのを待てばいいだけです。それも勝ちでしょうが…。」
 田中が唇の左端を持ち上げる。
「当然、私はそんな勝ち方はしない。あんたを叩きのめして勝つ。」
 ゴム紐でさほど長くもない髪の毛をまとめながら続けた。
「制限時間は十五分。十五分経って、立っていられた方が勝ち。」
「いいですね、シンプルで。親父さんの時と同じだ。」
 要するに、目潰しや急所への攻撃等、何でもありということだ。
「殺し合いではないけれど、気を抜いてると事故が起こるかもしれないわね。」
 田中の瞳の底に閃く光を見て、御雷は苦笑する。たしかに、道場で人が死んでも事故で片付けることは容易いだろう。今日でなくても、いずれ御雷を道場に引っ張り込むつもりだったのだ。
 油断のならない女だ。
「せっかくだから、勝った方には賞品を用意しましょうか。」
 御雷は少しだけ面食らう。
「賞品、ですか。」
「そう。殺し合いじゃないんだから、何か励みが欲しいじゃないですか。私は、欲張りなんですよ。」
「ぼくと闘(や)るだけじゃ不満なんですか。」
 田中はポンと手を叩く。わざとらしい…。
「それ、いただき。もし御雷先生が勝ったら、ヤってください。」
「はあ?」
 田中は整った貌を真っ直ぐに向けて言う。
「御雷先生が勝ったら私を抱いてください、と言ってるんです。」
 菊池が抗議の声を上げた。
「それ、何かおかしくないですか。私には諦めろって言いながら、自分が…。」
「田中先生的には筋が通っているんですよ。」
 御雷が説明してやる。
「別に、ぼくのことを好きなわけじゃない。ぼくの血が欲しいだけなんです。」
「そういうこと。別に結婚してくれって言ってるわけじゃないの。子供の認知も求めない。ただ、妊娠させてくれれば十分よ。…ま、私に勝てるようなら、あんたを愛する自信はあるけどね。」
 御雷は顔をしかめた。
「綺麗な顔をして『ヤってくれ』なんて言わないでください。」
 酷く男性的な笑みを浮かべて、真っ直ぐに田中の眼を見返した。
「勝っても、あなたを抱いたりはしませんよ。ぼくを種馬扱いするのはやめてください。大体、ぼくの遺伝子を受け継いだ子供が、自分の知らないところで殺しの技を仕込まれると思うとぞっとします。ぼくは…自分の子供を人殺しの道具に育てるつもりはありませんから。」
 我が子に殺しの技は伝えない。かつて恭子との間に武を授かったときと、その想いは変わらない。
「そもそも、ぼくが勝ったら、二人とも命が危ないとは考えないんですか。」
 それもそうか、と田中はようやく気が付いたようだ。
 呆れた単細胞だ。
「ぼくが勝っても、二人を殺したりはしませんよ。でも、これだけは約束してください。今日知ったことは口外しないこと。少なくとも、ぼくが稲美中に居る間は。それから、何があってもぼくの邪魔はしないでください。これは、文部省から依頼された仕事なんです。」
 田中は意外そうに眼をしばたかせる。
「それだけでいいの?学校再生専門員は、正体に気付いた者を必ず殺すっていうルールがあると聞いたんだけど。」
 御雷は苦笑いを微笑に変えた。
「比良坂は本当に口が軽い―――ええ、ありますよ。いくら自信があっても、菊池先生を巻き込むなんて無謀すぎますね。でも、今回はルールを無視します。ぼくの邪魔をしない限り、殺したりはしませんよ。」
「どうして?ルールは絶対なんでしょう?」
「ええ。この前も文部省の役人から直接電話が掛かってきましてね。念を押されましたよ。」
「何て、言われたの?」
「『正体がばれそうになったら死ね』と言われました。」
 これには二人とも絶句する。教育行政の暗部に属するとは、こういうことなのだ。
 御雷の声に湿っぽさは微塵もない。
「普段は役人が直接連絡してくることなんてないんですが。まあ、基本的にはそういうことなんです。ぼくらは、文部省の道具です。道具が使い手に害を為すようであれば、廃棄されるのは当然です。そして、おそらく。ぼくにとっては稲美中での仕事が、学校再生専門員としての最後の仕事になるはずです。」
「引退、するんですか。」
 菊池の声には、微かな希望がこもっている。殺しをやめるなら、あるいは。
「政治的なあれこれで、学校再生専門員制度自体が解体されます。実際、上の方で情報が漏れてしまって、ぼくの正体が、もうばれかかっているみたいで。」
 お前が、情報を流しているのではないのか。そんな思いを視線に乗せてみたが、田中は無反応だった。
「ともかく、時間が無いんですよ。それに、この仕事が終わったら日本を離れます。」
「海外へ?」
 御雷は生白い顔を撫でた。
「手術から大分経って、この身体もメンテナンスが必要らしいんですよ。担当した医者からは早く帰ってこいと急かされています。だから――多分、お二人の前にぼくが姿を現すことは二度とありません。」
 御雷が去った後であれば、警察に話すなり好きにすればいい。そう言っているのである。
「わかった。菊ちゃんにもそれで納得させる。」
 後輩に人差し指を突きつける。
「そういうわけだから、あんたも約束しなさい。もし約束を破ったら、その時は…。」
 瞬きもせず菊池の藍色ががった瞳を見詰めた。
「あたしが、あんたを殺す。」
 菊池が、ぎょっとして固まった。田中の決意は、本物だ。彼女にとっての「約束」とはそれほどの重みをもつのだろう。
「で、私が勝った場合のことも考えておかなくちゃね。御雷先生の秘密は、勝っても負けても喋らない。そこは変えないわ。それ以外に…もし、私にあっさり負けるようなら何も要らない。でも、私を追い詰めて苦戦させるようなら。私が勝った後、子種をもらいますから。私だって、手ぶらでは帰れないもの。」
「まだ、諦めてなかったんですか。そもそも、そこまで競り合って負けたら、ぼくは五体満足ではいられないでしょう。寝たきりになってしまうかもしれませんよ。」
「心配しないで。もしそうなったら、一生をあんたの介護に捧げるぐらいの覚悟はできてるから。」
 言い切った田中の頬が紅潮しているのを、菊池は見た。そして、悟った。これは、田中なりの愛情表現なのだと。
 これから、死力を尽くした闘いの中で、二人は語り合うのだろう。そこに加われない自分にもどかしさを感じた。同時に、激しい嫉妬も。
 しかし、若干の心許なさも感じている。あまりにも現実感のない話ではある…が、少しずつ染み渡るように菊池の中に広がりつつあった。御雷がこれまで示してくれた優しさや厳しさが全て偽りだとしたら。自分が御雷に抱いているこの気持ちも偽りでないと言いきれるだろうか。
 わからない。
 御雷が腕時計を外して菊池に放った。
「預かってください。壊されると困る。体温センサー付きの特注品なんです。」
 表示板を見ると、小さくエラー表示が出ている。センサーが皮膚表面に接触していないためだ。
「その時計で時間を計ってください。ストップウォッチモードにしたら、合図をお願いします。」
 操作は市販品と同じだ。菊池は側面の小さなスイッチを何回か押して、ストップウォッチの画面を出した。スタートボタンに指を掛けて、叫んだ。
「はじめ!」
 田中が構えを取る。軽く握った両の拳を顔の高さに。両脚は肩幅より少し広いほどに開き、少しだけ右足を引いている。
 本当に、御雷の業の構えによく似ている。田中の言うとおり、元は一つの業だったものがいつの頃か別れたのかもしれない。
 御雷は、構えない。両手を下げたまま、自然体で立っている。その脚が、動いた。
 無造作に距離を詰める。
 不意に、御雷の右腕が上がった。
 次の瞬間、彼の手の中に田中の左脚が現れるのを、菊池は信じがたいもののように見詰めた。
 ノーモーションで放った左のハイキックを、御雷が掴み止めたのである。蹴りの速度が速すぎて、菊池の眼では追い切れないのだ。
 のみならず。
 田中の両手は、胸郭すれすれのところで御雷の左手首を掴み止めていた。同じくノーモーションで放った突きを見切ったのである。
 田中がにっと笑ったように見えた。
 掴まれた左手首をねじ切ろうとする力に逆らわず、御雷は身体を回転させた。倒れ込みながら、蹴りの軸足を刈って、田中の身体を宙に浮かせる。
 両足が地に着いていなければ、御雷の手首を捻ることすらできない。田中の身体が宙にある間に体勢を入れ替え、無造作に蹴りを入れた。
 菊池は蹴りがまともに腹に入ったのを見て悲鳴を上げる。細身の長身が車にでも跳ねられたように派手に転がった。
 御雷は、構えを取った。田中と同じ、御雷の構え。
「確かに、父親より強い。」
「やっぱ、油断はしてくれないか。」
 腹をさすりながら起き上がった田中は笑顔を浮かべていた。眼は、笑っていない。
 御雷の左足は少し痺れている。田中の腹を蹴った感触を思い出す。
「まったく…女性の腹とは思えませんね。人の身体の感触じゃありませんよ。」
「そっちこそ、女の腹を躊躇無く蹴るなんて。まともな人間のやることじゃないわね。」
 御雷の眼が笑っている。黒曜石のような瞳が光った。
 田中の眼も、笑った。底光りする怖い眼だ。
 御雷の蹴りが奔った。顎を真下から打ち抜くような前蹴りだ。
 田中は身体を反らせて避ける。
 吹き抜けた蹴りが吹き戻って今度は後頭部を襲った。
 田中は避けなかった。一歩踏み込んで、打撃力の小さい部分を受け止める、そのまま蹴り足を掴んだまま、軸足を刈った。御雷が転倒する。その足首を田中がアキレス腱固めに持って行こうとする。決まり切る寸前、御雷が田中の肩口を蹴り込んで技を外す。
 再び立ち上がっての対峙。
 田中が距離を詰めた。ただの正拳突きが、重い。捌ききれずに、御雷は両腕を交差させて受けるしかない。一瞬動きが止まったところへ、田中の回し蹴りが跳んだ。顔面狙いだ。
 避けた。と思った瞬間、第二撃が飛んで来た。最初の蹴り足が通過した後、軸足まで地面を離れて蹴り足に変化したのだ。これも、避ける。田中の身体が空中で綺麗に回転するのが見えた。
 着地の瞬間を御雷は見逃さない。素早く背後に回り込んで、プロレス技―――バックドロップで投げた。最短距離で投げ落とすような、鋭い投げである。田中といえども受け身を取る間を与えなかった。板の間なら死んでいたかもしれない。畳でもそれなりにダメージがあるはずだ。
 しかし、田中は立ち上がってくる。殆どダメージは負っていない。
 業(わざ)とは、人間自体を作ることだ。その上に技が成立する。幼少期からの絶え間ない鍛錬。それを可能にする遺伝的素養。そして幾世代にも渡って練り上げられた鍛錬法。それらが生み出す強靱な肉体とそれを支配する脳こそが、神髄。
 そういう意味で、田中は紛れもなく比良坂の業を継ぐ者であった。
「ぬるいわね。御雷先生。」
 先程に倍する速度で田中は動いた。
 顔面への蹴りが変化し、金的を狙う。懐へ入り込んで強烈な投げ技を見舞ったかと思えば、すぐさま関節を取り、絞め技を狙う。
 打撃技から投げ技、関節技へと連続的に変化していく。その変幻自在さこそ比良坂流の本質だ。
 次第に防戦一方になっていく。
 体温の上昇が酷い。自分の肌に赤い筋が現れたり消えたりし始めるのが見えた。
「まさか、適当なところで負けてやろうなんて思ってないでしょうね。」
 ぎくりとする。
「なめられたもんね。何だか、本当に殺したくなってきたわ。」
 さらに重い突きが数発。受けるのに苦労する。痛みは感じないが、骨にヒビぐらいは入ったかもしれない。
 息が荒いのは、呼気に乗せて体内の熱を逃がすためだ。体表の血流はこれ以上増やせない。空冷ではこれが精一杯だ。
 今や、全身に皮膚の分割線がくっきりと浮き出している。
 田中が構えを取ったまま笑う。
「苦しいんでしょう?無理せずに、素顔で闘えばいいのに。全体の何パーセントぐらいの筋肉を姿を変えることに使っているかは知らないけど。その分動きにブレーキがかかるし、余計な熱も発生するはずよ。」
 御雷は肩で息をしながら、それでも笑った。
「それも、親父から聞いたのか。」
「ええ、そうよ。あんたには、別の顔と姿があるってね。父と闘ったときは出したらしいじゃないの。今日は出さないの?」
 御雷は、全身の筋肉の統御に全力を傾けている。内部に籠もる熱が、危険な領域に達しようとしていた。闘う身体は、随分前から声を上げ続けている。
 戻れ。本来の姿に戻れ。そうすればこんな女は粉々に砕いてやる。
 少しでも気を抜けば、擬態が解ける―――綱渡りのような肉体のコントロールを強いられているのだ。
 御雷は沈黙を守るしかない。
 田中は菊池へ視線を走らせた。納得する。
「ああ、菊ちゃんに見せたくないんだ。菊ちゃんは、あんたの素顔について誤解しているようだから。」
 うまく誘導したものだ、と感心してみせる。また一つ、嘘が暴かれるのか、と御雷は内心溜め息をつく。
「菊ちゃんは、御雷先生の素顔を『醜い顔だ』と思ってるみたいだけど。」
 菊池は混乱しながらも頷く。
 大火傷の治療。隠しておきたい素顔。…そして気付いた。御雷自身は一言も「醜いから見られたくない」とは言わなかったことに。
「父によるとね、この人の素顔はとてつもなく綺麗なんだって。そう聞くと、見てみたくなるじゃない。」
「いやだね。お前には見せない。」
 口調が、変わった。
「俺の素顔を見るときは、お前が死ぬときだ。」
「あっそ。」
 田中が口をすぼめるのが見えた。脳が警告を発する。飛翔体接近。
 左眼の周辺に衝撃を感じて、視界にノイズが走った。口に含んだ金属の小片を吹き付けたのだ。いつ仕込んだのか、御雷にもわからなかった。
 咄嗟に避けたために眼球は無事だが、動くのが一瞬遅れた。
 滑るように移動してきた田中が出した前蹴りを躱せない。まともに腹に喰らって、反射的に身体が丸まろうとした。
 田中は、その御雷の髪の毛を両手で掴んで強く頭を押さえつける。同時に、顔に向けて膝を突き上げた。
 まともに喰らえば顔面が陥没する。
 これで死んでも仕方ない。そう思って、田中は膝蹴りを放った。
 だが。
 突き上げた膝頭を御雷の両手が受け止める感触があった。
 みしり。
 瞬間、激痛が走る。
 命じずとも身体は動く。
 田中は御雷の髪の毛を掴んだまま、自分の額を激しく打ち付けた。ただの、頭突き。
 鈍い音がして、畳に血が滴った。田中が後に跳びすさる。
 ゆっくりと小太りの影が立ち上がる。
「鬼、だな。田中。」
 顔面を赤く染めて、御雷が笑う。額が割れている。
「俺も大概石頭だが…手を離してしまった。膝頭をむしり取ってやろうかと思ったんだが、ね。」
 ぞっとするようなことを平然と言う。
「田中、一つだけ答えろ。」
 膝を押さえて蹲っている田中の額からも、大量の出血がある。
「何よ。」
 御雷の眼が、半眼になる。朱を引いたような唇が、そろりと言葉を紡いだ。
「お前…自分の技で人を殺したことがあるな。」
 菊池は、息を呑む。
 がさつで、無神経で、粗忽だけど――明るくて、優しくて、頼もしい、先輩が。まさか、そんな。
 菊池の願いはあっさりと踏み砕かれる。
 田中が笑ったのである。勝ち気に切れ上がった目に、鋼のような光。薄い唇の両端が吊り上がっている。
 顔の半分を血に染めて、田中は笑っていた。美しくも凄絶な、笑み。
 彼女の声が、悪夢のように菊池に届く。
「たしかに、殺したわ。この手で、実の兄を。」
 御雷は大きく溜め息をついた。
「やっぱり、そうか。兄さんを殺して、比良坂の業を継いだわけだ。」
「そうよ。軽蔑する?たかが、古流の業のために身内で殺し合いをするなんて、と。」
 御雷は頭を振る。
「いや。俺のところでも、昔は似たようなことをやっていたそうだ。」
 言いながら、建の話を思い出している。兄弟や父親まで手に掛けたはずだ。
「じゃあ、私がどうしてもあなたに勝って、子供を作りたい気持ちも理解してもらえるわね。」
 ふん、と御雷は嘲笑った。
「わからないね。お前は同じ思いを自分の子供にもさせたいのか?もしそうなら、お前は大馬鹿だ。」
「何でもいいわ。」
 速い。あっという間に御雷の右手首を両手で掴んで、極める。捻りながら囁いた。
「私が勝って、あなたの血をもらえばいいだけよ。」
 体重を掛けて御雷を押し倒す。抵抗すれば手首が折れる。傾いた御雷の顔めがけて、体重の乗った肘が落ちてくる。
 殺し技、だ。
 御雷は身体が倒れきるのを待たずに両脚を地面から離した。支えを失った形の田中の首筋へ、オーバーヘッドキックの要領で蹴りを叩き込む。硬い膝が首筋にめり込み、田中の身体が吹き飛ばされる。
 御雷は立ち上がった。
 身体が、熱い。とうに限度は超えているはずだ。だが、肉の内から湧きだしてくるものがある。
 肉体の声に耳を澄ませた。
 闘え。倒せ。斃せ。殺せ。完膚なきまでに破壊しろ。
 ごぞり。
 己の肉の底で、何かが目を覚ます気配が、ある。
「田中、お前は強い。人間の域を超えてるよ。…だが、俺はもっと強い。」
 立ち上がった田中は、足下をふらつかせたりはしない。異常にタフなのだ。人ならぬ身に、己の肉体を造り上げることこそが、業。
 しかし。
 気が付けば御雷が目の前にいた。
 いつ動いたものか、見えなかった。
 重い突きが立て続けに襲う。ガードを弾き飛ばし、肩に胸に腹にめり込む。
田中は驚愕する。
 鍛え抜いたはずの身体が、段ボールでできているかのように脆い。
 田中は胃の中のものを吐いた。
 その顔を、容赦なく御雷の回し蹴りが襲う。辛うじて避けた。続く二発目を避けなければ…と思ったときにはもう当たっている。
 田中の視野の中で、着地した御雷の身体が今度は逆に回転するのが見えた。逆回転の回し蹴り二連撃。
速すぎる。同じ技を使うからこそわかる。異常だった。
 まだ、田中の身体は宙を舞っている最中だ。
 躱せなかった。顎と後頭部に喰らって畳に叩きつけられる。
 ごおっ。
 蹴り足の立てる風音は、後から聞こえた。
「…化け物ね。親父じゃ敵わないわけだ。」
 血の味がした。
「まだ、立つんだろうな、お前は。」
 口を拭いながら田中は立ち上がる。
「当たり前でしょ。私は、まだ全部出しきっていないもの。」
「俺を殺したくなったな?」
 痛みに顔をしかめながらも、田中は不敵に笑う。
「ええ。兄さんの時とは違う。たまたま死なせてしまうのではなくて…今の私は、あなたを殺したいとはっきり思ってるわ。」
 やはりそうか、と御雷は思う。兄を「殺した」、のではなく「殺してしまった」のだ。だからこそ、跡継ぎを強く求めるのだろう。兄殺しに対する罪の意識の裏返しだ。
「わかっていると思うが、俺達二人は殺すつもりで技を出さなければ殺せない。」
 頷く仕草が、何故か嬉しそうだ。
「そういうふうに身体を造ってきたんだから、当然よね。」
「まだ、あるのか。」
「さあね。」
 田中が動いた。
 驚くべきことに、御雷と言葉を交わしている間に随分と回復している。
 彼女の蹴りや突きを、御雷は敢えて全部受けた。
 何だ、これは。田中は再び驚愕せねばならなかった。
 こんなものが、人間の身体の感触なのか。自分の身体のことは棚に上げて、そう考えている。とにかく、硬い。手も足も、痛めてしまったようだった。
 それでも、勝たねばならない。
 御雷は待っていた。
 田中、お前にもあるのか。お前の家にも伝わっているのか。
 『あれ』が。
 田中が速攻のコンビネーションを打ち込んでくる。蹴りと突きのリズムに覚えがある。
 来るのか?『あれ』が。
 防御に動いた隙を突いて、御雷の懐に飛び込んできた。
 殆ど抱擁に近い形で密着する。田中の右拳が御雷の左胸にとん、と触れた。
 御雷の全身が総毛立つ感覚があった。
 これは近接打撃ではない。あれは拳一個分程度離して構える必要がある。
 腕の中で、田中が全身の力を束ねるのを感じた。速すぎる。避けるのは間に合わない―――。
 菊池は御雷の道着の背中が裂け、そこから田中の拳が突き出すのを見た。彼の身体を貫いた――我知らず悲鳴を上げた。
「騒ぐな。死んでない。」
 静かな声で告げるのを信じがたい思いで見るのは、菊池だけではない。
 田中は信じられなかった。
 渾身の一撃は、御雷の道着の胸に穴を開け、背中に突き抜けた。
 だが、道着に穴を開けただけだ。彼女の拳は御雷の肉体に傷一つつけることはできなかったのだ。正確には、彼女の拳は、胴着の中で彼の肉体に触れることなく背中に抜けてしまったのである。
 御雷は全く回避運動を取らなかった。取れないように密着したのだ。必ず当たるはずだった。
 なのに、一歩も動くことなく躱された。
 呆然としているところに、強烈な一撃を食らった。右の掌打が田中の左側頭部を捉えたのだ。
 長身だが、田中は軽い。人形のように吹き飛ばされる。
 ああ、このまま負けるんだろうか…。
 ぼんやりと思ったとき、空中を舞う自分に御雷が追いついたことを知って慄然とする。
 御雷の右手が、今度は左側頭部を掴んだ。
 田中は御雷の意図を理解する。
 このまま床に叩き付け――られた。衝撃で霞む視界に、体重を乗せた膝を落とす御雷の姿が見えた。
 あの膝が、私の頭を潰して、私は死ぬ…のだろう。
 田中は目を閉じなかった。己の死さえも最後まで見届ける。
 田中―――比良坂久仁恵は、そういう女であった。
 どん。
 鼻先を掠めるように重い膝が落ちてきたとき、さすがの田中も身を固くした。
「外して…くれた?」
 見上げると、御雷が立ち上がったところだった。道着の背中に開いた穴から、生白い肌が覗いている。
「菊池先生。時間は?」
 声は穏やかだが、顔面は血まみれだ。菊池の声が震えた。
「十五分。ちょうどです。」
 御雷は振り返った。
「よかった。ぼくの勝ち…です…ね。」
 そう言うのと、畳に崩れ落ちるのとがほぼ同時だった。

      12
 耳に絶え間なくノイズが流れ込んでいる。規則正しく脈打つそれが、やけに速い。
 ああ、血管内を流れる血液の音が聞こえているのだ。脈拍が速すぎるようだ。
 少しずつ、身体感覚が戻ってくる。聴覚が通常に戻る。
 ノイズが消えて、代わりに菊池の声が聞こえた。
「御雷先生!気が付いた…。」
 涙声になっている。誰だ、泣かせたのは。
 唐突に思い出す。
 俺…か?
 結局、俺は気を失ってしまったのか。
 起き上がろうとしたが、手足が動かなかった。感覚はあるが力が入らない。
 首筋や道着の脇の下に氷嚢が当てられていることに気付く。
「まだ、起きちゃ駄目ですよ。」
 眼だけを動かして見ると、枕元に田中が居た。顔の血を洗い流し、額に絆創膏を貼っている。縫うほどではなかったらしい。自分にも同様の処置が施されていることに気が付いた。
「体温が、下がらないんです。」
 御雷の左腕を取って、目の前に時計の表示盤を示してくれた。他の全ての表示が消え、でかでかと「体表温度四十六度。即時冷却」の文字だけが見える。
「このままだと、死んじゃいますね。ぼくは。」
 人事のような口調に、女二人がはっとする。自分の生命に関してすら、御雷は現実から目を逸らさない。
「氷水の風呂に浸かればいいんですが、家まで帰っていたら間に合いません。…一つ、賭けてみましょうか。」
 御雷は自らが助かるための算段をした。
 百キロ近い身体を、男子更衣室に運ばせる。氷嚢と、買っておいたスポーツドリンク四リットルも運ばせる。
 シャワールームのシャワーを、最大水量で出しっ放しにしてもらう。温度設定は完全な水だ。
「スポーツドリンクをもう四リットルほど買ってきてください。それと、氷をたくさんお願いします。ぼくは水で身体を冷やします。」
 床に座り込んだまま、帯を解き道着を脱ぎ捨てる。二人の女は慌てて更衣室から出た。
 全裸になると、擬態を解いた。血流が変わって、全身が満遍なく熱くなってくる。皮膚の紅い筋は消えない。
 ふらつきながらも立ち上がり、スポーツドリンクと氷嚢をシャワールームに放り込むと、最後に自分自身が転がるように降り注ぐ冷たい水に身体を曝した。
 両脇に氷嚢を挟み、床に座り込んだままスポーツドリンクを一本飲み干した。まずは、二リットル。
 腎臓への血流を増やし、腎機能自体も押し上げてやる。あくまで短時間しかできない芸当だ。
 すぐに激しい尿意を催した。座ったまま、放尿した。
 湯気が上がった。無論、沸騰するほど熱いわけではない。が、それでも生体を構成するタンパク質が変質する一歩手前ぐらいの温度はあった。危ないところだったのだ。
 シャワールーム内の高い湿度と、低い気温のおかげで、湯気が見えているわけだ。
 長々と放尿を続けながら、御雷は二本目のドリンクを飲み干す。
 身体の中に水分を通し、それに熱を移して体外に放出する。
 それが御雷が出した回答だ。
 一時的とはいえ血液は薄まり、内臓にも大きな負担がかかる。何度も経験したいことではないが、背に腹は替えられない。
 ドアの外に菊池の存在を感じた。すぐに声が聞こえる。
「御雷先生、新しいスポーツドリンクと氷を買ってきました。」
 磨りガラス状のドアを通して、俺の姿を見ることができるだろう。が、顔さえ見られなければかまわない。半ば投げやりな気分になっている。
「すみません。渡してもらえますか。」
 ドアが細く開き、差し出された腕は筋肉質でありながらほっそりとしてしなやかであった。指が見慣れた御雷のものであることを、菊池は目敏く確認する。あの指は、今の本当の腕に付いていた方が似つかわしい、と感じた。
 目を逸らそうと努力はしているが、ちらっとドアの方を見てしまう。ぼんやりと透けて見えた。床に蹲る人影が普段の半分ほどの大きさしかないことに、酷く驚く。
 そういえば、鍛えた女のような腕をしていた。思えば、声だっていつもと違う。低めの女性の声のようにも聞こえた…ような気もする。
 御雷の素顔を見てみたい。
 痛いほどの欲求を何とか抑え込んで、菊池は更衣室から出て行った。
 御雷は氷嚢に氷を足し、スポーツドリンクを飲む。大量に放尿する。
 全てのドリンクが尿に変わり、氷が全部溶けきったとき、体表温度は四十度を少し切るところまで下がっていた。
 足下が覚束ないが、立ち上がって小便まみれの身体を洗う。床も綺麗に洗い流した。
 シャワールームを出ると、脱ぎ捨てた胴着で身体の水分を拭い、自分のジャージを着た。当然だが、素顔の御雷にとってはブカブカだ。
 これからまた擬態にエネルギーを使うと思うと、正直うんざりする。このままベッドに倒れ込んでしまいたい。
 だが、女たちに今の姿を見せるわけにもいかなかった。気力を振り絞って、小太りの体型を作る。顔を作る。声を作る。少しだけ体温が上がったのを感じた。
 姿見に全身を映してみる。ジャージから露出した顔や手に、紅い筋が走っている。今回は、すぐには消えてくれないだろう。脳が肉体を支配する力が下がっている。異常な熱を溜め込んでしまったために、ダメージを受けないようにいくつかの機能が停止している。
「我ながら、みっともないな…。」
 ふらつきながら更衣室から出ると、濡れた道着を田中に返す。
「もう、帰ります。」
 田中は、もう止めなかった。ただ、謝った。
「本当に、ごめんなさい。」
「何が、ですか。」
 御雷は意外そうな顔をする。田中の眼は真っ赤に充血していた。
「私は、十五分の制限時間も嘘だと思っていたの。だから、こんなことになるなんて予想もしていなくて。」
 御雷は屈託無く笑った。
「まったく…一度はぼくを殺そうとしたくせに。」
 真顔に戻って、忠告する。
「闘ってみて、確信しました。ぼくらは源流を同じくする業を受け継いでいます。誰かは知りませんが、初代はろくなもんじゃないでしょうね。強い相手と当たれば、勝たずにはいられなくなる。あげくに殺したくなる。そういう風に、身体と心を造るプログラムが鍛錬に組み込まれてるんですよ。」
 だから、不用意に強い相手と闘わないでください。
 それだけ言うと、道場から立ち去ろうとする。
 止めたのは菊池だった。
「田中先生、御雷先生をこのまま帰らせるわけにはいきません。引き留めてください。」
 意外な言葉に、御雷はまじまじと菊池を見た。
「ぼくの顔なんて、もう見たくないんじゃないですか。」
 藍色を帯びた瞳からは感情を読み取ることができなかった。
「そこは、まだ実感が湧きません。正直言って、もの凄く腹も立っているし、モヤモヤしています。」
 ストレートに言われては、煙に巻いて誤魔化すこともできない。小さく肩を竦めるしかない。
「でも、今の状態の御雷先生をそのまま帰したら、女が廃ります。」
 まるで田中が言いそうなことを、言うようになった。
「大体、お店に寄ることもできないでしょう?」
 指摘されて、しげしげと自分の両腕を見てみる。皮膚を継ぎ合わせた境界を示す紅い筋が異様だ。
「たしかに…、これでは真っ直ぐ家に帰るしかなさそうです。」
「お腹も空いていますね。」
 指摘されるまでもなく、腹ぺこだ。そもそも、今日は自堕落にのんびりと過ごすつもりだったのだ。死ぬギリギリまで追い詰められるような闘いをする気など、初めはなかった。
 御雷にしろ比良坂にしろ、人体のポテンシャルを限界近くまで使い切ろうとする業の遣い手は、恐ろしく大食らいである。異常に強靱な肉体の燃費が悪い、ということもある。それ以上に、脳を酷使するために、大量のエネルギーを必要とするのである。
「そして、御雷先生の家には、例によってロクな食べものがない。」
 御雷は小さく溜め息をついた。
「全部、当たってます。」
 不意に、菊池は満面の笑みを浮かべた。田中も驚くほどの。
「じゃあ、これからみんなでご飯を食べましょう。こういう気分の時は、お腹いっぱい食べるのが手っ取り早い気分転換になるんです。」
「まあ、それもそうか。」
 田中は御雷の手を取った。白くて柔らかな手は驚くほどに力が無い。やはり、ダメージが抜けきっていないのだ。
「こんなんじゃ、誰かに襲われても一方的にやられて終わりですよ。」
 確かに。もし警察がマークとしてるとすれば、外出時を狙って職質を掛けてくるだろうことは容易に想像できた。だから、ここしばらく銃器は携帯していない。デリンジャーすらも、だ。ナイフの類いも身に付けたりはしない。
 普段の御雷であれば、目に見える範囲からの襲撃には銃器がなくても対抗できる自信はある。相手が鍛えられたプロであるならともかく、田舎ヤクザであればさほど脅威ではない。
 だが、それも御雷の体術を自由に使えればこその話だ。
 田中が駄目を押す。
「ほら、御雷先生にとっては最後の仕事になるんでしょう?食べて、身体を治してやり遂げなきゃ。」
「うちへ、来てください。ここからだと一番近いし。」
「いいんですか。」
「何が、ですか。」
 御雷の声には戸惑いがある。この展開は想定外だ。
「てっきり、二人してぼくを止めようとするとばかり…。」
「私は、止めない。」
 田中はきっぱりと言った。
「御雷先生の仕事が、どんな形で終わるのかは知らないけど。稲美中学校が、まともに頑張りたい生徒にとっては生きやすい環境になってきてるのは事実だし。」
 右手を拳の形にして見つめた。
「まあ、やってることは決して褒められたことではないんだけど。でも、そこは私も他人のことを言えた義理じゃないしね。それに、生徒に一生懸命教えている姿が嘘だとも思えない。」
「そこ、なんですよね。」
 菊池が小首を傾げて考える仕草を見せる。
「あれだけ親身になって生徒に接する人が、同時に大勢の人を殺しているといわれても。どうにもピンと来なくて。」
 困ったような顔をして笑う。
「それに、私には御雷先生を止めるほどの力はありませんから。残念だけど。」
 菊池にもよくわかる。御雷が派遣されたことの意味が。
 教師は無力だ。
 採用二年目にして、心のどこかでそんな思いが膨れあがりつつあったように思う。生徒の荒れにも対応できない。それは同時に、真面目に頑張っている子供たちの期待にも応えられないということでもある。
 教師は無力だ。
 だから、その枠に収まらない行動が可能な者を送り込む。学校再生専門員制度とはそういうものだ。
 頭では理解している。
 実際、御雷は問題が校外にまで大きく根を張っている事実を浮かび上がらせて見せた。麻薬使用者の大量死は、そういうことだ。
 それでも。
 銃を使って人を殺す者を嫌悪する感情は消せない。
 それでも。
 自分の御雷に対する想いは消せない。
 菊池は、自分の心が引き裂かれそうになっているのを痛切に感じている。
 だから、笑う。

      13
 御雷はしげしげと部屋の中を見回した。
 素っ気ないほどに物が無い。
 菊池のマンションである。1LDKの古い建物は、一人暮らしには十分な広さがあった。ちょくちょく田中が遊びに来たくなるのもわかるような居心地の良さがある。
 若い娘が好みそうな可愛らしいものは置いていない。どちらかといえば、モノトーンでまとめられた室内にはシャープな印象を与える小物が多い。言われなければ女の部屋だと認識できないかもしれない。
 御雷は本棚から一冊抜いて見てみる。ふむ。ここはヘミングウェイのコーナーか。日本の作家では…ははあ、大藪春彦はあるんだな。後は、北方謙三に、生島治朗…御雷の知らない作家の文庫本が並べられている。
 とにかく、本が多い。考古学者になるのが夢だったというだけあって、歴史書や博物館の図録も多い。引っ張り出してみると、付箋だらけである。今も独自に勉強しているわけか。
 女たちが風呂場から出てくる物音を聞いて、慌てて本を片付ける。
 ほかほかと身体から湯気を上げながら、田中がリビングダイニングに入ってくる。Tシャツにジャージという合宿スタイルだ。そのままパジャマになるのだろう。
「髪を乾かさないと風邪を引きますよ。」
「ん。菊ちゃんがドライヤーを使ってるから。順番待ちよ。」
 自分で氷嚢を造って、顎に当てる。御雷の蹴りを受けたところだ。痣になっている。顔以外にできた痣は無視するつもりらしい。
「田中先生、今日はあんまり身体を温めない方がいいんじゃないんですか。腫れが酷くなりますよ。」
「そうはいっても、汗ぐらい流したいじゃない。シャワーだけにしたから大丈夫よ。」
 ところで、と田中は言った。
「最後の私の突きをどうやって躱したのか、教えてもらえませんか。」
 絶対の自信があった。父の敗戦を教訓に、技を練ったのだ。だが、通用しなかった。
 御雷は苦笑した。
「あれはね、ズルをしたんですよ。まあ、魔法みたいなもんです。もし、胸郭の中央―――心臓の真上を狙って放たれたら、ぼくの負けだったと思います。」
 あの瞬間―――避けられないと悟った御雷は、胴体部分に限定して擬態を解除したのである。本来の細身に戻れば、道着には大きな空間ができる。田中の突きは、その何もない空間を虚しく突き抜けたというわけだ。
「それにしても、あの技は何なんですか?御雷にはない技です。いや、全身の力を束ねて出す技ならありますが、束ねる方法とスピードがまるで違う。」
 田中は片目を瞑ってみせた。
「あれが、私のとっておき。密着した間合いから、胸骨を砕くの。頭蓋骨だって割れるわよ。」
 菊池が戻ってきた。やはり上半身はTシャツで、下は藤色のジャージだ。
「二人で何を話してるんですか。」
「そうねえ。技の謎解きみたいなものかしら。」
 田中の浮き浮きした口振りに、守矢がよく言う「格闘馬鹿」という表現を思い出す。ついさっきまで殺し合いに近い試合をしていた二人が屈託なく話し込んでいるのを見ると、菊池は軽い目眩を覚える。
 それはそれ、これはこれ、なのだろうか。二人とも、その手で人の命を奪ったことがあるという。感覚が常人とは異なるのかもしれない。
 ここまで考えて、ふと可笑しくなった。
 私だって、人殺しじゃないか。
 何ということだろう。三人の人殺しが一室に集まって、これから飯を食おうとしている。
 そう思うと、皮肉な可笑しさがこみ上げてきた。
「ご飯と味噌汁みたいなものしかできませんけど、かまいませんか。」
「うん、それで十分。あとは漬け物でもあれば。」
「ご飯が炊きたてだったら、ぼくは生卵をかけて食べたいですねえ。」
「はいはい、できますよ。まるで朝食のメニューみたいですけど。」
 笑って準備にかかる。といっても、飯を炊き味噌汁を作るだけだ。すぐに仕上がった。
 御雷の体温は十分に下がっている。あとは食って寝ればいずれ体調は回復するはずだ。
 出てきた食事を、二人はものも言わずに掻き込んだ。お代わりのタイミングもほぼ同じだった。
 炊き出しのような量を腹に収めて、田中と御雷はようやく満足した。菊池はその間にきっちり一人前食べている。
 待ちきれないように、田中が話題を戻す。
「御雷先生の家に伝わるのは、どんな技なんですか。」
 そうですねえ…と言葉を探す。
「多分、ですけど。比良坂のあの技は、全身の力をスピードに振り向けて打ち抜く感じですよね?」
 正解、と田中はあっさりと種明かしする。
「よければ、もう一度やって見せてもらえませんか?」
 一応奥義なんだけど、と渋る田中の目の前に餌をぶら下げてやることにする。
「お返しに、うちのとっておきの技も教えますから。子種はあげられませんけど、あなたも手ぶらでは帰れないんでしょう?」
 これには田中も快諾した。
「できれば、下着姿でやってくれると有難いんですが。筋肉の動きが視たいんです。」
 田中は菊池に半紙を用意させると、ジャージとシャツを脱いだ。着痩せするタイプだというのがよくわかる。ショーツもブラジャーも飾り気はないが、シンプルな分、身体の線を綺麗に浮き立たせていた。
「そんなにじろじろ見ないでくださいよ。」
 田中が顔を赤くして言う。
「何を今更。子種が欲しいという人が、これぐらいで恥ずかしがってどうするんですか。」
 少しだけ、好色そうな表情を作ってやる。
「でも、これは…ちょっと早まったかもしれませんね。綺麗な身体です。」
 田中は目を輝かせる。
「じゃあ、抱いてくれるの?」
「抱きませんってば。大体、田中先生は生娘――処女でしょう。」
 思わず田中は自分の肩を抱く。微かに鳥肌が立っている。
「なんでわかるのよ。」
 御雷は菊池の方に意味ありげな笑いを向ける。
「ぼくぐらいになると、身体を見れば大体わかります。後は、肌を触って汗の味を見れば、ほぼ間違いありません。」
 乳首を探る指の動きが鮮明に思い出されて、菊池は顔から火が出そうな思いになる。
「というのは、嘘です。」
 真顔で言われてしまうと、田中としても立つ瀬が無い。
「もう。私はちゃんと処女だってば。」
「でしょうね。」
 涼しい顔で御雷は同意する。
「御雷の血統にも、女性で後を継いだ者が何人かいたそうですが、どれも化け物みたいに強かったそうですよ。彼女らは、自らの強さを保つために、子を成したいと思うまでは男性との性交渉を一切持たなかったそうです。田中先生も、そういうことなんでしょう?」
 田中は頷く。菊池は疑問を持つ。
「男性とそういう関係になったら、弱くなってしまうんですか。」
 御雷が説明してやる。
「ぼくと田中先生の流派は、基本的な考え方がよく似ているんですが…狙っているのは『人間の潜在能力をいかにして引っ張り出すか』ということです。」
 人間の潜在能力は、実に奥が深い、と御雷は言う。本人が全力だと思っていても、実際には半分程度の力しか出せていないものだ。それを、修練と鍛錬によって、限りなく百パーセントに近付けていく。それが比良坂流であり、御雷の業である。
「そこで鍵になるのが、『肉体に対する脳の支配力』ということなんです。筋肉の一つ一つの動きを正確に管理し、感覚器からの入力を常人の域を超えて認識する。そして、一連の処理速度をとてつもないレベルに押し上げる。それを可能にするのは、究極的には『脳の力』なんですよ。」
 つまり、田中と御雷の闘いの勝敗を分けたのは、『脳の支配力の差』 だと言っても過言ではないのだ。現に、技比べでは大差なかったではないか。
「で、ここが不思議なところなんですが、女性は処女を失うと脳に変化が起きるらしいんですよ。個の生存よりも、次世代を産むのに適した構造に変化するということみたいです。こればっかりは『男女平等』を唱えてみてもどうにもなりません。埋めようのない性差というやつです。結果、戦闘力が落ちる。だから、本当のギリギリまでそういう欲求は我慢していたようです。」
 そういうこと、と田中が賛意を示す。
「じゃ、ちょっとやってみせるから。」
 菊池に半紙の上端を持たせ、それに右の拳を付けた。軽い半紙は、ひらひらと細かく揺れ動いている。固定していない薄紙を拳のスピードだけで打ち抜こうというのだ。
「いくわ。」
 御雷は見た。
 田中の両足下から力の波が遡っていくのを。体幹に流れ込み、両脚からの波が大きな干渉波を形作る。その脈動が高まった瞬間、右腕に流れ込み―――。
 ぱちん。
 そんな硬い音がして、半紙に穴が開いた。拳大の丸い紙片が、ひらりと床に落ちた。
 拳が紙を突き破ったのではない。きれいに拳の形に打ち抜いたのである。恐るべきスピードと力であった。
 なるほど、と御雷は言った。筋肉の動きは覚えた。見れば、できる。
「ちょっと、真似してみます。」
 菊池に半紙を持たせる。拳を当てた。全身の筋肉が連動して波を起こす。
 ぱちん。
 拳は紙を打ち抜いたが、田中ほどにきれいな穴は開けられない。
「まあ、この姿じゃこれが精一杯ってところでしょう。構えてから打つまでが早いのが便利ですね。」
 田中は開いた口が塞がらない。
「曲がりなりにもうちの奥義なのよ。一回見て真似されたんじゃあ、子供の頃から鍛錬してきた私の立つ瀬が無いじゃないの。」
「たいていの技は、見ればできるんですよ、ぼくは。」
 ほら、最後に田中先生に出したあの技、と御雷は指摘する。
 側頭部に掌打を与えた後、再び同じ手で側頭部を掴み、床に叩きつける。のみならず、その頭に体重を乗せた膝を落とし、頭部を破壊する。
 完全なる殺しの技だ。
「あれは…『巌颪(いわおろし)』だった。」
 御雷は破顔した。
「ええ、そうです。漫画に出てくる技ですよ。この前、晩飯を食べに入った食堂で読みましてね。これならできそうだ…というので、ぶっつけでやってみんです。上手くやれたと思いますけど。」
「じゃあ、わざわざ畳の部屋を選んだのは…。」
「そうです。板の間で『巌颪』を外せば膝を痛めますからね。漫画とは違います。ま、新しい技のヒントぐらいにはなりますけど。」
「ふうん。たしかに、実戦じゃ膝を痛めたら足が止まるものね。御雷先生ならどうする?」
 即答する。
「ぼくなら、膝の方を下にしますね。膝を立てておいて、こう頭を持って行くんです。」
「うん、私もそうする。」
 にこやかに談笑しているが、内容は…聞いている菊池は溜め息をつく。
「ところで、そろそろ教えてくれませんか。この格好で居るのも落ち着かなくて。」
「もう少し鑑賞していたいところですが、湯冷めでもしては大変ですからね。菊池先生、油性ペンはありませんか。」
 菊池は電話台の下から太めのペンを持ってくる。
「本来なら口伝ですが、今日は特別です。全ての筋肉の動きを、田中先生の身体に書きこみます。見て、理解してください。できれば、週末にでもお父さんに見せてあげればいい。」
 ほんとは全裸がいいんですけどね、と呟きながら御雷はペンを走らせる。
 一つ一つの筋肉を指で探りながら、矢印を書きこんでいく。足下から始め、少しずつ矢印が這い上がってくる。大臀筋に書きこむときはショーツを尻に食い込ませた。体幹を矢印が覆っていく。手妻のようにブラのホックを外し、田中に悲鳴を上げる暇を与えず大胸筋にも矢印を書きこむ。最後に、腕。やはり、螺旋を描くように矢印が描かれる。
「これでできあがりです。足下から螺旋を描くように筋肉を連動させていけばいいんです。」
 ちょっとやってみる、と田中は言った。
 矢印を書きこまれている間に、その向きと順番は頭に入っている。田中もまた、脳の遣い手としては一流であった。
 自然体で構える。力みは筋肉の起こす波にブレーキを掛けてしまう。
「拳一つ分の空間が必要です。それに、螺旋を描く分、力を束ねるのに時間が掛かる。」
「その分、うちのよりパワーがありそうね。」
「ええ、比良坂の胸を陥没させるぐらいの力はありますよ。」
 田中が笑ったのは一瞬だけだった。すぐに真顔になる。全身の統御に神経を注ぐ表情だ。
 波が、起きた。足下で起きたさざ波は螺旋を描きながら連なって両脚を遡っていく。体幹部でより大きな波に―――田中は悲鳴を上げた。
「いたたたた!何よ、これ。」
「まあ、痛いでしょうね。全身の筋肉を極限まで使いますから、慣れるまでは無理できませんよ。少しずつ、全身が連動するように鍛錬してください。田中先生なら、早ければ半年もあれば初歩は習得できるんじゃないでしょうか。実戦で使えるようになるまでに、約一年。」
 身体をさすりながら、田中が恨めしそうに睨む。
「やって見せてはくれないんだ…。」
「そこは、勝者の特権というやつです…というのは嘘で、この姿だとぼくにもできないんですよ。あなたが言ったとおり、姿を変えるために使っている筋肉がブレーキを掛けてしまうので。強行すればぼくの全身はバラバラになるでしょうね。」
 あまり想像したくない光景ではある。田中は服を着ながら尋ねた。
「まあ、筋肉をそんな風に操れるっていうのが普通じゃないんだけど。で、大体何パーセントぐらいの筋肉を、その姿を維持するために使っているんですか。」
 話せることは話してやろう、と思う。本気で試合う姿を見られたのだ。菊池に聞かれてもかまわない。
「約、二十パーセントというところでしょうか。それらは殆ど全てが運動に反する動きをしたり、運動の抵抗になったりします。田中先生の指摘通り、身体の中で筋肉同士が喧嘩しているので発熱量も凄いことになるわけで。ぼくの悩みの種ですよ。」
 田中が嘆息した。
「それって、単純計算で二十パーセント筋力を使えないってことでしょ。しかもゼロじゃなくてマイナス方向に働くとすれば、実質六十パーセントの筋力しか発揮できないってこと?」
「まあ、そんなに単純な話でもありませんけど。この姿のときは、体感的には約半分の力しか出せていないというのは本当です。」
 田中は本気で頭を抱えた。
「それだけ制限があったのに、私は勝てないんだ。ところで、そんなに強いのに、どうして銃なんて使うんですか。」
 銃、と聞くと菊池の胸は冷たくなる。
 昔―――胸を躍らせ、タフな主人公たちの活躍を追って夢中でページを捲り続けていた、あの頃。
 それが随分昔のことのように思えた。考えてみればまだ六年ほどしか経っていない。
 御雷は田中の疑問に真面目に答えてやっている。
「それは、効率の問題です。ぼくの場合は体温の上昇を避ける意味もありますけど。」
「でも、私なら、拳銃の弾くらいなら避けるかナイフで受けるかぐらいはできますよ。」
「長距離からの狙撃はどうですか。」
「何というか、殺意が線になって届くのが見えるのよね。」
 高度に脳を使用できる者には、本来不可視であるはずのものを視覚イメージとして捉えられることがある。御雷であれば、自分や相手の突きや蹴りの軌跡が、未来予想的に紅い線として見えることがある。
 田中にとっては至近距離なら銃弾の弾道予想が、遠距離狙撃では射手の狙点が殺気の線として視覚化されるということだろう。
 実際、達人クラスであればそのような芸当ができる者も存在することは御雷も知っている。彼自身、相手の銃口が見えている状態でなら、丈夫な刃物で弾丸を受けるぐらいの芸当は可能だ。ただし、拳銃弾で、相手は一人。連射はなしだ。
 そんなのはただの曲芸だ、と思っている。だが、田中が生き残るために学ぶことは多い。
「では、銃を持った相手が、仮にぼくだったとして。それでも田中先生は生き残る自信がありますか。」
 少し黙ったのは、彼女なりにシミュレーションしてみたのだろう。
「…十中八九、勝てないわね、きっと。」
「ぼくはね、若い頃、こう考えてみたんですよ。『俺は、銃を使いこなす自分自身に勝てるのか』と。答えは明白でした。そして、今のぼくがあります。」
「古流と銃器の融合かあ…説得力はあるなあ…。」
 そこで思い出した。
「いけない。手合わせが終わったら親父に電話する約束だった。」

      14
『いよお、御雷さん。元気かい。』
 スピーカーモードにした田中の携帯電話から陽気な声が流れるのを聞いて、御雷はげんなりとなる。
 田中久仁恵の父、田中久那斗―――旧姓、比良坂久那斗(くなと)である。
 娘の久仁恵が今年で二十七歳だというから、五十をいくつか出たところか。
 その男が御雷を「さん」付けで呼ぶ。対する御雷の口調は砕けたものだ。
「元気も何も、あるか。田中なんて地味な姓に変えやがって。全然気が付かなかった。危うくお前の娘に殺されるところだったぞ。」
『その口振りだと、久仁恵は負けたんだな。』
「まあ、楽勝とはいかなかったけどね。本当に死ぬ目に遭わされたよ。もう二度と闘るのは御免だね。」
『素顔で闘ったのかい。』
「ううん。私は御雷先生の素顔を引っ張り出せなかったわ。」
 ふうん、と考え込む。
『御雷さん、あんたまた強くなったんじゃないか?』
 御雷は苦笑する。むしろ自分は弱くなったのではないかと思っているくらいだ。
「そんなことはないさ。先にお前の旧姓を聞いていなかったら、娘だと気付かないまま倒されてたところだよ。」
『そんなに俺に似てないかな。』
「全然、似てないね。お前にこんな美人の娘が生まれたこと自体、奇跡だよ。」
『嫁が美人なんでね。そっちに似たのさ。』
 臆面も無くのろけてみせる。
『どうだい、気に入ったのなら、婿にならないかい?』
「やだね。お前を『お義父さん』なんて呼べるか。」
 菊池は、いかにも田中の父らしい、と可笑しくなる。外見は母親に、内面は父親に似たのだろう。
 会話の邪魔をしないよう、そっと御雷と田中に茶を出してやる。
 湯飲みを置く微かな音に田中久那斗は反応する。
『おや、他に誰かいるのかい。』
「菊ちゃんよ。いつも話してる後輩の。菊ちゃんちから電話してるわけ。」
 菊池は携帯電話に向かって頭を下げた。
「菊池由美といいます。田中先生にはいつもお世話になっています。」
 電話の向こうで相好を崩す気配があった。
『いやいや、こちらこそ娘がお世話になっています。がさつな娘で申し訳ない。いろいろと迷惑をかけているんだろうねえ。』
 田中は顔をしかめる…が、事実だけに反論はしなかった。
『ははあ、わかったぞ、御雷さん。』
「何がだよ。」
『その、菊池さんがいるから、久仁恵と結婚するのが嫌なんだろう。』
 菊池は、どきりとする。御雷は困ったような笑顔を浮かべているだけだ。
「比良坂…お前のその口の軽さはどうにかならないのか?」
『学校再生専門員についてレクチャーしたことを怒ってるのかい。』
「俺のことをペラペラ話すこと全般について、だ。」
『そりゃあ、仕方ないだろう。まさか、娘の職場に御雷さんが派遣されてくるとは俺も予想していなかったんだから。』
 御雷は意外に思う。
「ただの偶然だというのか?俺が来ることを見越して娘を潜らせたんじゃないのか?文部省の監視役として。」
「何?監視役って。学校再生専門員には監視役が付くの?」
 御雷は少し混乱する。仕方なく、手の内を少しだけ見せてやることにした。
「いいえ。そういうわけではないんですが。例の役人の情報によると、文部省の中でも色々あるらしくて。今度科学技術庁と一緒になるらしいんですが、学校再生専門員制度を自分の手で潰して、手柄として持参したい向きがあるそうなんですよ。」
 田中に対する口調は、同僚に対するそれだ。
 ああ、なるほど、と田中父は納得する。
『それなら、御雷さんが派遣されたのもわかる。何しろ、専門員のトップだから。監視役を待たせておいて、そこに最高の学校再生専門員を派遣する。そうやってデータを取らせれば、これ以上無い攻撃材料になるだろうね。』
「周到だな…じゃあ、お前たちは俺の監視役ではないのか?」
『当たり前だよ。監視役が直接対決なんてやるわけがないだろう?』
 しっかりしてくれよ御雷さん、と笑う。
『久仁恵を県下でも荒れた学校に赴任させるのに、専門員時代のコネを使ったのは認めるよ。いずれ腕の立つ現役の専門員が派遣されてきたら、そいつと闘らせる腹づもりだっったのさ。』
「酷い父親もあったもんだな。本当に、強ければ誰でもいいのかよ。」
 田中父は答える代わりに言った。
『だから、娘から御雷さんの名前を聞いたときは耳を疑ったよ。まだ現役だったのかってね。でも写真を見たら、間違いなくあんただった。十五年前と全く変わっていない。』
「どういうことですか。」
 田中父の言わんとすることを掴みかねて、菊池が口を挟む。御雷は、もうどうにでもしてくれ、という気になっている。この親子はコントロールできない。
『話してもいいかい、御雷さん。この子はあんたのことは…。』
「仕事の内容は大体娘がバラしてくれたよ。まったく…厄介な親子だ。」
 御雷の笑みは皮肉なものではなかった。
「どうせもうすぐ引退するんだ。話せよ、比良坂。」
『じゃあ、菊池さんに少しだけ昔話をしようか。』
「はい。」
『俺が御雷さんに出会ったのは二十年近く前のことになる。もう久仁恵も生まれていて、家庭もあった。まあ、三十を越えての講師デビューだから変わり者ではあるな。』
「ただ強い奴に出会いたいだけの大馬鹿さ。俺はその時は気がつけなかったけど。」
『まあね。ともかく、俺と御雷さんは最初期の専門員なんだよ。いや、最初は御雷さんだけだった。その働きぶりと成果を目の当たりにした文部省が、いろんな癖のある人間を集めて制度として運用し始めた。それが学校再生専門員制度の始まりだ。結局、俺自身は五年ばかりやって、やめることになったけどね。』
「仕事を放り出して俺にちょっかいを掛けた報いだろ。」
 言葉は辛辣だが、敵意は感じられない。それが菊池には不思議ではあった。
 想像できる部分は、ある。
 命がけの闘いをしても、憎悪や怨恨が根にあるわけではないからだろう。勝者と敗者に別れはしても、互いを認める気持ちがある。それは先程の御雷と田中を見ていればわかる。
『あれは悪かったと思うけどね、後悔はしていない。』
「右眼を失った上に、脳に障害が残ってもか?」
 まあね、と電話の声が笑う。
『あのまま闘らずに別れていたら、ずっと後悔したまま生きることになっただろうさ。あんたが俺を壊してくれたおかげで、娘は俺よりも強くなってくれた。』
 おっと、話がそれるところだった。
『それでね、当時の御雷さんも今と全く同じ姿をしていたのさ。二十代後半の青年、に見えるだろう?』
「はい。田中先生と同じか少し上くらいに見えます。」
『俺よりもずっと年上なんだぜ、その男は。出会った頃は完全に若造扱いだったもんな。』
 田中と菊池が目を丸くする。田中は御雷の外見がこの十五年間変化していないことを知らされてはいる。それでも父親より年上となると、驚きもする。
「特異体質みたいなものです。肉体の老化が異常に遅いんですよ。検査してもらったら、二十六歳の頃から殆ど老化していないそうです。」
『で、うちとしてはどうしても御雷さんの血を家系に入れたくなるわけだ。』
 御雷は溜め息をついた。
「全盛期が長く続けば、それだけ強くなれる。強い相手と闘る機会も増えるはずだ―――理屈はわかるよ。だけど、それは未来永劫修羅道を往くようなものだよ。」
 酷く疲れたような響きが、御雷の声にあった。菊池が初めて聞く、苦い声であった。
 これが御雷の、本心。
『修羅道とは…珍しいな。死後の世界を信じるようになったのかい。』
 御雷は小さく笑った。
「いいや、信じない。人間は死んだらそれきりさ。魂もあの世も、俺は信じないね。」
『それでこそ、俺の知っている御雷さんだ。』
「比良坂、残念だが俺のこの体質は遺伝しない。一代限りのものだよ。だから、お前の娘の婿にはなれないし、子供も作らない。代わりに土産を二つやるよ。」
『殺しの才能だけもらえれば十分なんだが…。それはそれとして、土産とは嬉しいね。何だい?』
「一つは、十五年前にお前を倒した技の秘密。それをくれてやる。」
『いいのかい?秘伝なんだろう。』
「いいさ。どうせ、御雷の業を子孫に伝えるつもりはないし。かといって、誰でも習得できるものでもない。比良坂なら、受け継ぐ資格があると思うけど。」
『御雷の業を絶えさせるのかい?勿体ないな。』
「そもそも、俺自身が御雷の血筋じゃないよ。本家は、子が生まれなくなって絶えた。血で業を継いでいくと限界に突き当たるんだよ。比良坂では―――男児が生まれる率が極端に低くなっているんじゃないのか?」
 電話の向こうで肩を落とす気配がある。
『その通りだよ。たとえ生まれたとしても、強くはならない。久仁恵の兄も、弱くはなかった。だが、比良坂の本流の器ではなかった。』
 御雷は顔を上げた。強い光が瞳に宿っている。
「俺の養父(ちち)は言ってたよ。『血で業を継ぐのは限界がある。技は血ではなく才で継ぐべきなのだ』とね。娘を自由にしてやったらどうだ?比良坂。」
 応えたのは、田中本人だった。
「お言葉ですけどね、御雷先生。これは私自身が望んだことでもあるんです。私は、私の血に夢を託したい。」
 御雷は、何度目かの溜め息をついた。
「あなたも、よくよく業の深い人ですねえ…。」
 電話越しに父親が聞いているのを意識しながら続けた。
「技の要点は、もうあなたの身体に書き込んであります。消えないうちに実家に帰って比良坂に見せてください。あいつなら、一目で理解できるはずです。もう一つの土産は、あなた自身に差し上げます。」
「私に?何でしょうか。」
その前に、確認したいことがあります。そう御雷は言った。世間話をするような口振りに、田中は深く考えずに頷いた。
「あなたは、人を殺す経験を積みたいと思っていますか。」
 ちょっと、何を言っているかわからない。女二人の共通した思いだ。
「ぼくの見立てでは、あなたはもっと強くなる。あと三十人も殺せば、手が付けられないほどに、ね。」
 口元に淡い笑みを刻んで御雷は言う。
「だけど、今は圧倒的に経験不足です。人殺しが強い、と言いたいのではありませんが…ぼくとあなたの勝敗を分けたのは、殆ど経験値の違いだけなんですよ。」
 田中の瞳に複雑な色が浮いているのを認めて、御雷は僅かに苦笑する。
「怪しげな仕事を紹介しようというのではありませんよ。もし、あなたが望むなら、十分な教育を受けた上で、その技を振るう場所を与えてあげることができると言っているんです。」
「それは、どこ?」
「アメリカです。連邦捜査局―――FBIが喜んで雇ってくれるでしょう。そういう人材をスカウトする窓口に、心当たりがあります。」
 菊池の胸が苦しくなる。そういう話は単なる噂や都市伝説の世界のことだと思っていた。だが、気付いてしまった。これは、御雷自身が自らの経歴の一部を告白しているのだと言うことに。
 あの、鬼神のような闘い振り。その世界への扉を、御雷が開いてやる。
「先代の御雷―――最後の血統は、アメリカに渡ることを選びました。その結果としてぼくが生まれました。あの国は、広い。多分、底知れぬほどの強者が存在するはずです。」
 行く。田中は口を開きかけた。
 その唇を御雷の人差し指が押さえた。
「ただし、その場合は教職は諦めることになります。教師・田中久仁恵には死んでもらいます。」
 真っ直ぐに田中の眼を見て言った。
「あなたは、あの子たちを残して、殺しの世界に入れるのですか?」
 田中は唇を噛んだ。
 菊池は見た。爪が食い込むほどに田中の拳が強く握られていることに。眉間の皺が、深い。
 数瞬。
 田中は大きく息を吐き出した。
「父さん、ごめん。」
 菊池の方を見て、照れたように笑う。
「私、教師って仕事を辞められない。」
 田中父が笑った。
『これは、上手くやられたな。御雷さん、あんたの思惑通りなんだろうね。』
「違うね。ただの賭けさ。いや…むしろ。」
 御雷の唇にも柔らかな笑みが浮かんでいる。
「田中先生には教師として生きることを選んで欲しい、という俺の願いだよ。」
『相変わらず、女には甘いんだねえ。』
「抜かせ。俺が優しいのは美人に対してだけだよ。」
『菊池さんとやらも、きっと相当な美人なんだろうな。』
 御雷は鼻を鳴らしただけだった。改めて、田中を見る。
「田中先生。人を殺さずとも強くなる道はあるはずです。ぼくが歩んできた道と、あなたがこれから進んでいく道が同じである必要はありません。あなたは、教員を続けるべき人材です。」
 それだけ言うと、御雷は腰を上げた。
「少し長話が過ぎました。ぼくはもう帰ります。二人とも、難しいとは思いますが、もうしばらくの間よろしくお願いします。」
『もう帰るのかい。今度うちにも寄ってくれよ。で、気が向いたら久仁恵を抱いてやってくれ。』
 ふん、と鼻で笑った。
「お前が死んで、田中先生が子供に殺しの技を伝えるのを諦めた頃に、寄らせてもらうよ。」

 菊池は覚えている。
 濃い、血の匂い。そして。むせかえるような、栗の花に似た匂い。
 男の、荒い息遣い。がくがくと人形のように揺れ動く、姉の白い身体。
 脇腹が、灼けるように痛い。それ以上に、脳髄を灼き尽くすような感情が自分を支配している。
 怒りだ。どす黒い、殺意である。
 男が意味のわからない叫びを上げて、尻を痙攣させると栗の花の匂いが一層濃くなった。
 姉はもう死んでいる、と思った。瞬きをしない眼は焦点を結んでいない。
 もう何度、男が射精したかわからない。死体になった後も、姉を犯し続けているのだった。
 菊池は気配を殺して身を起こす。傷の痛みに呻き声を上げそうになるが、意志の力で噛み殺した。
 鈍い光を帯びた鋼のメカニズムに視線が吸い寄せられる。
 ガンブルーが所々剥げて銀色の地金が見えている、古い自動拳銃。
 男が放り出したままになっているそれを、そっと拾い上げる。
 小さな護身用拳銃は、菊池の手によく馴染んだ。口径二十五ACP。残弾一。
 たった一発で、殺す。殺しそこなえば、次は自分が男の餌食になる。それより、何より―――。
 菊池は、また飽きもせず死体を犯し始めた男の真横に立つ。銃口を耳の穴に当てた。
「それ以上、姉さんを汚すな。」
 自分の唇から出た嗄れた声を、他人のもののように聞いた。躊躇いはなかった。引き金を絞る。そして―――。
 菊池は跳ね起きた。暗い。
 自宅のマンションだと確認して、大きく安堵の息を吐いた。
「菊ちゃん。」
 すぐ横で声がした。闇を透かして、田中の白い腹が見えた。Tシャツが捲れているのだ。彼女は寝相が悪い。布団はとうに撥ね除けてしまっていた。上体だけを起こしている。
 切れ長の眼が、労るように菊池に向けられている。
「また、あの夢を見たの?」
 田中には、自分が教師を志すきっかけとなったあの事件のことも話してある。自分が撃ったのだ、ということも含めて。田中は黙って聞いてくれた。
「最近は殆ど見ることがなかったんですけど…。私、ちょっと疲れてるみたいです。」
 笑いに力が無い。
 ごめんね、と田中は言った。
「私のせいだ。やっぱり、菊ちゃんに知らせるべきじゃなかった。」
「御雷先生のことですか。」
「うん。嫌なことを思い出させちゃったね。あいつのこと、嫌いになった?」
 菊池は苦笑する。
「田中先生は、最初からそうするつもりで、あんなことをしたんでしょう?」
「まあね。あいつが危ない奴だってわかったから。本当のことを知ったら、きっと目が覚めると思ったの。けど、ちょっと変なのよね…。」
「変って、何がですか。」
 表情までは読み取れないが、考え込む気配がある。
「御雷先生は、菊ちゃんに自分の本当の姿を知ってもらいたかったんじゃないかってこと。だって、逃げるチャンスはいくらでもあったもの。いくら学校再生専門員のことを知っていたとしても、御雷先生がそれだという物的証拠があるわけじゃない。私の思い込みだと突っぱねられたらそれまでの話だもの。」
 なるほど、と思う。田中の父との会話だって、わざわざスピーカーモードにして菊池に聞かせてやる必要などなかったのだ。「携帯電話を持つことすら億劫だ」という彼の言葉も、今となっては怪しく思えてくる。
「菊ちゃんはさ、実際のところ御雷先生のことが好きだったの?」
 素直に答えることができた。
「ええ。とても好きでした。どうしてこんなに好きなんだろう、と何度も考えました。結局、わかりませんでしたけど。」
 小さく笑う。その笑いが苦いものを含んでいることが、田中の胸を刺す。
「そういう田中先生は、どうなんですか。」
 田中は小さく溜め息をついた。
「どことなく、似てるんだよね。あいつ。」
「誰に?」
「死んだ――そうじゃない――私が殺した、兄貴によ。それでかな、気になるのは。」
 二人して黙り込む。
 沈黙を破ったのは田中だった。
「今は、どうなの?」
 菊池は、答えない。唇を引き結んだ、あの表情を浮かべているのだろう、と田中は思った。
「銃を使って人を殺す者を許せない、か…。」
 田中の呟きにも、菊池は答えない。答える代わりに、言った。
「すっかり寝汗をかいちゃった。もう一回、シャワーを浴びてきます。」
 湿ったシャツを脱ぎ捨てると、熱いシャワーを浴びた。
 乾かす手間はかかるが、髪の毛まで丁寧に洗い直した。
 曇ったミラーを、手の平で拭う。自分の顔を映してみた。
 見慣れた、自分の瞳。藍色を帯びた瞳が、底知れぬ穴のように鏡の中から菊池を見返している。
 初めて御雷の瞳を見た時に、気付いていたのだ。自分も同じ眼をしていることに。
「私は、銃を使って人を殺す者を許せない…。だけど。」
 脇腹の銃創痕に手を当ててみる。
「一番許せないのは、私自身なんだ…。」
 涙が、溢れた。
 嗚咽を殺すように、菊池はシャワーをさらに強くした。

      15
 臨時休校が明けて、再び稲美中学校での勤務が始まった。
 御雷は、やや複雑な思いを抱えている。
 西本と石川は、当たり前のように登校している。登校して、御雷を監視している。
 それは、いい。予想していたことだ。
 もう学校で殺しはできない。それも、いい。当然のことだ。
 近いうちに、時と場所を選んで始末する。
 そうすれば、ひとまず御雷の仕事は終わる。
 そうなれば、稲美中ともおさらばできる。
 河津組の件は気になるが、問題があっても後任で来るはずの「建て直し役」に引き継ぐだけのことだ。必要なら巧く警察に情報を流してくれるだろう。
 監視者は無視して構わないだろうと判断している。文部省がどうなろうと知ったことではないし、日本を離れる御雷には関係の無いことだ。
 それよりも。
 菊池との距離感に居心地の悪さを感じている。
 全てではないにしろ、自分の裏の顔を晒してしまった以上、よそよそしくされることは想定の内だ。なのに、菊池の態度は変わらなかった。
 御雷は、戸惑う。
 それでも、菊池の心の中に、以前は存在しなかった壁があるのを感じることはできる。
 菊池も迷っているのだ。悩んでいるのも伝わってくる。心なしかやつれたようにも見える。
 迷っている者の近くに居ると、迷いが伝染する。
 そう思うから、御雷としては菊池の側には居たくない。しかし、彼女を守るためには近くに居なければならない。
 何なんだ、この居心地の悪さは。
 さすがの御雷も愚痴を言いたくなるが、その居心地の悪さの原因が自分自身の心の内にあることは認めざるを得ない。
 あからさまに嫌悪してくれた方が、よっぽど気が楽だ。まったく、俺としたことが、柄にもない…。
 そんな思いを抱えながら、授業をこなし、菊池のサポートを続けている。
 田中とは、以前よりも腹を割って話せるようになった。自分と菊池の距離が開くことを前提に、彼女の身辺の見守りを頼んである。
 二人の女も早々に始末してしまえば、楽になれる。
 それは十分にわかっている。が、これ以上学校関係者を死なせるには、それ相応のリスクを覚悟せねばならない。女が死ねば、接点のあった異性として御雷が注目を集めることも避けられないだろう―――というのも、結局は二人を殺さない言い訳に過ぎない。
 御雷自身がよくわかっている。
 俺は、やっぱり弱くなったのかもしれない。比良坂、お前の眼は曇ってるみたいだよ。
 迷いか。
 久しぶりの感覚に戸惑いはあるが、それでも授業は順調だ。生徒たちは去年の遅れを取り戻すだけに留まらず、益々旺盛な学習意欲を発揮しつつある。それに対する教材の準備も完璧にしてある。
 いつ、御雷が居なくなっても大丈夫なように。
 そして、それはいきなりやってきた。
 いつものように授業をしていると、教室のドアがノックされた。教頭である。生徒に自習課題を指示してから廊下に出る。
「済みませんね、授業中に。緊急の連絡だというので。」
 尋ねる前から、御雷にはわかっていた。一応、形だけは確認を取る。
「どうしたんです?」
「石上剣さんという人を知っているだろうか。」
「ええ。従兄弟にあたる人です。本家筋に当たるので、ぼくとは姓が違いますけど。それが、何か?」
「その人の親戚に当たる石上暁子さんが、危篤だそうだ。入所先の施設から、さっき連絡があった。石上剣さんから、『緊急の時には御雷武に連絡を』と頼まれていたそうだ。」
 わかってはいたが、改めて教頭の口から聞くと、御雷は全身の血が引くような気がした。
「石上暁子さんは、ぼくにとっても大切な身内です。すみませんが、今から有給をもらいます。復帰については改めて連絡します。」
 教頭の返事も待たずに、大股で歩き去る。背中で言った。
「帰るのは葬式が終わってからになるかもしれません。生徒には、ぼくの不在をあまり強調しない方が安全だと思います。」
 西本と、石川のことを言っているのだと教頭は理解する。
 気は急いていたが、体育館に行った。田中を呼ぶ。
「どうも、身内に不幸事がありそうなんで、ぼくは帰ります。二、三日は戻れないと思います。その間のことを頼みます。」
 言わずとも田中にはわかった。菊池のことだ。
 返事をする間もなく、御雷は足早に歩き去っている。その背中が、妙に小さく見えた。
 御雷は手早く手荷物をまとめるとスバルを出した。
 平屋に戻るとバイクに乗り換えて石上邸に向かう。焦りはあるが、尾行に対する油断は怠らなかった。
 本来の姿に戻り、服を着替え、スープラを出す。
 程なく、暁子が入所している高齢者福祉施設に着いた。
 御雷が付くのを待ちかねていたのか、顔馴染みになった職員が出迎える。
「お世話になります。容態は、どうなんですか。」
「今は、お部屋で眠っています。お元気だったんですが、急に気分が悪いと言われて。」
 施設出入りの医者が呼ばれた。暁子の健康診断も定期的に行っている。延命治療を希望していないことも承知済みだ。だから、結論を出すのも早かった。
「この人には、もう生きる力が残っていない。親族に連絡してあげてください。」
 そして、御雷はここにやってきた。
 そっとドアを開けると、滑るような足取りで医者が出てきた。他の入居者に聞かれないように小声で話す。こういう場面に慣れているのがわかる。
「心臓が、弱っています。今は眠っていますが、また目を開けてくれるかどうかは、わかりません。もし意識が戻ったとしても…。」
「わかっています。間に合ってよかった。」
 御雷の口元に浮かんだ微笑に、医師はどきりとした。同性である―――と聞かされている―――のに、老いた身体の芯が疼くような、哀しい笑みであった。
「お別れをしてきます。」
 用があったら呼んでください、という医者の言葉は、「暁子が死んだら呼べ」という意味だ。
 御雷は、入口のドアを閉めると、しばらくの間ベッドに横たわる暁子を見つめた。
 心拍数と血圧のモニターの作動音だけが聞こえる。当初よりの打ち合わせ通り、酸素マスクなどは付けられていない。
 カーテン越しの柔らかな日差しの中で、暁子はまどろんでいるように見えた。
 皺深く、痩せてはいる。美しい老い方をしている、と思った。
 往時の美貌を忍ばせる穏やかな寝顔に、死の影が色濃い。
 御雷は胸が苦しくなった。
 ベッドに歩み寄って、膝を突いた。やせ細った手を取って、優しく呼んだ。
「暁子。兄さんだよ。」
 辛抱強く、何度も呼びかける。
 暁子の瞼がゆっくりと開いた。淡い色の瞳が御雷を見付ける。
 血の気のない唇が微笑んだ。
「兄さん…来てくれたんだ。」
「もちろん来たさ。兄さんは、約束は守る。」
 御雷は暁子の手を握る力を、少しだけ強くした。暁子が握り返す感触は、ほんの僅かしかない。
「あのね…今、父さんと母さんが来てたの。」
 夢の、話か。
「そうか。何か言ってたかい。」
 暁子は御雷の顔を見詰めた。
「私を、迎えに来たって。もうすぐ、一緒に行くことになるって。だから…もう兄さんとはお別れなの。」
 暁子の生命はもう枯れかけていたが、涙を一筋流した。
「兄さんだけ残してしまって、ごめんなさい。」
「いいさ。お前と、約束したからな。」
 御雷の、声が震えた。涙が、溢れた。二十年ぶりの、涙。
「お前を見送ってやると、兄さんは約束した。ちゃんと守るから、心配しなくていいよ。」
 細い指が伸びて、御雷の涙を拭った。歳を取ってはいても、爪の形は美しかった。
「ねえ、兄さん。」
「ん。何だい。」
 淡い色の瞳が、黒曜石のような瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「兄さんは、あの世ってあると思う?」
 昔、同じことを尋ねられた。その度に同じことを答えたものだ。
「いや、思わない。人間は、死んだらそれっきりだよ。魂もあの世も、ぼくは信じない。」
 暁子は、満面の笑みを浮かべた。少女のように。
「やっぱり、私の晃兄さんだわ。ちっとも変わっていないのね。」
「暁子…やっぱり、認知症になったっていうのは。」
 少し、呼吸が苦しくなってきた。でも、笑ってみせる。
「嘘よ。財産目当てに寄ってくる連中が疎ましかったから。」
 くすくすという笑い声に、ぜいぜいという荒い呼吸音が混ざる。時間が、ない。
「ね、顔をよく見せて。」
 御雷は暁子に見えるように顔を近付けてやった。その頬を、暁子は愛おしそうに撫でた。
「本当に…お母さんにそっくり。男の子なのに、私より兄さんの方がお母さんに似てるなんて、変よね。でも、おかげで晃兄さんが来てくれたって、すぐにわかった。」
 会えてよかった、と言って暁子は泣いた。
「歳を取ってないのを変だと思わないのか?」
 そこは、御雷の実の妹である。
「それは、生きていれば色々あるでしょ。それよりも…すぐに見付けてあげられなくてごめんなさい。」
「それは、ぼくのセリフだよ。何度もアメリカに来てくれたんだろう?」
 結局、再会するまで六十年余りかかったことになるのか。
 晃・暁子という兄妹が数奇な運命の果てに再会したのは、永遠の別れが訪れるほんの僅かな手前であった。
「生きているうちに会えただけで、私には十分よ。」
 暁子の瞳は、幼かったあの日と同じように悪戯っぽく笑っていた。
「兄さんが信じてなくても、私はお父さんやお母さん、それに天狗の爺っちゃんたちのところにいるわね。」
「ああ。ぼくがどう言っても、お前は自分が好きなように行くんだろ。昔から、変わらない。」
 御雷は笑った。二人とも、笑いながら泣いていた。
「でも、あの世で兄さんを待ったりはしない。ね、最後の約束をして。」
「まだ、ぼくに何か約束させるのか?」
 淡い色の瞳が瞬きもせずに言った。
「死なないで。」
 御雷は、言葉に詰まる。その約束は、俺にとっては重すぎる。
「兄さんじゃなければできないことがあるような気がするの。兄さんじゃなければいけないことがあるような気がするの。」
 息が、切れそうになる。それでも、言う。
「だから、約束して。『死なない』って。」
 御雷の手を握りしめている、暁子の痩せた手。そこに込められた力が、彼女の命の最後の輝きだ。消えそうな炎を、引き留めるように御雷は呟いた。
「わかった。約束するよ。」
 よかった、と暁子は笑った。
「兄さんは、約束したことは必ず守ってくれるもの。」
「まったく…酷い妹だよ、お前は。」
 暁子は片目を瞑ってみせた。彼女も建の仕草を見ては、よく真似していたものだ。
「私のお願いを必ずきいてくれる兄さんが、私は大好きよ。だから、私が死んだらアルバムをもらって。兄さんが私にくれた、一枚だけしかない家族写真を貼ってあるから。」
 別れ際に渡した、大切な写真。それを暁子も心の支えにして生きてきたのだ。
「わかった。」
「それじゃ私、そろそろ行かないと。」
「うん。」
 暁子は目を閉じた。一度だけ、大きく息を吐いた。唇が言葉を紡ぐように動いた。それが「おやすみ」だったのか「ありがとう」だったのか、あるいは「さようなら」だったのか。御雷にも読み取ることはできなかった。
 それきり、暁子は動かなくなった。
 サイモンが日本に赴任した時から、彼に依頼して暁子の行方を捜していた。御雷にとっては唯一血を分けた妹である。稲美中学校を任地に選んだのは、ようやく見付けた彼女の様子を遠くからでも見てみたいと思ったからだ。それが、彼女の嘘をきっかけに、こうして看取ることになった。思えば、幼い頃から暁子には振り回されっぱなしだった…。
 御雷は、暁子の手を額に当てて、長い時間瞑目していた。
 これで、一つ約束を果たした。だが、俺はまた新しい約束を背負い込んだ。
 何十年生きても、人は成長しないものだ。
 ようやく苦笑らしきものを浮かべると、御雷は立ち上がった。
 暁子の死を伝えるべく、彼女の部屋を後にする。
 暁子は振り向かずに死出の旅路を行く。
 御雷も、振り返らなかった。
      *
 教頭は、御雷の指示を守って彼が最低でも数日は学校に戻らないことを生徒に対して明言しなかった。無論、教師には伝えてある。男性教師の不在を伏せるのは、稲美中学校ではある意味暗黙の了解になっている。羽目を外す生徒が出るのは誰だって面倒臭いと思うものだ。それがたとえ一線級のワルでないにしろ、だ。状況を察して、教諭たちも生徒の前では御雷の不在には敢えて触れない。
 だが、教頭も御雷も見落としていることがあった。
 教室前の廊下にホワイトボードが下げてある。そこに一週間分の授業予定が掲示してあった。
 掲示といっても、単純に一週間分の枠線が引いてあって、そこに教科名を書いたマグネットをぺたぺたと貼り付けてあるだけのことである。それを見て、各教科の係を務める生徒が授業の予定や課題等を教師に確認して、自分の学級に伝えるわけだ。
 二年生で、この掲示を担当している教諭は、穏やかで思いやりのある女性だった。人望もそれなりにあったが、残念なことに思慮が足りなかった。
 彼女は深く考えもせず、英語の札を別の教科に貼り替えてしまった。その週の、最後まで。
 言葉にせずとも、少しばかりの観察力があれば事情はわかる。
 西本はすぐさま玄に連絡した。内容は簡潔だ。
「御雷が、学校を離れました。事情はわかりませんが、今週一杯は奴の授業が他の教科に変わっています。」
 菊池由美が消息を絶ったのは、その日の帰宅途中のことであった。
 御雷は、いない。

9件のコメント

  1. luciferled00

    ようやく終わりが見えてきました。次章が最終章になる予定です。

    思えば、第七章は悩みの連続でした。アメリカでは学校内の銃撃事件が頻発し、日本でも警察官の拳銃を奪って小学校で発砲する事件があり。

    でも、私は自粛なんぞしません。小説の構想は事件よりずっと以前からのものですし、そもそもエンターテイメントとは不謹慎なもの(語弊あり)だと考えているからです。…自作がエンターテイメントになり得ているかは、また別の問題ですが。

    また、「このエピソードをわざわざ描く必要があるのか?」という迷いもありました。蛇足というか、冗長になるだけではないのか、と。

    ですが、私が生涯に書く小説は、この一本限り。ならば、いろんなものを突っ込んでしまおう、ということになりました。
    今回もお付き合いいただければ幸いです。

    • MIZ

      えっ、次章で終わり?。
      えっ、生涯で書く小説はこの一本だけ?。
      えっ?。
      えっ?。
      えっ?。
      水爆並みの爆弾発言が!。

      今晩より、楽しませていただきます。

      ルシファさん、次回作も考え・・・モゴモゴ・・・。

    • ルシファ

      いやね、「今を逃せばもう書く気力が残っていない」と思って毎日書いてますが、もう限界なのですよ。
      もう午前二時まで書く生活は懲り懲りでやんす。
      プロ作家というのはやはり凄いなあ、と思わされます。

      それに、今はプライベートタイム(子育てやら家庭のことをする時間を除く)を全て文章書きに費やしてるんですが、他のこともやりたいのです。
      特に、そろそろ歩きたい!という欲求がムクムクと湧いてきてですね…。
      ここ十年近く、大好きなウォーキングを封印して、時間を息子の見守りに捧げてきたので、そろそろエエやろ?と。

      真っ暗な坂道の往復4キロ。以前はキロ10分ペースでしたが、今の自分ならどれくらいが快適か…楽しみでありますよ。

      なお、物語についての設定とか、あの場面の意味はこういうことだったんだ等々、スリーブノート的なものは書いてみようかな、とも。
      マシューの話とか、御雷とK2の日常とか、K2の出自に迫る話とか、小ネタはあるんですけどねえ。
      あくまで「おまけ」みたいな話にしかなりませんわ。

    • MIZ

      私も現在の歩くペースが約10min/㎞。
      周回コースが約4㎞。
      行きは下り、帰りは登り。
      途中、300メートルほど登りでランニング。
      周回コースを40分弱で歩いてしまうので、脂肪燃焼にはチト不足。
      なので追加で家の周り、緩い下り→キツイ登り→フラット、な1周約4分のコースを6周。
      (小学生の頃の息子たち、このコースを1分切りで、走ってたっけ。)
      これで約7500歩。
      休日は朝夕2回で約1500歩。
      平日は夜に1回。
      (平日は帰宅時間でナカナカキビシイ)
      昨日は土砂降りの中、カッパ+ブッシュハットで朝夕2回。
      これで現在のところ、−1kg/月の減量率。
      いずれ体重が落ちなくなってくるでしょうから、その時のバランス点によってはランニングかな?と思っています。
      目標体重は78kg。
      理想は74kg。
      現在の体重は、モゴモゴ・・・。
      ガ、ガンバるぞ!。

    • 市

      朝6時に起き、ケンシのピッチングとバッティングにつきあう。7時、パソコを開く・・・つられるようにルーさんの小説を読む。描写が巧いのでスルスルと読んでしまう。うっ・・^_^; いかんいかん、初めから通しで読むんだ!!
      自重自重(^_^;)

      by 若きころ 2台のスプラに乗ったヲトコ

  2. 晴れ晴れショー

    今日の、総歩数合計は8604歩でした。
    なんか、自分が勝手に思っているだけなのですけど、ルシファーさんの作品をまだ読めてない無いのに、ルシファーさんの書き込みに関して書いて良いのだろうかという思いが少しあったのですが、
    それは、杞憂で考え過ぎだとの結論に達したので、こちらの方に書かせて頂きました。
    ちょっと、自身のスケジュールの都合やらで中々読む時間をつくれませんし、
    近々に直ぐ読むという事は出来ませんが、必ず時間をつくって読ませて頂きまして、感想の方も書かせて頂きますのでよろしくお願いしますm(__)m
    明日も歩きます(^o^)

    • ルシファ

      物語というのは、いつでも好きなときに読めるところがいいのです。
      たとえ作者がいなくなったとしても、ふと思い出して読んでもらえたら嬉しいなあ…という気持ちなのですよん。…いや、長生きはするつもりですけどね(笑)

      いつか、「その時」が来れば、自然と読むこともあると思います。
      だから、「頑張って読む」ことはしないでくださいね。
      私の作品は、あくまで娯楽作品なので(笑)

  3. 晴れ晴れショー

    今日の総歩数合計は7041歩でした。
    明日も歩こうと思います(^^)v

  4. MIZ

    読み終わりました。
    面白い!。
    只々、面白い!。
    何度も書きますが、ど真ん中どストライクでハマってます。

    早く続きが読みたいものの、次で終わりだと思うと何やら複雑。
    早く読みたい、でも終わらせたくない。
    そんな感じ。

    しかし、菊池チャンが気になる!。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

画像をアップできますよ♪