【鳴神来たりて(仮題)】のための創作ノート⑨(完結)

  【エピローグ】

      1
〈御雷由美の手記〉

 私が御雷武こと御雷晃の妻となってから、早くも十年が過ぎた。時が経つのは本当に早いというが、子供が生まれてからはその実感が益々強くなっている。
 アメリカに渡った私は、ドクトル・マシューの養女となった。何でも、晃さんの前妻である恭子さんも彼の養女だったそうだ。今は、私と響子さん、それに日本にいるサイモンさんが彼の子供ということになる。サイモンさんが七十歳くらいということだから、相当な歳になっているはずだが、外見上は青年だ。人工体に入っている上に、自分の脳を弄って活性を保っているとかで、ちっとも年齢がわからない。
 私が社会科の教員だったことなどを話している内に、問わず語りに教えてくれたことをつなぎ合わせてみると…どうもマシュー博士は第二次世界大戦頃にドイツから亡命してきたらしい。ナチス主導の非人道的な研究に嫌気が差した、と本人は言っている。が、晃さんによればこの施設でも相当なことをしてきたようだし、理由としては怪しいものだ。個人的な推測になるが、おそらくユダヤ人であることが最大の理由であろう。
 私自身は、この研究施設や隣接する米軍基地関係者の子供達が通う学校で、教師として働いている。響子さんが根回しをしておいてくれたおかげだが、日本のサブカルチャー人気のためか、日本史や日本語を学びたいという子供達が大勢いて、思いの外忙しい。お陰で、あまり得意でない書道も、大分上達した。
 上達したといえば、渡米後、晃さんに頼んで射撃を本格的に仕込んでもらった。あまり危険な目に遭うこともなかったが、それでも二回は自衛のために撃ち、きっちりと敵を倒すことができた。最近では、自分に殺しの才能があることを嘆くこともなくなった。この才能のお陰で、私は自由に行動することができるからだ。
 ここ数年は、働きながら大学にも通っている。アメリカ先住民の遺跡調査にも同行させてもらうことが増えた。子供の頃の夢―――考古学者になる夢が、少しずつ叶いつつある。明日から、衛星写真で発見された墳丘墓の現地調査に行く予定だ。少し重いが、SIGのP226を連れて行こうと思う。
 子供達のことにも触れておかねばならない。
 晃さんとの間に二児を授かった。八歳と五歳。二人とも男の子だ。親馬鹿だと言われそうだが、とても美しい少年に育ちつつある。きっと父親の血が強いのだろう。
 晃さんは思いのほか子煩悩で、赤ん坊の頃は昼夜を問わず世話をしてくれた。おかげで、私はそれほど深刻な寝不足に悩まずに済んだ。
 また、響子さんにも感謝せねばならない。彼女の献身的な協力がなければ、もっと子育ては困難だったはずだ。晃さんによると、亡くなった武さんのことも大切にしていたそうで、もともと子供が好きなのだろうと思う。かといって甘やかすだけではなく、きちんと道理を説いてくれるので、親としては有難いことこの上ない。子供達もよく懐いている。彼女のことをお姉さんとは呼ばず、「響子母さん」と呼んでいるのが何とも申し訳ないが、本人は結構気に入っているようだ。
 響子さんといえば驚くべき事が起きた。彼女自身も二児の母になったのである。もう四歳と二歳になった。彼女が秘密にしていた最後の研究テーマとは、「晃さんの子供を産む」ことだったのだ。とはいえ、通常の妊娠とは違うプロセスが必要だ。卵子があっても、生身の人間の精子を直接受精することはできない。なんでも、晃さんの精子に含まれている遺伝情報をコード化して取り込む機能を卵細胞(にあたるユニット)に持たせたそうだが…文系脳の私にはよくわからない。
 ともかく、響子さんの情報と晃さんの情報を半分ずつ持っている子供が生まれてきた。ちゃんと胎動もあり、お腹も大きくなった。陣痛と出産の痛みまであるのには本人も参ったようだ。「身体が千切れるかと思った」という感想には、大きく頷けるものがある。
 響子さんの子供は二人とも女の子だ。これ以上は産めないように設定しているらしい。この設定は娘たちにも引き継がれている。理由は簡単だ。無制限に産めるようにすれば、身体強度や身体能力に優れる彼女らに、旧来の人類は駆逐されてしまうだろうから。それでも、各々が二人ずつ子供を産んでいったとしたら。ひと世代ごとに数が二倍になる計算だ。ゆっくりと数を増やして、やがてどこかでバランスが取れるのだろうか。
 男の子を産めない/産まない理由もはっきりしている。仮に人工の精子を作ったとしても、人間の卵子にそれを受け入れる能力がないため、意味が無いからだ。響子さんの子孫は女性しか生まれない。だからなのかもしれない。私の息子を可愛がってくれるのは。彼女も、本当は両方産みたいのだろう。
 響子さんの娘たちについてはまだわからないことも多い。寿命についても、限界があるのか無いのか。容姿についても、成長の途中のある時点でロックがかかるのか、それとも任意で見た目の年齢を変えられるようになるのか。親である響子さんにも「わからない」という。それでも彼女たちはとても綺麗で、純粋だ。情操面でも順調に育っているように見える。
 晃さんは今日も子供達とキャッチボールをしたり、本を読んでやったり、一緒に昼寝をしたり…とても幸せそうに見える。たくさんの子供達に囲まれて生活したいと思っていたようだ。
 ここで、稲美中でお世話になった方々のその後についても記しておこうと思う。
 矢沢先生は、私と同じタイミングで退職した。後で晃さんから聞いた話だが、矢沢先生から相談されたことがあったのだという。驚いたのだが、矢沢先生には少女性愛者の傾向が強くあったらしい。今にして思えば、彼が生徒をモデルにして描いた絵は、実に魅力的だったように思う。晃さんは、ただ「心に秘めておくだけなら罪にはならない。心に秘めておけないのなら自分で決着を付けるべきだ」と言った。その結果、矢沢先生は退職することを選んだというわけだ。この件については、「教師という立場を捨て去ることで、逆に枷を失う場合もあるから目を離さない方がいい」とも言っていた。多くを語ってはくれないが、学校再生専門員時代には、そういう教師から生徒を守ることもあったのだろう。今のところ、矢沢先生が捕まったという話は聞いていない。
 守矢先生は、当時新採だったあの谷杜君と結婚した。同じ数学科ということで、色々相談しているうちに、自然に…ということらしいが、実際には谷杜君の方が守矢先生の毒舌に惚れ込んで強引に押し切ってしまったらしい。…人の縁なんてわからないものだ。
 田中先生は今のところ四人の子を持つシングルマザーとして活躍している。「抱かれれば弱くなる」というのは根拠のない説だったようで、今の田中先生は前よりも強くなっているらしい。割と短期間で出産を続けているので、職場には心ない言葉を投げる同僚もいるようだ。しかし、そこは田中先生だ。嫌味など何処吹く風で、「最低でも五人は産む」と公言している。夏休みだかに子供達を職場に連れて行くことがあったそうだが、件の教諭は絶句したらしい。何しろ、あの田中先生と晃さんの子供である。男の子も女の子も、怖いほどに美しいのだから。一人目が生まれたときは、私と晃さんが日本に行って身の回りの世話をした。晃さんに至っては出産にも立ち合ったのだから…生まれた子にメロメロになるのもわかろうというものだ。
 結局、籍こそ入っていないものの、田中先生も晃さんの妻の一人なのだと実感する。あんなに私のことをからかっていたくせに、今は晃さんにベタ惚れなのを隠そうともしない。そこが可愛いのか、晃さんはふいに姿を消しては日本に行っているようだ。たまにしか会えないというのもあるだろうが、実に甘え上手で、私は少し悔しくなる。
 でも、ほんの少しだけだ。
 響子さんの言うとおり、晃さんは一人が独占するには大きすぎる。だから、響子さんを筆頭に、私と田中先生の三人で「共有」するのが一番いい。彼は私たち女を「自分のものにした」と思っているかもしれないが、真実は「女たちが御雷晃を所有している」のである。彼自身も、それを理解した上で、状況を楽しんでいるようなフシがある。
 意外といえば、戸籍上は私が正妻ということになっている。御雷姓を名乗っているのもそのためだ。本来なら響子さんが名乗りたかったに違いないが、うっかり手続きを忘れていたらしく、戸籍上の年齢が当時はまだ七歳だったのだという。わざと、かもしれない。響子さんの能力なら後からの改竄はいくらでも可能だろうから。
 彼女は私に言った。「百年間だけ、御雷の名を預ける」と。そのかわり、実質的な正妻の座は譲れない、とも。まあ…晃さんは私たち三人に平等に愛情を注いでくれるので、本当は名前も正妻の座も大した問題ではないのだが。
 響子さんも、どこまで本気なのかはわからない。相変わらず若く美しく、そして今もどんどん賢くなっている。私が年を取り、この世を去ることになっても、響子さんがいてくれる。そう思えば、安心して晃さんとの人生を謳歌することができる。今になって、故・御雷恭子さんの気持ちが痛いほどよくわかるようになった。響子さんは、私たちの希望だ。
 実は、彼女から明かされた秘密が一つある。これだけは、晃さんにも内緒だ。女同士の約束だから。響子さんは、晃さんにナノマシンを注射させたときに重要な細工をした。それは、晃さんの生命活動と自らのボディの維持をリンクさせること。簡単に言えば、御雷晃という人間が死ねば、それが引き金となって自分のボディが崩壊する仕組みを組み込んだのである。晃さんが死ねば、その三日後に響子さんも死ぬ。何故三日なのか、という問いには「三日あれば晃さんの弔いができるから」という答えが返ってきた。これが、正妻の凄味というものだろう。こんなに素敵な女性に、ここまで愛されている御雷晃という人間は本当に幸せだ。…本人は相変わらずの極楽とんぼだけれど。
 そういえば、嬉しいニュースもあった。田中先生からだ。電話よりメールのやり取りの方が多い。彼女は何校かの勤務を経て、今はまた稲美中学校に勤めている。そこへ新採教諭としてあの広瀬由希が赴任してきたという。十年も経てば、教え子が教壇に立つようになる…そういうものだ。
 広瀬は英語科の教諭になった。きっかけは、御雷武との出会いだという。田中先生は広瀬との約束をあっさり破って教えてくれた。広瀬が英語科の教諭を志した理由の一つ…何と、彼女にとって御雷武が初恋の相手なのだという。
 なかなか男を見る目がある。晃さんに話して、どんな反応をするか見てみたい、と思った。でも、メールに添付された広瀬の写真を見て、やめた。この十年で、驚くほど綺麗になっていたのだ。彼女の幸せのためにも、晃さんと接触するきっかけになるようなことは避けた方がいい。
 そういえば、昨日から晃さんの姿が見えない。今原市の障害者福祉施設への納品に出かけている、と響子さんが教えてくれた。あの、私が一時捕らえられていた施設は、今も元河津組の組長である沢田という人の持ち物だ。晃さんは何故かあの人のことが気に入って、巧く戸籍や経歴を誤魔化してやったようだ。その代わり、彼の会社が開発している福祉器具のモニターを施設の利用者にやってもらうことになっている。どうやら、あの御雷玄が今際(いまわ)の際(きわ)に、あの施設を残してやってほしいと頼んだらしい。怖いが、根は優しいところは、やはり晃さんと似ているということか。
 晃さんを見送ったという響子さんが、眉間に皺を刻んでいる。量子リンクの接続を拒まれているという。今も彼女は呟いている。
「妙にいそいそと出かけたし。何だか、怪しい。」
 そもそも、社長自らわざわざ今原市まで納品に出かける必要があるのか?私も不審に思う。響子さんは私に確かめる。
「今原市に、何か特別なものがあるんですか?」
 …ある。が、口には出せない。まさか、ね…。

      2
〈un nouveau prologue〉

 夕刻。
 随分日は長くなってきたが、それでも部活動が終わる頃には闇の気配が色濃く漂っている。
 自転車を押して校門を出る広瀬由希の足取りは、重い。
 今日も、うまくいかなかった。なかなか、思い通りにはやれないものだ。
 赴任して一ヵ月。
 自分が生徒だった頃に比べれば、今の母校は雲泥の差がある。無論、良くなったということだ。
 それなのに。
 授業がうまくいかない。
 生徒との人間関係作りがうまくいかない。
 部活の指導がうまくいかない。
 これだけ何もかもうまくいかないと、さすがの広瀬も泣きたくなってくる。稲美中が母校だということが、却って重荷に感じられるほどだ。
 救いは、隣のクラスの担任が、恩師―――田中だということだ。子だくさんのシングルマザーだということだが、前よりも綺麗になったし、さらに豪快になったと思う。
 落ち込んでいるとき、田中は必ず声を掛けてくれる。
「あのねえ、広瀬。菊ちゃん―――菊地先生だって、あんたたちを担当した直後は毎日落ち込んでたものよ。最初から巧くやれる奴なんていないし、逆に小手先のテクニックばかり上達してもらっても困るからね。だから、今は精一杯落ち込みなさいな。」
 片目を瞑って笑ってみせる。
「若さの特権ってやつだぞ、広瀬。」
 口癖のように田中は言う。片目を瞑る仕草が、御雷を思い出させた。
 菊地には、御雷がいた。自分には、誰もいない。
 正門を出たところで、ふと立ち止まった。
 十年前、ここで最初に御雷を迎えたのは自分だったのだ。プーさんを思わせる温和な雰囲気の青年だった。あの、おっとりとした表情の奥に、どんな思いを抱えていたのだろうか、と思う。
 広瀬は自転車のスタンドを掛けて停めた。
 正門の門柱に嵌め込まれた、校名のプレートに触れてみる。緑青が浮いた金属板の手触りはひんやりと冷たい。
 教師として赴任した日を思い出す。母校が未知の場所のように思えて、正門をくぐるのが怖かった。よく知っている場所なのに不安の方が大きいなんて…と自分でも驚いたものだ。
 あの人も、同じような不安を感じながら、このプレートを見たのだろうか。自分との会話で、少しは安心してもらえたのだろうか。
 今だからこそ、尋ねてみたい…と強く願った。プレートに手を触れたまま、しばらく動けなかった。
「おい、早く帰らないと本当に日が暮れてしまうぞ。」
 出し抜けに声を掛けられて、広瀬は飛び上がりそうになる。
 目を凝らすと…目を凝らさなくても、その人はいた。気配が無さ過ぎて、見えているのに存在に気付けなかっただけだ。
 正門のすぐ前で、その人は面白そうに広瀬を見ている。
 不審者だ、とは思わなかった。
 あまりの美しさに、そんなことを考える余裕がなくなってしまったのだ。
 最初は、女性かと思った。
 透き通るような肌が、迫りつつある闇の中でも仄かに光を放っているように白い。すっきりとした鼻梁。紅を引いたような形の良い唇。涼しげな眼差しを縁取る睫毛が長い。化粧っ気はまるっきり無いが、だからこそ素の状態がいかに美しいかよくわかる。
 不思議な美貌だった。全体的には少女のあどけなさを残しながら、見る角度によっては妖艶極まりなくも感じられる。
 ただ一つだけ、確実なことがあった。
 この人は、断じて女の人などではない。
 根拠などはない。それこそ女の直感というやつだ。
 初めて、「怖い」という感覚を覚えた。
 逃げなくては。
 そんな思いが表情に出ていたはずだ。なのに。
「元気でやってるか、広瀬。」
 美しい男は、のんびりとした口調で語りかけた。その口調の温かさには覚えがある。
 顔も知らない。声だって違う。体型も別人だ。だけど。
 広瀬は、いつでも逃げられるように心の準備をしながら、油断なく相手を観察した。
 そして、見付けた。
 眼だ。黒曜石のような、美しい瞳。そこだけは変わっていない。
「もしかして…御雷先生?」
 当たり、と御雷は笑った。黒い流線型のボディーにもたれて立っている。低いアイドリングを奏でているのが、古いトヨタのスポーツカーだということは広瀬も知っていた。
「田中から、お前が教員になったって聞いてな。ちょっと様子を覗きに来たんだよ。」
 菊地の言葉を思い出す。
 ―――次は、みんなが知っているのとはまるで違う声と姿で現れるんじゃないかしら―――。
 あまりにも違いすぎる!とは思ったが、素直に再会を喜ぶ気持ちの方が強かった。
 御雷が真顔で尋ねた。
「広瀬。お前、困っているか?」
 少し考えて、答えた。
「困っては…いないと思います。ただ、どうしたらいいかわからなくて。」
 ふうん、と御雷は顎に手をやった。指の長さと爪の形の良さに広瀬は目を奪われる。
「広瀬は真面目だからな。また『努力の空回り』をやってるんだろう?」
 思い当たる節は、ある。
「人間一人にできることなんて、たかが知れてる。優先順位を付けて、上の方から処理していくしかないんだよ。下の方に来るものは、泣きながらでも諦めなくちゃ先へは進めない。」
「御雷先生でも、諦めたことってあるんですか。」
 御雷は苦笑する。
「そりゃ、あるさ。教師としてやりたいことは山ほどある。でも、実際には諦めなくちゃならないことの方が多いくらいだったね。時間も労力も、無限にあるわけじゃないんだから。」
 教育の現場を離れて、もう長い。少し記憶を辿る必要があった。
「ぼくは、best――最善を狙わないんだ。それよりもbetter――よりよい方法の積み重ねの方が早くて確実だと思ってる。」
「今より、少しでも良く…ですか?」
「うん。それなら今日からだって始められるだろう?慌てずに、階段を上っていけばいいんだよ。教師を目指した志を忘れなければ、お前にはできるはずだよ。」
 御雷は何気なく腕時計を見て、声を上げた。
「少し長話が過ぎた。もう行かなくっちゃ。」
 慌ただしくスープラのドアを開けて乗り込もうとする。
 広瀬は思わず呼び止めていた。
「また、会えますか?」
 御雷は微かに赤味が残る夕空を見上げた。彫像のようだ、と広瀬は感想を持つ。
「そうだなあ…。これから先、お前はもっと酷い学校で働くこともあるだろう。本当に『困った』と思ったときはぼくを呼びな。力を貸してやるから。その時は田中に相談すればいい。」
 まあ、自分の出番が無いに越したことはないのだが、と笑ってドライバーズシートに体重を預けた。リトラクタブルヘッドライトがせり上がって、ハイビームが正門前から続く下り坂を照らした。
 どう別れの言葉を掛けていいのか迷っている広瀬の前で、スープラのサイドウインドウが開いた。
「そうそう、大事なことを言い忘れていた。」
「はい?」
「広瀬…お前、綺麗になったな。」
 本当は、それだけを言いたかったのだと笑う。
 広瀬は全身の血液が顔に集中するのを感じた。
 固まっている広瀬に片手を挙げ、御雷はスープラを出した。
 乾いた排気音が遠ざかり、特徴的なテールランプの輝きがカーブの向こうに消えるのを、広瀬は見送った。
「御雷先生…また会えるかしら…。」
 夢見るような眼差しで、広瀬由希は呟いた。
 
(完)

【鳴神来たりて(仮題)】のための創作ノート⑧

 【第八章 帰還】

      1
 御雷の携帯電話に着信があったのは、暁子の遺骨を故郷の寺に納めた帰路であった。
 数十年振りに訪れた生地は、すっかり様変わりしていた。実家があった場所には、コンビニが建っていた。田舎は田舎なりに、姿を変えていくのだ。
 開発から取り残されたように、寺が残っていた。戦時中に供出した鐘こそ新たに造り直されているが、主な建物は昔のままだ。
 境内に入ると、少年時代と同じ空気の匂いを感じて、一瞬立ち眩みにも似た目眩を覚えた。
 両親の眠る場所だ。
 あの世など信じない。魂なんて存在しない。
 それでも、ここは御雷にとって特別な場所だ。暁子が、そう信じているから。
 来意を告げると若い住職が出てきた。暁子の生前から、両親と共に永代供養してもらうよう段取りは付けてある。金も納めてあった。
 住職の艶やかな顔を目にして、ようやく御雷の時間が現在に戻ってくる。そう、たしかに時間は流れているのだ。
 暁子の死後、各所で必要な手続きをした。葬式はせずに火葬場で簡単な読経だけで済ませた。故人の遺志だ。戒名は既にあり、位牌も用意してあった。暁子が認知症のふりをする前から周到に準備してあったのだ。御雷は巧く彼女の計画の片棒を担がされた形になっている。彼の取り分は、暁子の遺したアルバムが一冊だけだ。
 それでいい、と思っている。そのために再会したのだと考えればいい。
 妹を送り出した哀しみは尾を引いているが、彼女が自由になれたのだと考えれば気持ちは軽い。
 遺骨と位牌を寺に預けた。俺がここに来るのはこれが最後だろう、と思う。
 滞りなく手続きを済ませ、寺を後にした。
 JRの特急に乗り込み、瀬戸内海の風景を眺めながらぼんやりと駅弁を食う。
 一人前では到底足りないが、冷めた弁当だけで腹を満たす気にはならなかった。
 何か、温かいものが食いたい。中華でもないし、うどんと天ぷらという気分でもない。 そういえば、菊池が炊いた飯と味噌汁は何故あんなに美味いのだろう、と思った。恭子も料理は上手かったし、K2の腕も大したものだ。三者三様の良さがあり、順位は付けられない。
 今の気分は、と御雷は考える。菊池があの小さな手で握ってくれた握り飯を、皿に山盛りにして食いたい気分だ。
 今となっては、叶わぬ願いだが。
 今原市に帰ったら、残りの仕事を一気に片付ける。石上邸も教員として借りている粗末な平屋も引き払う。装備品はコンテナで移送して、御雷は身軽に公共交通機関を使って移動する。離任式もしない。簡単に管理職から生徒に離任の報告と後任の紹介があるだけだ。
 いつもと同じ、仕事完了間際の気怠い気分が毛細血管まで満たしているような感覚に陥る。
 いつもと違うのは、これが御雷武としての最後の仕事になるだろうということだけだ。
 細身のダークスーツに身を包んだ姿は、長身の若い女のようにも見える。女にしては髪が短いが、短すぎるということもない。唇は朱を引いたように紅い。睫毛は長く、幾重にも重なっていた。白い肌には化粧を施した痕跡は認められない。
 きっちりとメイクを施した女性客は、御雷と目が合うと視線を逸らした。
 どれほど手を入れようと、天然物には敵わない。そういう気になってしまうのだ。
 実は、男性客からも熱い視線を浴びている。自ら言わねば性別不詳なところがある。着ているスーツは男性ものだが、そういう女性のファションもないわけではない。
 御雷は周囲の期待を蹴飛ばすように、大欠伸をした。その顔までが、ネコ科の動物の優雅さを湛えているようだ―――彼の美貌に心奪われると、そのように見えるらしい。
 退屈な電車旅。飽きてきた頃に内ポケットの携帯電話が振動した。ちらっと見ると、田中からだ。
 一旦客席を離れ、デッキに出る。
 周囲に他の客がいないのを見計らって電話に出た。声と外見のギャップが大きいと人目を引いてしまう。
「御雷です。どうかしましたか。」
『ごめん。やられた。』
 田中の声に口惜しさがあった。自分を責める響きも。
 菊池に、何かあった。
「何があったんですか。菊池先生は、無事なんですか。」
 途方に暮れたような声が返ってきた。
『それが…全然わからないの。』
 それは、こっちの台詞だ。どうも話の要領を得ない。
『とにかく、こっちに着いたら菊ちゃんのマンションに来てくれる?見ればわかるから。』
「わかりました。あと三十分もすれば今原駅に着きますが、あいにくと素顔なんでね。身支度を調えてからそちらに向かいます。」
 電話を切って、ふと窓の外を見た。電車がトンネルに入る。
 窓ガラスに、白い美貌が映っていた。見慣れた、自分の顔だ。
 だが、いつもは涼やかな表情を浮かべている切れ長の眼が、見慣れない表情を浮かべていた。
 俺は、怒っているのか。
 こめかみで、血液が逆流するような感覚があった。
 田中は「わからない」と言った。怪我をしたとも、死んだとも、犯されたとも言いはしなかった。本当に、どうなったかわからないのだ。
 つまり、菊池は姿を消したということだ。
 西本が首謀者なら、今ごろ滅茶苦茶に陵辱されているかもしれない。白井を失った怒りをぶつけるように、あるいは支配欲を満たすように、菊池の肉体を蹂躙し尽くしていることだろう。
 この可能性については、「間に合わない」と結論するしかない。後は、彼女の精神が壊れてしまわないことを祈るのみだ。多分、殺されてはいまい。「死んだ方がまし」という経験をしている可能性なら、ある。
 だが。
 別の可能性も考えている。
 ワルとはいえ中学生の餓鬼が、成人女性を誘拐しおおせるものだろうか。奴らの背後には河津組がいる。彼らは割に合わない仕事はしない。もし河津組関係者の仕業だとしたら、菊池の身柄を押さえること自体が目的ではないだろう。
 単なる手段だ。
 何のための?
 例えば、組事務所を襲った犯人をおびき出すための。あるいは、大量の猛毒入りの麻薬を売りさばいて組の信用に傷を付けた犯人に報復するための。
 そのあたりだろうな、とは思う。
 御雷の弱みらしき点といえば、菊池ぐらいしか見当たらなかったのだろう。
 馬鹿馬鹿しい。古臭いやり方だ。
 問題は、どうやって菊池を救い出すか、だ―――と考えて、御雷は慄然とした。
 何故、菊池を助けることが大前提になっているのだ。
『女の顔が浮かぶようになったら、御雷の男は終わりさ』
 そう建が言ったのは、いつのことだったか。御雷が女を知る前だったはずだ。建が、まだ生きていたのだから。
 女の顔が浮かぶようになったら、御雷の男も終わり。それは引退する潮時だということだ。殺しの一線から身を引かねば、死ぬ。建は「お前にも早く『終わり』が来ればいいんだがな」と笑って話を締めくくったのだった。
 恭子を得て、一度は殺しの世界から身を引いた。しかし、御雷は穴蔵から這い出して、再び命のやり取りをする世界に立った。殆ど死んだ状態から―――墓穴から舞い戻ってきた、二度目の人生だ。
 もう、終わることはない。
 半ば諦めていた自分がいる。
 だが。
 正直に言えばわからないことが、あった。
 終わりにしたかったのは、殺しか?
 それとも生きることか?
 トンネルを抜けた。
 車窓に映る瀬戸内海は、巨大な湖のように凪いでいる。
 御雷の唇に、ようやくいつもの苦笑の影が浮かぶ。
 賭け事は嫌いだが。
「菊池に、賭けてみるか…。」
 呟き、そして思い出した。初めて彼女に出会った日のことを。背中に感じた彼女の温もりを。己の心の声を。
 心配はいらない。
 お前は、俺が生かしてやる。
 必ず、俺がお前を守り切ってみせる。
「K2のことを笑えない、か。ぼくも、無意識にやらかしてたみたいだ。」
 御雷の苦笑が深くなる。俺は、よくよく約束するのが好きみたいだ。
 とはいえ。
 御雷にとって、約束は「誓い」だ。
 誓いは、守らねばならない。
 今原駅が近付いてきた。御雷は座席の荷物を片付ける。弁当殻の他は、小さな旅行鞄が一つ。
 列車がホームに滑り込む。
 注意深く観察し、田中の姿がないのを確認した。菊池の家で待機しているのだろう。河津組の関係者らしき者も見つからなかった。少なくとも手練れはいない。
 何食わぬ顔で列車を降り、ホームのゴミ箱に弁当殻を放り込む。エスカレーターで一階まで下りた。いつものようにタクシーが列をなして客待ちをしている。乗り込んで石上邸に向かった。
 手早く着替えて、いつものようにバイクで平屋に寄り、スバルを駆って菊池のマンションに向かう。
 田中の車はマンション前に路駐してあった。紺色の巨大なランクルはよく目立つ。そのすぐ後にスバルを停めた。市の中心部から少し外れているため、駐車禁止にもなってはいない。
 御雷が車から降りると、淡いピンク色のジャージに身を包んだ田中が手を振った。とかくぼんやりした印象になりがちなピンク色だが、長身でシャープな美貌の田中にはよく似合っていた。
 駐車ロットに頭から突っ込んで停めてあるのは、菊池の車だ。その白い小型車のリヤハッチの前に立って、御雷を招いている。
 菊池め…あれほどバックで駐車しろと忠告したのに、と御雷は状況も忘れて小言を言いたくなる。出庫時の安全性がまるで違うだろうに。
 蒼白な田中を見て、菊池の身に異変があったことを思い出す。というよりも、御雷ですら、菊池がいなくなったという事実を直視することから逃げたがっているのだ。自覚があるからこそ、ことさら平静な声を出した。
「お待たせしました。で、何がどうなったんですか。」
「菊ちゃんが、いなくなったの。」
 御雷の片眉が上がる。
 お前が付いていながら、みすみす誘拐させたのか。
 そう言われているような気がして、田中は長身を縮こませる。
 予想していたような叱責はなかった。むしろ、逆だ。
「完全に張り付きで身辺警護するわけにもいきませんしね。できるのは、校内での警戒と、夜間の泊まり込みぐらいですよ。」
 田中が頷く。
「暗くなってからの外出には気を付けてたのよ。必ず私より早く職員室を出るようにさせてたし。この季節だと帰宅時間でもまだ明るいから…私も常識に縛られてた。」
「菊池先生がいなくなったのはいつなんですか。」
「御雷先生が早退した日の帰り、みたい。」
「みたい、というのは?確かじゃないんですか。」
「あの日の夜にね、菊ちゃんから学校に電話があったのよ。『体調が悪いから二日ばかり休む』って。私もまだ残って仕事をしていたから、教頭先生が電話を受けるのを聞いてたの。」
 田中は教頭に電話を替わってもらったのだという。体調が悪いなら、尚更一人にはしておけない。
「菊ちゃんは、『正直に言えば仮病。誰にも会いたくないだけ』と言ってたわ。」
 ほら、あの子ってああ見えて頑固だから。私が来るのも迷惑だと言っているように聞こえてね。その日は結局行けなかった。
「まあ、二日休めば週末ですからね。」
「菊ちゃんちには十分な食べものがある。独りになって考えたいこともあるだろうと思って、その日はそっとしておいたのよ。」
 自分としたことが詰めが甘すぎた、という響きがある。そうは思うが、菊池が深く傷付く原因を作った負い目もあったのだろう。
「それでもさすがに二日目には様子を見に来たの。そうしたら、こんなことに。」
 田中の指差す方に、御雷は歩を進めた。車の左側からフロントに回る。
 サイドウインドウからも、車内の異変を見て取ることができた。
 車の尻も左側面も綺麗なものだ。
 なのにステアリングに内蔵されたエアバッグが開いていた。
 横から見てもボンネットが妙な具合に歪んでいるのはわかった。
 正面に回って、御雷は呻いた。
 ボンネットの前端、フロントグリルのすぐ上が大きく凹んでいる。ラジエーターコアが押され、明らかにモノコック構造に歪みが出ている。
 自動車同士の衝突というよりも、重く硬く鋭い棒で突かれたような潰れ方をしていた。殆ど点といってもいいような狭い範囲に、恐ろしい力が集中しているのだ。エンジンルームを歪ませ、エアバッグを作動させるほどの、衝撃。
 その正体を、田中の長い指が指し示す。
 特徴のある凹みに、御雷は指を這わせた。さほど大きくもない、楕円形とも角の取れた四角形ともいえる、その形。
 紛れもなく、右の拳の跡だった。
「まさか…殴ってこんな風にしたっていうんじゃないでしょうね。」
 田中の呟きを聞き流しながら、御雷は素早く破壊されたフロント部分付近の地面を検分する。
 あった。フロントバンパーから五十センチばかり離れたところのアスファルトが、二カ所砕けている。
「ありましたよ、手掛かりが。」
 御雷は裸足になって、砕けたアスファルト二カ所に片足ずつ乗せた。間隔は、ほぼ肩幅。五本の指に力を入れると、そこはより深い部分まで砕けているところと一致した。
「ここに立って、ボンネットを潰せる技を、ぼくは知っています。」
 右の拳を、潰れる前のボンネットのラインから、十センチほど浮かせて構える。
 ああ、と田中は目を丸くする。
「この前、御雷先生から教えてもらった技か。こんなに威力があるんですか。」
 俺が放てば、あるいは。そう思ったが、一般論に終始することにした。
「無理ですね。普通は拳が砕けます。あくまで、対人用です。」
 鎧武者程度なら難なく斃せる。あるいは抗弾装備を付けていたとしても。そういう意味の「対人用」だ。
 それよりも、と御雷は運転席側のドアを示した。
「ぼくには、どうやれば車がこんな風になるのか想像もつきませんね。」
 右のドアは、完全に車体から分離して地面に転がっていた。
 御雷の指示を忠実に守り、菊池はきっちりとドアロックを掛けていたようだ。しかし、襲撃者は意に介さずロックごとドアを引き千切ったのだ。ヒンジ側も千切れている。破断面の状態から見て、強い力で一気に引いたのだということが窺われた。
「見てください。鮮やかすぎて、ガラス一つ割れてない。きっと、菊池先生はエアバッグで頭部を打たれ、朦朧となったところを、ドアを開けられて連れ去られたんでしょう。」
 連れ去りそのものでは大した怪我はしていなかっただろう、と推測を述べる。
「ま、こんなことができそうな奴には心当たりがありますが…。もし、ぼくが思っている男なら、暴力団を相手にすることになります。菊池先生を連れ戻すのは、少し骨が折れるかもしれません。」    
「え…菊ちゃんを連れ戻してくれるの?」
 心底意外そうな田中の声に、苦笑いで返す。
「初めから、そのつもりでぼくに電話をくれたんでしょう?」
「それは…まあ、そうだけど。『俺には関係ない』とか言われるかも、とも思ってました。」
 だったら気が楽なんですけどね、と御雷は笑う。どんなに腹が立っていようとも―――むしろそういう気分だからこそ、笑う。
「奴らの本命は、恐らくぼくですよ。殺したくてウズウズしてるんでしょう。」
「なんでまた、ヤクザなんかに恨まれるんですか。」
 御雷は鼻を掻いた。
「いや、ちょっと…組事務所を襲撃して、組織が壊滅する寸前まで痛めつけました。それだけですよ。」
 真顔になる。
「あの時、完全に潰しておけばよかった。少し、後悔しています。」
「後悔なんて、するんですか。御雷先生でも。」
 独りで暴力組織を根絶やしにすべきだった、という発言に対する驚きはなかった。御雷ならばやってのけることは可能だっただろう、という確信がある。
 だが、今はそれも難しい。ピンポイントで菊池をターゲットにしてきたことからも、明らかだ。
「後悔なんて、しょっちゅうですよ。しておけばよかったと思うこともあれば、やらなければよかったと思うことだって、あります。計画通りにいくことなんて…せいぜい殺しぐらいなもんですよ。」
 ぼくは不器用なんです、と中途半端な笑顔を作った。
「菊ちゃんとのことは?」
 考えるまでもない。
「両方です。出会うべきではなかった、とも思います。彼女が攫われたのは、明らかにぼくに関わったためにとばっちりを受けたわけですから。でも、出会えてよかったと思わないでもありません。」
 どうして、という問いには曖昧に笑うだけで答えてやらなかった。
「ともかく、向こうの出方を待つしかないわけですが…。」
 御雷の携帯が鳴った。菊池からだ。
「往々にして、こういうタイミングで連絡があるものです。」
 十中八九、菊池の車を見張っていたのだろう。御雷が今原市に戻り、状況を理解するのを待って連絡してきたわけだ。菊池の携帯電話を使って。
「取り敢えず、車の陰にでも隠れてください。見張っているのが狙撃銃のスコープではないという保証はないんですから。」
 田中が気味悪そうにエンジンブロックに守られる場所を選んで姿勢を低くする。
 生半可な狙撃手であれば、殺気を感じてみせると言ったのは虚勢ではあるまい。田中には、確かに才能がある。その彼女が、殺気も悪意も感じることができない状態のまま監視されている。才能があるだけに、耐えがたい不気味さを感じているはずだ。
 御雷も、監視者の存在を感じることはできない。とすれば、二千メートルほどは距離があるということか。
 過去の経験から、そんなことを思う。
「すぐには撃たれたりしないでしょう。出てみます。」
 通話ボタンを押した。
「もしもし。御雷です。」
 こうして話している姿も見られている。御雷は意識している。
『不躾な電話ですまんがね、御雷先生。』
 聞こえてきたのは老人の声だ。枯れた声なのに、妙な精気がある。
 あいつだ。沢田のところにいるという爺さんだ。
『お前さんの学校の先生を一人預かっている。』
 電話機のスイッチを切り替えて、スピーカーモードにした。田中に説明する手間を省く。
「菊池先生を、返してはもらえませんか。」
『いいよ。』
 あっさりと言った声に、御雷の全身が粟立った。頭の中で火花が散る。
「無条件で、というわけにはいかないんでしょうね。」
『まあな。あの娘を誘拐するために、大分時間と手間を掛けたわけだしな。』
「菊池先生に欠勤の電話を掛けさせたのも、あなたですね。」
『そうだよ、御雷先生。お前さんが帰ってくる前に警察沙汰にでもなったら、予定が台無しになるからな。時間稼ぎだよ。』
「条件を伺いましょうか。」
『娘を取り返しに来なよ。』
「殺されに来い、と?」
『死ぬかどうかは、わからないさ。河津組の連中は殺る気満々だがね。そんなものは蹴散らしちまえばいいんだよ。』
「妙なことを言うご老人だ。」
『儂はな、個人的にお前と闘りたいだけなのさ。ただし、必ずお前さんを殺してやろうと思っている。』
 だから、ヤクザなんぞに殺されてしまうようではガッカリだ。
 そう言って、嗤った。
 御雷は口元を歪める。
「人質を取られて、その台詞を聞かされても嬉しくありませんね。」
『御雷の人間だったら、人質など役には立つまいがね。ま、念のために言っておくが。』
 声を聞いただけで上機嫌なのが、わかる。
『来る、来ないはそちらの自由。だが、お前さんが来なければ、あの娘はかなり可哀想なことになるわな。』
 田中が怒りで顔をどす黒くしている。身振りで、声を出さないように制した。
 御雷は沈黙を守った。
『菊池というあの娘、たしかに綺麗なもんだ。いかにもお前さんが好みそうな女だよ。頼りなさそうだが、ああ見えて芯はなかなかどうして大したもんだな。何しろ気が強い。御雷の嫁になる資格は十分あると儂は見ているんだがね。』
「ぼくと彼女は、そういう関係ではありませんよ。」
『それでも、お前は来る。御雷の系譜に属する男っていうのは、そういうものさ。』
「ぼくが逃げるとは思わないんですか。」
『思うよ。お前さんが本気で逃げ隠れしたら、探し出すのに苦労するだろうな。』
「あなたと話していると、本気でそうしたくなってきましたよ。」
『怖いか?儂が。』
 御雷の唇に薄い笑みが浮かぶ。
「ええ、怖いですね。あなたのような人とは闘りたくない、と本気で思っていますよ。」
『それでも、お前は来る。怖いと思うのが、愉しいんだろう?お前たちは。』
 田中と目が合った。彼女の目に浮かぶ表情は複雑だ。
 怖いと思える相手と立ち合う。怖ければ怖いほどに、愉しい。そして、必ず倒したくなる。
 先日御雷と試合った時のことを思い起こしている。死ぬかもしれないと思った。殺す気で技を振るうのも恐ろしかった。だが、強さの底が見えない御雷を前にしていると、どうしても彼を斃したくなる。一番怖かったのは、「殺したい」という心の声を聞くことだ。
 だから、老人―――玄の言葉は田中の心にも響く。
 御雷は答える代わりに質問した。玄が本物なら、返答は決まっている。
「で、菊池先生は今どうしているんです?」
 ふうん、と玄は嗤った。
『儂を試すのかい、御雷先生。』
「あなたの名は、ある売人から聞いてましてね。正直なところ、信じてなかったんですよ。まあ、彼も聞き間違っていたようですがね。」
『まあ、いいさ。お前さんの読み通り、娘は無事だよ。野郎共には指一本触らせてやしないさ。売春婦が何人か世話をしている。不自由だが、飯も食ってるし風呂にも入ってる。』
「沢田の指示ですか?」
『半分はな。攫った女を輪姦(まわ)したりするのは好みじゃないらしい。』
「それは、奴に感謝しなくてはなりませんね。」
 くっくっ、と喉の奥で玄は嗤った。
『礼がしたければ丁重に殺してやればいいさ。』
 その言い方が、御雷は気に入った。猫を被るのをやめる。
「それは、あんたも同じだろう。」
『ほ。儂を殺すのかね。』
「菊池を取り返しても、あんたが生きていたら必ずちょっかいを掛けてきそうだからな。俺はともかく、菊池には普通の生活が必要だ。」
 玄が笑った。心底嬉しそうに。
『そういうところが、お前に御雷の業を継ぐ資質があったということなんだろうがね。だからこそ、お前を殺したくなるのさ。』
 必ず来い、と玄は言った。近日中に行われる予定の麻薬取引現場を、菊池引き渡しの場として指定する。大規模な取引が行われるのは、漁港の外れの倉庫街であった。今原漁協の持ち物ということになっている。漁協の組合員であっても違法漁に手を染めている者は少なくない。そのような連中と麻薬の親和性は高い―――そういうことだ。
 河津組も取引相手も、重武装で臨むということだろう。
『一人でやるのが荷が重ければ、田中先生とやらの助勢を仰いでも構わんよ。どうせ多勢に無勢。一人が二人に増えたところで構うまい。それとな。』
 ぞろり、と首筋を逆撫でするような声で玄は囁いた。
『西本という餓鬼があの娘にご執心でな。熱心に口説いているということだよ。当面は手は出させないが、お前さんが来なければ沢田も気が変わるかもな。…何なら、儂が西本を殺しておいてやろうか?』
 ふん、と御雷は鼻で笑う。
「それは俺の仕事だ。石川も、殺すなよ。」
 わかっているさ、と玄は請け負った。
『ただし、来るなら素顔で来い。本気でやらなければ娘は助けられんよ。』
「あんたの指示は受けないよ。」
 待っている、と言い残して、玄は電話を切った。
 御雷はその場にへたり込んだ。大きく息を吐く。
「ちょっと、大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ありませんよ。」
 御雷が伸ばした手を、反射的に田中は取った。驚く。
「震えてる…。」
 御雷は照れくさそうに笑った。
「ぼくだって人間だということですよ。怖いものは、怖いんです。」

      2
 通話終了のボタンを押して、玄は菊池の方を振り返った。
 会話をスピーカーモードで聞かせてやっているのは、御雷の側と同じだ。
 大声を出せば、御雷に届く。
 しかし、菊池は声が出せなかった。
 電話を掛ける前に、玄が顎と喉に触れた。それだけで、口は動かず声も出ない。感覚自体が失われている。唾液でむせないように、身体を横向きにして床に転がされていた。俗に言う「回復体位」に近い姿勢である。
 分泌された唾液は気管の方へは流れず、全て口から流れ出してしまっている。
「年頃の娘さんには酷な仕打ちだとは思うが、儂としても猿ぐつわをしたりはしたくないもんでね。」
 身体の自由も奪われているが、薬品や拘束具の類いを使われているわけではない。身体の脱力と、感覚の麻痺。触れられただけでそれが起きることに、もう驚きはない。
 この老人は、その気になれば一瞬で私の意識を失わせることもできるのだろう。
 菊池は正確に理解している。
 ここがどこかはわからない。恐らく、どこかの入所型障害者福祉施設の一室だ。部屋の中にバリヤフリーのトイレがあり、座ったまま浴びられるシャワールームもある。施設としては高級な部類に入るだろう。普通は個室にはない設備である。
 攫われたときのことは、朧気ながら覚えている。
 自宅のマンションに、車を頭から突っ込んだ。御雷のアドバイスで、ヘッドライトは早めに点けるようにしている。帰宅時間にはさすがに薄暗くなり、ライトの明かりが頼もしく感じられるようになっていた。
 オートマチックトランスミッションのセレクターレバーをパーキング――駐車モードに入れた瞬間であった。
 ヘッドライトの光芒の中に、ひょろりとした人影が立ち上がったのは。それがサングラスを掛けたアロハの老人だと認識するのと、車体全体がつんのめるような衝撃を感じたのは、ほぼ同時だった。
 次の瞬間には顔面を堅く張り詰めたもので打たれていた。エアバッグだと感じられたことは褒められてもいいだろう。衝突の衝撃を受け止めてくれる際のエアバッグは頼もしい安全補助装置だが、停車状態で突然作動すれば単なる凶器だ。大きく怪我をすることはなくとも、一瞬意識が朦朧とするくらいの衝撃はある。
 遠くなる意識の中で、バックで駐車しろという御雷のアドバイスを聞き流したことを後悔した。たとえ逃げられなくても、エアバッグに顔面を殴られるような目には遭わずに済んだだろうに。
 魔法のように運転席側のドアが開かれ、小柄な菊池は軽々と老人の小脇に抱えられて連れ去られたというわけだ。
 最初に連れて行かれたのは、沢田という男の自宅だった。暴力団の組長だという。事務所として使っているビルで事件があり、仕方なく持ち家の一つを事務所代わりに使っているのだという。
 思いの外、若い男だった。白いスーツの上下を着込んだ姿が気障になりすぎない程度には、ルックスもいい。知的な眼差しと柔らかな物腰が、菊池がイメージしていた「ヤクザの組長」とは随分違っていて、面食らった。
 しかし、彼の後に控えている男たちを見れば、紛れもなく暴力を糧とする男なのだと理解できた。
 ごつい奴。痩せた奴。笑っている奴。無表情な奴。常に怒りを漲らせているような男もいる。年齢も体格もバラバラだが、眼だけは同じだ。
 菊池は、自分が他人の眼力を感じる特技を持っていることを、恨んだ。
 昔、まだ高校生だった頃。妙な磁力線のようなものを眼から発している男に付き纏われたことがある。奴の眼力は、常に菊池に向けられていた。その、爬虫類の鱗が肌を撫でるような、冷たく異様な感覚を、今でもはっきりと覚えている。
 忘れるわけがなかった。
 もし菊池が危険を察知して、その男のことを警察に相談するなりしていれば、姉は死なずに済んだはずなのだ。結局姉は男に殺され、菊池は男を殺した。
 暴力団の名は河津組というらしかった。どいつもこいつも、菊池が殺した「あの男」と同じ眼をしていた。
 欲しいものがあれば、奪う。邪魔者がいれば、叩き潰す。手段を選ばず、暴力を使うことに取り立てて理由を必要としない人種だ。
 どこかで読んだような、安っぽいストーリーを思い浮かべた。
 自分は、このまま殺されるのだろうか。その可能性は低くはないだろう。用が済めば、口を封じられてもおかしくはない。
 その前に。
 薬漬けにされるのか。
 ここにいる男たちに。延々と犯され続けなければならないのか。
 実際、菊池の姿を物欲しそうに見つめている連中は五人や十人ではきかないのだ。
 嫌悪とも、恐怖とも言い切れない感情に、吐き気を催す。
 自分は男性が苦手だ、という自覚はある。素肌を見られると思っただけで、鳥肌が立つ。触れられたら、悲鳴を上げずにはいられないだろう。乳首を探られたら?性器をいじくり回されたら?いきり立った男根をねじ込まれたら?
 恐怖を通り越して、涙も出なかった。
 犯されている途中で死んでしまえればいいのに。せめて、気を失っている間に済めば。
 菊池は明晰だ。十分理解している。
 彼らは、決して自分を死なせまい。そして気絶することも許しはしないだろう。正気を失うぎりぎりの縁で、しかし正気を失うことは決して許されないまま、犯され続けるのだ。
 暴力のプロとは、無闇に殴り壊したり殺したりするだけが能ではない。
 セックスで女を縛る。不本意な快楽と屈辱で女を屈服させ、支配する。それも、暴力だ。
 ふと、御雷に肌を触れられたのを思い出した。
 彼も、暴力のプロだ。死神、といっていいレベルの、プロだ。
 なのに、彼に胸を探られたことに対する嫌悪感は不思議となかった。
 妙に女慣れした仕草に、腹は立った。だが、それだけだ。
 恐らく。
 御雷は菊池を支配しようなどとは微塵も思っていないのだろう。ただ、触りたいから触っただけだ。自分も触っていいと言った。あんなに素直に行動に移すとは予想もしていなかったのだが。
 彼の柔らかな手が、優しく乳首を探った感触が、今は心が折れぬよう支えてくれている。そのことに、菊池は小さな戸惑いを感じている。
 そして、思い至る。目の前のヤクザたちと御雷の違いに。
 御雷は、暴力を行使する。田中とやり合ったときの、人間離れした動き。あれでもまだ半分の力だという。そして、直接見てはいないが、銃器の扱いも見事だという。
 人殺しの才に恵まれた者が、絶え間ない努力を重ねて、御雷武という男になった。
 だが、彼は自分の欲のために暴力は使わない。誰かを支配するために暴力は使わない。
 だからこそ、生徒たちに慕われるのだ。子供たちは敏感だ。
 それはある意味、ヤクザの暴力性よりも危険なものだという意識はあった。
 私欲に囚われず、機械のように冷徹に暴力を行使する男。
 まるで、兵器ではないか。
 老人は玄と名乗った。さほど強そうには見えないが、組員たちが一目置いているのがわかる。
 人は、見かけによらない。
 菊池は御雷との関わりの中で、そのことを痛いほどに学んでいる。この老人も化け物なのは間違いない。あっさりと車を潰されたのだから。
 欠勤の電話を入れろと言われて、素直に従った。下手な小細工をしても必ず見抜かれ、阻止されるという確信めいたものがあった。
 殆ど無意識的なものだったが、田中が暴力団を相手に暴れるのを防ぎたい、という思いもあった。
 田中は教師として生きていくべきだ。御雷もそう言っていたではないか。彼女に傷が付くようなことがあってはならない。
 その思いは、御雷に対しても同じだ。彼の生き方を肯定することはできないが、自分のために御雷が危険な目に遭う必要はないと考えている。自分こそが御雷の犠牲者なのだ、という考え方は、菊池にはない。
 すぐに、福祉施設の一室に移された。それが、今いる部屋だ。お約束のように目隠しをされていたから、場所はわからない。
 暴力団と障害者福祉施設との結びつきが、最初はピンと来なかった。
 彼女の付き添いのような形になっている玄が、笑って説明してくれた。
「それはな、菊池先生。福祉っていうのも、ある意味ヤクザと同じようにいかがわしい面があるからさ。障害者をダシに、国や自治体から巧く税金をむしりとることしか考えていない事業所や施設が、どれほどあると思う?ま、全部がそんな屑だとは言わんが、中には酷いところもある。ここは、比較的まともに運営している方なんだよ。」
 沢田の趣味なのだ、と玄は言った。
「あいつも変わった男でな、何でも母親が脳の病気で倒れてから、中途障害者として死ぬまでを過ごしたらしい。奴なりに、後悔や悔しさもあるんだろうよ。こんな施設を作ってよう。辛うじて黒字っていうんだから、道楽としか言えんね。」
 玄がカーテンを閉じた。普段は外の景色を見ることはできないようにされている。
 ここに移されてから、菊池は身体の自由を奪われている。身の回りの世話は数人の女たちがしてくれているが、今の電話で河津組に飼われている売春婦あるいは沢田の情婦たちだと理解できた。
 この施設の場所もわかった。
 玄がカーテンを開け放った窓から御雷を―――菊池のマンションを見つめながら話していたから。
 そういえば、自宅から直線距離にして三キロほどのところに、大型の障害者および高齢者福祉施設があった。そこ、だ。
 ふと菊池は疑問に思う。
 三キロ先の御雷や田中の様子が、この老人にはわかるのか。望遠鏡も使ってはいない。
 わかるのだろう、と思った。御雷と田中の死闘を目撃した経験が生きている。あの時も、二人の攻防をはっきりと目視することは難しかったのだ。
 常人には見えぬものを見ることができる者。
 そういう世界が、ある。ある意味、菊池だってそうではないか。
 玄が、テーブルからティッシュペーパーを取って菊池の涎を拭いてやる。そうしてから、口や喉、舌の麻痺を除いてやる。首から下の感覚は無い。指一本動かすことはできないままだ。尿意や空腹を感じることはできた。トイレに行きたくなれば女たちに声を掛けて連れていってもらう。
 ぐにゃぐにゃになった菊池の身体を、玄は軽々と抱き上げた。そのままベッドに戻す。
「悪いな。お前さんの視線には力がある。窓の外に向けられたら、御雷のやつに気付かれかねんほどにな。まあ、自覚はないんだろうが。」
 パジャマの袖や襟を直して布団を掛けてやる。その仕草は孫娘を労る好々爺そのものだ。
「あなたは、私に乱暴しないんですか。」
 素朴な疑問であった。
 ベッドのある個室に、男女が二人きりで過ごしている。玄が見た目ほどに枯れた男ではないのは、雰囲気でわかる。沢田も、部下がよってたかって菊池に暴行を加えて壊してしまうことは避けたいようだった。が、用が済めば西本に下げ渡してもいいと考えているふしもあった。彼が十分に沢田の役に立てば。
 他の部下たちは不満そうだったが、西本の瞳は期待に輝いていた―――少年らしからぬ濁った眼に、菊池は寒気がした。
 すぐにも菊池を抱きたいと言い出しかねない勢いの西本を制したのは、玄だ。
「年功序列という言葉も知らんのか、小僧。ゆくゆくはお前のものにしてもいいが、先に味見をするのは、儂さ。そもそも、仕事の割にまともな報酬ももらっておらんしな。異論はなかろう?沢田よ。」
 そう言う玄に対して、沢田は了、と返した。それで、話が決まったのだ。
 玄は、菊池の疑問に対して呵々と笑った。
「そう身構えなさんな。あれは方便よ。ああでも言わんと、西本はお前さんから離れようとはせんかっただろう。」
 椅子を引き寄せて座ると、アロハの懐から板チョコを出してバリバリと囓った。白くて丈夫そうな歯が印象的だ。全てが自前の歯のようだった。
「まあ、そうはいっても、儂のことを優しい男だなどと思わん方がいい。抱く気がないから抱かない。それだけのことさ。本質的に、儂とあの男には共通点が多いんだよ。」
「あの男―――御雷先生のことですか。」
 うむ、と頷いて玄は白髯をしごいた。
「儂も奴も、殺しのプロだ。必要であれば、女だろうと子供であろうと、手に掛けることに躊躇いはない。そういう風に、精神と身体を造る修練を積んでおるからな。しかし、だからといって殺しに悦びを感じているわけでもない。まあ、手強い奴と闘り合うときには昂ぶりを感じるがね。ただ、それだけだ。憎いわけでも、怒りを感じているわけでもないのさ。」
 菊池は天井を見たまま、呟いた。
「それは…もう人間じゃない。」
 玄は片眉を上げた。唇に面白そうな笑みが浮かぶ。
「これはこれは。いきなり核心を射貫いたな、菊池先生。奴がお前さんを特別扱いするのが儂にもよくわかるよ。」
「私は、あの人に特別扱いなんてしてもらってません。」
 そうだろうか、と玄は笑った。
「お前さんの言葉を借りれば、儂らは人間じゃない。言うなれば…兵器よ。人の肉体を、兵器に変える。そのために、血を継ぎ、業を伝え、気の遠くなるような修練を積む。人の心を捨てはしない。『人の心を捨てる』のは弱い人間のすることさ。儂らは、ありのまま、人であって人ではない存在に、なる。」
 そういう馬鹿共の系譜の末に、彼らは立っている。田中にしても、それは同じだ。
 菊池は黙って耳を傾けている。
「そういう中にあって、御雷武は異端の存在だ。」
「異端?」
「そうだよ。儂らは、長い時間を掛けて血を継いでいった。一族の強者が、外部から資質のある者の血を取り入れながら、子孫を残していったのさ。あの、田中先生んところも似たようなものなんだろ?」
 隠しても仕方がない。菊池は頷いた。この老人は全て調べ上げた上で確認しているだけなのだ。
「ええ。そう言ってました。だから、御雷先生の子供が欲しいとも。」
「だろうね。あの男の才能を受け継ぐ子供なら、恐ろしい遣い手に育つだろうさ。比良坂の娘は、お前さんの前でそう言ったのかい?」
 菊池は答えない。ただ、顔を赤くした。
 嫉妬か、と玄は尋ねた。
「わかりません。ただ、御雷先生が『種馬になるのは嫌だ』と言うのを聞いて、ほっとはしました。」
 その時の情景を思い出すかのように、菊池は言葉を紡いだ。
 玄が、ふっと笑った。
「それは、お前さんに義理立てしているからよ。」
「そんなこと。」
 そんなことはない。そう言おうとした。そういう関係でもない…はずだ。
「あるんだよ。あいつはな…その気になれば何人の女でも抱ける男だよ。御雷の男には、不思議と女が寄ってくるからな。女には『強者の遺伝子』を嗅ぎ分ける能力でもあるのかもしれん。だが、あいつは同時に何人もの女と関係を持たない。必ず一人だけ、なんだよ。」
 確信がある、という言い方ではない。断言だ。
「でも、私と御雷先生は。」
「恋人同士じゃない、というんだろう?」
 玄はサングラスを外した。不思議な反射光を宿した虹彩が露わになる。何色、と特定するのが難しい。角度によって反射光の色が変わって見える。
「割と眼はよく見える方なんだ、儂は。実際に恋人同士かどうかは、関係ない。あいつが、お前さんのことを大事に思っていることが重要なのさ。」
 玄の話には奇妙な説得力があった。御雷の手の感触。女性の身体を扱い慣れている、繊細でツボを心得た動きだった。彼なら女性を雑に扱ったりすることはあるまい、と思わせるものがある。
 田中の裸体を見た時の好色そうな表情は、半分は作り物だった。しかし、半分は本物だ。女嫌いでもなければ禁欲的ですらない。それが、御雷の素顔だ。
 だが、御雷は田中の申し出を断った。欲求を刺激されているのは菊池にも感じられた。昔から、その手の勘は鋭い方だ。これまでは、生かし方を知らなかっただけのことだ。
 道場の件を除けば、菊池にも指一本触れようとしない。ただ一度、肩を抱いてくれただけだ。欲求は、あったはずだ。菊池の勘がそう教えている。
 そして。時には素っ気なくて寂しくなるような、彼の態度。道場で田中に正体を暴露されたときの、あの顔。
 まるで、菊池に己を好きになってもらっては困るとでもいうような。
 裏返してみれば、どうだ。
 菊池の中で、複雑にもつれていた全ての糸がほぐれ、鮮やかな像を成していった。
 御雷の真意が、天から降りてくるような気がして、菊池は目を閉じた。睫毛が、震えた。
「わかったかい、菊池先生。」
「本当に…?」
 間違いない、と玄は請け合った。
「御雷武は、恐ろしく強い。女にしたってよりどりみどりだ。そのくせ、心に決めた女には弱い。自分の身が破滅しようと、守ろうとする。それが、歴代の御雷の特徴でもある。」
 だから、田中の暴露を甘んじて受け入れたのか。自分から遠ざけるために。
 玄の言葉が続く。
「そういう意味では、御雷武は紛れもなく御雷の系譜に属している。奴が跡を継いだのは不思議なことじゃない。」
「だけど、異端だと。」
「そうさ。」
 初めて見せた、怖い笑みだった。玄の唇の両端が吊り上がった。
「資質は、御雷の名にふさわしい。だが、奴は御雷の血統ではない。これは、血で業を継ぐ者たちにとってはあってはならないことなんだよ、菊池先生。」
 眼の光を消すためか、サングラスを掛け直した。
「言うなれば、奴自身が『初代』なんだろう。数百年かけて、各流派のあるものは己の源流へと遡り、別の流派は初代が夢見たものを見出すために先へと進んだ。進む道こそ違え、一つの源流を祖とし、脈々と業を伝え血を強くしていったわけだ。そこへ、何の関係もないところから、御雷の後継者として奴は現れた。血の力ではない。ある種の『異能』として。」
「異能…?」
 舌の上で転がしても、言葉に味は無かった。
「各流派を継ぐ者の間でも、意見は分かれているのさ。儂だって、全部を知っているわけじゃない。とうに絶えてしまった血統の方が多いからな。比良坂は武の血を望んだが、儂は奴の存在を否定する立場なんだよ、菊池先生。」
 淡々とした語り口が、かえって怖い。菊池はそう思った。
「武は断ったが、比良坂の娘を抱いてやればよかったんだ。」
 どうして、とは訊けなかった。玄の顔を見れば、わかる。
「そうすれば、御雷の名は絶えても、自分の血は残せただろうに。」
 やっとのことで声を出せた。
「きっと、あの人は来ない。だから、あなたにあの人は殺せない。」
「来るさ。奴は『御雷』なんだぜ。」
 玄は立ち上がった。カーテンを透して外が見えるかのように窓辺に立つ。アロハの背中が言った。
「武さえ来れば、お前さんは無事に帰してやるさ。ヤクザ共が邪魔をしようとするかもしれんが、投げるか蹴るかして眠らせてやればいい。ただし、寝技や関節技は駄目だ。囲まれたらお終いだからな。」
 比良坂の娘にかなり鍛えられているんだろう?と笑う。
「どうして?」
 振り返った顔が歪んだ。サングラスの下で片目を瞑ったらしい。
「儂はな、冷静な武と勝負したいんだよ。怒り狂ったあいつとやっても、本来の力を出してはくれんだろう。」
 だから、菊池を利用するが傷付けるようなことにはならない。
「女には優しくないと言ったが。」
 玄が低く笑った。
「綺麗な女には甘いんだ。そこが、儂とあいつの共通点だな。」

      3
 避けようとすればするほど、吸い寄せられる。
 結局、あの爺と闘り合う羽目になってしまった。
 御雷は眉間を強く揉んだ。
「そんなにヤバいの?あの爺さん。」
「ぼくは、死人を殺す方法を知りません。そういうことです。」
 謎かけのような返答に、田中は小首を傾げた。その仕草が、妙に可愛らしい…御雷は状況を忘れて、そう思った。
 場所を田中のマンションに移していた。
 サイモンに連絡を入れて、菊池の車はレッカー車で運び去らせた。各地にある、御雷の仕事への協力工場の仕事だ。彼女には気の毒だが、廃車にする。
 無事に帰ってこられれば、車などいくらでも新調できる。
 御雷は田中に命じて今原市の住宅地図を出させた。初めての担任業を円滑に行えるように、田中が自腹で買った高価な地図である。リビングの床に、田中と並んで座り込む。トレーニングにも使うのか、板張りの床にはソファとテレビはあるが、テーブル類は置かれていなかった。
 ページを捲って、指定された倉庫街の周辺を見てみる。取引は週末だ。あまり、というより殆ど時間的猶予は無い。
 ほどほどの広さの敷地の中に、同じ規模の倉庫が五棟。その中の三番倉庫が取引場所になる。漁協の所有物だけあって、海に近い。すぐ脇には麻川の河口がある。さほど大きくはないが、海に接するところでは水深が五メートルを越えるところもあるようだ。
 御雷は麻川を指で遡ってみた。上流でいくつかの小さな川が合流することで麻川は出来上がっている。そのうちの一本は、御雷の平屋のすぐ近くを流れている中野川であった。
「菊ちゃんを取り戻したら、川に飛び込んで逃げるのがいいんじゃない?」
 御雷も、それを考えている。拳銃弾なら水中を数メートルも進めば殺傷力を粗方失ってしまう。悠々と潜って逃げればいい。
 しかし。
「ぼくはね、水が苦手なんですよ。泳げないんです。」
 嘘、と田中は目を丸くする。御雷にも比良坂にも、暗殺の訓練まがいの修行があるはずだ。
「見れば納得しますよ。ぼくの素顔を。」
 ぎょっとして田中は身構える。
「タダ、というわけにはいかないわよね。代償は、何?」
 御雷は薄く笑った。
「ぼくの素顔を見た者は、死ぬ。この前はそう言いましたが、取り消します。」
 御雷は立ち上がった。
「見せる代わりに、ぼくの頼みを一つきいてもらいます。」
 御雷はフライトジャケットを脱ぎ捨てる。床に落ちて重く堅い音がしたのは、拳銃だろう、と田中は見当を付けている。
 アジャスターを緩めきったジャンプスーツも脱いだ。ハイコンプレッションのシャツとパンツ一つになる。シャツは脱いだ。
 田中は、こう見えて男性に対する免疫がないらしい。いつもの威勢の良さは、男性経験がないことに対するコンプレックスの裏返しだ。菊池をからかうのも、同じ事である。
 顔を赤らめながらも、奇妙な御雷の体型から目を離せない。
 裸になってみると、単なる肥満体ではないのがよくわかる。腰回りは締まり、体幹や四肢の筋肉が異様な緊張の仕方でふくよかな体型の輪郭を形作っているのである。
 全身の筋肉を自在に操ることができなければ、到底不可能な技であった。体型や顔を偽装するために、脳にどれほどの負荷が掛かるものか?
 田中には想像もつかない。
「先に言っておく。素顔のぼくに、逆らおうなんて思うなよ。」
 みしっ。
 御雷の全身が軋む音を田中は聞いた。
 痛くないのか?
 そう思わせる変化が起きていた。御雷の表情は動かない。
 空気が抜けていくように全身がしぼむ。といっても弛(たる)んでいくのではない。強靱なゴムでできているかのように、張りのある皮膚が筋肉や骨格を浮き上がらせていくのだ。
 鎖骨が浮き出し、精悍な顎のラインが剥き出しになる。頬の肉が締まり、鼻梁の高さが際立つ。
 白い肌のあちこちに、赤い筋が浮かんでは消える。皮膚を継ぎ合わせた跡だ。全身の調整が終わるまで、一時的に血流が変動しているのである。全身を何匹もの赤い蛇がのたうっているようにも、白い空を背景として赤い稲妻が閃いているようにも見える。稲妻は御雷の貌をも這い回った。
 やがて。
 全身の肌に静けさが戻って来た時―――別人の顔が、田中を見下ろしていた。
 くっきりとした眉は涼やかな目元を強調する。鼻筋がすっきりと通っている。唇が紅い。
 白い面差しの中で、紅い唇がほんのりと微笑を浮かべていた。
 野性味がある、とはいえなかった。今は女性としか見えない。少女のようにあどけなくも見えるくせに、艶めかしさすら感じさせる美貌―――亡き母に瓜二つな貌を、御雷は取り戻していた。
 深い黒瞳だけが、この男が御雷であることを証明している。顔つきや体つきは変えられても、眼だけは変えられない。
 一目見たら、忘れられない。今の御雷は美しかった。ただし、見るものを不安にさせる、不吉な美しさである。
「あなたは、あの時の…!」
「そうさ。菊池は正しかったんだよ。コンビニの駐車場で声を掛けられたときは、心臓が止まるかと思ったよ。」
 本来の声で、御雷は言った。この姿に相応しい声だ、と田中は思った。
「擬態していると、その分脳に負荷が掛かる。思考をまとめるにはこの姿の方がいいんだ。」
 御雷は大きく伸びをした。頸を回すと、ごきりと音がした。手脚を曲げ伸ばしして、擬態による強張りを取ってやる。
 白い身体は一見すんなりとした細身だが、滑らかな皮膚の下で強靱な筋肉の束が動くのがはっきりと見えた。無駄に太い筋肉を必要としない、身体。一本一本の筋繊維が異常に強いことの証明だ。
 ゴツゴツと筋肉の鎧を纏った男を蛮刀だとすれば、御雷の身体は丹念に鍛えられた日本刀だ。
 人の姿をした美しい凶器。
 田中は束の間、見惚れた。
「綺麗…。」
 思わず、声が漏れた。
「そりゃ、どうも。これでも体重は変わらない。百キロ近くある。」
 ああ、と田中は理解した。
「それじゃあ水に沈んじゃうわね。」
「そういうことだ。だから、普段は深い水には近寄らないことにしてる。」
「何故、そんなことになるわけ?その体格でその体重は異常よ。前に受けたっていう手術で、どこかを人工物に交換しているとか?」
 御雷は困ったような笑いを浮かべた。K2に突き付けた無理難題を思い出している。
「いや。人工物は使うなと執刀医に指示したよ。その代わり、何人分の死体から部品を切り出したのか、ぼくにもわからないくらいさ。」
 死体の部品を寄せ集めて再建した肉体。それをイメージしたのか、一瞬田中が薄気味悪そうな顔になる。それはそうだろう、と御雷も不思議には思わない。
「気味が悪いんだろう?ぼくの身体が。…フランケンシュタインの怪物みたいなものに思えるんだろうな。」
 右手で、左腕の肌を撫でた。縫合跡を見付けることはできない。見事なK2の手並みであった。
「実際、最初は大変だったよ。他人からもらった部品に意思を通すのは、難しい。何度も縫い目から全身が分解しそうな状況になった。」
 御雷は遠い目をした。あれから、二十年か。
「だけど、おかげでぼくの脳の支配力は随分強まった。それまでにも予兆はあったけどね。時間を掛けて、脳が再生された肉体を最適化した。受けた損傷に対抗するように、骨や筋肉が強化されたんだ。その結果、ぼくは水に浮けなくなった。」
 脳のリミッターが外れている件は、K2の存在を公にできないため、御雷はいくつかの事実を敢えて混ぜて語ることで誤魔化している。
「ふうん。でも、綺麗な顔と身体じゃない。それも整形で作ったものなの?」
 御雷が困惑したような顔になる。
「最初は、もっと違う顔だった。今は、殆ど元の顔に戻っているよ。これも『最適化』の一環なのか、ぼくにもわからない。」
 田中の眼が少しずつ変わってきているのは気が付いていた。乾いた唇を湿すように舐めた。
「ねえ。強さも手術前のレベルまで回復しているの。」
 そら、来た。御雷は苦笑する。田中はそういう女だ。
「この状態のぼくと、闘ろうというのかい?逆らうな、と言ったはずだが。」
 物は少なくても、所詮はマンションの部屋だ。狭い。
 田中の瞳に、真摯な光が宿っていた。
「勝てるなんて思ってませんよ。ただ、知りたいんです。私と、あなたの立っている場所の違いというものを。」
 御雷が頷くのを確認して立ち上がる。その鼻先を風が抜けた。風圧だけで横っ面を張り飛ばされたように感じるほどの、蹴り。それは理解できたが、御雷の蹴り足を目視することはできなかった。
 思わず両腕を前に出して顔面と体幹を庇う。
 とん、と左胸を突かれた。痛くはない。鎖骨を、喉仏を、鳩尾を、とんとんと突いていく。腹筋の隙間を、脇腹を、肩口の腱の集合を、御雷は突いていく。
 指を二本立てて、軽く触れている程度の突きだが、その手自体を見ることはできない。
 もし、これが拳による打撃だったら。鍛えた指を筋肉の隙間から体内に突き込む技だったら。
 そう考えて、田中は慄然とする。自分は何度死んでいるのだろう。
 動いていないように見えて動いている。御雷の足運びのスピードがあまりにも常識外れで、受けている田中にとっては御雷のリーチが急に伸びたようにしか感じない。それが、ガードを無視して体幹にヒットしているのだ。
 御雷にしろ比良坂にしろ、その神髄は派手な大技にあるのではない。元は、殆ど無手に近い状態で武装した者たち―――例えば騎馬武者というより騎兵か―――を斃すことを狙って技を発展させてきた。初めは無手の不利を埋める方向だっただろう。リーチの差を、そして破壊力の差を、埋めるばかりでなく逆転してみせる身体能力と技。その過程で、無手ならではの利点を生かす技が生まれてきたのも必然であった。刀を振り回せない室内での近接戦。普通ならあり得ない至近距離から放たれる致命的な打撃。
 狭ければ、狭いほどに。条件が悪ければ、それだけ強さの本質が見える。それを知る田中だからこそ、圧倒的な実力差に絶望さえ感じた。
 御雷の姿が一瞬ぶれて見えた。と思ったら前から抱きすくめられていた。
 離れなくては。
 意志に田中の身体が反応する前に、御雷の右拳が田中の乳房の下あたりに、とん、と触れた。
 御雷の全身に波が起きる。体幹に遡る速度が尋常ではなかった。こんな速さで全身の力を束ねきれる奴は、比良坂にもいない。―――多分、過去をどれだけ遡っても見付けることはできないだろう。
「ちょっと、待っ…!」
 あれを打たれれば、死ぬ。御雷の中で力が束ねられ撓められた瞬間、田中は溜め込まれたエネルギーの大きさに愕然とした。比良坂親子の数倍はあろうかと思うような、身を接していると焼かれてしまいそうな程の熱量を感じている。灼熱の柱に抱きすくめられているような気になる。
 これが、御雷か。業の流れとしては遠い親戚という程度の認識しかなかった。だが、これは―――この男は何か違う。御雷と比良坂の違いではない。御雷武というこの男だけが特異なのだ。
 御雷は打たなかった。せっかく束ねきったエネルギーを、全身に散らしてしまう。
 御雷の腕の中で田中は震えていた。生まれて初めて、純粋に恐怖だけを覚えている。悦びの伴わない怖さ。
「わかったか?」
 御雷の声は、あくまで静かだった。
「俺を殺そうと待っているのは、こういう世界に住んでる奴なんだよ。菊池の身柄を押さえているという爺は、最低でも今見せた程度のことはできるはずさ。」
 もはや、人間同士の闘いともいえない。だから。
「田中、お前は来るな。死ぬだけだ。」
 それが、御雷が素顔を見せたことに対する代償―――御雷の頼みだ。
「何が頼みよ。命令じゃないの。はっきり言えばいいじゃない!『お前は弱い。足手まといだ』って。」
 田中の身長は高い。顔を上げると間近で視線が合う。
 勝ち気な瞳はいつもと変わらないが、彼女は泣いていた。
 悔しいのだ。
 物心付いた頃から、家に伝わる業を磨いてきた。限界の壁を、何度も超えた。兄の死もその一つだ。行き着く先に、人ならぬ身になる方法があるはずだと信じていた。
 それは、比良坂の業こそが数多くの同源の流派の中で覇を唱えるに相応しいという思いがあったからだ。田中の、というより比良坂の祖の遺志である。
 しかし、現実には比良坂が思い描いていた理想を軽々と超える連中が存在する。恐らく―――いや、ほぼ確実に、自分では到達できない域に、御雷はいる。
 違う。そうじゃない。
 田中は気付いている。悔しさの理由は。
「私じゃ、菊ちゃんを助け出すのに役に立たないっていうの?」
 御雷の胸に爪を立てた。白い肌に紅い筋が走り、血が流れた。痛みは、感じない。
「逆だ。お前は強すぎる。」
 何を言っているのか、瞬時には理解できない。
 御雷は微笑した。驚くほどに透明感のある笑いだった。
「俺と共に来れば、お前は必ずヤクザ共を何人も殺すだろう。当たり前の人間にとっては、お前の強さは鬼神のよう感じられるだろうさ。」
「でも、私が死ぬって…。」
「爺と闘えばな。あいつは…異常なんだよ。車を素手で潰した上に、素手でドアを引き千切るような奴を倒せる技が、比良坂にはあるのか?」
 考えるまでもない。
「…ないわ。御雷にはあるの?」
 御雷は複雑な心境をそのまま表情にした。
「爺を斃せる技を探そうとは思っていない。俺ならば、あるいは斃せるかもしれないと思うだけさ。」
「血や業ではなく、個人の『才』で?」
「それが、親父の信念だったからね。『血ではなく、才で継ぐべきだ』というのが。」
「でも、それだと御雷の勝ちではなくて、武個人の勝ちってことになるわ。」
 御雷の美貌が、さも当然と言いたげに田中を見つめる。
「いいんだよ、それで。もともとぼくは、御雷の人間でもないし。むしろ、負けたっていいくらいだ。それで菊池を取り戻せるならな。」
 負けるときは死ぬとき。それが暗黙の了解だ。田中は息を呑む。
「自分の仕事より、菊ちゃんを取り戻すことを優先するの?」
「投げ出すわけじゃない。差し当たっては、そちらを優先するだけさ。チャンスがあれば、爺と闘るついでに、西本と石川も殺してくる。それで、ぼくの仕事は完了だ。」
 だから、田中には菊池が帰ってくるのを迎えてもらわなければ困る。
 御雷はそう言った。
「それに、これ以上お前に人を殺させてしまったら、菊池は悲しむだろう。」
 静かに告げる声に、田中の涙が止まる。大きく息を吐いた。
「御雷先生は、やっぱり菊ちゃんの気持ちを大事にするのね。でも、あたしにだって意地がある。可愛い後輩を釣り餌代わりにするような連中を生かしてはおけない。」
 今度は御雷が溜め息をつく番だった。
「どうしても、一緒に行くのは諦めてくれないのか?」
「もちろん。これだけは、あなたの頼みでもきけないわ。」
 仕方、ないか。御雷の紅い唇が、淡い笑みを浮かべる。
「じゃあ、お前に少し弱くなってもらえばいいわけだ。」
「え?」
 意味を理解する前に、田中は改めて強く抱きしめられた。両脚が床を離れる。
 肉体的な苦痛はなかったが、間近に見る御雷の素顔に―――彼女を見つめる黒曜石のような黒い瞳に、胸が苦しくなる。鼓動が、大きく乱れた。
「御雷先生、何を―――。」
 紅い唇が、言葉を紡ぐのを悪夢のように見つめるしかない。それは、甘く、残酷な宣言であった。
「お前を、抱いてやる。」
 抱かれれば強さを失う。それが、女性継承者の宿命だ。今はまだ弱くなるわけには―――。
 そうは思ったが、御雷の口付けを受け入れていた。彼の舌が歯茎を撫で上げると、背筋に電流が走るような感覚があった。意志に関係なく、田中の舌が御雷の舌を求めた。
 長く激しい口づけの跡、唇が離れるときに唾液が細く糸を引くのが、酷く淫靡な光景に思えた。
「酷い。こんなのって…。」
 呟いてはみたが、身体は抵抗の意志を示さなかった。自分の身体ではないようだ、と田中は思った。
 ジャージの上着はいつの間にか脱がされている。再び口を吸いながら、御雷がTシャツの上からそっと胸に触れた。軽い痙攣が田中の身体を走る…が、彼女の右手が御雷の手に重ねられていた。
 田中の濡れた瞳が、瞬きもせず御雷を見上げていた。
 唇を離して、問うた。
「俺に抱かれるのは、嫌か。」
 真っ直ぐに注がれる黒い視線から、田中は顔を背けた。いいえ、と答えるその顔が、紅い。
 自分の気持ちと身体を持て余している様が、堪らなく愛おしくなって、御雷はまた田中を強く抱きしめた。首筋に舌を這わせると、田中の息が目に見えて荒くなる。
「お願い。これだけは教えて。」
「何だ?」
 耳たぶを甘噛みしながら、Tシャツの裾から手を差し入れて、滑らかな腹の感触を楽しんでいる。腹筋は鍛えられているが、ボディビルダーのように割れてはいない。筋肉に対する考え方が違うからだ。
 くすぐったそうに身をよじるが、御雷は逃がさない。立ったまま、田中の身体を少しずつ攻略していく。
「私を抱くのは、菊ちゃんのため?」
「それもある…が、本当はお前が欲しかったんだよ。この前裸を見た時から」
 するりとショーツの中に手を滑り込ませると、既に熱く潤っていた。中指が小さく尖った陰核に触れると、田中はくぐもった呻きを上げて御雷にしがみついた。
「御雷先生は、やっぱり狡い。そんな言い方をされたら断れないじゃないですか。」
 田中の身体を軽々と抱き上げると、器用にショーツとブラだけに剥いてやる。
「まるで、俺が嘘をついているような口振りだね。」
 田中の手を、自分の股間に導いてやる。下着を突き上げるように猛々しく勃った凶器の感触に、反射的に手を引っ込めそうになる。御雷は逆にしっかりと握らせた。
「お前を欲しいと思うから、こんなになってるんだよ。」
 横抱きにして、ベッドに運ぶ。
 哀願するように田中が言った。
「お願い。シャワーぐらい使わせて。」
 御雷は少しだけ残酷な気分になる。
「後で浴びればいい。」
 ベッドに優しく寝かせると、手妻の如き技でスポーツブラを外して投げ捨てた。左の乳首を咥えると、微かに汗の味がした。
 田中は両手で顔を隠している。首筋が真っ赤になっていた。
「でも…汗をいっぱいかいたし。汚いわ。」
 そんなことはない、と囁きながら、汗の溜まりやすい胸のの谷間にわざと舌を這わせる。
「それに、すぐにもっと汗をかかせてやるから。全身、びしょびしょにしてやるよ。」
 意地悪…と、田中は消え入りそうな声で言った。
 御雷は横向きになった田中の背後から身体を密着させ、両手で豊かな乳房を嬲った。全体を柔らかく揉みながら、時折乳首を刺激する。触れるか触れないか、という絶妙な刺激は、全身の感覚を鋭利に研ぎ澄ませた田中のような女には、効く。
 ショーツの上から、尻の割れ目に男根を押しつけてやる。お前が欲しいのだと、言葉を使わずに伝えてやるのだ。舌先は首筋から背中、脇腹と自由に旅をした。熟練の漆器職人が刷毛を使うような、精緻で執念の込もった動きで、田中の弱いところを刺激してやる。
 強めに、乳首をこね回すと、田中は甘い声を上げた。一度声を上げてしまうと、自分でも止められなくなる。
 堅く立ち上がった左右の乳首をこりこりと摘まみながら、御雷は田中の耳朶に熱い息を吹きかける。同時に尋ねた。
「お前も、答えろ。」
 既に言葉を出しかねるほどに、田中は喘いでいた。
「何…を?」
「俺に抱かれたいと言ったのは、本当に子種が欲しかっただけなのか。」
 田中が荒い息の下で口を尖らせる。頬が紅いその顔は、悪戯を見つかったときの子供のようだ。叱られるのを覚悟している顔である。御雷は可笑しくなる。
「…好きになっちゃったから。」
「あの顔を?」
「顔は、関係ない。」
「もし弱かったとしても?」
 田中は目を閉じた。強く頷く。
「だから、あなたに負けて、嬉しかった。」
「それを聞けて、俺も嬉しいよ。」
 御雷は本格的に攻めることにする。 
体勢を入れ替えた。あっ、と声を上げて田中が抵抗しようとしたときには、もうショーツに隠された股間が目の前にある。御雷は薄い布地の上から、一番敏感な部分を鼻先で刺激する。両手はしっかりと田中の大腿の内側に掛けられ、脚を大きく開かせている。
 見られながら、嗅がれながら、布越しに性器をいじられている感触が、恥じらいと共に田中の理性を灼いた。すぐに、ショーツに染みが広がってくる。性器が透けるほどに染みが広がったところで、御雷は舌を這わせた。布越しに、味を見る。
「お前の味がするよ。」
 田中は顔を覆ったまま、喘いでいる。
 御雷はするりとショーツを脱がした。花弁を開いて、田中の胎内を観察する。長くてよく動く舌が、潜り込んだ。
 田中が悲鳴にも似た泣き声を上げる。御雷は延々と舌を使い続けた。仰向けにして。尻を高く上げさせた背後から。あるいは顔に跨がらせて下側から。御雷の舌は疲れを知らず、その間にも両手は休むことなく田中の肉体を翻弄し続けている。
 立て続けに田中は絶頂に達した。一瞬、息が止まる。
 脱力した身体を横たえ、御雷は美貌に似合わぬグロテスクな凶器を膣口にあてがった。
 田中が薄らと目を開けた。
「余計な力が入っていると、痛みが長引くからな。」
 田中は小さく頷いた。
 彼女も理解している。鍛え上げた自分の肉体を虚脱状態にもっていくことの大変さを。そして、御雷がなるべく苦痛を与えずに自分を愛そうとしてくれていることを。
「少しぐらい痛くても、我慢できるわ。」
 御雷が、小さく笑った。この女らしい、と思ったのだ。
 だから躊躇なく、腰を沈めた。
 悲鳴とも、歓喜の声とも取れるような声を、田中は上げた。
 目を合わせると、目尻に涙が溜まっている。
「こんなに痛かったんだ…。殴られるより、痛い。」
 御雷はその涙を舐め取ってやる。
「一生に一度だけさ。」
 耳元で囁きながら、しばらく抱きしめている。少しずつ二人の体温が同じになり、呼吸のリズムが合ったところで、御雷は動き出した。ゆっくりと、小さく。
 田中は苦痛を堪えるような声を上げる。御雷の背中に回した手が、爪を立てた。
 御雷はグラインドのペースとストロークを少しずつ上げていく。田中の上げる声の質が、変わった。歓喜が苦痛を超えたのだ。
 御雷は本気で腰を使い始めた。さっさと射精してしまえばよい。我慢して、無駄に田中を悦ばせる必要はない。
 それはわかっているのだが、御雷は全力を尽くす。それが、女性に接するときの御雷の流儀だ。
 肌が合うというのか。最初の射精は割と早くやって来た。田中の肉体に大きく二回波が走る。二回目の時は、膣が痙攣するような動きを見せた。御雷を包み込んで細かく粘膜が震える感覚に、堪えきれず精を放った。射精を受けた感触が引き金になって、田中はまた絶頂を迎えて―――気を失った。
 御雷は約束通り、田中を風呂場に連れて行った。田中を抱いたまま、床に腰を下ろす。
 シャワーから湯を出して田中に掛けてやる。改めて見ると、田中は色が白かった。日光に当たると、黒くならずに赤く火傷のようになるのが悩みだと話したことがあった。もともと、色素が少ない方なのだろう。乳首や性器も綺麗な色をしている。
 スポンジにボディーソープを付けて、全身を洗ってやっているうちに、目を覚ました。
 赤ん坊のように身体を洗われているのに気付いて赤面する。
「もう。自分で洗えるから。」
 慌てて立ったが、足下がふらつく。御雷に後から支えてもらいながら、田中は身体を洗った。いつになく無口だ。
 太股の内側に、少量の血液と夥しい量の精液が混ざり合ったものが流れ出していた。
 少し考えて、洗い流した。その仕草の意味を察して、御雷は笑った。
「もったいない、と思っているのか。」
 振り返った顔には図星と書いてある。せっかく抱いてもらえても、妊娠できなければ。
 言葉にはしなかったが、伝わってくる。
 さすがの田中も、初めての性交で、しかも相手が御雷となると普通ではいられない。身体を洗う手付きが覚束ない。
「スポンジを貸してみな。洗ってやるから。」
 素直に従った。
 御雷は田中の身体のラインを愛でるように洗ってやった。途中からはスポンジを使わず素手で洗ってやる。乳房や陰部は必要以上に念入りに洗った。
 また、田中の息が荒くなってきた。御雷の指先は石けんではないぬるつきで濡れ光っている。
「また、御雷先生…。」
 風呂場の壁面に田中の身体を押しつけて、背後から犯した。シャワーの音に、田中の喘ぎが混ざる。
 風呂場は愛を交わす場になった。
 湯船の縁に手を付かせて、後から突き上げる。御雷の両手は田中の尻を掴んでいる。椅子に座って対面で快楽を貪り合う。
 慣れてきたところで、田中を上にした。中腰にさせて下から激しく突き上げる。途中で逃れようとしたが、しっかりと腰を掴んで逃がさなかった。片手は豊かに上下する乳房をこね回している。器用に指先で乳首を捻りながら。
 田中は大波に呑まれると同時に失禁した。同時に御雷も大量の精を放つ。ぐったりと御雷の胸に田中は頬を当てる。
「お漏らししちゃった…。」
「お前は、そういうタイプだと思ってたよ。」
 田中は顔を赤くしたまま、御雷の鼻を摘まんでやった。
 場所を再びベッドに移して、激しく愛し合った。田中も初めてとは思えない情熱で御雷を求め続けたのだった。
 結局、その晩御雷は十回射精した。十一回目はオーガズムはあったが射精はなかった。全部出し尽くしたのだ。田中は全てをダイレクトに受け止めている。
 今はベッドの中で抱き合ったまま、静かに呼吸している。さすがに体力があるのか、田中も眠り込んだりはしない…が、眠そうではあった。
「ね。本当によかったの?」
「何が?」
 田中は何ともいえない笑みを浮かべている。
「私、妊娠するかもしれないのよ。あなたの子供を。」
「そのつもりで、お前を抱いたんだけど。」
「自分の子供に殺しの技は伝えないんじゃなかったの。」
 御雷は天井を見上げた。
「息子がね、いたんだよ。結婚もしてた。」
 意外な告白に、田中は少しだけ動揺する。御雷の胸に当てた頬に、彼の鼓動を感じている。それが機械のように正確で、彼女を安心させた。
「息子には、殺しの技は伝えなかった。才が、なかったのもあるけど。」
「あなた自身が、そうしたくなかった?」
 沈黙は肯定だ。
「結局、ぼくは妻と息子を同時に死なせることになった。あいつが御雷の業を修めていたとしても何も変わらなかっただろう、とは思う。だけど。」
 目を瞑る。少しだけ、考える時間があった。
「変わっていたかもしれない。」
「教えてもいいの?私はあなたより強くない。」
 いいよ、と御雷は笑った。
「お前の好きにすればいい。どう育てようと、子供は親の思い通りにはならないものさ。それに、ぼくは師匠には向いてない。下手なんだよ、教えるのが。」
「ふうん。やっぱり、英語の教師の方が向いてるんじゃない?」
 田中の口付けに応えながら、御雷は笑った。そうかも、しれない。
「結婚してくれって言わないんだな、お前は。」
「無理よ。私一人じゃあなたを受け止めきれないもの。実際、毀(こわさ)されちゃったし。」
「俺は、お前を毀したのか。」
 田中は幸せそうに御雷の胸に顔を埋める。普段の勝ち気な態度が嘘のようだ。
「ええ。見事に毀してくれたわ。でも、私を毀してくれたのがあなたでよかった。」
 顔を上げると、思いがけず強い光が瞳に宿っていた。
「心配しないで。ちゃんと、まっとうな生き方ができる子に育てるから。」
 うん、と御雷は頷いた。
「殺しの技を身に付けていても、殺さずに生きていく方法はある…か。」
「あなたが言ってくれたのよ、私に。…ねえ、子供が生まれたら御雷姓を名乗らせていい?」
 御雷が珍しく驚きを顔に出す。
「ぼくが父親だとわかったら、教員としてやりにくくないか?ただでさえ、未婚の母というだけで風当たりも強いだろう。」
 嬉しい、と田中は微笑んだ。
「心配してくれてるんだ。私としては身体だけが目的でも気にしないんだけど。」
「好きでもない女を抱いたりしないさ。お前が望むなら、御雷姓を名乗れるようにする。でも、本当は比良坂を名乗らせたいんじゃないのか?」
 田中はくすくすと笑った。
「たくさん子供を産まなきゃね。奥さんにしてくれとは言わないけど―――そうね、恋人の一人にしてくれればいいわ。」
 御雷は溜め息をついた。嫌な気分ではなかった。
「欲があるのか無いのかわからない奴だな、お前は。」
「自分では欲張りなつもりなんだけど。どうせ、私や菊ちゃんの他にもあなたのことを好きな女がいるんでしょ。」
 K2の姿が浮かんだ。少し怒ったような顔に見えるのは、御雷の思い過ごしか。
「いるね、確かに。もう二十年も待たせっぱなしにしてる。…指一本触れてない。」
 今度は田中が溜め息をついた。
「やっぱりあなたは少し壊れてるのかもね。出会って間もない女に手を出したかと思えば、自分のことを好きでいてくれるひとをそんなに待たせて。…その人も、あなたみたいな体質なの?」
 年を取らない、という意味だ。原理は違うが…結果としては同じ、か。
「そうだ。二十年前から彼女もそのままの姿で生き続けてるよ。抱きたいという気持ちはぼくにもあるけど、なかなか踏ん切りが付かなくてね。」
 亡き妻の姿を写した非炭素基系ヒューマンだとは言えない。
「菊ちゃんは?あの子ならあなたのお嫁さんになりたがるわよ、きっと。」
 そうだろうか。呟いて御雷は目を閉じた。
「菊池は、きっとぼくを拒絶するだろうな。よりによって、自分の一番嫌いな種類の人間だったんだから。最後まで騙し通して、何事もなく稲美中を離れる予定だったのに。なんでこうなったのか…ぼくにもわからない。」
「それでも、助けに行くことは決めているのよね。」
「そこは、変わらない。自分の行動は自分で決める。今回は想定外のことが多すぎるけどな。」
 御雷は思い起こしてみる。
 このタイミングで暁子の消息が掴めたこと。
 K2から思いがけない告白を聞かされたこと。
 河津組に、あの爺さんがいたこと。
 田中と親密な関係になったこと。
 そして、稲美中学校に菊池という女がいたこと。
 予定外のことが多すぎた。イレギュラーという言葉が可愛く思えるほどに。
 それでも、菊池を救い出す。多分、他に想定外のことが増えたとしても結論は変わらなかっただろう。
 田中は面白そうに笑みを浮かべた。
「たとえ何が起こっても…か。そういうのをね、『運命』っていうのよ。」
 御雷は美しい顔をしかめた。何もかも初めから決まっていると考えるタイプではない。
「運命ってね、自分を納得させるための言葉だと思うの。私は…正直、菊ちゃんに嫉妬してたと思う。御雷先生に大切に思われているのがわかったから。でもね…。」
 悪戯っぽく笑う。
「抱かれるのは私の方が先。それが運命だったと思えば、少しは溜飲が下がるというものでしょ。」
 そういうものかねえ…。御雷は気のない返事をする。が、田中の眼は真剣だ。
「そういうものよ。だから、あなたが菊ちゃんを助け出すのも『運命』。二人とも生きて帰ってこなければ、許さないからね。」
「もう、連れて行けとは言わないんだな。」
 田中は頬を赤くして怒った顔をしてみせた。
「行けるわけ、ないじゃない。ガニ股で歩くわけにもいかないでしょ。…まだ、あなたが私の中に居るみたいなんだから。」
 御雷は笑って田中の髪をくしゃくしゃと撫でた。細い猫っ毛が、汗で湿っている。
「処女は大変だな。今日は、大人しくしてろ。妊娠を望むなら、身体を労れよ。」
 馬鹿、と言って田中は背中を向けた。
「もう行って。菊ちゃんが待ってるわ。」
 空が白み始めていた。
 御雷は田中の首筋に軽く唇を触れさせた後、ベッドから滑り出た。
 張りのある白い肌。朱い唇。黒い髪は艶やかに光り、瞳には潤いがある。
 延々と田中を抱いた疲れは、微塵も感じない。
 むしろ、女の精気が御雷の身体を満たしているようにさえ感じている。
 二十年間、この感覚を忘れていた。
 抱けば抱くほどに。
 殺せば殺すほどに。
 身体に力が満ちてくる。
 御雷は、そういう男であった。

      4
 石上邸の門を出た黒いスープラは、排気音を響かせるでもなくのんびりと走った。
 サイドウインドウを下ろし、御雷は風を感じている。
 身体の芯に火照りが残っていた。女を抱くときには体温の異常上昇は起こらない。都合のよい身体だ、と一人して笑う。
 田中の引き締まった肉体と、小気味よいほどに反応を返す敏感さを思い出して、軽く唇を舐めた。
 これから女を助けようというときに、別の女に手を付ける。
 そのことに御雷は矛盾を感じていない。
 ただ、K2の呆れたような表情が目に浮かぶだけである。 
 彼女の言うように、俺の感覚は少しばかりおかしいのかもしれない。
 その程度の認識でしかない。
 K2も菊池も田中も、御雷にとっては同じように大切な女性だ。その中で、最も緊急性が高い状況下に置かれているのが菊池だというだけのことだ。
「…それも、少し違うな。」
 違和感を言葉にしてみようとして―――やめた。女を抱く時間は大切だが、あれこれ考えるのは時間の無駄だ。
「もともと、答えの出ている問題だしな。今更考えることじゃないさ。」
 何としても、菊池を取り戻す。彼女を当たり前の日常に連れ戻すのだ。
 御雷自身は、もうずっと以前に、日常というものを見失ってしまった。それでも、生きてはいける。
 菊池は、ちがう。まだ若く、そして弱い。少なくとも今しばらくの間は、普通の生活が必要だ。いずれ時が来れば、彼女自身の決断でそれを捨てることもあるだろう。が、それは今ではない。
 ふと、疑問が湧いた。
 菊池にとっての当たり前の日常とは、何だ?
 菊池の人生も平凡なものではない。菊池に、日常などというものがあったのか。
 御雷にはわからない。わからないなりに、菊池の「今」を考えてやる。
 自分はやはり、刹那的だ。
 御雷は皮肉な笑みを浮かべて、考えるのをやめた。スープラをコンテナに乗り入れる。
 ストックされている銃器の中から、九ミリパラベラム弾を使用するサブマシンガンをいくつか出してきた。
 御雷自身はサブマシンガンが好きではない。が、ドイツ製で減音器付きのものを選ぶ。H&K社製のMP5SD6。
 この銃を見る度に、御雷は自分の運命を変えたあの突入作戦を思い出す。できれば思い出したくもない経験だが、銃に責任はない。専用の光学マウントを使用してダットサイトを載せてある。高価な銃だが、それに見合う性能はあるということだ。
 より新しい銃や、より威力のある銃もコンテナには備えてある。しかし、あまりに新しいものや特殊なものを使うわけにはいかない。入手経路が著しく限定されるからだ。
 御雷は、捨てる前提でMP5を選んでいる。今となっては旧式銃だ。これなら、人目に触れてもさほど困りはしない。
 長いケースに仕舞われている五十口径のライフルに目をやって、小さく溜め息をついた。菊池の件さえなければ、長距離からの狙撃で片が付くのに。
 玄は、親切にも河津組の連中の配置を御雷に伝えていた。それを疑おうとは思わない。
 一つには、その配置にある程度合理性があると思われたからだ。
 連中の狙いは、のこのこと現れた御雷を血祭りに上げることだ。麻薬の取引現場を警護することは二の次だ。
 だから、御雷が現れそうなところ、侵入経路となりそうなところに重点的に配置されている。狙撃だけでは斃しきれない。
 強力な銃器を使えば発砲音は抑えられない。狙撃ポイントから菊池の元へ向かうまでに奴らは体勢を立て直すことだろう。何より、警察の介入を招くと話がややこしくなる。
 ならば。
 気配を殺し、存在を消して忍び寄るしかない。一人ずつ、可能な限り静かに敵の数を減らす。得物は、発射音を抑えられて、弾がたくさん入るものがいい。威力は近接戦で人を殺せるだけあれば十分だ。銃を選ぶ理由など、御雷に取ってはその程度のものだ。
 それにしても。
 全てをぶち壊す方が、御雷にとっては簡単だ。
「結局、斬りたくないものを残すのが、一番難しいんだよな…。」
 自分の独り言に、御雷は解答を見出す。
 そうか。菊池は俺にとって「斬りたくないもの」になっていたのだ。
 その心境に至った者は、もはや『道具』としては使えない―――【H】の声が懐かしく思える日が来るとはな…。
 御雷の唇に小さな笑みが浮かぶ。やはり、引退の潮時のようだ。
 その前に、まずは菊池だ。
 菊池の守りは玄が直接行うという。
 だったら彼女は無事だろう、と思う。少なくとも、俺が殺されるまでは。
 そう考える理由が無いわけではない。
 それは、玄がヤクザを酷く嫌っていることだ。
 食客という形に納まってはいるが、御雷を殺すための手段に過ぎない。
 基本的な考えは、玄も御雷も共通している。
 ヤクザはダニだ。ダニは殺してしまうのが一番いい。
 それだけのことを、短い会話の中から読み取っている。少なくとも、現場のヤクザの動きに関する情報は信用しても差し支えない。
 菊池の扱いは、玄の流儀で行っていることだろう。だとすれば、もう処女ではないかもしれない。が、精神が壊れるような扱いは受けていないはずだ。
 俺にはわかるのだ。
 口の中が少しだけ苦くなる。腹は減っている。石上邸では何も口にしていない。
 もうコンビニに寄るのも危険だった。コンテナの非常食で腹を満たす。脳のために板チョコを囓った。
 MP5のマガジンをありったけ出してきて、弾を込めた。三十連が、三十本。さすがに重い。ボウランド用も十本用意する。ベレッタ用は五本。
 さて、と御雷は考え込む。これだけの弾を持ち運べば、さすがに動きが鈍る。玄との闘いでは間違いなく後れを取るだろう。
 ダニを潰しながら空になった弾倉を捨てていき、玄とやり合うまでにMP5自体も捨てることにする。その時点で敵の排除が不十分なら、危ない。全てはタイミングだ。
 拳銃も本当はボウランドだけにしたいが、シングルカラムでは装弾数に不安がある。むしろベレッタで斃せる相手なら、ボウランドは使わない方がいいかもしれない。愛着のあるカスタムガンだが、仕事用の銃を新調するべきだと思った。ダブルカラムなら、二〇一一をベースにダットサイト付きと無しの二挺を造る。
 そこまで考えて、御雷は可笑しくなった。
 引退を決意しているにもかかわらず、殺しのための銃器を新調することを考えている自分が、である。
 御雷は服を脱いだ。衣類用のボックスから暗灰色のカバーオールを取り出す。普段着ているジャンプスーツによく似ているが、アジャスターは付いていない。本来の体型に合わせた立体裁断になっている。難燃性のアラミド繊維でできているのは、御雷の中に火炎に対するトラウマが残っているからだ。いつも着ているフライトジャケットも、安物に見せかけてはいるが、素材はアラミド繊維だ。
 黒いショートブーツを履いてみた。アメ横で売っている市販のタクティカルブーツと見た目は変わらないが、サイドジッパーは付いていない。それに、よく見れば靴底は接着ではなくブーツ本体に縫い付けられている。裏返せば、滑り止めのパターンも素材も市販品とは異なっているのがわかるはずだ。
 近接打撃を打つ度に、御雷は靴を駄目にする。両足で地面をしっかりと掴むために、靴底が負荷に耐えきれず崩れてしまうのだ。だから、特注品ではカーボンナノチューブが巧妙に使われている。誰が造ったかは言うまでもあるまい。また、極微レベルでの凹凸を表面に刻むことで、異常なほどの摩擦力を発揮することができる。
 この世にただ一つ。そんな特注品を持ち出すのは、警察よりも玄の方が遥かに怖いからだ。
 ベルトを腰に巻き、バックルを留めた。右腰にはボウランド用のホルスター。トリガーガードをロックする機構が組み込まれているために、光学サイトのマウントが付いていようがいまいが、変わらず銃を保持してくれる。外した減音器のホルダーもある。左側には同じくボウランド用の弾倉入れ―――マグパウチ。シングルカラムのマガジンを八本収めてフラップを閉じた。少し身体のラインから飛び出すが、言うほど邪魔にはならない。MP5のマガジンを五本、専用のマグパウチに入れて腰のベルトに吊るし、固定用の細いベルトを左の大腿部に巻く。俗に言うレッグリグには、ダマスカスのナイフも挿してあった。二本ある内のもう一本は、腰の後ろに差してある。
 最後に、いつものように減音器付きのベレッタと予備弾倉を収めたフライトジャケットを羽織る。
 軽くその場でジャンプしてみる。装備品が重さでぐらぐらと動き、ジャンプのタイミングに同期してくれない。それでも、ブーツのソールは音を立てなかった。このくらいは我慢できる範疇だ。
 残っているMP5用のマガジンは二十五本。一本はSD6本体に挿す。
 後のマガジンを仕舞うためにコーデュラナイロン製のショルダーバッグを出す。パウチ類の付いたベストやチェストリグは使わない。いざとなればバッグごと放棄して身軽になるつもりだ。
 何の変哲もないバッグだったが、メインコンパートメントは四層に仕切られ、それぞれの層に幅広なゴムバンドが縫い付けてある。六つ、輪ができるようになっているのは、そこにマガジンを差し込むためだ。最大で二十四本収納できることになる。御雷は二十三本のマガジンを丁寧にゴムバンドで固定し、一本分だけ余らせた。そこに納まるはずだった一本を、予備のMP5Kに挿してから、サイドコンパートメントに収めた。ジッパーを閉じる。ジッパーのタブは、引きやすいようパラシュートコードに取り替えてある。
 次いで、MP5Kが入っているのとは反対側のサイドコンパートメントを開いた。ポケット状になっているところに重い抗弾プレートを入れる。その内側に、眼鏡ケースほどの金属器を二つ。これが、命綱だ。
 全ての装備品を身に付けてみた。重さ自体は御雷にとって大した問題ではない。がちゃがちゃと騒音を立てて自分の聴覚を台無しにすることもない。
 少し考えて、やはり抗弾装備は着けないことにした。ヘルメットも被らない。あれは、やはり集団戦用だ。被弾しても御雷の身体を運んでくれる仲間はいない。ならば身軽に動いて被弾率自体を下げる方が性に合っている。
 装備品を一旦外し、服を元通りに着替えた。
 御雷は装備一式をスープラに積み込む。トランクスペースには既に荷物が入っているため、全部を積むことができない。助手席や後部座席にも置いた。
 ゆっくりと県道を走り、石上邸に帰り着く。
 ガレージには、銀色のスズキ・ジムニーが納まっている。二番目のコンテナから持って来たものだ。
 荷物を屋敷の中に運び込むと、再びスープラで出かけた。
 一時間ほどしてタクシーで帰ってきたときには、大きな買い物袋を抱えている。殆どが食い物であった。コンビニよりもデパートの食品売り場の方が安全だ。
 大量のパスタを茹で、肉を焼く。
 御雷は料理しながら大量の食材を胃に収めていく。セロリやトマトなどは、台所に立ったまま囓った。
 時刻的には、正午までまだ少し間があった。が、今朝は早かったから―――正確には田中と愛し合ってから一睡もしていないため、眠気を我慢できなくなっていた。
 今夜は、玄が予告した、麻薬の大量取引がある。そこに、菊池も連れてこられるという。
 存分に暴れるためには少し眠らなければならない。眠るためには空腹を満たしておかねばならない。
 そういうことである。
 御雷は歯を磨くと、パンツ一つになってベッドに寝転んだ。タブレットとプライベート用の携帯電話を持って来ている。
 K2を呼び出した。
『事情は大体理解しています。』
 前置きもなく、彼女は言った。
「ぼくと爺さんの会話は聞こえていたな?」
 御雷は二台の携帯電話を持ち歩いている。
『ええ、聞きました。菊池さんというひとが、困った状況になっているのですね。』
「菊池が、お前の言っていた『女』なんだよ。」
 でしょうね、と軽く流されて御雷は拍子抜けする。
「怒らないのか。」
『人の命がかかっていますから。あなたへのお仕置きは後にします。』
 真面目な奴だ、と可笑しくなる。同時に、K2の「お仕置き」とやらも本気なんだろうな…とやや不安になった。
「タブレットに、取引現場周辺の情報を送ってくれないか。」
 携帯電話に繋がったタブレットの画面に、すぐに地図が映し出される。驚いたことに、三次元モデルとして表示されている。
 御雷が画面に触れると、漁協所有の倉庫は大きさを変え、くるくると向きを変えた。周囲の地形図も追従して変化する。
「驚いたな。地図を出してくれればそれでよかったのに。」
『ちょっとしたサービスです…というのは冗談ですが。』
 サービス、とは思えない精巧なモデルである。
『最近、自分が視ているものを、どう表現すれば皆さんに理解してもらえるか試行錯誤してるんですよ。これは、その一例です。』
 K2によれば、基本的には通常の地図情報に軍事衛星や民間の調査衛星から掠め取った情報を重ねて立体化したものだという。それ故に、可視光では見えない地下構造までモデリングされている。熱源の分布や地下水脈の分布まで、推測値も含めて利用できるデータは無限にある。
『人間は、個別のデータをリンクさせて処理するのが苦手なようですね。ですが、個々の情報を組み合わせて処理することで、総体が見えてくることもあるわけです。』
 それはK2の得意分野でもある。一見何の関連もなさそうな情報の断片を無数に積み上げて、そこに存在する真実を示してみせる。この三次元モデルも、実際は彼女が「視て」いるものの、ほんの一部に過ぎないのだろう。
 K2が感じているであろう寂しさが、少しだけ理解できるような気がする。たとえ御雷が彼女を愛していたとしても、彼女と完全に感覚を共有することはできないのだ。
「そういう言い方をすると、まるで『自分は人間じゃない』と言ってるみたいだよ。」
 御雷の指摘に、ようやくK2は笑った。
『私はまだ、人間としては未熟なんです。だから、完璧を期すために、地下のインフラに関する情報を盗んでみたりもします。』
 御雷は首をすくめる。道理で、地下の水道管や都市ガスの配管等が妙に精巧に再現されているはずだ。
 K2が情報を盗むためには、対象が電子的に保存されている必要がある。そして、保存場所がネットワークに繋がっていることも欠かせない。
 果たして、市役所やインフラに関わる企業がそのレベルに達しているのだろうか?図面こそコンピュータ上で作成するだろうが…。
「どうせ、とんでもない方法で情報にアクセスしたんだろう。」
 含み笑いが返ってくる。
『知りたいですか?』
 御雷は即答した。
「いやだ。知りたくない。知ったら、夢でうなされそうだ。」
 無駄話を一旦切り上げる。
「地図上に、人物を点で配置してみてくれ。菊池は藤色。爺さんは青。河津組の連中は、黄色から赤のグラデーションで。」
『脅威度の高いものほど赤に近付くようにするのですね。』
「そうだ。」
『客の方はどうしますか。銃器を持っているのでしょう?』
「取り敢えず全員グリーンでいいよ。」
『では、電話の会話を私なりに分析した位置に、マーカーをプロットします。』
「それでいい。やってくれ。」
 御雷は、同じ情報をK2がどう解釈するのか見てみたかった。自分の想定と異なっているとすれば、原因は何か。それを考えることで、自らの思考の穴や、死角に気付くことができるはずだ。
 同じ事をK2も考えている。これは、いわば御雷と思考を闘わせる場だ。自分を進化させる糸口になるかもしれない―――というより、単純に愉しいのだ。
 果たして、K2が示した配置図は、御雷が頭に思い描いていたものと寸分の狂いもなかった。
 嬉しいような、悔しいような。
 御雷は溜め息を声に変えた。
「ぼくが思ってたのと、全く同じだよ。」
 倉庫は二階建てだが、取引は一階で行われる。菊池は、取引場所の隣の部屋に玄といる。河津組の総勢は七十人。約半数は倉庫からやや離れた場所に潜んでいる。倉庫に近付くこと自体を阻止する一次防衛ラインである。残りの半分は倉庫の周辺や、隣接した他の倉庫の陰で御雷を待ち伏せる。これが、二次防衛ライン。最終防衛ラインは…言うまでもない。あの爺だ。
 二階や屋根の上のような、高所への配置はない。倉庫が密集しているために、狙撃手ができる仕事が限られるからだ―――撃つばかりが仕事ではないのだが、と御雷は皮肉な笑いを浮かべる。取引相手が、高い位置を取られることに強い警戒心を示したのも、沢田が地べたを這うような布陣で妥協する一因ではあった。
 こうして図にしてみれば一目瞭然だ。
 麻薬の取引は重要だが、中心ではない。
 真言密教の曼荼羅のように、ヤクザとヤクザの商売相手を表す光点が並んでいる。その中心にいるのは、玄と菊池だ。
 全員を一筆書きのように斃して進むルートがあればいいのだが。
 通常とはむしろ逆のことを御雷は考える。
 彼一人なら、ヤクザ共の眼を誤魔化して菊池の元へ辿り着くのは不可能ではない。殺しはするだろうが、撃たずに済ませる自信はあった。だが、菊池を連れ出すには一人でも多く殺しておいた方がよい。
 実際には相手も動く。一筆書きルートの検討は諦めざるを得ない。
「侵入経路を提案してくれるかい。」
 画面に何本かの線が引かれる。
『道路側は車両でブロックされます。用水路が使えるかもしれませんが、それなりに警戒はされるでしょう。』
「まあ、七十人もいれば、配置の自由度は高いだろうね。お前なら、どうする?」
 二秒、考える。
『米軍基地からF15を拝借して、倉庫周辺を一掃します。その後、機体を捨てて真上から私だけが降下します。屋根を突き破って菊池さんのいる部屋に到達するのは容易です。あるいは、ボディの強度を生かした正面突破を行います。―――本当に行きましょうか?今からこちらを出ても、刻限には間に合うように着けますけど。』
 御雷は額に手を当てた。
「お前に訊いたぼくが馬鹿だった。」
 これもK2ならではのユーモアなのかもしれない。眉間の皺を緩めた。彼女の気遣いに感謝する。
「あのな、K2。降下してきた自分の姿を想像してみたか?」
『いえ。何か問題でも?』
 ふう、と御雷は息を吐いた。
「そりゃ、お前は頑丈だ。高空から飛び降りようと、ミサイルに掴まって突入しようと、身体が損傷したりはしないだろう。銃弾なんかじゃ、傷一つ付けられないだろうよ。」
 でもな、と続ける。
「お前、十中八九、地面に着いたときには素っ裸になってるぞ。服はお前ほど丈夫じゃないだろう?」
『そこは…考えていませんでした。というか、国際問題云々を責めないんですね。』
「国際問題なんてどうでもいい。ぼくは、お前の裸を他人に見られたくないんだよ。どこででも裸になりたがるようじゃ、ぼくの妻にはなれないよ。」
 これは、堪えたようだ。
『ごめんなさい。提案を取り下げます。でも、私に来るように命じて欲しいという気持ちは本当です。きっとお役に立てると思いますけど。』
 御雷は笑った。
「どうせ、戦闘機をかっぱらった上に、空中給油機まで騙くらかして、派手に登場するつもりなんだろう?そりゃ、ぼくは助かるけど、後が大変だよ。お前の存在が明るみに出れば、もう人間としては生きていけなくなる。」
 K2が沈黙する。人間として生きていけなくなるということは、御雷と共に人生を歩む道が閉ざされるということだ。それだけは、いやだ。
『こういうことを葛藤というんでしょうね。あなたを手伝いたい。でも実行すればあなたとは一緒にいられなくなる。他のことは我慢しますが、それだけは嫌です。でも、手伝わなければあなたを失ってしまうかもしれない。』
「人間っていうのは葛藤する生き物なんだよ。」
 普段は殆ど葛藤というものを感じない御雷が言う。
「熱光学迷彩を持ってくればよかったかな…いや、やっぱり駄目か。現場に残せば面倒だし、どうせ爺さんには通じない。」
 かつて研究施設の研究員が作ろうとしたものを、K2は実現している。熱光学迷彩は、要求される演算力が膨大で、まだ御雷が単独で運用することはできない。
 とはいえ、K2の支援を受けることには魅力がある。
「なあ、お前は来なくていいから、F15でもコブラでもアパッチでも、何か空からの支援は頼めないかな。お前の遠隔操作でさ。」
『残念ながら、私が搭乗者として操縦しなければ不可能です。―――そうですね、機体を飛ばすのは無理でも、基地からミサイルを撃つぐらいなら遠隔操作でできますけど。』
 半ば冗談のつもりで言ったことだけに、K2の返答にはぎょっとさせられる。
「本当に?どうやって?」
 電話越しの、無垢なくすくす笑いが怖い。
『大したことはしていません。ナノマシンを、散布してもらったんです。』
「サイモンか?あいつ、自分が何をやってるのかわかってるのかな。」
『もちろん。面白がっていましたよ。ナノマシン―――私の神経素子は、今のところ火器管制システムとセンサー系を侵食するところまでで止めています。ミサイルも撃てますが、無誘導発射になるので当たりませんよ。』
「うん。ぼくにはミサイルを誘導する能力はないからね。…何というか、いつの間にか色々手を回してるんだな、お前。」
『あなたを守るためなら、私は何でもしますよ。今は無理でも、戦闘兵器の無人化や自動化が進めば、完全に私の支配下に置くことが可能になるはずです。』
 御雷はタブレットを放り出して、寝転んだまま大きく伸びをした。
「お前は、将来たった一人で一国の兵器を自由に動かせるようになるわけか。まさに『兵器の女王』だな。銃と自分の肉体しか頼れるものがない自分が、小さな虫みたいに思えてくるよ。」
 言葉とは裏腹に、御雷の声に卑屈な響きはない。K2がそんなもので人間の価値を決めたりしないことを、彼は知っている。
『訂正するなら、一国ではありません。日本海にも散布しましたから、水上艦や潜水艦に関してはアメリカ、日本、中国あたりは押さえてあります。弾道ミサイルでも巡航ミサイルでも、好きなタイミングで撃てますよ。』
 恐る恐る訊いてみた。
「核も、か?」
 もちろん、とK2は答える。
『でも、どれほど攻撃力を動員できても、あなたと菊池さんを守るのは難しい。』
 そう。誰かを守るのは本当に難しい。K2もそれを悔しいと思うまでになったか。
 御雷は、K2に幼い日の自分を重ねてみる。
 自分は建に何と言ったのだったか。あれは、確か初めて人の命を奪った日のことだった。
 ああ、と思い出す。俺は言ったのだ。
 ―――ねえ先生。いくら強くなっても、誰かを助けるのは難しいことなんだね―――。
 あの日の言葉を、呟いてみる。先生、この子もそれに気付いてくれたよ。
「取り敢えず、ロボットだけ使おう。設置と起爆のタイミングを頼むよ。」
 狙撃支援ロボットよりも遥かに小型だが、自立行動可能な爆弾である。K2がリモートコントロールする際にはデータ収集用のセンサーも兼ねる。特殊なテクノロジーではあるが、跡形もなく自爆するのだから痕跡を残す心配はない。それを二ダースほど用意してある。今は長めのパーツクリーナーのスプレー缶ほどのサイズに収納して、ケースに収まっている。
 タブレットを取り上げ、ロボットの配置場所を決める。車両を吹き飛ばし、倉庫を潰す。起爆までは相手の動きを探るセンサーとして役立ってもらう。有効な場所を吟味しながら、K2と共に決定していく。
「分析した情報は、イヤフォンの方にくれるかい?」
『網膜投影型のゴーグルは使わないんですか。視覚的に情報を提示できますけど。』
「ぼくの暗視能力と相性がよくないんだよ。結局、眼で情報を追って理解しなければならないから、脳の負担も大きいし集中力を保つのも難しい。」
 だから、片耳だけK2のために空けてやる。
『私があなたの脳の演算負荷をいくらかでも引き受けられれば、ずっと楽になるはずなんですが。』
 以前やったようなコネクトポイントを使った接続では、情報の受け渡しはできても処理そのものに介入することはできない。
「そのための外科手術が必要なんだろう?脳を余計に弄るのは嫌だな。この仕事が終わったら、さっさと破片を取り出したいよ。それでお終いだ。」
 暫しの沈黙の後、K2は呟くように言った。
『…それで、あなたは死すべき運命の者に戻る。私を残して、逝ってしまうのですね。』
 御雷は胸を突かれた。自分がK2に対していかに残酷なことを要求しているか思い当たったのである。
「K2…すまない。ぼくが無神経だった。」
『いいえ。私は大丈夫です。あなたの望みを叶えるために、私は存在します。ただ…あなたのいない世界で生きていくことがイメージできないだけ。』
 K2は自殺することもできない。御雷には彼女のボディを破壊するコードがある。しかし、彼女を殺すことはできない。
 恭子が再び死ぬところを見れば、自分は壊れてしまうだろう。
 その思いが御雷の行動に強い制約を掛けているのだ。
「その話は、仕事が終わってからにしよう。それから、服の話だけどな。いっそのこと服もナノマシンの集合体にしたらどうだい?色も形も自由に変えられると便利だろ?」
『それは、いい考えです。けれど、私だって武さんとお店に行って、服を選んでもらったりしてみたいんですけど。』
「じゃあ、普段着と使い分ければいいよ。服屋にも連れて行ってやるから。」
『約束ですよ。』
「ああ、約束だ。」
『その前に、名前をくださいね。』
「それが先だったな。ちゃんと覚えてるよ。」
 約束をしていれば御雷が死なない、とK2は思いたがっているようにも聞こえる。俺の性分をよくわかってるじゃないか―――何しろ付き合いが長いからな。
「現実的な侵入経路を頼むよ。」
 K2が声を改める。新たな線は陸地を通っていなかった。
『倉庫群は海に面して建っています。堤防に高さがある上に、今原市の近海は潮流が速い。港の外は、潮の干満で河のように流れができるところすらあります。静かなのは港の中ぐらいなものです。穏やかな瀬戸内海では珍しい海域だといえます。』
 御雷は画面を睨みながら耳を傾けている。
『倉庫裏の堤防下も、波は相応に荒く、侵入は難しいと考えられます。だから、人員の配置も比較的手薄です。でも、あなたなら入ることができるはず。まず、その場の数名を排除してから、屋根に上がってください。』
「やっぱり、海か。」
 御雷は口をへの字に曲げた。深い水は怖いのだ。
「酸素ボンベを背負って泳ぐなら、フローターがないと沈んでしまう。ゴムボートかな、やっぱり。」
 K2は笑って同意する。
『窮屈でも救命胴衣は着けてくださいね。それから、いざというときのために、自己暗示をかけて、非常時の行動をプログラミングしておくのがいいと思います。』
 御雷は欠伸をしながら同意する。石上邸ではなく、川沿いの平屋を帰着点に設定することにした。
『夜まで眠ってください。ちゃんと起こしますから。あなたが寝ている間に、ロボットたちの最終チェックを済ませておきますね。』
 頼むよ、と言った御雷の声は半分寝言になっている。
「できれば、夕飯の支度もやっておいてほしいね。お前が作った飯が懐かしいよ。」
 K2が笑う気配がある。
『さすがに、それは無理ですよ。それに、今は菊池さんの料理がお気に入りなんでしょう?助けてあげればご飯ぐらいは作ってくれるんじゃありませんか?』
 さすがによく知っている、と目を閉じたまま御雷は笑う。
 と、K2の声音が急に意地悪なものに変わった。
『田中さんでしたっけ?あなたの新しい恋人。あの人も本当は料理上手だと思いますよ。だって、舌は確かみたいですから。また彼女のところで寝たらどうですか?』
 心臓を鷲掴みにされたような気分で跳ね起きる。
「聞いてたのか?」
『ええ、全部。あなたがどうやって女を口説くか、よおーくわかりました。』
 電話の向こうで、あかんべえをしているK2の姿が目に浮かぶ。
『まったく…呆れるのを通り越して感心しましたよ。』
「ぼくは御雷武だからね。」
『彼女…妊娠するといいですね。私はまだあなたの子供を産むことができませんから。』
「性格はあいつに似た方がいいな。本人は何人も産む気らしい。」
『私を口説いてはくださらないのかしら。』
「改めて口説かなきゃ駄目かい?」
 恥じらいを含んだ声ではあるが、きっぱりとK2は言った。
『いいえ。私はとっくにあなたのものです。あなたが望むなら、いつでもお応えする心の準備はできていますが…その…。』
「何だよ。」
『初めての時は優しくしてくださいね。』
 御雷はベッドから転がり落ちた。腰をさすりながら寝床に戻る。
「それも、約束する。もう寝るよ。」
『ええ。おやすみなさい。』
 返事をする間もなく、御雷は眠りに落ちていた。

      5
 午後七時。
 K2が声を掛けるのと、御雷が目を開くのはほぼ同時だった。
 御雷が起きたのを確認すると、もうK2は無駄口を叩かない。
 ここから先は、呼ばれるまでは黙っているつもりだ。
 もう、殺しの時間は始まっているのだ。
 御雷は飯を炊き、味噌汁を作った。生卵を炊きたての飯に掛けて、軽く一升。豆腐とワカメの味噌汁には、松山揚げが入っている。本当なら、魚の干物でも炙って食いたいところだが、匂いの強いものは避けた方がいいだろう。納豆も我慢する。少し考えて、冷蔵庫から豆腐を一丁出し、生姜やミョウガを刻んだものを載せてから醤油を掛けて食った。
 生姜の匂いのするゲップを吐き出す。これだけ薬味を食うと、匂い云々を問題にするのが馬鹿らしく思えてきた。
 御雷は、小麦粉でできたものが好きだ。麺類はもとより、美味いパン屋があると聞けば行ってみたくなる。お好み焼きも好きだし、たこ焼きにもうるさい方だ。
 いわゆる「粉物好き」に入るのだろうが、重大な局面に臨む際には米の飯がいい。根拠はないが、パンを食うより力が出るような気がするのだ。
 最後まで戦い抜くことができるだけのエネルギーを、体内に溜め込まねばならない。
 その際に米を選ぶ自分自身を、御雷は面白がっている。俺も、日本人だということか。
 食器を洗い、調理器具を片付ける。
 歯を磨き、腹を軽くする。  
身支度を調えた。装備品を一通り身に付けて、不都合がないか確認する。
 ロボットは、円筒形の待機状態を保ったまま、ビールケースにきれいに納まっている。二ダースあるから、ケースに入らない四本はスーパーの買い物袋に適当に放り込む。畳んだゴムボートと共にリヤシートを倒したジムニーの荷室に積み込んだ。
 出かける前に、もう一度家の中を見て回る。まだ御雷の私物がいくつか残っているが、大したものはない。暁子からもらったアルバムは既にコンテナに移している。
 もし、このまま帰ってこられなくても、撤収班の手を大きく患わせることはなさそうに思えた。
 ピッキングツールを使って玄関を施錠する。家の鍵はサイモンに預けてある。仕事が完了すれば御雷が連絡を入れる。御雷が死ねば、その報はサイモンにも入るようになっている。
 サイモンは、鍵を今原市に郵送する。それが石上邸を明け渡す意思表示として取り決められているわけだ。撤収班は、武器弾薬や車両に関係する痕跡を消すだろう。御雷の痕跡を消してくれるか否かは状況次第、といったところだ。
 午後八時。
 ジムニーに乗り込んでエンジンを掛ける。三気筒エンジンの立てる音が、実に軽自動車らしい。こんなちっぽけな車が、ある意味世界最高峰のオフロード車であることに、御雷は感動する。鋼のメカニズムは御雷の心を動かすのだった。
 悪路走行で力を発揮するように、ギアは全体的に低めに設定されている。最高速は伸びないが、出足と中間加速はなかなかのものだ。オートマチックトランスミッションなのは、スープラと同じ理由―――運転しながら銃撃を行うことを想定しているためだ。
 そういう用途の車である。
 御雷は制限速度を守りながら、車を港の方に向ける。片側二車線の大通りの突き当たりが、今原港。隣接して漁協の本部や市場がある。
 少し手前で大通りを逸れる。河津組の事務所の前を通り過ぎた。建物に明かりが点いているところを見ると、放棄されたわけではないらしい。
「組事務所だ。まだ生きてる。」
 イヤフォンから短くK2の声が聞こえた。
『座標を確認しました。』
 携帯電話にはGPSによる測位機能がある。
 そのまましばらく進み、海側に曲がれば倉庫街に出る。その交差点で、御雷は曲がらなかった。百メートルほど行きすぎてから車を停める。
 円筒を六本、電柱の陰に置いた。
 再びジムニーを出す。
 何回か、そんなことを繰り返し、全てのロボットが車外に放出された。
 御雷はさらに数キロ進んだところで車を停める。廃業した小規模な造船ドックである。
 こんな場所にも廃墟マニアが来るのか、入口の鍵は壊されていた。監視カメラの類いはない。
 荷室からゴムボートを出し、鋼板製の塀の中に運び込む。次いで、MP5と予備弾倉を収めたバッグを提げて中に入った。身に付ける装備は既に装着済みだ。
 暗い。
 御雷は視覚を暗視側に押し上げながら、廃墟となったドック内を歩く。
 空のままの船台が放置されていた。その大きさからも、さほど大きな船を作っていたわけではないことが知れた。廃業せざるを得なかった理由も理解した。
 中途半端な大きさの船しか造ることができなかったからだ。
 大手が求める船は、はるかに大きなものだ。一度に運べる量から効率を考えれば、より大容量の船を要求する声が強くなるのは必然だ。逆に、漁船規模のものであれば、これほどの設備がなくても建造することができる。
 要するに、仕事がなくなって潰れたわけだ。今原市の造船業も曲がり角を迎えつつあった。
 船台の乗ったレールは、そのまま海まで続いている。よく見れば、船台は危険防止のために、脱線させてあった。
 御雷はレールに沿って歩き、黒い水の際で足を止めた。
 夜の海か。怖いものだ。
 二酸化炭素のボンベを使ってゴムボートを膨らませる。強襲艇とまではいかないまでも、数名の戦闘員を他の船舶や地上施設に送り込むだけの能力がある。小型だが、きちんと波を掻き分ける舳先を持ち、小型の船外機も備えている。できればエンジン音を立てたくはないのだが…。
 潮を、待つ。
 今原市のこの辺りで、潮の流れは激しく、速くなる。島によって水路が絞られるからだ。昔から海難事故が多発する難所として知られている。ここだけは、通行ルールが特別なのだと聞いたことがあった。
 今は、潮は倉庫側からドックに向かって流れている。その向きは、潮の干満で決まる。
 もうすぐ、潮目が変わる時刻だ。
 御雷はフローティングベストを着けた。マガジンを収めたショルダーバッグを袈裟懸けにし、バラクラバで顔を隠した。一応ゴーグルで眼を保護するが、情報端末ではない普通のゴーグルだ。
 タブレットの画面を点けた。既に、二十四体のロボットが移動する軌跡が映し出されている。それぞれが、異なった経路を通って倉庫周辺に散っている。K2が同時に全てを操っているのだ。
 狙撃支援ロボットと同じく、あるものは蛇になり、あるものは虫になる。同じ姿を維持し続けるのではなく、目まぐるしく姿を変えながら移動しているのである。同時に、ヤクザを認識したら相互に情報をやり取りして個体を確認していく。二体以上のロボットが同一人物であると認識した者には番号が振られていく。
 タブレットには、K2と御雷が予想した敵の配置図が出してある。その中の黄色から赤の光点――――河津組の連中に、見る間に数字が打たれていった。
『概ね、予想通りのようです。不明の数名は屋内にいるか…。』
 また二つほど数字が増えた。
『高いところから見れば発見できる場所にいるかの、どちらかでしょう。』
 あと、数名。
「沢田と、もしかすると西本、石川。それに、爺さん以外で腕の立つ奴が二人。そんなところか。」
『菊池さんは、窓のない部屋にいるようです。』
 これも読み通りでは、ある。
『女性のフェロモンは、微量ですが一人分しか感じられません。』
 爆発させるロボットに、わざわざそんな知覚を持たせるところがK2のセンスなのだろうか。
 御雷の唇に、淡い笑みが浮かんだ。
『画面は覚えましたね?数字も。』
 答える代わりに、タブレットを海に投げ捨てた。もう、使うことはない。
 海が、いつの間にか凪いでいた。
 空白のような時間。
 御雷は勢いを付けてゴムボートを押し出した。水面に出る瞬間に飛び乗る。
 潮が動き出したのはその瞬間だった。
 どおっ、ざぶん。
 激しい波音を立てて、それまでとは逆方向に流れ始める。まるで、河だ。
 殆ど波らしい波もない瀬戸内海で、こんなことが起きている。
 潮目を読み、多島の海を支配することで大きな存在感を発揮していた人々が、かつてはいた。「海賊」「水軍」と呼ばれた人々の物語は、既に遙かな過去のものとなっている。
 いまは、御雷が独り、暗い海で海流に挑む。水には浮かべぬ身体で、溺死の恐怖と闘いながら、菊池の元へ向かう。
 船外機をいつでも始動できるようにしたまま、舵を操作する。自力航行しているわけではないから、効きはよくない。
 それでも、器用に堤防に寄せていく。一応、訓練は受けているのだ。
 もっと、真面目に受けときゃよかった。
 バラクラバの下の呟きは波が砕ける音に掻き消された。
 ドックを出て、僅か数分。ボートは倉庫の間近、堤防下に到達している。
 それほどに、潮が速い。
 いつもより暗闇を見通せる。集中力が増しているのか。
 田中と精気の交換を行ったからかもしれない。大量の精を放ってやったが、同時に田中の若々しい精気を受け取ってもいる。
 女の精気をもらって肉体の活性が上がる。まるで、吸血鬼だ。
 苦笑を浮かべたいところだが、御雷の顔は緊張に強張っている。ボートが恐ろしい勢いで防波堤に向かっている。消波ブロックなどはなかった。激突すれば、沈むしかない。フローティングベストとて、装備品を身につけている今は、沈むまでの僅かな時間稼ぎにしかならない。
 垂直、というよりオーバーハング気味に立ったコンクリートの壁が迫る。
 堤防の上端まで、数メートル。通常なら跳び上がれない高さではない。
 しかし。
「だから、ゴムボートは嫌なんだ。」
 足下のぐにゃりとした感触に、思わず愚痴が口を突く。跳べても、せいぜい二メートルが限界だろう。
 MP5をスリングで背中に回し、ダマスカスのナイフを抜いた。二本ともだ。ナイフといっても、普通の意味での刃付けは施されていない。
 タイミングを計る。全身の発条を撓める。
 力を出しすぎればボートの底を蹴破ってしまう。優しく、しかし可能な限り強く。
 御雷は跳んだ。
 両手に握ったナイフを堤防に突き立てる。高速振動で対象を切断する刃は、コンクリート壁を発泡スチロールに変えた。容易く刃全体が潜り込む。
 御雷の体重によって振動ブレードがコンクリート壁を切り下ろす―――寸前で、筋肉の振動を止めた。瞬時に単なる金属板に戻ったナイフは、切れ味を失って御雷の身体を支えてくれる。
 足下の、さらに下方で、波の音に混ざってボートが壁面に激突する音が聞こえた。
 御雷は、ゆっくりと登り始めた。二本のナイフを、交互に振動ブレードとして使う。
 一本で体重を支えて身体を引き上げ、もう一本に振動を通してさらに高い位置に突き刺す。
 それを繰り返して堤防の上端近くまで辿り着く。最後の数十センチは大きく海側に迫り出して、完全なオーバーハングになっていた。その下にぶら下がって、御雷は待つ。
 人の気配があった。声も聞こえる。二人だ。菊池以外に女はいない、というK2の分析は正しい。
「本当に来るのかな。」
「来たとしてもこっちじゃないだろうよ。」
 雑談に興じているのは、取引までまだ間があるという理由からだけではない。
 怖いのだ。たった一人で組事務所に襲撃を掛けた男が現れるのが。
 ヤクザとしての面子は守りたいが、できれば他の奴が守っているところに出てきて欲しい。それが本音だ。
 怖いから、口数が多くなる。
「何しろ海だからな。」
「海から来るのは幽霊ぐらいなもんさ。」
「おい、ここじゃそういう話は禁止だろう。」
「…大勢死んでいるからな、この海では。」
 男の耳が異音を捉えた。御雷はその正体を知っている。堤防下の渦に掴まったボートが、繰り返し壁面にぶつかっているのだ。
 男の息遣いで、次の動きを悟る。
 何事かと身を乗り出す動きに合わせて、御雷は両脚を大きく跳ね上げた。ナイフを握った両手を支えに、身体全体が逆立ちするような動きになる。
 男の頸に、御雷の両脚が絡みついた。頸骨が砕ける音がしたのがほぼ同時である。
 恐るべき早業であった。折れた頸に巻き付けた脚で、そのまま堤防下に引き落とす。ちょうど、ボートの上に落ちた。
 口から血の泡を吐き、ぴくりとも動かない男を、御雷は撃った。右手で身体を支え、左手はMP5を握っている。ハンドガンのように、片手で撃ったのである。
 減音器のお陰で、発射音は酷く弱々しかった。空薬莢は勢いよく跳ぶ。頭に一発。そして、ゴムボートにも撃ち込んでやる。
 黒い波に呑まれて、御雷の視力でも見えなくなる。
 死ねば、消えるだけだ。天国も地獄も―――生まれ変わりだってありはしない。
 一人の男が沈むのを見ながら、御雷は改めてそう思う。
 急に相棒が姿を消したことに、もう一人の男は動揺を隠せない。
 それでも、拳銃を取り出したことは褒めてやってもいいだろう。だが、その後がいけなかった。
 銃を構えたまま、暗い海を見通そうと堤防から上半身を乗り出してしまったのである。
 男の喉から顎にかけての部分が、無防備に御雷の視線に晒されている。
 喉元から脳幹に抜ける弾道を―――御雷は赤い光点を、男の柔らかい顎の下に乗せた。
 狙点が定まるのとトリガーを引くのが殆ど同時なのは、競技で培われた習慣だ。
 気の抜けた発射音とボルトが作動するけたたましい音は、遠くまでは届かなかった。
 返り血をきれいに避けて、御雷は再び振動ナイフで壁をよじ登る。堤防上で射殺体となっている男を海に蹴り落とした。
『六十四、六十三、排除。』
 短くK2が告げる。 
 手近の倉庫まで走った。壁に張り付くと、御雷の姿は殆ど見えない。
 息を殺している自分自身を、冷めた目で見ている自分がいる。
 まったく、やりにくいことこの上ない…。
 何度も、同じ事を思う。
 単に沢田を殺すだけなら。西本や石川を消すだけなら。
 壁に張り付くような無様な戦い方はしない。もっと素早く、先手を取りながら、必要最小限の弾数でターゲットまで到達してみせる。
 今、御雷が行っているのは侵入ではない。退路の確保だ。菊池を無事に連れ帰るために、一人でも多く殺しておかねばならない。それも、可能な限り相手に悟らせずに、だ。
 玄は気付くだろう。だが、御雷が河津組の連中を片付けるのを止めたりはするまい。むしろ、どんな手並みを見せるのか、面白がっている風でさえある。
 足音が聞こえた。滑るように音源に近付く。
 倉庫の角を曲がってきた男の側頭部を蹴った。地面に倒れる前に頭部を撃つ。
 最初の蹴りで完全に頸骨が折れている。それでも撃つのは習慣のようなものだ。
 K2が男に振られた番号を告げる。
 屋根に上がりたい。
 雨樋に手を掛けてみたが、御雷の体重を支えられそうにはなかった。
 予想通りだ。
 最初から御雷はまともな方法で狩りを行うつもりなどない。
 だから、目の前に細いワイヤーが下りてきても驚いたりはしない。ワイヤーというより、糸といった方がいい程に、細い。先に小さなリングがぶら下がっている。二、三度引いて感触を確かめると、ベルトに付いたフックにリングを固定する。
「上。」
 端的に指示するのにも練習は要る。
 強い力で引かれた。一瞬だけ目眩にも似た浮遊感があり、次の瞬間には倉庫の屋根に横たわって空を見ている。
 常人ならブラックアウトに陥りかねないほどの加速度を発生させたものが、屋根の上に居た。
 多脚を屋根に食い込ませた、小型のロボット。屋根材を突き破った長い脚は、倉庫の構造材である鉄骨を抱き込んでいるはずだ。
 人間のパートナーを伴って戦いの場に赴く御雷ではない。K2が遠隔操作する支援機器に絶対的な信頼を置いているのだ。
 静かに屋根の上で立ち上がる。御雷が居るのと同じタイプの倉庫が並んでいる。目を凝らすと、どの屋根にも多脚型のウインチ搭載タイプのロボットが張り付いている。
 本来的に爆弾であることに変わりはない。ただ、K2は複数のロボットが連携して作戦を遂行できるようにシステムを組み上げていた。地面を這うのが得意なものもいれば、極端な狭所を擦り抜けるのを売りにしているものもいる。
 御雷を屋根の上に引き上げた多脚型は、他のロボットを高所に運ぶことを主たる用途としている。視認が難しく、異常なほどに丈夫なワイヤーの特性を生かして、トラップを張ることもできる。単分子ワイヤーほどの切れ味はないが、御雷であっても直接ワイヤーに体重を掛ければ、肉体は簡単に切断されるだろう。だからこそ、ワイヤーと同素材で造られたリングを介して糸を操るのである。
 通常の運用では、糸の先にはリングを付けない。アンカーを付けて、勢いよく飛ばす。向こう岸にアンカーを固定すれば、深い谷だろうと河だろうと、悠々と空中ブランコよろしく渡ることができる。
 多用途な、糸
 そういえば、昔の学校再生専門員の中には、「糸遣い」とか「蟲遣い」とか、伝奇小説にでも出てきそうな怪しげな連中が居た。彼らのやり方を直接見たことはないが、結局死んだはずだ。
 だから、どれほど切れ味の鋭い糸を手にしていようと、御雷はそれを直接的な殺しの道具に使おうとは思わない。
 腕時計に目を落とすと、まだ九時過ぎだ。
 ベルトに糸を繋いだまま、御雷は屋根のてっぺんに登った。基本的に河津組の連中は地べたに配置されている。二階に上がることは客から禁止されているのだ。
 地上から、御雷を発見することはできない。
 ゴーグルを外す。ガラス面の反射光が邪魔だ。
 倉庫街全体を、焦点の定まらぬ眼でぼんやりと眺めている―――ように見える。その実、御雷の脳は限界近くで活動している。熱を、視る。ほとんどサーモグラフィーに近いほどに、網膜から入ってくる情報を脳が処理して見せてくれる。この状態で格闘を行ったり、至近距離での撃ち合いは無理だ。
 だから、あまり動かずに撃てる的を処理する。
 御雷はMP5を、初めて両手で構えた。頬に金属製のストックが食い込む感触がある。
 最も遠くに見える熱源に、光量を絞ったダットを乗せた。トリガーを引く。一回、二回、三回。
 胴体と頭に当たった。
 どこから撃たれたのかわからない。何故自分なのかもわからない。まだ童顔の男は、西本でも石川でもなかった。御雷の脳が識別する。
 距離百メートル。この倉庫街の大きさを示す際の、規準になる長さだ。百メートル四方の敷地に、五棟の倉庫があり、駐車場がある。
 つまり、百メートルの距離で当たり、なおかつその弾が十分な殺傷力を有していることが、主たる得物には求められる。
 だから、御雷はMP5を選んだ。
 九ミリパラベラム弾を使っての、狙撃。光学サイトの使用が前提とはなる。ボウランドで五十メートル。MP5なら百メートル。それが、今の御雷にとっての必中距離である。
 目視できる奴を、なるべく守りの最外部から斃していく。列で進む者を撃つ際に、最後尾から斃していくのと同じ理屈である。
 取引の間際まで御雷が来ないとでも思っているのか?
 配置こそもっともらしいが、待ち構えるという感じではなかった。そわそわと銃に触る者。気を紛らわせるために、低い声でエロ話をしている者。
 どいつもこいつも、気配を出し過ぎだ。
 静かに殺すためには、銃ではなく体術を使わねばならないかもしれない、という心配はしなくて済みそうだ。トリガーを引くだけで始末できるなら、そうさせてもらうことにする。自分の体温が上がりすぎれば、他人の「熱」は見えづらくなる。
 見える範囲の「熱源」を、遠い者から順に撃っていく。男たちに銃は撃たせない。
 静かに、熱源は数を減らしていく。
 撃てるだけ撃ったら、隣の屋根にいるロボットから新たに糸が送られてくる。
 御雷はベルトのフックを繋ぎ替える。隣の屋根に移る。
 糸が役に立つ。
 その屋根の上を移動しながら、また見える熱源を無心に撃っていく。すべてセミオートだ。
 隣の屋根に移る。糸が役に立つ。目視できた熱源を片っ端から撃っていく。
 同じ事の繰り返しだ。
 高所から狙える敵は、基本的に倉庫の建物から距離を置いている連中だ。つまり、「列になっているなら後から斃す」「ある程度の集団なら、外縁部から斃す」という基本が、図らずも自然と実践できていることになる。最初に中央に攻撃を加えると、敵は散ってしまう。それを追うのは面倒なのだ。
 可能な限り真ん中に狩り集め、根こそぎ殺す。
 次のステップに進む前に、御雷はハイドレーションのチューブを咥えた。生ぬるい水でも、ないよりはマシだ。

      6
「来おったわ、御雷の奴。」
 玄は腕組みをしたままパイプ椅子に腰を下ろしている。サングラスの下で目を瞑っているようだ。
 その唇が、面白そうに歪む。
「お前さんの想い人は、どうあってもお前さんを連れて帰るつもりらしい。」
 よかったなあ、菊池先生。
 同じく椅子に座らされている菊池に笑いかける。
 嘘だ。来るわけがない。
 言葉にはしなかったが、表情に出たのだろう。
「嘘じゃない。その証拠に、河津組の連中が恐ろしい勢いで数を減らしている。」
 とどめのような、一言。
「殺しているのさ。」
 嗚呼、と菊池は呻いた。その声は灰色のコンクリート壁に阻まれて、隣の部屋には届かない。
 窓のない、狭い部屋。申し訳程度に小型の蛍光灯が侘しい光を投げかけている。
 この場所に、もう数時間は座らされている。見張りは玄だけだ。
「な?早めに来て正解だったろう?あいつなら、取引開始の時刻にはお前さんを連れ帰れるタイミングで動くからな。」
 菊池は首だけを動かして、玄を見る。身体の感覚は麻痺させられている。椅子に縛り付けられているのも、半分は見せかけだ。そんなにきつく縛られてはいない。
「そんな眼で、儂を見るなよ、菊池先生。あいつが来たら、約束通りお前さんを解放してやるから。」
 確かに、縄で縛り上げられているわけではないから、身体にダメージはない。血行も悪くなっている様子はない。
 感覚さえ戻れば十分に身体は動く、という感触はある。身体が動けば脱出できる。
 ただし、それには。
「御雷の奴が、何人殺せるかが鍵だな。たくさん殺すほど、お前さんが生きて戻れる確率が高くなるのは、わかるな?」
 ヤクザたちは、今日に備えて拳銃を持っているという。刃物も当然あるだろう。菊池より身体も大きい。彼らに阻まれれば、菊池にはなすすべがない。
「わかります。」
 呵々と玄は笑う。
「こんな状況なのに、歯切れのいい返事だ。まあ、お前さんが逃げられるように準備はしてやった。だが、解放した後は助けてはやれんぞ。それはあいつの役目だ。」
 菊池は自分の足元に目をやる。裸足やサンダルではなく、きちんとサイズの合ったスポーツシューズを履いている。着ているものもジャージの上下であった。
 誘拐されたときに身に付けていたものを、きちんと洗った上で返してもらっている。ただし、下着だけは成人用の紙おむつだ。一旦倉庫に入れば、事が終わるまでトイレに行くことはできない。
「一つの目安にしかならんが…御雷が九割方殺してしまえれば、お前さんが逃げられる可能性はぐっと高くなるだろうね。」
 耳を澄ませる。壁を通して何かを見るような素振りを、玄は見せた。
「今…また一人殺した。これで、約三十。周辺部に散らしていた連中の片付けが終わったらしい。」
 やれやれ、というように肩を竦めて笑う。
「御目出度いことに、お偉方も倉庫周りを固めている連中も、そのことに気付いてはいない。まったく、見事な手並みだよ。人を殺すために生まれてきたような男だな。」
 虚ろな表情のまま、ろくに反応を返さぬ菊池に気付く。
「どうした?御雷が迎えに来てくれたっていうのに、嬉しくないのかね?奴は今、お前さんを救うためだけに戦っているというのに。」
「嘘よ。」
 玄にも、一瞬意味がわからない。
「私を助けるためなんて、嘘。あの人は西本と石川を殺しに来ただけ。だって―――御雷先生は学校再生専門員なんだから。」
 玄の唇が、奇妙に歪んだ。白髯を一度だけ指でしごく。
「お前さんにそんな風に言われては、あいつがあまりにも可哀想というものだよ。」
 その声に、御雷に対する労りのようなものを感じて、菊池は思わず玄の顔を見る。
「奴ほどの腕があれば、餓鬼共を殺すだけならとっくに仕事を終わらせているさ。わざわざ時間を掛けてヤクザ共を殺して回っているのは、お前さんを無事に逃がすためだよ。仮に、生き残ったのが儂だけなら、お前さんは一人で家に帰ることができるからな。」
 心に引っかかるものが、あった。
「一人で…?御雷先生は…。」
 玄の表情が、サングラス越しにも哀しげなのがわかる。
「儂と闘れば、生きて帰れるかわからない。そう考えているんだろうさ。最悪の場合、西本と石川を殺すことができないまま終わるかもしれない。それでも奴はここへ来て、お前さんのために戦っている。」
 菊池は、サングラスの奥にある玄の瞳を見つめた。あの、不思議に色を変える虹彩を思い浮かべながら。
「まるで…御雷先生のことが好きみたいな言い方をするんですね。」
「ああ、そうさ。」
 玄が立ち上がる。パイプ椅子はコトリとも音を立てなかった。
「儂は、御雷の技を愛している。あれは―――美しいものだよ。それ以上に、技の遣い手は…御雷の業を修めた者は美しい。無論、外見を言っているんじゃない。研ぎ澄まされた刃のような、脳と身体のことだよ。人であって、人ではない。」
 菊池からは、玄の横顔が見えている。老いたその顔には、夢見るような趣がある。
「御雷武は、儂が知る限り、史上最高の遣い手だよ。先代―――奴の養父は『天才』と言われたが、それでも奴には遠く及ばない。御雷武は、『芸術品』なんだよ。もう、人知の外にいるといってもいい。」
 深く息を吐く。
「ある意味、儂は御雷武という人間を愛しているんだろう。だから、奴が力を出せるように、菊池先生を守ってやったりもする。」
「憎くもないのに、殺すんですか。」
「愛すればこそ、殺すんだよ。」
 ぎっ、と音が聞こえそうな程に、玄の表情が引き締まる。
「憎ければ、とっくにお前さんを殺して、生首を送りつけてるよ。」
 この男は、ぞっとするようなことを、何気ない調子で言う。
 御雷と同じだ、と思った。
「お前さんは、どうなんだい?奴が憎いのか?」
 同じ事を、田中にも聞かれた。
「…わかりません。」
「憎くないわけではない、ということか。」
 菊池は答えない。いや、答えられない。
「自分を騙していたことを許せないのかね?」
 無言。
 玄は小さく溜め息をついて、椅子に座り直す。
「やはり、銃で人を殺める人間を許せないままか。」
 悪いが、お前さんのことを調べさせてもらった。玄の言葉を、唇を噛んだまま、聞く。
 玄の声には偽りの無い労りがある。
「十代の女の子には、辛い経験だったろうなあ…。」
 不意に、瞳の奥を覗き込まれた。サングラス越しに、玄の眼が僅かに光を放っているのが見えた。
「許せないのは―――自分自身か。」
 ぴくり。
 動かないはずの身体が震えた。
 玄の視線が、痛ましいものを見るときのそれに変わる。
「それで、か。お前さんが辛い役目を引き受けたのは。自分自身への罰のつもりなのかね。」
 菊池は今度こそぎょっとした。全て、見抜かれていたというのか。
 玄がまた立ち上がる。耳を澄ませた。客が隣の部屋に入ったようだ。取引が、始まる。
「武といい、お前さんといい、可哀想なもんだ。思い切って荷物を下ろしてしまえば楽になれるのに、そうしようとしないなんてなあ。」
 顎に片手を当てて、首をごきりと鳴らした。
「そこで、この年寄りの出番というわけさ。」
 呼吸を整えると、全身の筋肉に指令を送る。足元からさざ波のような筋肉の動きが登ってくる。
 玄の皺深い皮膚が、一瞬泡立つように蠢くのを、菊池は悪夢のように見つめた。
「儂は御雷を殺す。それで、あの男は自由になれる。己の過去からも、そして本来背負う必要のない御雷の業からも。あいつが死ねば、菊池先生。お前さんも自由になれる。もう辛い思いもしなくて済むわけだ。後は無事に帰って、日常に戻ればいい。」
 御雷さえ殺せば、お前さんに危害が及ばないようにしてやれる。
 初めて、歯を見せて玄は笑った。
「ま、この儂自身が、一番自由になりたがっているわけだがね。」
 怖い、笑みであった。
「そろそろ、奴の動きが派手になる。宴の始まりだよ、菊池先生。」

      7
 屋根の端から、下品なミニバンが二台、駐車場に入ってくるのを見ていた。
 トヨタ製のミニバンの中では最上位に位置する高級車のはずだ。
 御雷は、「下品だ」と感じた自分の価値観を少しだけ修正する。あのスタイルに高級感や押し出しの強さを感じ取り、そこに商品価値を見出す者がいるからこそ、高価であるにもかかわらず好調な売り上げを誇っているのだろう。
 もし、御雷が同じ車種の二世代ほど後のモデルを見たら、卒倒するに違いない。そして、「何なんだ、あのメッキのお化けみたいなフロントマスクは」と抗議することだろう。
 ともかく、それまでは高級セダンに乗っていた連中が、より威圧感のある高級ミニバンへと移行しつつあった時代である。
 先に着いた方から、男たちが数名降りてくる。御雷はグリーンの光点に重ねて彼らを認識する。屈強な肉体は、ヤクザのそれとは違う。荒事のために鍛えた身体ではない。海から生きて帰るために鍛えられた身体だ。
 いや、逆だな、と思い直す。
 鍛えたから生きて帰ってきたのではない。生きて帰ってきた者が鍛えられた肉体を持っていたということだ。
 一見似ているようだが、違う。海の―――大自然の洗礼は、一種の淘汰だ。鍛えていても帰ってこられなかった者がいるはずだ。ここに来ている連中は、とにもかくにも生き残った勝者ということになる。
 そういう意味では、ヤクザの世界で何とか生き残っている河津組の連中も、淘汰を生き延びた勝者だといえるかもしれない。
 御雷は自覚している。
 これから始まるのは、淘汰ではなく排除だ。誰も生き残ることのない、殲滅だ。
 菊池だけは、生かす。
 それが唯一の例外だ。もとより、彼女は部外者で、本来ならこんなことに巻き込まれるべき人間ではない。
 後から着いた方のミニバンに、今夜の主役が乗っているらしい。大柄な男たちに守られながらのっそりと姿を現した男を見て、バラクラバの下で苦笑する。
 今原漁協の組合長じゃないか。
 稲美中に保存されている昨年の写真の中に、漁協での職場体験活動の記録があった。数日間、様々な職業を体験するという、どこの学校でもやっている活動だ。
 生徒とともに、組合長が写っている写真があった。
 組合長自ら、河津組から薬を仕入れているわけか。警護役に連れてきている人相の悪い連中の中には、稲美中の保護者の姿もあった。違法漁の常習者たちだ。
 ここにも学校の荒れの根っ子を見出して、御雷は反吐が出そうになる。
 組合長が薬を仕入れる。違法漁師たちにそれを回し、違法操業についてもあまりやかましく言わないわけか。実質的に、違法漁を繰り返す荒くれ共は、組合長の手下のようになっている。下手をすると、薬は一般の漁師にも流れているかもしれない。
 薬物と暴力。ここでもその二つはセットになっている。大方、自分が組合長の席に座り続けるための抱き込み工作にでも使うのだろう。
 すぐにでも撃ちたいという欲求が頭をもたげたが、押さえ込んだ。物事には順番というものがある。それにしても。
 ラフな格好をした漁師の御一行が、当たり前のように懐に拳銃を忍ばせているのを見ると、世も末だと思う。
「誰だよ。『日本では水と安全はタダだ』なんて言ったのは。」
 無論、御雷は知っている。そんな時代などただの一度もなかった。人類の歴史は、闘争の歴史だ。日本だろうが、アメリカだろうが、それは変わらない。
 組合長と、付き添いの四人が、倉庫に入るのを見届ける。頑丈な鉄扉が内側から閉じられ、他の連中は入口を固めるように並ぶ。河津組と取引をするのは初めてではないから、すぐに雑談を始める者もいる。
 御雷は少しだけ可哀想になる。既に、仲間が三十人ばかり死体になっているというのに、こいつらにそれを知らせる者はいない。
 自分の持ち場に張り付けに配置されているだけなのだ。視野は狭く、連携などあったものではない。
 少しばかり、予定より遅れている。そろそろ御雷の存在を知らせて混乱を誘ってもいい頃合いだ。
 蹴散らせ。
 玄の言葉を思い出す。
「爺の言葉通りにやるのは癪に障るけど。」
 黒い不燃布の下で、御雷の唇が淡い笑みを浮かべている。
 眼下の通路。倉庫と倉庫の間に、十人ばかり男たちがいる。そいつらを殺してみる。
「下。マイナス五十。」
 御雷は短く告げると、屋根の上を走った。直接飛び降りるのではなく、通路と平行に勢いを付ける。多脚ロボットが勢いよく糸を繰り出している。
 そのまま空中に飛び出した。
 と、腰のベルトを引き戻されるような感覚があって、落下が始まった。糸が設定した長さまで伸びたために、ウインチが停止したのである。
 落下はそのまま振り子運動に移行する。
 多脚ロボットのウインチが再び動き出す。
 御雷が告げた「下。マイナス五十」を翻訳すると、「下に降りる。足先が地表から五十センチのところを平行移動するように糸の長さを調節しろ」ということである。
 御雷が高い位置にいるときは糸を長く。最も低い位置に来る瞬間には最も短く。そして再び糸を伸ばして行く。
 見た目上、御雷の身体は振り子運動の最中に、地表から五十センチの位置を維持しながら地面と平行に移動するわけだ。
 細かく正確な調整がなければ、地面に叩きつけられるだろう。いかに御雷といえども無事では済むまい。
 K2の制御が頼りだ。姿勢が安定するよう、補助の糸も繋いである。
 軌道は、ちょうど男たちの間を擦り抜けるように設定してある。
 振り子運動が始まる瞬間には、もうMP5を構えていた。フルオート。
 暗灰色の衣装に身を固め、バラクラバまで被った御雷の動きは、風だ。
 男たちには、自分たちの間を黒い風が吹き抜けたようにしか感じなかった。
 御雷にとって、世界はスローモーションだ。思考が加速している。
 男たちの表情はおろか、剃り残した無精髭の一本まで、鮮明に見えている。
 誰一人として銃口を御雷に向けている者はいない。見えていないのだ、と知る。
 平行移動に入った。
 男たちの間を擦り抜ける。
 スローモーションで動く的を撃つのは容易く思える。
 しかし、自分の身体もスローモーションでしか動かせない。思考の速度に肉体がついてこないのだ。
 動け。俺はそういうふうに脳と身体を造ったはずだ。
 脳が全身に強いパルスを送る。限界を、超えろ。
 御雷の時間が戻ってくる。正確には、スローモーションの世界の中で、御雷の時間だけが当たり前に流れ出したのである。
 いつものように狙い、いつものようにトリガーを引く。身体は動くが、ひどく抵抗があって、重い。音が無くなっていた。
 機械は正直だ。MP5はスローモーションで作動した。ゆっくりと、薬莢が三つ弾き出されるのを待って、次の男を狙う。また、三発。
 もどかしいが仕方ない。
 世界の方が正常で、御雷が異常なのだ。彼だけが、異常な高速で知覚と運動をコントロールしているのである。
 擦り抜けた。五人の男に三発ずつ打ち込んでいる。
 彼らがぶっ倒れる前に、御雷の身体は最高点に達している。再び振り子運動が始まろうとしていた。
 男たちからすれば。
 風が吹いた。
 小刻みにタイプライターを叩くような堅い音と咳き込むような籠もった音が聞こえたと思ったら、仲間が五人、腹と顔面から血を吹き出してぶっ倒れた。
 澄んだ、極小さな音がいくつも響く。それが銃器から弾き出された空薬莢が地面に落ちる音だと気付く寸前に、再び風が吹く。さっきとは逆方向だ。
 何もできない。あっと思う間もなく、三発の銃弾を受けている。
 一往復で十人。
 きっちり殺すと、糸を巻き取らせて屋根に戻る。空中でマガジンを交換する。
 これで、四十人――内、漁師が数名、か。
 予備マガジンは二十本ほど残っている。遠距離からの狙撃に予想外に手こずったのだ。
 残りの三十名ほどは、各倉庫間の通路を中心に、少人数の塊を作っている。
 面倒だが仕上げをせねばならない。
 先程やったのと同じ方法を、他所でもやってみる。
 やはり、素人に毛が生えた程度のヤクザでは、御雷の動きを追いきれない。死体が増える。
 あるグループは、重力を無視して壁面に垂直に立つ御雷の姿に、呆然としているうちに撃たれて全滅した。撃った御雷は、そのまま壁面を走って移動する。我に返った他のグループが発砲した。
 この日、初めて轟いた発砲音は、長く尾を引いた。
 御雷には当たらない。
 これで、中の連中にも伝わるだろう。そう思うだけだ。警察が押し寄せるまでの時間を計り始める。
 壁を蹴って、地面に降りると影のように走った。ヤクザたちが撃った弾は見当外れの場所に着弾する。
 MP5SD6は作動不良を起こしていた。空薬莢が切れて、薬室内に残っている。内心舌打ちをするが、銃口はヤクザに向けたままだ。心理的操作、である。
 内心、御雷は冷や汗をかくような思いを味わっている。たとえ流れ弾であっても―――マグレ当たりであったとしても、銃弾を受ければ死ぬ。予備の銃を取り出す余裕は無い。恐慌に陥ったヤクザ共は滅茶苦茶に発砲し続けている。
 少しだけ、主義を変更することにした。
 銃弾を避けるために弧を描くように走る、と見せかけた。
 上空から見下ろす視点があれば、御雷が連中の周りをぐるりと一周したのがわかっただろう。
「上。一杯。」
 多脚ロボットのウインチは全力で糸を巻き上げた。壁面に立てたのも、壁を走るような真似ができたのも、全ては微細な糸があればこそだ。ずっと、御雷に繋がっている。
 そして。
 男たちの周りに巡らされた糸にも、その動きは伝わった。
 不可視の存在に、数名の屈強な連中が一塊に縛り上げられる。
 痛い、と思うもなく、全ての肉体が胸のあたりで両断されていた。鋼鉄製の拳銃さえも鈍い銀色の断面を見せ付けているのは、中国製コピー品の鋼の質の低さが原因ではない。
 大量の血液と、夥しい量の内蔵を撒き散らした後、ようやく御雷の身体に引き上げる加速度が掛かる。
 なるほど、五人を切断すると〇.五秒程タイムラグが生まれるのか…。
 そんなことを思いながら御雷は屋根に登る。途中でMP5を放り投げた。あと、十数名。 御雷は罠を張ることにした。
 屋根を渡り移動する。倉庫間の通路を見下ろした。
 最後の十人余りは、突然起きた発砲音に怯えている。少し背中を押してやりさえすれば、容易く持ち場を放棄するほどに。ヤクザといえども多人数戦を経験することなど普通はない。
 二つの倉庫上の多脚ロボットに連携を指示する。ショルダーバッグからMP5Kを取り出す。
 初撃は、何度か試みた振り子状の動き。ただし、連中に御雷の動きが辛うじて見える程度にスピードを抑える。
 減音器無しの銃声が甲高く響いて、数名が丸太のように転がった。
 驚愕と恐怖の中、御雷の動きを捉えている奴がいる。
 振り子の動きは往復運動だ。再び通り過ぎる際に撃てばいい。
 仲間に指示を出して、銃を構えさせる。戻ってくる御雷が通るはずの空間を狙う。
 それを視野の隅で捉えながら、御雷は思う。
 動く標的は、「待ち撃ち」では当たらないぜ。しかも、俺は等速移動すらしていない。
 御雷の身体が、振り子運動の最高点に達した。再び落下に移る直前、静止する瞬間がある。
 俺なら、この瞬間を狙うのにな。
 御雷の唇が薄い笑みを浮かべた。
「下。ゼロ。」
 つまり。
 糸が繰り出された。
 円弧を描いて降下した御雷の靴底が、アスファルトの路面に接触する。それが、「ゼロ距離」の糸長だ。
 カーボンナノチューブで構成された頑丈な靴底。摩擦で損耗しようとも、断面には必ずミクロン単位のスパイクが出てくるよう設計されている。K2に感謝するしかない。
 瞬間的に御雷は限界域に全身の筋力を放り込む。強烈な減速Gに耐えるためだ。
 靴底がアスファルトを削って火花を散らしたが、滑ったのは僅か二十センチ程だ。その分、全身の関節と筋肉、そして内蔵に負荷が掛かる。
 みしり、と肉体が軋む音を聞きながら、御雷は片手でMP5Kを構えた。
 来るはずの御雷が、来ない。
 呆然と立ち尽くす男たちに向かってフルオートで三十発の銃弾を浴びせかける。
 どうせ、当たらない。それでも。
 悲鳴を上げて、一人が逃げ出した。
 集団心理というのか。
 すぐに全員が手にした銃を放り出して駆け出す。御雷から一刻も早く逃げ出したい。
 先頭の男の首が、飛んだ。
 続いて二人目、三人目と、切断された首が転がる。胴体は数メートル進んでから倒れ込む。後の男たちも、止まれなかった。全力疾走から静止状態に移行するには、それなりに距離を要するのだ。
 結局、全員が「糸」に自ら突っ込んで命を落とした。
 最初に御雷が通過した後、彼を吊しているのとは別のロボットに糸を張らせたのだ。ちょうど、首の辺りの高さで、通路を横切るように。そのために、屋根の上にいたロボットが一体、今は倉庫の壁に取り付いている。
 御雷はMP5のマガジンを新しいものに交換する。水を飲んだ。
「糸を回収してロボットを定位置へ戻せ。」
 壁に刺さっていたアンカーが引き抜かれ、ウインチが糸を巻き上げる。同時に本体も器用に壁を登って地上からは見えなくなった。
『各センサー、光学感覚器ともに生き残りは確認できません。倉庫外の敵を全て排除しました。』
 イヤフォンから聞こえるK2の声が、心なしか疲れているようだ。
「どうした?そんなに無理をさせたか?声が疲れてる。」
 足音を立てずに歩く。物陰に腰を下ろした。チョコレートを少しだけ囓る。
『心配しすぎて気疲れしているんです。結構な無茶をするから。あなたという人は。』
 御雷は低く笑った。
「それは悪かったよ。一人で七十人を相手にするようなシチュエーションは、どの教本にも書いてないんでね。普通のやり方では殺しきれない。」
 糸を使うやり方は、上手く使えば効率よく大人数を始末するのにいいかもしれない。御雷がそう言うと、K2の声が尖る。
『また、そういうことを言う。殺しはこれっきりだって言ってたのに。』
「お前も、俺に殺させたくないのか?」
 溜め息が聞こえた。
『私も、あなたと同じ気持ちなんです。これ以上、あなたの手を汚させたくない。』
「昔、恭子にも言われたよ。俺は、本当は人を殺すのを辛いと思っているんだそうだ。」
『姉様の感性に、私も同意します。あなたに、これ以上傷付いて欲しくないと思っています。』
 御雷は、どう応えればいいのかわからない。黙ったまま、カバーオールのジッパーを開いた。
「警察が、来るだろうな。」
『一帯の携帯電話は不通にしてあります。今原署の電話回線は、固定電話・携帯電話を問わず一時的に遮断しています。銃声はあそこまでは届きません。この周辺に派出所もありませんし、仮に住民が直接駆け込んだとしても初動はかなり遅れるものと推測されます。』
「無線は当然妨害してるんだろうね。」
『もちろん。異常に気付いた県警本部や他の所轄が動いたとしても、この場所の特定自体がまず困難でしょう。派手に爆発でも起きなければ。』
 全ては、タイミングということだ。
『体温が少し上がりましたね。』
「ああ。最後の急制動がよくなかったな。爺さんとやるまでは、なるべく体温の上昇を防ぎたかったんだが。つい、調子に乗った。」
 バッグからボトルに入った液体を取り出し、開いた胸元から服の中にぶちまけた。素早く蒸発して、気化熱を奪ってくれる。ひんやりとして気持ちはいいが、あくまで体表の熱を処理できるだけだ。肉体の深いところから発生している熱をどうにかしてくれるわけではない。  
 先日の経験を踏まえ、立ち小便で熱を逃がす。これで、大分マシになる。
「中の様子を教えてくれ。細かく頼むよ。」
 何体かのロボットは早々に通気口から潜り込んで情報を集めている。
『客―――組合長と付き添いが四人。もう薬を受け取って、お金を払っています。河津組側は、沢田組長が直接出てきているんですね。あとは中学生が二人。顔写真で照合済みです。それに正規の組員が二人。』
「信用回復のための取引だからね。組長自ら出張ってきても不思議はないさ。何しろ、地元のお得意様だろうからな。で、菊池と、爺さんは?」
『すぐ隣の部屋にいますね。特に動きはありません。妙ですね…老人から沢田に警告や指示を与えた形跡が全くありませんが。』
 御雷は小さく欠伸をした。緊張すると、何故か欠伸が出る。自覚はないが呼吸が浅くなっているのかもしれない。
「不思議でもないよ。爺さんは基本的にヤクザが嫌いなんだ。最低限の義理として、沢田本人は守ってやるかもしれないが…俺を使って汚い連中の掃除をさせたというところだろうよ。」
『食えない老人ですね。』
「まったくだ。」
 御雷は立ち上がった。
「あいつ、俺に何て言ったと思う?」
 K2が小首を傾げる気配がある。
『さあ…わかりません。』
「『外の連中を片付けたら電話を寄越せ。それまでは菊池先生を安全なところに匿って置いてやる』だとさ。外で起こっていることは全部感じ取っているはずなのに。」
 横着な爺さんだよ。
 苦笑する御雷に、玄に対する憎しみは感じられない。
 それでも、彼らには殺し合いをする理由がある。そして、その理由故に、御雷は玄のことをある意味信用しているのだ。
 懐から、講師の仕事用の携帯電話を出す。電波状態は、「圏外」を示している。
「ジャミングを掛けている状態で、菊池の携帯に繋げることは可能か?」
『簡単です。今回のジャミングは、大気中に大量のナノマシンを散布することで実現しています。通話電波を攪乱したり、回線や中継器を物理的に侵食することで私の支配下においているわけです。一時的に、アンテナのある基地局と二台の携帯電話の間にナノマシンの密度が低い空間―――攪乱物質のトンネルを通せばいいんですよ。」
 いつの間にそんなものを散布した?
 知らぬ間に、俺も片棒を担がされているに違いない。まあ、K2に巧く使われるのも悪い気分じゃない。
「それでいい。やってくれ。」
 菊池の電話番号は電話帳に登録していない。が、覚えている。素早く親指でキーを操作すると、通話ボタンを押した。
 三回目の呼び出し音の頭で、玄が電話に出た。
『よお、御雷先生。随分派手にやってるのが聞こえたぜ。電話をしてきたってことは、首尾よく仕事が進んだのかい。』
 うきうきとした口調で質す。
「外の連中は全員始末した。後は中の奴らだけだよ。」
 御雷の声は冷めている。

      8
 御雷は、身を隠していた物陰から、倉庫前の通路に出た。中で取引が行われている、第三倉庫。それは、菊池が囚われている場所でもある。
 ショルダーバッグを袈裟懸けにし、MP5Kは左手に提げている。
 どの通路にも死体が転がっている。ここも例外ではない。
 ゆっくりと、内側から閉じられた扉に近付く。
 イヤフォンから、室内の音声が流れてくる。潜入したロボットからの中継だ。
 ドアが開く音。片開きの鉄扉だ。
「沢田。御雷が外の連中を皆殺しにしたようだぞ。」
 これは、玄の声だ。
「本当か、玄さん。銃声だってそんなに聞こえなかったじゃないか。」
 七十人近くを配置し、全員銃を持って待ち構える。不審な人物は、誰であれ見付け次第殺していい。
 簡潔な指示は、沢田の優秀さを示している。御雷には、普段の姿とは別の姿がある、という話を鵜呑みにしているわけではない。が、少しでもその可能性があるなら、取引の間に接近してくる者を無差別に排除した方が簡単な上に確実だ。
 無能な者を使い慣れている者の指示としては、十分理に適っていた。
 彼にとっての誤算は三つあった。
 第一は、幹部たちが現場に来なかったことだ。名目上は、空になった事務所を守る、ということになっている。あそこには、金塊を始め、証券や証文類など、組の資金源に繋がるものが今も保管されている。
 部下は全員差し出しているから、裏切りにはならない。が、普段指示を与えてくれる幹部級がいなければ、普段ほどの統率の取れた動きは期待できない。
 第二は、沢田の予想以上に河津組の構成員の質が落ちていたことである。武闘派で鳴らした沢田自身のところはまだいい。他の幹部の舎弟たちの無様さは、何だ。ハジキの扱いも満足にできない者がゴロゴロいる。肥え太った身体は、気の緩みの象徴だ。ヤクザが組の看板の威光だけで堅気からゼニを絞るようになったら、親方日の丸で努力をしない公務員と変わらない。
 七十名、数は揃えた。個別に戦うなら、それなりに腕に覚えのある奴も混ざっているのだが、いささか心許ない。それでも、たった一人の男に手傷一つ負わせられないなどということがあろうか。
 第三は、玄の動きである。彼は御雷が動き始めたとき、ただ「始まった」と沢田に伝えると、沈黙を守った。途中の経過については尋ねても答えない。結末を見れば、客の前で「一方的にこちらが殺されている」と報告することがはばかれるのは理解できる。
 しかし、意図的に情報を遮断しているように思われてならなかった。現に、菊池を監禁してある部屋―――念のため、窓のない部屋に押し込めた―――の中に居てさえ、戦闘の終了を感じ取っているのである。
 玄は無言の内に沢田に告げている、「会長への義理で、沢田本人は守ってやろう」と。
 逆に言えば、「沢田は守るが、他の連中を守ってやる気は更々無い」ということだ。河津組がどうなろうが、知ったことではない。
 とんでもない爺だと、思った。が、不思議と腹は立たなかった。最初から期待してはいけなかったのだろう、という思いがある。
「銃声が少なかったと言ったな?単に、御雷が撃たせなかっただけだよ。」
「じゃあ、何故、後半になって喧しくなった?」
「そうさなあ…。」
 玄は髭をしごく。
「強いて言えば、儂やお前―――一番は菊池先生に知らせるためだろうな。『もうすぐ終わる』とな。」
 沢田は信じられないというように頭を振った。
「…いるのか?そんな化け物みたいな奴が。」
「自分の目で確かめればいいさ。扉の向こうまで、もう来ているはずだよ。」
 顔を上げて、呼びかけた。
「そうだろ?御雷先生。」
 イヤフォン越しに呼びかけられて、御雷は微笑する。当然、玄は御雷が仕掛けたロボット群のことも察知している。
 何のことかわからず、組合長と護衛の四人は固まっていた。懐に手を突っ込んではいるが、実際に銃弾で命のやり取りをしたことはない。倉庫外で始まった銃撃戦―――実際には彼らが知るより遥か以前に始まっていたのだが―――の音に、顔を青くして立ち尽くしているだけだ。
「組長、客人に説明してやったらどうだい。」
 沢田は、覚悟を決める。信用回復どころか、この取引は河津組にとって致命傷になりかねない。
 気障な程に皮肉な笑みが、整った浅黒い顔に浮かんだ。構成員を七十名近く失って、今更致命傷もあったもんじゃないな。
「すまないね、組合長さん。少しばかり、想定外のことが起きたようだ。」
 普段は尊大にふんぞり返っている肥満体が、落ち着きなく貧乏揺すりをしていた。組合長のポストを利用して巧く儲けることを覚えてからは、自分で漁に出ることはなくなっている。
 もう、この男は漁師としては死んでいる。
 沢田は冷たくそう考える。それは、うちの幹部たちも似たようなものか。  
「何が起こっている?河津組に楯突く馬鹿は、死んだんじゃないのか?」
 銃声が止んだのはそのためだ…と組合長は思いたがっている。
 脂汗を浮かべた顔に、沢田は「蝦蟇の油」の口上を思い出す。こんな状況なのに、笑いがこみ上げてくる。
「たしかに、その予定だったよ。人数を揃え、銃を持たせ、さらに真っ当とは言い難い漁師にまで加勢を頼んだ。」
 皮肉な物言いだが、今の漁師たちにそれを聞きとがめる余裕は無い。
「不自然にならないように、格安で薬を売るような真似までして、俺達はその男を殺す場所を用意したかったんだよ。」
 普通は、これほどまでに武装した連中を取引場所に連れてくることはできない。目立つし、売り手と買い手双方の猜疑心を呼ぶからだ。今回は、麻薬の取引という「舞台」を整えるために、薬の価格面で河津組は漁協に大きく譲歩しているわけだ。ついでに、腕っ節が強くて度胸があるのを数名借りた。全員、何らかの形で人を殺したことがある、という。
 たとえ死体に針金で縛られた痕がついていようと、書類には「心不全」と死因を記載してくれる医師が、存在する。組合長が住み、稲美中の荒れの元になっている漁師町では、毎年死人が出る。そのうちの何割が本当に病気や不慮の事故で亡くなったのか。保険の外交員も、あの町は訪れない。
 組合長が連れてきた男たちも、度胸が据わっていることは間違いなかった。
 だが、度胸だけでは生き残れないことを、沢田は知っている。
「残念だがね。うちの玄さんが言うには、外の連中は全員その男に殺されたらしい。俺も、信じられないけどね。」
 と、組合長は初めて疑問を持った。
「ちょっと、待て。おかしくないか?そいつは何故、何十人も相手にやり合おうとするんだ?金か?それとも恨みか?」
 彼らは玄が事前に情報を漏らしているのを知らない。だから、大人数での待ち伏せに気付いた時点で逃げないことを不自然に感じているわけだ。
 至極まともな疑問だ、と沢田は思った。
 かねてよりの打ち合わせ通りに事を運ぶことにする。とはいえ、打ち合わせた時には、まさか実行することになるとは思いもしなかったのだが。
「玄さん。」
 奥の部屋から、玄が菊池を連れてくる。上半身に縄を掛けられたままだが、自分で歩ける程度には感覚を回復させられている。
 綺麗な女だ。
 状況も忘れて組合長は思った。
 同じ事を、沢田の後に控えている西本も思う。一度は諦めたのに、こうして本人を目の前にすると、自分のものにしたくなる。
「まさか。」
 組合長は言った。たかが、女のために。
「その女を取り返しに来たというのか。」
 たかが、一人の女のために。
 沢田は溜め息をついた。
「どうやら、そのまさからしい。」
 玄の口元がほころぶ。
「何しろ、御雷の男は美人には甘いからなあ。馬鹿なんだよ」
 漁師の一人が反応した。
「これは…たしか、息子の学校の先生だ。」
「そうさ。」
 玄が喉の奥で低く笑った。
「今原市立稲美中学校の、菊池由美先生だよ。」
 再び、マイク越しに御雷に呼びかける。
「御雷先生、こいつらは今、菊池先生の名を知ったぞ。どうするね?」
 あの…糞爺。
 思いとは裏腹に、御雷は笑っていた。覆面の下で、歯を剥き出して笑う。
「さて。それでは、その馬鹿に御対面といこうじゃないか。」
 玄の言葉と同時に、鉄扉の内側の鍵が外れる音がした。
 御雷は敢えて扉の正面に立った。照明に姿を晒す形になるのは仕方がない。扉が開いた瞬間に撃たれる可能性はある。しかし。
 どうせ、玄には居場所を掴まれている。少々距離を取り、角度を付けたところで大した違いは無い。
 それよりも、正面から見た方が、人物の重なりが少なくなることを期待している。貫通した弾が菊池に当たるような状況では、撃てない。
 さすがに扉の間近に立つことはできない。通路を挟んで、隣の倉庫をすぐ背後にして、待つ。
 扉は、予想していたよりも遥かにゆっくりと開いた。軋みを上げているのは扉を吊しているレールに注油が足りないからだ。開くのが遅いのは、西本と石川が動かしているからである。ワルとはいえ、成長途中の中学生だ。西本はともかく、石川の身体は小さい。
 顔を真っ赤にしている二人を、ふと撃ちたくなった。絶好のチャンスであった。
 それを思いとどまらせたのは、菊池の姿だ。上半身に掛けられた縄を玄に掴まれ、真っ直ぐな視線を御雷に向けている。引き結んだ唇が、白い。
 眼が、合った。
「御雷先生。」
 やはり、眼を見ただけでわかるのか。今度は、驚きもせず、恐怖も湧かなかった。
 菊池なら、体型を変えようが覆面をしていようが、俺を見分けられるだろう。そんな確信があった。
 西本は―――そして石川は、にわかには信じられない。彼らが知っている御雷は、もっと鈍重そうな体型をしていたはずだ。目の前の男は、身長こそ御雷と同じぐらいだが、カバーオールの上にフライトジャケットを羽織っていてさえ、絞り込まれた細身の身体だとわかる。
 沢田も、信じられない思いを抱えている。暗灰色の装束に身を固めた姿は照明を受けてさえ、輪郭がぼやけてしまいそうだ。それ自体は異様な感じがしたが、特別逞しいとか、恐ろしい殺気を放っているというようなことはない。
 いってみれば何の変哲もない男に思える。山ほどの武器を一人で抱えて走り回るハリウッドスターのような、岩山の如き筋肉質の大男を想像していたのだが。暴力団の組事務所を単独で襲撃するというのはそういうことだ
 だからこそ、西本が撮ってきた御雷の映像を見てもピンと来なかった。確かに大した体術だとは思った。が、一対一で強いのと大量殺戮を実行するだけの能力があるのとでは、「力」の質が根本的に違う。
 しかし。今は。
 御雷の足元に転がっているのは何だ。
 玄は菊池を前に出した。
 ゆっくりと、倉庫から出る。沢田が続く。続いて、扉を開け終わった西本と石川が、額に汗を浮かべながら。最後に、恐る恐るという風情で、漁師たちが。組合長は最後尾にいる。
 御雷は殆ど棒立ちに近い姿勢で、彼らと対峙する。手にしたMP5の銃口は下に向けていた。その距離、約五メートル。通路といっても、フォークリフト等が通るために、住宅街の中の道路などよりは広い。
「見なよ、菊池先生。お前さんを助けるために、こいつがしたことを。」
 明るさが足りなくても御雷には見える。菊池の藍色を帯びた瞳が素早く周囲を見回すのが。そして、地面に転がる人体の残骸を認めて、一瞬堅く目を閉じるのが。
 夜で、よかった。血の色が菊池の視覚に刺さらないだろうから。
 ふと、そんなことを思った。
 菊池が目を開いた。
「御雷先生。」
 あなたは、本当に御雷先生なの。
「顔を、見せてやりなよ。」
 御雷は溜め息をついた。
「間違いなく、ぼくは御雷ですよ。菊池先生。体型はまるで違いますけどね。」
 この声で話しかけるのも、これが最後か。
 右手をバラクラバに掛けた。視界を奪われる瞬間が危険だ。一瞬で終わらせるために、躊躇なく覆面を脱ぎ捨てた。
 菊池が、息を呑む。他の男たちは唖然としたように口を開けたまま固まった。玄だけが小さく口笛を吹く。
 夜にあってさえ、仄白く輝くような美貌が、彼らを見つめていた。少女のようなあどけなさと、妖女のような艶めかしさが同居したような、貌。紅でも引いたように唇の色が鮮やかだ。白い肌に、緩やかなウェーブのかかった黒い髪が強いコントラストを与えていた。
 玄の言葉を鵜呑みにしていたが…。
 沢田が譫言のように呟いた。
「男、だと…?」
 あどけない笑みが似合いそうな唇が、皮肉に歪む。黒曜石のような瞳が、強い光を宿していた。
「残念ながら男だよ、組長さん。そこの爺さんに言われて、菊池を帰してもらいに来た。」
 御雷本来の声を聞いて、菊池は「この姿にはこの声が似つかわしい」と思った。同時に、気付いたことがある。
 御雷は菊池の表情に敏感に反応した。
「お前には、素顔を見られたことがあったな。あの時は、心臓が止まるかと思った。」
 こんな場面なのに、微笑を浮かべる。
 つられて、菊池も少しだけ微笑んだ。声も物言いも違うが、伝わるものがある。
 この男は紛れもなく彼女の知る御雷だという事実だ。
「それで、あの時は女性のふりをして誤魔化したんですか。」
 御雷は顔をしかめてみせる。
「咄嗟に、その方法しか思い付かなかったんだよ。子供の頃は『女のような顔だ』と散々いじめられたのにな。」
 右手を、差し出す。
「帰ろう。お前を迎えに来たんだ。」

      9
 一瞬、菊池は混乱する。
 地面で黒々と影を晒しているのは死体だ。それも、夥しい数の。空気を強い血の匂いと硝煙の香りが支配しているのを感じている。不思議と吐き気などは起きなかった。
 彼女からは見えない場所でも、きっと多くの人間が死んでいる。
 玄の言葉を信じるならば、その数約七十。
 自分を取り返すためだけに、それだけの人間を殺したというのか。
 学校再生専門員が、職務よりも自分の救出を優先したというのか。
 御雷が今原市に来てから既に大勢の人間を殺害したのを知っている。
 西本と石川を殺せば、彼の仕事が完了することも知っている。
 今だって、撃とうと思えば撃てるはずだ。
 だが、御雷は銃口を上げようともしない。
 ただ、もう一度繰り返した。
「帰るぞ、菊池。―――それとも、帰りたくないのか?」
 返事が口を突いて出た。
「私は―――帰りたいです。」
 御雷が、視線を玄に移す。
「菊池を返してもらうよ。」
「いいよ。」
 客分である玄が、沢田を差し置いて承諾する。
「儂が用があるのはお前だけさ。菊池先生は帰してやるよ。」
 縄を解いてやろうとする。
 沢田と西本が声を上げたのは同時だった。
「ちょっと待てよ。」
 西本は、情婦の白井を含め、仲間の殆どを御雷に殺されている。
 沢田は、組の威信を地に堕とされた上に、今日は多くの組員を殺されている。
 御雷の関心が菊池にしかないにしても、彼らの関心は御雷にあるのであった。このまま帰すわけにはいかない。
 玄は肩を竦めた。芝居ががった身振りである。
「と、いうことだよ、菊池先生。御雷は儂の獲物だが、こいつらにも筋は通させてやろうかと思う。」
 既に殺気を漲らせている男二人に声を掛ける。
「銃にするかね?それとも、この男を拳で叩き伏せるかい?刃物でもかまわんが。」
 馬越が自滅させられた映像が目に浮かぶ。二人は答えた。
「銃だ。」
 石川は丸腰だが、沢田に可愛がられている西本は、見習い組員ながら拳銃を持たされていた。普段からそれなりに練習もしている。
「ふむ。ならば、一人一発だな。順番に、好きなところを撃て。」
 御雷に確認する。
「というルールでどうかね?お前さんが撃つのは無しだ。躱しても、受けてもいい。死ななければ、お前さんの勝ちだ。もし怪我をしたら、儂と闘るのは治るまで延期してやるよ。」
「随分、俺に不利な気がするけどね。」
 サングラスの下で玄が片目を瞑ったのがわかった。
「銃弾一発如きで死ぬようじゃ、儂にはとても勝てんということさ。どうかね?」
 御雷は苦笑する。
「今度は、あんたが俺を試すんだな。いいよ、それで。ただし、二発以上撃とうとしたら俺も撃つよ。それから―――。」
 途中で遮った。
「わかっとるよ。お前がどんな状態になっても、儂は菊池先生には手を出さんよ。勝とうが負けようが、怪我をしようが死のうが、な。他の連中については責任が持てないが、ね。」
 怖い爺だ。改めて、そう思う。暗に、自分以外の全員を殺しておけと唆しているのである。
 言われなくても、そうするつもりだ。その前に。
 西本が進み出た。沢田から、先にやる許しは得ている。トカレフではなく古いコルトガバメントを手にしていることが、沢田が西本の成長に期待を掛けている証でもあった。
 御雷は腰の後ろからダマスカスのナイフを抜いた。
 イヤフォンに極微かな声が入る。
『強度的には十分なはずです。斬らずに受けてください。』
 K2は玄の聴力を警戒している。
 西本は距離を保ったまま、腰を落としてガバメントを構えた。艶消しの表面仕上げが擦れて、所々銀色の地金が出ている。駐留軍が使っていたような骨董品だが、今でも十分役に立つ。
 御雷は少しだけ感心する。スマートとはいえない西本の構えだが、理には適っている。重いトリガープルと強い反動に対処するために、重心を下げて身体を安定させることを優先させている。相手の動きには対応しにくいが、素人はまず据え物を撃てるようにならなければ話が始まらない。
 そういう意味では、御雷が動かなければ西本の撃った弾は当たる。指差すように自分を狙った銃口に動揺がないことを、御雷は喜ばしく思う。
 どこに弾が飛ぶかわからない奴を相手にするより、遥かにマシだ。
 自然に笑みが浮かぶ。
「西本、お前に撃たれることになるとはな。逆のパターンしか想定していなかったよ。」
 言いながら、銃口の向きや西本の身体の動きを詳細に観察している。筋肉の緊張を見れば、弾が出る瞬間を見切ることは難しくない。
 極度の集中で、視野が狭くなっている。今、横から他の人間に撃たれれば、御雷にはなすすべがない。
 この場面で、玄は決して他の連中の発砲を許さないだろう。そう思うから、西本に集中できるのだ。
 視野の隅で菊池の姿を捉えている。彼女がどんな表情を浮かべているのか見ることはできない。ただ、御雷の集中を乱さないように必死で声を抑えていることは伝わってきた。
 西本は集中を途切れさせないためか、御雷と言葉を交わそうとはしなかった。首から胸、そして人差し指を動かす筋肉に緊張が伝わっていくのが見えた。
 思考が加速する。
 御雷の周囲から音が消えた。
 モノクロームに近い世界の中で、西本の銃口から紅い線が伸びているのが見える。
 着弾点は、ここか。
 御雷はダマスカス鋼のナイフの腹を右眼の前にかざす。
 跳弾で菊池を傷付けぬようにしなければ。
 ナイフの角度を調整した。
 世界に色が戻る。音が戻る。
 轟音が響いた。
 四十五口径の銃声だ。盛大に銃口から炎を吹き出すのが見えた。
 御雷はナイフに強い衝撃を感じたが、ダマスカスの刃は微動だにしない。
 弾かれた弾丸は、西本の足元にめり込んだ。
 実時間でいえば、十分の一秒にも満たない、一瞬の出来事である。
 至近距離から放たれた銃弾を、ナイフで受ける。田中は「できる」と言い切った。
 当然のように御雷にもできる。ただし、今回のようにルールがある場合に限る。
 所詮は曲芸だ。自虐的に御雷は考える。
 呆然としている西本の銃を、玄は下ろさせた。セフティを掛けさせる。
「小僧の挑戦は失敗だ。ルールのお陰で命拾いしたな。撃ち返されて死なずにすんだ。では、組長。」
 沢田は西本とは違う。最初から構えて弾道を予測させるような真似はしなかった。
 銃を持った右手はごく自然に垂らして、歩み出る。
 何の予告もなく銃を振り上げると同時に発砲した。
 御雷にとっては同じことだ。
 どんなに素早い動きであっても、脳の処理速度を限界まで押し上げればスローモーションに見える。
 銃を振り上げる動きには無駄が多い。弾道予測の時間が多く取れる。
 プロがやる、「突き刺すように狙う動き」は速いが、逆に言えば銃口の向きが早く決まるので御雷には御しやすい。
 要するに。
 弾道予測自体は難しいことではないが、実戦では役に立たないから使わないだけのことだ。
 再び、ナイフで弾を受けた。今度は胸のど真ん中だ。
 冷静に銃弾を放ってみせた沢田に、御雷も敬意を示すことにする。ナイフに角度を付けて、少しだけ押し出した。
 緻密なダマスカス鋼の表面で弾き返された弾丸は、人命を奪うほどの威力は失っていたが、沢田の腹に潜り込むだけの力は残していた。
 声もなく蹲る沢田の前に、少しずつ血溜まりが広がっていく。
「内臓は傷付いていないだろうが、早く止血した方がいいな。―――そうか、西本もこれで殺しておけばよかったのか…。」
 何気なく呟く美貌に、西本は心底ぞっとした。仲間たちが簡単に殺された理由がわかったような気がした。御雷にとって、自分たちを殺すのはゴミを片付ける程度の意味しかないのだ。
 殺すのではなく、壊す。玄と同じ匂いがした。
「お前…今のは、わざとかよ。」
 苦痛に顔を歪めながら、それでも沢田が問う。
「あんたの射撃が正確だからできたことだよ。下手糞相手じゃ無理な話だね。」
 こりゃ、参ったね。この状態で沢田が笑えたのは、大したものであった。文字通り、死ぬほど痛いはずだ。
「いいよ、玄さん。女を放してやってくれ。」
 約束だからな、と苦しい息の下で指示する。御雷はナイフを仕舞う。
「ヤクザの組長なんてやらせるには勿体ない器量だね、あんた。」
「何言ってやがる。お前こそ、何で役人の手先なんかやってんだよ。その腕と度胸があれば、裏の世界でいくらでものし上がれるだろうに。勿体ないな。」
 御雷は鼻で笑う。
「悪いが、俺はヤクザって奴が百足の次に嫌いなんでね。」
「じゃあ、菊池先生を放すよ。」
 どうやったものか、玄は固い結び目を魔法のよう解く。
 菊池の背中を押しながら、囁いた。
「油断するなよ、菊池先生。」
 来い、と御雷は言った。
 菊池は躊躇わなかった。履き慣れた靴が地面を噛む感触があって、身体が御雷の方へ駆け出す。
 その手首が、掴み止められた。
「待てよ。」
 顔を見なくても、わかる。組合長のボディーガードとしてやって来た漁師。稲美中の保護者の一人だった。
 その様子を、御雷は醒めた目で見つめている。足元の死体の中に、漁師仲間を見付けたのだ。貴重な人質を簡単に手放すわけにはいかない、ということだ。
 菊池を、御雷に対する切り札に使う。
 御雷は自分だけに聞こえるように呟いた。
「それができるのは、あの爺だけさ。」
 何しろ。
 手首を掴まれたと感じた瞬間、菊池の身体は動いていた。掴まれていない方の手を伸ばし、両手を組み合わせて、引いた。男の片腕と菊池の両腕。重力の助けを借りて、菊池は思いきり体重を掛けて引き下ろす。
 男の身体が大きく傾いた。その足元を、姿勢を低くしたまま蹴り払った。
 身長一メートル八十センチ。体重九十キロ。
 その身体が、空中で逆さまになった。
 後は、落ちるだけだ。
 肉がアスファルトを打つ音に混ざって、何かが砕ける音を御雷は聞く。首が折れたか、頭が割れたか。
 御雷の唇に浮かんでいるのは、微かな苦笑だ。瞳には珍しく苦痛に近い色を浮かべていた。
「菊池は、天才なんだよ。」
 だからこそ、田中は菊池に目を掛け、鍛えてやったのだ。同時に、彼女が己の才に傷付くことがないように、用心深く嘘をついた。
 菊池由美には武術の才はない。
 大嘘だ。でなければ、二十歳を過ぎて始めた術を、ここまで鮮やかに使いこなせるわけがない。しかも、一連の動きは菊池の意識とは無関係に身体が反応したものだ。
 一人の男を斃した本人が、事実を把握しかねてぽかんとしている。
 御雷は口の中が苦くなる。これで、田中の努力は水の泡だ。あの男は助からない。
「いいから、早く来い。」
 連中が呆気にとられている今が、チャンスだ。
 泣き顔のような表情を浮かべたのも束の間、菊池は御雷に向かって走った。
 西本の意識を引き戻したのは、執着だった。
 菊池の美貌としなやかな肢体に対する執着が、驚愕に固まっていた肉体を溶かした。
 動く。俺は体を動かせる。
 菊池の後ろ姿が小さくなっていく。肩越しに御雷の白い美貌が見えた。
 あいつに渡すくらいなら。
 ガバメントのセフティを外す。銃を持ち上げる動きは驚くほどに素早かった。
 御雷は舌打ちした。この展開を予想しておかなかった己の愚かさを呪う。
 MP5を撃つ時間はある。しかし。
 射線上に菊池の肉体があった。
 撃てない。
 西本の銃口から菊池の背中に紅い線が通っている。心臓を貫いた銃弾は、胸を突き破って御雷に命中するだろう。威力は随分削がれているはずだ。無論、そんなもので御雷は死なない。
 糞ッ。
 かつて、炎の中で同じように叫んだことを思い出す。
 俺は、また目の前で女が死ぬのを見せられるのか。何もできず、ただ見ているだけなのか。
 菊池。お前を助けたい。

      10
 御雷の願いは届いた。死神に、である。
 西本はトリガーを引いた。弾は出ない。シアが切れる感触がなく、撃鉄も落ちなかった。
「いかんなあ、西本。」
 気が付けば、玄がすぐ側に立っている。その右手がガバメントのスライドを掴み、僅かに後退させていた。ちょうど、ショートリコイル分だ。
 ほんの数ミリスライドを後退させるだけで、ガバメントは撃てなくなる。ディスコネクタ―――トリガーとシアの連携を断つ部品が作動するからだ。
 突如、手の中でガバメントが恐ろしい高温になるのを感じて、思わず西本は手を放した。少年の手を離れた拳銃を、玄はさっさと分解して捨ててしまう。マガジンはあちら、スライドは向こう、銃身は後方へ。最後にフレーム側の一式を遠くに投げ捨てた。
「子供が武器を持つのは、まあいい。だが、女を後から撃つような真似はいただけないね。女ってのは、大事に扱うもんさ。綺麗な女は、特にな。」
 お前は、儂が許せない部分に踏み込んだ。玄はもう笑っていなかった。
 西本の肘があり得ない方向に曲がる。真下からの蹴りが来た瞬間を、西本は目視できなかった。
 痛い、と思う間もなかった。
「お前は死んだ方がいい。御雷先生もそう思うだろ?」
 御雷は菊池の身体を抱き留めた。彼の返事を待たずに玄は動いた。
 拳を、棒立ちで震えている西本の胸に当てた。
「弾けて、死ね。」
 異変が起きた。それなりに整った西本の顔が、ぷっくりと膨らんだのである。顔ばかりではない。全身が、皮膚を破りかねない勢いで膨張している。
 御雷の視力が、西本の体内に信じられない高温が発生しているのを捉えている。体液が沸騰しているのだ。このままでは、爆ぜる。
 御雷は菊池の身体を強く抱き締めて、西本に背中を向けた。彼女の視線から、西本を隠してやる。奴の死に様を、見せたくはない。
 だが、僅かな隙間から菊池は見た。極限まで膨らんだ西本の肉体が、あっけなく破裂するのを。西本は、とうに死んでいたのだろう。玄に触れられた瞬間に、人の形をした血袋と化していたのだ。
 四方に撒き散らされた大量の赤いしぶきは、もうもうと白煙を上げている。浴びたヤクザや漁師たちの間から、悲鳴が上がる。熱湯を浴びせられたようなものだ。
 御雷も熱い血しぶきを浴びる。熱を通してあるからか生臭くはなかった。ただ、鉄の匂いが強い。
 全身が粟立っていた。混乱している。
 今の技は何だ?触れただけで体液が沸騰し、肉体が飛散するような技の原理は何だ。
 御雷は恐怖した。
 彼にとって、恐怖も闘争心のスイッチでしかない。躊躇なく身体が動いた。危険を排除するのだ。
 菊池を壁際に下がらせ、胸にMP5Kを押しつける。ショルダーバッグもだ。
「嫌いなのは知ってる。だけど今は預かってくれ。」
 返事を待たずに、御雷は男たちに向かって走った。集団の中に飛び込んでしまえば奴らは銃を使えない。対する御雷は、菊池への流れ弾さえ気を付ければ、誰に対しても銃弾を放つことができる。
 が、この距離の乱戦で有効なのは。
 組合長のボディガードが三人残っている。あまりにも異常な状況ではあるが、敵を見れば闘争心を保つことはできるタイプだ。三人ともだ。その闘争心が、荒れた海での違法漁からの生還を可能にしているわけだ。銃を取り出す動きにも躊躇いがない。
 敢えて三人のど真ん中に突っ込んでやる。同士撃ちを恐れて、一瞬だけ男たちの動きが止まる。
 御雷の手が、文字通り電光石火のごとく奔った。連中の拳銃を掴んで、ことごとく酷く捻ってやる。トリガーに掛けた人差し指が、トリガーガードに巻き込まれて簡単に折れる。漁師たちは、他人に対してやったことはあっても、自分自身がこんな目に遭ったことはない。
 銃を取り落とし、思わず前屈みになったところを、御雷の蹴りが下から顔面を打ち抜いた。三人ともだ。
 御雷の蹴りにどれ程の威力があるのかはわからないが、屈強な身体が三つ、仰け反るような体勢で空中に打ち上げられる。例外なく、首があり得ない方向に曲がっている。
 三つの肉体が浮かぶ空間の、更に上に御雷がいた。いつ跳んだものか、菊池には見えなかった。
 空中で、御雷は歩いて見せた。男たちの体を使って、だ。飛び石を踏むように、三つの肉体を蹴る。
 軽やかな動きに込められた、恐るべき殺意。それを証明するように、既に死体となった三人の体は強烈な勢いで地面に叩き落とされる。死んでいるにもかかわらず、大量の血を吐き出した。胸に穴が開いていた。胸骨が陥没するだけでは済まなかったのだ。肉が裂け、粉々になった胸郭の残骸を通して、潰れた心臓が見えている。
 御雷の着地に音はない。
 百キロ近い体重をまるで感じさせず、止まることもない。
 玄が嬉しそうに呟くのを沢田は聞いた。
「ほう。足場のない空中で、近接打撃以上の威力を見せるのか。」
 強くなったものだ。
 だが、玄は手を出そうとはしない。
 御雷は沢田のボディーガードに向かって跳んでいる。銃を構えようとする手を掴み止め、両脚を首に絡めた。そのまま全身を捻って男を投げる。頸の骨が折れる感触があったが、回転を緩めないまま頭を地面に叩きつける。頭蓋骨が潰れ、肉体が死の痙攣を始める。
 もう一人には、拳銃を構える時間的な余裕があった。仲間が殺されている間を無駄にしたりはしない。
 御雷は気にしなかった。距離は近い。が、相手の動きに追従するのが難しい距離でもある。
 紅い射線をかいくぐって御雷が迫る。狼狽した男が放った数発の銃弾は、掠りもしなかった。
 気が付いた時には懐に入られている。間近で見る白い美貌に、男は恐怖を忘れて陶然となる。
 御雷は拳銃を握った男の手首を掴んでいた。手の感覚が無くなり、取り落とした銃を遠くに蹴り飛ばす。
 菊池の眼には、御雷の身体が瞬間的に霞んで見えた。
 信じがたいほどの速度で回転したのだ、と理解する。この理解力と、未知の技への洞察力が、菊池の才であった。
 御雷は回転の勢いに乗せて男の体を投げ飛ばす。関節を極めての一本背負いのようなものだ。ただし、投げ出す角度が高い。投げに入った瞬間に、腕は折れている。
 空中に投げ出された身体が落下に移る一瞬、不思議な浮遊感のようなものがある。それが、男が感じた最後のものであった。
 御雷は今しも落下運動を開始しようとする男の頭に蹴りを入れた。顔面が潰れ、首が奇妙に曲がる。
 ぐしゃり、と嫌な音を立てて、ただの肉に成り果てた人体が落下する。
 ごおっ。
 御雷の蹴りが起こした風音は、後から聞こえた。
 今原漁協の組合長は、とっくに腰を抜かしている。御雷が目の前に立っても動けない。
 無表情に見下ろす黒瞳が、今は微かな燐光を放っているように見えた。
 美しい、死神。
 菊池は躍動する御雷の姿に見惚れている自分に気付いた。彼の肉体が閃く度、確実に死が積み重なっていく。
 ただ、美しい。
 今の御雷は、美しい獣だ。
 あれほど忌み嫌っていた争いを。避け続けていた血潮の海を。
 目の前にして、身体の芯に妖しい疼きを感じている自分がいる。
 私は―――菊池由美とは、一体何だ。
 組合長が懐から拳銃を掴み出した。が、低い発射音ととも取り落としてしまう。右手の甲に無残な傷口が開いている。
 三八〇ACP弾の可愛らしいエンプティケースが、澄んだ音を立ててアスファルトに跳ねた。
 御雷が懐から抜きざまに撃ったベレッタの減音器の先から、細い煙が立ち上っていた。
 間を置かずに組合長の右胸も撃った。即死するような重要器官は慎重に外している。太い血管もだ。大して変形もせずに弾丸は背中に抜けた。今日は弾の種類が違うのだ。貫通力を求めてフルメタルジャケット弾を使っている。本格的な抗弾装備には歯が立たないだろうが…頭を撃てば何でも同じだ、とも御雷は考えている。
 撃たれた痛みと恐怖から来るショック症状。そこに右肺がしぼんだ息苦しさが加わる。
 脂汗が吹き出し、顔色が一気に紫色に変わる。悲鳴も上げられない。
「普段から煙草なんて吸ってるからだよ。片肺じゃ酸素が足りないんだ。」
 もがきながら携帯電話を取り出すが、ジャミングは継続中だ。
「行きなよ。」
 御雷は言ってやる。
「まだしばらくは自力で動けるだろ?自分で運転して警察に行けばいい。いきなり病院に行っても、この時間じゃ相手にしてもらえないよ。」
 信じられない、という目を組合長はする。殆ど聞き取れないほどの声が出た。
「撃たないのか。」
 紅い唇に淡い笑みが浮かぶ。
「あんたみたいなゴミを撃つのは弾の無駄だからね。」
 声の調子を、変えた。
「目障りだ。俺の気が変わらないうちに消えろ。」
 現金なものである。助かるとわかった途端に、抜けていたはずの腰で立ち上がり、転がるように乗ってきたミニバンまで駆けていく。
 あんまり急ぎすぎると、本当に酸欠で死ぬかもしれない。御雷が心配するほどの変わりようであった。それほどに、組合長は不健康な身体であった。度を超した飲酒と喫煙、それに悪趣味なまでの美食が作り上げた肉体は、御雷の目には殆ど死体に見える。
 生きているのに死んでいるような人間もいれば、死んでいるのに生きているような人間もいる。
 生と死の境界は、思っている以上に曖昧だ…。
 駐車場から猛然と走り去るテールランプを見送りながら、そんなことを考えている。倉庫側に入ってくる車は河津組の車両でブロックされているが、漁師たちのミニバンはそれよりも外側に駐車している。組合長にはそれが幸いした形だ。
「行かせて、よかったのかい。」
 沢田が顔を歪めたまま問うた。座り込んだまま、背中を倉庫の壁に預けている。付き沿う形の石川の顔が、夜目にも蒼い。
「行きたけりゃ、あんたも逃げていいけど。」
 あっさりと答えた。
 一時は死を覚悟した沢田だったが、迷いの色が瞳に浮かぶ。
「誘導されるんじゃないぞ、沢田。」
 玄の声は笑いを含んでいた。
「誘導?」
「そうだよ。こいつは、わざと組合長を殺さなかったんだ。そればかりじゃない。警察に向かうように暗示まで掛けやがった。」
 本当に、底意地の悪い奴だよ。そう言って愉快そうに笑う。
 御雷も、片目を瞑って鮮やかに笑ってみせた。
「ちょっと、警察が来るのを遅らせる手伝いをしてもらっただけさ。」
 イヤフォンを通して、組合長の運転するミニバンの位置が克明に報告されている。
「タイミングとしては今原署に入る瞬間かな。変な動きをしたら、その時点でお終いだけどね。」
 目の前にいる人間に話しているのではない。K2への指示だ。
「逃げないなら、あんたも石川も、今のうちに殺しておこうか。」
 ひょいっと銃口を持ち上げる動きに、殺人を犯すことへの躊躇いは感じられない。まるで定時で帰りたいサラリーマンが、自分の仕事をさっさと片付けてしまおうとするような―――と考えて、沢田は目眩がした。
 根本的に、俺達とは感覚が違うのだ。
 真っ直ぐに、黒曜石のような瞳を見上げた。
「本当に、玄さん並みかよ。こんな化け物が、本当に二人もいるんだな。」
 ふっ、と御雷が笑った。
「世の中は広い。俺程度の奴なら他にもいるさ。多分、な。」
 トリガーに掛けた人差し指に力を入れる。
「やめときなよ。御雷先生。」
 止めたのは、やはり玄だった。
「意外だね。あんたはヤクザが嫌いだと思っていたんだが。それに、こいつらを生かしておいたら菊池が無事ではいられないと唆したのは、あんた自身だろう?」
 目を剥く沢田に、玄は禿げ頭を掻いた。
「まあ、それはそうだがね。お前さんが死んだとしても、こいつらの始末は儂がやってやるさ。もし菊池先生にちょっかいをかけるようなら、儂が皆殺しにしてやるから安心しろよ。」
 ぞっとするようなことを当たり前のような口調で言うのが、玄という男だ。
 それに、と彼は付け加えた。
「何より―――御雷晃に雑な仕事は似合わないと思ってな。」
 ベレッタの銃口が下がった。
「その名で呼ばれたのは、久しぶりだ。」

      11
 御雷晃。
 その名前を、菊池は知らない。
「そろそろ、教師ごっこなんぞやめてしまえよ、晃。」
 玄が言葉を重ねる。
「それを言うために、わざわざこんな手の込んだことをしたのか。」
 菊池を巻き込んでまで。
 ぎりっ。
 御雷の表情は変わらない。奥歯を噛み締める音だけが響いただけだ。
「…わかった。今は、石川と沢田を殺すのはやめておく。」
 ベレッタを懐に仕舞う。
「わかってくれて嬉しいよ。」
 玄の言葉に嘘はない。菊池の方を向く。
「そういうわけだよ、菊池先生。お前さんの役目もう終わりだ。辛い思いをさせて済まなかったなあ。」
 菊池の携帯電話を投げ渡してやる。MP5を抱えたままで、器用に受け止めた。大したバランス感覚だ、と御雷は感心する。
 とはいえ、電話があっても今は通じない。代わりに連絡してやってもいいが…。
「少し歩けば、流しのタクシーも見つかるだろう。それで家まで帰れ―――田中のところでもいい。眠って、今夜のことは忘れろ。」
 玄が頷いて同意を示す。
「もう、お前さんを邪魔する奴は残っちゃいない。いたとしても、今のお前さんを止められる奴なんぞ、そう多くはないだろうがね。組長、それでいいよな?」
 沢田は右手を挙げて同意を示した。
「何でもいいから早くしてくれ。身体から血がなくなっちまう。」
 どくり。
 菊池は自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。
 何かが、始まろうとしている。自分はそこから遠ざけられようとしているのだ。
 見届けなければ、ならない。
 胸に、冷たく堅い感触がある。セフティを掛けてあるMP5Kを強く抱きしめて、言った。
「一人では、帰りません。」
 玄の片眉が上がる。
 菊池の表情。唇を引き結んで昂然と顔を上げて立つ姿の、美しさ。
 御雷は深い溜め息をついた。
「お前は、どう言っても納得してくれないんだろうな。」
「御雷先生は、『帰ろう』と言いましたよね。」
 御雷が困ったような顔をするのを、玄が面白そうに見ている。
「…言った。」
「だから私は承諾したんです。『帰れ』と言われたのなら断りました。」
 一緒に帰りましょう、と菊池は言った。
 酷い屁理屈だ。
 御雷の唇に苦笑とともに不敵な笑みが浮かぶ。
「そういえば、俺は『迎えに来た』とも言ってしまったな。」
 ふむ、と玄が唸った。
「ならば、帰るのも二人一緒、死ぬのも二人一緒ということか。わかってるのかい?菊池先生。」
「ええ。あなたには感謝していますけど、私にも曲げられないものがあるんです。」
 サングラスの奥で眼を細めるのがわかった。
「それは、役目か?それともお前さん自身の気持ちか?」
 知的な童顔に、不敵な笑みが浮かんだ。御雷も初めて見る、菊池の顔。
 お前、そんな顔もできるのか。
「両方、です。」
 玄が肩を竦めた。御雷は先を越された思いでそれを眺める。
「晃よ、怖い女に見込まれたもんだな。少しだけお前が可哀想に思えてきた。」
 ゆっくりと、沢田から離れる。
「女ってのは、みんな怖いものだよ。」
 ゆっくりと、菊池から距離を取る。
「組長、手を出すなよ。石川にも何もさせるな。痛いだろうが、失血死するほど血は出とらん。後で手当てしてやるからしばらく待て。」
「わかった。好きにすりゃいいさ。」
 痛みの中ではあるが、化け物同士の闘いを見てみたいと願っている自分がいる。
「手を出すなよ、菊池。この爺は、一度敵になれば女でも躊躇なく殺すからな。」
 俺と同じだ。その言葉を御雷は飲み込む。
 通路の中央で、玄と御雷は対峙した。この悪夢のような夜にあって、初めて一対一で向かい合っている。
「そういえば、お互いに初対面だったな。」
 あまりに通じすぎて、それを忘れそうになる。
「その割に、俺のことは随分知ってるみたいじゃないか。」
 サングラスの下で、玄が片目を瞑った。笑ってみせる。
「儂も、名乗ろうか?」
 いや、と御雷は断った。
「沢田のところにいるおかしな爺さんの名前なら、薬の売人から聞いてるよ。」
 可笑しさを堪えきれないという風情で、低く笑う。
「あいつは、すっかり聞き間違えてたけどな。」
 カラスは言ったのだ。
 玄。三日月、玄。ミカヅキ―――そうじゃないよ、カラス。
 まあ、聞き間違えたのも無理はない、か。珍しい名字だものな。
 紅い唇が、その名を正しく発音した。
「御雷…玄、だよな。」
 沢田は声を出さずに笑った。そうか。なぜ気が付かなかったのだろう。結局、同じ名を持つ二人の化け物に翻弄されただけのことではないか。彼らに関わった時点で、河津組の終わりは決まっていたのだ。
「そうだよ、晃。当世の御雷家の当主には、お初にお目に掛かる。」
 ふん、と御雷は鼻を鳴らす。
「御雷家といっても、もう俺一人さ。いや―――俺も、違うな。正確には、もうあんただけだよ。」
 そうだろう?伯父御(おじご)。
「父から…建から、儂のことを聞いておったか。」
「死んだって聞いてたんだけどな。それに…年齢が合わない。百二十歳は越えてるはずだ。」
 玄が構えを取った。口元だけがにんまりと笑う。
「お前だってそうだろ。とっくに七十歳を過ぎているくせに。」
 闘ってみれば、わかる。
 唐突に突きが来た。殆ど反射だけで受ける。御雷の骨と筋肉は特別製だ。過酷な経験と異常な脳の支配力が肉体の最適化を促した結果が、今の御雷の肉体である。
 顔面への突きを、交差させた腕で止めた。骨を削るような打撃。痛みを感じない身体ではあるが、記憶が甦る。
 建と同じだ。今の御雷の力を考慮すれば、建よりも遥かに強い。対峙したときの怖さが、建と似ているということだ。
「本当に、先生と同じなんだな。骨まで響く。」
「何しろ、双子の兄だからな。」
 再びの突き。脚の捌きでリーチだけが急激に伸びたように感じられる。
 御雷は下がらなかった。紙一重で躱すと同時に身体を宙に浮かせている。伸びきった玄の右腕に手脚を絡め、仕上げに向こう臑を蹴り込んだ。
 堪らず玄が転倒する。俯せになった身体の右腕だけが上に伸びている。否、御雷が取り付いて、肩と肘を同時に極めて締め上げているのである。
 ぎしっと骨格が軋む。無理に耐えれば、壊れる。完全に入っている。
 まずは腕を一本殺す。投げにしろ突きにしろ、使える技が半減する。
 そう思っていたが、締め上げる玄の腕に奇妙な感覚を覚えて、御雷の眉間に皺が寄った。
 玄の左腕が、じりじりと近付いて来る。全身で締め上げている関係上、その様子を見ていることしか御雷にはできない。
 それでも、狙いはわかっている。玄の左手が、服の上から御雷の脇腹に触れた。腹筋が鍛えられているだけに、その境目を知ることは難しくない。
 玄は御雷の腹に人差し指を突き入れる。同時に御雷は己の腹筋に異常緊張を起こさせた。
 二センチほどめり込んだところで、指先が筋肉に絡め取られて、停まる。本来は手裏剣やアイスピックのようなものへの防御として発展した技である。肉が金属を弾くことは難しい。しかし、幾分の侵入を許した後に筋肉の収縮を利用して捕まえることは可能だ。
 御雷は横凪に払った日本刀の刃を、その腹で捕まえたことがあった。切っ先は無理だ。突きも防ぐことはできない。だから、敢えて踏み込んで鍔元近くの刃をその身に受けて―――止めた。
 鍛えているといっても、所詮は人の指だ。止められないことはない。
 だが。
 玄の指が再び御雷の腹に潜り始める。血が、溢れて服を濡らす。
 何という、膂力。玄は「力」で御雷の防御を突き破ろうとしているのである。
 首筋の毛が帯電したように立ち上がる感覚があった。
 腹腔まで達したら、腹膜炎を起こして死ぬ。
 御雷は瞬時に全身を限界突破モードに突入させる。
 音が消える。
 自らの骨格を軋ませるほどの膂力が発生して、玄の右腕をあり得ない形に曲げてしまう。腹に刺さった指を引き抜き、手首の関節を極めたまま、大きく捻って投げた。合気道でいうところの「座取り」の投げに近い動きである。関節が外れる音が鈍く響いた。
 御雷は立ち上がりざまに動かない玄の頭を蹴り飛ばした。容赦のない一撃に、枯れ木のような身体が吹き飛ばされる。そのまま倉庫の壁を崩すほどの勢いで激突した。細かな破片が埃状に舞って視界を奪う。
 脇腹の穴は…大したことはない。
「参ったね。御雷玄…本物のようだ。」
「だから、最初から本人だと言っているだろう。」
 崩れたコンクリート壁の穴が黒く口を開けている。ひょろりとした影が、もう立ち上がっていた。折れ曲がった右腕を、嫌な音を立てて元の形に戻す。脱臼した左手首も入れてやる。
 玄の顔に、苦痛の色はなかった。
 御雷には思い当たるフシがあった。
「菊池、銃を寄越せ!」
 言われるままに、菊池はサブマシンガンを投げた。飛びつくように受け取ると、まだ動きの鈍い玄の体幹にフルオートで全弾を撃ち込んだ。予備マガジンも投げさせる。マグチェンジして撃ち続ける。
 一、二歩だけ、玄は後退した。だが、それだけだ。千切れ飛ぶほどに銃弾を浴びた服の胸元から除く皮膚には傷一つ無い。皺深い顔に似合わず、艶々と若々しい肌であった。
 呵々、と声を上げて笑う。
「いいなあ、晃。どんな方法を使ってでも相手を斃そうという、その姿勢が御雷の業そのものだ。身に付けた技も、実に見事だ。認めてやる―――お前さんは血こそ繋がっていないが、立派に御雷だよ。」
 実質的にダメージは無し、と判断するしかない。
 やはり、そうか。MP5を捨てた。
「K2、音響解析を頼む。」
 今度は御雷から仕掛けた。限界の向こう側に立ち続けている。
 移動を目視するのは困難だった。本気の拳を数発。顔に、胸に、腹に。渾身の蹴りを胸に。上体が千切れ飛ぶほどの威力を込めて、蹴った。
 しかし。ガードを一切することもなく、玄は全ての攻撃を受け、平然と立っている。
 御雷は五メートルばかり後ろに飛んだ。限界領域を超えて長くは活動することができない。運動レベルを通常に戻す。肩で息をする。呼気の温度が異常だ。
 手が、脚が、玄の肉体を打ったときの感触を覚えている。しなやかで弾力がありながら、必要があれば鋼のように堅くなる。あれは―――。
 イヤフォンに声が入る。
『間違いありません。御雷玄の身体は人工体です。彼は脳を移し替えたのです。』
 そうだ。あれはK2と仕合ったときと同じ感触。微細構造体から成る人工筋肉の感触であった。
 それだけではない。K2の声に動揺が混じっていた。
『驚くべきことですが。彼の身体は生身の脳以外、全てを微細構造体で統一しています。』
 それはつまり。
『基本的には私の身体と同様だということです。姉様以外に、こんなことを成し遂げる人間が存在したなんて。』
 玄にはK2の声も聞こえている。それが、彼の脳が納まっている身体の性能だ。
「どうやらマジックの種がバレたようだな。」
 玄は、ほんの少しだけ、外見を変えることにする。
 つるりと禿げ上がった頭から、急速に髪が生える。髭や眉と同じく、白い。すぐに、蓬髪といっていい長さにまで伸びる。短パンのポケットから、ゴム紐を取り出すと、後に束ねて留めた。
 その姿は。
 御雷は感慨を込めて見つめた。
「御雷建―――先生にそっくりだ。本当に、双子なんだな。だけど。」
 紅い唇が、そろりと言葉を吐き出す。
「あんたが先生に殺されたのは、もっと若い頃じゃなかったのか?」
 玄は苦笑する。
「儂としては、感動の対面を演出したかったんだがね。お前のいうとおり、建に負けたのはもっと若い頃さ。だが、あいつは儂を殺し切ることができなかったんだよ。」
 死んだものと思って、確認を怠った。あるいは…実の兄にとどめを刺すことができなかった。時間が経てば死に至ると踏んで放置したのかもしれない。
「あの糞爺…ちゃんと殺しておいてくれれば、俺が困らずに済んだのに。」
 死者に悪態をつく御雷の顔は、笑っている。
「まったくだ。おかげで、こんな因果な身体になってまで、お前と闘わねばならん。」
 対する玄も笑っている。が、内心舌を巻いていた。御雷の打撃を全て受けて見せたことが裏目に出ている。吸収した運動エネルギーが人工筋肉内で熱に換わり、一時的に行動が制限されていた。仮に玄が生身だったなら、粉々に砕け散るほどの威力である。兄の想いが、少しだけ理解できるような気がした。しかし。
「…儂かお前、どちらかがが死なぬ限り、結論は出んからなあ。」
「『血』を取るか、『才』を取るか―――そういうことかい?」
 数十年前。まだ建が薫と夫婦になって間もない頃。
 子ができる気配のない二人に、危機感を募らせた人間がいた。前代の当主である建の父と、双子の兄である玄だ。彼らは己の血に誇りと責を感じていた。少なくとも、数百年間―――一説には千年近く絶やすことなく継いできた血。それこそ数知れぬほどの人間を斃し、これと見込んだ者の血を取り入れながら、脈々と紡いできた強者の因子をもつ血統だ。
 決して絶やすわけにはいかない。
 そういう強い思いがある。
 建は違った。
 血統を頼りに業を継いでいけば、やがて超えられない壁に突き当たる。それは、生物としての人間の限界だ。自分たちに子ができないことを、そのように捉えている。
 御雷の血に限界があるのであれば、業に相応しい「才」のある者を見出して、その者に継がせればいい。見つからねば、御雷の業は絶える。それは、御雷の業自体がその程度のものだったということだ。
 危険な考えであった。双子ではあったが、兄である玄よりも弟の建の方により優れた才があった。だから玄は闘うことなく当主の座を譲ったのである。だが、当主が血の断絶を容認するのであれば。業が血族以外に流出することを容認するのであれば。
 それは、もはや御雷の当主としては認められない。玄にも、内縁の妻はいた。彼らの間に生まれる子に業を継がせれば、問題は解決する。その前に、危険因子は排除せねばならない。
 結局、双子の下の弟も含めて三人が、建と薫の暮らす里を襲い、全員が返り討ちに遭って殺された。
「先生からはそんな話を聞かされていたんだが。」
「概ね合ってるさ。ただ一つ、建の知らなかったことがある。」
 玄は唇を歪めた。
『御雷玄は、話しながら身体の冷却時間を稼いでいます。今のうちに離脱を。』
 それは、無理だ。俺だってさっきの攻防で体温が限界近くまで上昇している。多分、奴の冷却が終わっても、俺は十分に動けないままだろう。
 菊池の、目を見た。
 俺のことはいいから、お前だけでも逃げろ。
 藍色を帯びた瞳が瞬きもせずに見返してきた。強く頭を振る。
 絶対に、嫌。
「…頑固な女だ。」
 言葉とは裏腹に、御雷の眼差しに夢見るような趣があった。俺が思っていた以上に面白い女だったんだな、菊池は。少なくとも、俺が生きている間は、彼女も生きていられるだろう。
 だから、玄の話を遮った。
「その話を菊池が聞いても、彼女を逃がしてやれるのかい。」
「駄目だね。」
 玄の返答はにべもない。
「だから訊いたんだ。帰るのも二人一緒、死ぬのも二人一緒ということか、と。」
 この、糞爺。とは思うが、この冷酷さと割り切りが、歴代の御雷家当主の特徴でもある。建にも、当然そういうところはあった。
「御雷先生。」
 菊池の声は腹から出ていた。震えてはいない。
「全部見て、全部聞きます。だから、約束を守ってください。」
 御雷は絞りきれない。
 一緒に帰ろう、という言葉か。
 守ってやる、と言ったことか。
 情けないが…。
「どの、約束だ。」
 菊池が微笑むのが見えた。まったく…こんな状況でも真っ直ぐに俺を見るんだな、お前は。
「全部、守ってください。」
 こいつには、敵わない。
 御雷はすうっと息を吸った。白い貌には紅い筋が浮かび始めている。その口元には、あの微笑。
「本人もああ言ってる。好きなだけ話せよ。」
「菊池先生にも驚かされる。お前たちの間に生まれる子を見たくなったわい。」
 殺すのが惜しくなった。そう言って、胡座をかいて座った。
「でも、殺すんだろ。」
「まあね。そのために、こんな身体になってまで生き延びたんだからな。」
 遠くで、爆発音が聞こえた。南の方の空が明るくなる。
「なんだ?」
 沢田の疑問に玄が答えてやる。
「組合長の車さ。今原署に着いたところで爆破したんだよ。」
 だろ?と御雷に確認する。御雷はハイドレーションのチューブを咥えていた。頷いてやる。小型のロボットだが、爆弾としての性能は異常なほどに高い。警察車両の出入り口を通行不能にする程度の威力はある。
「組長、あんたも逃げていたら同じ目に遭っていただろうよ。車だけじゃない。この辺りは爆弾だらけなんだからな。」
 気味悪そうに沢田が周囲を見回す。
「時限爆弾か?」
 起爆に際し、御雷が何かした様子はない。
「こいつにはな、K2って名前のパートナーがいるんだ。そいつの仕業さ。」
「なんだ、そいつは。」
「儂も現物にはお目に掛かったことがないがね。それは綺麗な娘の姿をした機械人形だということだよ。」
 御雷が訂正する。
「今は、もう人間になってるよ。身体の組成が普通の人間とは違うだけさ。その身体に入ってればわかるだろう?」
 イヤフォンからK2の声は聞こえない。しかし、彼女の息遣いが弾む気配を感じている。御雷が訂正してくれたことが嬉しいのだろう。
「そうだな。たしかに、この身体は人工物という感じがしない。普段は自分でも忘れているくらいさ。基になったというK2が『人間』に成長したと聞いても、儂は驚かんよ。お前の妻だった女が創ったんだろう?本当に、天才だったんだな。」
 そうさ。恭子は間違いなく天才だった。が、今は亡き妻の思い出に浸っている場合ではない。
 続きを促す。
「儂は女房の助けもあって一命を取り留めた。拳は潰され、脳にも損傷を負ってはいたがね。で、いろいろあったが、結局アメリカに渡ったのさ。そこで、おかしな研究をしている奴らに目を付けられた。」
「軍の、研究施設の連中だね。」
 御雷が世話になっているところ以外にも、機密事項に当たる研究を行っている施設はいくつもある。人工体の情報も、ある程度は共有しているはずだ。
 玄は顎髭をしごきつつ頷いた。
「奴らは、脳を探していた。」
「脳を?」
「ああ、脳だ。特殊な脳を、血眼になって探し回っていたのさ。」
 御雷にはわかる。
 K2ベースの人工体が、簡易型であっても軍に採用されなかったのは、あまりにも精巧すぎたことも理由の一つだ。無論、恭子が全力を傾けて完成させたオリジナルのK2に比べれば、粗雑といってもいいレベルではある。それでも自分の肉体として扱うには、脳に著しい負荷が掛かることが判明したのである。
 常人の脳では、耐えられない。だから、K2が新規に設計したマシューの人工体には、生体脳をサポートするための補助脳が組み込まれている。だが、そんなものを造れるのは恭子かK2ぐらいなものだ。そして、真に重要な情報を、彼女たちは決して漏らさなかった。
 そこで、人工体開発計画―――K2プロジェクトの完成を目論む研究者の中には、脳に人工体を合わせるのではなく、人工体に合った脳を探す、という方向に進む者が出てきたというわけだ。
「何だか本末転倒な気もするけど。とにかく、その連中の御眼鏡に御雷玄の脳が適ったわけだ。」
 言いながらストラップを切断して、空になったハイドレーションバッグを捨てた。
 恐るべき集中力で肉体を完璧に統御し、全身の力を束ねて技を放つために鍛えられた、脳。肉体に対する支配力についていうなら、比肩できる者は少ないだろう。それが御雷の業を修めるということである。
「当時の儂の脳は、壊れていた。殆ど植物状態といっていいくらいにね。それでも奴らは嗅ぎ付けてきたよ。」
 猟犬みたいな奴らだった、と過去を振り返る目で呟く。おかげで、彼の妻は命を落とすことになったのだ。
 当然だろう、と御雷は思う。あの戦争中にあってさえ、日本と米国の間には特殊な連携があったのだ。「異能」の存在については、かなり早くからマークされていたと考えていい。
 玄が立ち上がった。思い出を振り払うように、肩を回した。
「失くしたものもあるが、得たものも多い。この身体はいいぞ、晃。壊れた脳の補完までしてくれるんだ。お陰で、失っていた視力も回復したよ。」
『生体脳の損傷を修復する機能は無いはずですが…。』
 K2も同じ点が引っかかったようだ。
「ふうん。その目は、人工体に入る前は見えなかったのか。夜なのにサングラスをしているのは何故だい?」
 玄が、サングラスを外した。奇妙に色を変える虹彩が露わになる。夜だから判る。彼の瞳は微かに光を放っている。
「儂の眼は、少々見えすぎるんだよ。光がうるさいから、普段は情報を絞っているわけさ。」
『わかりますか?彼の眼はアクティブセンサーとして働いています。』
 恐らく、周辺に配置したロボットからの情報を解析したのだろう。
 自らの存在を知らせてしまうという欠点はあるものの、より詳細に「視る」ことができる機能が、玄には備わっているわけだ。K2にも当然のようにあるが、普段は使わない。
「見た目と強さは関係ないわけだ、その身体ならな。モーフィングでもっと若返らないのか?」
「儂なりの筋の通し方だよ。お前を育てたときの建と同じ姿で、お前を殺す。あの時の建を否定するために。」
 御雷は挑戦的に笑う。
「建を、全否定か。血に拘る割に、自分が子孫を残せない身体に入っているのは、言っていることと矛盾していないか?」
 玄の頬が痙攣する。痛いところを突かれたのだ。
「確かに、矛盾だな。この身体でも、女を抱くことはできる。生身の時よりも良く感じるくらいさ。しかし、お前の言うとおり、自分の血を残すことはできん。何しろ自分本来の肉は脳にしか残っていないんだからな。」
 サングラスを掛け直す。
「本当は儂自身、御雷の業が絶えようが構わないと思っているのかもしれん。だが、知りたいのさ。営々と継いできた御雷の血の集大成としての儂と、建が血の繋がりを超えて後継者に選んだお前と、本当はどちらが優れているかをな。」
「ただ強い奴と闘りたいだけの大馬鹿じゃないか。」
 呆れた声で言う御雷の、紅い唇の両端が吊り上がっている。
「お前だってそうじゃないか。顔が、笑っているぜ。」
 何しろ、『御雷』だからな。
 二人は期せずして同じ言葉を胸の内で呟く。
「脳にも何かしただろう?」
「老化防止の研究にも参加したんだよ。Mプロジェクト―――御雷化計画っていうんだぜ。もとから御雷であるこの儂が、だ。皮肉なもんだよ。」
 脳を弄って老化を止めたり、生物に備わっている限界の力を引き出したりする、研究。言うまでもなく、御雷晃の症例が基になった研究だ。成功例がなく、お蔵入りになったはずだが。誰かは知らないが、途中で放棄されたはずのK2プロジェクトを密かに完成させるような変わり者だ。脳自体に細工を施すようなことをしていても不思議ではない。
「脳に、何を埋めたんだ?」
 玄は少しだけ意外そうな顔をする。
「意外に冷静だな。もっと驚くかと思ったんだがね。」
 御雷は冷たく笑う。
「死んだはずの人間が生きてるからくりなんて、その程度のものだよ。」
「やはり、気付いておったか。」
「あんたの名前を聞いたときから、その可能性は想定してた。御雷玄なら菊池を丁重に扱うだろうとも思ってたさ。」
「儂も、御雷の男だからな。綺麗な娘に甘いのは仕方ない。手も付けとらんよ。」
「そこは疑っちゃいないさ。―――で、何があんたの脳には入ってるんだ?」
 玄は額を指差した。人工体になる前に施術を受けているために、傷跡は無い。
「同じ研究で、いろんなものをいろんな位置に入れられた連中がいたが。」
 一瞬だけ、痛ましい記憶を覗く眼差しになる。
「みんな死んだよ。儂だけが成功例さ。この頭の中に入っているのは放射性同位体―――ラジオアイソトープだよ。放射線が、いい具合に脳の組織を壊してくれてな。」
 御雷は一瞬だけ目を瞑った。脳の中に、自らの意思で異物を挿入する。それは放射線を放出しながら壊れていき、脳自体も少しずつ蝕んでいく。玄が得た力とは、そうやって手に入れたものである。何という、執念か。
「…やがては、人格が保てなくなるだろうな。何年、人として生きられる?」
「そうさなあ…この身体で七十年は活動できると聞いてるがね。本人としてはもっと長くやれそうな気がしているよ。」
 さあ、お前の身体も程々に冷えただろう。続きを、やろうじゃないか。
 御雷は、基本通りに構えた。鏡写しのように玄も構える。
 相手が人工体なら。最初から限界を突破した状態から始めるしかない。
 玄も、もう身体のポテンシャルを隠す必要はない。人外の力を存分に振るうはずだ。
 どう、攻める?
 御雷は、冷や汗にも似た感覚を背中に感じている。無論幻覚だ。
 かつて。まだ発展途上のK2と闘ったときでさえ、御雷の技はことごとく彼女には通じなかった。普通の打撃は効かない。銃は既に使ってみた。身体を構成する素材は、K2のものに比べれば大幅にダウングレードした廉価版であるという。それでも銃弾の衝撃を綺麗に吸収して破損しなかった。
 どんな技でも斃せる要素がない。近接打撃は―――K2戦で、既に無効であることが証明されている。御雷も強くはなっているのだろうが、何しろ相手のボディを支配しているのは御雷玄の脳なのだ。
 二人同時に動いた。殆ど密着した状態から、蹴りや突きの攻防が繰り広げられる。これほどに間合いが近いのに、お互い有効打を得ることができない。至近距離でも見切りを生かして闘うことは可能なのだ。
 一方が投げれば、器用に身体を捻って立ってみせる。あるいは先んじて身体を舞わせ、相手の力を利用して逆に最初に仕掛けた当人を投げる。少しでも隙があれば関節技を狙う。殴り、蹴り、打ち、極め、投げ、絞める。あらゆる動きが連続的に展開するのが御雷の技の特徴だ。比良坂にも似たようなところは多いが、その速さと強さで大きく水をあけている。
 さあ、どう攻めてくる?
 熾烈な攻防を捌きながら、心待ちにしている玄がいる。御雷の心理を読む。
 この身体には、御雷の技が効かない。あれは、あくまで対人用の殺人技術である。唯一玄にダメージを与えられそうな箇所は?そして、ダメージを与えられそうな技は?
 答えは一つだ。御雷は必ずそれをやる。
 その時が、御雷晃の死ぬときだ。そう決めた
 御雷は改めて人工体のポテンシャルに舌を巻いている。
 ただ強靱であるばかりではない。ただ、人間離れした怪力と速度があるばかりではない。それらを御雷玄という異能の男の脳が支配したときに総体として生じるもの。異常な脳が、疲れない身体を得るということがどういうことか。
 限界領域の突破から、間もなく四分。時間切れが近い。
 こんなことなら、俺も人工体に換装しておけばよかった…とは思わない。まだ、己のポテンシャルを出し切ってはいないという感触があるからだ。
 その方法を探るにしても、今のこの局面を切り抜けられればの話だ。
 打てる手は一つしか無い。そのためには、時間稼ぎが必要だ。一瞬でいい。玄の動きを止める。
 蹴りと突きのコンビネーションを見舞う。受けた玄は、覚えのあるリズムを捉えてほくそ笑む。
 来るか、晃。
 攻撃を捌くために甘くなった玄のガードをかいくぐり、御雷が懐に飛び込む。
 そうだろう。お前に残された手段は、近接打撃しかないはずだ。
 だが、儂の身体には効かんよ。
 御雷の拳が胸板に当てられるのを感じて、玄は戸惑う。
 違う。これは、近接打撃ではない―――何だ、これは。
 御雷の中で力が膨れあがった。際限なく膨張しようとするそれを、瞬時に波の形に押さえ込む。恐ろしいほどに強力な、脳の支配力のなせる技だ。
 足元から立ち上った波が、まっすぐに両脚を駆け上り、体幹に流れ込む。全身の力が急速に束ねられていく。
 その速度は、玄の知る近接打撃に比べて数倍。避けられない。
 体幹を打ち抜かれるような感覚があった。打撃による破壊というよりは、衝撃だけが突き抜けるような、奇妙な感覚であった。立て続けに、二回。
 これは、比良坂の―――玄の視界にノイズが走った。中枢神経に機能不全が発生したという警告が出る。復旧まで二秒。
 御雷には十分な時間であった。
 足元で波が起きた。今度は螺旋状に身体を登ってくる。体幹を巡り、壮絶なうねりとなって右腕に流れ込む。
 カーボンナノチューブを配したソール越しに、御雷の足が地面をしっかりと噛んだ。
 御雷の拳は玄の顎の脇に置かれていた。そのまま、全身の力を束ねて打ち込んだ。足元のアスファルトが陥没する。
 ごきゃっ。
 渾身の一撃が、玄の下顎が外れて口が裂けるほどの破壊力を生み出した。のみならず、衝撃は頸椎に及び、頭が九十度横倒しになっていた。白眼を剥いている。
 御雷は飛び退いた。運動レベルを下げる。時間切れだ。
「これで死ぬとは思えないけど。」
 肩で息をしている、もう、立っているのも辛い。それでも。
 逃げる時間が稼げればそれでいい。
 麻川までの距離を測り、菊池を見た。
「来い、菊池。」
 弾かれたように、菊池が駆け寄ってくる。こういうときの素直さと反応の早さは、授業中と変わらない。それも菊池の才の表れだと、御雷はかなり早い段階で気付いていた。
『待って。まだ意識があります。』
 K2の警告に、ぎょっとする。眼の隅で菊池が立ちすくむのを捉えながら、玄に向き直った。白眼は演技だったか。
 玄が外れた顎を右手で入れる。ごきり、と嫌な音がした。裂けた口からは、ごく少量の赤い液体が流れ出ていたが、既に止まっている。頭の傾きは気にならないようだ。
「まさか、奥義の三連発とは、驚いた。お前は、本当に化け物だよ。」
 御雷はもう笑わなかった。
「化け物は、あんたの方だろ。脳を盛大に揺らしたはずなんだがな。」
 K2と玄の最大の違いはそこだ。ボディは人工物でも、脳は生身だ。ボディは耐えられても脳が耐えられないような衝撃を与えればいい…はずだった。
「悪いが、儂は脳震盪にはならないんだよ。もう、お前に打つ手は残っていないはずだ。そろそろ死になよ、晃。」
 何が来る。
 反射的にダマスカスのナイフを抜く御雷を、首が折れたままの玄が笑いながら見ている。
「もう、限界か。活動時間に限りがある身体というのも不便なもんだな。」
 不意に、ひょいっと手を伸ばした。
 突きでもなければ、手刀でもない。掴み技の初手でもない。
 何気なく、相手に触れようとするような、むしろ緩慢とも見える動きであった。
 だが。
 御雷を求めて伸ばした指先が、奇妙に不吉に思えて。
『避けて!』
 K2の叫びが聞こえたときには、もう躱している。
 頭すれすれのところを通り抜けた玄の腕には、これといった破壊力は感じられなかった。
 何がしたかったのか?御雷は訝しく思いながら、油断なく玄に相対する。
「ふむ…上手くやったつもりだったが、油断してはくれんか。いや、結構。どんな動きにも警戒を怠らないのは基本だからな。」
 サングラス越しに、玄の虹彩が妖しく輝くのが見えた。
「だが、目に見えるものだけが危険だとは思わぬ方がよい。」
 初めは、気のせいかと思った。
 遠くから微かに聞こえる、羽虫の飛ぶような音。
 それが瞬時に耳を覆いたくなるような金属音になって御雷を包んだ。
 耳を押さえたが、止まらない。
 聴覚で捉えているのではない。脳の中で鳴っているのだ、と気付く。
何だ、これは。
 視界が、ぐにゃりと歪んだ。両脚の感覚が無くなっていた。
 意識が暗転しそうになる。
 玄が再び手を伸ばしてくるのが見えた。当たれば…死ぬのだろう。西本のように。
 ナイフを握った腕が重い。
「御雷先生!」
 菊池の悲鳴が聞こえた。
『斬りなさい!』
 K2の叫びが聞こえた。
 約束は…守らなくてはな。
 もう一度だけ、全身に限界領域の突破を命じる。もうとっくに限度は超えている。一瞬だけで、いい。
 御雷は玄の腕を再び避けるや、刃を振るった。
 己の右腕が、バターを切るようにあっさりと切断されるのを、玄は見た。
 痛覚はあるが、遮断する。体液の流出は最小限に抑えた。
 アスファルトに落ちた右腕を拾い上げ、蹲って肩で息をしている御雷と見比べる。
「高周波ブレードか…そんな機材を持ち込んでいたとはな。ただのナイフだと思って油断した。」
 玄の腕が銀灰色の切断面を見せている。沢田と菊池は、御雷姓の男たちの会話が真実を述べているのだと悟った。
「この儂から…人であることを捨てた身から、腕一本を持って行くか。」
 面白い男だ。御雷建が己の全てを伝えただけのことはある。
 葛藤は一瞬だけだった。
「気が変わった。完全なお前と、やりたくなったよ。」
 菊池に向かって顎をしゃくる。行ってやれ、という仕草だ。駆け寄って助け起こした身体が、燃えるように熱い。
「何でもいい。儂と十分に闘えるだけの準備をして来い。四十八時間後に、ここで続きをやろう。今度は人質も待ち伏せも無しだ。」
 御雷の荒い息に、苦笑が混じる。
「あんた…馬鹿だろ。今なら俺を殺すのは簡単なのに。」
 玄は切断された片腕を掴んだまま、器用にサングラスを外す。片目を瞑って笑ってみせた。
「血だの何だのと理由を付けていたが、所詮は儂も大馬鹿者だということがわかったのさ。」
「ただ、強い奴と闘りたいだけの?」
「お前は違うのかい?晃。」
 自分の力の限界を確かめたい。そう願う自分がいる。
 それ以上に、今は菊池を守り抜きたい。そのためには、もっと力が要る。
 結局は、同じ事か。強さを求める理由など何でもいいのだ。
 紅い筋が走った美貌が、凄絶な笑みを浮かべた。
「俺も、御雷だからな。」
 その返事だけで、玄には十分であった。
 菊池は御雷が動くのを感じた。と、思ったときには荷物のように小脇に抱えられている。腰に回された御雷の腕も、熱い。
「帰るぞ。」
 そう聞こえたのと、強烈な加速Gに悲鳴を上げるのがほぼ同時だ。
 御雷は走った。本当に、これが最後の力だ。
 朦朧とする意識の中で、呟いた。
「起爆だ、K2。」
 最初の爆発が起きた。駐車場に停めていた車両だ。それを起点にして、連鎖反応的に爆発の炎が上がる。コンクリートが砕け、高熱で太い鉄骨がねじ曲がった。倉庫がドミノ倒しのようにゆっくりと崩れていく。
 K2が、御雷の逃走を助けるように起爆のタイミングをコントロールしているのだ。
 背後から熱風が押し寄せてきた。それに背中を押されるようにして、御雷は麻川の堤防を飛んだ。
 一瞬の浮遊感の後、水面に向かって落下する。
 その瞬間。K2は残りのロボット爆弾を一斉に起爆した。
 菊池は見た。
 先程まで二人がいた空間を、鮮やかなオレンジ色の炎の舌が舐めるのを。
 轟音は遅れてやって来た。
 その、鼓膜が破れるような破壊音の中、菊池は確かに聞いた。御雷玄の声を。
 彼は、笑っていた。
「いいなあ、晃。そういう容赦のないところが、実に御雷らしいよ。」
 儂と闘るまで、死ぬなよ、晃。
 二人は黒い水面に落ちた。
 菊池の意識が途切れた。

      12
 水に入った御雷の身体は、浮かばない。
 水深五メートルまで、一気に潜る。川底に立った。
 河口では、麻川の水も海水に変わっている。
 暗い。だが、御雷の視力なら何とか見える。
 ショルダーバッグから眼鏡ケース程のサイズの金属製の機材を取り出す。
 重い抗弾プレートを仕込んでまで守りたかったそれは、小型の酸素ボンベである。
 口に咥えて、バルブを開く。
 脳に酸素が行き渡るのを感じた。それでも意識が濁っているのは、何らかのダメージを脳に受けたからだ。
 それが何かを分析する時間は無い。
 菊池にも酸素を吸わせてやらねばならない。意識を失っているのはわかっている。ボンベを咥えさせるのは無理だ。オプションの部材を使うことにする。
 医療用の酸素吸入マスクに似たものを蛇腹状の丈夫なホースでボンベに繋ぐ。医療用のものと異なっているのは、顔に接するところに気密を保つゴム製のパッキンが付いていることと、排気用のバルブが付いていることだ。
 バルブを開けてから菊池の口と鼻を覆うように顔に当ててやる。酸素の泡が水をマスク内から追い出すのを待って、固定用のバンドを後頭部に回してきっちりと装着した。鳩尾を探って、二本指で軽く突いた。
 排気バルブから、一際大きな泡が立ち上る。意識は戻っていないが、呼吸は確保できたのだ。
 これで、安心して気絶できる。
 もう、これは要らない。まだ予備マガジンが残っているショルダーバッグを捨てた。
 ゆっくりと、御雷は川上に向かって歩き始めた。
 彼が咥えている小型の酸素ボンベでは、それほど長くは潜っていられない。酸素の消費量を抑えるためにもスピードは出せない。菊池の方は気絶していることが幸いして、それほど多くの酸素を使うまい。
 呼吸を保てる間に、水深の浅いところまで辿り着く。
 既に御雷は意識を失っている。彼が起きていたのは菊池の呼吸を確保したところまでである。
 にもかかわらず、彼の眼は暗い水中を見通し、川底を踏みしめて歩いて行く。小脇に抱えた菊池を決して落とさない。
 事前に刷り込んでおいた「行動プログラム」に従って、彼の肉体は動いているのである。そのために、自己暗示をかけておいた。万が一、意識を失うようなことがあっても、脳の意識活動を司る部分以外を用いて行動することができる。決められた手順をトレースするのであれば、それは難しいことではない。
 脳も含めた肉体を、道具として使いこなす。
 それは、御雷の業の真骨頂ともいえるものである。
 たとえ、酸素ボンベの容量が尽きたとしても。
 御雷は歩き続けるだろう。体内の酸素を絞り尽くすまで。そのようにプログラミングした。
 最も高い確率で菊池を生かす方法として。
 御雷は、そういう男であった。

 どれぐらい意識を失っていたものか。
 自分が泥だらけになっているのに菊池は気付いた。
 空が、暗い。時間の感覚が消失していた。
 遠くで、けたたましいサイレンの音が聞こえている。市内の消防署が総動員で消火活動に向かっているのかと思えるほどの、緊急車両の数だ。
 サイレンが向かう先に目をやると、ずっと向こうで空の下の方がオレンジ色に光っているのが見えた。
 不意に、思い出す。
 爆室の轟音を。空を舐めた恐ろしいほどの炎の舌を。
 立ち上がろうとした。動けない。
 腰に、しっかりと巻き付いているものがあった。白い手が見えた。手の先には暗灰色のジャケットに包まれた腕があって―――菊池の視線が、白い美貌に辿り着く。
「御雷先生。」
 恐る恐る、呼んでみた。反応はない。白い肌には無残な紅い筋が浮かんだままになっている。
 頬に手を当ててみると、異常に熱い。それでも呼吸をしているのがわかって、菊池は安堵の息を吐いた。
 苦労して御雷の腕を解き、菊池は立った。
 さほど大きくもない河の浅瀬に倒れ込んでいたらしい。
 街灯が弱々しく周囲の風景を照らしている。
 菊池には見覚えがあった。少し前、ちょうど夜に見ていたことが幸いした。
「ここ…御雷先生の家の近くだ。」
 百メートルも離れていないはずだ。
「早く、冷やさなくちゃ。」
 今、御雷がどんな状態にあるのか、想像はつく。放っておけば、死ぬ。
 菊池は、自分より大柄な御雷を背負っていくことを決意した。だが。
 いざ背負おうとして、愕然とする。
 重い。そう思って、可笑しくなった。御雷は最初から「自分の体重は百キロだ」と公言していたではないか。外見上痩せたからといって、体重がどこかへ行ってしまうわけではない。
 だから、他人の助けを当てにできないこの状況で。
「私が御雷先生を運ぶしか、ない。」
 お前は、本当に頑固だな。
 御雷に、そう言われたような気がした。
 そうだ。私は、強情な人間だ。自覚はしている。
 菊池の整った童顔に、不釣り合いなまでに不敵な笑みが浮かぶ。
「絶対に、こんなところで死なせない。」
 自分に言い聞かせるように呟いた。
 田中の言葉が甦る。「どんな重い相手だってね、一旦腰に乗せてしまえば投げられる。重心のコントロールさえできれば、そのまま散歩だってできるわよ。」―――そうだ。そういう鍛え方を、私はしてもらっているのだ。
 慎重に、御雷を背負う。膝を使って、投げる…寸前で止めた。
 御雷の重さが消失していた。否、完璧に重心を取ること成功したのである。
 菊池は確信する。これなら、運べる。 
 この、絶妙なバランス感覚こそ、田中も一目置く菊池の才の片鱗だ。
 そうはいっても、土手を上り、御雷の家まで歩くのは容易いことではない。
 一歩一歩、踏みしめるように小柄な影は進む。
 時折、背中に硬く冷たいものが当たる感触があった。
 菊池の心臓が冷たくなる。そして、思い出す。
 御雷武は、銃を使って人の命を奪う人間なのだ。実際に、彼が人を殺すのを目撃した。
 怖くは、なかった。
 ただ、美しい、と思った。
 そんな自分の心の動きに、少なからず驚きを感じている。
 だが。
 菊池にも譲れぬことがある。曲げられないものがある。
 嗚呼。
 声にならない嘆きを、菊池は吐き出す。
 私は、本当に引き裂かれてしまいそうだ。
 それでも。
 心に決めた掟は必ず守る。菊池にとって、それは誓いのようなものだ。
 菊池由美は、そういう女であった。
 だから、背中の御雷に語りかける。
「御雷先生…少なくとも、こんなところでは死なせません。」
 返事はない。菊池もそれ以上は話しかけない。
 結局、百メートルを歩くのに二十分掛かった。気絶した人体のバランスを取るのは難しい。御雷の家に着いたときには、菊池は全身汗まみれになっている。
 玄関の鍵は御雷の服のポケットにあった。ジッパー付きのポケットに、免許証や財布とともに入っている。菊池は玄関を開けると、御雷の身体を引き摺り込んだ。施錠する。
 体重百キロの身体を板の間に横たえた。
 免許証を開いてみる。
 田中吾郎…偽造か。財布にも特に変わったものは入っていない。無造作に放り出す。
 早急に御雷の身体を冷やす必要があるのは確かだが、この前ほど切迫はしていないと経験が教えてくれる。川の水に浸かっていたからだろう、と推測する。
 だったら、冷やす前に―――意識のない間にしておくべきことがある。
 菊池はもう一度だけ、御雷の頬に触れた。
「御雷先生…。」
 返事はない。
 御雷の白い美貌は、泥で汚れていた。艶やかな髪も固まっている。自分もきっと酷い姿だろう、と思った。
 御雷の紅い唇だけが、変わらず鮮やかだった。
 ごくり。
 菊池は唾を飲み込んだ。緊張している。慎重に…御雷の唇に自分の唇を重ねた。海水の味がする。
 御雷に反応はない。
 彼は菊池の行為に気付きはしないだろう。
 それでいい、と思った。これから自分がしようとしていることを思えば。彼のことを愛しているなどとは口が裂けても言えない。
 菊池は薄い唇を引き結んだ。為すべきことを、為すだけだ。
 ジャケットを脱がせると、ベレッタと予備マガジンを取り出す。腰のホルスターからボウランドを抜き取る。予備弾倉と二本のチタンブレードも奪う。ピッキングツールや投擲用の金属片、応急処置キット、小型のフォールディングナイフ、ライター、航空機用の軽金属で造られたボールペン、細いが丈夫な金属製ワイヤー、ラテックスゴムの手袋―――どこに隠し持っていたのかというくらい、物が出て来る。
 菊池はそれらを的確に探し当て、次々と御雷の身体から引きはがしていく。携帯電話二台も取り上げる。少し考えて、腕時計も外した。目が覚めるまで氷水に浸けておくなら必要のない品だ。
 最後に、長めのタイラップ=結束バンドが出てきた。簡易手錠としても使える便利な物だ。
 菊池は風呂場へ行って製氷機から大量の氷を取り出し、湯船を満たす。水道水を流し込んで、氷水の風呂を用意した。以前、御雷から聞かされたとおりの手順である。
 服を水に濡らせば、後で湯船から引き上げるのが大変だ。先にカバーオールを脱がせることにする。ジッパーの奥に隠された白い肌を、菊池は眩しげに見る。全身に走る紅い筋が、彼女を急かしている。下着も脱がせた。御雷の裸体を見ないように努める菊池の顔が、赤い。
 白い身体の手足をタイラップで二重に縛り上げた。血行障害が出ないよう、締め具合を慎重に決める。
 重い身体を風呂場まで引き摺っていく。彼女の力では御雷を湯船に放り込むことはできない。足先から、なるべく静かに浸けてやる。
 御雷の唇から長い溜め息が漏れて、菊池はぎょっとする。ただの、生理的な反応だ。まだ目覚めない。
 顔が水に沈まぬよう。バスタオルを何枚か背中と後頭部の下に詰め込んで高さを調節すると、やることがなくなった。取り敢えず、清潔なタオルを水に浸して顔の汚れを拭ってやる。一度やり始めると泥汚れが気になって仕方なくなる。御雷の体位を変え、頭が湯船の外に来るようにして、菊池はシャワーで髪の毛に付着した泥を洗い流す。
「本当は全身を洗剤で洗ってあげたいけど…今はこれで我慢してくださいね。」
 泥の匂いが染みついて、水洗いぐらいでは落ちないのだ。
 菊池は、今度は自分の匂いが気になってきた。泥の匂いに加えて汗の匂い。それに。
 少し、迷った。
 御雷が目を覚ましそうもないのを確認して、菊池はジャージを脱いだ。Tシャツや靴下も脱ぐ。どれもスポーツ向けの速乾素材でできているから、乾きかけてはいる。しかし、泥の匂いをしっかりと吸ってしまっていた。ブラジャーも同じだ。これらは、捨てた方がいい。
 長時間身に付けていた紙おむつは、尿と塩水でぶくぶくに膨らんでいる。菊池は赤面しながらナイロン袋を探してきてその中に入れる。しっかりと口を縛った。
 そうした上で、脱いだ物を全て黒いゴミ袋に放り込む。靴は―――後で考えることにする。
 御雷が眠っているすぐ横で、全裸を晒している。そのことに菊池は何ともいえない落ち着かなさを感じている。
 今にも目を開けるのではないか。まじまじとあられもない姿を見られてしまうのではないか。
 そう思うだけで、頬が火照るような思いになる。心のどこかで見られたい、見てもらいたいと願っていたのだと自覚して、ひどく動揺する。
 男性が苦手な自分だが、御雷なら受け入れられそうな気持ちになっていたのに。
 甘い思いを振り払うように、シャワーを出した。やはり、洗剤は使わず、ざっと泥汚れだけ流して終わりにする。匂いは落ちない。ゆっくり風呂に浸かるのは、責務を全うしてからだ。
 脱衣場でざっと身体の水気を取る。ドライヤーは使わなかった。バスタオルを身体に巻き付けたまま、寝室に向かう。
 ふすまを開けると、やはり床が延べたままになっている。部屋の隅に小さなタンスがあった。引き出しを調べると、種類とサイズ別で几帳面に着るものが分けられている。その中から、本来の体型用のTシャツを一枚拝借する。それから、ジャージ素材のハーフパンツも。
 さすがに下着だけは男性ものを借りるわけにはいかないので、菊池は素肌に直接ハーフパンツを穿いた。体格に合わせてウエストの紐を締め上げる。御雷にとってのハーフパンツは、菊池には七部丈になる。Tシャツの肩が落ちるのは仕方がない。ブラジャーをしていないが乳房の形は崩れなかった。それよりも薄い布を通して乳首の存在がわかってしまうことの方が恥ずかしい。
 それでも、素っ裸で御雷に相対するよりはずっとマシだ。そう考えることにする。
 あまりにも静かなので、菊池は不安になった。
 知らぬ間に、死んでいるのではないか。
 風呂場を覗くと、御雷は穏やかな寝息を立てていた。氷が溶けて殆ど水だけになっている。その水が濁っている代わりに、御雷の身体は綺麗になっていた。匂いは、ともかくとして。
 状況を知らぬ寝顔があまりに無防備で。菊池はしばし立ちすくむ。御雷は冷徹な殺人者だ。それは事実だとしても。
 自分が、酷く罪深い人間に思えた。玄の言葉を思い出す。
「自分への罰、か。…そうかもしれない。」
 腕時計を着けてやると、体温計は適正値を示した。
 御雷を湯船引き上げるために、菊池は再び裸にならねばならなかった。脱衣場に広げたバスタオルの上に冷却を終えた身体を横たえる。素早く水気を取って、下着だけ新しい物を履かせてやる。風邪を引く季節でもない。
 改めて服を着直すと、さほど長くもない廊下を引き摺って、御雷を茶の間に運んだ。
 台所との境目に一本、柱が立っている。引き戸を開け放てば、上手い具合に柱だけが残る構造になっている。
 菊池は御雷の身体を柱にもたれさせると、手を縛っているタイラップをペンチで切断した。
 両腕を後ろに回し、柱を背後に抱くようにして、新しいタイラップで固定し直す。
 意識はなくとも、御雷の身体は倒れない。一度座らせてやれば、尻と縛られた足で器用にバランスを取って柱にもたれた姿勢を保つ。
 田中や御雷のいう「鍛える」という言葉の意味を、菊池は少しだけ理解できたような気がする。
 己の意識がなくとも、動ける身体。それは、自らの肉体を凶器に変えようとする営みが生み出したものだ。
 御雷の腹が鳴った。出かける前に溜め込んだエネルギーを使い果たしているのだ。
 美味そうに自分の飯を掻き込む姿を思い出して、菊池は胸が痛くなる。
 もう、この人に食事を作ってあげることはできないのだ。
 菊池は、卓袱台を挟んで正座した。そして、待った。
 御雷が、身じろぎした。

      13
 頭が、痛い。
 意識を取り戻した御雷が最初に感じたことはそれだった。
 思わず、呻き声を漏らす。
 普段、痛みというものを感じることがない御雷だが、いくつかの例外はある。それはつまり、彼が受けたダメージが普通の打撃等によるものとは異なっていることを示している。
 目を開けるのは辛かったが、自分が置かれている状況を把握しようとする本能が焼き付けられている。
 見慣れた室内だった。
 何だ。俺の家じゃないか。
 女が、俺を見ている。綺麗な女だ。藍色がかった瞳と、ちんまりとした可愛らしい鼻に見覚えがある。
 少しずつ、意識にかかっていた霧が晴れてくる。思い出した。
「菊池…。」
 姿勢を変えようとして、拘束を受けていることに気付く。鬱血するほどきつくもなく、かといって抜けられるほど甘くもない。見事な手並みだ。見れば、パンツ一丁の丸腰に剥かれている。
 卓袱台の上に、自分の装備品がずらりと並べられているのを見て、御雷は全てを理解した。 
「菊池、無事だったのか。」
「はい。お陰で助かりました。」
 菊池の声が硬い。表情のない顔は、作り物めいた美しさがあった。
「お前が俺をここまで運んでくれたのか。」
「ええ。」
「重かっただろう?」
 ええ、とても。そう言って菊池は初めて少しだけ笑った。
「手間を取らせたな。―――その場で俺を殺すこともできただろうに。何故、わざわざ家まで運んでくれたんだ?」
 菊池の頬が痙攣するように震えた。
「どうしてこんなことをするのか尋ねないんですね。」
 御雷が軽く笑う。
「ああ、訊かないよ。お前が情報提供者だったんだろう?文部省の。」
 藍色の瞳が揺れる。
「知っていたんですか。」
 いや、と御雷は答えた。
「可能性の問題だよ。最初は矢沢が怪しいと思った。次は、田中だ。でも、この前のことで田中はシロだとわかった。あいつの言っていることは筋が通っている。」
 酷く疲れているように息をつく。
「そこで、原点に戻って考え直してみた。昨年度に内偵を行って、今年も引き続き稲美中に勤務している人物。俺の身近で、俺の行動を最も詳細に観察できる人物。文部省が付けた制限で、一番俺の行動を制約できる立場にある人間。…そう考えたら、お前が浮かび上がってきた。」
 一つだけ質問させてくれ、と御雷は言った。
「お前が二年生の担任になったのは―――あの酷い校内人事も、全部お前が望んだことなのか?」
 菊池は頭を振った。あの職員会を思い出すと、今でも堪らなく辛くなる。あの時の心細さを忘れることはできない。
「いいえ。あれは文部省が一方的に押しつけてきたことです。私は、本当に不安で…怖かった。」
「そうか。」
 御雷は溜め息混じりに笑う。
「俺がしたことは余計なことだったんじゃないかと、少し心配だったんだ。」
 とんでもない、と菊池は言葉に力を込める。
「御雷先生には、本当にたくさん助けてもらったし、いろいろなことを教えてもらいました。御雷先生がいてくれなければ…私は…私の心は、途中で折れていたと思います。」
 あれがとうございました。菊池は深々と頭を下げた。
 御雷は苦笑する。姿形こそまるで違うが、そんなところはやはり御雷らしい。
「よしてくれ。これから殺そうという男に頭なんて下げるなよ。こっちの調子が狂う。」
 殺す、という言葉に菊池が反応する。
「どうして、そう思うんですか。」
「俺もお前の過去を調べたんだよ。姉さんの事件のことも知ってる。大方、文部省の役人が付け込んだのもその辺りのことだろうね。」
 菊池の表情が変わった。
「初めは、そう。でも私には渡りに船だったんです。学校再生専門員制度―――姉さんが夢見た教育の世界が、銃を使う殺人者に支えられているなんて。私には、許せない。」
 だから、報告するだけではなく、チャンスがあれば殺す。殺してでも、止める。情報を提供する見返りとして、専門員を抹殺する許可を得た。無論、文部省からの支援はない。あくまで菊池個人の思いでやることだ。
 やれやれ、と御雷は内心溜め息をつく。自分にとって最後の仕事になるはずだった稲美中学校の大掃除だったが…蓋を開けてみれば様々な勢力が手ぐすねを引いて御雷を待ち構えていたのだ。
 自分では狩人のつもりが獲物にされていたわけだ。
「ここへ派遣されたのが、あなたじゃなければよかったのに。」
 菊池の声が震えた。偽らざる気持ちだ。
 御雷の声はあくまで静かだった。
「お前と知り合わなければ、お前は辛い思いをしなくて済んだのかな。」
 数瞬、菊池は考える。
「いいえ。御雷先生に出会わない人生なんて、もう私には考えられません。」
 愛している、と言っているのも同然であることに、菊池は気付いていない。
 その初々しさや不器用さまで、御雷には好ましく思えた。
「でも、殺すんだろ、俺を。」
 菊池は昂然と顔を上げた。気高く、張り詰めた表情で。御雷は、そういう時の菊池の顔をこの上なく美しいと感じている。
「ええ。あなたを殺します。そうすれば、あなたはもう人殺しをしなくて済むもの。」
「最初から、そう決めていたんだな、お前は。」
 菊池は頷いた。ふと、疑問が湧く。
「命乞いをしないんですね。『助けてやったのに』とも言わないなんて。」
 御雷らしいとは思うが、生き残るために壮絶な闘いを繰り広げた姿を見ているだけに違和感を拭いきれないのだ。
「礼を言われたくて助けに行ったんじゃないよ。ただ、自分の好きなように行動したかっただけだ。」
「自分を殺すチャンスを窺っているような女を?」
 御雷の唇に血の色が戻っている。そこに淡い笑みが浮かんでいた。
「関係ないさ。助けたいと思ったから助けた。それだけだよ。」
 それに、と御雷は声を改めた。
「初めてお前と会った時から、いつかこんな日が来るんじゃないかという気がしていたんだ。」
「それは…。」
「俺は、いつかお前を殺さなければならないときが来ると思っていた。でも、同時に、お前に殺されるようなことがあるかもしれないとも感じていた。根拠も何もない、これは予感だ。こんな形で当たるとは、思ってなかったけどね。」
 軽く、目を伏せる。長い睫毛で眼の表情が見えなくなる。
「撃てばいいさ、菊池。俺を殺してお前が少しでも楽になるのなら、撃てばいい。」
「あなたを殺して、私が楽になる?そんなわけないじゃない!」
 菊池は感情を抑えられなくなった。飄然と死を受け入れようとする御雷の態度にも腹を立てている。もっと、生きようとしてほしい。もっと自分の幸せを求めてほしい―――それは、大きな矛盾だ。
「あなたを殺しても、私の心は安らいだりしない。逆よ。あなたを殺してしまえば、きっと苦しみ続けることになる。わかってるのよ、自分でも。だけど、どうしようもないの。」
 菊池は、普段は見せない激しい口調で感情を吐き出す。御雷の黒瞳には、痛ましいものを見るときの表情がある。
 菊池、と彼は呼びかけた。
「たとえ楽にならなくても。もっと苦しくなるとわかっていても。殺さずにはいられないときが、人間にはあるんだよ。」
 菊池がはっとしたように顔を上げた。まじまじと御雷を見つめた。黒曜石のような瞳が、白い美貌の中で菊池を真っ直ぐに見返していた。
 御雷先生、あなたも、そうだったの…?
「だから、もう迷うな。撃つと決めたら、撃てばいい。」
 菊池は腰を上げた。膝立ちで卓袱台に近付くと、ボウランドを取り上げた。
 全体の造形を眺め、グリップを手に収める、銃口が自分や御雷に向かないように自然に身体が動いている。
 大したものだ、と御雷は素直に感心する。
「随分手が入ってますけど、ガバメントですよね。」
「そうだよ。俺が自分で造ったんだ。」
 よかった、と菊池は笑った。
「ガバメントなら、使い方がわかりますから。」
 セフティが掛かっているのを確認してからマガジンを抜く。一発も撃っていないから満装填だ。マグを卓袱台に置く。今度はセフティを外して、少しだけスライドを引いた。チェンバーから引き出された九ミリパラベラムの薬莢が鈍い金色に輝くのを確認して、スライドを閉じる。セフティを掛けた。
「そうやって、残弾を確認したんだな?あの時も。」
 あの時―――高校生だった菊池が、姉を殺した男を射殺した時のことである。
「もちろんです。残りの弾は一発だけでした。確実に殺すために、耳の穴に銃口を当てて撃ったんです。」
「見事な状況判断だよ。確実に仕留めないと、次はお前が犠牲者になっただろうからな。自分も傷を受けていながら、よくそれだけのことができたと感心するよ。練習していたのか?」
 菊池は、ハードボイルド小説愛好家だった。
「事件まではモデルガンで遊んでいたこともありましたけどね。本番では、身体を自然に動かすことができたんです。どうすれば、相手を斃せるのか、訊かなくてもわかっていた…。」
 菊池が浮かべたのは哀しげな笑顔だった。
「私、自分に才能があるってことは、ずっと以前からわかってたんです。武術の才能じゃありません。どうすればその場面で相手を死に至らせることができるのか―――とても嫌なことだけど、私にあるのは『殺しの才能』みたいです。」
 気付かない振りをして一生を終えるつもりであったが…菊池はその才を御雷に対して発揮しようとしていた。
 これも、仕方ない。若年者にアドバイスしてやるのもベテランの仕事だ。
「菊池、それを使うなら、チェンバーに入っている弾は捨てろ。撃つ前に、バレルもマガジンも水洗いするんだ。減音器にも水を通せ。泥が残っていると怪我をするぞ。」
 ああ、と納得して菊池はボウランドのスライドを引いた。エジェクションポートから弾き出された実弾を空中で器用に受け止める。たしかに泥で汚れている。マガジンが抜かれているために、手動でスライドストップを掛け、ホールドオープンの状態にする。
 菊池はボウランドとそのマガジン、そして減音器を持って台所に行く。シンクの蛇口から勢いよく水を出すと、まずボウランドのエジェクションポートから流し込んでバレル内を洗った。全体をすすぐと、中に入り込んだ泥が流れ出してくる。同様にして弾の入ったままのマガジンを洗う。少々水に浸けたくらいでは弾薬自体が使えなくなることはない。最後に、中が複雑な小部屋に別れている減音器にも水を通した。発射の際に吹き出す火薬の燃焼ガスを、減衰しながら放出することで破裂音のような銃声の音量を抑え、音の角を取る働きがある。大量の泥が出てきた。
「これで、よし。」
 料理の支度をするときと同じ呟きだ。
 確かに、今は俺を料理する時間だ。
 御雷の顔を苦笑の影がよぎる。
 菊池は簡単に水を切っただけの凶器を一式、卓袱台に持ってくる。この場面では、綺麗に拭き上げる必要などないことがわかっているのだ。
 ボウランドの銃身に減音器を取り付け、何回か空撃ちをしてトリガーの感触を確かめる。銃はぶれなかった。
 グリップにマガジンを差し込んで、きちんと固定されているか確認する。右手の人差し指をトリガーガードに沿わせて、左手でスライドを引き―――放した。
 スライドが前進し、初弾がチェンバーに送り込まれる。
 完璧に調整されたカスタムガンの作動音は、美しい。それも、上質の鋼材を用いたものなら尚更だ。御雷は、そんなことを思いながら、菊池を見ている。同時に、彼女の淀みなく流れるような動作に目を奪われている。
 これが、生まれながらの殺し屋という奴か。こいつの才能に比べれば…やはり自分は努力型なのだと実感する。
 菊池はセフティを掛けてから、御雷に言う。
「何か、言い残すことはありませんか。」
 K2の姿が目に浮かんだが、彼女へのメッセージを菊池に託すわけにもいかない。
 だから。
「遺言じゃないが、お前にアドバイスしたいことと、頼みたいことがある。」
「命乞いなら聴きませんよ。」
 そんなんじゃない、と御雷は苦笑いする。
「お前が、こうと決めたらテコでも動かない頑固者なのは知ってるよ。」
 散々手を焼かされたからな、と笑った後で真顔になる。
「俺を殺したら、銃は置いて行け。装備類に付いた指紋を消すのを忘れるなよ。家の中に残っている指紋は放っておいてかまわない。お前がここに来たことがあるのは、他の連中も知っていることだからな。」
 菊池は頷く。
「その格好は目立つ。ちゃんと身体に合った服を着た方がいい。」
「でも…着替えなんて。」
 御雷は顎をしゃくって部屋の隅を指した。
「この前忘れて帰ったお泊まりセットがある。」
 あっ、と菊池は小さな声を上げる。
「靴も捨てた方がいいな。新しいのを履いて帰れ。前に注文していたやつが、ちょうど届いてる。」
 テレビ台の脇に置いてある箱を開けると、確かに二人で品定めをして注文した品だ。
「脱いだものをここに置いておくのはまずい。田中に電話して、車で迎えに来てもらえ。お前がいた痕跡を残すなよ。」
 田中の名前を聞いて、菊池の表情が動く。
「心配するな。俺を殺したからって、あいつはお前を責めたりはしない。あいつだって、『負ければ死ぬ』という世界を経験してるんだ。そもそも、ずっとお前のことを心配していたからな、田中は。」
 できれば、動くのは暗くなってからの方がいい。それまでに風呂に入って泥の匂いをしっかり落とせ。
 淡々と指示を出す御雷に、菊池の唇が震えた。訊かずにおこうと決めていたのに、抑えられなくなる。
「どうして、そんなに冷静なんですか。これから殺されるというのに、あなたは怖がってもいない。かといって私のことを憎んでもいない。どうして、そんなに平気な顔をして、私に話すことができるんですか。どうしてそんなに―――」
 菊池の中には数え切れないほどの「どうして」が溢れている。しかし、彼女はそれ以上続けられなかった。
 深い黒瞳が、ひっそりと菊池を見ていた。何の偽装もしていない、御雷の本当の瞳。黒曜石のような表面に、菊池の姿が映っている。
「それは―――お前が、俺の人生を終わらせてくれる人だからだ。」
 耐えられないほどの疲労と、孤独。
 御雷の声にそれを感じて、菊池は胸を突かれる。
「覚えているか?俺が『どう生きていいのかわからない』と言ったのを。」
 もちろん、覚えている。御雷に正規採用教員にならないかと言ったときのことだ。
「あれは、嘘だ。」
 お前には他にもたくさん嘘をついたけどな、と呟くように言う。
「本当は…どう死ねばいいのかわからなかったんだよ、俺は。」
 御雷の声は静かだ。仄白く光を放つような美貌も表情を変えない。だが、黒い瞳の底に強い光があった。
「いつか、誰かが俺に死を与えてくれるだろうと思いながら、この二十年生きてきた。あの爺―――御雷玄がそうかもしれないとも、思ったんだが。」
 一度だけ、瞬きをした。濡れたような瞳が菊池を見つめ続けている。
「お前、だったんだな…菊池。」
 最後まで世話をかけて、すまないな。
 労いとも感謝とも取れる言葉に、菊池は一瞬目を瞑る。
 御雷の指示は続く。
「俺の身体には痛覚がない。だから一撃で死のうが、時間をかけて殺されようが、俺にとっては大した違いがない。ただ…。」
 御雷の視線が上がる。自らの頭蓋骨の中を見通そうとするように。
「必ず、脳を破壊してくれ。俺の脳は特別製なんだ。中途半端な状態で脳が残っていたら、玄のような形で生き返るかもしれない。そんなのは真っ平だ。生き返るのは一度だけで十分さ。」
 死者は、死んだままでいるのが幸せなのだ。
 御雷はそう言った。
 菊池は黙って聞いている。
「最後に、二つ頼みたいことがある。」
「何ですか。」
「一つは、生徒のことだ。教材は準備をしてあるが、後任に引き継ぐ時間が無い。お前が、これまでの様子を伝えてやってくれないか。今度来る奴も文部省からの派遣だが、殺しはやらない。『壊す』のは、俺の担当だからな。いずれにせよ優秀な奴が来るはずだから力を貸してやってくれ。」
 御雷が大掃除をした後に、後任者が本格的な学校の再建の要として活躍する。それが学校再生専門員の基本的な活動パターンらしい。
「もう一つは、個人的な頼みなんだが…。」
 常にない声の調子に、思わず菊池は頷いてしますう。内容を聞く前に。
 御雷は微笑を浮かべて言った。
「撃つときは、顔を撃ってくれないか。原形をとどめないくらい破壊してくれ。」
 菊池は絶句した。
 別に、御雷の美貌を知ったから彼に惹かれたわけではない。肥満だろうが、冴えない風貌だろうが、彼女には関係なかったのだ。
 それでも、これほどの美しさを誇る顔を、銃弾でズタズタにしてしまうことには躊躇いがある。
「頼む。俺の顔は…人に言わせると、母親にそっくりなんだそうだ。俺は、母親の無様な死に顔を他人に見られたくないんだ。」
 だから、顔を撃ってくれ。御雷は繰り返した。
 菊池は、これが御雷からの初めての頼まれごとだと気付いた。初めてが、最後。
 心を決める。
 菊池は立ち上がった。手には、御雷が全精力を傾けて製作したボウランド。
「約束します。誰かわからないくらい、あなたの顔を壊してあげます。」
 力みなく、両手で構える。両眼を開けたまま、オープンサイトの狙いを定める。
 もう避ける必要はないし、拘束を解いて逃げる力も残されてはいない。
 だから、御雷は思考を加速させたりはしない。ただ、自分を狙う銃口を見ていた。
 嗚呼、と心の中で呟く。
 弾道の予測線が、こんなにも紅く鮮やかに見える。少しのブレもなく、御雷の脳を貫くラインを描いている。
 いい腕だ。撃て、菊池。
「あなたと、したいことがたくさんあったのに。」
 菊池の唇が動いた。
「もっと、色々なことを教えて欲しかった。あなたとアメリカに行って、あなたの通った学校や住んでいた街を見てみたかった。」
 そんな話をしたことも、あったな…。御雷は思った。銃口はぶれていない。
「あなたとアメリカで暮らしてみたい…と本気で思っていました。…私ね、誰かのお嫁さんになって、その人の故郷で暮らすのが夢だったんです。」
 菊池は、微笑んだ。殺気の抜け落ちた、透明な笑顔だ。
 御雷は知っている。人を殺す前に、こういう笑いができる人間がいることを。だから、続けて菊池が発した言葉にも驚かない。
「でも…夢の時間は、もうお終い。これで、お別れです。御雷先生。」
 菊池の右腕の筋が動く。人差し指に力が加わるのがわかった。銃口はぶれていない。
 至近距離から放たれた九ミリパラベラム弾は、あっさりと俺の命を奪うだろう。
 艶やかな黒髪と、鳶色の瞳をした少女の姿が浮かんだ。
 悪いな、K2。お前との約束は、守れないままだった…。
 だが、予想したような死はやって来なかった。
 ぽつり、と菊池の白い額に汗の玉が浮かんだ。見る間に数を増やし、彼女の顔を濡らした。
 菊池は愕然とした。トリガーが、引けない。銃口は少しもぶれていない。殺意も失ってはいない。ただ、トリガーにシアの切れていく感触が伝わった瞬間に、指が動かなくなってしまったのだ。
 菊池の肉体が、御雷を殺すことを拒否しているのだ。深層意識が、と言い換えてもいい。
 殺せない。
 狼狽しながらも、銃口を動かさない。天賦の才のなせる技だ。
 フロントサイトに合っていた目の焦点を、御雷に合わせてみる。
 黒曜石のような瞳が、静かに菊池を見つめていた。彼女の葛藤を、そして苦しみを見通している視線が、言う。
 早く、撃て。撃って終わりにしてくれ。
 菊池は歯を食いしばった。己に従わぬ指に、無理矢理意志を通す。
 動け!
 トリガーに掛かった人差し指に、再びじわりと力が込もる。
 冷や汗にまみれながらトリガーを引く菊池を、御雷は好ましく思った。
 これほどの想いを込めて、自分を殺してくれる人間に出会えるとは。まったく…最後までイレギュラー尽くしだったな…。
 眼は、閉じなかった。魂など信じてはいない。死ねば、己の人格も記憶も失われるのはわかっている。
 それでも。
 全身全霊を込めて自分を殺そうとする菊池の姿を、記憶に焼き付けておきたかった。
 菊池は、自分の苦痛が間もなく終わることを悟った。シアの感触が変わる。
 もう、撃鉄が落ちる―――その時、電話が鳴った。

      14
 御雷の携帯電話だった。騒々しい着信音に、菊池はぎょっとする。
 反射的にトリガーを引いていた。
 抑えた発射音。畳の上に転がる空薬莢の音。天井付近にわだかまる火薬の燃焼ガス。そして。
 御雷の右頬が、ざっくりと裂けていた。弾道が逸れたのだ。頬骨が覗きそうなほどの傷口から、鮮血が溢れた。見る間に裸の白い身体を赤く染めていく。
 それに呼応するかのように、菊池の顔から血の気が引いた。御雷を傷付け血を流させたことが、予想していた以上の衝撃を与えたのである。
 御雷の表情は、変わらない。深い黒瞳は瞬きもせず菊池を見つめ続けている。
 卓袱台の上で、イヤフォンが繋がれたままの携帯電話がけたたましく鳴り続けている。
 菊池は迷った。無視するべきか―――いや、出ないことが逆に相手にサインを出すことに繋がるかもしれない。
 御雷は、「出ろ」とも「出るな」とも、言わない。
 菊池は溜め息をついた。殺意は失っていないが、すぐには気持ちを高められない。御雷が単独でない可能性があるのなら、それを確認するためにも出てみようと決める。
 たとえそれがリスクを冒すことになろうとも。そう覚悟していた。
 しかし。
 通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた瞬間。
 凄まじい金属音が菊池の聴覚に突き刺さった。考える間もなく昏倒する。
 電話に出るリスクは、菊池の覚悟を遥かに超えていたのだった。
 御雷は聴覚を遮断して金属音をやり過ごしている。菊池が倒れる際にボウランドが暴発するのではないかとヒヤリとしたが、誕生から百年近く経った安全機構は優秀そのものだった。
 誰からの電話かはわかっている。そもそも、電話ですらないはずだ。
 携帯電話は勝手にスピーカーモードに切り替わった。内蔵した素子の仕業だ。
『武さん、生きていますか。』
「顔を撃たれたけど、生きてるよ。」
 まあ、とK2は怒りの声を上げる。
『よりによって武さんの顔に傷を付けるなんて。殺しましょう、この女を。』
 御雷は笑うしかない。
「そういう物言いは、お前には似合わないよ。大体、ぎりぎりまで助けようとしなかったのはお前じゃないか。その電話で、お前は『視る』こともできるんだろう?」
 ぐっ、とK2が言葉に詰まる。図星だ。こっそり仕込んだつもりの機能も見抜かれている。
『だって…悔しかったんです。あっさり殺されてやろうとするんですもの。私との約束も忘れて。』
「忘れてないよ。」
 K2の声が尖った。
『いいえ。どうせ、【悪いな、K2】とか、その程度で済ませるつもりだったんでしょう?他の女との約束は守ろうとするのに、私との約束は守ってくれないなんて。』
 最後の方は泣き声だ。本気で悔しがっている、とわかって御雷はいたたまれない気分になる。
「わかった。俺が悪かったよ。謝るから機嫌を直してくれないか。」
『もう、言葉だけじゃ信じられません。』
 ここまで意固地になるのも珍しい。本気で怒っているのだ。彼女は従順なだけの人形ではない。
 K2が感情を露わにしてくれるのは、御雷にとっては嬉しいことだ。が、彼女にそれが伝われば「人が怒っているのに、それを喜ぶなんて」と火に油を注ぐことになりかねない。
 御雷は神妙なポーズを取る。
「じゃあ、どうすれば許してもらえる?」
 間髪入れずK2は答える。
『私のことを、愛してください。』
 御雷は苦笑する。
「とっくに、愛してるよ。」
 そうじゃなくて、とK2は語気を強める。
『ちゃんと、一人前の女性として扱ってください。』
「それは、つまり…。」
 男女の営みのパートナーとして扱ってほしいということだ。
『…あなたが嫌じゃなければ、ですけど。』
 もごもごと歯切れが悪くなる。彼女としても言い出すのには勇気が要ったのだろう。旧来の意味での人類ではない、ということに引け目を感じているのかもしれない。
 御雷は逆に問うた。
「俺なんかでいいのか?」
 K2には質問の意図がよくわからない。
「人を殺すしか能がない上に、女心がわからない。それなのに、女癖が悪い。そんな俺を見て、そう言ってくれるのか?お前は。」
 生まれたときのプログラムによってそう思っているだけなのではないか、と御雷は問いかけているのだ。
『確かに、私の誕生理由が影響していることは否定しませんけど。』
 K2の声に苦笑が混じる。
『悔しいことに、あなたの駄目な部分や弱いところを知れば知るほど、あなたのことが好きになるんです。』
 だから、この感情はプログラムではありません。私の本当の気持ちです。
 きっぱりと言い切る声に、御雷は溜め息をついた。
「お前…駄目男に引っかかりやすいタイプだな。」
『もう、引っかかってますよ。これ以上ないくらいの駄目男に。』
 酷い言われようだ、と御雷は首を竦めた。
「駄目男と、新系統人類のカップルか。個性的で、悪くないね。」
『私は寛容ですから、あと二、三人は女性を加えることを許可します。』
 ただし、正妻は私ですから。そう言うのは忘れない。ともかくK2は機嫌を直してくれたようだ。
 ならば、やらねばならぬことがある。
「なあ、血が止まらないんだけど。それから、頭痛が酷い。吐き気もする。」
『あら、大変。拘束を解けますか。』
「無理だね。身体は完全にガス欠だ。脳のエネルギーも足りてない。」
『古典的ですが、手首の関節を外してはどうでしょう。』 
「それにだって力が要る。もう、指一本動かすのがやっと…。」
 御雷の動きが止まった。
『どうかされました?』
「いや、指なら動かせるのを忘れてた、と思ってな。」
 後ろ手に拘束されたまま、両手の指を順番に動かしてみる。左手の中指が、辛うじてタイラップに触れる。
「生身でやるのは初めてだ。指が壊れなきゃいいけど。」
 K2は御雷の考えを悟る。
『爪を使いましょう。一点に力を集めてください。』
 言われたとおりにした。爪の先を硬いタイラップに当てる。大きい筋肉は無理でも、指一本に振動を起こさせるくらいのエネルギーは残っている。
 切れろ。
 数分の一秒の振動。爪の先が僅かに欠けた。が、タイラップは切れた。切断面は溶けたようになっている。両腕が自由になった。
『上達しましたね。』
「みたいだね。でも、妙だな。練習したわけでもないのに。」
 言いながら卓袱台ににじり寄り、菊池が使っていたペンチで足の縛めも解く。
 菊池の様子を見てみる。頭を強く打ったりしていないだろうか。念のため、回復体位を取ってやる。
『まだ懲りないんですか。』
「何が?」
『あなたを殺そうとした女なのに。』
 片目を瞑って笑おうとしたが、出血が一層激しくなって慌ててやめた。ボウランドだけは取り上げておく。
「お前が言ったんだぞ。俺は駄目な男なんだよ。」
 携帯電話のスピーカーが肺の空気を全て吐き出すような溜め息をついた。
『…その点は、もう諦めることにします。』
「いい子だな、K2は。」
『馬鹿。…そうやって、すぐ子供扱いするんだから。』
 御雷はにやりと笑うと応急処置キットから止血テープを取り出した。鏡で見てみると傷はそれなりに深いが骨までは達していない。洗浄した後、肉同士を摘まみ合わせてテープで留める。染みこませてある薬剤の効果で、いずれ出血は止まるだろう。雑菌の繁殖も防いでくれる。
 キットの中からアルミのパックを引っ張り出す。中に入っている高カロリーの保存食を口に入れた。成人男性が一日に摂取するエネルギーが、瞬く間に胃に送られる。当面は、これでいい。
 菊池は一時間程度は目覚めまい。念のために少量の麻酔薬を注射してやる。
『本来ならあなたも安静にしているべきですが。推測ですが、御雷玄によってあなたは脳震盪を起こしたはずです。』
 御雷は僅かに驚いた表情を浮かべる。玄の攻撃を頭に喰らった覚えはない。
「風呂に入る。説明は風呂場で聞くよ。」
『携帯端末を真水で洗っていただけると助かります。海水の影響で、予想外のところに不具合が出ています。おかげで…危うくあなたを死なせてしまうところでした。』
 それが、救援が遅れた真の理由である。御雷の態度に怒っていたのは事実だが、だからといって彼の危機を見過ごしにするK2ではない。
 ごめんなさい、とK2は言った。深々と頭を下げる気配がある。
「わかってるさ。気にするな。」
 全裸になって、風呂場に入る。湯船に湯を溜めながら、念入りに身体と髪を洗う。なかなか泥の匂いが落ちてくれない。何回も洗い直す。それでも湯船に浸かると湯が汚れた。また、湯船に湯を溜めるところからやり直す。
 ようやく湯船に浸かって、御雷は大きく欠伸をする。頭痛と吐き気は徐々に収まりつつある。
「で、お前の見解を聞かせてもらおうか。俺が脳震盪を起こしたというが、直接的な打撃は受けていないはずだ。」
 携帯端末のシステムチェックをしながらK2は端的に答える。
『脳を揺らされれば、脳震盪は起こります。そして、直接的な打撃でなくとも、それは可能です。』
 御雷は黙って耳を傾けている。
『【揺れ】そのものを伝えてやればいいんです。思い出してください。西本の死に方を。』
 忘れられるものではない。水が詰まった袋が破裂するような死に様だった。
『あなたにも、できるはずですよ。』
 御雷の頭に閃くものがあった。揺れ―――波―――振動か!
 K2は肯定する。
『御雷玄は、あなたの頭に振動を送り込んで内部から破壊するつもりだったんです。それを、あなたは躱した。でも…振動の影響をゼロにはできなかった、ということです。接触せずに脳震盪が起きるほどの振動を送り込む…理屈としては理解できます。そこまでの出力があることには驚かされますが。彼のボディの設計上のポテンシャルを遥かに上回っています。』
「何しろ、載せているのが、御雷玄の脳だからなぁ…。」
『恐るべし御雷一門、ですね。』
「笑えないよ、それ。」 
 湯船から立ち上がっても、もうふらつきはしなかった。エネルギー不足は解消されている。身体のダメージの方は…と自己診断してみる。まだ、闘える状態ではない。
 気絶している菊池の横を素っ裸で通り過ぎ、寝室でパンツを穿き、Tシャツを着た。布一枚が重く感じられるほどに、消耗している。女の前だが、下着姿でいることに決めた。
 昨夜身に付けていた服を、菊池が用意した黒いゴミ袋に詰める。彼女に調べ尽くされて、もうポケットに残っているものなどはなかった。
 装備品も、匂いが残るものは廃棄するしかない。ダマスカスナイフは、使える。鞘も樹脂製だから洗えばいい。ボウランド用のホルスターも大丈夫だ。トリガーガードをロックする機構を組み込むために、エンジニアリング・プラスティックの塊から削り出して製作したものだ。コーデュラナイロンのマグパウチ、ベルト等は捨てざるを得ない。が、代わりを持ってくれば済む話だ。
 銃器も予備があるが…御雷には手に馴染んだ二挺を手放すつもりはない。
 菊池が、呻いた。
 薄らと目を開ける。
「起きたか、菊池。」
「御雷先生…?」
 不意に、状況を理解した。がばっと起き上がろうとして、へたり込む。
「無理をするな。もうしばらく寝てろ。」
 御雷は洗面器を一つ持って来た。普段は洗濯物を漬け置き洗いする際に使用しているものだ。台所で湯を半分ほど入れ、中性洗剤を少量溶かした。
「何を、しているんですか。」
「銃を洗うんだよ。海水に浸かったからな。」
 本当なら一挺ずつ分けて作業すべきなんだが、と言いながら二挺の拳銃を完全分解する。ネジの一本、ピンの一本まで。塩分を完全に除去するためには、せっかく調整したボウランドのフルアジャスタブルリアサイトすらバラさねばならない。一応、再調整に必要なクリック数はメモするが、実際に組み立てて撃ってみなければ何ともいえない。
 洗剤水に入れて、丁寧にブラシで泥と塩気を落とす。洗面器の底に目の細かな泥が溜まった。
 何度も湯を取り替えて、同じ作業を繰り返す。
 気付けば、菊池がすぐ側に座って、作業の様子を見ていた。
 集中して作業に没頭する御雷の横顔に、菊池は「職人のようだ」という感想を持つ。
 洗浄が終わった。温水器から出した湯で洗剤成分を洗い流すと、御雷は部品をいくつかのグループに分けた。バスタオルを広げて、その上に置く。
 ドライヤーを持って来て、熱風で乾燥させる。
「水置換型のオイルを直接吹き付けるやり方もあるけど、ドライヤーを使った方が確実なんだ。」
 誰に聞かせるともなく呟く声に、菊池は応えた。
「はい。」
 部品を、手で触れないほどの高温にしてやると、水分は綺麗になくなった。家庭用のドライヤーでもこの程度には使える。洗浄の時から湯を使っているのは乾燥が早いからだ。
 スプリング類は一まとめにしてスプレー式のオイルを吹く。そこから組み立てに入るが、御雷が使うオイルの量は菊池が驚くほどに少なかった。必要なところに、ごく薄く塗るだけだ。それも特別なオイルではない。菊池でも知っているような平凡な潤滑油だった。
「さすがに、オイル無しというわけにはいかないけどね。オイル漬けじゃないと動かないようじゃ駄目なんだよ。」
 菊池はいつしか説明に聞き入っている。特に、ボウランドの方が、凄い。工作精度の高さ。フィッティングの巧みさ。組み立て作業を見ていると、それがわかる。スライドをフレームにセットするとき、スライドは「ぬるり」と入った。
 ドライバーやピンセット、最低限の治具を使って、瞬く間に二挺の拳銃が組み上がった。
 目を瞑っていても組み立てられる。そんな話はただの誇張だと思っていたが、御雷の作業を見ていると満更嘘でもないような気がしてくる。
 潮に浸かった弾も廃棄する。御雷は隠し物入れから弾箱をいくつか持ってくると、ボウランドとベレッタのマガジンを満たした。
 淀みもなく、力みもない。執念や情念すら、感じられない。淡々と呼吸をするように銃の手入れをする御雷に、見惚れた。
 と、目の前にボウランドを差し出されて菊池は目を剥いた。自分の方に向けられたグリップにはマガジンが納まっていた。
「どうする?」
 そう尋ねる御雷の顔には、特別な表情は浮かんでいなかった。かといって無表情でもない。
 ただ、菊池の気持ちを尋ねている。お前はどうしたいのかと尋ねているだけなのだ。
 菊池は、ふっと笑った。
 この人は、いつもそうだ。強引に物事を進めるようでいて、いつも私の気持ちを気にかけてくれる。今だって、殺されかけたばかりだというのに…。
 御雷の右頬に貼られた幅広のテープに視線が吸い寄せられる。分厚い止血テープに血が滲んでいるのを見た時。菊池の唇は動いていた。
「もう…撃てません。」
 撃てたのは、あの一発だけだ。それを外してしまった時点で、既に結論は出ていたのだ。
 二度と、あんな気持ちになることはできないだろう。
「だから、その拳銃は要りません。」
 銃が怖いとは、もう思わない。銃を使う御雷を怖いとも思わない。一度は彼と同じところに立ったからだ、と理解している。
 御雷はボウランドを引っ込める。
「そうか。気が変わったら、言え。いつでも道具は貸してやる。」
『ちょっと、武さん!またそんなことを言うなんて。』
 いきなりK2の声が茶の間に響いて、菊池はぎょっとする。愛らしい声だが、怒気に満ちていて、独特の迫力があった。
「そう怒るなよ。お前の一撃がなければ、菊池はやり遂げられたんだ。やり直しを求める権利くらいは認めてやってもいいと思うけど。」
 ああ、と菊池は理解する。この声は携帯電話のスピーカーからのものだ。先程彼女の意識を吹き飛ばすような音を聴かせたのは、電話の向こうにいる女なのだ。
 少々のことには動じない御雷が、及び腰になっている。何者だろう、と思った。声の印象通りなら、まだ十代の少女のはずだ。
 菊池の疑問を敏感に感じて、K2は声を改めた。
『先程は、失礼。菊池由美さん、あなたが武さんに害を加えようとする行為は見過ごしにできません。そこで、少々強引に眠ってもらいました。後遺症等は残らないので、ご心配なく。』
 高飛車な物言いと、尊大な声音に、御雷は可笑しくなる。
「その前に、ちゃんと自己紹介しろよ。菊池が困ってる。」
 K2の声が動揺したものになる。菊池をライバル視するあまり、平常心を失っていたことを自覚したらしい。
『え?ああ、ごめんなさい。私は…ええと…。』
 キョウコと名乗りたいんだな、と察する。
「ややこしくなるから、漢字が決まるまでは今まで通りでいいよ。」
 だから、早く決めてくださいって言ったのに…。K2は小さく不満を漏らす。
 改めて、菊池に呼びかける。
『私は、K2と呼ばれています。菊池さん、あなたは御雷武を愛していますね。それこそ、殺してしまいたいほどに。』
 直球での指摘に、菊池は声もなく俯く。どんな顔をしていいのかわからないのだ。
『でも、残念ながら私の方がずっと彼のことを愛しています。何しろ、あなたが生まれる前からの付き合いなんですから。私は彼のためだけに生まれ、彼のためだけに生きる存在なのですから。』
 御雷が意地悪く笑う。
「おい。年齢のことは言わない方がいいんじゃないか。」 
『もう!余計なことは言わないでください。』
 K2の声が悲鳴に近くなる。御雷のことになると、つい我を忘れてしまうのが、今のK2だ。すっかり、女の子になった。
『と、とにかく。私の肉体年齢はずっと変わらないから、歳の話はどうでもいいんです。永遠の十六歳なんですから。それよりも、菊池さん。』
 もの凄い勢いで話すK2に押されて、思わず返事をしてしまう。
「はい?」
『今後、あなたが武さんを殺そうとしても、この私がそうはさせません。必ず止めてみせますからね!』
 言いたいことだけ言ってしまうと、K2は黙り込んだ。が、スピーカーからは荒い鼻息が聞こえている。
 量子通信―――厳密には違うらしいが、スピーカーから聞こえてくるのはK2の肉声ではない。彼女の思考がスピーカーによって音に変換されているのだ。一時的にK2の声帯として機能しているといってもいい。
 呼気を使って声帯を震わせているわけでもないのに、鼻息が聞こえる不思議を、御雷は思った。
 肉体で習慣付いていることは、思考にも反映されるのかもしれない。面白い…が、当面の問題を片付けなければならない。
「何だか、混乱させてしまったみたいだな。」
 菊池は曖昧に頷いた。少女の声なのに、菊池より遥かに長生きで、しかも肉体年齢は少女のままだという。何だ、それは?御雷玄の身体といい、あまりに現実離れしている、と思った。
「全部、話そうか?」
「え?」
「俺という人間がどうやって出来上がったか、初めから話そうか?」
「いいんですか。私は、聞いたことを報告するかもしれませんよ。」
「いいさ。お前が望むなら、話すよ。自分のことを覚えていてくれる人間がいても悪くない。」
 迷う理由はなかった。
「私は、あなたのことをもっと知りたいです。」
「決まりだ。K2、お前が話してやれ。」
『私が、ですか?なんで恋敵に塩を送るような真似を―――。』
「お前が、菊池を混乱させた。」
『む…。』
「それに、お前が話してやれば、菊池に貸しを作ることができるよな。」
『むむ…。』
「大体、細かいことにケチケチしているようじゃ、『正妻』の器とは言えないんじゃないか?」
 これは、効いた。
『ああっもう!わかりました。話せばいいんでしょう。話しますよ。』
「うん、頼むよ。子供の頃から始めてくれ。前に話してやったのを覚えてるだろう?」
『家を出てから稲美中に着任するまでの二十年は省きますよ。私だってそこは知らないんですから。』
 それでいい、と御雷は言った。
『まったくもう…結局、毎回上手い具合に丸め込まれてる気がします。』
 惚れた弱みってやつさ、と不貞不貞しく笑ってみせた。
「じゃあ、菊池。お前は風呂に入れ。中でK2から話を聞けばいい。」
 目を白黒させている菊池にお泊まりセットと携帯電話を押し付けて、風呂場へ追い立てる。
 湯船に湯を溜める音に混じって、K2が話し始める声が聞こえた。それを背に、茶の間に戻る。戸を開け放したままの寝室に入った。
 布団に寝転ぶと、瞼が重くなってくる。意志の力で眠気の縁から這い上がる。
 枕の下に手を差し入れて取り出したものがある。太い油性マジックほどの円筒形の容器だ。中に蛍光イエローの液体が詰まっている。
 カーテン越しに差し込む日の光に、かざしてみた。透明な液体に見えた。
 御雷は知っている。この液体の中に、目には見えないほどの極小の存在が無数に蠢いていることを。
 K2が送りつけてきたこれを。
「どう使うか…そもそも使うべきか否か…それが問題なんだよな。」
 女たちが風呂から上がるまで、少し間がある。

      15
 少しだけ、まどろんでいたことに気付いた。
 菊池とK2の話し声で目を覚ます。随分、会話が弾んでいるようだ。
 意外な思いを抱きながら、御雷は寝室から這い出してくる。
「どうした?いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
 菊池が卓袱台に置いたK2直通の端末から澄ました声が流れる。
『いえ、私の話を聞いて、菊池さんが泣き出してしまったものですから。』
 照れくさそうに目を伏せる菊池の目は泣きはらして腫れぼったくなっている。鼻の頭が、赤い。
 感動でもなければ、同情でもない。
 菊池自身、自分の感情の動きを理解できていないのだが。
 ただ、涙が出た。一度泣き出すと、感情を抑えられなくなった。自分の人生を重ねて泣いた。K2の真摯な想いを知って泣いた。愛する者を残して逝かなければならなかった、恭子を思って泣いた。
 何より、飄然とした貌の下に隠した、御雷の壮絶な人生を思って、泣いた。
『本当に…なだめるのが大変だったんですから。』
 言葉こそ不満たらたらといった感じだが、K2の声は優しい。
「ごめんなさい。何だか、無性に涙が出てしまって。」
「お前は…こんなときでも他人のために泣くんだな。」
 しみじみとした呟きに、K2が鋭く突っ込みを入れる。
『あら、あなただって同じようなものじゃないですか。自分では闘えない人たちの代わりに辛い立場を引き受けて、自分の血を流すんですから。』
 あなたたちには共通点があります、とK2は言ってのける。
「慰めてもらっていると、やっぱりK2さんは年上なんだな、と実感しました。お陰で、少しだけ落ち着けました。」
「よかったじゃないか、K2。妹分ができて。―――菊池、これからのことだけど。」
「はい。おいとましようと思います。もう十分迷惑をかけているし。」
 その方がいい、とK2も同意する。
「お前の電話は壊れてるだろ。俺が田中に連絡してやるから、しばらくはあいつのところにいればいい。念のため、月曜日も有給を取った方がいいな。」
 菊池は正座したまま小首を傾げた。先程までの殺気が嘘のような、可愛らしい仕草だ。
「しばらく、というと?」
 御雷は片膝を立てた。パンツの裾から男根が丸見えになって、菊池を赤面させる。
『武さん。見えてますよ。』
 御雷は下着姿だったことを思い出して姿勢を改める。
「そうだな…明日の夜には片が付くと思う。お前は今夜と明日の晩は田中の家に泊まる。全部終わったのを確認してから自宅に帰ればいい。」
「全部、終わるって…?」
 あの時、菊池には聞こえていなかったのだ。K2が説明してやる。
『武さんは、御雷玄ともう一度闘わなければならないのです。あの時彼は四十八時間後の再戦を望みました。』
 それは菊池も聞いていた。
 だが、人質を取り戻した今となっては。
「逃げればいいじゃないですか。私がいたら足手まといになるだけでしょうけど、御雷先生だけなら、どのようにでも身を隠すことができるんじゃないでしょうか。」
 携帯端末から、小さな溜め息が聞こえた。
『そう単純な話でもないんですよ。爆発音に邪魔されないように、特殊な発声法で送られたメッセージが続きにあったんです。』
 御雷が言葉を引き継いだ。
「玄は、言っていたよ。『四十八時間後に来なければ、菊池先生を殺す』と。」
 湯上がりの身体が一気に冷めるような感覚がある。
「ただし、それまでに俺が死ぬようなことかあれば、約束は効力を失う。」
 御雷は菊池に殺されることはなかった。だからこそ、今度は御雷玄に挑まねばならない。
「それに、俺の仕事はまだ終わっていない。」
 御雷はゆっくりと言った。
「俺はまだ、石川を殺していない。」
 御雷の正体を思い起こして菊地が固まるのがわかった。それで、いい。
 勝っても負けても、これが最後の闘いになる、という思いがあった。
 その前に。
 御雷は卓袱台に蛍光イエローの液体が詰まった円筒を置いた。
『使うんですか、それを。』
 K2の声が、苦い。敢えて陽気に受け流すことにする。
「『死にそうになったら使え』と言ったのは、お前だよ。本当に、俺は死にそうになったんだから。」
『それは、そうですけど…。』
「何だ。俺に嫌われるのが怖いのか?」
 御雷は覚えている。K2は言ったのだ。
 これを使えば、あなたは助かります。でも、私のことは嫌いになる。
『それも、あります。あなたには嫌われたくない。でも、あなたを失うことはそれ以上に耐えられないことです。』
「全部、話せよ。K2。」
 円筒―――針のない注射器を弄ぶ御雷の横顔に、野性的な趣がある。女性的な面差しに奇妙に似合っていた。
「俺の身体のこと。この注射のこと。全部話してくれ。」
 菊池と目が合った。お前も一緒に聞いてくれるか。
 藍色がかった瞳が頷く。
「そもそも…この注射の中身は、ナノマシンなんだろう?お前の分身の。」
『やはり、気付かれていましたか。』
 御雷は苦笑する。
「気付かないわけないだろ。お前が、本当は使って欲しくないと思っているのも、この毒々しい色を見ればわかるしな。」
 微細構造体自体は、最小単位であれば目視することが不可能だ。液体――この場合は害の無いブドウ糖や電解質の類いだろうが――に混入しても無色透明のままだ。K2は敢えて毒々しい警戒色を着けたのである。
『わかりました。全部、お話しします。確かに、あなたの仰るとおり、それを使うタイミングとしては今を除いて他には無い、とは思います。ただし、それを使うと後戻りできなくなりますよ。』
「どういうことだ。」
『以前、お話ししたと思いますが、私はこの二十年間いくつかのテーマで研究をしてきました。その体内注入用ナノマシンは、その過程で生まれたものです。それがテーマ3。これは、テーマ2から派生したものです。覚えていますか?テーマ2を。』
「確か、『脳内の破片を固定する』ことを目指していたな。」
 K2が頷く気配がある。
『テーマ3の成果物も、テーマ2の特性を引き継いでいるんです。』
 つまり。
『この注射は、あなたの脳内の破片をナノマシンで永久的に固定します。その作用は不可逆的―――たとえ私でも解除することは不可能です。一度使ってしまえば、摘出手術は不可能になります。』
 御雷は、一瞬絶句する。数十年間待ち望んだものを、一瞬にして捨て去ることになる注射、か。それでも使うのか、とK2は問いかけているのだ。
「とんでもない選択を迫るんだな、お前は。」
 ごめんなさい、というK2の声に嘘はない。
『完全に、私のエゴから始まった研究です。あなたが私のことを自分のものにしたいと言ってくれたように、私もあなたを自分のものにしたかった。無限の時間を持つ私には、死なないあなたが必要なんです。…でも、ただの身勝手ですよね。』
 この世界で唯一人、特異な存在として生き続けていくK2の孤独と不安を思った。御雷はごく自然に返す。
「いや…身勝手でいいんじゃないか?」
『怒らないんですか。』
「身勝手なことなら、俺もたくさんやってるからね。まあ、俺はお前をいっぱい怒らせてるけど。」
『だけど…。』
「それが『人間』ってものだよ、K2。」
 自分の想いを、どうにもできないことが、あるのだ。
 そう言う御雷の横顔を、菊池は眩しく感じる。K2の来歴も詳しく聞かされていた。数十年かけて「人間」になった人工知性体。道具でもなく、嗜好品でもなく。ましてや美術品でもなく。御雷や恭子、それにK2に関わった人々が、彼女を人間として扱い愛情を注ぐことで、真に人間として成長することができたのだ。
 身体の素材の違いに、どれほどの意味があるというのか。愛し、愛されることを知っている今のK2は、まぎれもなく人間だ。
 菊池は何の迷いもなくそう思っている。だからこそ、彼女の苦悩や恐れも理解できるような気がした。
 K2が呼吸を整える。頭脳直結の量子通信なのに、そこは普通の電話と変わらない。呼吸の変化すらコミュニケーションツールとして意図的に利用しているのかもしれない、と御雷は思い付く。
『始めにご報告と、お詫びをしなければなりません。…武さん、あなたの体内には、相当量のナノマシンが今も残っています。』
「それは…二十年前の手術で使ったものかい?まだ排出されてなかったのか。」
『ええ。当初の予定では、表皮の生着後、全身が安定する頃には活性を失って尿と一緒に体外に排出されるはずでした。実際、あなたがご自宅で過ごされている間の検査では順調に排出が進んでいるのを確認できていました。』
「それが、どうして。」
『私の無意識領域が、願ってしまったから。』
 御雷が日本に発った日―――正確には日本に発つと決めたときのことである。
『運動能力…闘う力は十分以上に取り戻しましたが、あなたの身体は以前に比べれば不完全です。排熱不全で、生命の危険すらあります。何とか、昔のように動き続けることができる身体に戻してあげたい、と強く願ってしまったのです。…その結果、大部分のナノマシンが体内に残留することになってしまいました。』
 特定器官や組織に永久的に分化・固定していなければ、K2からの指令は物理的に接触していなくても伝わってしまう。御雷の皮下組織になっていたものたちも、あくまで「仮」のものとして働いている。だからこそ、K2すら予測しなかった変化が始まってしまったのだ。
「それで、俺の身体の中で何が起こっている?ナノマシン群は何をやっているんだ。」
『彼らは、あなたの身体の抱える問題を解消しようとしました。二十年をかけて、少しずつ皮下の排熱器官を構築したのです。』
 御雷にはピンと来ない。K2が言い換えてやる。
『汗腺ですよ。失われた真皮構造を再現しながら、そこに汗腺を再構築したのです。』
 ああ、と御雷は得心する。時に感じる皮膚の違和感。肌の色の変化。
 そういうことか。
 顔の変化は、どうなのか。
『最適化の一環です…と言いたいところですが、多分私があなたの元の顔が好きだったから、無意識にそれを願ったのだと思います。』
「それ、お前にとっての『最適化』だろ。」
 K2が顔を赤らめる気配があった。そこで、思い当たる。気配は、ある種のフィードバックなのだ。
「俺の状態がお前に伝わっていたのも、お前の気配を身近に感じるのも、体内のナノマシンが情報を伝えていたからなんだな?」
『そうです。身に付けるセンサー類だけでは、そこまで細かく知ることはできませんから。田中さんとの試合で、あなたが追い詰められたことも把握していました。』
「御雷玄が人工体に換装していることも、お前は気付いていたな。」
『ええ。気付いていたというよりも、その可能性があるとは考えていました。』
「根拠は?」
『一つには、年齢的に生身ではあり得ないこと。二つ目は、彼に遭遇した際の、ナノマシンたちのざわめきです。』
「ナノマシンの、ざわめき?」
『初めて御雷玄を見た夜のことを覚えていますか。』
 忘れるものか。河津組を見張った帰りだった。コインパーキングに停めたスープラの車内から一瞬姿を捉え―――ぞっとしたものだ。
『距離は離れていましたが、ナノマシンは自分たちと極めて近い存在に激しく反応していたのです。』
 完全に同種というわけではない。ボディを構成する要素としては天と地ほどの差がある。無論、K2が天の方だ。しかし、「考える筋肉」を構成する「考える微細構造体」としての基本は共通している。それ故の、ある種の共鳴現象だ。
「大したもんだ。音響解析をしろと言ったが、実際は直接接触で確認したんだな?」
『はい。御雷玄本人の脳には感知できないレベルでボディに確認信号を送ってみました。』
「それで、筋肉だけじゃなく、骨格も含めた全身がナノマシンの集合体になっていると判ったんだな。」
『ええ。とても…不快な体験でした。』
 嫌悪、といってもいい感情がK2の声を満たしている。
「何を感じた?」
 答える代わりに、言った。
『御雷玄の身体は、極めて危険なボディです。あれは―――自分の主である生体脳を食うのです。』
 御雷が驚きを露わにするのは珍しい。K2の言いたいことは、大まかながら菊池にも理解される。風呂場での話だけでそこまで到達している。理解力こそが菊池の武器だ。
「あいつが脳震盪を起こさない理由ってのは…。もしかして、視力もか。」
『恐らく。身体を構成するナノマシンが、生体脳を侵食しているからだと思われます。でなければ、損傷した脳の機能が補完されたことが説明できません。』
 K2によれば、御雷玄の場合、生体脳と脊髄の一部を納めた容器まで、微細構造体で構成されているという。かつて御雷の発案で医療用に開発し、現在も販売されている人工筋肉を見てもわかるように、微細構造体と生体の親和性は高い。埋め込まれた人工筋肉は、数年で周囲の組織に取り込まれてしまう。
 これが、逆であったなら。圧倒的に微細構造体が多い条件下に生体組織を置いたなら。
 K2は二十年前に御雷の身体を修復した際の留意点を語った。
 微細構造体は個々で「思考する」ことができるが、高度な思考をこなしアクチュエーターとして外界に干渉するためには、より高度で緻密なシステムを形成する必要がある。だから、彼らは常に求めている。
 強力な支配力と統率力を発揮してくれる「中枢」を。
 K2の場合は、身体と脳は同素材だ。形状や機能の設定が違うだけである。運動機能をロックして、「考えること」に特化した器官を形成し、脳として頭蓋内に納めている。誕生から数十年が経過し、統率が進んだ現在では、必要とあらば全身を「思考装置」に転用することもできるようになっている。そういう意味では脳と身体に齟齬はない。
 生身である御雷を手術する際に、K2は大量のナノマシンを彼の肉体の補完に使用した。事前に機能設定をした上で投入したわけだが、当時の彼女はまだナノマシンの統制を取ることに習熟していなかった。だからこそ、彼女は危惧したのだ。
 体内に導入されたナノマシンが、御雷の脳を喰い尽くしてしまうことを。
 もし、彼が意識を取り戻したとして。彼の脳が肉体に対して有する強力な支配力に、ナノマシンたちが気付いてしまったら。彼らはその支配下に納まろうとする余り、脳に殺到し、繋がり、やがて脳自体を別のものに変えてしまうほどに浸食し尽くすだろう。「脳が食われる」とは、そういうことだ。
 だから、K2は手術が完了し、体内のナノマシンが定着するまで決して御雷を目覚めさせなかった。自由に動き回れるナノマシンについては事前に体内から追い出している。
 K2が製作する人工体にも、その危険性は残っている。そのため、脳を収納するケース周りだけは微細構造体が使われていないのだ。自分の弱点に関することだからか詳しくは語ろうとしないが、微細構造体の浸食を止める方法なり素材なりがあるらしい。だからこそ、現在のマシューは人工体での日常生活を満喫できているというわけだ。
『初めこそ、脳機能の補完や修復、身体感覚の統合性の向上など利点が現れますが…。』
「やがては脳が浸食されて御雷玄という人格そのものが失われる…か。」
『はい。私から言わせていただけるなら、【悪魔のボディ】です。』
 御雷は深く息を吐いた。
「悪魔というなら、それを作った奴だな。玄の脳を弄ったのも恐らく同じ人間だろう。脳に放射性物質を埋め込む実験だけで、あいつは遠くない将来死ぬ。そっちの調べは?」
『確度が低い情報ですが、研究者が一人死んでいます。残されている実績データから見ても、被験者の死亡率の高さから見ても、ほぼ間違いないかと。』
「悪魔は死んでも遺産は残る…か。それとも、俺に会うためにそいつを殺して施設を出たのかな。」
 K2はぶるっと身を震わせた。彼女が感じたのは、御雷玄の全身を構成する微細構造体の、意志。全てが統一されていたのだ。「御雷武を、殺す」―――脳を浸食し、直結しているからこそ実現する高度に統率された、意志。
 酷く不快で―――彼女自身の原初的な暗い欲求を思い出させる。御雷の脳が、欲しい。K2はそう思ったことがある。まだ「人間」になる前のことではあるが、それだけにK2は自分の本能を恐れてもいる。しかし。
 今の彼女は御雷を守ることを己の本能としているのだ。だから、言葉を紡ぎ続ける。
『御雷玄の脳は、極めて高い支配力を発揮します。それは脳に施された実験によっても強化されているはずです。このことから、今後の展開として正反対の二つのケースが予想されます。』
 御雷は無言で続きを促す。
『まず、脳の力が増大するのに合わせて、ボディの浸食力が増大するケースです。脳と身体がより強力に結びつこうとするために、想定よりも早く人格消失に至るでしょう。』
「それでも、残り時間―――明日の夜までに死んではくれないだろうね。」
 K2は苦笑する。今のは御雷の本音だ。
『さすがに、そこまで早くはないでしょうね。もう一つは、脳と身体の結びつきは強まりながらも、その支配力で浸食を抑制するケースです。』
 御雷は愛らしい唇をへの字に曲げてひっくり返った。両腕を枕にして天井を見上げる。
「どっちみち、人工体と半ば融合したような奴と闘うわけか。」
 たとえ汗腺が回復したとしても…活動可能時間が少々伸びたところで、勝てる気がしない。御雷は虚ろに笑った。
『ねえ、武さん。気付いていました?』
「何に?」
 大儀そうに応える。K2は大切な秘密を打ち明ける。
『あなたの身体機能に―――正確には脳の処理能力に制限が掛かっていることに、です。』
「何だ、そりゃ。」
『最近、体調不良があると仰ってましたよね。』
「うん。何だか身体が重いし、頭がぼうっとして考えがまとまらないことが増えた。」
『体内のナノマシンが、あなたの脳の処理能力を使ってるんですよ。』
 うーん…と少しだけ考え直して、言い換える。
『正しく言うと、ナノマシンがやろうとしていることを察知した脳が、どう動くべきか指示を出してるんです。』
「俺の、脳が?自覚はないけど。」
『だから、あなたの無意識領域の仕業ですよ。前回の大規模な最適化で大半は意識領域に取り込まれましたけど、まだ少なからず残っているんです。』
 なるぼとねえ、と御雷は唸った。
「ナノマシンがやろうとしていることと、脳のニーズが合致したということかい?」
『そういうことです。排熱の問題…活動可能時間の短さは生存率に直結する課題です。脳が何とかしたいと考えるのは当然のことです。』
「でも、変じゃないか。最近になって、急に不調が増えてる。脳のリソースを食われてたのなら、もっと早く症状が出ても不思議じゃない。」
 K2の声が硬くなる。決断を求める響きに、御雷は身体を起こした。
『ようやく、汗腺の再構築が完了したんですよ。物理構造の構築には時間が掛かります。リソースの利用も、単位時間当たりに直せば比較的少なくて済んでいました。だけど。』
 菊池の反応も伺っているようだ。大丈夫。ちゃんとついてきてる。
『今は、排熱―――発汗のためのシステム…神経回路の構築に取り組んでいるんです。真皮が失われたために、神経的な接続は完全新規になります。また、あくまでナノマシンが構築したものなので、脳の側にも制御用のシステムを創らなければなりません。これらは短時間に、膨大なリソースを使って行われます。ですが…。』
「そうか、負荷が大きくなって脳の処理能力が追いつかないわけか。道理でぼんやりすると思ったよ。…正直に答えろ。今のままだと、最終段階をクリヤできる見込みはないんだろう?」
 御雷はどこまでも冷静に分析する。そういう、自己に対して冷徹なところが、K2の目には堪らなく魅力的に映る。
『はい。いくら武さんでも、個人の生体脳が処理できる限界を超えています。外部から介入して演算負荷を分担しなければ、作業が完了することは決してありません。』
 御雷は深い溜め息をついた。片目を瞑って注射器を光にかざす。
「今のままじゃ御雷玄には歯が立たない。…結局、こいつを使うしかないわけか。」
 しかし、使えば歳を取って人生を終えることは諦めねばならない。当たり前の死は望めなくなる。
「なあ、K2。」
『はい。』
「これを打ったら、どうなる?」
『数種類の機能設定を行ったナノマシンが体内に放たれます。脳関門を通過できるサイズのものは脳内で破片を固定するとともに、量子通信に必要な端子を形成します。』
「なるほど。お前の頭脳と直接繋がって、演算力を借りるわけだ。」
『そういうことです。排熱システム構築分の負荷を肩代わりします。システムの完成・起動後は、知覚や分析のサポートに回ることもできますけど。』
「身体の動きには介入しないのかい。」
『できないように設計しています。もしやったなら、あなたに叱られるのはわかっていますから。それに、今でも私の頭脳よりあなたの脳の方が支配力自体は強いんです。純粋に脳の力同士で綱引きをしたら私は勝てませんから。』
「脳以外の部分では?」
『排熱器官の仕上げをするために肉体改変用ナノマシンを四万単位。負傷に対処するために組織修復用のナノマシンを六万単位。それから…』
 K2は何種類かに分類されたナノマシンの名と、その数を述べる。僅かな液体の中に、恐ろしいほどの微細なロボットが充填されているわけだ。
「最後に一つ、訊いていいか?」
『何でも、どうぞ。全てお答えします。』
「お前のナノマシンも、俺の肉体を浸食するんだろう?」
 黙って聞いていた菊池が、大きく身体を震わせて青い顔を上げた。ナノマシンに浸食された人間が最後にどうなるか。それは御雷玄の話からも明らかだ。
 K2は躊躇しなかった。
『はい。その通りです。』
 やっぱりね、と御雷は笑った。
『驚かないんですか。』
「恭子が発見したナノマシンってのは、そういうものだからね。今更驚かないさ。」
『でも、そんなものを使わせようとした私を、嫌いになったでしょう?身体にナノマシンが残っていることも内緒にしていたし。』
「お前だって、そのことを知ったのは割と最近じゃないのか?」
 逆に質問された。
『はい…眠るようになってからです。知ったのは。夢に、あなたのことが出てきて…それが妙に現実的で生々しくて。』
 疑問を持って精査した。それで、わかったことだ。
 K2は、己の行為に絶望していた。御雷を、彼自身が望まぬ方向へ追い立てている。それでも、嫌われようと、拒絶されようと、御雷が生きていてくれさえすれば構わない。そう覚悟を決めていた。
 しかし。御雷の回答は少女のような微笑だった。
「だったら、自分を責めたって仕方ないじゃないか。むしろ、ありのままを話してくれて感謝してる。それに、浸食といっても俺を食い散らかして存在を消してしまうようなものではないんだろう?」
 そこは、慎重に調整してある。今度は絶対に失敗が許されないのだから。
『はい。少しずつ…本当に、ごく僅かずつ、あなたの身体を造り替えていくようになっています。』
「俺は、お前のようになるのかな。」
 K2は少しだけ笑った。
『まさか。炭素基系の人類が完全に私のような存在になることはできません。現在の身体に、私の長所だけを取り入れた形―――いうなればハイブリッド型になるはずです。』
 それがどんなものなのか、御雷にはまだ想像することができない。
「完全に肉体の改変が終わるまでに、どれぐらい時間がかかる?」
『ざっと、百年といったところでしょうか。その頃には、私や武さんのような、【生身の人間】は少数派になっているかもしれませんね。』
 先日、彼らの会社も参加する企業連合=人体補完・改変委員会で、「インフラとしての全身義体化技術」の開発・普及が提唱されたばかりだ。百年後には、人類が生身の肉体を持っているのは幼少期だけになるかもしれない。
「まあ、百年もあれば十分か。せいぜい今の人生を楽しむさ。その先の時間は…K2、お前にやるよ。」
 御雷は注射器を首筋に当てた。その躊躇いもない動きに。
『少しは迷わないんですか!』
「御雷先生、ちょっと待って!」
 御雷はにやりと笑った。親指でボタンを探る。生体認証でロックが外れた。
「悪いな。俺は迷わないし、待たない。」
 ボタンを押した。普通の注射器と違って、針を使わずに皮膚を通して薬液を押し込む仕掛けだ。痛みはない。
 ただ、冷たい液体だ、と思った。目を閉じる。
「百年先の世界か…生きるに値する世界ならいいんだがな。」
 やがて、視界の中で光が明滅するのが見え始めた。

      16
 女たちは盛大に非難の声を上げた。
「この人は!本当に人の意見を聞いてくれないんだから。」
『そういうところは、何十年経っても変わりませんね。いつだって、私はハラハラしてるのに!』
 菊池とK2は、ひとしきり御雷をなじった。
 御雷は胡座をかいたまま、静かに目を閉じている。
 かつて、彼の妻は夫を奈良中宮寺の半跏思惟像に例えた。目を閉じていると瞳の強い光が隠れて、一層少女のような印象が強くなる。紅い唇には、ごく微かな笑み。
 美しい仏像のように固まっている今の彼には、どんな声も届かない。
 よくわかっているK2でさえ、黙ってはいられない。
 菊池などは動転の余り、よくわからないことを口走った挙げ句、肩で息をしている。
『もう、諦めましょう。この人は、こういう人なんです。』
「わかってるけど…全部自分で背負おうとするのは、見ていて辛いんです。」
 菊池はまた涙ぐんでいた。自分はこんなに涙もろかっただろうかと疑問に思うくらい、今日はよく泣く日だ。
 そして、改めて気が付いた。
 自分が、御雷に生き続けて欲しいと願っていることを。
 だから、腹を立てたのだ。彼があまりにもあっさりと自分に殺されようとしたことに。
 今も、彼女は腹を立てている。御雷が人間の身体を捨てる決断をしたからではない。そんなことは菊池にとっては些細なことだ。身体の材質など大した問題ではない。K2の存在をあっさりと「人間」として受け入れる辺り、彼女の感覚もかなりユニークではある。
 菊池が怒っているのは、御雷がそうまでして自分を守ろうとしていることに対して、だった。ナノマシンを身体に取り入れても、すぐに死なない肉体を手に入れられるわけではない。仮に制限が全て取り払われ、持てる力の全てを発揮できるようになったとしても、既に人ならぬ身になって久しい玄に勝てるとは限らないのだ。
 自分のことなど見捨てて、何故逃げないのか。何故、もっと己の命を大切にしないのか。
 菊池は、そのことに心底腹を立てていた。
 風呂上がりで化粧もしていない顔は、実年齢よりもずっと幼く見える。小柄な身体をジャージに包み、文字通りプリプリと怒っている姿は、高校生というよりも中学生に近い。まるで、部活動の合宿所にでも来たような気分になる、と御雷なら言うだろう。
 不意にK2が「ありがとう」と言った。菊池は面食らう。
「どうしたんですか、急に。」
『あなたが武さんのために怒ってくれているのを見ていたら、お礼を言いたくなってしまって…。』
「本当に、愛しているんですね。御雷先生を。」
『ええ。私にとっては武さんが世界の全てだから。彼のためなら、他の何を犠牲にしても構わないと思えるくらい。でも…。』
「でも?」
『彼と直接繋がった状態になることは、私にとっては喜ばしいことのはずなのに、何だか苦しいんです。』
「御雷先生に無理を強いたんじゃないかと思っているんですね。」
 無言は肯定だ。
 菊池は笑った。険のない、いつもの菊池だった。
「そんなことはないと思います。私が知っている御雷先生は嘘つきだけど、同時にとても正直な人です。もし嫌だったら、どんなことがあっても注射はしなかったでしょう。」
 K2に話しかけながら、菊池は自分の思考を整理している。
 そうか。
 「石川を殺す」…それは必ず成し遂げるつもりだろうが、もはや最優先事項ではない。
 菊地を見殺しにするのが御雷にとっては嫌だったのだ。死ぬことよりも、だ。自分が自分であるために、菊池由美という女を守る。
「御雷先生は、そういう人です。」
 その横顔が確信に満ちている。
 携帯電話の「眼」の精度は低い。だが、K2はそんな菊池を美しいと思った。美しいばかりではなく、深い。御雷が惹かれるのも当然だ。そして、自分の発言に訂正が必要であることを認識する。
『菊池さん。あなたは、どうなんですか?』
 曖昧な質問だが、意図は十分に伝わった。
「御雷先生のことは、好きです。一人の男性として。」
 一度は殺そうとしておきながらこんなことを言うのも変ですが、と哀しげに笑う。
『私は、武さんが私の全てだと言いました。でも、私が言う御雷武の中には、あなたのことも入っているんですよ。』
「え。」
『私にとっての御雷武は、ただの一個人のことではないんです。彼が大切に思っているもの、彼が愛している人もまた、御雷武を構成する要素なんです。だから』
 菊池は強い視線を感じる。嫌な感じはしなかった。
『私は、あなたのことも守りたいと思っています。』
「私が、御雷先生に愛されている…と?」
『ええ、間違いなく。』
「嘘。私は彼の命を奪おうとしたのに。」
『関係ありません。彼にとっては些細なことです。わかっているくせに、じれったい人ですね。』
 たしかに、菊池にはわかっていた。ただ、罪の意識が思考をそちらに向けないように阻んでいただけだ。
 菊池は小さく溜め息をついて微笑んだ。
「そうね…だって、それが。」
『御雷武という男ですから』
 同時に同じ結論に辿り着いて、二人の女は屈託なく笑った。
『とはいえ、あなた方二人には、つけなければならないけじめというものがあるはずです。』
 K2の指摘に、菊池の表情が締まる。そこを超えねば先へは進めぬ壁のようなものがある。超えるのは、命がけになるはずだ。
『そこで、あなたにお願いしたいことがあるんです。』

 御雷が意識を取り戻したのは、それから一時間もしてからだった。
「ん…菊池は?もう帰ったのか。」
『ええ。私が田中さんに電話して迎えに来てもらいました。ちゃんとあなたの声も再現しましたから。』
「それなら、菊池の身はひとまず安全だな。手間を取らせたね。」
『菊池さんは、勘付きましたよ。』
「何にだよ?」
 K2の声が面白がっている。
『あなたと田中さんの間にあったことです。』
 菊池を迎えに来た田中であったが、対面の瞬間、一瞬ではあるが菊地から目を逸らしてしまったのだという。
『ああいう些細なことから、隠し事というのは露呈するものなんです。』
「別に、隠すようなことでもないけどな。」
『だからって堂々とやらないでくださいね。私だって、あなたを引っぱたきたくなるかもしれませんから。』
 羆の一撃のごとく、御雷の顔の半分は消失するであろう。御雷は瞬きを何度かして、想像を打ち消した。
「ところで、菊池には『もう来るな』って言ってくれたかい。」
『ええ。きちんと伝えました。もう御雷武が稲美中学校に出勤することはない。菊池由美とも、彼女がこの家を出た瞬間から関係は切れる。もし、それでも追いすがるなら、学校再生専門員として、御雷武は菊池由美を殺すことになるだろう…。こんなところでよろしかったでしょうか。』
「うん、それでいい。もう菊地とは関わりを持たない。しばらくすれば、俺のことなんて忘れるさ。俺と関わったこと自体が、彼女の人生にとっては間違いだったんだよ。」
『泣いてましたよ、彼女。』
 悪いな、菊地。これ以上、お前を巻き込むことはできない。今日は泣いたとしても、生きてさえいれば明日は来る。
 そのために御雷は全身全霊を傾けて御雷玄と対峙する。
 準備が、必要だ。
『量子通信端子の形成を確認。接続可のパルスを受信しました。脳内のナノマシンは上手く定着したようです。破片の固定も完了しています。では、今から私の頭脳と直接リンクします。』
「ちょっと待て。」
『何でしょう。』
「繋がっている間は、俺の脳の中にお前の意識が同居しているような感じになるのかな。」
『感覚としては、多分。何分、心ある知的生命体の脳にリンクするのは私も初めてなので。私も緊張しています。』
「俺に繋いだら、自分の身体に戻れなくなるとか、そんなことにはならないか?」
 K2は笑って否定する。
『あくまで、感覚の拡張の一環として、あなたと知覚情報や記憶の一部を共有できるようになるだけです。私の意識そのものは、自分のボディから離れたりはしませんよ。幽体離脱みたいな話とは違います。』
 御雷の口元が歪む。笑ったのだ。
「お前から幽体離脱なんて言葉を聞くとは思わなかった。」
『魂もないのに、おかしいですか?』
「いや。魂なんて、俺にも無いさ。…やってくれ。」
『では、繋ぎます。』
 特に劇的な変化もなかった。
 御雷は拍子抜けした思いできょろきょろと辺りを見回してみる。そういえば、ナノマシンを注入したときも、意識が落ちただけで他には何も起こらなかった。
「何だか、またK2にからかわれたような気がしてきた…。」
 思わず呟いたとき、出し抜けに頭の中で声がした。
『私は、大真面目です。』
 驚きはしなかった。声がする前に彼女の気配を感じていたから。
「へえ。はっきり聞こえてるのに邪魔にならないね。」
『実際には声じゃありませんからね。―――携帯電話の方を切ってみましょうか。』
「直接繋がれるなら機器は要らない、か。便利なもんだ。」
 卓袱台の携帯電話が沈黙する。もう、役目を終えたのだ。
『どうですか?』
 御雷は気付く。
「たしかに、声というより、お前の想いが浮かんでくるような感覚だな。気配に話しかけられてるような気分だよ。」
『気配、ですか?』
 御雷は頷く。声に出さずに語りかけてみた。
 俺の中にお前の気配があるんだ。いや、外にもあるな。大事なものを抱き締めているようで、同時に抱き締められているような。一体感とも違う、不思議な感覚だよ。
『そう。声に出す必要はありません。思えば伝わる、というのが今の状態です。あなたの感じている気配は、私自身も感じています。あなたが私の中とすぐ側に同時に存在しているような…奇妙だけどとても温かな感覚です。』
「でも、やっぱり声に出した方がやりやすいな。…これって、基本的に思考もタダ漏れなのか?」
『ダダ漏れとは人聞きの悪い。【思考の共有】と言ってください。思考も情報の一種ですから。』
「じゃあ、お前に隠し事をしたいときは、接続を切らなくてはな。どうやって切ればいい?」
 K2が意地悪く笑うのを感じた。
『あなたの側では切れませんよ。接続と切断は、私の権限です。これで、こそこそ悪さをすることはできなくなりましたね、武さん。』
 御雷は薄く笑った。
「じゃあ、お前に切ってもらえばいいわけだ。この状態では、イメージしたことも伝わるのか?」
 何気ない調子で尋ねてみた。
『ええ、伝わります。ただし、鮮明に思い描いていただく必要はありますけど。記憶の共有が一部に限定されるのは、私が直接記憶を覗くことができないからなんです。そこは、極めて個人的な領域なので、本人が思い浮かべたことだけを見られるようにしています。』
 ふーん、と相槌を打ちながら、御雷は記憶のページを捲る。K2には気取られないように。今後のことを思えば、実験しておくべきことがある。
「じゃあ、今から接続を切る練習をやってみる。」
『だから、その権限はあなたではなく私にありますから。何をしても―――。』
 無駄なことです。
 そう言いかけて、K2の声が固まった。同時にアメリカにいる本体も動きを止めている。
 御雷は思い浮かべていた。かつて見た、K2の裸体を。
 両目を開けていながら、周囲の視覚情報が遮断されている。それほどの集中力で、彼女の白い身体を思い浮かべた。滑らかな肌を、慎ましい膨らみをみせる乳房を、細い腰を。形の良い臍を、可愛らしい乳首を、柔らかく盛り上がった恥丘を。御雷はありありと思い浮かべた。
 声は聞こえなかったが、K2が狼狽える気配があった。
 彼女の温もりや柔らかな重み、香しい息や甘い体臭を思い出している内に、触ってみたくなった。イメージの中のK2に触れてみる。
『ちょっと、何をするんですか』
 御雷は、無視した。K2の髪を撫で、頬に触れた。イメージの中のK2は切なそうに顔を上げる。血色の良い唇が、御雷の唇を求めていた。
『よくも、そんな、勝手なイメージを…!』
 二人の唇が重なるリアルな感触が伝わってきて、K2は沈黙する。御雷に抗議しようとする気持ちは、溶けた。
 長い口付けが終わる頃には、御雷の中のK2の気配が大きく揺らいでいる。
「そういえば、まだよく見せてもらったことがなかったな。」
 御雷は、K2のすんなりと伸びた脚を開かせようとする。
『そこは、まだ、駄目。』
 慌ててK2が量子リンクを切断しようとする。
 御雷は歯を剥き出して笑った。このときを、待っていた。
 リンクを切断して逃げようとするK2の手をイメージすると、強く掴んだ。
『そんな…切断できない…!』
 呆然とする彼女の中に、御雷の声が響く。
 さあ、続きをしようか、K2。
 K2は自分の敗北を自覚した。判断すれば行動は早い。
『ごめんなさい。もう、許して。』
「何だよ。これからがいいところなのに。俺が求めればいつでも応える心の準備はできてるって言ったじゃないか。」
 御雷にとっても、実験は二の次になっている。
 K2は抗議した。声だけで、本体が酷く赤面していることが想像できる。
『いくら私でも、いきなり脳を犯されそうになるなんて想定していません。』
 憮然とした声とともに接続が断たれた。
 御雷は、細い糸のようなものがK2と自分を繋いでいるのを発見する。不可視の糸は、現実に物体として存在するものではない。宗教者であれば「縁」と呼ぶであろうものが、御雷には見えているのだ。なるほど、これが量子リンクのガイドラインというわけか。
 御雷はイメージ力を駆使して糸をたぐり寄せ―――K2の本体に触れた。
『量子リンク回復。…驚きました。』
「要は、イメージする力の問題だね。御雷の連中は、これができないと話にならない。」
『参りました。これからは、いつでも好きなときに繋いだり切ったりしていただいて結構です。ただ…。』
「ただ?」
『脳内で私にいたずらするぐらいなら、ちゃんと現実世界でしてくださいね。』
「会うまで待てない、という気持ちは伝わらなかったか?」
『もう…意地悪なんだから。』
 そうは言いながらも、満更でもない様子である。
『目先の欲に負けていると御雷玄に殺されてしまいますよ。』
「おっと、そうだった。」
 この人は、きっと本気で忘れていたに違いない。本当に、駄目な人だ。
 苦笑いを隠してK2は告げる。
『演算負荷をこちらに回します…あら?』
「どうした。」
『すみません。ちょっと脚がもつれてしまって。ボディの操作と並行処理するのは無理みたいです。横になります。』
 少し間があった。自室のベッドに移動しているのだろう。
『お待たせしました。もう一度、やってみます。』
 途端に、K2は呻き声を上げた。
『これは…こんなに負荷が大きいとは…予想以上です。あなたは、こんな状態で御雷玄と闘ったのですか。』
「そうだよ。いつもそんなだから、それが当たり前だと思っていたんだけど。」
『私が言うのも何ですけど、化け物じみた脳の力ですねえ。』
 御雷は片目を瞑って笑う。
「自分の夫の力を思い知ったかい?」
 先程の、淫靡なイメージ力も含めてのことである。K2が再び赤面する気配があった。
『これ以上無いくらい、身に染みてわかりました。では、処理に専念するために、一旦ボディを停止させます。』
「寝ている間に悪戯されないようにしておけよ。」
『鍵も掛けたし、ボディはマネキンみたいに固めておきましたから大丈夫です。』
 御雷は頭に掛かっていた霧が晴れるのを感じた。否、晴れて初めて霧の存在を自覚したという方が正しい。霧の正体はわかっている。脳に掛かっていた負荷だ。それが除かれていく。
 思考が軽くなる。視覚の鮮明度が上がり、色彩が鮮やかになる。身体が、軽い。ボディイメージの精度が上がるのも感じている。全ての感覚に、瑞々しさが戻ってくる。
『これは、当座の凌ぎです。この方が、眠っていても楽なはずです。少しお休みいただいている間に、排熱システムの構築を進めます。』
「俺が何もせずに身体を休めていた方が、お前も作業を進めやすいんだな?」
『そういうことです。お腹が空いて眠れないということがないように、食事も用意していただきました。』
 台所に、山盛りにした握り飯が置いてある。乾かないように丁寧にラップを掛けてある。
「菊地に作らせたのか。」
『二升ほど。味噌汁もありますよ。』
「『今度会うようなことがあれば殺す』と言いながら、飯を作らせるとはなぁ。」
 一つ手にとって頬張った。ただの塩結びだが、強めに塩を利かせてある。
「冷めていても、やっぱり美味いな…。」
 味噌汁にも同じ感想を漏らす。
『そんなに気に入っているのなら、アメリカに連れて帰ったらいかがですか。』
 御雷の表情が硬くなる。
「それは、駄目だ。菊地とはもう会えないよ。全部話した以上、このまま会わずに立ち去るしかないんだ。それなら、学校再生専門員のルールにも反しない。」
『在任中に専門員に関する情報が漏れそうになった場合には、本人の責任に於いて必ずそれを阻止せねばならない…というやつですか。この場合、菊地さんを殺さなくてはならなくなりますね。このまま会わなければ、秘密が漏れたかどうかも有耶無耶にはできますが。』
「後は、『学校再生専門員の職務を妨害するものは、これを排除せねばならない』というのにも引っかかるね。」
『思い切り邪魔をしましたからね、彼女は。いつもの武さんなら、必ず反撃しているところです。』
「そもそも、あそこまでボロボロになるような状況に陥る前に見切りを付けてるよ。」
『要するに、菊地さんのことが好きなんですね。』
 答える代わりに言った。
「菊地は文部省の監視役だった。俺も今はまだ文部省に飼われているからな。一度だけなら見逃してやれる。だけど、また俺の前に現れるなら、ツケも含めて払ってもらわなければならなくなる。」
 声が苦い。
 御雷は新しい握り飯を手に取った。

      17
 夜、であった。
 生ぬるい海風を受けながら、御雷玄は堤防に腰掛けてチョコレートを囓っている。
「こんなものは、食事とはいえんよなあ。」
 呟きに、返事があった。
「食えばいいじゃないか、玄さん。食えるんだろ、その身体でも。」
 堤防の下から沢田が見上げていた。いつもの白いスーツではない。冴えない紺色のジャージの上下に、サンダル履きだ。車椅子に乗っていた。押しているのは石川だ。
 玄はふん、と鼻を鳴らす。
「必要もないのに飯を食うというのが、何とも無駄に贅沢な気がしてな。儂が食わずとも、食わねば死ぬ奴らに回してやればよかろうよ。」
 食うや食わずの生活を長く続けたからかもしれない。いや、元々苦境に身を置いて己を鍛えることに慣れきってしまっているのだ。
 建の言葉を思い出す。
 強くなることだけを求めて―――ただひたすらに人を殺す能力だけを求めて血を継いでいけば、俺達の子孫はやがて人ですらなくなるだろう。
 己の身を振り返る。
「今や、人の姿をした鬼、か。」
 後悔は無かった。その証拠に、こんなにも愉しい。たとえ、期限付きの楽しさだとしても、だ。
 いや、逆だ。と思い付く。
 期限があるからこそ愉しいのだ。自分の命にはっきりとした終わりが見えたとき、玄は己の血の力を証明するために御雷武を追う決意をしたのだ。この呪われた身体は、遠くない将来、彼自身の存在を喰い尽くすだろう。その前に、確かめたい。
「御雷先生は来ると思うかい?」
 再び沢田が呼びかけた。
「来るさ。必ず来るよ、あいつは。」
 定刻まで、まだ間があった。
 ひょいっと、二メートル程の高さを飛び降りて、車椅子のすぐ脇に着地する。音はしなかった。
「痛むかい?組長。」
 沢田は顔をしかめてみせた。腹に当たった跳弾は、随分威力を殺されていたために、腹筋の途中で止まっていた。出血こそ多めだったものの命に別状はない。ただ痛いだけだ。
「お前さんも物好きだねえ。事務所で休んでりゃいいものを。」
「嫌だね。俺はあそこの空気が好きじゃないんだ。」
 幹部連中の浮き足だった表情を思い出すと反吐が出そうになる。大勢の組員を殺害され、取引を潰されるという大失態に、対処できる奴がいない。
 組の面子のために菊地なり御雷なりを殺せという声が上がったなら、沢田は止めるつもりだった。不利な条件を承知で単身乗り込み、見事に菊地を奪い返した御雷の手腕が恐ろしい。それは当然だが、無謀とも思える戦闘をやり遂げた男に対する素直な称賛の気持ちがあることも、沢田は否定しない。
 沢田の意に反して、報復論は一切出てこなかった。常日頃部下を顎で使うことに慣れきってしまった幹部たちに、もはや自らの血を流して戦う気概は残っていなかったのだ。異口同音に、シンガポールにいる会長の指示を仰ぐよう沢田に懇願するだけだ。
 糞どもめ。
 玄が石川を連れて行くというので、ついでに車椅子を押す役をやらせたというわけだ。
「同情するよ、組長。同じダニでも、もう少しマシなダニかと思ったんだがね。」
「ヤクザ嫌いのあんたに同情されるようになったらお終いだね。俺も、そろそろ足の洗い時かもな。」
 それも、いいかもしれん。玄は言った。
「お前さんはまだ若いからな。真っ当にやり直す道も無くはないだろうよ。」
「よしてくれよ、玄さん。今更何をやれっていうんだい?」
 玄は白髯をしごきながら笑った。
「例えば、あの障害者福祉施設。近隣でも、なかなか評判がいい。経営的にも健全らしいじゃないか。」
「汚い金は一円も使ってないからね。あそこだけは汚れた手で触らせたくないんだよ。」
 沢田が実質的なオーナーであることも職員には伏せられている。いくら廃業したとしても元ヤクザが名乗りを上げるのは憚られるというものだ。
 ふむ、と玄は短く唸った。
「お前さん、やはりヤクザには向いていないよ。」
「かもな。廃業するかどうかは、今夜のことが済んでから考えるさ。」
「儂と武の勝負の結果を会長に報告するわけだな。」
「あんたが負けたら、会長は御雷先生を消そうとするだろうね。何とか菊地先生には害が及ばないように頼んでみるさ。」
 玄がサングラスの位置を中指で整えた。驚いているのだ。
「女ってのは、大事に扱うもんさ。綺麗な女は、特にな。」     
 沢田は玄の口調を真似て言った。
「俺も、まったく同じ考えなんだよ。」
 呵々、と玄は笑った。
「奇遇だな、組長。だったら糞餓鬼の使い道もわかるよなあ。」
「ああ。御雷先生を来させるための保険、だろ。」
 石川、と玄に呼ばれて少年はびくりと身体を震わせる。彼は、この老人の正体を知ってしまったのだ。あの日の夜、命からがら逃げ帰った組事務所で。
 御雷によって切り落とされた右腕を接合する手伝いをやらされた。手伝いといっても、ただ「腕を持っていろ」と言われて、指示された位置に保持しただけだ。石川は見た。玄の身体の切断面から、銀灰色のナメクジのようなものが舌のように伸びるのを。それに呼応するように、切断された腕の断面からも同じようなものが伸びていく。濃厚な口付けでもするときのように、銀灰色の舌同士が絡まり合い、同化した。
 ぴくり。
 冷たく重かった腕に意志が通るのを感じて、石川は思わず手を放す。だが、腕は落ちなかった。銀灰色の人工筋肉がゆっくりと縮みながら切断面をずれのないように合わせる。見る間に接合線が消え、表皮が修復されるのを声もなく見つめた。
 時間にして、わずか数十秒。切っても撃っても死なぬ身体とは、こういうことか。だからこそ、あの爆発の中、沢田と石川を抱えて脱出することができたわけだ。
 石川、と沢田も呼んだ。
「なぜ、ここにお前を連れてきたかわかるか。」
「…わかりません。」
 玄は溜め息をつく。これだけ馬鹿だと西本にとっても便利な手駒だったことだろう。
「御雷先生は、お前をまだ殺していない。」
 石川の顔に妙な汗が噴き出した。ようやく、理解したのだ。
「だから、菊地先生のことがなくても晃は必ず来るのさ。お前を殺しにな。」
 それに。
 玄は言葉にはしなかった。自分と御雷の間でわかっていればいいことだ。
 お前は、負けたままで我慢できるような男ではないよなあ、晃。
      *
 街道から左折で脇道それて、御雷はヤマハを停車させた。エンジンを切る。ちょうど、麻川を越えた辺りである。民家の明かりがまばらに並んでいる。その向こうに広大な闇が広がっていた。
 ちょうど四十八時間前、そこで原因不明の爆発事故があったのだ。漁協が所有していた倉庫五棟が全壊した。奇跡的に周囲への被害はなかった。住宅との間に適度な距離があったことも理由の一つだが、爆風が全て河や海へ向かって吹き抜けるように巧妙にコントロールされていたことが、最大の要因であった。可燃物の貯蔵はなく、警察ではテロの可能性も含めて捜査をしているが、そもそもテロの対象にする意味も無い建物であることから調べは難航している。同日、今原漁協の組合長が運転する車が警察署の敷地内で自爆する事件があり、背後関係も含めて捜査を進めていく予定である…。
 報道されている内容をざっと整理してみた。多数の死体があったことは報道されていない。
 川を流れる水音を聞きながら、御雷はヘルメットを脱いだ。この川底を、菊地を抱えて逃げたのだ。ずっと向こうに大量の水があるのを感じた。低い波の音がする。海だ。
 御雷は闇に目を凝らした。
『暗視調整。マーカーをプロット。』
 K2の声を聞き流す。視野が明るくなるが、脳の負荷はさほど大きくはない。海までの距離、現在の潮位、風向きや湿度、気温などが視覚に割り込んでくるが気にしない。
 家屋の影、草むら、路肩に停めてある自動車。死角になりそうなところに一斉に小さな黄色い三角形のマーカーが置かれ、ほぼ同時に緑に色を変えて消えていく。K2が御雷に注意を促すのと、彼が危険性を判定するのに、殆ど時間差が無いのだ。
 目視はもちろん、匂い、音、可聴域外の震動まで、感覚を総動員しているからこそできることである。
 知覚に関しては、無理なく限界領域の向こう側に立ち続けることができている。
 K2の演算補助があればこそだ。視覚に割り込んで、様々な情報を提示してくれているが、その殆どは御雷にとって必要のないものである。角度を変えながら彼の視線を追い続けているレティクルも同様だ。見ているものまでの距離や、対象の材質などを目まぐるしく表示し続けている。
 周辺を一通りスキャンしたが、今回は待ち伏せがないというのは本当のようだった。
 赤い逆三角形のマーカーが三つ、対象の名前とともに表示されている。個人まで識別しているわけだが、御雷は表示を見ているわけではない。K2が警告したときにはもう気付いているからだ。
「満足したかい?」
『はい。あなたの視覚情報を処理するコツは掴みました。誤差を修正して表示を消します。キャリブレーションモードから通常モードに移行。』
 そういうことである。
 K2にとって、他人の感覚器を通して世界を視るのは初めての経験だ。規格が決まっている機械部品と違って、人体には個人差がある。当然K2が普段行っている処理を御雷に当て嵌めても上手くは行かない。視覚に表示されていたのは、K2用の微調整画面であった。
 御雷の視覚が普段通りに戻る。家を出るまでに、聴覚や味覚――他の基本的な感覚も全て調整した。御雷当人は「闘うのに必要な機能だけでいい」と思うのだが、K2が「知覚系のバランスが悪いのは致命的だ」と譲らなかったのだ。確かに、全身の感覚を総動員せねば玄には敵わない、と納得している。
 両手に提げたナイロン袋には、五百ミリリットル入りのスポーツドリンクが入っている。時々立ち止まって、物陰に転がしておく。
 汗腺が機能するようになれば、必要になるはずだ。
 汗腺を機能させるためのシステムは―――残念ながら間に合わなかった。殆ど二十四時間近く、御雷は食って寝るだけの生活をした。身体と頭脳を休めておくことでシステムの構築を行っているK2の負担を小さくできる。安静にしておくことで生まれる御雷の脳の余剰処理能力を、K2が補助的に使うのである。
 それでも、間に合わなかった。システムの構築自体は完了したものの、起動前のシステムチェックが終わらなかったのだ。生体内に構築された器官である以上、ミスは許されない。それ故に、システムチェック抜きに起動することはできないようになっている。たとえK2本人の命令であっても、このルールを変えることはできない。彼女は、それを「ナノマシンの本能」だと言った。
 ある時は脳を浸食し、別の場面では絶対的な安全性の確認を要求する。一見矛盾するナノマシンの振る舞いは、実は一貫した本能によるものなのだという。それは「宿主(しゅくしゅ)の生命を守ること」だ。浸食すらも、脆い人間の身体を補強しようとするあまりの過剰反応に過ぎないのである。
 今も、K2は懸命にシステムチェックを続けている。もう、戦場に着いた。不完全ながら知覚系のフォローも始めている。ほぼ限界に近いところで頑張ってくれているはずだ。
 余計な表示を消した視野に、帯グラフだけが浮かんでいる。初めは全部赤で表示されていた。今は殆ど青く変わっている。赤は右端に僅かに残っているだけである。
 システムチェックの進行状況を示しているのだ。数値にして、残り数パーセント。
「あと、どれくらいかかりそうだ?」
 歩きながら確認する。
『それほど長くはかかりません。何とかそれまで保たせてください。』
 あの御雷玄を相手に、無傷で済ませろ、か。なかなか厳しい注文だ。
 伝わった。
『ごめんなさい。私がもう少し手際よくやれれば…。』
「責めてるんじゃないよ。お前の手際がよくないというのなら、この世に手際のいい奴なんていなくなる。」
 ふと思い出す。
「お前が生まれ変わったときは、システムチェックに一週間かかったんだったか…。全部を二十四時間そこそこでやれって言う方が無理な話なんだよ。だから、気にするな。」
 住宅の列が、切れる。
 御雷は広大な闇の中に足を踏み入れた。

      18
「定刻だ。…来たな、晃。」
 沢田と石川はぎょっとする。
 玄の視線の先に、白い美貌があった。
 いつの間に。
 御雷は天を見上げた。
「上の方は風が強い。雲が切れる。」
「見えるのか?」
 玄の口元に愉しげな笑みが浮かぶ。
「多少、ね。前よりは見えるようになった。」
 その言葉を裏付けるように、分厚い雲が動く。光が差した。
「月が大きいな…こんなに綺麗だったんだ。」
 御雷は空を見上げたまま言った。
「菊地先生との別れは済ませたのか?」
 玄の言葉に、御雷は小首を傾げた。蒼い光に照らされた、その姿の愛らしさ。
 沢田は一瞬、目の前にいるのが男であることを忘れそうになる。自分を保っていられるのは、御雷武が玄に匹敵するほどの化け物だと知っているからだ。
「何だい、藪から棒に。でも…たしかに月みたいな女だよ、菊地は。」
 目立たないくせに確かにそこにいて、気付いてみればとてつもなく美しい。誰もが寝静まった真夜中でも月が世界を照らすのをやめぬように。菊地も人知れず努力するのをやめようとしない。月の光は静かだが決して揺るがぬように、菊地の視線もどこまでも真っ直ぐだ。菊地は、本当に―――…御雷は考えるのをやめた。
「それじゃあ、やろうか。」
「うむ。」
 二人が向かっているのは倉庫の跡地だ。爆撃でも受けたように、穴だらけになっている。御雷は、爆発が予定通りに起きたことを確認して満足する。
「爆発事故の跡地なら、誰も近寄らない。上手いことを考えたもんだね。」
「お前のパートナーが上手くやってくれたお陰さ。殆どの死体を消し炭にしてくれたからな。」
 爆風で粉々になって、大量殺人の痕跡が殆ど残らなかったのだ。爆風による破壊ではなく、狭い範囲内に熱を集中させて焼き尽くすタイプの兵器である。破壊範囲の限定という難問を、K2は複数のロボットによる指向性爆弾の連携によって鮮やかに解決してみせた。
 消防や警察による調査は、拍子抜けするくらいにあっさりしたものだったようだ。何しろ、太い鉄骨すら解けて千切れ、わずかな残骸しか残されていないのだ。コンクリートなどは、細かな破片になってしまっている。
 要するに、調べるべき部分がごっそり失われているわけだ。
「それでわかった。てっきりまだ立ち入り禁止の看板の横に見張りの警官が立っていると思っていたんだ。」
 おかげで、警察を気にせずに闘える。沢田も石川も、銃は持っていない。
 御雷は構えた。
「随分と、軽装だな。」
「戦争をするわけじゃないんだ。あんたを相手にするなら身軽な方がいい。」
 玄の指摘通り、御雷の出で立ちはごく当たり前の普段着であった。細身の黒いジーンズ。白いTシャツの上に、薄手のパーカーを羽織っている。ダマスカスナイフ二本と、拳銃は持ってきている。靴だけは特製ブーツの予備を出してきた。
 数十年前のあの日。アメリカのコーヒーショップで東洋人の祖父と孫娘を見かけた者なら、すぐに思い出したであろう。
 御雷玄と御雷武の姿は、あの日の建と晃を彷彿とさせるものであった。ただし、孫娘の方はすっかり大人になったが、祖父の姿はあの日のままだ。
 玄がサングラスを外して沢田に放った。
「預かってくれ。これでも特製なんだ。」
 それが特定波長の電磁波を遮断するフィルターであることは、見た瞬間に御雷の脳に伝えられる。
 玄が、構えた。もう、虹彩が放つ光を隠そうともしない。人工体であることを明かした以上、力の出し惜しみをする気は無いのだった。
『レーザースキャンを受けています。出力が上がれば灼かれます。アクティブソナーも使っています。』
 どうあっても、俺の動きを捉えるつもりか。
 レーザー発振器で灼くような野暮な真似はしないだろう。そこまでの電力を人工筋肉で賄えば、確実に動作に悪影響が出るからだ。
 とはいえ、人間はどう気が変わるか分かったものではない。
『レーザーリフレクターは持って来ていませんが…いざとなればナイフの表面に反射層を形成します。弾いてください。』
 御雷は軽く溜め息を吐いた。銃弾を弾くのとはわけが違う。
 玄が動いた。
 薙ぎ払うような蹴りを、身を低くして避けた。御雷は殆ど地を這うような姿勢から、玄の軸足を蹴り払った。
 軽い身体は簡単に宙に舞う。その顔面を真下から蹴り上げた。鼻が潰れる感触があって、玄の身体が高度を増した。
 落下してくるところを、さらに顔面を蹴った。これは、ガードされる。
 玄は片手で落下の加速度を殺し、器用に地面に立った。
 鼻血を流しながら、玄は笑っていた。あの赤い液体も、本物の血液ではない。
「どうやら、宿題はちゃんとやってきたようだなあ、晃。鼻が折れてしまったよ。」
「どうせすぐに治るだろ、そんな怪我は。首も腕も、もう何ともないみたいだ。」
「まあね。闘うには便利な身体だよ。」
 曲がった鼻筋を右手で捻って修正する。指で拭うと鼻血はもう止まっている。
 と、玄が御雷の右の頬に貼られた止血テープに目を留めた。滲んだ血が、黒く固まっている。
「怪我をしたのか、晃。」
 紅い唇に笑みが灯った。苦笑ではない。御雷は愉快そうに笑っていた。
「撃たれたんだよ、菊地に。危うく殺されかけた。」
 ほう、と玄は眼を細める。
「なかなかとんでもない女だったな、菊地先生も。」
「ああ。まったく…面白い女だよ。」
 御雷の姿が霞んだ、と見えるや玄の懐に飛び込んでいた。迎え撃つ拳を真横から自分の拳で打って軌道を変える。慎重に危険な拳自体を避けて、手首を打った。
 打撃の動きを回転に変え、玄の懐に入りざまに凄まじい威力の肘打ちを胸骨に叩き込む。
 玄には、技を放つ瞬間だけ御雷の動きが加速して見えた。コマ飛ばしで撮影したように、瞬間的に異様な速さを発揮するのだ。
 間違ってはいない。御雷は、かつてK2と闘ったときと同様に、極短い時間だけ限界領域を突破することを繰り返しているのだ。無論、体温の異常上昇を少しでも遅らせるためである。
 知覚に関しては、K2のサポートがあれば常に限界を超えた領域に留まり続けることは難しくない。だが、彼女の処理能力を以てしても、筋肉の発熱量自体を減らすことはできないのだ。
 だから。
 御雷は優れた知覚を総動員して回避し、細切れに力を発揮して攻めることで時間を稼いでいる。それでも、攻防に手を抜いているわけではない。そんなことをすれば、簡単に死ぬ。
 御雷の肘打ちは、玄の胸骨を砕けない。その代わり、胸骨に打ち込まれた衝撃が胸郭内で激しく反響した。
 一瞬、人工の心臓が動きを止める。
 僅かに玄の動きが鈍ったのを、御雷は見逃さない。
 肘の関節を壊す一本背負いから、空中に投げ出して、顔面へ蹴り。全力を叩き込んだ。
 沢田の部下を屠ったときの、およそ二十倍近い衝撃が人工の身体を襲う。
 生身なら首が千切れ、少なくとも上半身の骨が巻き添えを食らって砕けるところだ。伝播した衝撃が全身に皮下出血を起こさせるほどの、蹴り。
 御雷は知っている。
 それを平気で受け流すのが、人工体というものだ。
 ひょっこりと、何事もなかったように立ち上がってくる。
「今のは、なかなかいい攻撃だった。が、残念ながら儂の脳はもう血流を必要としないんだよ。」
「やっぱり…動きが鈍ったのも見せかけか。」
 御雷は腰の後ろでナイフの柄を握っている。
 玄は自分の首に手刀を当てる仕草をして笑った。
「お前、儂の首をはねたらどうなるか考えているんだろう?」
 図星だ。
「そのナイフなら切れる。試してみろ。」
『誘いかもしれません…って、止めても聞きませんよね。』
 無論だ。
『では、四肢の先端に触れないように気を付けてください。振動波を集中させられるのはそこだけです。』
 有難い情報だ―――が、K2はかつて全身を高速振動させるという芸当をやってみせたのではなかったか。
『私はK2ですよ。姉様の最高傑作を、何処の馬の骨かもわからない人間が作ったまがい物と一緒にしないでください。』
 つんとした声に、思わず苦笑する。
「お前にあうと、さすがの御雷玄もボロカスだな。…まあ、やってみるさ。」
 ナイフを構えた。視野に浮かぶ帯グラフを確認する。
 システムチェックが終わるまで、あとどれくらいだ?
『あと三分。絶対に掴まらないで!』
 K2の声に押されるように、出た。スピードに特化して、限界を超える。
 速度に関してなら、人工体には負けない。
 最短距離で突いてくる抜き手を躱しながら、後ろ回し蹴りを見舞う。躱される。軸足が地面を離れて第二撃の蹴り足になる。空中で回転しながらの、回し蹴りの二連撃。田中に対して放ったものより数倍は、速い。
 玄は、見切った。幼少の頃から身体に叩き込んだ技だ。熟知している。笑う余裕があった。
「で、そのまま『逆』に繋げるんだろう?」
 彼の言葉通り、着地するや否や御雷の身体が再び舞い上がる。逆回転での二連撃。
 玄は初撃を躱す。一度目と何も変わらない。
 御雷は空中で身体を捻った。振動音――残響を、刃に。
 蹴りを避けるために仰け反らせた首に、ダマスカスナイフが深々と突き刺さった。
 蹴る代わりに、ナイフを放ったのだ。刃の軌跡は玄には見えなかった。御雷は自分の身体で巧妙に隠しながら投げている。
 御雷は音も無く着地する。二本目のナイフを抜く。体温が急激に上昇し始めている。
「やるなあ。さすがに高周波ブレードはよく切れる。」
 玄はナイフの柄に手を掛けて抜こうとして―――固まった。抜けないのだ。高周波ブレードなら、たとえ傷口は広がってもあっさりと抜けるはずであった。切れ味が鋭い刃物は、容易く抜ける。常識だ。なのに。
 御雷が放った刃は首の筋肉に食い込んだままぴくりとも動かない。無理に抜こうとすれば筋肉ごと骨格から剥がれそうな程に筋繊維に捕らえられている。
 何より、これは高周波ブレードなどではない。何の仕掛けもない、鍛鉄のナイフだ。
 玄は混乱する。
 御雷が迫るのが見えた。首が上手く曲げられないためによく見えないが、同じナイフを握っている。
 御雷が跳ぶ。パーカーの裾が、不吉な鳥の翼のように広がるのが見えた。玄は反射的に頭上で両腕を交差させて受けようとした。
 御雷はダマスカスナイフに振動を通す。瞬時に凄絶な刃と化し、玄の両腕をあっさりと切断する。何の抵抗もなかった。のみならず、彼の額から臍の辺りまで一息に切り下ろした。爆ぜるように身体の前面が開き、内部が晒される。
 沢田は人体解剖図を思い出す。それほどに精巧に、人工体は造られている。ただし、力強く脈打つ心臓も、曲がりくねった消化管も全て銀灰色で統一されている。頭蓋内に、人間には無い器官があった。つるりとした丸い容器。やはり銀灰色の素材で造られている。
 脳容器を確認すると、御雷は背後から玄の肩に飛び乗った。
『損傷により一時的にボディが停止しています。再起動する前に、首を。』
 玄は両肩に御雷の体重が掛かるのを感じていた。確かに重い。この体重でこれほどの動きを見せるのか…とある種の感慨に耽る。再起動まであと十秒。
 御雷が首に刺さったままのナイフに手を掛ける。途端に刃が切れ味を取り戻すのを感じた。
 何だ、これは。
 再び混乱する玄の首を半分ばかり切り裂きながらナイフを抜く。震動停止。
『前腕の筋肉が限界です。これ以上は腕が壊れます。すこし休ませないと。』
 振動は起こせなくても、力なら出せる。
 御雷は全身の筋肉を限界領域の向こう側に押し込んだ。
 みりっ。
 人工筋肉が裂ける音に、K2が息を呑む気配がある。
 ばきり。
 頑丈な頸骨が割れた。
 渾身の力を込めて、御雷は玄の首を引き抜いた。ぶちぶちと人工の皮膚が千切れ、腱が弾ける。
 御雷は首を放り出すと、ダットサイトを載せたボウランドの抜き撃ちを浴びせた。断ち割った額の傷口から三発。脳を納めた容器に打ち込む。減音器を着けない銃声は、眼前に落雷があったかのように聴覚を痛めつける。感覚を遮断する余裕は無い。マズルフラッシュで一瞬目が眩む。
 残弾を全て胴体側の重要器官に撃ち込んでから、蹴り倒した。
 ホールドオープンしたボウランドにスペアマガジンを挿し、初弾をチェンバーに送り込む。
 御雷にできたのはそこまでだった。肩で息をしながらへたり込む。そのまま大の字になって激しく喘いだ。白い肌に不吉な紅い刻印が浮き出している。視野の隅で体温を警告するマーカーが点滅している。
「五分は動けるはずなんだがな…。」
『自覚している以上に、これまでより動けるようになったからです。運動量が増えた分、排熱限界までの時間が短くなったわけですが、問題なのは…。』
「御雷玄がまだ死んでいないってことだ。」
 御雷は跳ね起きた。
 先程まで頭があった場所の地面が溝状にえぐられる。土煙と風圧の衝撃は後からやって来た。
 玄が、蹴りを放った直後の姿勢を保ったまま、立っていた。危うく頭を蹴り潰されるところだったのだ。
 異様な姿だった。正中線に沿って身体の前面は大きく切り裂かれ、内臓が剥き出しになっている。両腕の肘から先は失われていた。何より、首が無い。
 それでも、御雷玄は生きているのだった。
 両肘の切断面から銀灰色の触手が伸びて腕を拾い上げる。組織が接合され皮膚が修復される音は、暗闇で蚕が桑の葉を食む音によく似ていた。胸骨が修復されると、下ろしたファスナーを閉じるように体幹の傷口が塞がっていく。
『大した再生力です。これも御雷玄の脳の力なのでしょうか。』
 御雷にはK2の疑問に答えてやる余裕は無い。
 首の無い玄の身体が猛攻を開始したからだ。
 突きが、蹴りが、鋭い。この前闘ったときよりも、遥かに速い。
 何とか躱し、受け流せているのは、それが御雷の技だからだ。考えなくても体は動く。
 そのように肉体を造ってきたのだ。
 攻勢に転ずることはできない。ひたすら守勢に甘んじながら、肉体の回復を図る。体温はさらに上昇している。
 K2が知覚をフォローしてくれていることもあって、最小限の動きで見切ることができている。痣ができ、切り傷が増えていくが、致命傷にはならない。
 それでも、何発かに一発は、大きく避ける必要があった。
 触れれば死ぬ―――震動を込めた突きや蹴りだ。ぎりぎりの距離で躱したのではダメージを負うことは学習済みだ。
 その様子を玄は第三者的に見ている。首だけの状態で、地面に転がって。そして、確信した。
「どうだい、晃。首が無いと、結構スピードが上がるものだろう?」
 身体が、首を拾いに行く。
『量子リンクであそこまでボディを操れるなんて…少し驚きました。』
 K2の呟きは聞き流す。
「軽くなるのはいいが、バランスの調整が大変そうだ。」
 その通り、と言いながら、玄は肩の上に頸を載せた。すぐに繋がる。首を曲げるとごきりと骨が鳴った。
「さて。お前の技はしっかりと見せてもらった。実に芸術的だよ、お前の技は。ただ一つ、気になることがある。」
「それは?」
「お前の存在が、御雷そのものを超えてしまったのではないかということさ。」
 言ったときにはもう動いている。御雷は迎え撃とうとしたが脚が動かない。
 玄の手刀が一閃した。反射的にボウランドを抜いて受けた。
 目の前で激しく火花が散った。御雷は目を閉じて後方に跳び下がる。ボウランドはスライドの前半分が消失していた。断面が赤熱している。
『震動ブレードです。銃は捨てて!』
 言われずとも、そうする。
 加速した知覚が、玄が迫るのを捉えていた。両手を広げている。その手に警告マーカーが重なる。
 ああ、あの両手から俺の頭に震動を打ち込もうというのか。
 当たれば、間違いなく死ぬだろうな。
 脚は、よく動かない。体温はとっくに限度を超えている。
 でも。
 K2から送られてくる情報が、前腕部の筋肉が回復したことを教えてくれている。
 もうすぐシステムチェックが終わるはずだ。
 短時間でいい。限界を超えた力が欲しい。
 御雷は、脳のスイッチを強引に入れた。心拍数と血圧が一気に上昇して、疲れ切った筋肉に活力を注ぎ込む。皮膚の紅い刻印が色を濃くする。
『それは駄目!死んでしまいます!』
 御雷の唇に、酷く野性味のある笑みが浮かんでいた。
 何もしなければ、どのみち殺されてしまうだろう?
「逆位相の波が、欲しい。」
 声に出してK2に命じた。
 前腕がぶるっと震えた。
 玄は両手で挟み込むように御雷の頭を打った。その顔が驚きに歪む。
 御雷は顔の前で両腕を交差させ、両の手の平を外側に向けていた。それで玄の手を止めたのである。
 止められたこと自体は、玄にとっては大した驚きではない。人工体のスピードに付いて来られることは十分に驚異的なのだが、それを可能にする脳の鍛え方があることも知っているからだ。真に彼が驚いたのは、致命的な破壊力を秘めた彼の掌を、御雷が「止め続けている」ことだった。
 生身の生物であれば、体液が沸騰して死ぬ。その震動を、御雷が逆位相の震動―――玄とは正反対の波形の震動で打ち消していることを知ったときの、驚き。
「こんなことが…生身の身体でできるのか。」
「あんたに一発もらったから、身体が覚えたんだよ。」
 御雷は不敵に笑った。事実である。玄によって振動波のダメージを与えられたことで、脳が己の能力の生かし方を学んだのだ。菊地の拘束を切ることができたのも、既に無意識下で脳がシミュレーションを開始していたからだ。
 そうはいっても、逆位相の波も人体への破壊力は変わらない。御雷の身体が壊れないのは、玄の放つ震動を利用して自分への影響を相殺―――ゼロにしているからに他ならない。でなければ、こんなに長時間震動を保つことは不可能だ。御雷にしても、普段は相手に接触する一瞬しか筋肉を震動させることはないのだ。
「ナイフも、そうか。刃に仕掛けがあるのではなく、使い手が震動源だったというわけだ。儂もすっかり騙された。」
 ぐっと、押す。御雷が押し返す。
「こっちは騙したつもりはないんだけどね。」
 時間切れが、近い。筋肉の震動が止まれば、玄の目論見通り御雷の身体は頭部から破壊されるだろう。
 カウントダウン―――K2は間に合わなかったか。
 筋肉の震動が止まったのは、二人同時だった。
『人工筋肉の稼動限界です。御雷玄の振動兵器はもう使えません。』
 玄は舌打ちした。前腕部が過熱している。熱が問題なのは御雷だけではないのだ。
 しかし。
 玄は御雷の手を握った。女のように柔らかくて綺麗な手だ、と思った。
「認めてやるよ、晃。この儂も、まさか生身でそんな真似ができる奴がいるとは思わなかった。お前は、歴代の誰よりも、強い。もし御雷の血統に拘っていたなら、お前のような人間は生まれなかっただろうさ。お前は…もう御雷を超えているよ。」
 御雷建は正しかった、と玄は呟いた。
 だが。
「最後に勝つのは、この儂さ。悪いが、この身体で押し潰させてもらうぞ。」
 震動を発生させる必要がなくなった今、玄は人工体の膂力を制限なく発揮することができる。
 ほんの少し力を込めただけで、御雷は片膝を突かねばならなかった。苦痛はないが、全身が軋む感覚に顔が歪む。
「結局、あんたも血なんてどうでもいいんじゃないか…。」
 巨大なプレス機に抗っているようなものだ。玄はさらに力を増した。
 御雷は呻いた。
 まだだ。もっと…もっと、力が欲しい。御雷玄をねじ伏せられるだけの力が。
 心拍数がさらに上昇する。毎分二百回など、とうに過ぎている。不整脈が出始めているのがわかる。それでも、力が欲しい。視界が紅く染まった。
 玄は再び驚かねばならなかった。
 じりじりと、押し返されている。何という、膂力…!
 こんな力を、生身の肉体が発揮することができるのか。
 玄の知覚は、御雷の体内が恐ろしい高温になっていることを察知している。脳幹が熱の影響を受け始めていた。脈拍はあり得ない数値を示している。
 御雷が、吠えた。
 突いていた膝が、ゆっくりと地面から離れる。ついに、立ち上がった。
 玄は舌打ちした。脳の支配力が足りないのか。
 全身統御。もう、なり振りを構ってはいられない。
 全ての筋肉に強力なパルスを送る。
 この男を、叩き潰せ。

      19
 枯れ木のようだった身体に、筋肉が盛り上がった。白髯が抜け、髪の毛に艶めいた黒が戻る。皺深い顔面が泡立ち、滑らかな皮膚に入れ替わっていく。
 御雷玄は急速に若返りつつあった。御雷建に殺された当時の姿に。ただ瞳だけは変わらない。
 余計な演出は無しだ。全身全霊を込めて、この男を叩き潰す。
 ぎっ、と音がするほどに拳を握りしめる。
 砕けてしまえ、晃。玄は全力の突きを放とうとして―――やめた。
 音が無いことに、気が付いたのだ。
 御雷の咆哮は止んでいる。
 荒かった呼吸音も聞こえない。
 そして心臓の音も―――止まっていた。
「…もう、死んでる…。お前は、超えてしまったのか…限界を。」
 玄はむしろ労るように声を掛けた。立ち尽くしたまま絶命している御雷に。
 そして、亡き弟に問うた。結局、お前と俺と、どちらが正しかったんだろうか…。
 こいつは墓穴に入るより、このまま朽ちた方がいい。
 玄は背を向けた。
 沢田が「埋めないのか」と訊いた。
 放っておくさ、と言うと片手を挙げてそのまま歩き去ろうとする。
 同じ時。
 K2はパニックに陥りそうな自分と闘っていた。
『嘘(うそ)…せっかくシステムチェックが終わったのに。』
 間に合わなかったというのか。
 意識消失。心肺停止。血中酸素濃度が急速に低下している。中枢への熱害も無視できるレベルではない。
 殆ど死体だ。
 すかさず血液中のナノマシンに命じて血管内に流れを起こさせる。脳細胞への血流を確保するのだ。心臓が止まっても、まだ脳細胞は生きている。だが、数分も経てば不可逆的な変化が脳に起こる。それまでに蘇生させなければ。
『私は…絶対に、あなたを死なせない。』
 それが、二十年前と同じ言葉だと気付いても、K2には苦笑を浮かべるだけの余裕がない。ナノマシンには停止した心臓を再始動させる機能は無い。やはり自分自身がこの場に来るべきだった。そうすれば、少なくとも心臓マッサージや電気ショックで蘇生を試みることができたのに。
 後悔に囚われそうになる。今の自分は、ただ御雷と繋がっているだけの存在だ。
 だが。
 K2には、自分こそが御雷の最良のパートナーだという自負があった。いま、踏ん張らずに、どうして妻を名乗ることができようか。
 だから、声を限りに叫んだ。
『武さん!起きて!』
 脳波は平坦なままだ。K2は諦めない。
『やっと、システムチェックが終わったんです。武さん、起きて闘いなさい!』
 反応はない。
 駄目だ。これでは届かない。もうすぐタイムリミットだ。
 意識だけの存在でありながら、K2には自分が涙を流している感覚があった。そればかりではない。鼻水まで垂れ流している。
 顔をぐしゃぐしゃにしながら、御雷を失う恐怖を思った。起きて。ただ、それだけでいいから。
 ことばはごく自然に口を突いた。腹の底から叫んだ。
『起きなさい!御雷――晃!』
 どくり。
 心臓が小さく脈を打った。少しずつ…少しずつ…鼓動が力強くなっていく。
 届いた…!
 安堵のあまり、K2はへたり込みそうになって、今の自分が意識だけの存在であることを思い出す。
 御雷が激しく咳き込んだ。呼吸が戻ったのだ。
「まったく…。」
 手の甲で口元を拭いながら御雷は呟いた。唇に、淡い笑みが浮かんでいる。
「お前の声は本当によく響くな。頭にも、それから…心にも。」
 お前と一緒に居ると、おちおち死んでもいられない。
 なあ、響子(きょうこ)。
『ええ、死なせるもんですか、絶対に。』
 K2の声が弾んでいる。
『それ、私に付けてくれた名前ですね?』
「気に入ったかい?」
『これからは、そう名乗ります。』
 その前に、やっておかねばならないことがある。
 玄が振り返った。御雷を見る眼に、信じられない、と書いてある。
「あの状態から、自力で蘇生しただと…?」
「悪いが自力じゃない。二人がかりさ。」
 ズタズタになってしまったパーカーが邪魔だ。脱ぎ捨ててTシャツだけになった。
「宿題はまだ半分しか出していないんだ。残りを提出するまでは死ねないね。」
「まだ、あるのか?」
 あるよ、と御雷は言った。紅い唇が皮肉な笑みに歪んでいる。
「ぶっつけ本番で、俺にもどうなるかわからないけどな。」
 やってくれ、K――響子。
『何だか照れくさいから、当面はK2でお願いします。――では、システム解放。放熱機構を起動します。』
 御雷の白い額に、ぽつり、と小さな赤い点が浮いた。頬に、腕に、赤い点が増えていく。表面張力で球になろうとする。
 液体か、と思った瞬間に、御雷の体表から何かが噴き出した。玄はまともに浴びる。
 沢田の目には、御雷の全身が紅い霧に包まれたように見えた。玄の指先で突かれて、全身の毛穴から血を噴き出して死んだ奴を見たことがあった。あれによく似ている、と思った。
 同じ感想を玄も抱いていた。まるで鮮血が噴き出したようだ。だが、血にしては軽い。そして薄い。御雷の白いTシャツも血の色ではなくピンク色に染まっている。
 この液体は…舐めてみて、わかった。
「汗か…高温の。」
 最初の汗には少量の血が混ざるのは仕方がないことであった。汗もまた、血液を濾過して作られるのだから。
 高圧で吹き出した霧状の汗は、すぐに湯気に変わった。体内の熱を最大効率で排出するために、K2が調節しているのだ。生体のタンパク質を変質させる程の湯に圧力を掛け、瞬間的に吹き出すと、大気中で湯気に変わる。発汗器官の特に熱が掛かるところはナノマシンで補強してある。同時に、既に熱で変質してしまった部分の修復にもナノマシンが忙しく働いていた。役割分担は上手くいっている。
 全身から、もうもうたる湯気を吹き上げながら、御雷は一歩踏み出した。
 御雷玄は連想する。焼き入れが終わった直後の、まだ湯気を上げている日本刀の姿を。
「御雷玄を、壊す。演算のサポートを頼む。」
『もう始めてます。体温は急速低下…適正値に入りました。疲労物質も合わせて排出しています。発振器官は機能回復済み。サポート用ナノマシンは定位置で待機中です。』
 また、一歩踏み出す。
『有効振動数解析完了…やはり私と同じです。発振時間〇.二秒。発振器官の選択はプリセット――基本設定で。』
「それでいい。」
 何だか、雰囲気が変わった、と玄は感じている。
 御雷の気配が違う。もともと気配を消すのは得意とするところだが、それでも玄の知覚を以てすれば彼の挙動を掴むことはできた。
 なのに、今は。
 眼前で全身から陽炎を立ち上らせている男の気配を捉えることができない。
 人工体の知覚は御雷が目の前にいることをはっきりと示している。光学センサーはもちろん、温度、湿度、アクティブソナー、レーザースキャナー―――空間歪み計まで動員して、調べた。
 確かに、存在する。
 ただ、「いる」と思えないのだ。機械は正確だ。受け入れられないのは、自分の「心」か。
「人であることを捨てたつもりだったが。」
 玄は呟いた。
「儂もまだ、人間だということかよ。」
 御雷が動いた。立っていた場所が陥没するほどの力で、地面を蹴っている。
 速い。玄の知覚にも、御雷の動きの軌跡は捉えられない。
 気が付けば目の前にいる。
 首筋の毛が全て逆立つような感覚を、何十年か振りに味わう。
 怖い、というのは、こういうことだったなぁ。
 御雷の拳が唸った。何の工夫もない、ただの突き。
 だが、玄にはわかる。正しく受けねば。交差させた両腕の筋肉が、張り詰める。
 御雷はガードの上から殴りつけた。
 ごきり、と骨が折れる音がして、皮膚が破れた。千切れた人工筋肉の束が傷口から溢れ出す。
 玄は、五メートルばかり跳び下がる。うねうねと動き回る人工筋肉に眼をやった。打撃を直接受けた左腕が、殆ど千切れている。体液の流出を止めて、右手で定位置に戻してやる。
 人工筋肉が伸びて、腕が接合される。前にも見た光景だ。
「それが、お前の本気か、晃。素手でこの身体を殴り壊すとはね…まったく呆れた化け物だよ、お前は。」
 口調こそ陽気なままだが、その顔は冷や汗にまみれている。人工体は生理反応の多くを再現しているのだ。
「お前を見ていると、建の言葉が正しいと思えてくるよ。」
「『血』よりも『才』ってやつかい?」
 玄は改めて、構えた。
「結局、御雷の血筋は、お前という人間を見つけ出し鍛え上げるための道具に過ぎなかったのかもしれない。千年もかけて周到に準備された計画の、単なる道具でしかなかったのかもしれない…そんなことを思ってな。」
「誰の、計画だ。」
 玄は答える代わりに、切れるような笑みを返した。
 あるいは、神の。その言葉は飲み込んでいる。
「俺も、似たようなことを考えたことがあるよ。」
 御雷は月を見上げた。美しい、と思った。
「俺や恭子が同じ時代に生きたのも。そして二人が出会ったのも。結局はK2という存在を生み出すために誰かが仕組んだことじゃないか、とね。」
 視線を玄に戻した。紅い唇が微笑する。
「だけど、俺は運命論者じゃないんでね。難しいことは考えない。こう見えても不器用なんだ。」
 構える。
「あんたを壊す。今は、それだけしか考えてないよ。」
 今度は玄が先に仕掛けた。
 懐に入り込んでの掌打。下から顎を狙ったそれを、御雷は一歩も動かずに右手で掴み止めた。掌と掌を合わせる。危険な震動を相殺しながら、玄の手を掴む。
「見せてやる。これが、俺の本気さ。」
 玄は御雷の手の振動数が変わるのを感じた。出力が爆発的に膨れあがる。
 音もなく、玄の手が握りつぶされる。御雷の動きは止まらない。
 五本の指を立てた左手が、玄の腹に潜り込んだ。御雷の指先に集中したしたナノマシンが、発振器として働く肉体を守っている。
 強靱な人工筋肉が、粘土細工のようにごっそりともっていかれる。体液は流れない。
 呆然とした視線の先に、御雷が立っていた。手に持っている銀灰色の塊は、玄の腹の肉だ。握り潰すと、微細な粉が舞って…やがて見えなくなった。
 玄には何が起こっているのか理解できない。御雷は単に排熱の問題を解決しただけではない。何かが、大きく変わったのだ。御雷の中で。でなければ、銃弾すら受け付けないこの身体を、こんなにも容易く傷付けることなどできはしない。
 傷口が再生する気配はなかった。御雷に触れられたところのナノマシンは活動を停止している。
「褒めてやるよ、晃。たった独りで、よくここまで強くなった。」
「独りじゃないさ。」
 頬がむず痒い。御雷は黒く血が滲んだ止血テープを剥がした。
 玄は目を剥いた。
 四十八時間前にはなかった傷。菊地に撃たれたという傷。滲んだ血から見ても、相当に深かったはずだ。
 テープの下から現れたのは、白く滑らかな皮膚であった。月光の元で仄白く輝く美貌には、傷跡一つ見当たらない。
 そうか。
 玄は理解する。ナノマシンによる修復と演算力の補助。
「K2と繋がったのか、晃。お前も、とうとう人ではなくなる道を選んだというわけだ。」
 ふん、と御雷は鼻で笑う。
「どんな身体になろうと、俺は俺だよ。人かどうかなんて、どうでもいい。」
 玄の言葉を思い出している。
 何故、夜なのにサングラスをしているのか。
 ――儂の眼は、少々見えすぎるんだよ。光がうるさいから、普段は情報を絞っているわけさ――。
 特殊なフィルターで情報を遮断する必要があるということは。
 つまり。
『御雷玄の脳は、あなたの脳ほどの処理能力は持っていない、ということです。人工体に対する支配力も限定的です。』
「このまま人工体を破壊すれば、一部とはいえ脳が残る。俺は…全部消してしまいたい。」
 K2が薄く笑う気配がある。
『では、どうすればいいか。おわかりですね?』
 行動が、答えだ。
 御雷は玄の膝に蹴りを入れた。インパクトの瞬間、特殊なコードを震動に乗せて叩き込む。
 かつて、K2からもらったコード。人工体を破壊するためのコードは、玄に対しても有効であった。ナノマシンの活性を奪い、強固な結合を緩めてしまうのだ。
 膝関節が潰れて機能を失う。倒れさせたりはしない。
 棒立ちになったところに手刀を走らせた。庇おうとする両腕ごと、身体の前面を切り裂く。
 震動ブレードでの攻防の再現だ。あの時と異なっているのは、御雷が素手であること。そして、切られた傷口が再生しないことだ。
 御雷は脳天から臍の辺りまで裂かれた傷口に両手を掛け、強引に押し広げた。胸郭は簡単に壊れた。これは、単純に怪力のなせる技だ。左右に分かれた顔が悲鳴を上げた。
 心臓の裏付近。脊髄に、人工体の重要部分がある。脳からの指令を全身の細胞―――全ての微細構造体に伝える要の、神経結節。
「K2、頼む。」
『武さん、人差し指にコネクトポイントを。』
 この指令のキーだけは、今も御雷は持っていない。
 右手の人差し指に巻き付くように、紅い接続端子が姿を現す。
 御雷はデザインする。
 情報の受け渡しのための接続端子ではない。俺の意志を御雷玄の肉体に通すのだ。
 御雷の求めに応じてK2はナノマシンをコントロールする。皮膚を通して染み出したナノマシンが、コネクトポイントの上に新たな器官を上書きしていく。
 御雷は玄の脊髄を突いた。人差し指が深々と突き刺さる。
 俺を、見ろ。
 無数のナノマシンが御雷の存在に気付いた。そして知った。己の主よりも強力な支配力を持つ存在が、いる。
『制圧しました。命令を。』
 どう命ずればいいかは、わかっている。紅い唇が動いた。
「こいつの脳を、喰い尽くせ。」
 コネクトポイントを通して、御雷の意志が全身に伝わる。人差し指を引き抜いて、玄から離れた。
 びくん、と玄の身体が小さく跳ねた。
 急速に、肉体が脳を浸食し始めたのだ。恐ろしい勢いでナノマシンが生体組織に食い込んでくる。
 玄は、最後の抵抗を試みた。残された支配力を振り絞り、ナノマシンの制御を取り戻そうとする。浸食が、止まった。
 だが。
 野太い銃声が響いた。二度、三度。
 二つに割れた顔の眼を動かして、見た。
 御雷が手にした黒い拳銃から、発射煙の名残が立ち上っていた。
 コルト四十五オートカスタム。御雷建の、形見。御雷は、万一の時のバックアップ用に、養父の愛用した銃を携えていたのだ。
「御雷建からのメッセージだ。」
 玄は見た。御雷の虹彩が鮮紅色に輝くのを。そして、彼を支えるように立つ、黒髪の少女の幻影を。
「死人は、死んでいるままの方がいい。」
 銃弾は生体脳の一部を貫いていた。全身に指令を送る機能を断たれ、浸食が再び始まる。
 なすすべもなく、玄は己の意識が細かな破片に分解されていくのを感じた。
 最後の瞬間、ふと思った。晃よ、お前はこれから何処へ行く?
 やがて、闇が彼を包み―――御雷玄の存在は消えた。

『侵食率百パーセント。御雷玄は消滅しました。』
 グロテスクなオブジェのような姿勢で固まったままの玄を、御雷は無表情に眺めた。これが、御雷の一族が大切に血を継いできたことの結末か。
 不意に、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
「俺を見付けるためだけに千年を犠牲にした、だと?そんなふざけた話があるものか。」
『…私も、同じようなことを考えたことがあります。』
「似たようなこと?」
『ええ。あなたは、自分と姉様が私という存在を生み出すために、仕組まれた人生を生きたのではないかと仰いました。でも…』
 少し、躊躇う時間があった。
『本当は、逆なのではないでしょうか。あなたに寄り添い、あなたをこれまでの人類とは別の存在に変えるために、私は生み出された…そんな気がするんです。』
 御雷は渋い顔をした。口に出すのも躊躇われるが。
「神様が企んだことだ、とでも言いたそうだね。」
 K2は沈黙する。あまりにも非論理的な話だ。
 御雷は笑った。
「まあいいさ。神様がいたとしても、何を考えてるかなんて、俺達にはわかりはしないよ。それに、俺は信心深い方じゃないんでね。」
『そうですね。その方が御雷――武さんらしいです。』
「晃でいい。そう呼んで生き返らせてくれただろう?」
 くすり、とK2が笑う。二十年間呼びたかった、その名。
『お帰りなさい、晃さん。』
 ただいま、と御雷も笑う。
「さて、と。このボディを始末しなくてはな。」
『痕跡も残さず、粉々に砕いてください。人工体の技術を知られるわけにはいきません。』
 心得た、と御雷は応えた。切り落とした腕や破片類を立ったままの本体の元に集めた。
「これで、コードが徹るだろう。」
 要領は近接打撃と同じだ。ただ、拳にコードを乗せて打つところが違う。そして、力をコードの伝達に使う。
 さすがに、あまり力が残っていない。
 両足が地面をしっかりと噛む。波を、起こした。
 足元から起きた波は、螺旋を描きながら両脚を登る。体幹に流れ込み、右腕でコードの波形に整えられる。
 御雷は、渾身の力を込めて人工体破壊コードの波を打ち込んだ。
 一瞬、玄のボディの表面にさざ波が走ったように見えた。御雷の、そしてK2の聴覚は捉えている。ナノマシンたちの断末魔の声を。肌の色が失われ、素材の銀灰色に戻っていく。
 風が、吹いた。
 銀灰色の鼻が、欠けた。崩れて風に流される。それを合図とするように、全身の崩壊が始まった。見る間に一山の銀色の砂になる。
 風が、吹く。風が、吹く。
 銀色の砂は、風に煽られ夜空に消えていく。
 派手なアロハや、短パン、ビーチサンダルなどが主を失って転がっている。
 写真が、一枚あった。
 地味だが芯の強そうな女が写ったそれを、御雷は細かく破いて風に舞わせた。
 さすがに、疲れた。
『水分が足りていません。電解質も。』
「そりゃあ、これだけ汗をかいたらそうなるよ。腹も減ってる。」
 ふらつきそうになる足元を踏みしめて、沢田の近くまで戻る。
 座り込んで、地面に置いた袋を探った。
 スポーツドリンクを取り出すと、立て続けに三本飲んだ。
「あの玄さんに、本当に勝っちまうとはなあ…。」
 沢田は溜め息をつくと、携帯電話を取り出した。
 これで、御雷は世界中に散ったアジアンマフィアから追われることになるだろう。気に入らないやり方だが、仕方がない。
 会長の電話に繋ごうとする。呼び出し音が鳴り始めた。
『位置を特定しました。撃ちます。』
 四度目の呼び出し音で会長が出た。
「もしもし。沢田です。実は――。」
 沢田が絶句する。大音響と何かが壊れる音がして電話が切れたのだ。
「俺だって、付け狙われるのは御免だからね。海上のクルーザーにいてくれて助かったよ。」
 はっとしたように御雷を見る。
 四本目のドリンクを飲みながら、御雷は片目を瞑って笑った。
「トマホークさ。ちょうど近くにアメリカの原潜がいたんでね。一発借りた。」
 通常弾頭だから問題ない、と言う御雷に噛みついた。
「そういうことじゃない。国際問題になるんじゃないかと言ってるんだよ。」
 御雷は、困ったように笑う。
「実は、もう何発か、発射してるんだ。」
 日本周辺にもトマホーク搭載艦はいる。他にも選択肢はあっただろうが、制御系を一本化したかったのかK2は同じ兵器を選んでいる。
 低い唸りとともに、空気を裂く耳障りな音が響いてきた。長い尾を引いて、眩い燃焼の輝きが近付いて来る。
 初めは、ジェット戦闘機かと思った。こんな市街地を、こんな時間に。
「低いな…。」
「巡航ミサイルだからね。低空から入ってくるのは当然さ。」
「おい、まさか。」
 痛みも忘れて思わず立ち上がる。
 激しい爆発音と震動。空が一瞬にして真っ赤に燃える。
 あの方角は。
「河津組の事務所ビルがこの世から消えたんだよ。」
 さすがに周囲の被害なし、というわけにはいかないか…。
 呟く御雷の表情は冴えなかった。
 続いて、西の山際に一発。
 溜め息をついて、沢田は車椅子に座り直した。
「今のは…薬の保管場所だな。他のところにも来てるんだろ?同じやつが。」
「そういうこと。あんたが持ってた薬は全部灰にした。供給源も断った。」
 沢田は苦笑するしかない。
「よく調べてるな、御雷先生。俺には、もう何も残っちゃいない。」
 御雷は腰を上げた。
「その代わり、ヤクザとしてのしがらみも、もうないだろ。廃業して、やり直したらどうだい?」
「あんたも、玄さんと同じ事を言うんだな。」
 一瞬虚を突かれたような顔になったが、すぐに背を向けた。
「まあ、御雷の男ってのはお節介なのかもしれないね。」
 歩み去る背中に問うた。
「石川を殺しに行くのかい?」
 玄が倒されるのを目撃して、とっくに逃走している。
「仕上げをするんだよ。稲美中を掃除するのが俺の仕事だからね。」
 御雷の後ろ姿が闇に溶けた後も、沢田はずっと見つめていた。
「菊地先生といい、御雷先生といい、教師ってのはおかしな奴が多いのかねえ…。」
 沢田の認識は間違っている…とも言い切れなかった。

      20
 御雷はヤマハに跨がった。ヘルメットを被る。排気量二百二十五CCの4サイクル単気筒エンジンは、キックスターターの一蹴りで簡単に目を覚ました。
 暖機運転もなく走り始めるが、エンジンがぐずったりはしない。雑草のような逞しさを、御雷は好んでいる。
 御雷が向かっているのは、石川が逃げたのとは別の方向であった。奴は漁港の方角に逃げた。寄り道もせず、真っ直ぐに港に向かっている。
 石川の服に取り付いた微小な「虫」が、K2に所在を知らせている。獲物に糸を付けずに放すほど、御雷はお人好しではない。
 それにしても。
 汗に濡れたシャツが重い上に、風を受けて思いの外体温が奪われる。パンツまでびしょびしょだ。不快なことこの上ない。おまけに空腹が耐えがたくなってきた。
 寒さと空腹で、御雷は、悲しいような、寂しいような、何とも侘しい気分になる。
 風呂に入って、さっぱりとした服に着替える。そして炊きたての飯を腹一杯食う。あとは、柔らかな寝床と温かい女の肌があれば―――。
『ねえ、晃さん。あなたの脳は、少しばかり雑念が多すぎませんか。』
 言葉に棘があるのは、最後の部分が気に入らないからだ。
「そう怒るな。正直言って、もう女を抱くほどの体力は残っちゃいない。」
 何しろ、ほんの少し前に死体になりかけたばかりなのだ。
 でも…イメージの中でK2を抱くのなら、体力は要らない…か。
『晃さん。脳内で私にいたずらするのは…。』
 静かな怒気を含んだ声は、御雷でも怖い。
「わかってるよ。おまえをちゃんと抱いてからにする。」
『約束ですよ。』
「うん。約束だ。」
 また、新しい約束をした。守らねばならない約束があるというのも、悪くない。
 御雷はそう思うようになっている。
 海沿いの住宅街が切れた。ここにも小規模な港がある。殆ど廃船同然の古い漁船が、何艘か繋いである。中には半分沈みかけたような木造船もあった。
 現役の漁師は、この辺りにはもういない。
 港に接するように、古い倉庫か、資材置き場のような建物があった。さほど大きくもなく、扉があるわけでもない簡素な造りだ。使われなくなって久しい網や、雑多な道具、木片などを乱雑に突っ込んである。
 御雷は倉庫の脇にバイクを止めると、慣れた足取りで中に入った。
 一角に積み上げてある木切れをどけると、下からブルーシートが現れる。さらにその下に、黒い流線型のボディーが隠されていた。
 キーの一捻りで二千五百CCのツインターボエンジンに火が入る。
 御雷は、高めのアイドリングを利用して、アクセルを殆ど踏まずにするするとスープラを倉庫の外に出す。
 TRDのスポーツマフラーは基本的に静かだが、始動直後だけは例外的に野太いアイドリング音が耳に付く。だが、間近にそれを聞きとがめる人間が住んでいる家はない。だからエンジンを止めずに放っておく。やがて暖気が終われば音も落ち着くだろう。
 御雷はスープラのリアハッチを開け、中から灰色のトランクを引っ張り出した。SIG社のロゴが浮き彫りになっているそれを開くと、中にグリーンのストックが折りたたまれたアサルトライフルが入っていた。スイス製のSG550。純正ケースにも数種類あるが、これは本体にスコープを装着したままで収納できるタイプだ。御雷は三倍から十二倍まで倍率を変えられるズームスコープを載せてあった。
 半透明の樹脂でできたマガジンには二十発の.二二三レミントン弾が込められている。一本を銃本体に挿し、念のためにもう一本を尻のポケットに入れた。
 暗い港を、銃を抱えたまま歩く。
 石川の居場所は把握し続けている。漁港の外れ―――違法漁のために馬鹿直しい改造を施した船が、人目を避けるように係留されているエリアだ。
 御雷は、酷く残酷な笑みを浮かべる。
 そうだ、石川。追い詰められれば、お前は逃げる。お前は、そういう人間だ。
 逃げ方も、わかりやすい。船で逃げるんだろう?無免許で散々乗り回しているから腕には自信があるはずだ。陸から離れてしまえば安全だと、お前は思っているんだな。
 馬鹿な奴だ。
 御雷の足が止まった。これといって何もない、港の外れである。
 SG550のストックを展開し、二脚(バイポッド)を広げて地面に置く。腹這いになってプローンの姿勢を取る。右手はグリップを握り、左手はストックの肉抜き穴を入れられ、シャツの右肩を軽く掴んでいる。
 スコープの倍率は三倍。海を、狙ってみる。水面は暗かった。
 一時顔を覗かせていた月も、今は雲に隠されている。
 御雷は視覚を暗視側に拡張する。K2のフォローは完璧だ。
 水面の向こうに、壁が立っていた。漁港を守る防波堤だ。これがあるお陰で、時化の日でも湾内は平和が保たれるわけだ。
 だが、船舶が出入りするためには、防波堤に切れ目が必要だ。フェリーなどの旅客船用の切れ目は向こうにある。
 そして、ここに。
 漁船用の切れ目があるのだ。
 漁港のどこから船を出したとしても、必ずここを通って瀬戸内海に出て行くことになる。
 御雷は知っている。切れ目を通り抜けるために、例外なく陸地に対して背を向ける地点がある。
 今SIGを据えた場所から、約三百メートル離れた海上。そこで、誰もが方向を転じ無防備に背中を見せながら真っ直ぐ沖に向かって遠ざかっていく。
『石川が動き出しました。』
 速い。強力なエンジンを積んで、逃げ足を強化した改造船だけのことはある。
 コッキングレバーを引いて、放した。初弾がチェンバーに送り込まれる。セレクターを兼ねたセフティを外す。モードはセミオート。
 両目を開けて御雷は待つ。右眼でスコープ内を見、左眼は広い視野を保つために使う。左右の眼が見ている像の倍率の差は、脳が吸収して違和感は覚えない。
 異常に高いエンジン音が近付いて来る。
 来い。
 それなりの大きさの漁船が、競艇ボートさながらの動きで旋回するのを見て、御雷は小さく口笛を吹いた。なかなかいい腕だ、石川。走っているところを狙撃するのなら、手を焼かされるところだ。
 しかし。
 旋回を終えた石川の船は、港外に向かって真っ直ぐに走った。御雷から見れば、ただの遠ざかる的になる。
 スコープの倍率を上げた。後が気になるのか、石川がしきりに振り返っている。
 まだ、撃たない。早く殺しすぎて、主を失った船が港内を暴走でもしたら大変なことになる。
 ぎりぎりまで。確信を持てるまで、待つ。三百メートルまでなら、確実に当てる自信がある。連射の効くアサルトライフルでありながら、ボルトアクションライフルに迫る精度がこの銃にはあるのだ。高い精度と信頼性に、御雷は絶大な信頼を寄せている。
 その三百メートルのリミットに、石川は近付きつつあった。
『もし撃ち損じたら、ミサイルを使いましょうか?』
「いらないよ。これはあくまで俺の仕事だから。狙点の補正だけ手伝ってくれ。」
 御雷武としての最後の仕事。あくまで自分の手で、しかも自分のやり方で締めくくりたいのだろう…とK2は推測する。
 舵が真っ直ぐになったのを確認する。進路は港外を指している。このまま進めば問題なく外に出て行ける。
 と、石川がまた振り返り、操舵輪が見えた。
 御雷は、撃った。操舵輪の軸に、二発、三発。何処を撃てばいいかは事前に研究してある。五発目で舵が固定されて動かせなくなる。
 陸地から響く銃声は、海上ではどのように聞こえるのだろう。
 暗視側に振った視覚は色の判別が難しい。それでも、石川が顔色を失っているのが見えた。
 石川はパニックに陥っていた。逃げたい。しかし、海流の複雑なこの海に、ライフジャケット無しで飛び込めばまず助からない。落水した漁師もそれで命を落とす。
 おろおろと迷う姿を、御雷はスコープの視野に捉え続けている。
 ―――狙撃は、相手に口付けをするような気持ちでトリガーを引くんだ―――
 養父の教えが今も彼の中で生きている。
 トリガーを絞る。これで、もう「先生」と呼ばれる生活に戻ることはないのだ。
 銃声が、ことのほか長く響いたように御雷には思えた。
 スコープの中では、眉間に銃弾を受けた石川が、後頭部から派手に頭蓋骨の中身を吹き出している。崩れ落ちようとするところに、さらに三発撃ち込んだ。
 主を失っても、船の舵は動かない。真っ直ぐに漁港の外に向かう。防波堤を、越えた。
 瀬戸内海には大型の船もいる。いずれ、どれかの船に破壊されて沈むかもしれない。運が良ければ誰にもぶつからず、誰にも見つからず、燃料のある限り走り続けるだろう。その後は海流によって外海に運ばれるに違いない。どこまで流されるかなどということに、御雷は興味を持ってはいなかった。
 大きく息を吐いて、SIGを見た。まだ辺りに漂っていた発射煙の名残が、海風で急速に吹き散らされていく。
 これで、稲美中学校での仕事は全て終わったのだ。
 御雷はライフルのセフティを掛けると、大の字になって空を仰いだ。
 厚い雲の上に、今も煌々と月が輝いていることをK2の演算補助を受けた視覚が捉えている。
 重い虚脱感が身体を包みつつあった。このまま、何もかも投げ出して眠り込みたくなる。
 それを振り切るように御雷は身を起こす。SG550をケースにしまい、トランクに納める。新聞紙を二日分ほどシートに広げてから、汗で濡れた服に包まれた身体を運転席に滑り込ませた。
 消防や警察が忙しく動き回っているのがわかる。無線を傍受し、あるいは緊急車両の位置を捉えて回避するルートを提示するのはK2の役割だ。
 御雷はむしろ悠々と自宅である平屋に戻ってきた。もう、これが最後だからスープラで直接乗り付ける。最後の手回り品を持ち出したら、そのままコンテナ基地へ向かう予定だ。
 仕事が完了した旨を文部省の担当者に連絡すれば、御雷の離任手続きは自動的に行われる。それと平行して、サイモンの部下たちが御雷の痕跡を可能な限り消し、備品を回収することになっている。
 スバルは気に入っているが、田中にやろうかと思っている。彼女なら上手く乗りこなすだろう。日本を離れる御雷にはもう必要のないものだ。スープラは念のため他の装備品と一緒にサイモンに管理を頼むことにする。
「できるなら、ひとっ風呂浴びていきたいところだけど。」
『今は着替えるだけで我慢してください。ミサイルを使って遠距離から攻撃したので、テロを想定した非常線は張られないと思いますが、油断はしない方が…。』
「確かに。ミサイル攻撃に呼応して、潜伏していた某国工作員が動き出す…という想定で対処されると面倒だな。」
『ええ。ほんの二日前に謎の爆発があったばかりですし。きっと文部省の役人は怒っていると思いますよ。』
「火消しは役人の仕事だよ。奴らにも働いてもらわなくてはね。」
 玄関の鍵穴にキーを差し込んだ御雷の表情が強張った。
 開いている。
 足音を消してスープラに戻り、減音器付きのベレッタを助手席のシート下から引っ張り出す。発射音の大きい四十五オートは使えない。
 御雷は音をさせずに扉を開くと、狭い玄関に身を滑り込ませた。
 きちんとそろえて置かれている、小さなランニングシューズ。珍しい藤色は、殆ど特注に近い程に生産数が少ないものだ。誰のものかは見ればわかる。何しろ御雷自身が買ってやったのだから。
 小さく舌打ちすると、御雷は施錠し、靴を脱いだ。板の間を歩くと濡れた足跡が付いた。靴も替えなくては。
 茶の間に入る。正座した小柄な人影が着ているジャージも、やはり淡い藤色だった。
 しばし、御雷に背を向けて座る姿を眺めた。背筋の伸びた、端正な後ろ姿であった。
 少し伸びた髪を、ゴムで二つに括っているところが、出会った頃を思い出させた。
「菊地…。」
 ゆっくりと、菊地は振り向いた。
「お帰りなさい。」
「お帰りなさい、じゃないだろう。」
 御雷の声が、あからさまに不機嫌になる。何を考えているのだ、この女は。
 ピンクに染まった御雷のシャツだが、所々血の色が濃い場所がある。
「怪我を、したんですか。」
「これか?汗腺の開通に手間取った場所だ。もう血は出ていない。」
 ほう…と、菊地は息を吐く。
「もう、体温の心配はしなくてよくなったんですね。」
「何とか間に合った。もう少し遅ければ、本当に危なかったよ。」
 それだけで、菊地には玄が死んだことが伝わっている。
 御雷は声を硬くした。
「それで、お前は何をしに来た。K2から警告を受けたはずだ。」
 答える代わりに、菊地は御雷の方を向いて座り直した。両手を膝の上に重ね、美しい正座の姿勢のまま、彼を見上げた。菊地の藍色ががった瞳と、御雷の黒瞳が、合う。
「石川は、どうしたんですか。」
「殺した。」
 無感動な返答に、菊地は目を瞑った。
「これで、全員殺した。俺の仕事も終わりだ。これから、今原市を出る。」
「いいえ。まだ、やり残したことがあるはずです。」
 菊地の瞼が上がった。その下から現れた瞳の輝き。御雷は息を呑む。
「私が、まだ残っています。」
 何という眼で、俺を見るのか。そして、お前は言うのだろう。
「私を殺さなければ、あなたの仕事は終わらないはずです。私が聞いている―――いいえ、私が実際に同僚として働いた御雷先生は、中途半端な仕事をする人ではありません。」
 御雷が敢えて目を瞑るつもりだった、自分自身の甘い部分。そこを鋭く突いてくる。
「お前…何を言っているのかわかっているのか。大体、お前を殺すなら、田中だって殺さなくちゃならなくなるだろ。」
 菊地は微笑した。
「田中先生なら、大丈夫。全部白状してくれました。あなたと田中先生は、もう家族ですもの。」
 御雷には返す言葉がない。
「でも、私は違う。時代遅れだと言われるかもしれませんけど、結婚する相手にしか体を許すつもりはありません。だから。」
「俺に抱かれて事を有耶無耶にする気はない、ということか。」
 はい、と言って菊池は真顔になった。
「だから、あなたには私を殺すしか選択肢は無いはずです。」
 ぎりっ。
 感情が昂ぶると奥歯を噛み締めるのは御雷の癖だ。
 いつもはほんのりと笑みを浮かべているような唇が、今は白く強張っていた。
 これも、仕方ないのか。
 御雷は、ベレッタを持ち上げた。撃鉄を親指で起こした。狙う。
 あのまま俺を避けてくれれば。俺から逃げてくれれば…こんなことをしなくても済んだのに。
 発射音。薬莢が跳んだ。
 菊地のゴムで括った髪が、片方弾け飛んだ。
 菊地は微動だにしない。
 命懸けで救い出した女を、今度は自分の手で殺すのか。
 発射音。薬莢が跳んだ。
 菊地のゴムで括った髪の、残りの片方も弾け飛んだ。
 菊地は瞬きもせず、御雷の瞳を見つめている。
 御雷は、己の負けを悟った。
 両手でベレッタを構え直す。今度は、慎重に眉間を狙った。
 狙点を悟ったのだろう。菊地の表情から強張りが抜けた。静かな笑みさえ浮かべて、目を閉じた。
「今、ここで菊地由美という人間は消える。」
「はい。」
 目を閉じたまま、菊地は応えた。
「だから…。」
 御雷は、ほんの僅かだけ躊躇った。が、言わねばならない。
「お前は、御雷由美になれ。」
 菊地は、目を開けた。
 銃口は、もう彼女を狙っていない。
 御雷と目が合った。頬を赤らめた貌が本当に少女のようだ、と思った。
「俺のところに嫁に来い。菊地。」
「私なんかでいいんですか。」
 初めて、菊地の声が震えた。
「お前でいい、じゃない。お前がいいんだよ。」
 喜んで、と応えたときには、もう御雷に抱きついていた。御雷でも避けられないのが、菊地の才だ。
「おい。そんなに抱きつくと汗で汚れるぞ。」
 構わず、御雷が驚くほどの力で強く抱き締める。その身体が細かく震えていることに、彼は気が付いた。
 菊地が顔を上げた。藍色を帯びた瞳が不安に揺れている。
「また…あなたを殺したくなるかもしれません。あなたの求愛を受け入れたふりをしているだけだとは思わないんですか。」
 御雷は、器用に片目を瞑って笑った。
「それでも、いい。考えてもみろ。自分の命を狙う女と臥所を共にするんだぞ。これ以上愉しいことは中々無いに違いないさ。」
 強い力で菊地を抱き締め返した。真顔になって、囁く。
「だから、お前は一生俺の側にいろ。」
 御雷の唇を、菊地は抵抗なく受け入れた。
 長い口付けの後、菊地は初めて声を上げて泣いた。
 子供のように泣き続ける彼女を、御雷はいつまでも抱き締め続けていた。

      21
 生徒が何人も死に、御雷が離任しても、そんな些細なことには構わず時は流れていく。
 季節は巡り、三月。
 春休みだというのに、制服に身を包んだ生徒たちが体育館に集合している。
 離任式、であった。
 退職や転任で稲美中学校を離れる教職員と、生徒や保護者の別れの式典である。
 菊地由美は沢田ら数名とともに壇上に並べられたパイプ椅子に座っている。
 校長も退職者に入っているため、教頭が一人一人の紹介をしていく。稲美中での功績や、担任者については新しい任地などが読み上げられる。
 菊地は、退職者として紹介された。
 稲美中を去る者が、一人一人挨拶の言葉を述べていく。
 最年少者である菊池には、一番最後に順番が回ってきた。
 立ち上がり、壇上の退職者と転任者に一礼する。
 演台の前に立つと、マイクの高さを調節し、電源が入っていることを確認してから深々と礼をした。
 頭を上げて、生徒たちの顔を見る。真剣な視線が自分に集中しているのを感じて、菊地は微笑んだ。稲美中の空気は、確かに大きく変わったのだ。
 菊地は口を開いた。
「私は大学を卒業して、すぐにこの稲美中学校にやってきました。私にとっては何もかも初めてのことばかりで、みなさんには大変迷惑を掛けてしまったと申し訳なく思っています。」
 二年五組の生徒を見た。生まれて初めての自分のクラス。一年間、苦楽を共にした彼らとも、今日でお別れだ。幾分大人びた広瀬と目が合った。この子がいる学級を選んだのが、ついこの間のことのように思い出される。
「二年五組のみなさん。急なお別れになってしまって、ごめんなさい。本当は来年もみなさんと一緒に過ごして、みなさんが卒業していくのを見送りたかったのですが…。私は、教師を辞めることにしました。」
 堪らず誰かが叫んだ。どうしてやめちゃうんだよ。一人や二人ではない。
 生徒にも、理由を知る権利はあるだろう。
「実は…私は、御雷由美になります。」
 会場が、どよめいた。あの、不思議な英語科講師のことを誰もが記憶していたのだ。今でも彼のことを懐かしがっている生徒は少なくない。
「御雷武…私の夫には、急に稲美中を去らなければならない理由がありました。知っている人もいるかもしれませんが、彼は若い頃に全身が黒焦げになるほどの大火傷を負ったことがあります。彼のあの顔も、体も、成形手術を重ねて造り直したものです。」
 生徒も、そして教師も聞き入っている。火傷については何気ない世間話の中で聞いたことがある者もいる。御雷は布石を打っておいたのだ。
「大手術だったために、今も定期的に検査を受けています。状態が悪くなれば再び手術をやり直さなければならなくなります。最悪の場合、命を失う可能性もゼロではありません。そして…残念ながら今回は再手術の必要があることがわかったのです。それで、彼の故郷であり、前回も手術を担当した医師のいるアメリカに急遽戻ることになったのです。」
 息を継いで顔を上げた。窓から差し込む春の日差しに目をやった。
「子供の頃から、教師になることが夢でした。でも、それ以上に御雷武の側で、彼を支えながら生きていきたい。私はそう願っています。これは、本当に私の個人的な思いです。そのために、みなさんに大きな迷惑を掛けてしまうと思うと、心苦しくてたまりません。でも、私は彼の元へ行きます。それが私の『選択』だから。今まで親切にしてくれて本当にありがとう。遠くアメリカの地から、みなさんの活躍を願っています。」
 さようなら。
 そう言って深々と頭を下げた。
 これで、私も嘘つきの仲間入りだ。

 式後、学級担任である菊池は二年五組の教室で最後のお別れをした。
 女子生徒を中心に、山のような花束を贈られる。メッセージカードは束になっていた。
 口々に結婚おめでとう、と言われ、赤くなったり涙をこぼしたり。
 やはり菊地は菊地なのであった。
 広瀬と高木がやってきた。おめでとうございます、と言った後、尋ねた。
「御雷先生は、元気になるんでしょうか。また、会える日が来るといいんですけど。」
 心から案ずる少女たちに、菊地は片目を瞑って笑いかけた。
「きっと、大丈夫よ。だって、殺したって死ぬような人じゃないもの、御雷先生は。次は、みんなが知っているのとはまるで違う声と姿で現れるんじゃないかしら。」

      *
 轟音は気にならなかった。
 頭上を掠めるように小型のジェット機が行き来するのを、御雷は飽きもせず眺めている。
 アメリカ合衆国の西海岸にある某地方空港である。
「あんなものが飛ぶなんてなあ…。未だに納得できない。」
 駐車場に停めたランドクルーザーにもたれて、独り言のように言う。
 返事があった。
「ちゃんと揚力が働いていることくらい、見ればわかるでしょう?」
 淡いブルーのワンピースに身を包んだ響子が笑った。ストローハットを飛ばされないように手で押さえている。
 その白くてしなやかな肢体が、彼の下で妖しく身をくねらせていた感触をふと思い出す。今朝方のことだ。
 途端に、透明感のある肌が真っ赤になる。
「もう。繋がった状態で思い出すのはやめてください。」
 顔から火を噴きそうな表情で響子は横を向いた。
 御雷は苦笑する。
「だったら、切っとけよ。こればっかりは自分でもどうしようもないんだよ。」
「私の想像以上に駄目な人なんだから。もうすぐ菊地さんが来るというのに。」
 あの時は、すぐにも菊地をアメリカに連れ帰る気であった。が、やはり年度の途中で投げ出すのは心苦しい…という菊地の思いに応える形になったわけだ。
「なあ、響子。」
 もう、そう呼ぶのにも、呼ばれるのにも慣れた。
「何でしょう?」
「あの時…ぼくが菊地を殺そうとしたら、お前はぼくを止めてたかい?」
 はぐらかすように響子は笑う。
「殺さなかったじゃありませんか。」
 知覚だけではなく。本当は運動機能にも介入できるのではないか、という質問には答えない。
「どうせ、お前が菊地に入れ知恵したんだろう?」
「少しだけ。でなければ、晃さんは彼女にプロポーズできなかったでしょう?」
 御雷の苦笑が深くなる。
「まあね。無茶苦茶だけど、お前のお陰で本心が言えた。…だけど、よかったのか?」
「何が、ですか?」
 小首を傾げる仕草は昔から変わらない。
「ぼくは、お前はぼくを独占したがってるのかと思ってたんだよ。」
 ああ、と今度は響子が苦笑した。
「私にとっても彼女は必要だったんですよ。」
 そう言って、また赤くなる。
「だって…あなたに抱かれ続けたら、自分が壊れてしまう予感があったから。今、その予感が的中していたことを実感中です。」
 だから、独占ではなく、複数の女で共有した方がみんなが幸せになれるのだ、とまとめる。女の中には田中も入っている。
「ふうん…この地上で最強ともいえるお前が、壊れる、ねえ…。ぼくは、そんなに酷い抱き方をしてるのかい?」 
 響子はさらに顔を赤くして膨れてみせた。
「この感覚は、男の人にはわかりませんよ。何というか…脳が溶けそうな感じなんです。」
 ふと、遠い目になった。
「考えてみれば、姉様は凄い人だったんですね…。」
「ああ、大した女だったよ。何と言っても、お前の姉だからな。」
「私のことも、姉様と同じぐらい愛してくれていますか?」
「うん。」
「菊地さんは?」
「お前と同じぐらい好きだね。」
「田中さんは?」
「あいつの情が深いところもなかなかいい。」
「ねえ、駄目男さん。」
「何だい。」
「痛くないのは知ってますけどね。ちょっとお尻をつねらせてもらっていいでしょうか。」
 御雷は慌てて尻を両手で隠した。肉をむしり取られてはたまらない。
 その時。また一機、降りてくるのが見えた。
「来たな。」
「あれに、私の寝所敵(しんじょがたき)が乗っているんですね。」
「お前、また妙な言葉を覚えたなぁ…。」
 響子は帽子をかぶり直して御雷の手を引いた。
「さあ、行きましょう。由美さんがあなたのことを待ってますよ。」
 さあ、行きましょう。
 響子の言葉が、『生きましょう』と聞こえて。
 御雷は微笑みを浮かべた。眩げに太陽に目をやる。
 一瞬、御雷の虹彩が春の日差しを紅く反射した。    
「そうだな。死ぬまでは生きてやるさ。」
 美しい青年と少女は、同時に歩きだした。

【鳴神来たりて(仮題)】のための創作ノート⑦

 【第七章 交錯】

      1
 御雷は、大きなくしゃみを一つした。
「誰か、俺の噂でもしているのかねえ。」
 風邪を引いているわけでもあるまいが、昼夜の寒暖差が大きい時期ではある。
 深夜、二時。もう日付が変わって、土曜日になっていた。
 狙撃練習を終えて、公園で小休止を取っている。
 コーヒーの空き缶を、ゴミ箱に投げ入れた。大欠伸をする。
 スープラの奏でる低いアイドリング音が、眠気を誘う。
 運転席に戻ったが、シートベルトをせずに軽く目を閉じる。
 御雷といえども、週末は待ち遠しい。教師の仕事に手を抜いていない証拠ではある。
 教師という仕事は危険だ、と御雷は思う。
 生徒に教えるという立場ではあるが、生徒から学ぶことも多い。御雷が経験の豊富な教員であるといっても、転勤する度に新しい発見がある。さらにいえば、出会った生徒一人一人が、全て異なった個性を持っている。
 当たり前の話ではある。だが、それが面白い。
 授業に没頭し、放課後の補習では全力で指導に当たる。休み時間には雑談に興じたり、たまには相談に乗ってやったりもする。
 そんな、教師としての日常は、御雷にとっては毒だ。
 腹立たしいことも、当然ある。しかし、やりがいも、ある。興味深い同僚にも恵まれている。
「正規教員になれ…か。」
 それも、いいかもしれない。一教諭として教育に人生を捧げるのも悪くない。そう感じている自分を、はっきりと御雷は自覚している。
「でも、そうはいかないんだよな。」
 御雷は他の教員ができないこと―――血を流すために稲美中に赴任してきたのである。普通の教員になったら、それはもはや御雷ではない。
 為すべきことを、為す。そして、それはまだ始まったばかりなのだ。
 河津組襲撃の件で警察が動いてる気配は、相変わらず、ない。報道も一切なかった。
 一度、何食わぬ顔で中華料理店に顔を出してみたが、「諸事情により閉店」の張り紙が一枚してあっただけだ。首を捻る演技をしてから店を離れた。常連客が事情を知らずに訪れた、というポーズだ。
 警察が動いていないということは、河津組は大量の死体を処理して、襲撃事件そのものを「なかったこと」にしたのかもしれない。
 状況を見れば、そして仲間内にモグリの医者でもいれば、夕食に毒が盛ってあったことなどすぐに露見するだろう。中華料理店の主人が酷い目に遭っていなければよいが…。人の良さそうな笑顔と、サービスしてくれた品々を思い出しながら真剣にそう思った。
 御雷が出前を利用して襲撃を掛けたから、主人にとばっちりが行ったのだ、とは考えない。十分な博愛精神と実利主義が絶妙に一人の人間の中で共存しているのだ。
 全てを組の手で隠蔽するのなら、主人の身はさほど危険ではないだろうという読みはあった。「何もなかった」のに、主人を拷問に掛けたり殺したりすれば、それは逆に「あの店を起点に何か大変なことが起こった」というサインを出すようなものだ。とはいえ、主人も自分が不自然に眠らされていたことに不信感はあるだろうから、状況を問われた上で口止め料を渡されて、今原市から去った―――というあたりが一番無難な後始末の仕方だろう。主人が約束を守れば、警察に駆け込むことはない。
 沢田…か。事務所詰めのローテーションから考えれば、発見したのは沢田その人のはずだ。組長の口振りからも、彼が会長の寵愛を受けているのを御雷は知っている。それなりに能力は高いはずだ。
 となれば、若いながらも奴が後始末の指揮を執った可能性は高い。
 その前提で、呟いてみる。
「沢田という男も、なかなか肝が据わっているらしい。隠しきろうとするとはね…上手くいっているところを見る限り、組長が死んでも大きな混乱はない、か。」
 御雷は、少しだけ迷っている。
 西本は、殺す。稲美中の暴力と混乱、そして薬物の全ての交差点に立っているからだ。裏の世界に生きるという、奴の決意は固い。更正の見込みは無い。だから消せばいい。
 ただ、薬を辿ってみると、供給源には沢田がいる。奴も、消すべきだろうか。
 河津組自体を潰すことまでは考えていない。それはあくまで警察の仕事だ。御雷が暴力団に絡むのは、生徒に関わる問題についてのみ、である。
 あくまで、御雷武は教師として考え、行動しているのだ。その基準があまりにも教育界の常識とかけ離れているだけのことだ。
 だが、教師としての御雷が蒔いた種は少しずつ育っている、と感じている。
 やる気のある生徒、真面目に努力する生徒が称賛される雰囲気。無気力だったのは生徒集団だけではない。それ以上に諦めの境地に達していた教師集団も変わりつつある。
 保護者の認識も、変わらざるを得ない。
 金曜日の午後、馬越の両親が見舞金として百万円を持参した。週明けになると踏んでいただけに意外だったが、校長室で御雷が受け取った。管理職は席を外す。録音されている可能性も考慮して、一言一句前日の猿芝居を再現してやった。
 予想に反して守矢も復帰している。思いの外、精神的にタフだったようだ。馬越夫妻に頭を下げられて目を白黒させていたのが、妙に可愛らしかった。
 思い出して、御雷の唇に小さな笑みが灯る。
 本来なら、百万円もの見舞金を受け取ることには問題があるのかもしれない。管理職もそれを危惧してはいた。御雷は、「学校再生専門員の活動費は現地調達が許されている」という条項を盾に取り、県教育長に「問題ない」と明言させた。守矢が直接受け取るのはまずいから、一旦御雷が全額受け取ってから、活動費の一環として半額を彼女に渡してやる。
 分厚い封筒にどぎまぎしていたが、校長室でのやりとりを巧くまとめて説明してやると、「痛快だわ」と早速毒舌を吐いてみせた。
 先日の夕飯の件もある。臨時収入があったから、ということで田中と菊池に何か欲しいものがないか尋ねてみた。
 二人とも、「あんなことでお礼なんてもらえない」と恐縮したが、御雷は引き下がらなかった。「年長者の言うことには従うものです」の一言で押し通す。嘘は、言っていない。
 結局、菊池には「ちょっといいランニングシューズ」を贈ることになった。もう、一緒に店へ行って商品は決めてある…のだが、彼女の足のサイズである二十三センチに希望の色の在庫がなかった。取り寄せるまでしばらくかかるそうだ。
 田中の方は、いろいろ迷っている。欲しいものも食べたいものもたくさんあるらしい。が、結局決めきれずに、こんなことを言い出した。「何でも一つだけ言うことを聞いてくれるというのは、どう?もちろん、その時にできることしか頼まないから」…一番面倒臭い、というより危険な願いだ。特に、田中は何を考えているかわからない。
 御雷は少し考えて、「『これ以上は無理』というラインを引かせてもらえるなら」という条件付きでOKした。
 それしても。馬越夫妻の報告を思い出して御雷は苦笑する。
 結構な重傷に見えたし、診断書にも右手が完全に潰れて云々、と書かれていたのだが。
 あっさりと月曜日には退院するという。何度か手術をしなければならないのは嘘ではないようだが、かなり大げさに書類には書いてもらったようだ。
 麻薬の買い付けに関しては、カラスの携帯に馬越から連絡が入った。予定の時間と場所、取引量は変わらない。ただ、馬越の代理として白石直哉が来るという。顔を見ればわかるのだが、もっともらしく合い言葉を伝えてやった。
 御雷は目を開けた。スープラのコンソールに目をやる。メーター類と共に並んでいるデジタル時計を見た。そろそろ、いい時間だ。
 携帯電話を取りだして、番号を入力する。通話ボタンを押した。
 呼び出し音。
『もしもし。武さんですか。』
 名乗る前から、K2の声は弾んでいる。息遣いからも、待ちかねていたのがわかる。二十年分の思いが言葉にならずとも伝わってくる。
 どれだけ待たせ続けたのか…と、さすがの御雷も申し訳なくなる。
「うん、ぼくだ。元気か。」
 変なことを言う、とK2は笑う。
『私は病気にはなりませんよ。知っているくせに。』
 つられて、御雷も笑った。
「お前こそ、そういう意味じゃないってわかってるだろう。」
 ええ、と応えるK2の表情がわかるような気がした。穏やかな笑みを浮かべているのだろう。
『心の方ですね。大丈夫、私は元気です。この前、電話をいただいてから、ずっと。』
 もっと早く連絡してやればよかった、と思う。逆に言えば、御雷からの連絡が途絶えていた二十年間、彼女は元気ではなかったということでもある。
「ちゃんと、ご飯は食べてるか。」
『はい。三食きちんと食べています。朝夕はちゃんと自分で作っていますよ。』
「風呂もちゃんと入ってるか。」
 K2はたまらず吹き出した。
『武さんは、埃まみれの私を想像しているのですか?髪はボサボサ、服はボロボロ…私だって、女の子なんですから。そこは、きちんとしています。』
 女の子ねえ…と御雷は声に出してみる。
「お前、今年でいくつになったんだっけ。」
 ぐっ、とK2が言葉に詰まる。
『…初代の身体が誕生してから、四十六年経ちますけど。』
「四十六歳の、女の子か。」
 からかうような響きが、ある。
『もう、年齢のことは言わないでください。中身はずっと女の子なんですから。それじゃ、駄目ですか?』
 むくれ顔が目に浮かぶような声に、「ごめん」と素直に言えた。
「悪かったよ。長く放っておいたぼくが、悪いんだ。」
 真面目な声に戻す。
「お前が言うとおり、中身が大事なんだ。人間らしく生活してくれてて安心した。」
 少なくとも、今の俺よりはずっと人間らしい。
『【人間】の定義にもよるとは思いますけど。身体の組成を除けば、私は自分を人間だと認識しています。』
「ああ。ぼくも、そう思う。たしかに、お前は女の子だよ。」
『私のことを全く顧みてくれない武さんのことだけを、一途に慕い続けている可哀想な女の子です。』
 御雷は一方的に責められている気分になる。
「なあ、K2。」
『はい?』
「この二十年間、お前はずっとぼくに遠慮してきたんだろう?」
『ええ。率直に言えば、その通りです。』
「今は、全く遠慮が無くなったな。」
 御雷の苦笑に、K2は朗らかなくすくす笑いで返してみせた。
『我慢するのを、やめることにしたんです。』
「我慢を、やめる?」
 息遣いの変化と、頷く気配があった。声に、僅かな緊張がある。
『ずっと―――人形でいようと努力しました。私の存在が、あなたを苦しめてしまってはならないと。』
 その思いを想像すると、御雷には返す言葉がない。無言のうちに彼女にそれを強いたのは、俺だ。
『でも。』
 意外にも明るいトーンでK2は言った。
『二十年の間、あなたへの想いは変わることはありませんでした。この前、あなたの声を聞いたとき、はっきりわかったんです。【ああ、私はこの人のことが本当に好きなんだな】って。』
 言葉に淀みはないが、声には微かな緊張と恥じらいがある。彼女にとっても勇気の要る発言―――言おうと心に決めていたのだろう。
『だから、たとえあなたに疎まれることになったとしても。あなたに嫌われたとしても、自分の気持ちに正直になろうと決めたんです。』
 あくまで静かな口調ではあったが、御雷の心に染み入るものがある。
「嫌いになんか、なるもんか。」
 K2は次の言葉を待っている。
「初めて逢ったときから、ぼくはお前のことが好きだよ。」
『女性として?』
 御雷は溜め息と共に答えた。不思議とK2には率直に話すことができる。
「そう。一人の女の子として、お前のことが好きなんだ。」
『まあ。』
 その声には、喜びと驚きと安心と――明らかに呆れている響きがあった。
『それでは、武さん。姉様と私の二股をかけていたということですか?』
 何だか、雲行きが怪しくなってきた。
「ちょっと待て。それはもの凄く誤解を招く言い方だぞ。大体、お前は、あの頃はまだ『人間』になる途中だったじゃないか。」
『では、お尋ねしますけど。』
 言葉遣いは違うのに、恭子に問い詰められたときを思い出す。それはつまり、逃げ道が無いということだ。
『もし、あの頃、私が既に【人間】であったならば…。』
 予想していた詰問口調ではない。御雷は耳を傾ける。
『私と姉様を同時に愛していただくことはできたのでしょうか。』
 思い詰めたような声に、K2の真意を知った。
 元々、K2は恭子の死後、御雷のパートナーとなるべく生み出された存在だ。それは、K2自身に、「自分は恭子の身代わりでしかないのか」という疑問を抱かせる。自分の、存在意義に関わる大きな問題だ。
 御雷の答えは最初から決まっている。
「もしそうだったら、二人ともぼくの奥さんにしようとしただろうな。―――まあ、外観が十六歳のままだと、少し困ることになるだろうけど。」
『まあ、呆れた。』
 そう言いながら、K2の声が潤んでいる。
『同時に二人の妻を持とうだなんて。やはり、撃墜数千二百のスーパーエースだと、これも仕方ないことなのでしょうか。』
 笑って同意してやる。
「そうさ。ぼくは、欲張りなんだよ。相手の女性が同意してくれるなら、ね。」
 あなたの言っていることは無茶苦茶です、と泣き笑いの声が返ってきた。
『でも、私を一人の女性と認めてくださっていると聞いて、とても幸せです。』
 今が切り出し時だと御雷は判断した。
「そのことなんだが、ぼくから一つ提案がある。」
『結婚なら最初からOKですが。』
 気が早いところは相変わらずだ。御雷は頭を掻いた。
「いや、そっちじゃなくて。」
 明らかに落胆した気配があった。
『ねえ、武さん。』
「うん?」
『こう見えても、私は結構モテるんですよ。』
「だろうな。」
『研究所の職員からも随分お誘いをいただいています。私、普段は髪も黒くしてますし、炭素基系の人類だと勘違いしている方も多いみたいで。あまり放置されると、私だって気持ちが動いてしまうかもしれませんよ。』
 御雷の唇に淡い笑みが浮かぶ。
「いいや。お前の気持ちは動かない。」
 たじろぐ気配がある。
『なぜ、そう言い切れるんですか。』
「決まっているだろう。このぼくが、お前はぼくのものだと決めたからだ。」
『もう…強引なんだから。』
 溜め息をつきながらも、満更ではない様子に、御雷はしてやったりと笑う。
『でも、あなたは私に【相手は自分で決めろ】と言いましたよ。』
「言ったね、確かに。だけど『俺のことは好きになるな』とは言わなかったよ。」
 K2は何ともいえない声で唸った。
『こんな調子で、姉様も丸め込まれていたのかしら。演算速度だけでいえば私の方が優れているはずなんですが。あなたと話していると、どうも調子が狂います。』
「それが、『人間』ってものだよ。単に性能の善し悪しで関係が決まるわけじゃない。」
 人間、という言葉にK2が反応する。
『そういえば、私。ここ数年は眠るようになったんです。』
「へえ。疲れるようになったのか?」
 御雷の声に、微かな不安が宿る。未知の素材でできているK2のボディと頭脳には、意外な弱点や予想外の劣化がないとも限らないのだ。
『いえ。疲れはしませんが…その、なんというか。昼間経験したことや思考したことを整理するために睡眠を要求されるようになったんです。私自身、最近まで気付かなかったのですが…。』
「じれったいな。勿体ぶらずに教えてくれ。」
 すうっと深呼吸するのが聞こえた。
『私にも【無意識領域】があるのを発見したんです。』
「それって、つまり…?」
『私自身が意識しない間に、何かをしている可能性がある、ということです。それは、主人格である私にもコントロールできない領域です。』
 御雷が無意識領域のかなりの部分を意識でコントロールできるように改変したのと、ちょうど逆のことが起こっているわけだ。
 ふうん、と御雷は考える。
「自分でも思ってもみなかったことをやらかしている、という可能性もあるわけか。」
『はい。無意識に願うことの恐ろしさを、実感しているところです。』
 声が、重い。感じるものが、あった。
「何を、願った?」
 言えません、とK2は応えた。
『言えば、きっとあなたに叱られます。―――あなたは、必ず私を嫌いになる。』
「もしかして…ぼくの身体のことか?お前が直してくれたこの身体に、何かまずいことがあるのか。」
 最近は体調不良を感じることが多い。といっても、「身体が重い」くらいな感覚だが。
 御雷の質問には直接答えず、K2は言った。
『私は、あなたと離れている間に、大きく四つの研究を進めてきました。一つ目―――最優先は、あなたの脳内にある破片を取り出す方法。これは不完全ながら目処が立ちました。』
「ああ。お前が頑張ってくれたおかげで、ぼくは手術を受けられるところまできたわけだ。」
『成功率は三割程度。最初はゼロだったことを考えれば、成果はあったといえます。この成功率でも、手術を受けますか。』
 受けたい、と御雷は即答した。そのために待ち続けたのだ。
「もし失敗しても、死ぬのが少し早まるだけだ。」
『破片への処置については、逆方向からのアプローチも試みました。研究の二つ目は脳内の破片を取り出さず、そのままの状態で危険性を取り除く方法です。発想の逆転で、破片が動き回らないように脳内に固定してしまいます。』
 なるほど。破片が暴れない安心感は大きい。MRIだって受けられるだろう。熱の問題はあるにしても。
「だけど、それじゃぼくの寿命や痛覚は今のままだ。このまま生き続けるための研究なら…。」
 要らない。
 はい、とK2は声を落とす。
『ですから、この研究テーマは三つ目のテーマの母体として活用しました。』
「それは、何だ?」
『今は、詳しくお話しすることはできません。ただ、私が無意識に願ってしまったばかりに、武さんの身体に変化が起きています。それを何とかするための研究だとだけ。いずれ、あなたがアメリカに帰ってこられたときに直接お話しします。』
「電話じゃ駄目なのか?それとも、すぐに命に関わるような問題ではない?」
 受話器を握るK2が表情を歪めた―――ように思えた。
 声が苦い。
『今すぐ命に関わることではありませんが、直接話したいんです。私の話を聞けば、きっとあなたは私のことを嫌いになります。面と向かって言って欲しいんです。【お前が嫌いだ。顔も見たくない】って。もう、会えないままで置き去りにされるのは嫌なんです。たとえ耐えがたい言葉であっても、直接言って欲しい。』
 K2が、嫌われることを前提に話していることに、御雷は腹が立ってきた。
「何を願ったか知らないが、無意識にやってしまったことなんだろう?」
『はい。あなたに施した手術の不備を、なんとかしてあげたくて。』
「不備?二十年前の技術と機材では、あれ以上は望めなかったはずだけど。」
 たしかに、とK2は肯定した。
『仰るとおり、限られた条件の中で、私は最善を尽くしました。それは嘘ではありません。でも…私の見通しが甘かったのも事実です。自分では完全だ、と思っていたのですが。』
 一旦言葉を切って、呼吸を整える。
『あなたの身体に、変化のきっかけを与えたのは私のミスです。』
 姿の見えぬ不安が、御雷の中で頭をもたげる。何も言えない。
 話題を変えたのはK2の方だった。
『ところで、お仕事の進捗は順調ですか。』
 順調だとは答えられなかった。かいつまんで、状況を説明してやる。
『なるほど。最近は常に疲労感があるわけですね。』
「うん…疲れを感じることが多いのは確かだよ。胸が空っぽになったような気になることもある。」
『その原因の一端が、身体の変化にあるとは思います。武さん自身も気付かないうちに、変化に対応するために脳の処理能力を使っているんです。』
 自分の責任だ、と再びK2は謝罪した。
「いいよ。無意識なら、仕方ないさ。それが『人間』ってことだ。お前も、苦しいんだろう?」
 はい、と答える声が沈んでいる。
『人間であることが、こんなにも苦しく切ないものだとは…。』
「人間になったことを後悔しているのか?」
『いいえ。それは、少しも。苦しさも喜びも、みんな一緒にして飲み込もうと決めています。それが、私の考える【人間らしさ】ですから。』
「だったら、もう悩むな。どのみち、この仕事が終わったら一度そちらに戻る。その時に話してくれればいいさ。」
 御雷は、今日はもう話を切り上げるべきだと感じている。頼みたいこともあったのだが…K2の落ち込み方を見ると、日を改めるべきだと思った。が、意外にも彼女の方から助け船を出してくれた。
『ごめんなさい、私ばかり話して。武さんの提案を聞いていませんでしたね。』
 言っておこう、と思った。大事なことは言葉にして伝えねばならないことを、御雷は学んでいる。
「あのな、K2。」
『はい。』
「そのK2という呼び方を、そろそろやめたらどうだろう。」
『それは…恭子と名乗れということでしょうか。』
 そうだ、と御雷は言った。
『でも…それでは姉様に申し訳ないような気がします。姉様に成り代わるようで、少し気が引けるんです。』
「でもな…、お前は生まれたときからキョウコなんだぞ。K2という名は、いうなれば『恭子のレプリカ』という意味だよ。だけど、実際にはそうじゃない。」
 K2は耳を傾けている。思考を巡らせている気配がある。
「たしかに、外見は恭子の写しかもしれない。でも、中身はまるで違うだろう?」
『ええ。姉様は、私の内面が自由に成長できるように、敢えてご自身には似せませんでした。』
「だから、お前は今のお前になれた。恭子とは全く別の人間にな。お前は恭子のレプリカなんかじゃない。『本物のK2』だよ。それとも、キョウコという名は嫌か?」
『そんなこと、あるわけないじゃないですか。』
 声が震えていた。
『姉様から頂いた、大切な私の名前です。ただ…姉様と同じ名をそのまま名乗るのには抵抗があります。』
 だったら、と御雷は提案を加える。
「違う漢字を、選べばいい。お前が一番愛着を持てる字を。恭子も、子供の頃そうやって自分の名を付けたと聞いたぞ。」
 人工的に天才を生み出す実験の検体であった恭子は、マシューに引き取られるまでは個体名を持っていなかった。キョウコという名を選んだのも、それに「恭子」という字を当てたのも、彼女自身だ。
「まあ、ちっとも恭しくはなかったけどな。」
 亡き妻を思い出して笑みを浮かべられる自分に、御雷は少なからず驚いている。
 K2が小首を傾げる―――様子が見えたような気がした。
『では、武さんが提案してください。あなたが私に一番相応しいと思う字を。』
 御雷は少し考える。
「…難しいな。帰るときまでに考えておく、というのはどうだ。それでも思い付かなかったら、相談して決めよう。」
『約束ですよ。』
「ああ、約束だ。」
 この約束は守ろう、と思った。K2との約束を違えることはできない。それが、彼女の献身に対する御雷なりの報い方だ。
 K2が、不意に声の調子を変えた。
『ときに、武さん。ちょっと伺いたいのですが。』
「何だよ、改まって。」
 数瞬の沈黙。御雷は心の内を見透かそうとする鳶色の視線を感じる。
『私に話してくださっていないことがありますよね。』
「全部、話したよ。」
 迂闊にも声が裏返った。
 K2の声が僅かに尖る。
『女が、いますね。』
 御雷は答えない。女―――菊池に振り回される形になっていることは否定できない。だが、菊池は俺の女ではない…少なくとも、今は、まだ。
 K2は心底情けなさそうに深いため息をついた。
『私というものがありながら、また別の女にうつつを抜かしているなんて。本当は、それで仕事が遅れているんでしょう?』
 御雷は狼狽を押し隠す術に長けている。話題をすり替えればいいのだ。
「『また』とはなんだ。こんなことはこれまで一度もなかったさ。」
 失言、である。
 電話の向こうでK2が低く笑った。
『それは、【これが初めてだ】と解釈してよろしいのでしょうか?女がいることを認めるのですね?武さん。』
 丁寧な言葉遣いに、却って冷たい怒りが込められているようで、御雷は小さく身震いする。
 案に反して、K2の溜め息は優しいものであった。
『やれやれ、と言いたいところですが。それが御雷武さんですものね。』
 仕方がない、と笑ってみせる。
『きっと、私とその人と、【両方とも好きだ】くらいのことは平気で言うんでしょう。あなたという人は。』
「…怒らないのか?」
『怒ってますよ。』
 御雷は小さく肩を竦めた。穏やかな声で言われると却って恐ろしい。何しろ、彼女は御雷の業を継承する者の中で、史上最強なのだ。
『でも、先程お話ししたように、私には大きな負い目がありますから。もし、全部お話しして、それでも許して頂けたなら。一つだけお願いがあります。』
 正面から来られると逃げられない。そもそもK2の指摘は的を射ている。
「…きかないわけにはいかないみたいだな。」
 溜め息と共に敗北宣言した。K2が笑みを浮かべる気配がある。
『その人と私、二人ともあなたの奥さんにして頂きたいんです。』
 御雷は少しばかり混乱する。
「ちょっと待ってくれ。二人の妻をもつのは、まずいだろう。」
 K2は動じない。
『【できる】と仰いましたよ。御雷武さんは欲張りなんでしょう?』
「だから、それは相手の女性がOKしてくれないと、無理だってば。」
 ふふん、とK2は鼻で笑う。
『わかりました。その女性の説得は私がします。必ずOKさせてみせますから、安心してください。』
 その自信が、御雷を不安にさせる。
『…冗談ですよ。』
 K2の声は完全な棒読みだ。
 まったく、冗談じゃない。
 御雷は出てもない汗を拭う仕草をする。無意識の行為だと気付いて苦笑する。
「お前と話していると、どうも調子が狂う。ぼくがお前に勝てない理由が、わかるような気がするよ。」
 リズム、というのだろうか。拳を交えて勝てないのは、K2の身体能力が御雷を上回っているからという理由だけではない。こうやって言葉を交わしているときでさえ、気が付けば主導権を握られているのが、その証拠だ。
 考えてみれば、彼女と出会ってから、一度も勝てたことが無いのではないか。
 ふと、そう思い付いた。
 恭子にも、K2にも、負けっ放しだ。
 まったく…この姉妹ときたら。
 それは、決して嫌な気分ではなかった。素直に白旗を揚げることにする。
「わかったわかった。負い目と言えば、ぼくにだってある。」
『浮気をしたことですか。』
 御雷は目眩がした。
「だから…まだしてないって。」
『これから、するんですよね。』
 K2の声に嗜虐の響きがあるように思えるのは被害妄想だろうか、と思った。そして、気が付いた。
「おい。浮気も何も、ぼくらの間にはまだそういう関係はないじゃないか。」
 またしても、失言であった。K2がにんまりと笑う顔が目に浮かぶ。
『ええ、今は【まだ】です。ですが、今の言葉は【いずれそうなる】と解釈しておきます。』
「もう…好きにしてくれ。さっきまで泣きべそかいてたやつと同一人物とは思えないな。」
 けろりとした調子でK2が応じる。
『切り替えは早いんです、私。父様から、目から鱗が落ちるような言葉を頂いたもので。』
「聞くのが怖い気もするけど、教えてくれるかい。」
 堂々と、彼女は宣言した。
『【それは、それ。これは、これ。】です。』
 便利でしょ、とK2は笑った。御雷はがっくりと肩を落とす。マシュー、お前…。
 義父を恨んでも仕方がない。
「じゃあ、ぼくもその流儀でいくことにする。お前に、頼みたいことがあるんだ。」
 御雷は、順を追って依頼事項を説明した。K2の声が高くなる。
『まあ、なんて図々しい。私にそんなことを頼むなんて。』
 見えないのはわかっているが、御雷は片目を瞑って笑顔を見せた。
「図々しいのはお互い様さ。確かに、頼んだぞ。」
 K2が図々しく振る舞ってくれたおかげで、彼女に対して気を遣わずに済んでいることは自覚している。自分の過ちを後悔しているという、彼女の告白に嘘はない。その上で御雷の気分を軽くしてくれる気遣いが嬉しかった。
 一つ、思い出す。
「そういえば、四つ目の研究テーマを聞いてなかった。一体何なんだ?」
『今はまだ…とても言えません。』
 こういうのも豹変というのだろうか。こちらまで恥ずかしくなるほどに、恥じらいを含んだ声でK2は答えた。
『あなたとそういう関係になるまでは、内緒です。』
 妙に艶っぽい声に、思わず御雷は赤面した。

      2
 起きたら、もう九時過ぎだった。
 石上邸の中は静まりかえっている。
 柔らかなベッドの中で、御雷は静けさを楽しんでいる。敷地が広い上に、住宅街の奥に位置するために、人の気配や車の通過音が殆ど感じられない。
 腹が減っている。が、もう少しベッドの中でゴロゴロしていたかった。
 昨夜はK2と話し込んでしまったおかげで、すっかり夜更かしをしてしまったのだ。
「あいつめ…結局、自分の言いたいことだけ話しやがったな…。」
 天井を見ながら呟く声は、自分でも驚くほどに穏やかだった。思い起こせば、K2の手の平の上で上手に転がされただけのように思えた。可笑しくなって、御雷はくすりと笑った。
「どこまで本気なんだか…。」
 恭子。君の妹は、しっかり人間をやってるよ。彼女に漢字の名前を贈ろうと思うんだが、君ならどんな字を当てるのかな。
 時々、御雷は恭子の面影に呼びかけることがある。無論、返事など期待していない。
 ただの、習慣だ。
 大きく伸びをして起き上がる。素足で床に立つと、ゆっくりと身体をほぐした。
 そんなことをせずとも、脳から各筋肉に信号を送れば、肉体の暖気は終わる。だが、それではあまりにも味気ないではないか。
 だから、昔と同じやり方で入念に身体と意識を覚醒させる。
 小便をし、顔を洗う。まじまじと鏡で見てみる。
「顔が変わってきてるのも、K2の言う『変化』に含まれるんだろうか。」
 そもそも手術の不備とは何なのか。
「聞いときゃよかったな。…いや、あのまま話し続けたらどうなっていたことやら。」
 冷蔵庫を開いて、袋詰めのフランクフルトソーセージを取り出す。大きめの鍋に湯を沸かして放り込む。パンケーキミックスを取り出すと、水で溶いてフライパンで手早く薄手のパンケーキを何枚も焼く。ホットケーキ用の粉と違って甘くないし、卵や牛乳を入れなくてもいいところが手軽である。
 マグカップに熱いコーヒーと冷たい牛乳を一対一の割合で注ぐ。
 御雷はパンケーキにフランクフルトを挟んで食った。味を変えるためにマスタードを付ける。
 バナナを食い、ヨーグルトを食い、野菜ジュースを飲む。少し考えて、インスタントの味噌汁を定量の一・五倍の湯で溶かして飲んだ。御雷の生まれ育った地域では、甘い味噌を使う。関東風のインスタントは、御雷には塩気が強すぎるのだ。
 飯を食ったら、便意を感じた。いつものことだ。
 腹を軽くした後も、テレビのニュースを見たりしながら、何をするでもない時間を楽しむ。
 今日は土曜日だ。今ごろ、他の教員たちは部活動の指導に当たっていることだろう。
 ご苦労なことだ、と思う。アメリカでは部活動など存在しない。それぞれの生徒は思い思いにクラブスポーツを楽しんだり、文化活動を行ったりする。
 日本の学校は、何もかも背負い込もうとしすぎるのだ。本来ならば、個人や家庭、あるいは地域の問題に属することまで引き受けようとする。
 分を超える責任を背負い込むのはある種の傲慢だ、と御雷は考えている。
 それにしても。
 稲美中の教師陣の数名を思い浮かべて、溜め息をつく。
 部活動に熱心なのは、まあいい。御雷に、その熱意はない。大切な個人の時間を割いてまで生徒の指導に当たることは、今の彼にはできない。
 しかし。部活動の指導には熱心に取り組むが、他の仕事にあからさまに手を抜いたり、あまりにも仕事ができない教員に対する見方は厳しい。
「自分が何で給料を貰ってるか、忘れてるのかな。」
 声に出してみて、少し違うと感じた。部活動は、あくまで教師のボランティアという体裁を取っている。それ自体が給与の対象ではないのが事実ではある。それよりも。
 毎日放課後になるまでは眠ったような顔をして過ごしている教諭の顔を思い浮かべてみる。部活の時間になると、ようやく起きる、という感じだ。噂では、土日は丸々家を空けることが続いて、最近は夫婦仲も怪しいと聞いた。同僚の私生活にさほど興味はないが、教員というものも存外口さがないものだ。
「――ああ、ただの『趣味』なんだ。」
 納得のいく答えだが、呟いた口の中が苦い。指導者=監督が、生徒ではなく自分のために指導することの愚かしさ。審判に見つからないように反則を犯すテクニックを伝授した指導者を、御雷は知っている。
 まったく…生徒をどのように育てたいのか。目先の勝ち負けにこだわって、大事なものを見落としているのではないか。
「生徒に勝利を味わわせたい、だと?嘘をつくな。お前自身が勝ちたいだけだろう。」
 と、吐き捨ててはみるものの、直接は言えない。御雷の立場上は。
 勝てば、それでよい―――殺し合いの世界ならそれは正解だ。だが、それを教育の場に持ち込むことには賛成できない。
「そうはいっても、生徒に活動の場を保証することも必要、か。面倒なことだ。」
 とはいえ、御雷自身が休日の使い方を変えるつもりはない。
 今日は、久しぶりに石上暁子に会いに行くつもりであった。
 欠伸を一つして立ち上がろうとしたとき、電話が鳴った。仕事用の携帯電話だ。学級担任でもない彼に、急な呼び出しが掛かることはまず無い。それほどの緊急事態は、むしろ御雷自身が生み出す可能性が高い。
 職員会で開示された稲美中の教員の電話番号はすべて登録してある。何名かとは携帯電話の番号も交換している。やはり、若手の方が持っている率が高い。
 相手の名前は表示されていなかった。公衆電話からだ。
「もしもし。御雷です。」
 事務的な声を作った。
『ああ、御雷先生ですか。お休み中だったんでしょう?どうも、申し訳ありません。』
 若い男の声が、愛想よく言った。少しも申し訳ないと思っていないのが伝わってくる。御雷の唇に小さな笑みが浮かぶ。
「あんたか。あんまり調子がいいから何かのセールスかと思ったよ。」
 いやいやいや、と恐縮してみせる。
『あんまりぶっきらぼうなのも、いかがなものかと思いましてね。』
「愛想がいい役人ってのも、気持ちのいいもんじゃない。あんたの前任者は、いかにもお役人って感じだったけど。」
 御雷は顔も知らない文部省の役人のことを思う。学校再生専門員は御雷一人ではない。それぞれに担当者が付いている。
「で、今日の用件は?」
『あれ?何だか機嫌が悪そうですね。』
「悪そう、じゃなくて実際悪いんだよ。」
 思い出しても腹が立つ。
「何故、校内人事に口を出した?おかげで、こっちは色々と困ったことになっている。」
 ああ、あのことですか、と悪びれもせずに男は言った。名は知らされていない。そういう関係だ。
『あれは、私じゃありませんよ。実は、私がお知らせしたいのもそのことでして。』
「あんたじゃない?」
 学校再生専門員個人と、その仕事を知っているのは省内でも一握りの人間だ。無能では務まらない。この男も、若くしてエリートコースに乗った者の一人であるはずだ。
 だからこそ、文部省の暗部を知ることも余儀なくされる。秘密を共有することで文部省という巨大な組織と一蓮托生になるわけだ。
『あれはね、御雷先生。私なんかよりずっと上の方から出た指示ですよ。』
 相手の意図を掴みかねて黙っている。男は構わず話を進めた。
『単刀直入にいきましょう。誰かが、あなたの行動に制限を掛けて、監視しようとしています。』
「誰か、といっても文部省内の人間だろう?学校再生専門員制度反対派の巻き返し工作かい?」
『まあ、そんなところです。いや、もっと悪いかもしれません。これまでは賛成派だった者まで一枚噛んでいるようで。』
「何だか複雑そうだな。ぼくは、シンプルな話が好きなんだ。」
『いえいえ、突き詰めれば単純な話なんです。今、省庁再編の話が進んでいるのはご存じでしょう?』
「かなり体制が変わるらしいな。…ああ、業務整理の一環か。」
『あなたも、身も蓋もない仰り方をしますねえ。ご自身のことなのに。』
「ビジネスの話だからね。」
『まあ、仰るとおりです。今度、うちは科学技術庁と一緒になる見通しです。その際に、業務の引き継ぎをしなければなりませんが…。』
「表に出せない仕事もある、ということだね。ぼくとしても、そろそろ廃業を考えていたところだよ。制度そのものを終了させてくれればちょうどいい。」
『それが、そう簡単にもいかないんですよ。』
 男の声が苦いものになる。
『新たに編成される省の中での立場を固めるために、現在の文部省事業の瑕疵を暴いてやろうと動いている連中がいるんですよ。』
「つまり、点数稼ぎか。確かに、ぼくらがやっていることが表に出たら―――いや、出さずに済ませるために詰め腹を切らされる人間が出るだろうな。」
『私もその一人ですよ、御雷先生。』
 御雷は低く笑った。
「直接の担当者が知らぬ存ぜぬでは通らないだろう。それで、他の専門員にも監視が付いているのか?」
『いえ、私たちが掴んでいる限りでは、あなただけです。』
 御雷はあからさまに不機嫌になる。
「なんでまた、ぼくなんだ?他にも専門員はいるじゃないか。」
 御雷だけで全国をカバーすることはできない。殆ど顔を合わせることもないし、総員が何名になるのかは知らないが、少なくとも十名やそこらはいるはずだ。
 男の分析には容赦がない。
『それはですね、御雷先生。あなたが学校再生専門員第一号だからですよ。正確には、あなたの働きを見て、学校再生専門員制度は創設されました。二十年もの間、常にトップエージェントとして最前線に立ち続けているあなたは、制度の根幹を成す存在なのです。だからこそ、あなたの仕事ぶりを詳細に調べ上げ、あなたの存在意義を否定すれば、制度そのものを否定することができる。さらに、相手に取って幸いなことに。』
「ぼくは他のどのエージェントより血を流す、か。」
『あなたは、華のある仕事を好みますからねえ。』
 事故死ではない。とてつもない腕を持った死に神が、お前たちを狙っている。そう思わせることが、ワルの予備軍を引き返させることにつながる。
 だから、最高難易度の殺しを、一つは組み込むことにしているのだ。
「状況は、わかった。監視者の情報をくれ。」
 御雷の決断は早い。
『殺すんですか。』
「人聞きが悪いな。まだ仕事の途中なんだ。教師が巻き添えを食らったとしても仕方ないだろう?…ま、できれば決定的な証拠を握られないように気を付けるさ。ぼくだって、殺しは好きじゃない。」
 はあ、と応える男の声は疑心に満ちている。それでも話を続けた。
『それが…わからないんですよ。』
「はあ?」
 男の、歯切れが悪い。
『稲美中学校については、内偵をうちのチームがしたわけではないんです。もちろん、元になったのはあなた自身の希望です。あなたの住居等についても、私が手配しました。』
 石上邸のことは男には知らせていないが、教師としての仮住まいとは別に住処を持つことには暗黙の了解がある。
「普通は、内偵からぼくの派遣、そして仕事が終わった後の後任の手配まで、一括して行うよな。」
『ええ、オールインワンでパッケージングされています。壊すのはあなたの仕事。その後立て直すのは、それを得意とする人にやってもらうのが常ですが…。』
「一番大事な情報収集のところを他所にやらせたのか。」
 御雷の冷たい怒りを、男は受け流した。伊達に彼の担当官をしているわけではないのだ。
『やらせたのではなく、持って行かれたんですよ。おそらく―――内偵を行った者が、そのまま監視役として残っているかと。』
 声を潜めるようにして続けた。
『私も迂闊でした。思えば、今回の仕事は最初から、きな臭かったんです。』
 御雷は唸った。
「わざわざ電話をしてくるなんて、珍しいと思ったら。やれやれだね。」
『まったくです。内輪のごたごたでご迷惑をおかけして申し訳ありません。おかげで、改めてお願いしなければならなくなりました。』
 御雷の唇に薄い笑みが浮かぶ。
「ああ。もし、ぼくが尻尾を掴まれて全てが明るみに出そうになったら。」
『死んでください。』
 心得た、と御雷は応えた。そこまでのヘマをすれば、どの道生きて帰ることができない状況に陥っているはずだ。
『よかった。これで、安心して眠れますよ。』
 苦笑しながら電話を切ろうとした御雷に、男が囁いた。
『別ルートで、あなた個人の情報が流出しました。くれぐれも気を付けてください。』
 御雷の頬が、一瞬痙攣する。
「誰だ。」
『さて…ね。米軍ルートのようですが、死人に尋問するわけにもいきませんしね。』
 これは、ボーナスですよ。含み笑いとともに、電話が切られた。
 何がボーナスだ。携帯電話を睨み付ける…が、すぐに溜め息をついた。
 ソファに寝転んで天井を眺める。
 サイモンとは別のルートで、圧力なり懐柔なりが行われている。御雷の根っ子の部分はアメリカにある。恨みを買っているにしろ、追われる理由なら心当たりは腐るほどあった。
 そして、改めて思い出す。
 俺の身体。そして脳。俺の存在自体が機密扱いだった…な。
 人を兵器として運用する実験が今も続いているのだ。
 それにしても。
「なぜ、『今』なんだ?誰がぼくの情報を欲しがるっていうんだろう?」
 考えても答えは出ない。技術漏洩があったとしても、とうの昔に人体を意図的に御雷と同じ状態に改造することは不可能だと、結論が出たはずだ。
 情報を漏らした本人に訊くわけにもいかない。数日前の首都圏の新聞に、小さな記事が出ていることだろう。不幸な交通事故の記事が。
 建の教えを思い出す。
 考えることは大切だ。立ち止まってみるのも大切だ。だが、立ち止まって考え込むのは駄目だ。どうせ前に進むなら、歩きながら考えろ。
「今思うと、割と雑なことを言ってたんだよな、先生も。」
 死者に対する言葉は厳しいが、御雷の貌は穏やかだ。
 誰が俺の邪魔をしようとしているは知らない。ただ、仕事を少しばかり急ぐだけのことだ。
 時計を見る。十一時半になろうとしている。
 御雷は慌てて着替えを済ませると、スープラのキーを掴んで玄関を出た。

      3
 しばらくぶりに会う石上暁子は、やはり童女のような笑顔を見せてくれた。ひとしきり話し込みながら、一緒に食事を摂る。外来者用の昼食を事前に注文してあった。
 高齢者用に、塩分を控えめにしてある―――ということはない。むしろ、味覚の衰えに合わせて、少し濃い味にしてあった。暁子は大分食が細くなってきている。塩分の過剰摂取よりも、食べられないことの方が問題だ。
 だから、施設の医師とも相談して、「とにかく暁子が美味いと感じること」を可能な限り優先してもらっている。
 皺深い顔は、相変わらず気品のある美しさを湛えていた。やや頬がこけた感じがするのが、御雷の胸を刺す。できれば、もっと会いに来てやりたいが…。
 他愛もない話を続けていたとき、ふと暁子が御雷の手を握った。
「兄さん。」
「ん。なんだい。」
 暁子の瞳は明るい色をしていた。もともと、色素が薄いのだ。
「兄さんは、何だか疲れているみたい。顔色が、少し悪い。」
 御雷は手を握り返す。
「心配させてすまないな。ぼくは大丈夫だよ。だから、お前も少し昼寝をするといい。」
 暁子は素直に自室に戻ってベッドに入った。彼女が眠るまで、御雷は見守ることにする。いつもと同じだ。
「あのね…最近よく夢を見るの。」
「ふうん。誰か出てくるのかい?」
「ええ。お父さんと、お母さん、それに兄さん。みんなが一緒に暮らしているの。前に住んでいたあの家に戻っているのよ。」
 そうか、と言って御雷は一瞬目を瞑る。
「父さんと母さんは、元気なのかな。」
「夢の中では、とても元気よ。でも、目を覚ましたら、私には兄さんしかいないの。」
 暁子の両親は、もう何十年も前に他界している。
「ぼくは、お前を置いていなくなったりしないよ。」
 掛け布団を、軽く叩いてやる。一定のリズムが、暁子を眠りに誘う。
「私が兄さんを置いていくかもしれないわ。お父さんとお母さんが、もうすぐ迎えに来てくれるような気がするの。」
 御雷は、辛うじて声を絞り出す。
「だったら、ぼくがちゃんと見送ってやる。ぼくはまだ一緒には行けないからな。」
 暁子が、閉じかけた目を開けた。淡い色の瞳が御雷の美貌を映している。
「約束してくれる?」
「ああ。兄さんは約束を破らない。だから、ぼくが来るまではちゃんと待っているんだぞ。」
 うん、と答えて暁子は目を閉じる。手を握ってやると、すぐに眠りに落ちた。
 風邪を引かぬよう、腕を布団の中に戻してやる。
 そっと部屋を出ると、暁子の担当職員に声を掛けた。
「少し、元気が無いようですね。」
「そうなんです。お食事の量も減っています。特に疾患があるわけではないのですが…何分ご高齢なのと、若い頃に随分ご無理をされているので…。」
 体力の低下が著しい、という。
「まだ七十歳を少し出たばかりだというのに…仕方がないことなんでしょうか。」
 職員は首を横に振った。
「残念ですが、自然に任せるしかないとお医者様も仰っています。ゆっくりと、人生の最期に向かうだろうと。」
 御雷は頷いた。延命治療をする予定はない。
 できることならば。暁子を安らかに逝かせてやってくれ。
 御雷は誰にともなく祈った。

 午後九時。
 例によってコンビニで買ったおにぎりを三つ胃に収めた後、御雷はスープラを峠に向けた。免許も、車検証も、それに合わせたナンバープレートも、全てが「田中吾郎」のものだ。
 土曜の夜の、祭が始まる頃合いだった。
 御雷はドリフト組の車列に並んでスタートを待つ。助手席には濃いグレーのフライトジャケットが伏せられている。左手が、その下で減音器付きのボウランドを握っていた。
 合図に合わせて一台ずつ飛び出していく、新旧の国産スポーツカーのテールランプを眺めながら、御雷はぼんやりと考えている。
 片瀬啓介を、殺す。
 その結論は、四月当初からの奴の様子を見た上で出したものだ。とにかく、「酷薄」を絵に描いたような少年だった。小柄な外見に騙されれば痛い目に遭う。暴力に対する歯止めがない。必要なら刃物を持ち出すことにも躊躇はなかった。
 馬越が騒動を起こす少し前に、生徒指導の青山が背中を刺されたことがあった。原因は、やはり校内での喫煙を咎められたとか、そのような些細なことである。幸いにも、青山が日頃から服の下に入れておいた分厚い電話帳が刃を防いでくれた。おかげで、僅かに飛び出した切っ先が、肌を浅く傷付けただけで済んだ。
 だが。
 片瀬は、あろうことか、そのナイフの柄を蹴り込もうとしたのだ。小柄ではあっても、体重を乗せた蹴りであれば、青山の体内に刃をねじ込むことは可能だ。
 間一髪の所で田中が片瀬を蹴り飛ばしたため、それ以上のことにはならなかったが…。
「片瀬…やっぱりお前は死んだ方がいい。」
 左手で強くボウランドのグリップを握りしめる。ぐるりと全周を囲むチェッカリングが、手の平に食い込む。全鋼製のグリップは、やはり冷たい。
 手に震えが来ないところまで力を緩めると、銃器と自分の境界線が曖昧になるような感覚があった。
 正確には、自分自身が武器になる感覚だ。
 鋼のメカニズムと一体になる瞬間は、御雷が己の生を実感できる数少ない時間だ。
 運転席と助手席のウインドウを全開にする。デフロスターを作動させる。
 スタートの合図を待つ御雷の口元がほころんでいる。
 微かに笑みを浮かべているのだ。
 自分が菊池の調子外れな歌を真似していることに、御雷は気付いていない。
 スタート係がニンジン――誘導灯を振った。
 無造作にアクセルを踏み込む。
 短いスキール音。猛烈に加速する黒い車体。
 最初のコーナーに飛び込む際のドリフトアングルの付け方も、殆どカウンターステアを当てずに右手だけで操作するのも、練習と同じだ。
 毎回、難易度の高い殺しを実行するときに、御雷は思う。
 練習こそが本番だ。繰り返し繰り返し策を練り業を高めることには、緊張と悦びがある。その一方で、実際に殺すときには意外なほどに感慨がない。
 スープラを走らせるのも同じ事だ。御雷は走行ラインを紅い線としてイメージしている。練習通り、そのラインに車を乗せて走らせるだけのことだ。
 出鱈目な歌を口ずさみながら、御雷は次々とコーナーをクリアしていく。スープラのテールは大きく左右に振り出され、激しいタイヤスモークと派手なスキール音が一際ギャラリーの注目を集めた。
 長い上り坂。大きく踏み込んだアクセルの開度も、いつもの通りだ。
 ボウランドを取り出して、構えた。スーパータイジャーの光点が明るい。ダットサイトの筒の中で乱反射を起こさないギリギリの所まで輝度を上げてあるのだ。
 一台で走るのなら、光量を絞ってシャープな光点で狙う。だが、複数の車が走ればテールランプの明かりもある。ときには対向車が来ることも。
 光量の変化に対応するためには、たとえ逆光であってもダットを見失うことがあってはならない。
 これも、練習で学んだことだ。
 このコースの最高速を記録した直後、フルブレーキングしながら右の直角コーナーに飛び込む。理想的なドリフトアングルで飛び出すと、そのまま四輪を流しっぱなしでS字コーナーに入る。
 そこに、いるんだろう?片瀬。
 一瞬、ヘッドライトの明かりに浮かんだ奴の横顔を目に焼き付ける。
 今、行ってやる。
 大きく車体を横に向けたまま、ギャラリーコーナーの前を通過する瞬間。
 ボウランドの銃口が綺麗な軌跡を描いてスイングした。
 御雷はトリガーを三回絞る。
 押し殺したような銃声はバックファイヤの音よりも小さく、弾き出された空薬莢は薬莢受けで回収される。
 ガンスモークは乾燥したフロントガラスを殆ど汚すことはなかった。全開にした窓からすぐに流れ去る。
 セフティを掛けてボウランドをジャケットの下に戻す。
 両手でステアリングを握り、さらに加速する。
 峠の頂点で、コーナーの路面が大きくうねっている。グリップ走行で進入し、路面のうねりで四輪の荷重バランスが崩れるのを利用してテールを派手に振り出した。端から見れば破綻寸前の走りなのだが、御雷にとっては予定通りだ。
 まだタイヤのグリップは、車体をコントロール下に置くことを可能にする程度には残っている。
 道は下りに変わった。だらだらと下りながら曲がっていく先に、九十度の右コーナーがあり、さらに左のヘアピンカーブへと続く。路肩がないためギャラリーはいないが、最も難易度が高い区間だ。重いスープラにとっては苦手な区間でもある。
 御雷は躊躇無くアクセルを踏む。今の彼にとって速く走ることは、いち早く犯行現場を離れることを意味する。
 直角コーナーの進入では最初から車体を横向きにし、四輪の抵抗を利用しながら曲がれる速度まで減速する。四本のタイヤが一際激しく煙を上げる。
 グリップを回復させないまま、高低差のあるヘアピンカーブに突入した。振り戻しを利用して一瞬で車体の向きを変える。クリッピングポイントでは、長いフロントノーズがガードレールに擦りつけられそうな程に接近した。
 御雷は終始、小さな声で歌を口ずさみ続けている。その瞳に、夢見るような不思議な色が浮かんでいた。
 峠の出口で一時停止の標識を守り、広域農道に合流する。制限速度を守って走り去った。
 かくして、狙撃者は誰にも見とがめられることなく犯行現場を後にすることに成功したのであった。

 片瀬は、自分に何が起きたのか、最期まで知ることはなかった。
 もし、彼が気まぐれを起こして、昼間峠を訪れていたなら。
 彼は発見したはずだ。
 自分の定位置の背後に据え付けられた、丸い鉄板製のターゲットを。そして、そのターゲットに無数の凹みが穿たれていることを。ターゲットが取り付けられている樹の幹には、外れた弾が、これも無数の弾痕を残していた。
 それが意味するところを理解できれば、片瀬は峠でドリフト見物などしなかったに違いない。馬越の見舞にでも行ってやればよかったのだ。
 だが、そうするにはあまりにも片瀬は酷薄すぎた。だから、御雷の読み通りに行動し―――死んだ。
 片瀬はお気に入りの場所で、樹にもたれて座っていた。両眼は開いたまま、瞬き一つしない。
 眉間に開いた穴は、三連射の二発目が穿ったものだ。
 頭上に据えられた丸い鉄板に、後頭部の射出口から吐き出された脳髄と大量の血液が撒き散らされていた。
 ほんのしばらく前に御雷が白いペンキを塗ったターゲットが、今は赤く染まっている。
 赤いターゲットに呼ばれたように、空で赤い月が不吉な光を投げていた。禍々しい赤い光の中、座り込んだ片瀬の身体から、温かい液体の海が静かに広がっていく。
 ゴムの灼ける匂いや違法改造車の排気ガスの匂いを圧倒するように、血の匂いが辺りに立ちこめ始めていた。

      4
 片瀬の死体が発見されたのは、日曜も日が高くなった頃だった。
 一人で特等席を独占していることが災いし、闇の中で彼の命が失われたことに誰も気付かなかったのだ。
 ただでさえ交通量の少ない旧道である。家族連れは通らず、休日で通勤に使う者も今日だけは通らない。
 発見したのは県外から大型バイクを連ねてやってきたツーリングの一団であった。
 通報を受けて飛んで来た今原署の署員は、異様な光景に息を呑んだ。
 単なる射殺体である。額にただ一発銃弾を受けているだけの死体は、むしろ綺麗な部類に入る。
 腹を撃たれたり、刃物で切り裂かれたり、あるいは可燃性の液体を掛けられた上で焼き殺されたり。時間が経てば、小動物に食い荒らされたり虫が集ったりする。水中に遺棄されれば、時間をおいて酷い姿で浮かび上がることもある。
 損傷の激しい死体は、嫌でも死というものを意識せざるを得ないだけの凄惨さをもっているものだ。
 片瀬の場合、それは無かった。光を失った瞳は生前の凶眼ではなくなっている。むしろ自分の死を実感できていないきょとんとした表情が、愛らしくさえある。
 小柄であどけない少年の、射殺体。
 御雷なら平然と言ってのけるだろう。「害が無くなれば、片瀬だって可愛いものだ」と。
 捜査員を慄然とさせたのは、死体がもたれかかった樹に穿たれた無数の弾痕であった。その数が、そして頭の高さに来るように設置された練習用のターゲットが、殺人者の周到な計画と異様なまでの準備の緻密さを示している。
 普通であれば、こんな難しい状況下では撃たない。峠を走っている連中から情報が集められた。当日の状況を総合してみると、走行中の車の中から撃ったとしか思えない。
 助手席から撃ったとしても、難しいことに変わりはない。だが、スタート係の記憶によれば当日の参加者は一人が多かったというし、少なくとも助手席から銃器を突き出して走る車が目撃されてはいない。
 一応、助手席に人を乗せていた者を中心に捜査してみるが、もとよりお互いに知り合いというわけではないため、雲を掴むような話に終始する。
 周辺のNシステムの情報も解析されたが、決定打は出ない。
 片瀬自身を洗うと、色々と不審なものが出てきた。
 乗ってきたスクーターは盗難車であった。ポケットの中のナイフと、煙草は予想通りだった。が、体内から麻薬を使用している痕跡が得られたことは大きかった。以前から、不良少年グループの一員として、触法行為に関しては警察のブラックリストに載っている。実は、小学生のときから。
 仲間の中には暴力団との付き合いが噂される者もいるが、麻薬が出てきたことである程度裏付けられたことになる。
 強引に物語を作るとするならば。
 敵対組織に関係する者―――そいつも多分中高生ぐらいだろう―――が、何らかの理由で片瀬を殺した。要するに、暴力団同士の抗争の代理戦争のようなことが、下部組織である不良少年たちの間で行われているのではないか。
 実際の所、その説を唱えている捜査員ですら、自説を微塵も信じてはいない。マスコミ発表用に、それなりに面白いストーリーを用意しているだけのことだ。
 これは、プロの仕事だ。練習に使った弾の数を見ただけで、自在に弾薬の補充が可能であることがわかる。ケチなチンピラの所業ではない。
 この事件の根は、深い。
 案の定、上から深追いするなという指示が下りてくる。
 捜査員たちにはわかっている。このような指示が出たときの展開が。
 これから、たくさん死ぬ。そして、それは地方の所轄がどうにかできるようなものではないのだ。
 生徒が射殺されたということは稲美中にも伝えられる。生徒指導に警察から連絡が入り、管理職や担任に情報が伝わる。捜査中であるため、細かい情報は伏せられている。
 校長は全職員に非常招集を掛けた。昼飯を食おうとしていたときに呼び出しを受けた者も多い。
 稲美中の職員室には御雷の姿もあった。うんざりした表情と欠伸を噛み殺し、神妙な表情を保っている。
 尾内校長が、現時点で判明していることを伝達する。銃撃による殺害、という話が出ると職員室はざわめいた。
 隣の席の菊池を見ると、顔色が悪い。血の気の引いた唇を噛み締めていた。
 銃撃による死。
 彼女にとっては思い出したくもない記憶に繋がっているものだ。
 校長が話をまとめにかかる。
「――というわけで、詳細についてはまだわかりません。ですが、マスコミにとっては格好のターゲットであることも確かです。マスコミだけではなく、保護者からもみなさんに何らかのアプローチがあるかもしれません。その際に、決して憶測でものを言わないでください。外部への対応は全て教頭先生に回してください。生徒への説明はきちんと集会を開いて行います。時期は―――新聞に載るのとタイミングを合わせた方がいいと考えています。」
 片瀬の死体はまだ警察にある。通夜もできないのだが、管理職と担任が弔意を伝えに行くのだという。それ以外の教員については、ひとまず解散ということになった。何しろ、日曜日なのである。生徒一人が死んだことは大事件ではあるが、教師にも自分の家庭というものがある。
 あっさりと引き上げていく…のだが、皆無口だった。無意識のうちに事件のことを口にしないよう、言動に制限を掛けているのだ。
 御雷は、虚ろな目で座っている菊池には、敢えて声を掛けなかった。急ぐともなく、何気ない様子で職員室を後にする。
 その背に、田中が暗い視線を注ぐ。
 こいつ…とうとう、本気を出し始めた。これで、三人。いや、馬越も入れれば三人半というところか。
 何人、殺すつもりなのか。
 胸の中の呟きとは別の言葉が口から出た。
「菊池ィ、こういうときは飯だ。せっかく外に出たんだから、昼ご飯を食べて帰ろう。今日は私がおごるからさ。」
「じゃあ私はお寿司がいい。」
 田中はじろりと守矢を睨む。
「なんで洋子がおごられる気満々なのよ。」
 んー、と声を出しながら守矢は天井を眺めた。やがて、満面の笑みを浮かべて親友に人差し指を立てて見せた。
「私の、快気祝い。」
 化粧で隠してはいるが、まだ痣が残っている。髪型で誤魔化すこともできるだろうに、長い髪を後でまとめている。敢えて、顔をきっちりと出すあたりが、田中と馬が合う所以だ。新調した眼鏡が、細面の顔によく似合っている。
 田中はまじまじと守矢の顔を見つめた。
「洋子、あんたって、よく見ると美人だね。」
 思わぬ言葉に、毒舌家に似合わず赤面する。
「何よ。藪から棒に。」
 田中はにやりと笑った。
「別に。高校時代からあんたの隠れファンが結構いた理由がわかっただけの話。黙って澄ましていれば、確かに綺麗な文系知的女子に見えるわね。」
「数学科の教師に向かって『文系女子みたい』って…褒めてないわね。というか、私の隠れファンって何よ?そんな奴誰も私の前には現れなかったわよ。」
 田中は説明してやる。
「だから…隠れているうちに、あんたの実態―――毒舌に恐れをなして姿を消しちゃうのよね。もし、あんたが毒舌を封印していたら、彼氏どころか、今ごろは結婚して子供の一人くらいいたんじゃない?」
 失ったものの大きさが実感として降ってきて、守矢は思わず頭を抱える。
「青い鳥か!憧れの結婚生活が、実はすぐそこにあったなんて…。」
「鳥かごを開けて逃がしちゃったのは洋子自身だけどね。」
 本気で落ち込む姿に、少し可哀想になってきた。
「わかった。今日は二人ともおごってやろう。」
 尊大にいってから、器用に片目を瞑って笑う。
「ただし、回る寿司だぞ。」
 ようやく、菊池が笑顔を見せた。

 スバルを駆って、御雷は坂道を下る。
 稲美中を背に、幹線道路まで細い道を下るのだ。
 小さく欠伸した。
 狙撃が上手くいったことを知って、安堵した。手応えはあったと感じたが、実際に片瀬の死体を確認したわけではない。
 時々、ルームミラーに視線を走らせる。
 尾行は付いていない。
 これから、学校関係者に警察が張り付くようなこともあるだろう。そこは何とかしなければならない…のだが、御雷の仕事には常について回る問題ではあった。
 必要であれば警察関係者であろうと始末するまでだ。―――もし血路を開けなかったら、自分が死ぬだけのことだ。
「その時は、K2に詫びながら死なねばならない…か。」
 声に出してみて、今更のように実感する。
「約束なんてするもんじゃないな。」
 K2に会って話をする約束。彼女に名前の漢字を贈る約束。
 石上暁子の死を見届ける約束。
 菊池由美を守る約束。
 そういえば、田中に礼をするという約束はまだ果たされていない。
 英語の学びを保証する約束は、生徒自身によって実現しつつある。彼がいなくなってもやっていけるように、教材も準備してある。
 御雷は、自分自身のことを特別律儀な人間だとは思っていない。
 ただ、一度交わした約束は、必ず守らねばならない。少なくとも、守るために全力を尽くさねばならない。そう考えている。
 とはいえ、何事にも優先順位というものがある。
 彼が最も優先すべきは、稲美中の荒れの原因を綺麗に取り除くことであった。
 それができなければ、己の存在意義など無いに等しい。
 血を流す武器に、己を変える。それが、生きた証。
 御雷は、そういう男であった。

      5
 教員として借りている住宅に戻ると、スバルをガレージに仕舞った。
 建物の出入り口に目立たぬように貼ってあった細いマスキングテープも切れてはいない。古典的なやり方だが、御雷が極細のペンでサインし、封印として機能するよう仕掛けておいたのだ。
 もし招かれざる客が注意深い人間であったなら、封印を発見して侵入を諦めるであろう。
 しかし、それは同時に御雷が侵入者を意識していることを知らせることにもなる。何か隠し事をしているのではないか、と勘ぐられることにも繋がりかねない。
 諸刃の剣、である。気付かぬ振りをしている方が、先手を取りやすくはあるが、向こうから引き下がってくれればそれに越したことはないとも考えている。
 ベレッタは仕事用のビジネスバッグに移している。
 ひんやりとした室内に入り、念のため各部屋を見て回る。盗聴電波も調べてみたが、反応はない。
 休日の非常招集であったから、御雷はジャージ姿だ。ごろりと横になる。本当なら、太った体格の擬態を解いて、本来の姿でリラックスしたいところだ。そうするなら、この大きいサイズの服は邪魔になる。
 だが、と御雷は薄暗い天井を睨む。
 尾行は警察だけとは限らない。
 文部省内の勢力争い―――学校関係者にはこの家の所在は知られている。監視者が誰であれ、見張られていると考えておいた方がいい。
 そして、米軍ルートからの情報漏洩。
 得体が知れない分、こちらの方が気持ちが悪かった。ただ、その情報がどこに流れるのかと考えたとき。いくつかのシミュレーションを行い、直ちに問題になるのは河津組の関係者に知られることであろう、と思う。
 何といっても、河津組は御雷によって存亡の危機に陥りかねないほどのダメージを負わされている。御雷に余裕があったのは、彼自身が暴力団との接点を持っていなかった―――河津組には存在すら知られていなかったからである。御雷の一方的な都合で襲撃を掛けられた河津組が不幸だったというしかない。
 御雷の存在が、襲撃犯として認知されれば立場は逆転する。仮にも準公務員である。勤務先も住居も、丸裸にされると思って間違いない。
「最悪の場合、河津組そのものを潰してしまうことも必要かな。…西本共々。」
 言葉にして考えを整理するのが習慣になっている。
 御雷は自分の唇が笑みを浮かべていることに気付き、少しだけ呆れた。
 文部省の担当官は「死ね」と言った。それは受け入れたが、その場合には盛大な花火を打ち上げて少しばかり慌ててもらおう。
 火消しと後始末は役人の仕事だ。
 身動きが取れなくなる前に、同時進行で準備をしておく必要がある。
 決断してからの行動は早い。
 ジャンプスーツとフライトジャケットという、お決まりの格好に着替えると、ヤマハを引っ張り出した。威力の大きなボウランドは石上邸にある。ベレッタだけが頼りなのは、この際仕方がない。
 目視で索敵する。のみならず、五感の全てを限界領域に押し上げて周辺を探る。完全とはいえないが、差し当たって危険な存在は察知できない。
 御雷はバイクを出した。
 走り始めて五分ほどで、尾行の存在に気付いた。
 地味な国産小型車だ。目線だけでミラーを確認すると、小さな車に不釣り合いな人相の悪い男が二人。
 河津組の方か、とも思うが人相の悪さなら刑事たちも負けてはいない。ただ、捜査車両によく使われる車種ではないことが、警察である可能性を低いと判断させた。
 人気の無い場所に誘い込んで始末するのは簡単だ。何なら、今すぐ、走行中に後ろ手で撃ってやってもいい。
 問題は、その行為が相手の警戒心を高めるだろうということだった。尾行者が河津組関係者だと仮定するならば、もし御雷が襲撃犯だという確信があれば尾行などというまどろっこしい方法は取らないはずだ。
 こういう場合は、あくまで気付かぬ振りをするのがよい、と判断した。
 御雷は西本に映像を撮られたことも、それを沢田らが見たことも知らなかった。が、玄はともかく他の連中が、丸っこい見た目の一講師に組事務所襲撃などという大それたことができるとは信じていないのも事実である。たとえ、個人としての体術がいかに優れていようと、できることとできないことがあるはずだ。
 ヤクザといえども常識には縛られる。
 だからこそ、尾行し、観察し、玄の言葉の裏付けを取ろうとする。その、沢田の指示を、玄は止めなかった。「餌に傷を付けなければ、別に問題はない」ということであった。
 御雷はコンビニに入った。弁当と茶をのんびりと選ぶ。缶コーヒーもだ。
 ヤマハの荷台に取り付けたコンテナ状のボックスに入れると、再び走り出す。
 尾行車は付いてきている。
 特に飛ばすでもなく、すいすいと軽快に走る。山手に近付いてきたところで公園に寄った。
 御雷はのんきな表情を浮かべてベンチに腰掛ける。買ってきた弁当を広げ、野鳥のさえずりを楽しみながら食事を摂る。コーヒーを飲み干すと、几帳面にゴミを分別してゴミ箱に放り込む。
 休日に林道ツーリングを楽しむ、という体裁で尾行者を連れ回しているのだ。一度も振り返ったり存在に気付いた素振りは見せない。
 昼食後、公園脇の道から山に入った。この道は狭いが普通乗用車なら何とか通り抜けることができるだけの道幅がある。ただし、離合スペースは皆無だ。
 さらに。奥の方で路面が大きくえぐれ、乗用車では通過できない場所がある。
 ヘルメットの下で、御雷は意地悪い笑みを浮かべている。体型が福々しいだけに違和感があった。この姿は善良な教師を演じるための仮面だ。
 未舗装の細い道を、御雷は結構なスピードで走った。逃げ切ろうとする走りではない。相手には気付かない振りを続けている。つまりは、追ってこられるスピードしか出していない。コーナーでは派手に土埃を巻き上げ、後輪をスライドさせながら曲がる。
 尾行者の運転技術はまずまずだった。スリッピーな路面をものともせず、一定の距離を空けて追ってくる。時々、前輪駆動車特有のタックイン現象を生かして車体の向きを変えているのを、ミラーの隅で捉えている。それでいて、無駄な土煙を上げないように気を遣っているのも伝わってくる。
 なかなか、いい腕だ。でも、物理限界は超えられないぜ。
 十キロばかり走ったところで御雷はスピードを上げた。追跡車も間隔を一定に保つために加速する。
 と、追跡車のフロントガラスの視界の中で、御雷がシートから腰を浮かすのが見えた。
 激しく暴れる車体を巧みに押さえ込んだと見えるや、大きく空中に飛び出した。一際大きな地面のこぶに跳ね上げられたのである。
 それも計算ずくなのか、着地とともに何事もなかったように走り出す。相変わらずのツーリングペースだ。
 追跡車の方はそういうわけにはいかなかった。路面は、荒れているなどという生易しいものではなかった。豪雨によって土石流が洗った跡、である。古い土石流の傷跡が、整備されないままに残されているのだ。
 何しろ、今原市には金がない。
 激しく車体を揺さぶられ、車体の底を擦り、挙げ句に大きな石に乗り上げて止まった。運転手が下りて確認してみると、エンジン下部のオイルパンが割れて、大量のエンジンオイルが流れ出していた。
 憎々しげに睨む視野の中を、御雷の後ろ姿が悠々と走り去っていく。
 いっそ、後から撃ってやろうか。助手席の相方が言ったが、止めた。そんなことをすれば玄に殺されるのは自分たちだ。
 助けを呼ぼうと携帯他電話を出して、目が点になる。「圏外」の表示が出ていた。
 御雷は声を出して嗤っていた。この道には、今原市内でも数少ない、携帯電波の空白地帯があるのだ。無論、こんなときのために用意したいくつかの逃走ルートの一つである。
 少々遠回りしたが、石上邸に辿り着く。
 体型を変え、服装を変えた。軽トレッキングにでも行くような服装だが、バックパックが大きい。
 少し危険はあったが、時間が惜しい。公共機関を使わずにスープラをガレージから出す。今日は石上剣名義の車両ということになっている。
 いつもの通勤路とは別ルートで稲美中学校に戻る。
 以前、麻薬の買い付けを終えた馬越を追跡し、学校に先回りするために通ったルートである。
 御雷は県道を外れて山手の脇道へ入る。舗装が古く、傷んでいる。スープラには少々狭く感じられる。稲美中の上手――山側に出るため、だらだらとした上り坂が延々と続く。運転はしにくいが、距離的には近道なのである。
 住宅地を抜け、溜め池の脇を通り、短い切り通しを抜ければ、もう学校だ。
 御雷は、溜め池の手前で左折した。稲美中の裏山の頂上には展望台があり、その手前は駐車場になっている。そこへ、向かう。
 日曜の午後である。、山歩きや犬の散歩をしている近隣の住民とは出会わなかった。市外からハイキングを楽しむ連中にも会わない。彼らは朝方に登ってしまう。
 ちょうど、空白の時間帯を狙って、ここへ来たのだ。
 駐車場にスープラを突っ込むと、大きなバッグを背負って、御雷は来た道を下っていく。足取りは軽い。
 本気で膂力を振るわなければ、体温の上昇もそれほど気にしなくて済む。それでも時々冷たい水を口に含む。
 車道を離れ、遊歩道に入る。しばらく歩いてから、遊歩道からも逸れる。腰まである藪をかき分け、御雷は斜面を下っていく。この辺りはマダニの被害が多いから、服の中に侵入されないようにした上で、殺虫剤を振りかけてある。
 地形図は頭の中に入っているが、そんなものが無くとも方向を間違えることはなかった。
 御雷が真っ直ぐに進んでいる先に、稲美中学校の白い校舎の先端が見えている。通称「離れ小島」の最上階が見えているのだ。
 藪が、切れた。斜面に開けた小さな空き地に出たのである。稲美中に向かって張り出した小さな尾根のてっぺんが剥げたように植物がない状態になっていた。
 腰を下ろして校舎を眺めてみると、上手い具合に離れ小島の一階―――ワル共の溜まり場にある嵌め殺しの窓を通して中を見ることができた。
 決して偶然ではない。赴任前からこの辺りを歩き回り、条件に合う場所を見付けておいたのである。
 レーザーレンジファインダーで計測すると、窓までで約五十メートル。近いが、高低差があるので道からも、校舎内からも見つかる可能性はほぼ無い。
 ここを、狙撃ポイントに決定する。
 御雷がバッグから取り出したのは、ダットサイトが載ったルガー10/22である。二十年経っても、やはりこの銃を使うのであった。二十五発入りのマガジンも用意してある。ストックと機関部に分解してあったそれを、手早く組み立てる。
 次いでバッグから取り出したのは、金属製のアタッシュケースのような物体であった。艶消しの灰色に塗られている。取っ手が付いているそれは、航空機内に持ち込み可能な程のサイズである。御雷は軽々と扱っているが、実に二十キロ近い重量がある。無造作に地面に置いた。
 最後に取り出したのは、まだ珍しいタブレット型コンピュータだ。この時代には無線でインターネットに接続する技術が確立されていないため、「端末」という名称は馴染まない。当然ながら無線LAN機能など搭載されてはいない。
 そこで。
 御雷はタブレットの端子にケーブルを繋ぐ。本来は、ごく短い距離で液晶プロジェクター等にデータを飛ばすための発信装置を繋ぐ端子である。例えば、室内におけるプレゼンテーションなどに使用する際に役に立つ。発言者は自由に歩き回りながらプレゼンを行うことができる。
 もともとはビジネスの現場で活用されている技術ではある。電波自体は室内での使用を想定しているため、極弱いものだ。
 しかし。御雷が送信機として繋いだのは、裏の仕事で使うための携帯電話端末であった。衛星経由でアメリカとの会話を行うことができるそれを、御雷はコンテナハッチの開閉リモコンとしても活用している。
 要するに、携帯電話の通話電波を使えば、より遠くまで情報を伝達することができるということだ。
 初めに、電話でK2を呼び出す。電話機をポケットに落とし込む。
「今から、起動する。通話を維持したまま、命令の伝達ができるかい。」
『ええ。特に難しくはありません。一回線を仮想的に二回線として扱うことにします。』
 御雷は耳に挿したイヤフォンでK2の声を聞いている。両手をフリーにするためだ。彼の声はポケットの中の携帯電話がきちんと拾ってくれる。外見こそ市販品のようだが、一つ一つの部品の品質がとてつもなく高いのだ。といっても、分解した程度では見分けが付かないように偽装してある。専門家が部品単位で比較実験を行わなければ、容易には露見するまい。
 御雷はタブレットの電源を入れる。起動に掛かる時間は、それほど長くない。ホーム画面には、授業で生徒に見せてやる予定の動画がいくつか貼り付けてある。それらに混じって、目立たないアイコンが、一つ。
 タップすると、小さなウインドウが開いた。味気ない数字や言葉が並んでいる。それが機材の状態を示していることを御雷は知っている。
 電源…待機状態。機体状態…収納モード。火器管制システム…停止。登載火器…無し。予備弾薬…無し。
 「起動」を示すアイコンにタッチする。電源が「待機」から「稼動」に表示が変わる。機体状態が「収納モード」から「展開」に変わる。
 御雷はトランクから二メートルほど離れた。
 微かな振動音がして、トランクが開いた。蓋が開いたのではない。トランク全体に切れ目が入り、無数の細切れのような細く長い足を持った姿に変じたのである。例えるならば、金属でできたゲジゲジのような姿だ。
 中央の胴体の部分に異様なものが立ち上がっていた。双眼のテレビカメラである。フレキシブルアームの先に取り付けられたボックスに、丸い二つのレンズが光る様は、顔のように見えなくもない。
 胴体の前半分には、さらに異様なものがあった。銀灰色の三本の腕―――色を除けば人間の腕が生えている。右腕が一本、左腕が二本。トランク内に収納するために、ミイラ化した死体のように細く作られている。
『システムチェック完了。人工筋肉に動作命令を伝達します。』
 人工の腕が、ぴくりと動いた。わさわさと指を動かし、各関節の動きを確認する一連の動作を行う。
 タブレットの画面に「銃器装備」の指示が出ている。御雷はマガジンを抜き、チェンバーを空にしたルガー10/22を右手に持たせてやった。左手の一本が自然な動きでストックに手を添え、右肩でバットプレートを受けた。フレキシブルアームが勝手に動き、右眼――カメラのレンズをダットサイトに当てる。左眼は素通しで景色を映している。
 ライフルのゼロインは済ませてある。弾薬の諸元も入力済みだ。
 御雷は画面を切り替えて、狙撃モードにしてみる。
 ウインドウの中に、稲美中学校の校舎が映っている。離れ小島の最下層、嵌め殺しの窓を通して室内を見ることができる。
 毒々しいピンク色のマーカーが画面上に浮かんでいる。小さな十字のマークが狙点を示している。右眼から得られたダットサイトの照準情報を、左眼の映像に映し込んでいるわけだ。
 最初はダットサイトを覗くためのカメラ一台で照準システムが作られていた。だが、それだと電子的に倍率を上げたときにダットまで拡大されてしまい、使い物にならなかったのだ。
 改良を加えながら、これまでのいくつかの仕事でも使ってきた。体術と銃器という、原始的な道具で闘う御雷にとって、裏の仕事に用いる数少ないハイテク装備である。
 狙撃支援ロボットとでもいえばいいのか。遠隔操作で銃撃を行い、仕事が済めば回収場所まで自律的に移動する。現場を離脱する際に、使用した銃器を捨てて、ロボットだけが脱出するのが成功の秘訣であった。
 銃器を発見されるより、ロボットの存在を知られる方が遥かにまずい。
 最初は、小型のロボットを得意とするサイモンに依頼した。それなりの水準ものはできたが、耐候性や稼動時間、さらにはよりきめ細やかな狙撃や自動マグチェンジ等の要求に応えることができなかった。
 そこで、サイモンは駄目出しを受けたプロトタイプを研究施設に送り、K2に改善を依頼した。彼女が出した結論はひどくシンプルなものだった。
 駆動系にはK2由来の人工筋肉を使用する。自家発電可能なそれを使うことで、バッテリーの問題は解決する。モーターやギアを使うわけではないからゴミ等で故障することもない。狙撃に使う腕の動きは滑らかになり、反動の処理も向上した。
 改良ついでに、K2が直接リモートコントロールすることもできる仕様にしてあるが、御雷はこれまでそれを依頼したことはない。
 御雷は画面上のマーカーに人差し指を当て、あちらこちらに動かしてみる。同期して銃口が向きを変える。
 「動作確認」を選び「ドライファイヤ」を試してみる。マガジンは挿入せず、機械の腕がボルトハンドルを操作した。チェンバーは空だ。
 再びマーカーを動かして、室内の一点を狙ってみる。よく、ワル共が寝転がっている辺りだ。日曜なので人影はない。画面をスワイプして拡大する。スコープの倍率を上げるのと機能的にはよく似ている。一旦マーカーから指を離し、軽く二回タップした。
 ぱちん。
 ルガー10/22の撃針が空を打った。
『よそさうですね。』
「そのようだ。あとは、当日か。狙撃が終わったら、こいつの誘導を頼むよ。」
 本来なら、自律的に回収場所まで移動できるのも、狙撃支援ロボットの大きな特長である。しかし、ここでは自立航行機能が上手く働かないことがあった。GPSを活用しても、予定外の所に現れたりする。何度かテストした結果、K2に回収だけ手伝ってもらうことにしたわけだ。
『お安い御用ですが…風に対する着弾補正もお手伝いできますよ。』
 御雷は呆れたように笑った。
「お前らしくもないな。いくらお前が優秀で、衛星回線を使ったとしても、アメリカからだとタイムラグでどうしようもないだろう?」
『では、私に少しチャンスをください』
 御雷は付き合ってやることにした。
 もう一度、ドライファイヤ―――空撃ちモードで試してみる。
 狙点を定める。画面の隅にガラスに貼り付けられた毛糸がなびいているのが見える。風速を計るために御雷が貼ったものだ。わずか五十メートルの距離であっても、軽い二十二ロングライフル弾は横風の影響を無視することができない。
『右から、四メートルの風』
 K2の声と狙点が僅かに右――風上に向かって移動するのは同時であった。その後、風向きや風力の変化があったが、K2の補正が遅れることは一切なかった。
 さすがの御雷も唖然とする。
 なぜ?と問う御雷に、K2はどう説明したらいいか迷っているようであった。
 うーん…と考え込んでいたが、細かく説明するのは諦めたようだ。
『実は、私と【この子】は、通信用の電波を使って情報のやり取りをしているわけではないんです。覚えていますか?私の頭脳がまだ別体のスーパーコンピュータだった頃のことを。たとえ電気的な繋がりがなくとも各筋肉間で情報を共有して最適化が進むのを止められなくて困ったことがあったでしょう?」
 覚えている。K2と道場で本気で試合って、死にそうになったときのことだ。
『私は、自分自身のことも研究しています。私とはどんな存在なのか。何ができて何ができないのか。どんなポテンシャルが眠っているのか。そうした中でわかったんです。』
 K2が息を継いだ。普通に声帯を使って声を出すには呼気が必要だ。
『これは、一種の量子通信です。』
 御雷には小耳に挟んだ程度の知識しかない。
「あの、SFとかに出てくるやつかい?距離に関係なく、時間差もないっていう。」
 K2が小さく笑う。
『正確には違うものですが、人類の思考フレームにその概念を落とし込むのが難しくて…。結果としてそのような効能が得られるとだけ、ご理解いただければ十分です。』
 ふうん、便利なものだな。感心したものの、疑問もあった。
「電子的に介入できるなら、どの機械に対しても可能なのか?」
 否、とK2は答える。
『このロボットには私由来の微細構造―――言うなれば、私の細胞を培養したものが組み込まれています。自分に由来するものとの間に、私は【量子リンク】とでもいうものを構築することができるのです。』
「自分の細片の動きや所在を知ったり、操ったりできるってことかい?」
 K2が首を捻る気配があった。
『それは、微細構造の量にもよります。それから、たとえ量自体は大したことがなくとも、私自身が強く命じて指向性を持たせた微細構造は強い力を持つようになります。』
 御雷には今ひとつピンと来ない。が、今は彼女の能力を頼もしいと感じた。
「それじゃあ、準備を頼むよ。」
 余っている左手にマガジンを渡してやると、器用に銃に装着した。二本の予備マガジンは指の間に挟んで待機状態を作る。右手がボルトを操作して初弾をチェンバーに送り込んだ。セフティを掛ける。
「一つ、約束だ。トリガーを引く命令は、ぼくが出す。お前は狙点の調整だけ手伝ってくれ。」
『わかっています。私は手を汚すなというんでしょう?』
「ま、これだけ頼っておいて、言えたことじゃないんだけどね。」
 苦笑しながら、狙撃システムの上から防水布を被せた。目隠しになる。
 タブレットのみを収めたバックパックは軽い。
 御雷は飛ぶように斜面を登り、他の人間に出会わぬよう注意を払いながらスープラに戻る。
 車に妙な細工はされていなかった。
 本当は石上邸でゆっくりと眠りたい。だが、長時間自宅を空けているのも不自然だ。
 仕方なく、バイクで平屋に戻った。
 敷きっぱなしの布団に寝転ぶと、耳元でK2の声がした。イヤフォンは挿しっぱなしにしている。
『一つ言い忘れていることがありました。この電話にも、実は私の微細構造を小型のチップに偽装して使っています。』
「ああ、だからお前の声と狙撃アシスタントの動きにタイムラグがなかったのか。納得した。」
 つまり、今まで衛星回線で話していると思っていたものが、いつのまにか量子通信による直接通話に変わっているというわけだ。
『もしかして、怒ってます?』
 御雷の声に切れがなくなってくる。
「いや、電話代がかからなくて助かるよ。でも、今は少し眠りたい。…もしかして、腕時計にもお前に直通のセンサーを仕込んでいるのか?」
 K2はあっさりと認めた。彼の体調をモニターし、必要な支援をサイモンに要請するのは自分の役目だと自認しているのだ。
「大した世話女房ぶりだな。隙がない。」
 御雷の笑いは本物だ。もう、半分眠り掛けている。
 思いがけず、K2の反応は真剣だった。
『眠る前に、聞いてください。やっぱり…ご報告することにします。』
 これほどに口惜しげな彼女の声を聞いたことがない。そのことが、御雷を眠りの淵から引き戻す。
『隙がないなんて、とんでもない。実は…中央演算装置から、あなたに関するデータが外部にコピーされた痕跡を発見したんです。』
 研究施設時代に取られた各種データだけではない。激しい損傷を受けた身体を奇跡のように甦らせた、K2の術式。新たな機能制限と姿を変える能力。
 そういった諸々の情報を抜き取られたという。
『あんまり腹が立ったので、盗んだ相手方の電脳を焼き潰しました。』
「可愛い顔をして、怖いことをするね。相手はわかったのかい。」
『いいえ。とにかく盗んだ相手の形跡を辿って、とっておきのデータ爆弾を送りつけてやりました。あなたの情報を盗むなんて、私は許さない。』
「で、どうなった?」
『西部の陸軍基地が、三ヵ月機能を停止したそうです。』
 可愛らしい声で愉快そうに笑うのが、怖い。
 軍が身内にハッキングを仕掛けるとは穏やかではない。
 K2が声を改めた。
『この状況では、戦略的なシミュレーションはあまり意味を持たないかもしれません。ですので、私は自分の直感に従って行動することにします。近々お届けする荷物の中に、一応備えとなるものを入れておきます。』
 これからは、私と話したいときはダイヤルなしで直接呼びかけてください。
 それだけ言うと、K2は沈黙した。
 身体は眠っているのに、思考だけが冴えているような状態になる。
 もはや、間違いはない。御雷に用のある者が、この日本にいる。アメリカのデータに加え、文部省から日本におけるデータを引き出していることからも明らかだ。
「ハンターのつもりで乗り込んでみたら、ぼく自身が獲物だったとか…勘弁してほしいね。本当に。」
 呟きに、悲壮感はない。
 目を閉じた。状況がどうあれ、必要であれば十分な睡眠を取る。
 それが御雷という男だ。

      6
 月曜日。
 まだ傷の癒えぬ馬越は自宅で療養している。応急的に傷を塞いではあるが、ここから先は整形外科の守備範囲だ。最低でも数度の手術を受けねばならない。特に、右の拳に関しては他人を殴ることはおろか、柔道選手としてやっていくことも絶望的だと言われている。
 稲美中学校は、いたって平和であった。
 片瀬が死んだことはまだ伏せられている。警察からも正式に発表があったわけではない。
 彼が死んだことを知っている生徒は、西本と石川賢治。そして、南方猛。この三人に片瀬を加えれば、稲美中のワルの四天王ということになる。
 優れた頭脳と胆力を持ち、裏社会で生きることを既に決めている西本は、全体のボス格に当たる。御雷には中心人物である西本を最初に始末するという選択肢もあった。にもかかわらず周辺部から攻めたのは、ただの気まぐれではない。
 始末されるラインを明確に示すことで、「生死のボーダーラインを超えるか否か」という選択肢をワル共に突きつけるのだ。
 生き続けたければ、生き方を改めればよい。
 四天王―――半ば馬鹿にしつつ教員たちが呼んでいるわけだが―――は、全員消すつもりであった。
 石川は、半グレの違法漁師になることを公言して憚らない。南方はとにかく頭が悪い上に破壊的な暴力を振るう。死んだ片瀬は深刻な刃傷沙汰を起こすのは時間の問題だった。
 一番のポイントは、彼らが西本の供給する薬によって「飼われて」いることである。馬越を介して買うのではない。いわば、河津組の駒として、既に押さえられているわけだ。
 ダニは成虫になる前に潰しておく方がいい、というのが御雷の考えだ。
 その四天王の残党が、不気味なほどに大人しい。
 西本は、御雷の動きをつぶさに観察している。
 玄の指示であった。
 奴は、舌舐めずりでもするような声で告げたのだ。
「毎日学校に行き、御雷を観察しろ。大人しく授業を受けて、奴の言葉一つ聞き漏らすな。例の女が餌に使えるかどうか、判断できる材料ももう少し欲しい。変わった動きがあれば、どんな小さなことでも知らせろ」と。
 本当は、御雷のことが怖くなってきている。にこやかでいながら、躊躇いもなく馬越を自滅に誘った手際の良さ。一瞬浮かべた、表情。
 外見はまるで違うのに、どこか玄に似ていると思った。
 芽生えた恐怖心は、監視には役に立った。御雷から目を離すことができなくなってしまったのだ。
 忌々しいことだが、授業を妨害しようとした数々の試みは徒労に終わったことを認めざるを得ない。御雷は生徒たちの心を掴み、学習しようという熱意がクラスに、そして学年全体を満たし始めている。そして、稲美中そのものの雰囲気が大きく変わってしまった。
 悔しいが、御雷は優秀な教師だ。
 西本も、それは感じている。ただ、その優秀さは修羅場をくぐって身に付けたものだ、という直感がある。
 菊池に対しても、西本は悔しさを感じている。
 雰囲気が変わった。前のおどおどしていたときよりも、遥かに綺麗になったと思う。
 高校生のような童顔は相変わらずだが、何となく手が届かなくなったような感覚があった。
 理由は簡単だ。
 常に側に居る御雷の存在だ。
 玄に言われるまでもない。彼女の眼差しや、表情を見ればわかる。
 あれは、恋をしている女の態度だ。好きな女のことであるからこそ、西本にはそれが手に取るようにわかった。
 悔しい。
 だから、玄が御雷を始末するというなら諸手を挙げて賛成する。が、餌となった菊池はどうなるのか?ヤクザ共の慰み者にされた上で埋められるのか?それとも、薬漬けにされた上で売春婦にでも堕とされるのか?
 そんな女を抱いたことがあったし、女を埋めるのを手伝ったこともあった。
 惜しい、という気持ちはあるが、同時に仕方がないとも思っている。
 すべては、己が裏社会でのし上がるための第一歩だ。
 そう割り切れるだけのものを、西本は持ち合わせていた。
 だから。恐怖を押し殺し、悔しさを黙殺して、御雷を観察し続けることができるのだ。
 本当に、玄の言うような死に神なのか。それは、彼が予言した「御雷の周りでは、大勢死ぬ。特に、ワルが」という言葉が現実のものになれば証明される。
 だから、西本は待っていた。仲間が殺されていくのを。
 西本祐司は、そういう男に成長しつつあった。
 そんな西本の視線を意識しながらも、御雷は平然と教師生活を満喫している。

 夜。
 御雷はカラスの扮装を纏い、カラスの身振りを真似、声を模倣して街角に立つ。
 黒衣の密売人の元を、ひっきりなしに客が訪れる。電話で予約を受けた数を捌ききると、場所を変えて待つ。そこでも、かなりの数の客が薬を買いに来た。
 事前に、次回の入荷の見通しが不透明であることを伝えていたため、一人が買っていく量も多い。グラム一万円程度だから、格安とも言えないが、それこそ飛ぶように売れていく。
 更に場所を変える。
 一晩で四千ものパケを捌けば、さすがに警察からお目こぼしはもらえないかもしれない。
 御雷は釣り銭を出さない。売るのは四パケから。つまり、一グラムが最低の量ということになる。殆どの客は万札で支払いをする。
 見る間に溜まっていく一万円札は、最終的に一千万円ほどになるはずだ。御雷は几帳面に百枚溜まるごとに輪ゴムで束にしてやる。用意した黒いデイパックに放り込む。
 最後にやって来たのが欅橋であった。ここまでの動きは、普段のカラスと変わらない。
 ここでも、客の数は多かった。計算通り、販売用のパケを全て売り切ることができそうだ。
 御雷は待った。白石直哉が馬越の代役として現れるのを。
 白石は、御多分に漏れず盗難品と思われるスクーターでやって来た。お椀を伏せたようなヘルメットを後頭部にぶら下げている。相変わらずの猿顔だ。色が白い。
 律儀に合い言葉で互いを確認する。
 やはり、いつもより購入する量が多いようだ。
 御雷は声を掛けてやった。
「おい、いつもの奴はどうしてる。怪我をしたとか連絡があったが。」
 白石は物事を深く考えない男だ。裏世界の人間と接触することに緊張も感じている。思わず答えてしまう。
「あいつなら、家で寝てる。怪我が痛むんだとさ。」
「なら、帰りに薬を届けてやったらどうだい?痛みが楽になるってのは、お前も知ってるだろう?」
 御雷の聴覚が、複数の足音が接近するのを察知する。ゴム製のソールで足音を消してはいるが…派手な商売をしたからな、今回は。
 そんな思いも知らず、白石は御雷の提案に目を輝かせた。
「そりゃいいや。ちょうど帰り道だ。」
 静かに、と御雷は声を潜めて囁いた。
「警察が、来る。お前は強引に突破しろ。奴らの狙いは俺の方だ。ちゃんと引きつけてやるから捕まるなよ。」
 スクーターを押し出してやる。
 それを合図にしたかのように、いくつもの人影が欅橋に迫った。白石のスクーターはそれをはね飛ばす勢いで突進し、包囲網を抜けた。
 見届けて、御雷は欅橋の中央に走る。その動きが、捜査員の知るカラスの動作よりも桁違いに素早くて、彼らの驚きを誘う。
 捜査員の対応が、一瞬遅れた。その隙を御雷は見逃さない。
 欄干にワイヤー付きのカラビナを器用に引っ掛け、橋から身を躍らせた。ブレーキの効きは極端に弱めてある。こんなものなどなくても、この高さならどうということはない。
 常人のふりをするのも大変だ。
 河原に着地するとリガーベルト自体を切断して身体から離した。
 土手沿いにも数名の捜査員は配置されていた。が、河原にはいない。足場が悪いのと、土手を押さえておけば、河原から出さずに済むという計算が働いている。そうこうしているうちに、応援が川上・川下の両方から河原を封鎖するだろう。
 だが、御雷はそんな時間を与えるつもりなど更々無かった。
 直ちに、暗い河原を一切照明を点けることなく、全力疾走で川上に向かったのである。
 御雷の脚は速い。人体が秘めるポテンシャル一杯を発揮することで、文字通り飛ぶように走る。足場の悪さをものともしない。視覚を押し上げ、真昼に匹敵する視界を得るのと同時に、可聴域を超えた音を使ってエコーロケーションも行っている。
 走りながらカラスの扮装を脱ぎ、バラバラに捨てる。身軽になると、更にスピードが上がった。
 目の前を蛇河の本流が横切っている。今日は水量が多い。スピードを落とさずに跳び越えた。九メートルを優に越える距離を跳んで、まだ着地に余裕がある。すぐに走り出す。百メートルを九秒足らずで駆け抜ける様は、まさに走るというより「飛ぶ」感覚に近い。
 闇に溶ける御雷の服装を、土手からは十分に視認することはできない。
 慌てた捜査員たちが的外れな場所にライトの光芒を走らせている様を背に、悠々と駆け去って行く。
 彼を捉えようとするであろう捜査員を出し抜くために御雷が用意した方法は、極めてシンプルなものであった。
「あり得ない場所をあり得ない速度で走って逃げる」である。
 実際、土手に配置されていた捜査員は御雷の動きを追いきれず、すぐに彼を見失った。
 河原に隠してあったヤマハのエンジンを掛け、土手に駆け上がる。
 遠くから赤色回転灯とサイレンの音が追ってくるのを感じたが、それだけだった。周到に調べ上げたルートの一つを用いて広域農道に出て、コンテナ基地に向かう。コンテナ内に現金を仕舞った。馬鹿共が自分の命の代金として払った金だ。大切に使わせてもらうことにする。
 御雷は麻薬を売る人間を嫌悪している。他人の命を食い物にするから。同時に、麻薬に溺れる人間も嫌いだ。自分の命をあまりにも軽く扱うから。
 どちらも、死んでしまえ。そう思っている。
 だが、金に罪はないのだ。それは、河津組から現金を頂いたときと同じ理屈である。
 自分自身が売人を演じたことに罪の意識はない。
 簡易トイレで用を足し、少しだけ仮眠を取った。体温が少々上がりすぎた。
 外部の状況はカメラや集音マイクで知ることができる。特に緊急車両が走り回っているような様子もない。
 どのみち、家には帰らねばならない。
 御雷は体型と声を教師用に調整する。コンテナに収まったスバルに乗り換え、広域農道に出た。
 石上邸には寄らずに、粗末な平屋に帰る。途中でコンビニに寄って夜食を買った。買い出しが、外出の名目ということになる。
 自宅周辺の監視はなかった。侵入者もいない。この前見せてやった、あまりにも無防備な姿に、監視者の方が毒気を抜かれたのかもしれない。
 いずれにせよ、今日はもう寝る。成果を確認するのは、明日だ。

      7
 火曜日。
 いつものように、御雷は早朝から出勤した。
 警備装置を解除して職員室に入る。
 その前に、運動場への大階段にある植え込みを確認してみる。昨夜白石が置いたと思われる麻薬の包みがあった。五人分。馬越の分は買い付けの帰りに届け、白石本人の分も既に抜いてあるわけだ。
 生徒玄関の周辺を掃き掃除しながら、登校してくる生徒たちに声を掛ける。
 最近は、御雷が声を掛ける前に「おはようございます」と挨拶の言葉を投げかけてくる生徒が増えた。自発的に挨拶をするのが当たり前になりつつある。いいことだ、と思う。
 生徒たちに向けられる御雷の眼差しは優しい。
 その一方で、油断なく彼らの動向に注意を向けてもいる。
 西本と白井は二人乗りで登校してきた。二人とも眼の下に隈が浮いている。
「おはよう。」
 御雷が声を掛けても目を合わせようともしない。いつものことだ。
 昨夜は、お楽しみか。それでも遅刻せずに来るとは、どういう風の吹き回しだろう。
 小さく肩を竦めただけで、それ以上考えるのはやめた。職朝―――職員朝礼の時間だ。
 職員室に戻ると、何名かの教員の姿がない。担当学年の生徒の様子を見守るために、教室前の廊下に立っているのだ。荒れた学校に限らず、輪番制で置くようにしているところは少なくない。大抵は副担任の仕事だ。稲美中では男性副担任がその仕事を担う。
 今日の担当は矢沢だ。
 御雷は菊池の隣で、今日の予定や各担当からの連絡事項を聞く。管理職の話は聞き流しておいた。
 校長の話が終わると、平教員たちは自分の持ち場へと移動を開始する。菊池も二年五組の教室へ行き、朝の会を行うのが常だ。が、今の彼女にはやらねばならぬ事があった。
 自宅療養をしている馬越の、保護者からの電話連絡を受けることである。
 欠席するからには、保護者から欠席連絡をもらわねばならない。馬越の場合、しばらく休むことは確定している。とはいえ、今後担任業を続けていくなら、この機会に学んでおいた方がいいこともある。
 御雷は、見舞金を持って来た馬越夫妻に、「休みが続く間は、面倒でも毎朝欠席連絡を入れるように」と要請し、呑ませた。
 菊池にはわからない。それは、必要なことなのか?
 御雷の回答は身も蓋もないものだが、的は射ている。
「まあ、『学校はお子さんのことを気にしていますよ』というポーズが半分です。いずれにせよ、ご機嫌伺いというか、馬越の様子を尋ねるために毎日電話を入れるつもりなんでしょう?だったら、向こうから電話してもらえば面倒が無くていい。それに、こちらから掛けた電話のタイミングが悪かった、なんてこともないですから。」
 なるほど、と思った。朝のうち、という制約はあるものの、馬越夫妻にとって都合のいいタイミングで電話をしてもらえれば、向こうに「鬱陶しい電話だ」と思われることもない。それに、連絡をもらったことに対して、こちらは労いや感謝の言葉を掛けることができる。
 最初に面倒な頼みを承諾させてしまえば、後はお互いの関係が悪くなることはない。少なくとも、「わざわざご連絡いただき恐縮です」とか「どうか無理をせず、お大事に」などと丁寧に対応する菊池に対する心証は悪くならない。
 これも、最初に嫌われ役を引き受けてくれた御雷のおかげだ、と感謝している。同時に、彼の心理誘導の手腕に怖さを感じているのも事実だ。自分が御雷に対して抱いている好意もまた、誘導されたものなのではないか。
 その疑いは拭いきれないが、彼が菊池に指一本触れようとしないのも事実だ。それに安心している自分と、不足を感じている自分がいる。
 時々、菊池は自分という人間がいくつにも引き裂かれそうになる感覚に襲われることがあった。自分の中に、幾人もの菊池由美が居て、それぞれが矛盾したものを抱えているのだ。
 常に穏やかな笑みを浮かべたような御雷の横顔を見ていると、疑問が湧いてくる。この人は、自分が感じているような葛藤を唯の一つも持っていないのだろうか。
 その御雷は、いつものように職員室の出口で菊池を待っていた。
「菊池先生、馬越からの連絡待ちですか。」
 困惑した表情を浮かべて答える。
「ええ、そうなんですが…今朝はまだ電話がないんです。」
 御雷は渋い表情を作る。
「もう面倒臭くなったんですかね。ほんの数分の手間なのに。」
 教頭先生、と御雷は小泉に声を掛ける。
「こういう場合はこちらから連絡して確認した方がいいですね。」
 小泉は理解する。御雷は、菊池に担任の行動パターンを教えようとしているのだ。
「そうですね―――菊池先生、お手数ですが馬越の家に電話してもらえますか。馬越の場合は自宅から出ることもないでしょうが、過去の例だと登校中に事故に遭ったのを親も知らなくて、無事に学校に着いたものだと思っていた…なんてこともあるのですよ。」
 過去の実例を示してやる辺り、小泉はちゃんと若年教員を育てようとしている。親も学校も生徒の所在を掴めない、という事態に陥ってはならないのだ。
 職員室の電話が鳴るのと、二年一組の担任がぱたぱたと足音を立てて教室から戻ってくるのはほぼ同時だった。
「すみません。白石直哉がまだ来ていないんですが、欠席連絡はありましたか?」
 教頭が電話を取った。
「はい。稲美中学校教頭の小泉です。ああ白石さん?ちょうど担任がおりますので電話を替わります。」
 一組の担任が電話に出る。
「いつもお世話になります。直哉君はどうかしましたか―――。」
 言葉が途切れ、見る間に顔色が青くなる。
 ただならぬ雰囲気に、御雷も戻ってくる。
「ええ?それは、一体――はい。ええ、わかりました。とにかく落ち着いてください、お母さん。救急車は?…わかりました。」
 小泉が素早くメモを書いて渡してやる。担任はそれに目を落としながら言葉を紡ぐ。
「急を要することですから、ひとまず電話を切ります。済みませんが、後で連絡が取れる電話番号を教えて頂いてかまいませんか。管理職にも状況を話して対応させていただきます。」
 母親の携帯番号を聞き出して、担任は受話器を置いた。唇が、白い。
「どうしました?」
「白石が死んだそうです。」
 菊池と御雷は顔を見合わせた。
「今朝、起こしに部屋を覗いたら、息をしていなかったと。」
「それは、母親も取り乱すでしょうね。」
 小泉が爬虫類の冷酷さを露わにする。
 悪くない。
 御雷は分析する。死にそう、なら慌てる必要がある。死んだ後なら慌てても無駄だ。
 一方の担任は、取り乱しそうな己を必死で抑えているのがわかる。それでも報告を続けた。
「それが…白石が倒れている側に注射器があったとかで。それで、警察も来る騒ぎになっているらしいです。」
 小泉の片眉が上がる。決断は早かった。
「ただ事ではありませんね。校長先生にも報告を。菊池先生は、すぐに馬越に電話をしてください。今日に限って連絡がないのも気になります。」
 教頭が案ずるところはわかっている。白石と馬越は、つながっている。一人に異変があれば、あるいはもう一人も。
 教頭と一組の担任が校長室に入ったのを見届けて、菊池は馬越宅に電話を掛ける。
 自宅の電話―――繋がらない。留守番電話になっているわけでもない。
 母親の携帯電話―――繋がらない。
 父親の携帯電話―――繋がらない。
 延々と続く呼び出し音の響きだけが、菊池の耳に残る。
 御雷は内心呆れている。まだそれほど普及していない携帯電話を、あの夫婦は持っていたのか。他人から金をむしりながら、文明の利器の恩恵を享受していたというわけだ。
「駄目です。―――もしかして、まだみんな寝ているとか?」
 菊池の藍色がかった瞳が不安に揺れている。
「だと、いいんですが。」
 御雷の声は硬かった。彼自身、予想していなかったことが起きているのかと思えば…。わかってみればなんということはない。そうか、そういうことだったのか。
 どんな表情を浮かべていいかわからない。だから無表情のまま言った。
「馬越の家に行ってみた方がいいかもしれません。矢沢先生に五組のことを頼んできます。」
 御雷は体格に似合わぬ素早さで、職員室を出た。足音を立てないので生徒も注意を向けないが、かなりの俊足ぶりを発揮する。
 矢沢に、白石に何らかの異変があったこと、馬越にも同様の恐れがあることをかいつまんで伝える。管理職の許可なく、詳細は話せない。ましてや、耳のいい生徒なら断片的にでも聞こえてしまうかもしれない。ともかく、家庭訪問の必要があるかもしれないから、五組のことはよろしく、とだけ頼んだ。菊池と御雷が抜ける授業のことも頼んでおく。念のため確認したところ、二年生には他に欠席者はいない―――片瀬は生徒の間では欠席が続いていると思われているが、奴がもう登校することはない。
 こういうときに根掘り葉掘り尋ねないのが教員というものだ。説明は、事が済んだ後でいい。まずは、目の前の生徒たちが困らないようにすることを優先すべきなのだ。ベテランである矢沢はそのことをよくわかっている。一言、「気を付けて行ってきなよ」とだけ言うと、気障なポーズを取って見せた。
 御雷が職員室に駆け戻ると、青い顔をした校長、教頭、そして一組の担任が校長室から出てきたところだった。
 菊池が馬越宅に電話を掛けたときの状況を報告する。管理職の表情が曇る。
 御雷は進言した。
「校長先生、大体の事情はわかっているつもりです。馬越の家が心配です。すぐに家庭訪問をするべきだと思いますが。矢沢先生に、学級と授業のことは頼んでおきました。」
 二年生には他の欠席者がいないことを報告し、他学年の欠席状況も直ちに確認するべきだと述べる。
 校長は頷いた。
「では、お願いします。状況によっては警察への連絡をお願いすることになるかもしれませんが…。」
 自分に対応できるだろうか。不安そうに顔を強ばらせている菊池の背中を軽く叩いた。
「大丈夫ですよ。ぼくが一緒に行きますから。狭いですが、ぼくの車に乗ってください。その方が、早い。携帯電話を忘れないで。」
 菊池の手を引くようにして、御雷は職員室から出る。教頭が校内放送ではなく、内線電話で各担任に呼び出しを掛けているのが聞こえた。異常事態についての情報が決定的に不足している今、生徒に無用な混乱を起こさせる必要はない。それは、正しい判断だ。
 これが…白石と馬越だけの問題ならば、な。せいぜい、情報を伏せておいてくれよ。
 御雷の唇に一瞬浮かんだ淡い笑みを、彼の後を歩く菊池は見ることができなかった。
「少し、飛ばします。怖くても、今日だけは我慢してください。」
 スバルの助手席に納まった菊池に声を掛けて、御雷は車を出した。
 スムーズな走りに、菊池は状況を忘れて見惚れる。
 アクセルの開け方が。ステアリングの切り方が。そしてシフトチェンジの操作が。
 どれを取っても、正確で、丁寧で、しかも尋常でなく速い。しっかりとブレーキングして、強力な減速Gが発生しているにもかかわらず、乱暴に身体を振り回される感覚がない。
 それは、加速も同じ。コーナリング中も同様だ。
 スピードメーターを覗くと、教員の運転としてはあり得ない速度を示している。なのに、怖くない。苦しくない。加速から減速、コーナリング、再びの加速―――それらの繋がりが異常なほどに滑らかで、継ぎ目がないように感じられるからだ。
 一瞬、御雷の細く長い指が執拗なほどの丁寧さで女体を愛でる姿が頭に浮かび、菊池は胸の内で自分を叱りつけた。
 こんなときに、私は何を考えているんだろう。
 御雷が車や銃器に接するときに見せる繊細さが、女体に触れるときのそれと同種のものであることを、菊池は知らない。
 御雷はヒール&トウで巧みに車速を落とし、路地に入り込んだ。スバルですらドアミラーを擦ってしまいそうな道幅しかない。
「こんなところに道があったなんて…。」
「走りにくいけど、ずっと早く着けるんです。」
 前を見据えたまま応じる御雷は意識していないだろう。運転に集中しているから。
 彼は、自ら「前の家庭訪問のときは菊池にとって最もよいルートを提案したのだ」と告白したのだ。
 菊池は理解する。御雷の運転技術は確かに大したものだ。だが、それ以上に、常に影から彼女を支えてくれる御雷武その人が側にいてくれるからこそ、怖さを感じずに済んでいるのだ。
 ものの数分で着いた。さすがに、車を降りると足下がふらついて、御雷に支えてもらう。
 馬越の家は、漁村の外れというよりも、漁村に接した住宅街の外れに建っていた。
 それなりに敷地も広く、二台の乗用車が停まっている。両親ともに在宅中のようだ。兄だか姉だかがいるはずだが、県外に就職していてここには住んでいない。
 スバルを敢えて路上駐車したのは、庭にタイヤの跡を残さぬようにするためだ。駐車禁止の対象にもなっていない。前回もそうしたのは、馬越夫妻が何かと難癖を付けてくるタイプだと知っていたからだった。敷地内にものを持ち込む行為はなるべく避けたかっただけのことだ。
 建物自体は、ごく普通の平屋建てである。極端に大きくはないが、それなりに金の掛かった日本家屋であった。
 どこから、これだけの金を引っ張ってきたのやら。玄関の前に立って、御雷は前回と同じ事を思う。
 菊池を後ろに立たせて、ドアフォンのボタンを押す。反応がない。
「稲美中学校の菊池と御雷です。いらっしゃいますか。」
 マイクに向かって呼びかけても、返事がない。
「いないんでしょうか。」
 いや、と御雷は二台の車を指す。
「いるはずです。タクシーやバスを使うような人たちでしょうか?」
 囁くように言った。
「金を使ったり、面倒なことをしたがる人たちじゃありませんよ。きっと、いるはずです。―――元ハードボイルド愛好家なら、わかるでしょう?」
 車のボンネットを指してやる。菊池の表情が引き締まる。
「そうか…冷たいです。朝から動かしてないみたい…。」
 御雷は頷く。
「ま、昨日から帰ってない、という可能性もありますが。」
 何気なく、という様子で、玄関の引き戸を開けてみる。
 からり、と音がして戸が開いた。
「鍵が掛かっていません。」
 戸を開くと、二人は玄関に入った。直接奥に呼びかける。
「御免ください。稲美中学校の菊池と御雷です。いらっしゃいますか。」
 やはり、返事はなかった。
「何だか、空気が冷たいです。」
 菊池の声が震えている。人の気配がしない。早く出たい…そう思いながら目をやると、御雷の横顔に厳しい表情が浮かんでいた。
「不安が、的中したかもしれません。ちょっと、見てきます。」
 靴を脱ごうとする御雷の腕にすがった。
「待って。もし…中で死んでいるとして。例えば強盗とかがまだいる可能性だってあるじゃないですか。」
 御雷は笑顔を作って見せた。菊池にも、それが自分を安心させるための表情だということぐらいは察しが付く。それでも―――。
 御雷は何の前置きもなく、菊池の髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。乱暴、ともいえる手付きで頭を撫でる。
 さすがに抗議しようと見上げた眼前に、御雷の顔があった。互いの息遣いを感じられるほどに近い。
「ほら、菊池先生。今、『私は子供じゃない』って言いかけたでしょう?」
 当たりだ。
「その通り、あなたは子供じゃない。だから、我慢してください。殺人犯が潜んでいることも考えて、大きな声で呼びかけたんですから。」
 そういうことか、と納得する。仮にそういう危険な人間が潜んでいたとして、彼らが一番嫌がるのは騒がれて周囲の注目を集めてしまうことだ。大声で呼びかければ、冷静ではいられない。気配にしろ、物音にしろ、必ず何らかの反応を示す。
 鈍感なテレパスの感覚でも、呼びかけ前と呼びかけた後で、家の中の空気に何の変化もないのは感じ取れている。
 それに、と続ける御雷の表情が少しだけ硬くなる。
「職員室で聞いたでしょう?注射器があったって。憶測が許されるなら…ですが、自分で薬物を注射した可能性もあります。」
 あなたは、ここにいてください。
 御雷は強く念を押した。
「あなたは、一度見たものを忘れるのが苦手なんでしょう?」
 菊池は少なからず驚く。特技でもあり、嫌な記憶がいつまでも付き纏う原因にもなっている。
 御雷にとっては、姿を変えてなお自分を言い当てられた苦い経験がある。現場の詳細を見て覚えられるのは得策ではない。
「見なければよかった、というものが奥にあるかもしれません。ぼくが先に行って見てきます。」
 御雷は靴を脱いで上がり込んだ。廊下を少し進むと、直角に右に折れてから奥に伸びているのが見えた。
 菊池の視界から外れたのを確認して、御雷は皮肉な笑みを浮かべる。
 これは、厳密には不法侵入だ。本来なら、警察なりに連絡して確認してもらうのが筋である。が、今日は白石の件もある。緊急度の高さや、極度の動転を理由に言い抜ける自信があった。
 ゆっくりと歩を進めながら、廊下に沿って並んでいる部屋を見ていく。
 開けっ放しの扉から見える室内は、どこも散らかっている。この乱雑さは住人の人柄そのままだ。
 いくつかの部屋を見た後、御雷は見付けた。
 馬越夫妻の寝室である。
 素っ裸のままで、既に事切れている。嘔吐物が乾いているところを見ると、死んだのは昨夜だ。二人とも注射器の針が腕の静脈に入ったままになっていた。よく見れば、注射痕が目立つ腕だった。
 おそらく。二人は麻薬を使用して情事に及ぶつもりだったのだろう。御雷は経験がないからわからないが、薬が効いた状態で行うセックスは例えようのない快楽をもたらしてくれるという。
 しかし、残念なことに二人は本物の天国に旅立ってしまった。…いや、地獄かな、と思い直して可笑しくなった。もとより御雷自身は魂の存在も、死後の世界も信じてなどいない。
 御雷は侮蔑の眼差しを、股間を丸出しにして死んでいる夫妻に投げかける。
 シアン化ナトリウム――青酸ソーダ入りの麻薬なんて使うからだ。
 事の次第は、おおよそ御雷が想像したとおりだったようだ。
 馬越が入手した薬を、両親も使っていたのだ。つまり、一家揃って麻薬中毒に陥っていたわけだ。馬越経由で両親が覚えたものか、それとも元々親が薬漬けだったから馬越自身も早くから薬を始めたのか。そこはわからないが、大した問題ではない。
 今は馬越本人を見付けるのが先決だ。
 廊下の突き当たりが、馬越の部屋になっていた。
 子供部屋というには、あまりにも荒んだ空気が淀んでいる。壁はヤニで黄色く汚れ、馬鹿馬鹿しいほどに乳房の大きい金髪女のピンナップが貼ってある。床に投げ出されているのは下らない漫画とエロ本の類いぐらいだ。申し訳程度にダンベルやトレーニング機材が置かれていた。
 部屋の隅に置かれたベッドの上で、布団を被って震えている人影があった。
 いた。
 床に転がっている食いかけの菓子の袋を避けながら、御雷は近付いた。
「馬越。無事か。」
 囁くような御雷の声に、びくりと大きく震えた。容赦なく布団を引き剥がす。
 馬越は酷い顔をしていた。まるで―――一晩で老人になったかのように、生気がない。眼だけがギラギラと光っているのは、恐怖と混乱と…ある種の飢餓だ。
「話せ。何があった。」
 目を逸らそうとする馬越の顎を掴んで顔を引き起こす。眼を覗き込む。
 勝負は初めから決まっていた。親子揃って、御雷に対する言いようのない恐怖心が心に刻まれてしまっているのだ。おまけに、馬越は両親が苦悶する声を聞くか、断末魔を見るかしてしまったのだろう。
 悪夢のような経験だったはずだ。
 あっさりと心が折れた馬越は、御雷が見付けるまで布団を被って震えていたというわけだ。そんな状態で逆らえるわけがない。
 ぽつりぽつりと話し始めた。
 月曜の深夜、白石が持って来た麻薬を、両親はことのほか喜んだ。そろそろ手持ちが乏しくなっていたのである。一旦全量を親に取り上げられた馬越は、仕方なく前月の残り分を使って凌ぐことにした。翌日、自分の取り分を取り返せばいい。どのみち、麻薬が届いた日は激しいセックスを楽しむのが両親の習慣だ。気が済むまで楽しませてやらないと、親父に殴られることになる。
 自分も早く傷を治して西本に女を世話してもらおう、と自慰に耽っていたとき。明らかに悦楽の呻きとは異なる声が両親の寝室から聞こえてきた。嫌々ながらも松葉杖を突きながら、様子を見に行った。尋常ではない雰囲気がある。そこで目にしたのは、注射器を腕に刺したまま、嘔吐しながら死の痙攣を起こしている両親の姿であった。
 一目見て、助からないとわかった。原因は何だ。薬か?白石が毒でも持って来たのか?あるいは不甲斐ない自分を、西本が殺そうとしているのか。
 激しい混乱と恐怖に襲われて、馬越は判断力を失った。もともと頭の回転は鈍い方だ。それでも、この状況で警察や救急を呼べば自分自身の薬物使用まで問題にされることくらいは察しが付いた。馬越の能力ではそこまでが限界だった。思考停止に陥って朝まで震えていたところに御雷がやって来たというわけだ。
「ということは、薬は全部親の部屋にあるわけか。」
 馬越は頷いた。
 御雷は内心舌打ちをする。親の部屋には入らない方がいい。
 ここにいろ、と言い置いて、一旦玄関まで戻る。暗い表情を作ってから、菊池の前に姿を現した。
「どうでした?」
「あなたは、見ない方がいい。」
 強く何度か瞬きしながら言う。目に焼き付いた光景を消し去るように。
「親の方は二人とも死んでいるみたいです。馬越は辛うじて息がある。救急車と警察を呼んでください。状況は白石と同じ――注射器がありました。嘔吐もしています。これだけのことを連絡できますか?ぼくは馬越の様子を見ています。できることがあるかもしれない。向こうから何か指示があったら、奥には来ずにここから叫んでください。それでぼくには届きますから。」
 不安の色しかなかった菊池の瞳が、一瞬絶望を映し、次いで違う色を浮かべるのを御雷は見た。―――鋼の色。こういう眼をしたときの菊池は、強い。
 返事をする代わりに菊池は携帯電話を取りだした。一刻を争うのだという判断は、正しい。
 頼みます、と言い置いて馬越の元に戻った。早ければ数分で救急車が来てしまう。
「もう大丈夫だ。俺がお前を助けてやる。」
 ぞっとするほどに優しい声で御雷は言った。
「右の袖をめくれ。腕を出すんだ。」
 御雷は、上着のポケットからラテックスゴムの手袋を出して着けた。それを見た馬越の目が、飛び出しそうに見開かれる。
「い、いやだ。」
 声は上ずってまともに出せない。
「手間を掛けさせるなよ。俺も忙しいんだ。」
 御雷の指先が左腕に触れると、腕全体の感覚が無くなった。同様に右腕の感覚も奪う。左脚はギプスで固定されているから、もう動けない。
 御雷は室内を見回して微笑した。馬越が普段使っているとおぼしき小皿を発見したのだ。上手い具合に、側には十分な水が残ったペットボトルもある。皿の上には小さな匙が載っていた。
「こういう道具はな、見えないところに仕舞っておくもんだぞ、馬越。」
 にこやかに言いながら、スーツの襟の裏から極小さなものを取り出した。それを見て馬越が呻く。
 見慣れた小袋―――パケだ。
 御雷が馬越の左手にハサミを握らせる。ギプスで固められた右拳と右膝にパケを挟んで固定してやると、優しく手を添えて、パケの端を切り落とさせた。
 二人羽織のように、背後から馬越の身体を操る。
 ハサミを捨てさせ、パケに持ち替えさせる。
 小皿に指紋を付けさせてから、パケの中身を全て小皿に出させる。
「一回分には少し多いけどね、馬越君。」
 御雷の唇から滑り出た声に、馬越は絶望する。
「君には俺が売った薬をきっと気に入ってもらえると思うよ。」
 カラスの声で、底意地悪く嗤う。
 ポケットから取り出した注射器も、カラスから奪ったものだ。だから、馬越家に落ちていても違和感は無い。やはり馬越の手足を駆使して封を切らせる。
 自分の手がペットボトルの水を小皿に注ぐのを、馬越は悪夢でも見ているような気分で見詰めていた。粉末は簡単に溶けた。
 片手で薬液を注射器に吸い上げるには、それなりにテクニックが要る。
 御雷は、馬越の左手の関節に巧みに力を加え、複雑な動作をやりおおせた。多少空気を吸っても気にしない。
 しっかりと注射器を握り直させる。予告もなく右腕の静脈に針を入れた。
「心配しなくても、お友達の白石君も死んだそうだよ。」
 御雷の声が、変わる。
「注射器のピストンを押せば、お前は死ぬ。この前、お前は俺を殺す気で殴ろうとしたな?」
 手足の感覚はなくとも、恐怖に震えることはできる。高熱でもあるかのように、激しく震えながら、「許して」と繰り返す。
 御雷の唇に、淡い笑みが浮かんだ。黒曜石のような瞳が、無表情に馬越を見ていた。
 こいつの唇は、こんなに紅かっただろうかと、馬越はふと思った。恐怖に震えながら。
「俺はね、自分を殺そうとした奴を許せるほど、人間ができてないんだよ。残念だけど、これでお別れだ。」
 馬越の親指が、強くピストンの尻を押した。麻薬と青酸ソーダの混合液が静脈に放たれ―――全身に散っていった。
 御雷は素早く身体を離し、ベッドから立ち上がる。シーツを整えて自分の痕跡を消した。ラテックスゴムの手袋は裏返しに外し、堅く縛ってポケットに落とし込む。表面に薬剤が付いていれば危険だ。
 混ぜ物なしの過剰な量の麻薬。そして、シアン化ナトリウムの毒性。それらが効力を発揮するのは早かった。白眼を剥いた馬越が仰向けに倒れるまで、数秒。痙攣を起こし、嘔吐物が口から溢れるのを見届けると、御雷は口元を押さえて部屋から出た。
 まだ、救急車のサイレンの音はしない。菊池の声が聞こえた。
「御雷先生。救急車が出払っているって。応援を頼んでも、まだ十分近くかかるそうです。それから、患者の側からすぐに離れるように言われました。」
 玄関に戻る。
「それじゃあ間に合わない。何があったんですか。側に居ないと心肺蘇生措置もできないというのに。」
 怒気を含んだ声で尋ねてやると、菊池自身戸惑っているのがわかった。
「それが、今日に限って救急要請が殺到しているらしくて。警察の方も一一〇番通報が立て続けにあって、大変なことになっているようです。多分、警察が来る方が早いと思います。状況から判断して、毒物による二次被害を避けるために救急隊員が到着するまで患者に近付いてはならないそうです。救命措置もしてはいけないと。」
 菊池はまだ学校には連絡を入れていなかった。御雷が状況を報告する電話を入れる。菊池にも聞かせて、御雷が見たものを理解させる。
「―――ええ。親子で何か薬をやっていたらしくて。救急も警察も出払っていて、まだしばらく待たされそうな勢いです。今見たときは、馬越本人にだけは辛うじて息がありましたが…多分、間に合いません。」
 御雷の分析が、菊池の胸を刺す。だが、それは多分正しい。
「はい、わかりました。警察や消防の到着を待って学校へ帰りますが、きっと時間が掛かります。警察から話を聞かれることになると思うのですが、今朝からの一連の流れと、普段からの馬越の行動について知っていることを話しますよ。」
 不審死ということになれば、発見者であり日頃の接点もある御雷や菊池が協力を依頼されるという形を取りながら事情聴取を受けるのは仕方のないことだ。校長が異論を挟む余地はない。
 緊急車両の到着を待ちながら、御雷は考えている。
 何故、今日に限って救急車が出払っているのか。警察が人手不足に陥る状況とは、何か。
 答えに辿り着いて、御雷は笑みを浮かべそうになった。
 四千ものシアン化ナトリウム混入済みのパケだ。売りながら、御雷は客の多さと客層の広さに少しばかり驚いたものだ。まさに老若男女、全てが客だった。中高生と思われる見知らぬ顔の少年や少女もいた。会社員風の男もいれば、教員の匂いのする女もいる。
 これほどまでに、今原市には麻薬が蔓延しているというのか。御雷は絶望的な気分になったが、それらの何分の一かでも使われたとしたら。夥しい数の死者が発生するはずだ。
 この、緊急車両が足りない状況は、俺自身が作りだしたものだったのだ。意図せぬうちに、馬越を殺すための時間を自分で確保していたというわけだ。
 そう考えると救急車の到着時間を睨みながら焦りつつ馬越を殺したことが馬鹿らしくなる。もっと、気の利いた言葉でも掛けてやればよかった。
 菊池と御雷は、玄関先に並んで立ち、無言で救急車の到着を待っている。
 不意に菊池が御雷の腕に自分の腕を絡めてきた。見れば、整った童顔の鼻が赤い。眼も充血している。
「菊池先生…?」
「ごめんなさい。少しだけ、甘えさせてください。」
 御雷は目を閉じた。菊池の心を折るようなことをしたのは、この俺だ。わかってはいたが、実際に落ち込んでいる様を見せられると無下に突き放すことはできなかった。
「ええ。でも、少しだけですよ。」
 立ったまま、御雷は菊池の肩を抱いた。彼女は頭を御雷の肩に預けてきた。艶やかな黒髪からは、甘いシャンプーの香りがした。顔を見られないように俯いているが、泣いているのは明らかだった。
 菊池の肩は、見た目以上に細かった。なのに御雷に触れている身体は熱く、十分な肉感が感じられた。見た目以上に、メリハリのあるプロポーションなのだ。
 どうしようもなく菊池が欲しくなっている自分を、御雷は叱りつける。
 お前は、自分が心を折った女を、どんな顔をして抱くつもりなのだ。それとも、御雷という人間は、これも行きがけの駄賃であると嘯くことができるのか。
 苦しい、と御雷は思った。肉体的な苦痛とは無縁の彼だが、まだ痛みを残しているところがあったらしい。
 この俺が。もう何も新しく手に入れることはすまいと決めていた、この俺が。こんな気持ちになるのか。
 菊池に見えないように、唇に皮肉な笑みを浮かべたとき、サイレンの音が近付いて来るのが聞こえた。
 警官と救急隊員が到着し、必要なのは救命活動ではなく現場検証であることが確認される。
 予想通り、今原署に同行を求められ、発見時の状況について詳細に説明した。発端となった白石の不審死や、そこから急遽家庭訪問をすることになった経緯まで正確に話す。さらに、日頃つるんで悪さをしている連中についても確実な事実に限定しながら情報を提供した。
 二人の聴取は別室で行われた。それぞれの言うことに矛盾がないか検証するためだ。
 御雷については、遺体発見現場の状況や発見時は息があったという馬越について細かく説明を求められた。現場に残されていた様々な痕跡との矛盾点がないことが確かめられると、ようやく解放されることになった。
 雑談めかして刑事が尋ねた。
「息子だけ死ぬのが遅かったのはどうしてだと思います?」
 うーん…と天井を見上げながら考えるフリをする。そもそも、事件に関して警察から何の情報ももらってはいないのだ。それでも、答えてやることにする。
「よく、テレビで見るような注射器がありました。もしそれが原因なら、息子だけ注射をするタイミングが遅かった、とか。今のところ、他の原因は思い付きませんね。」
 何で今日に限って似たような事件ばかり起きるのかな。
 つい、独り言を言ってしまった刑事が、慌てて手を振った。
「今のは聞かなかったことにしてください。」
「本当なんですか。」
 仕方ない、という風に声を潜めて刑事が告げる。
「まあ、明日の新聞には載るんですけどね。同じような死に方をした人がかなり出ています。」
 念を押すように御雷に顔を寄せる。
「まだ捜査中なんで、今日の現場で見たことは他言無用に願います。報道でも詳細は伏せて発表されるはずです。故人の人権にも関わることだし、それに…。」
 真顔で御雷は頷いた。
「死んだのが中学生ですからね…わかっています。ぶっちゃけの話、ぼくらとしても、生徒が薬物に手を染めていたなんていうことは大きな不祥事ですから。ただ、管理職への報告はかまわないでしょうね?ぼくらの義務ですから。もちろん、守秘義務は守ります。」
 それには及ばない、と刑事は言った。もう隠しても仕方がない、と思っている。
「実は、生徒が死んだのは稲美中学校だけではないんですよ。既に、関係校の校長先生たちには署まで来ていただくよう要請済みです。状況の説明と、情報の取り扱いについてのお願いは直接警察が行います。」
 この事件での死者数は、最終的にどこまで膨らむかわからない。
 だからこそ、情報の出し方には細心の注意が必要だと考えているのだ。
 御雷は内心ほくそ笑む。情報が伏せられるのは都合がいい。
 しかし、警察にとっては決定的な判断ミスだ。馬越宅に残されたパケを分析すれば、すぐにシアン化ナトリウムが検出されるだろう。なりふり構わず、危険な薬物が混ぜ込まれた麻薬が出回っていることを周知すれば。
 あるいは被害の拡大を抑えることができるかもしれない。
 もっとも、麻薬自体が危険な薬物なのだが…と御雷は皮肉に考える。
 いずれにせよ、今回のケースでは時間は御雷に味方する。
 早々に毒物が混ぜられた麻薬が出回っていることが知れれば、使うのを躊躇う奴が出るかもしれない。それでは苦労してパケを準備し、大量に売りさばいた甲斐が無いではないか。
 死ぬべき奴は、死ね。
 御雷はそう思っている。
 カラスもそうだった。やがて警察はカラスと事件との関連に気付くだろうが、奴はとっくに墓穴の中だ。
 取り調べ室を出ると、菊池が待っていた。瞼が腫れぼったいが、彼女のことだ。きっと自分の言葉でしっかりと説明したのだろう。
「お待たせしました。帰りましょう。」
 その後は、二人とも無言で廊下を進む。一階のロビーに下りたところで校長の尾内が入口から入ってくるのが見えた。
「ああ、二人ともお疲れ様。」
 そう言う尾内の方が、疲労の色が濃い。先程刑事が言っていたように、状況説明や情報の取り扱い―――要するに口止めが行われるのだろう。被害者が複数校に跨がっているということだから、来た者から順番に説明を受けるのだろう。今原市教育委員会からも教育長あたりが呼ばれているはずだ。
「校長先生こそ、大丈夫ですか。お顔の色が優れませんが。」
 御雷の言葉の中に「しっかりしろ」というメッセージを読み取って、尾内は緊張する。これも―――こんな惨劇すらも学校再生に必要な手順だというのか。
 もう後戻りできないことを、改めて噛みしめる。元はと言えば、自分が文部省に要請したことだ。
 無理に笑顔を作った。
「私は大丈夫です。お二人は疲れたでしょう。今日はもう帰って休んでください。」
「ぼくは、何とか。でも、菊池先生はさすがにショックが大きいみたいで。当たり前ですけど。」
 菊池は俯いたままだ。涙が、一粒だけこぼれた。
 娘のような年齢の菊池が憔悴しているのを見るのは、尾内にとっても辛い。
「菊池先生には辛い思いをさせてしまいましたね…。御雷先生、後をお願いできますか。」
「ええ。ちゃんと学校まで連れて帰ります。後は…田中先生や守矢先生もいますから。」
 たしかに、女性同士の方がいいこともあるだろう。
 納得して歩き去ろうとした尾内を、背後から御雷が呼び止めた。
「校長先生。」
「何でしょう。」
「これからも、よろしくお願いします。」
 何ということはない声と表情ではあったが。
 そこに込められたニュアンスに、尾内は心臓を掴まれたような気分になる。それでも、こう言うのが校長の務めだ。
「こちらこそ。最後までよろしくお願いしますよ、御雷先生。」

      8
 結局、学校に戻る車中で菊池は一言も喋らなかった。
 御雷も、敢えて声を掛けることはしない。
 たった一言喋っただけで、堪えていたものが崩れてしまうことが、人間にはあるものだ。
 菊池が沈黙を以て己の内にあるものに耐えているなら、それを妨げてはならない。
 そう考えている。
 菊池が御雷の存在を心の支えにしていることは、何となくわかる。それも、ある程度は仕方のないことだと諦めている。
 しかし、御雷に依存しきってしまうのは駄目だ。この女を、俺なしでは生きられない人間にしてしまってはならない。
 だから、慰めない。言葉でも、態度でも、もちろん身体でも。
 大切に思えば、却って冷淡とも思える態度になる。
 御雷は、そういう男であった。
 菊池が初めて涙を見せたのは、職員室で田中や守矢の顔を見たときだった。子供のように声を上げて泣き崩れる彼女を、二人が別室に連れて行く。
 放課後の校舎内に生徒の姿はない。
 御雷は校庭で部活動に励む生徒たちを眺めて小さく溜め息をついた。
 教頭には帰校の報告をしたが、馬越宅の状況についてあれこれ尋ねられることはなかった。校長から指示を受けているのだ。他の教員にも白石と馬越が死んだという事実だけは伝えられているようだ。それなりに、気を遣ってくれている雰囲気がある。
 白石の担任は体調を崩して早退したらしい。それも仕方のないことだ。
 御雷も、帰ろうと思っている。校長から許可ももらっている。
 自分が酷く疲れているという実感があった。警察は、やはり苦手だ。御雷自身が法の番人だったのは、遙かな過去の話である。
 だが、菊池を放置するのも躊躇われた。かといって、乱れた感情を吐き出している最中であろう彼女の様子を見に行くのは更に躊躇われた。
 ひょっこりと田中が職員室に戻ってきた。
「菊池先生の様子はどうですか。」
 御雷の声に待ちかねていたような響きを感じて、田中は小さく笑った。この男にしては、珍しい。
「少し、落ち着きました。けど、大分参っているみたい。」
「警察でお昼を出してくれたんですが、殆ど食べられなかったみたいです。」
 ぼくも、半分しか食べられませんでしたが、と付け加える。無論、食べられなかったのではない。食べなかっただけだ。だから、今は苦しいほどの空腹を感じている。
「田中先生。」
「どうしたんですか。改まって。」
「今日は、菊池先生を一人にしない方がいいと思うんです。田中先生の所に泊めてあげられませんか。逆に、あなたが菊池先生の家に泊まってもいい。」
 教頭に視線を送ると、小泉も同意した。
「たしかに…菊池先生は責任感の強い人ですからね。一人で思い詰めてしまうのが心配ではありますね。」
「それは、別にかまいませんけど。私も同じことを思って、御雷先生に頼みに来たんですけど。」
「ぼくに?」
 田中は大きく頷いた。
「こんな時だからこそ、好きな人の側に居て、あれこれ身の回りの世話でもしていれば気が紛れるかと思って。」
 おいおい。ちょっと待て。今夜も俺は忙しい。
「それは、駄目ですよ。」
「何故?いくら御雷先生でも、さすがに今日は菊ちゃんを手込めにしようとはしないでしょう?」
「手込めって…いつの時代ですか。」
 思わず笑ってしまう。少しだけ、身体が軽くなった気がした。
 こんな時だからこそ、敢えて馬鹿馬鹿しいことを言ってみる―――田中には、場を明るくする才能があった。
「まったく、田中先生には敵いませんよ。」
 笑顔を収めて、真っ直ぐに田中の瞳を見据えた。
 黒曜石のような瞳の底に強い光が宿っているのを見て、あの田中が頬を赤らめた。
 何という眼で女を見るのだ、この男は。平和そうな外見に騙されると痛い目に遭わされそうだ。田中は動悸を抑えようと努めながら、そんなことを思った。
「でも、駄目ですよ。菊池先生を泊めるわけにはいきません。まあ、彼女の作る飯を食べられないのは残念ですが…やっぱり駄目です。」
 どうして、と重ねて尋ねた。
「ぼくと居ると、今日のことをどうしても思い出してしまうからですよ。」
 ああ、と田中は理解する。
「彼女には、死体を見せないようにしました。でも、人が死んでいる現場には特有の空気感みたいなものがあるでしょう?菊池先生は、そういうものに割と敏感なようなので。」
 田中は目を丸くする。
「それって…霊感みたいなもの?」
「さあ、どうでしょう。本人が聞いたら怒りそうですが、割と鈍い方ですよね?菊池先生は。」
 この指摘には頷くしかない。良くも悪くも、それが菊池の持ち味だ。
「でも、時々、意外なほどに鋭い指摘をしたりすることはありませんか。一度見たものを驚くほど詳細に記憶していたり。」
「うん…私もそれは経験があります。」
「多分、ですが。菊池先生は『忘れる』ことが苦手なんだと思います。ふだん鈍いのも、敢えて自分自身の感度を下げているように思えてならないんです。嫌な記憶を取り込まずに済むように。」
 それは、あるかもしれない。以前に菊池から身の上話を聞かされたことがある田中には、納得できる話であった。
「だから、今晩はぼくと一緒に過ごさない方がいいんです。できれば気分転換させてあげてください。」
 お願いします、と御雷は頭を下げた。
「それはいいけど…。わかりました。ぐずぐず言うようなら、みっちりと道場でしごいてやりますよ。」
 余計なことを考えられないくらいに肉体を追い込んでやれば、意外に感情や思考の切り替えが上手く行ったりするものだ。
「今原市の体育館でやってますから、暇なときに覗きに来てくださいよ。菊ちゃんもきっと張り切るから。」
 言いたいことを言ってしまうと、田中はさっさと職員室から出て行った。
 稲美中に田中が居てくれてよかった。この時の御雷は心からそう思った。

 翌日の新聞には、一面にでかでかと今原市の名前が出ていた。大量の不審な死を遂げた者が発生している、という内容だ。
 御雷は新聞を取っていないから、出勤途中にコンビニで購入して、そのまま駐車場のスバルの中で広げてみる。深夜のニュースで扱った内容よりは詳しく書いてあった。
 曰く―――今原市を中心に、隣接する郡市で毒物による中毒症状を訴えて救急搬送される者が相次いだ。家族が見付けたときには既に死亡していた者も多く、現在わかっているだけで二十名余りの死亡が確認されている。それぞれの被害者同士に接点は見つかっていないが、死亡現場からいずれも麻薬の包みと注射器が発見されたことから、日常的に薬物を使用していたと見られる。残されていた薬物から、猛毒のシアン化ナトリウムが検出されており、何者かが大量殺人の狙いをもって毒物を混入した麻薬を売ったものと考えられる。警察では麻薬の販売ルートを調べるとともに、テレビ放送で麻薬使用者らを対象に薬物の使用をやめるよう異例の呼びかけを行った。今後、さらに被害者が増える可能性もあるため、予断を許さない状況だといえる。なお、被害者の中には小学生から高校生までの子供も含まれており、県教育委員会は臨時の校長会を開いて、子供達への啓発活動の強化を中心とした対策や、その他の子供達に対する心のケアについて協議を行った…云々。
 そういうことらしい。
 現時点では、保護者説明会を開いたり、臨時集会で生徒に状況を知らせたりすることは難しいだろう。そう思いながら、御雷は出勤する。普段より随分遅い。職員室に入ったのは、もうすぐ職員朝礼が始まろうかという時間であった。
 今日も職員室は慌ただしい雰囲気に満ちていた。欠席者が四人。家庭からの連絡は悲痛なものであった。昨日の白石のケースと全く同じだ。職朝は省かれることになった。
 名を聞かずとも、御雷にはわかる。来ないのは、まず二年生の遠藤秀一。あとは三年生が四人だ。その中には生徒会役員もいれば、常にトップクラスの成績を誇る俊英もいる。
 御雷は事前にビデオカメラの映像で確認しているが、三年団の教員にとっては寝耳に水だろう。慌てふためいて対応しているように見えるが、その実不思議な落ち着きがある。
 三年生の六道と近藤が、死んだ。二年生の片瀬が死んだ。白石と馬越も死んだ。
 まだ死ぬ奴が出てくるのではないか。
 無意識のうちに心の準備ができつつあるのだ、と御雷は分析する。
 それは大事なことだと思うが、「今年に限って生徒がたくさん死ぬのは何故だ」という思考に繋げてもらっては困る。
 西本が執拗に御雷を観察していることにも気が付いてはいた。おそらく、河津組の差し金だろう。奴らを少し混乱させてやらねばならない。
 御雷が自分の席に座ると、菊池の方から声を掛けてきた。
「昨日はありがとうございました。いろんなことを御雷先生に助けてもらったのに、お礼も言えなくて…ごめんなさい。」
 まだ、顔色が優れない。
「気にしないでください。動転して当然ですよ。それより…昨夜はちゃんと眠れましたか。」
 意外なことに菊池は苦笑してみせた。
「昨夜は田中先生にみっちりと鍛えられましたから。何も考えられないほど疲れさせてくれたので、今朝は起きられませんでした。」
 田中がコーヒーカップを持ったまま、ニヤニヤと笑っている。
「その顔…まだモヤモヤしてるな。今日も揉んでやるから覚悟しなよ。」
 菊池が助けを求めるような視線を御雷に向ける…のに対して、笑顔で応えてやった。
「田中先生の言うとおりですよ。自分の中の感情が燃え尽きるまで、身体を追い込むのもいいもんですよ。」
 恨みがましい眼で、菊池が睨む。
「助けてはくれないんですか。」
 御雷は器用に片目を瞑って笑った。
「『今はないものについて考えるときではない。今あるもので、何ができるかを考えるときである。』ですよ。あなたには田中先生がいます。精一杯稽古に励んでください。」
 がっくりと机に突っ伏す様を見て、御雷は少しだけ安心する。
 修羅場を経験して、この女はまた少し強くなった。
 田中を便利に使わせてもらおうと思う。彼女がいてくれれば、菊池は元気でいられるだろう。そして田中が彼女を守ってくれるだろう。
 御雷が稲美中を去った後も。
 仕事を進めるということは、離任の日が近付くということでもある。
 雑な仕事は好まないが、攪乱と御雷にとって都合のよい誤解を生み出すためには、熟考よりも拙速を尊ぶことも致し方ない。
 惨事と混乱の中だからこそ、今が攻め時なのだ。
 
 昨夜のうちに、二年生教室のある教棟――「離れ小島」の一階部分にある嵌め殺しのガラス窓を割っておいた。
 校舎というものは、外に面している窓には軟式野球の打球程度なら簡単に弾き返すことができる強化ガラスを用いているものだ。非常に高い強度を誇る強化ガラスではあるが、一旦傷が付けば、一気に崩壊するという性質を持っている。
 強化ガラスは普通の板ガラスを加熱し、急冷却することで作り出される。ガラス表面には圧縮応力層、ガラス内部には引張り応力層が形成され―――などと説明しても混乱するだけだ。要は、二種類の応力がパンパンに張り詰めた状態を作ることで、外力に対して非常な抵抗力をもたせているとイメージすればいい。もし、張り詰めて均衡を保っている二種類の応力のバランスを崩せばどうなるか?内に張り詰めていた力がガラス自体を砕いてしまう。
 だから、強化ガラスはある程度の深さの傷が付けば、たとえそれが小さなものであっても、ガラス全体が細かな破片となって砕けてしまうのだ。粒状の破片になるため、比較的安全性は高いが、樹脂フィルムなどを幾重にも挟んだ防犯ガラスに比べれば、はるかに割りやすい。
 単に鋭利なもので――点で突いてやればいいのだ。御雷は自動車用品店で売っていた、非常時にサイドウインドウを割るためのグラスブレイカーで、窓を無造作に叩く。粉々になったガラスは室内に落ちる。窓枠に残った破片を丹念に取り除き、室内に滑り込む。
 警備装置は貴重品や生徒の個人情報、あるいは危険物のある場所を中心に設置されている。決して校舎全体をカバーしているわけではない。
 室内に入り込んだ御雷は、掃除用具庫から箒を出して、ガラス片を綺麗に部屋の端に掃き寄せた。ガラスの破片に気付いたワル共が、自分で片付けた、という体裁を取るためだ。さすがにガラスまみれの空間で寛ぐ気にはならないだろう。
 だが、御雷が使った箒には、奴らの指紋が付いていない。チャンバラごっこに使ったとしても、指の向きを調べれば持ち方は判ってしまう。それでも、「指紋がない」よりはましか…。
 少し考えて、二本の箒を奴らがよくダベっている場所に転がした。どこから持って来たのか、擦り切れた体育館用のマットが敷かれている。古い廃棄用のものを持ちだしてきたものか。彼らにとってはソファであり、ベッド代わりにもなる。邪魔になるものは自分たちで勝手にどかしてくれるはずだ。べったりと指紋を付けながら。
 今の季節、窓から入ってくる風は心地よいものだろう。ガラスがなくても「誰がやったのかは知らないが、具合がいい」程度の認識しか持つまい。むしろ、校舎を損傷した犯人を称賛するかもしれない。
 準備を調えると、御雷は窓から外に出た。ガラス面に貼っていた毛糸は失われているため、改めて窓枠に貼り直す。
 下ごしらえは上々だ。料理と違うところは、当日にならないと何を料理するかわからないところだけである。

 いつものように、御雷は授業を始めた。二年五組の英語科である。馬越以外は全員出席している。相変わらず西本の視線は御雷に注がれていた。特に邪魔をするということもない。
 不気味ではあるが、授業は格段にやりやすい。
 御雷は単元のまとめを兼ねて発展的な学習をさせてやろうと考えていた。
 日本人の中学生が、留学生とともにアメリカに住む彼女の祖母に会いにいく、というストーリーを扱ったばかりである。その中で触れられていたアメリカの街の様子や観光地等の生の映像を見せてやる。事前に、映像から引き出すべき情報の項目を挙げたワークシートを配布している。
「それじゃあ、準備ができたら動画を流すからね。メモするのは英語でも日本語でもいいから、気楽にいってみようか。」
 投影スクリーンは各教室備え付けのものだが、そこに映像を映し出す小型のプロジェクターは御雷の私物だ。手にしたタブレット型コンピュータから伸びたケーブルが、ネイビーブルーのジャケットのポケットの中に消えている。
 スクリーンにはタブレットの画面が映し出されている。いくつものアイコンや、動画のサムネイルが並んでいる。
 久しぶりに御雷の授業を見学している菊池は、ほう…と驚きの溜め息を吐く。生徒たちが、御雷の用意した機材に完全に馴染んでいるのを感じたからだ。近くの生徒に尋ねてみる。
「ねえ、御雷先生は、よくああいう機械を使うの?」
「はい、いつもじゃないけど。動画を見せてくれたり、聞き取りの練習をするときにも使います。あと、授業中も成績データを入力していることがありますよ。」
「ああ、私たちが記録簿にいろいろ書くのと同じ事を、コンピュータに直接入れているわけね。」
「そうみたいです。最初は目の前で記録されるのは嫌だったんだけど。御雷先生は基本的にみんなが頑張っているところを記録してくれるから、もう慣れましたけど。」
 記録簿。補助簿。古くは閻魔帳とも呼ばれることもあった。教師にとっては日々の授業や課題について記録し、生徒の評価や指導の改善に生かすための大切な情報の記録媒体だ。
「私が生徒だった頃は、タブレットなんて使う先生はいなかったけれど。」
 まだ若いつもり―――実際若いのだが、それでも時間の流れを感じずにはいられない。
 御雷が最初の動画をタップした。すぐにタブレット全面に動画ウインドウが広がり、坂の多いサンフランシスコの街並みが映し出された。可愛らしいケーブルカーが走る様に、生徒の視線が引き寄せられる。教科書では文章で説明されていたことを、ほぼそのままの映像で見せてやる。
 生徒たちは瞬時に映像に入り込む。それは、菊池も同じだ。
 御雷は、狙撃支援アプリを起動させた。タブレットの画面では、動画の画面に被さるようにウインドウが開いているのだが、プロジェクターには送られない。
 狙撃システムをコントロールするための画面は、御雷にしか見ることができないようになっているわけだ。
 口では動画の中のそれぞれのシーンについて解説を加えながら、指先は狙撃支援ロボットの起動操作を行っている。耳にイヤフォンを挿してはいなかったが、御雷にはK2の声を聞くことができた。
 プロジェクターのスピーカーから出ているのは動画の音声だけではない。同時にK2からの通信もポケット内の携帯電話を通して流されている。ただし、K2の声は常人の可聴域を遥かに超えたところで発せられているため、御雷以外には認識できないのだ。
『狙撃支援ロボット起動。量子リンク良好です。システム異常なし。登載銃器正常。照準システム正常。離脱ルートセッティング完了。防水カバー排除完了。いつでも、撃てます。』
 ウインドウを狙撃モードに切り替えた。味気ない文字情報だけの画面から、カメラを通して見た『離れ小島』の映像に切り替わる。
 動画はチャイナタウンに変わっている。御雷はすいすいとタブレットの画面に触れながら解説を続けている。
 狙撃ウインドウをタブレットの画面全体まで大きくする。窓の奥に、人影が、四つ。スワイプして倍率を上げる。
 一際大柄な影は南方猛だ。熟れすぎた果実のような、白井希美。パシリ担当の田村浩二も、顔を見れば決して嫌々つるんでいるのではないのが判る。もう一人は――。
 御雷の表情が僅かに曇る。解説は淀みなく続けている。動画はフィッシャーマンズワーフに切り替わった。
 四人目の生徒は玉井淳也であった。まだ奴らと切れていなかったのか…と口の中が苦くなるような思いがあった。授業を抜け出しているのだから、そういうことなのだろう。
 御雷は狙撃マーカーを動かして一人一人の頭を狙ってみる。二十二口径弾は、強化ガラスを抜ける際に弾道に大きく影響を受ける。ガラスの割れる音は彼らを慌てさせるだろうし、初弾を外せば御雷が思い描くような仕事にならない。だから、事前にガラスを除いたのだ。
 四人は雑談に興じ、分け合って煙草を吸った。
 やがて、宴が始まった。
 白井が男三人に薬を打ってやる。彼女は西本から直接麻薬を供給してもらっているため、安全だというわけだ。自分にも打つ。
 すぐに薬が全員に効いてくる。
 白井の動きに、御雷はある種投げやりで捨て鉢なものを感じる。その直感は当たっていた。
 男三人が見守る前で、白井はセーラー服を脱ぎ捨て、白い裸体を惜しげもなく見せ付けながら、露骨に誘惑し始めたのである。
 へえ、と御雷は驚きを感じる。解説は続けている。
 目の前に西本がいる。奴は、自分の情婦(いろ)が今まさに他の男と寝ようとしていることを知っているのだろうか。
 自分が五組で授業をしている間に、溜まり場に現れたワル共は全員撃つつもりであった。既に仲間内から死亡者が出ている状況下で、なおも行いを改められない奴は、切除の対象になる。
 すぐに撃つつもりであったが、少しだけ成り行きを見守ることにする。
 ウインドウの中で、我慢しきれなくなった南方が白井をマットに押し倒すのが見えた。前戯もそこそこに男根を白井の股に突っ込む。避妊具は着けていない。激しくのたうち回りながら腰を振り、汗まみれになりながら喘ぐ姿は、浅ましい動物そのものだ。交尾を間近で見ていて興奮したものか、田村と玉井も下半身裸になって、粗末な男性器をおっ立てている。
 白井は全員と寝るつもりなのだろう。
 よりによって、学校でやるなよ。
 皮肉な笑みは、御雷の胸の中に仕舞われる。
 おそらく。原因は西本の心変わりだ。あいつは、この頃菊池にご執心のようだから。
 それで、ヤケになったのか、西本への当てつけかは知らないが、こんな無茶苦茶な行為に及んだというわけだ。
 そこまで西本が菊池に入れ込んでいるなら、なおのこと菊池の守りを固める必要がある…。
 そう思いながら、マーカーを南方の横顔――耳の穴に合わせた。南方が尻を痙攣させ、ダイレクトに白井の中に射精するタイミングに合わせて、タップを二回。柔道で潰れた耳から血を吹き出し、南方の瞬きが止まった。腰は惰性で二、三回動いて止まった。
 乾いた発射音が、遅れて聞こえてきた。二十二ロングライフル弾をライフル銃で撃つなら、五十メートルも離れれば聞こえる発射音は極軽いものになる。
 百キロ近い体重をもろに受け止めて身動きが取れなくなった白井の眼を撃った。
 性器を勃起させて呆然と目の前の殺人に目を奪われている田村の男根の根元を撃った。堪らずしゃがみ込む首筋に数発撃ち込む。
 あっという間に、三人の中学生が人の形をした肉になるのを、玉井は信じがたい思いで見ていた。そして、当たり前のことに気が付いた。
 次は、自分の番だ。震えが全身に走る間も与えられはしなかった。
 玉井…最後まで親不孝だったな。これで、お別れだ。
 微塵の躊躇いもなく、御雷は玉井の顔を二回タップした。
『全員、ほぼ即死ですが、まだ撃ちますか。』
 返事の代わりに、御雷は画面をリズミカルにタップし続けた。
 菊池は異変に気付いた一人だった。
 動画を見ていて、「まるで実際に街を歩いている人間の目線のようだ」と感心していた。
 と、あることに気が付いた。画面に時々黒いノイズが入るのである。黒いコマが一瞬挿入されるような感覚がある。気を付けていないとわからないが、ほぼ一定のリズムで、数秒に一回。
 どこかで見たような。とてもよく知っている現象―――これは、まばたきだ。ということは、この映像は本当に誰かの目が見た光景を記録したものなのか…。
 菊池は、映像がK2の視覚記録であることを知らない。
 小さく混乱しかけたとき、乾いた破裂音が遠くで鳴るのを聞いた。
 銃声だ、と思った。菊池は聞いたことがあった。ただ彼女がかつて聞いたのは、もっと近く―――本当に目の前だったが。
 一瞬、御雷が顔を上げた。が、気のせいだったのかとでもいうように、授業に戻ってしまう。途切れることなく英語と日本語を織り交ぜながら解説やらワークシートのヒントを与えてやったりしている。
 破裂音はしばらくの間続いた。大した音ではないから、初めは気が散っていた生徒もすぐに慣れてしまった。
 御雷はウインドウをぼんやりとした視線を装いながら眺めている。マグチェンジ。
 やがて、異変に気付いたらしい教師の一団がどやどやと溜まり場にやって来た。
 やっと来たか。生徒ばかり撃たれるというのもバランスが悪いからな。
 御雷はマーカーを動かした。
 お前は部活だけじゃなく、少しはまともに仕事をしろ。
 御雷は個人的に嫌いな、その教師の尻に一発撃ち込んだ。飛び上がったかと思えば、そのまま尻餅をついて悲鳴を上げる。
 悲痛な悲鳴は、二年五組まで聞こえてきた。
 御雷は画面から顔を上げた。
「今のは、何でしょう。」
 菊池に問いながら、狙撃支援アプリに狙撃終了の指示を入力する。
『狙撃終了の命令を受諾。銃器及び弾倉を投棄。移動形態に変形して回収地点に向かいます。タブレットから狙撃アプリを消去してください。以上で直接通信を終了します』
 K2の声が作戦終了を告げる。今ごろ、巨大なゲジゲジのような姿から、蛇のような姿に姿を変えた狙撃支援ロボットは、人間が決して通ることができない低木の下や狭い隙間ばかりを選んで、御雷に回収される予定地に向かいつつあるはずだ。
 御雷は、そっと狙撃支援アプリをタブレット上から消去する操作を行った。

      9
 さすがに今度ばかりは騒然となった。
 稲美中学校には何台ものパトカーが駆けつけている。
 現場検証が行われている間、生徒たちは自分たちの教室に留め置かれている。
 管理職は教育委員会への報告や、家庭への配布文書を作成するのに忙しい。
 校内で銃撃による死者が出たのである。銃声を聞いた生徒も多い。中学生ともなれば、物々しい雰囲気から、ただ事ではないことぐらいは悟ってしまう。
 このまま、何事もなかったように帰らせるわけにはいかない。不確定な情報が一人歩きするのも困るし、それ以上に生徒の安全確保について保護者からクレームが付くことを恐れているのだ。
 こういうケースでは、情報の出し方が難しい。校長と今原市教育長は、県教委とも相談の上、無難な対応を取ることに決めた。
 警察とも相談して、出せる範囲で情報を出すことにしたのである。
 詳細は不明ながら、非常事態が発生したことを知らせ、学校の安全が確認されるまでの間、臨時休校とする。捜査の進展も見ながら、保護者説明会を開くこととし、授業の再開や、説明会の開催日については、決まり次第担任から連絡する。家庭においては無用の外出を避け、戸締まり等に注意を払って過ごすよう保護者に協力を依頼する。
 そのような内容が記された文書を、生徒たちが持ち帰ることになっている。
 非常に特殊な事案であると思われること、それでも万一の場合に備えて生徒の安全を最優先にすることなど、教務主任の伊賀が書き上げたのは名文と呼ぶに値する内容と表現力であった。
 物腰の柔らかいベテランの刑事たちが、各クラスで同時に聞き取りを行った。銃撃事件があったことを知らせ――死者が出たことなどはまだ伏せているが――、銃撃があった時間帯の生徒たちの動向や、銃声その他で気付いたことはなかったか…などというようなことが尋ねられる。
 銃声を聞いた者は多かったが、それを銃声だと認識した者はいなかった。当然ながら、教室で授業を受けていた者には鉄壁のアリバイがある。
 それは、教師についても同じだ。
 「全員を疑え」が絶対のセオリーではあるが、生徒の目の前で授業をしている教師に犯行は不可能である。実現するには身体が二つ必要だ。御雷や菊池は、生徒同様通り一遍の聞き取りをされただけで解放された。
 菊池はそのまま保護者への連絡に追われている。生徒を迎えに来るように要請しているのだ。必要なら親の職場へも連絡を入れる。顔色は悪く、唇にも血の気がないが、気丈にも電話をかけ続けている。
 死亡した生徒の担任は、実況見分に呼ばれている。二年生ばかり、一組から四組まで、それぞれのクラスから被害者が出ていた。担任が不在の学級については、学年主任をはじめ、副担任が代わって連絡する。菊池同様電話にかじりついている。一、三年生の担任も同様の動きを始めている。稲美中の電話回線は二本しかないから、自前の携帯電話を使っている者も多い。
 御雷は、二年五組の連絡を半分受け持ってやる。こうショックが続くと、本当に菊池は倒れてしまう。
 自分の行為が菊池を打ちのめしていることは自覚しているが、彼女を気遣う気持ちにも嘘はない。
 矛盾はあっても躊躇いは、ない。
 御雷は、そういう男であった。

 生徒全員を保護者に引き渡し終えたときには、午後七時を回っていた。生徒の聞き取りが終わった後、一旦全員を体育館に集め、改めて校長から現在の状況と臨時休校の間の過ごし方について説明があった。後は、保護者が迎えに来た者から、順に帰って行く。何人かの親は渋々という感じではあったが、それでも全員が帰路に就いた。
 生徒が帰っても、教師は帰れない。少なくとも、多くの教員は事件の詳細を知らされてはいないのだ。
 はっきり言って、銃器を使った犯罪に対して日本の教育現場は無力といっていい。実際には、一人の刃物男を制圧できる程度の訓練ですら、行われている学校の方が少ないのが現実だ。
 今回の事件に対して打てる対策などなきに等しい。それでも情報の共有化は図らねばならない。
 教頭より、被害者―――殺された四人の名前が挙げられる。それぞれの生徒が全身に十発余りの小口径の銃弾を浴びており、おそらくそのうちの一発が致命傷になったであろうこと。
 さらに、南方と白井は性交の真っ最中であり、残る二人も白井と寝る順番待ちをしていたであろう状況証拠があった…さすがに女性教員の前では報告しにくい内容ではある。
 狙撃に用いられたライフルはすぐに発見された。学校からわずか五十メートル。裏山の尾根の上で、三本の弾倉を撃ち尽くした状態で見つかっている。犯人のものらしい足跡はなかった。
 ただ、細く鋭い杭を何本も地面に打ち込んだような痕跡と、重く長いものが引き摺られたような跡が銃器の周りにあった。異様なことだが、犯人が這いずって移動した可能性もある。
 だが、期待はあっさりと裏切られた。引き摺り痕は、すぐに低木の茂みの中に消えていたのである。地面からの空間は二十センチもない。人間が通り抜けられるだけの空間が無いのである。無論、御雷は狙撃支援ロボットを設置後、自分の足跡を消しながら車まで戻っていた。
 結局、大したことはわからぬまま、臨時の職員会はお開きとなった。明日からは休校日だ。教員にとっても精神的なショックは大きい。状況を勘案して、職務専念の義務が免除されることとなった。管理職や教務主任、生徒指導主事あたりはそうもいかない。マスコミへの対応も含めて、職員室に詰めることになる。
 さて、と御雷は考える。
 残るターゲットは西本祐司と石川賢治だけである。休校日の間に姿をくらませる可能性は否定できない。ここまで仲間が殺されれば、明確な意図を持った攻撃を受けていることを自覚するだろう。
 そうなると、狩り出して殺すには少々手間が掛かる。隠れるとすれば、沢田のところだろう。ことによると、本当に河津組を潰す気で取り組まねば、こちらの身が危ないかもしれない。
 休校日の過ごし方について、御雷は考えてみる。有難いことに教員業は休みだ。一刻も早く西本と石川の立ち回り先を押さえたい、という気持ちはある。が、この状況で活発に動けば、周囲に潜んでいるであろう警察の情報網に容易く捉えられるだろう。
 ここは一つ、ゆっくり骨休めをした方が、仕事の仕上がりをよくすることに繋がるのではないか?そんな風に考えることにした。
 一つ心配なのは菊池のことだ。
 西本が彼女に強い関心を寄せているのは、御雷も知るところである。とにかく菊池を見る目が違う。彼女を傷付けようとした仲間をひどく痛めつけたこともある。何より、ほぼ夫婦同然であった白井との関係が、急速に冷めているという噂であった。今日の事件の状況を見れば、それもあながち間違っていないような気がしてくる。白井はどうしてそこまで壊れてしまったのか。
 おそらく。
 嫉妬に狂った白井は、薬の量を増やすことでストレスに対処しようとしたのだろう。だが、それは白井という人間を壊すことにも繋がる愚かな試みであった。最終的に、己の内面が吹き出すのを押さえられなくなってしまった。
 捨て鉢なのは自己評価の低さ。他の男に抱かれようとするのは西本に対する執着の深さの屈折した顕れ。そして、十分に奴に抱いてもらえない欲求不満の表れだ。複数の男を同時に受け入れようと誘惑したのは、己の魅力に不安を感じていることの裏返しだ。
 それらが白井自身を喰い尽くしたのだ。
 御雷が放った銃弾が命を奪う以前から、白井という人間は既に死んでいたのである。
 かつて御雷は「自分はどう生きればいいのかわからないのだ」と語ったことがある。
 田中と菊池に、教諭になることを勧められたときのことだ。
 どう生きればいいのかわからないのは、きっと白井たちも同じだったのだろう。
 だが、断じて同じではない。
 自分で手を下してみて、御雷は殆ど初めて自覚した。
 俺は、どう生きればいいのかわからないのでは、ない。
 どう死ねばいいのかわからないだけなのだ。
 学校再生専門員を続けていれば、やがて命を失うことがあるかもしれない。そう思いながら、二十年が過ぎた。
 今は、どうだ?と自問する。
 終わりの見えない退屈な生を、生き続けたいとは思わない。
 しかし、今は死ねない。少なくとも稲美中での仕事を仕上げるまでは。
 守りたいものがある。
 御雷は、改めて田中に頼んだ。休校中の菊池の身の安全を、である。
 田中は快諾してくれた。
「本当はさ。二人でデートにでも行けって言いたいんだけど。この状況じゃ、そうもいきませんからね。」
 菊池は不満そうだ。また子供扱いされていると感じているのかもしれない。
「そんな顔をしないでください。まだ銃撃犯も捕まっていないし、西本たちも気が立っているはずです。」
 何気ない調子で情報を与えてやる。
「気付いていましたか?西本はあなたのことが好きなんですよ。」
 菊池はぎょっとした。その様子に、田中の方が驚きを隠せない。
「おい、鈍感にも程があるでしょうに。あいつがあんたを見る目は、完全に『女』を見る目なのよね。これはまずいかも、と私も思ってたんだ。」
「だって、私は十歳も年上なんですよ。いくらなんでも、そんな。」
「関係ありませんよ。あいつを、年相応の子供だと考えてはいけないでしょう?」
 たしかに。他の連中とは、違う。一人だけ大人びたような雰囲気を纏ってはいる。そして、西本こそがまだ原石でしかなかった白井に手を付け、あのような女になるよう全身を開発してやった張本人なのである。
 少年でありながら、女体を熟知した指先が己の肌に触れるのを想像して、菊池は身震いした。
 それを見ながら、御雷は己を振り返って苦笑いする。俺が女を知った頃はどうだったか。それを知ったなら、菊池はもう俺を身近には置かないだろう。
「もう、時効ですけどね。」
 思わず呟いた声を、菊池が聞きとがめる。
「え?何ですって?」
 微笑で誤魔化した。
「落ち着いたら、いくらでも遊びに行けますよと言ったんです。」
 話の流れ的に、どこへ行きたいか尋ねないわけにはいかなかった。
「遊園地とかは嫌ですよ。人混みは苦手なんです。」
「そうですねえ…。」
 人差し指を下唇に当てて、しばらく考え込む。
 美術館か博物館ぐらいにしてほしい、と御雷は思った。百歩譲って、大型ショッピングモールでの買い物に付き合うぐらいなら我慢する。
 菊池の顔が輝いた。名案が浮かんだらしい。
「アメリカ。」
「はい?」
 御雷は困惑を声に乗せた。菊池は実に歯切れよく希望を言葉にしてみせた。
「アメリカに行って、御雷先生が通った学校や、住んでいた街を見てみたいです。」
 これは、また、意外な…。やっとのことで、声を絞り出す。
「連れていくのはかまいませんが…しばらくは帰れませんよ。そうなると、もう旅行になりますね。」
「できれば、向こうに住んでみたいぐらいですよ。」
 菊池はいつもと変わらぬ笑顔で言ってのけた。
 考えておきます、と言い残して職員室から出て行く御雷の足取りが、いつになく危うい。試合後のボクサーのようだ、と田中は可笑しくなる。
「効いてる効いてる。菊ちゃん、凄いところにパンチを打ったねぇ。」
「え?何がですか。」
 当人は眼をぱちくりさせている。
「おい、マジか。」
 細い肩を掴んで揺さぶった。声が大きくなる。
「あんたねぇ、『あなたの故郷に行きたい』『しばらく帰れなくてもいい』『むこうに住みたい』って、言われた方はどう受け取るかわかってんの?」
 まだピンときていない。ならば、これでどうだ。
「あんたはね、『あなたの故郷であるアメリカで、あなたと一緒に暮らしたい』って言ったのよ。」
 あ、と菊池は口を押さえた。瞬時に真っ赤になる。これは、女性からのプロポーズだ。
「菊池ィ、見かけによらず大胆だな。ついに押し掛け女房になる覚悟を決めたか。」
 面白がって茶化す田中の方を、不意に真顔で見る。
「もし、御雷先生がいいって言ってくれるなら、それもいいかも。」
 吉本新喜劇ばりにずっこけながら、田中は豪快に笑った。
「あんたも、大物に成長したじゃない。」
 だけど、あの男だけはやめた方がいいかもしれない。あんたとは、相性が悪すぎる。
 恋に落ちた後輩の目をどう覚まさせるか。
 笑顔の下で田中は暗く思考を巡らせていた。
その頃。
 スバルのハンドルを握りながら、御雷は大きなくしゃみをした。やっぱり、風邪だろうか。
 休校日の間は自堕落に過ごす時間も作ろう、と心に決める。
 ちらちらとミラーに目をやるが、尾行は付いていない。
 車窓の風景が田園部に変わってきた頃、一台の自動販売機の前で車を停めた。運転席のドアを開けたまま、御雷はスバルを下りる。自動販売機に近付き、小銭を何枚か投入する。冷たい缶コーヒーを買った。最近少し蒸し暑い日が続いている。
 自動販売機の後から滑り出たものがあった。速い。御雷と入れ違うように、運転席側の道から車内に入り込む。
 金属製の蛇であった。狙撃支援ロボットが現場を離脱するときの形態の一つである。全体が小片状の金属部品と人工筋肉の組み合わせで作られているため、パーツの位置関係を調節することで活動環境に適した形態を取ることができる。今回使用したのは、静的安定度に優れたゲジゲジのような多脚形態と、移動速度及び移動ルートの自由度に優れた蛇のような形態である。他にもいくつか形を変えられるが、御雷自身が苦手としている百足のような形態だけは使ったことがない。
 金属製の蛇は助手席のシート状に腰を落ち着けると、全身のパーツを組み替えて最初のトランク状の形態に戻った。何食わぬ顔で御雷が乗り込み、ドアを閉める。
 そのまま、コンテナ基地へ運び込んだ。今は石上邸と頻繁に往復するのは避けた方がいい、という予感がある。
      *
 毒物混入麻薬―――御雷が売り捌いた薬の被害者が、ついに五十人を超えた。
 河津組組長である沢田は、頭が痛い。
 これまでは、河津組が大量に仕入れる麻薬を使って、多額の活動資金を得てきた。他の組へも薬を融通してやることで、緩やかな協力関係―――実質的に河津組傘下となった小組織も多い。
 事実上、今原市を中心としたかなりの範囲で、麻薬の独占販売を行っているのだ。
 それだけに。
 一度付いた傷は致命的なものになる可能性があった。
 つまり。
 今原市で売られた麻薬に猛毒が混入してあったおかげで多数の死者が出た。実際には一人の売人に扮した御雷の仕業だが、他の組織や薬を買い求めるものはそんなことは知らない。そして、疑心を抱くようになる。
 河津組の扱う麻薬に手を出すと、死ぬかもしれない。一般人には、現物を見ても、それが安全なのか、それとも毒物が混ぜられているか知りようがないのだ。
 結果、取引量はじりじりと下降線を辿っている。右肩下がりの傾向が続くならば、河津組は業態変化を余儀なくされる。
 御雷という男。もし玄が言うとおりの男ならば、よくもこんなことができたものだ、と逆に賛辞を贈りたくなる。といっても、玄の話を丸々信じたわけではないし、次の大きな取引の準備も忙しい。
 河津組の扱う薬に疑義があるのなら、いっそ新しい薬を輸入して、古いパケと交換してやればよい。そうすれば誰も死なずに済むし、組の信用も回復するだろう。
 「損して得取れ」はヤクザの世界でも同じだ、と沢田は考えている。武闘派でありながら、知性は高い。
 そこへ、西本と石川が駆け込んできて、学校で起きた事件について語る。
 沢田は二人がホラを吹いているのかと思った。
 御雷が教室で授業をしている時間帯に、外部からワル共を銃撃した奴がいる。それが現実だとすると、チームで行動しているということか。
「一人だと思うよ、組長。」
 玄が、立っていた。西本と石川が凍り付く。いつ現れたのか。それとも最初からいたことに気付かぬほど、穏形の技に優れているのか。
「それにしても、今回は派手にやったなあ。薬でざっと五十人。撃たれて死んだ奴も含めると稲美中の生徒が十人余り、か。」
 玄はアロハの内側から安い板チョコを出して、バリバリと咀嚼する。沢田は、玄が普通の食事を摂っているのを見たことがない。時折こうやってチョコレートを囓るのが常なのだ。
「なあに、人間の臓器の中で一番エネルギーを食うのは脳味噌だからな。時々は燃料を足してやらんと頭がぼおっとするのよ。」
 ついっ…とサングラスの下の目線が、西本に据えられる。
「小僧、お前の女が殺されたのは知っておるな?」
 自宅の庭先に建てられた専用のプレハブでしばらく待ってから来たが、結局白井は戻っては来なかった。
 被害者の一人だという予感があった。
 玄は、四人の殺害現場の写真を見せてやる。今原署に潜らせてある内通者からの情報である。
 写真を持つ西本の手が、わなわなと震えた。
 自分を裏切った、白井への怒り。
 自分の女を抱いた、南方への怒り。
 自分の女を抱く気満々で待っていた田村と玉井に対する怒り。
 下半身が他の男と繋がったまま死んでいる情婦の姿は、西本にとっては恥辱以外の何者でもない。
 どうにもできなかった、己への怒り。
 そして。玄が言うように、全ての事件が御雷の仕業だとしたら。
 西本は、御雷への怒りを加えないわけにはいかない。
 玄は、微に入り細に入り、近頃の御雷の様子を尋ねる。最後に言った。
「で、例の女―――菊池先生とやらは、どうだ?餌になると思うかね?」
 西本の中での評価は既に固まっている。
「なる、と思います。すくなくとも、賭けてもいいくらいの確率はあると感じました。」
 玄が、眼を細める気配があった。
「ときに小僧、お前は菊池先生のことを好いとっただろう?餌にしてもかまわんのかね。」
 本心は隠し切れなかったか、と驚きはするが、西本の決意は揺るがない。
「それよりも御雷の野郎をぶっ殺すのが先です。」
 そりゃそうだ、と沢田も同意する。
「堅気の女を引っ張り込むのは気が引けるが、もともと堅気を薬漬けにする商売をしているわけだからな。その菊池先生には気の毒だが、協力してもらおう。」
 ちらっと西本の瞳を見る。
「役目が終わったら、菊池先生をお前の新しい情婦(いろ)にするかい?お前にその気があるなら、他の連中に手を出させたりはしないが。」
 こういうちょっとした気配りができるのが、沢田が慕われる理由の一つだ。
「ま、力尽くで自分のものにしようなんて野暮な真似はよしときな。」
 のんびりと玄が言う。
「好きな男が目の前で殺されたら、菊池先生はお前のことを憎むだろう。それを全力で口説き落とせ。あるいは、口説かれたフリをするだけで、お前の寝首を掻こうと狙ってくるかもしれんが…想像してもみろ。己の命を常に狙う女と臥所を共にするなど、これ以上愉しいことは中々無いに違いないわ。」
「玄さんが女の扱いを語るなんて珍しいな。」
「儂にだって血気盛んだった頃はあるさ。」
 サングラスの下で、片目を瞑って笑ってみせる。
「こう見えても、若い頃は結構もてたもんだよ。」
 さて、と玄は声を改めた。
「決まりだな。御雷が女から離れるようなことがあったら、すぐに情報を入れろ。攫うのは、儂がやってやるよ。」
 近所へのお遣いを頼まれるような気軽な口調の中に、怖い響きがあった。

      10
 実に、蒸し暑い夜であった。
 稲美中学校が臨時休校になって二日目である。御雷は、その日一日を本当に自堕落に過ごした。
 好きなほど眠り、適当にインスタント食品で食事を済ませる。だらだらとテレビを見たり、買っただけで開いてもいなかった本を読んでみたりする。合間にK2に連絡を入れて、狙撃を手伝ってくれた礼を言う。いくつか名前の漢字を提案したが、全て却下されてしまった。彼女曰く、「愛が足りない」のだそうだ。確かに、そこまで自分を追い込んで絞り出した案ではない。が、キョウコに当てる字は候補が多すぎる。「次はもっとよい案を出す」と約束させられた。
 夕方になって、そのK2から小包が届いた。差出人はKyoko (02)となっている。
何だ、お前自身もK2をやめたがってるんじゃないか。御雷は可笑しくなる。
 包みを解くと、ダマスカス鋼のナイフが二振り出てきた。大きくて、分厚い。片刃の形状をしているが、グリップまで一体の鋼材で作られている。しかも刃が付けられていない。刃先はそれなりに薄くて鋭く見えるのだが、せいぜいペーパーナイフ程度にしか使えない。
 電話が鳴った。誰かはわかっている。
『荷物が届いた頃だと思うのですが。』
「よくわかったな。見てるのか?」
 ある意味、そうなのだろう。腕時計に備えているセンサーは、体温と同時に心拍数も測定している。変化があれば、何かがあったときだ。
 美しい縞模様が現れた鋼材を眺めながら、御雷は問う。
「ダマスカス鋼にしたんだな。本物かい?」
 高級ナイフに用いられるダマスカス鋼は、異種の金属を積層し鍛造することで、縞模様を表面に浮かび上がらせた鋼材である。正確には、「ダマスカス鋼の見た目を再現したもの」といったほうがいい。
 御雷も詳しく知っているわけではないが…古代インドで製造されたウーツ鋼の別称であることくらいの知識はある。木目状の紋様を特徴とする鋼であるのは「もどき」同様だが、本物の方は鍛造によって模様が形成されるのではなく、るつぼ内での製鋼過程で内部結晶作用が起こることによって特有の紋様ができあがるのだという。
 製法が失われて久しいはずだが。
『再現しました。』
 K2はあっさりと言ってのける。
『今回の用途に、最も適した素材だと判断しました。チタンでは損耗に耐えきれませんし、日本刀では異質な鉄を打ち合わせた構造が、振動の伝達を不安定なものにしてしまいます。』
 なるほど、それでダマスカスか。振動ブレードに適した材質を研究した者など、彼女ぐらいなものだろう。
「試し切りはしてみたのかい?」
 もちろん、とK2は答えた。
『よく切れますよ。とにかく硬いですから、もし研ぐなら超高圧水流か超音波が必要です。』
「お前…日本の漫画を読んでるだろ。」
『アイデアの出所はともかく、切れ味は私が保証します。』
 まあ、出来上がったものが確かなら、御雷にも文句を言う気は無い。だが。
「ところで、一緒に入ってたこれは、何?」
 怪しげな透明の筒に、これまた見るからに怪しい蛍光イエローの液体が詰まっている。太めの油性ペンほどの大きさであった。針こそ無いが、この形状は…。
『注射器(インジェクション)です。』
「だから、何のだよ。」
『この前お話しした【備え】です。これを使えば、あなたは助かります。でも、私のことは嫌いになる。だから…本当に死にそうになったとき以外には使わないで。』
 K2は沈黙してしまう。
 仕方なく、寝室の隠し物入れに仕舞っておくことにする。
 何だかよくわからないが、K2がわざわざ送りつけてくるくらいだから、きっと役に立つ。そして、相当にやばいものだ。
 石上邸の静けさが恋しくなった。が、しばらくは向こうへは行けまい。
 疲れると、無性に甘いものが食べたくなることがある。脳が糖分を欲しているのかもしれない。おまけに、今夜はやけに蒸し暑い。
 エアコンを入れたが、口寂しさは去ってくれない。
 冷たいものが欲しい、と思った。が、冷蔵庫には冷凍食品の類いしか入っていない。
 一旦欲しいと思ったら歯止めが利かない。これも自堕落な一日を過ごした影響かもしれない。
 御雷は、どうしてもアイスクリームを食いたくなった。
 砕いたアーモンド入りのチョコレートでコーティングした棒付きのバニラアイスを思い浮かべると、堪らなくなる。
 外出するのは億劫だが仕方がない。
 ジャージにスニーカーという軽装で、一番近くのコンビニまでスバルを走らせた。といっても、一旦街道まで出なくてはならない。
 着いてみれば、店の駐車場は満車であった。
 今夜の俺は、ついてない。
 御雷は低く唸った。別の店にするか…一瞬迷ったが、隣に市営体育館があるのを思い出し、その駐車場に車を突っ込んだ。
 体育館には灯りが点き、バレーボールをやっているとおぼしき声が聞こえる。二階の武道場にも明かりが点いている。
 本来ならば、体育館の利用者のみが駐車場を利用することができる。特に罰則があるわけでもないが、そのような注意書きの看板が立てられている。
「すぐ出るからさ。勘弁してくれよ。」
 誰にともなく謝って、車を降りる。
 アイスを買い込み、ついでだからとスポーツドリンクの二リットル入りペットボトルも二本購入する。発汗機能を失っている御雷にとっては、適度に身体を内側から冷やす必要がある。
 何しろ、蒸し暑い。
 車のところに戻ると、体育館の正面玄関から、道着姿の子供達が出てくるところだった。
 御雷は納得する。コンビニの客層を思い出したのだ。彼らは、稽古上がりの子供達のために、飲み物や甘いものを買っていたのか―――親というのも有難いものだ。
「せんせー、さようならー。」
 可愛らしい声で二階の窓に手を振る小学生たちを、微笑ましい思いで眺める。
「おう、風呂に入って早く寝ろよー。」
 ぎくりとした。この声は。
 こそこそと車に乗り込もうとした御雷を呼び止める別の声があった。
「あれ?御雷先生じゃないですか。」
 菊池…。今夜も絞られてるのか。
「あ、本当だ。御雷先生、差し入れに来てくれたんですか。」
 田中…そういえば、今原市の体育館で空手教室をやってると言っていたな。今日が、それか。
 御雷は仕方なく二階の窓を見上げた。二人と目が合う。
 目敏くレジ袋越しにアイスのパッケージを見付けて、女たちの顔が輝く。
 御雷は笑うしかない。
 今夜の俺は、ついてない。

 結局、六本入りのアイスは三人で二本ずつ食った。御雷もそれなりに満足する。
 二階の道場で飲み食いするのは、原則として禁止されている。が、空手教室の指導者で、武道場を借りている田中自ら「暑いときはアイスに限るわ」とかいいながら食っているのだからどうしようもない。
 これから、一般の教室終了後に菊池と二人で行う護身術の稽古が始まるところである。御雷は差し入れ―――本人にそんな気はなかったのだけれど――だけ預けたら退散するつもりだった。それを強引に引き留めたのは田中だ。耳元で「落ち込んでいる菊ちゃんを励ますと思って協力して」と囁かれては、断れない。その田中は、電話する約束を忘れていたとかで、一時的に席を外している。
 菊池は、既に汗だくになっていた。小学生に混じって練習メニューをこなすのも、楽なことではない。練習強度自体は成人用に上げられているし、菊池以外にも成人の受講者がいるから手を抜くことも許されない。
 性格的に、たとえ誰も見ていない自主トレでも、菊池は手抜きをしないのだろう。
 御雷はそう思っている。
 ごめんごめんと謝りながら田中が戻って来た。
 板の間に胡座をかいて座り、女たちの稽古を見学することになった。もぐもぐと口を動かしているのは、買い足してきた菓子パンを食っているからだ。
 田中と菊池が向かい合って立つ。あれこれ個別の技を教えるのではなく、実戦形式の中で、流れで技を出せるようにする稽古だ。
 菊池も基本の部分は習得しているということだ。
 田中が動いた。御雷は少し驚く。
 ノーモーションからの突き。一撃で倒すほどの威力は無いが、速い。
 それを、菊池は躱した。髪の毛が大きく揺れたのは、田中の拳が顔面を狙ったものだったからだ。
 顔を殴りにいく方もどうかしてるが、あれを躱すのも尋常ではない。御雷は内心呆れている。
 田中の突きは、見せかけだ。躱して体勢を乱した菊池の襟をしっかりと掴む。そのまま右手一本で背負い投げに行く。軽い菊池の身体が弧を描き、板の間に叩きつけられた。受け身は取れているが、これは痛い。
 菊池が「田中の個人教授場はとにかく痛い」と言っていたのを思い出す。他の連中が辞めていったのも当然だ。
 たしかに、空手教室ではないな、これは。
 菊池は、襟を掴んでいる田中の腕に両脚を絡めて、肘の関節を極めようとする。
 そうだ。転がすだけの投げで人を殺すことはできない。生きている限り反撃の糸口を探せ。
 御雷は自分の思考が既に護身の技から離れつつあることに気が付かない。
 田中は肘を捻って逃れ、逆に菊池の顔を踏みにいった。手加減しているとはいえ、えげつない。菊池は踏み足を避ける動作から足首を取る動作に繋げ、アキレス腱をねじ切ろうとする。
 しばらくの間、二人の女は互いの関節を取ろうと、板の間で組んず解れつの攻防を繰り広げた。
 へえ。大したもんだ。
 菊池の健闘に、御雷は驚きを禁じ得ない。田中がかなり手加減してやっているとはいえ、稽古の内容自体は古流―――比良坂の稽古そのものである。
 その家に生まれ、幼少期から鍛えられたのならともかく、成人してからここまで遣えるようになる人間は多くない。
 指導者がいいのか。菊池の「努力する才能」の賜物なのか。
「多分、その両方だな。」
 独りごちる。
 やがて、二人の動きが止まった。菊池は大汗をかいているが、息を切らしてはいない。なるほど、たしかに田中の言うとおりだ。
 当の田中は、多少汗ばんでいる程度で、表情は涼しげだ。こいつも、化け物級ということか。
「さて、ここからは役割を決めて、状況練習になるんだけど。今日は『約束練習』はやめて、本物の暴漢に襲ってもらおうよ。」
 約束練習とは段取り――決まった筋書きの通りに技をかける練習である。対戦型のスポーツでは、当たり前のように行われる練習方法だ。武道であれば、約束組み手と言った方が通りがいいかもしれない。
 菊池は戸惑っている。
「本物の暴漢って。」
 田中の笑みが深くなる。
「うってつけの人がいるじゃない。身長一メートル七十五センチ。体重は?」
「大体百キロです。」
 そう答えてから、御雷は尋ね返した。
「ぼくが、暴漢役をするんですか。」
「そうよ。適任でしょ。」
 田中は当然とばかりに答えた。菊ちゃんを守るためなら協力してくれるでしょう?
 要するに、菊池にやられればいいんだろう?まあ、それぐらいなら…。
 不承不承引き受けることにする。
「じゃ、これに着替えて。」
 田中が放った道着を受け止める。御雷にも着られるサイズだ。
「まるで、ぼくが道場に来るのを予想してたみたいですねえ。でも、黒帯が付いてますよ。」
 いいからいいから、と男子更衣室に追いやってしまう。
 数分後。
 更衣室から出てきた御雷は、道着が意外なほど似合っていた。が、当人は不満そうだ。
「ズボンっていうんですか、下が随分短いですね。」
 田中は頭を掻いた。
「確かに。というか、御雷先生ってぱっと見より脚が長いんですね。」
 肉付きは誤魔化せても、眼や、手足の長さまでは隠し切れない。
 といって、素顔と本来の体型を見せるわけにもいかない。不格好なのにもすっかり慣れてしまった。
「で、ぼくはどうすればいいんです?菊池先生と殴り合えって言うんじゃないでしょうね。」
「襲って。」
「へ?」
 思わずおかしな声になってしまう。
「だから、菊ちゃんを襲って。」
「いや、その。襲うっていっても色々あるでしょう?命を奪うのが目的で襲うのと、強盗目的とでは、襲い方も違う。」
 そうねえ…と田中は少し考える。
「せっかくだから、菊ちゃんが一番苦手なやつにしましょうか。」
 菊池の汗の量が増えたような気がした。
「それって、もしかして。」
「そ。菊ちゃんの身体目当てで御雷先生が襲ってくるの。」
 御雷は露骨に顔をしかめた。
「嫌ですよ。強姦の真似事をするなんて。」
 数知れぬ程に女を抱いたが、暴力や脅しで身体を開かせたことはない。これからも、それはしないと決めている。ましてや、菊池の過去を知っているのである。彼女の忌まわしい記憶に触れる気にはなれなかった。
「じゃあ、痴漢なら?」
「具体的には、どんな?」
「えーと…シンプルに、後から抱きついて、菊ちゃんの胸を触る。」
 悪くない。御雷は素早く思考を巡らせ、思い付く。ここで悪のりすれば、菊池が俺のことを嫌うように仕向けることができるかもしれない。ごく自然に、ロクでもない人間だということを知らせてやればいいのだ。
「わかりました。じゃあ、どの程度手加減すればいいですか。」
 わざと、そう言った。
 田中の眼が険しくなる。菊池も不満そうに唇をへの字に曲げている。
「本気でやってくれないと。」
「それでは意味がありません。」
 抗議は二人同時だった。御雷は苦笑する。
「それじゃあ、菊池先生。ぼくは本気であなたの胸を触りに行っていいんですね?」
「どうぞ。」
 つんとした声で菊池が応える。
「道着の上から触るだけでは済ませませんよ。」
 菊池が笑顔を見せた。こいつ…こんな笑い方もできるのか。
 初めて見せた、凶暴な笑みだった。美貌だけに、怖い。
「直に触られても怒りませんよ。できるならば、の話ですけど。」
 面白い。
「後悔しても、知りませんよ。」
 御雷は田中を見る。
「本気でやっていいんですね?」
「いいわよ。好きなだけ揉んじゃっていいから。」
 苦笑しながら菊池の背後に立つ。
「どう攻めればいいですか。」
 間抜けな質問だと自分でも思う。しかし、合図して攻めれば稽古にならない。不意打ちに備えて身構えている状態からの反撃が、菊池に与えられた課題だ。
 田中の答えは明快だ。
「はじめ、の合図を掛けるから。その後は御雷先生の好きなタイミングで襲いかかって。ただし、打撃で気絶させるとか、絞め技で落としてから触るのは禁止。」
「後から殴ったり絞めたりなんてしませんよ。」
 御雷の苦笑が深くなる。あくまで、稽古だ。田中が頷いた。
「では、はじめ。」
 空気が、ぴりっと電気を帯びるような気配があった。
 御雷はまた少し驚く。
 気配の源は―――菊池だ。田中に視線を送ると、ウインクを返してきた。
 なるほど。菊池が自らの周囲に張り巡らせた警戒網が、気配として感じられるのだ。この中で動けば、背後からの襲撃であろうと察知されるだろう…と思う。
 当人にその認識があるのかはわからないが、これは「勘」などという生易しいものではない。
 手を伸ばせば届くところに、小柄な背中がある。緊張はしているが、力みはない。よく鍛えられている、と思った。
 御雷は、動けない。
 面白い。
 再び、御雷は思った。唇の両端が、僅かに上がる。
 田中は驚いた。
 御雷が消えた―――ように思えたのである。無論、姿は見えている。ただ、その気配が唐突に消えたので、脳が視覚情報に疑問を覚えただけのことだ。
 無造作に御雷が出た。ノーモーションの動き。足音はしない。
 瞬時に菊池に密着しそうなところまで接近する。御雷は押さえていた気配を、すべて解放した。
 菊池は、戸惑っていた。
 御雷の居場所が掴めない。気配がない。足音も聞こえない。息遣いも…ない。
 田中を相手にしてすら、全く掴めないということはないのに。
 戸惑いが頂点に達したとき、すぐ背後に巨大な気配を感じた。凄まじいばかりの、殺気だ。
 いつの間に。
 反射的に振り返った視線の先に御雷はいない。
「こっちですよ。」
 御雷の声は背後からした。回り込まれたのだ。気配は、囮だ。
 強い力で抱きすくめられる。
 蛇のような素早さで右手が道着の襟を割った。そのままTシャツの首元から中へ滑り込む。
 ちょっと、待って。
 そう言わせてはもらえなかった。
 長くてしなやかな指が、汗で湿ったスポーツブラの縁を器用に越えて侵入してくる。汗ばんだ乳房を御雷の手が這い、指先が乳首を捉えた。人差し指と中指で器用に挟み込む。
 菊池の全身を軽い痙攣が走った。その首筋に、御雷は舌を這わせた。若い女の汗の匂いと塩っぱさに、どうしようもなく性欲が疼くのを感じた。
 全ては田中の死角で行われていることである。
 菊池は一瞬意識が遠のくような、身体の芯が疼くような感覚に襲われる。が、彼女はそこで終わらなかった。
 懐に入っている御雷の手首を道着の上から掴み、関節を極める。同時に彼の脚に自分の脚を絡めながら、強く後に跳んだ。
 二人分の体重を乗せて後頭部を強打するわけにはいかない。御雷は菊池を抱きすくめていた左手を解いた。
 その瞬間を、菊池は待っていた。後に倒れようとする動きはフェイクである。誰しも倒れまいと無意識に抵抗する。
 胸を触らせたまま、御雷の手首は離さない。強烈な肘打ちを彼の鳩尾に入れた。常人なら胃が裂けるほどの威力に、さしもの御雷も肺から息を絞り出す。力が、緩んだ。
 菊池は無造作に投げた。手首の関節を極められているから、御雷には抵抗の仕様が無い。板の間で背中を強打する。
 菊池は御雷の右腕を絞り上げた。両脚を絡め、瞬時に手首に加え肘の関節まで極めてしまう。
 みしり、と右腕が軋んだ。
 痛みは感じないが、堪えていれば折れる。
「痛い痛い痛い!」
 御雷は叫んだ。
「参りました。勘弁してください。」
 少しだけ、菊池は力を緩める。
「この右手…。」
 珍しく無表情だ。
「随分慣れてるみたいですけど。」
 御雷は照れたように笑った。
「いやあ、鷲掴みにすると痛いかと思って。」
 乳首を挟んだときのように手をわさわさと動かしてみせる。
「褒めてません。」
 菊池は渾身の力を込めた。
「痛いってば!何をそんなに怒っているんですか。」
 また、少しだけ緩める。
「別に、怒ってません。ただ、他にもたくさん女の人を触った手で触れられたのが不愉快なだけです。」
 セリフが完全な棒読みだ。あの一瞬で、女性に対する経験の豊富さを読み取られた―――のも、当然か。
 つい、苦笑いしてしまう。
「何が可笑しいんですか。」
 菊池が全力で絞り上げる。御雷は悲鳴を上げた。
「本当に折れますって。田中先生、止めてくださいよ。」
 そこまで、と言った田中の声は明らかに呆れている。
 やっと解放された御雷は、大の字になってうーんと唸った。菊池は赤い顔をして道着の乱れを直している。これで、少しは嫌ってもらえるだろう…か。
「菊ちゃんをあんなに怒らせるなんて…御雷先生も、こう言っちゃなんですけど、馬鹿ですねえ。」
「油断してました。暴力女は田中先生だけだと思っていたんですが。」
 田中は怒らない。
「否定はしませんけどね。で、どうです?菊ちゃんの技は。」
 御雷は身体を起こした。
「どうもこうもありませんよ。ここまで手酷くやられるとはね。でも、あの肘打ちは気を付けないと。ちょっと強力すぎます。」
 まだ顔を背けている菊池に声を掛ける。
「菊池先生、肘を痛めたんじゃないですか?冷やした方がいいですよ。」
 田中が菊池の胴着の袖を捲ってみると、右肘が赤く腫れている。事務所で氷を分けてもらって、氷嚢で冷やしてやる。
 御雷の身体を殴るということは、そういうことである。菊池に無用の怪我をさせないために、御雷自身が致命的なダメージを受けない程度に衝撃を受け止めてはやった。それでも、この始末だ。
 今になって痛くなってきたのか、菊池は顔をしかめている。打った瞬間の、堅い板のような感触を思い出していた。
「菊池先生の長所は、反応速度の速さですね。田中先生の突きを避けるなんて、誰にでもできることじゃありませんよ。それに、何ですか。あの―――。」
「ぴりぴり来るやつ、でしょ?」
 達人同士が対峙するとき、そういうものを感じることはある。だが、菊池はそういう者ではない。
「よくわかんないけど、厄介よねえ。」
 私たちにとっては、という言外の響きがある。
「全くです。特技といっていいでしょうね。」
 菊池の場合、そういう方向にテレパスとしての力が集約されているのか、とも思う。
 どちらにしても、そろそろ潮時だ。
「それじゃあ、ぼくはそろそろ帰ります。菊池先生も怒らせちゃったし。」
 直に触っても怒らないって言ったのに、とぼやいてみせる。
「あれは…御雷先生の触り方がいやらしかったからです。…別に、触られたことを怒ってるわけじゃないし。」
 口を尖らせる菊池の顔が赤い。
 可愛いな、と思った。同時に激しく狼狽する。
 菊池の怒りの原因が、彼女の知らぬ他の女たちへの嫉妬だとわかったから。触れられたことに対してはむしろ恥じらいを伴いながらも受け入れていることが伝わってきたから。
 俺は、またしても悪手を選んでしまったのではないか。火に油を注いでしまったのではないか。
 それもこれも、元はといえば…。
 原因になった女が、腰に手を当てて微笑んでいた。
「まだ、帰しませんよ。というより、本題はここからなんです。」
 田中は不敵に笑った。
「この前の、私のお願いをきいてくれるって話、覚えていますか。」
「ええ。ぼくにできることなら、と言いました。ただし、受けるかどうかはぼくが決める約束です。」
 それでいい、と田中は言った。
「私の願いは、ただ一つ。御雷先生と手合わせをお願いしたいんです。」
 やっぱりか。そんな面倒なことは御免だ。
 断ることは最初から決めていた。
「あの、婿探しの件ならお断りしましたよ。ぼくでは相手にならないと。」
 田中の薄い唇が動いた。
「…学校再生専門員。」
 御雷の頬が一瞬痙攣するのを菊池は見た。

      11
 田中の願い―――彼女が御雷に試合を申し込むことは、菊池にも容易に想像が付いていた。それを御雷が受けないだろうということも。
 だが…何だか様子が変だ。
「その顔…図星だったみたいですね。」
 田中は笑っている。御雷は笑わなかった。
「…カマを掛けましたね。田中先生。」
「ええ。確信はありましたけど、念のためにね。」
 ごりっ。
 御雷の肉の底で殺気が凝る。
 こいつが、文部省の監視者だというのか。
 そう考えれば納得できる点は多い。昨年度から引き続き稲美中に勤務し、御雷との接点も多い。馬越を潰した現場にも、こいつは居た。おまけに、武道にも通じ、眼がいい。見られれば情報が筒抜けになると思って間違いない。
 何より―――あの比良坂の、娘だ。
 殺さなくては。
 今なら、殺せる。
 視界の端に、正座して見守る菊池の姿が見えた。
「どうします?御雷先生。」
 御雷は答えない。いつもは福々しい笑みを浮かべている口元が、今は力が入って白っぽくなっている。
「私はね、自分の力がどれ程のものか試したいだけなんですよ。」
「それで、ぼくの秘密をネタに勝負を強要するんですね。」
 御雷は腹を立てていた。この、美しく、身勝手な女に対して。
「それがどれほど危険なことか、あなたにはわかっているんですか。」
 自分を抑えられなくなっていた。やはり、今回の仕事はイレギュラーだらけだ…と頭の隅で思った。
 ぎりっ。
 奥歯が軋むほどに力が入る。絞り出した声は酷く苦かった。
「あなただけじゃない。秘密を知れば…ぼくは、菊池先生まで殺さねばならなくなる。」
 思わず腰を浮かしかけた菊池を、田中が制した。
「菊ちゃんは黙ってて。いろいろ聞きたいことはあるだろうけど。今は、こいつがとんでもなく危険な奴だってことをわかってくれればいいから。」
 御雷から目線を切らず、距離も詰めない。
「ぼくが、菊池先生の方を先に殺すとは考えないんですか。ぼくにとってはあなたより、むしろ彼女の方が厄介だ。」
 田中の口元に、淡い笑みが浮かんでいた。半眼になった切れ長の眼が、仏像を思わせた。
「あんたが菊ちゃんを真っ先に殺すとは思わない。殺すなら、一番最後。稲美中での仕事が完了してからのはず。だって―――。」
 悪魔のような笑みだ、と思った。
「あんたは菊ちゃんに惚れてるんでしょ。」
 御雷は舌打ちした。
「口数が多いひとだな。他人のことをペラペラと、よく喋る。」
 田中は肩を竦めた。小さく笑う。
「性分なものでね。ともかく、これまであんたは菊ちゃんを何だかんだいって守ってきた。常に危険から遠ざけるように気を配ってきた。それは、あんたが義務感だけで行動しているわけではないからよ。」
 菊池に視線で同意を求める。彼女は黙って頷いた。
「私もね、あんたと菊ちゃんがくっついても、まあいいかと思ってたのよ。」
 芝居がかった仕草で天を仰ぐ。御雷に戻した視線の底に、危険な光がある。
「だけど、馬越を殺したのは不味かったわね。」
 御雷の表情は動かない。
「何を言っているのかさっぱりわかりませんね、田中先生。」
 ふん、と鼻で笑われる。
「初め――馬越が手と脚を怪我したのは、あんたが誘ったのよね。」
 否定しても仕方がない。小さく溜め息を吐く。
「ええ。自滅するように、ぼくが誘いました。」
「あれは見事だったわ。見ていて胸がすっとしたもの。『これが、学校再生専門員の手際か』と感心した。」
 非難されるならともかく、褒められると居心地が悪い。
「学校再生専門員って、何ですか。」
 御雷は目を瞑った。彼女の疑問に田中は答えてやるだろう。
「荒れた学校から、荒れの原因を取り除く専門職のこと。文部省から直接派遣される特殊な技能を備えたスペシャリスト集団…と聞いてるわ。」
「荒れの原因、って。」
 ねえ、菊ちゃん。と田中は思考を促した。
「もう、何人死んでる?」
 殆ど一瞬で、菊池の顔から血の気が引く。理解したのだ。
「思い出して。馬越の家に、何故御雷先生が付いて行ったのか?馬越を殺すチャンスはなかった?ずっと菊ちゃんから見えるところにいたの?」
 菊池の身体が小刻みに震えていた。思い当たる節なら、いくらでもあった。
「ここしばらくの間に、今原市では不審死が相次いでる。馬越や白石みたいな死に方をした奴だけで、四十とも五十とも。おまけに、うちの学校では銃撃事件まで起きた。おかげで学校は随分平和になったけれど。」
「なるほど、と言いたいところだけど、すべて仮説ですね。現に、ぼくが授業をしている最中に銃撃事件が起きた。どう説明するんです?」
 言葉に詰まるかと思いきや、田中は満面の笑みを浮かべた。
「正直言って、まるでわからない。でも、聞いたことがあるの。はじめてあんたの名前を聞いて、姿を見たときには『まさか』って思ったんだけど。」
 笑みの質が変わる。凄絶な―――これは、殺気だ。
「父が、言っていた。『学校再生専門員の中に御雷武という男が居る。素手でも滅法強い上に、銃器の扱いが巧みなんだ』ってね。もう、十五年も前の話だけど――」
 やはり、聞いていたか。退職後も守秘義務ってのは残るんだぜ、比良坂よ。
「私の父も、学校再生専門員だった。そして―――やっぱり人殺しだったのよ。」
 言ってしまってから、田中はふと笑った。
「あんたからも、血の匂いがする。」
「あなたの目的は何ですか。父親の復讐、ですか。」
 違う違う、と手を振って笑う。
「父が十五年前あんたに負けたのは、弱かったからよ。だから、右眼を潰された上に丸三日間生死の境を彷徨うことになった。危うく、私たち家族は路頭に迷うところだったわ。」
 そもそも、学校再生専門員同士が争うことなど起こりえない。それぞれが別の学校へ派遣され、互いに干渉し合うことはない。それが、御雷と比良坂の場合は、赴任先がたまたま隣接する学校だったのが間違いの始まりだった。ワルの繋がりは校区を跨いで多校に渡る。勢い二人は顔を合わせることが多くなった。それまでにも、文部省の研修等で偶に顔を合わせることはあった。
 だが。御雷の技を実際に見て、比良坂は驚いた。あまりにも自分たちの伝える業との共通点が多い。業の源流を探り、先祖たちが何を思って業を練り上げ伝えてきたのか。それを知りたい。切に願う者にとって、同類との出会いはまたとないチャンスであった。
 相手を喰らう。つまり、闘って倒す。それを繰り返していけば、各地に散らばった業は集約され、最後に残った者が、先祖が夢見た境地に至れるだろうという予感があった。
 比良坂は学校再生専門員の道を踏み外した。
 こともあろうに、仕事が継続中のある日、御雷に強引に試合を申し込んだのである。いわば決闘だ。
 結果、右眼をえぐり取られ、両腕は無残に折られ、脳に深刻なダメージを受けた。さらに胸郭は馬に蹴飛ばされたかのごとく拳大に陥没していた。命を取り留めるまでに三日かかり、そして比良坂は学校再生専門員ではなくなった。
「親父が負けたのは自業自得みたいなものなの。私はね、全盛期の父より強い。御雷にだって勝ってみせる。だから、あんたには、私も菊ちゃんも、殺すことはできないわ。」
 そういうことか。ここで俺を倒せば、二人が命を落とすことはない。しかし…。
「ぼくを、ここで殺そうというんですか。」
「そこまでやるつもりはないけれど。本気でやらなければ死ぬかもしれませんよ。」
 田中は頭を振った。眼は笑っていない。
「私は、怒っているんです。御雷先生は、菊ちゃんを騙している。優しく支える振りをしながら、その実、菊ちゃんの心を折るような事件を起こしているのは、他ならぬあんただ。」
 御雷は菊池の視線を強く感じた。お前が今どんな顔をしているのか、俺にはわかる。だから、お前の顔を見ることができない。―――俺は、弱い人間なんだよ。
 唇に皮肉な笑みを浮かべるのに、少しばかり苦労する。
「それで、可愛い後輩を守るために、ぼくを叩きのめそうというんですね。」
 一応、頼んでみる。
「もうすぐ、ぼくの仕事も終わります。そうなったら、ぼくは稲美中からいなくなる。あと少しの間だけ、見逃してもらうわけにはいきませんか。」
 田中の返事には感情がなかった。
「それは、駄目。このままあんたが居なくなったら、菊ちゃんの中にはずっとあんたへの想いが残ってしまうから。」
 声が変わる。
「だから、この場で御雷武がどんな男かしっかりと見てもらう。そうすれば、菊ちゃんだって目を覚ますわ。」
 つまり。殺人者を忌避する菊池の深層意識に訴えることで恋心を冷まし、御雷に対する嫌悪感を植え付けようというのである。
 田中にとって意外だったのは、御雷の口元に一瞬寂しげな笑みが浮かんだことだった。
「そういうことなら、受けましょう。場所を、移します。」
 先に立って、畳敷きの部屋――柔道場へ歩き出す。
 その背中に、菊池が声を掛けた。
「本当、なんですか。みんな、御雷先生が殺したんですか。」
 御雷は答えない。学校再生専門員にも守秘義務がある。少なくとも自分の口から喋るわけにはいかない。
「ちゃんと答えて!」
 叫び声が、胸に痛い。振り向いた御雷の唇に、淡い笑みが浮かんでいた。
「ぼくのことを『嘘つきだ』と言ったのは、菊池先生、あなたですよ。」
 歌うように続ける眼差しに、夢見るような趣があった。
「最初に言ったはずです。ぼくは、あなたには相応しくない人間だ、と。」
 再び歩き出す。背中で言った。
「あなた自身の眼で、そのことを確かめなさい。」
 御雷は菊池の視線の外で唇を噛みしめている。
 これでいい。お前は、俺を嫌いになれ。

 柔道場は静まりかえっていた。今日は夜稽古もない。
 御雷はすたすたと部屋の中央に進む。
「何故、柔道場なの。」
「野試合―――野外での闘いに近いのは、板の間より畳の上だからです。」
 三メートルほどの距離を置いて、対峙する。
「一つ確認させてください。これは『殺し合い』なんですか。」
「違うって言ったわよね。だから勝敗のルールを決めましょう。」
 御雷は頷いた。
「ぼくの身体には、時間制限があります。何しろ汗をかけないもので。どう頑張っても十五分が精一杯です。それ以上やると、本当に死んでしまいます。」
「ふうん。じゃあ、時間を長引かせればあんたを殺せるわけだ。」
 怖いことをさらりと言ってのける。
「そういうことです。銃も刃物も要らない。ただぼくが自滅するのを待てばいいだけです。それも勝ちでしょうが…。」
 田中が唇の左端を持ち上げる。
「当然、私はそんな勝ち方はしない。あんたを叩きのめして勝つ。」
 ゴム紐でさほど長くもない髪の毛をまとめながら続けた。
「制限時間は十五分。十五分経って、立っていられた方が勝ち。」
「いいですね、シンプルで。親父さんの時と同じだ。」
 要するに、目潰しや急所への攻撃等、何でもありということだ。
「殺し合いではないけれど、気を抜いてると事故が起こるかもしれないわね。」
 田中の瞳の底に閃く光を見て、御雷は苦笑する。たしかに、道場で人が死んでも事故で片付けることは容易いだろう。今日でなくても、いずれ御雷を道場に引っ張り込むつもりだったのだ。
 油断のならない女だ。
「せっかくだから、勝った方には賞品を用意しましょうか。」
 御雷は少しだけ面食らう。
「賞品、ですか。」
「そう。殺し合いじゃないんだから、何か励みが欲しいじゃないですか。私は、欲張りなんですよ。」
「ぼくと闘(や)るだけじゃ不満なんですか。」
 田中はポンと手を叩く。わざとらしい…。
「それ、いただき。もし御雷先生が勝ったら、ヤってください。」
「はあ?」
 田中は整った貌を真っ直ぐに向けて言う。
「御雷先生が勝ったら私を抱いてください、と言ってるんです。」
 菊池が抗議の声を上げた。
「それ、何かおかしくないですか。私には諦めろって言いながら、自分が…。」
「田中先生的には筋が通っているんですよ。」
 御雷が説明してやる。
「別に、ぼくのことを好きなわけじゃない。ぼくの血が欲しいだけなんです。」
「そういうこと。別に結婚してくれって言ってるわけじゃないの。子供の認知も求めない。ただ、妊娠させてくれれば十分よ。…ま、私に勝てるようなら、あんたを愛する自信はあるけどね。」
 御雷は顔をしかめた。
「綺麗な顔をして『ヤってくれ』なんて言わないでください。」
 酷く男性的な笑みを浮かべて、真っ直ぐに田中の眼を見返した。
「勝っても、あなたを抱いたりはしませんよ。ぼくを種馬扱いするのはやめてください。大体、ぼくの遺伝子を受け継いだ子供が、自分の知らないところで殺しの技を仕込まれると思うとぞっとします。ぼくは…自分の子供を人殺しの道具に育てるつもりはありませんから。」
 我が子に殺しの技は伝えない。かつて恭子との間に武を授かったときと、その想いは変わらない。
「そもそも、ぼくが勝ったら、二人とも命が危ないとは考えないんですか。」
 それもそうか、と田中はようやく気が付いたようだ。
 呆れた単細胞だ。
「ぼくが勝っても、二人を殺したりはしませんよ。でも、これだけは約束してください。今日知ったことは口外しないこと。少なくとも、ぼくが稲美中に居る間は。それから、何があってもぼくの邪魔はしないでください。これは、文部省から依頼された仕事なんです。」
 田中は意外そうに眼をしばたかせる。
「それだけでいいの?学校再生専門員は、正体に気付いた者を必ず殺すっていうルールがあると聞いたんだけど。」
 御雷は苦笑いを微笑に変えた。
「比良坂は本当に口が軽い―――ええ、ありますよ。いくら自信があっても、菊池先生を巻き込むなんて無謀すぎますね。でも、今回はルールを無視します。ぼくの邪魔をしない限り、殺したりはしませんよ。」
「どうして?ルールは絶対なんでしょう?」
「ええ。この前も文部省の役人から直接電話が掛かってきましてね。念を押されましたよ。」
「何て、言われたの?」
「『正体がばれそうになったら死ね』と言われました。」
 これには二人とも絶句する。教育行政の暗部に属するとは、こういうことなのだ。
 御雷の声に湿っぽさは微塵もない。
「普段は役人が直接連絡してくることなんてないんですが。まあ、基本的にはそういうことなんです。ぼくらは、文部省の道具です。道具が使い手に害を為すようであれば、廃棄されるのは当然です。そして、おそらく。ぼくにとっては稲美中での仕事が、学校再生専門員としての最後の仕事になるはずです。」
「引退、するんですか。」
 菊池の声には、微かな希望がこもっている。殺しをやめるなら、あるいは。
「政治的なあれこれで、学校再生専門員制度自体が解体されます。実際、上の方で情報が漏れてしまって、ぼくの正体が、もうばれかかっているみたいで。」
 お前が、情報を流しているのではないのか。そんな思いを視線に乗せてみたが、田中は無反応だった。
「ともかく、時間が無いんですよ。それに、この仕事が終わったら日本を離れます。」
「海外へ?」
 御雷は生白い顔を撫でた。
「手術から大分経って、この身体もメンテナンスが必要らしいんですよ。担当した医者からは早く帰ってこいと急かされています。だから――多分、お二人の前にぼくが姿を現すことは二度とありません。」
 御雷が去った後であれば、警察に話すなり好きにすればいい。そう言っているのである。
「わかった。菊ちゃんにもそれで納得させる。」
 後輩に人差し指を突きつける。
「そういうわけだから、あんたも約束しなさい。もし約束を破ったら、その時は…。」
 瞬きもせず菊池の藍色ががった瞳を見詰めた。
「あたしが、あんたを殺す。」
 菊池が、ぎょっとして固まった。田中の決意は、本物だ。彼女にとっての「約束」とはそれほどの重みをもつのだろう。
「で、私が勝った場合のことも考えておかなくちゃね。御雷先生の秘密は、勝っても負けても喋らない。そこは変えないわ。それ以外に…もし、私にあっさり負けるようなら何も要らない。でも、私を追い詰めて苦戦させるようなら。私が勝った後、子種をもらいますから。私だって、手ぶらでは帰れないもの。」
「まだ、諦めてなかったんですか。そもそも、そこまで競り合って負けたら、ぼくは五体満足ではいられないでしょう。寝たきりになってしまうかもしれませんよ。」
「心配しないで。もしそうなったら、一生をあんたの介護に捧げるぐらいの覚悟はできてるから。」
 言い切った田中の頬が紅潮しているのを、菊池は見た。そして、悟った。これは、田中なりの愛情表現なのだと。
 これから、死力を尽くした闘いの中で、二人は語り合うのだろう。そこに加われない自分にもどかしさを感じた。同時に、激しい嫉妬も。
 しかし、若干の心許なさも感じている。あまりにも現実感のない話ではある…が、少しずつ染み渡るように菊池の中に広がりつつあった。御雷がこれまで示してくれた優しさや厳しさが全て偽りだとしたら。自分が御雷に抱いているこの気持ちも偽りでないと言いきれるだろうか。
 わからない。
 御雷が腕時計を外して菊池に放った。
「預かってください。壊されると困る。体温センサー付きの特注品なんです。」
 表示板を見ると、小さくエラー表示が出ている。センサーが皮膚表面に接触していないためだ。
「その時計で時間を計ってください。ストップウォッチモードにしたら、合図をお願いします。」
 操作は市販品と同じだ。菊池は側面の小さなスイッチを何回か押して、ストップウォッチの画面を出した。スタートボタンに指を掛けて、叫んだ。
「はじめ!」
 田中が構えを取る。軽く握った両の拳を顔の高さに。両脚は肩幅より少し広いほどに開き、少しだけ右足を引いている。
 本当に、御雷の業の構えによく似ている。田中の言うとおり、元は一つの業だったものがいつの頃か別れたのかもしれない。
 御雷は、構えない。両手を下げたまま、自然体で立っている。その脚が、動いた。
 無造作に距離を詰める。
 不意に、御雷の右腕が上がった。
 次の瞬間、彼の手の中に田中の左脚が現れるのを、菊池は信じがたいもののように見詰めた。
 ノーモーションで放った左のハイキックを、御雷が掴み止めたのである。蹴りの速度が速すぎて、菊池の眼では追い切れないのだ。
 のみならず。
 田中の両手は、胸郭すれすれのところで御雷の左手首を掴み止めていた。同じくノーモーションで放った突きを見切ったのである。
 田中がにっと笑ったように見えた。
 掴まれた左手首をねじ切ろうとする力に逆らわず、御雷は身体を回転させた。倒れ込みながら、蹴りの軸足を刈って、田中の身体を宙に浮かせる。
 両足が地に着いていなければ、御雷の手首を捻ることすらできない。田中の身体が宙にある間に体勢を入れ替え、無造作に蹴りを入れた。
 菊池は蹴りがまともに腹に入ったのを見て悲鳴を上げる。細身の長身が車にでも跳ねられたように派手に転がった。
 御雷は、構えを取った。田中と同じ、御雷の構え。
「確かに、父親より強い。」
「やっぱ、油断はしてくれないか。」
 腹をさすりながら起き上がった田中は笑顔を浮かべていた。眼は、笑っていない。
 御雷の左足は少し痺れている。田中の腹を蹴った感触を思い出す。
「まったく…女性の腹とは思えませんね。人の身体の感触じゃありませんよ。」
「そっちこそ、女の腹を躊躇無く蹴るなんて。まともな人間のやることじゃないわね。」
 御雷の眼が笑っている。黒曜石のような瞳が光った。
 田中の眼も、笑った。底光りする怖い眼だ。
 御雷の蹴りが奔った。顎を真下から打ち抜くような前蹴りだ。
 田中は身体を反らせて避ける。
 吹き抜けた蹴りが吹き戻って今度は後頭部を襲った。
 田中は避けなかった。一歩踏み込んで、打撃力の小さい部分を受け止める、そのまま蹴り足を掴んだまま、軸足を刈った。御雷が転倒する。その足首を田中がアキレス腱固めに持って行こうとする。決まり切る寸前、御雷が田中の肩口を蹴り込んで技を外す。
 再び立ち上がっての対峙。
 田中が距離を詰めた。ただの正拳突きが、重い。捌ききれずに、御雷は両腕を交差させて受けるしかない。一瞬動きが止まったところへ、田中の回し蹴りが跳んだ。顔面狙いだ。
 避けた。と思った瞬間、第二撃が飛んで来た。最初の蹴り足が通過した後、軸足まで地面を離れて蹴り足に変化したのだ。これも、避ける。田中の身体が空中で綺麗に回転するのが見えた。
 着地の瞬間を御雷は見逃さない。素早く背後に回り込んで、プロレス技―――バックドロップで投げた。最短距離で投げ落とすような、鋭い投げである。田中といえども受け身を取る間を与えなかった。板の間なら死んでいたかもしれない。畳でもそれなりにダメージがあるはずだ。
 しかし、田中は立ち上がってくる。殆どダメージは負っていない。
 業(わざ)とは、人間自体を作ることだ。その上に技が成立する。幼少期からの絶え間ない鍛錬。それを可能にする遺伝的素養。そして幾世代にも渡って練り上げられた鍛錬法。それらが生み出す強靱な肉体とそれを支配する脳こそが、神髄。
 そういう意味で、田中は紛れもなく比良坂の業を継ぐ者であった。
「ぬるいわね。御雷先生。」
 先程に倍する速度で田中は動いた。
 顔面への蹴りが変化し、金的を狙う。懐へ入り込んで強烈な投げ技を見舞ったかと思えば、すぐさま関節を取り、絞め技を狙う。
 打撃技から投げ技、関節技へと連続的に変化していく。その変幻自在さこそ比良坂流の本質だ。
 次第に防戦一方になっていく。
 体温の上昇が酷い。自分の肌に赤い筋が現れたり消えたりし始めるのが見えた。
「まさか、適当なところで負けてやろうなんて思ってないでしょうね。」
 ぎくりとする。
「なめられたもんね。何だか、本当に殺したくなってきたわ。」
 さらに重い突きが数発。受けるのに苦労する。痛みは感じないが、骨にヒビぐらいは入ったかもしれない。
 息が荒いのは、呼気に乗せて体内の熱を逃がすためだ。体表の血流はこれ以上増やせない。空冷ではこれが精一杯だ。
 今や、全身に皮膚の分割線がくっきりと浮き出している。
 田中が構えを取ったまま笑う。
「苦しいんでしょう?無理せずに、素顔で闘えばいいのに。全体の何パーセントぐらいの筋肉を姿を変えることに使っているかは知らないけど。その分動きにブレーキがかかるし、余計な熱も発生するはずよ。」
 御雷は肩で息をしながら、それでも笑った。
「それも、親父から聞いたのか。」
「ええ、そうよ。あんたには、別の顔と姿があるってね。父と闘ったときは出したらしいじゃないの。今日は出さないの?」
 御雷は、全身の筋肉の統御に全力を傾けている。内部に籠もる熱が、危険な領域に達しようとしていた。闘う身体は、随分前から声を上げ続けている。
 戻れ。本来の姿に戻れ。そうすればこんな女は粉々に砕いてやる。
 少しでも気を抜けば、擬態が解ける―――綱渡りのような肉体のコントロールを強いられているのだ。
 御雷は沈黙を守るしかない。
 田中は菊池へ視線を走らせた。納得する。
「ああ、菊ちゃんに見せたくないんだ。菊ちゃんは、あんたの素顔について誤解しているようだから。」
 うまく誘導したものだ、と感心してみせる。また一つ、嘘が暴かれるのか、と御雷は内心溜め息をつく。
「菊ちゃんは、御雷先生の素顔を『醜い顔だ』と思ってるみたいだけど。」
 菊池は混乱しながらも頷く。
 大火傷の治療。隠しておきたい素顔。…そして気付いた。御雷自身は一言も「醜いから見られたくない」とは言わなかったことに。
「父によるとね、この人の素顔はとてつもなく綺麗なんだって。そう聞くと、見てみたくなるじゃない。」
「いやだね。お前には見せない。」
 口調が、変わった。
「俺の素顔を見るときは、お前が死ぬときだ。」
「あっそ。」
 田中が口をすぼめるのが見えた。脳が警告を発する。飛翔体接近。
 左眼の周辺に衝撃を感じて、視界にノイズが走った。口に含んだ金属の小片を吹き付けたのだ。いつ仕込んだのか、御雷にもわからなかった。
 咄嗟に避けたために眼球は無事だが、動くのが一瞬遅れた。
 滑るように移動してきた田中が出した前蹴りを躱せない。まともに腹に喰らって、反射的に身体が丸まろうとした。
 田中は、その御雷の髪の毛を両手で掴んで強く頭を押さえつける。同時に、顔に向けて膝を突き上げた。
 まともに喰らえば顔面が陥没する。
 これで死んでも仕方ない。そう思って、田中は膝蹴りを放った。
 だが。
 突き上げた膝頭を御雷の両手が受け止める感触があった。
 みしり。
 瞬間、激痛が走る。
 命じずとも身体は動く。
 田中は御雷の髪の毛を掴んだまま、自分の額を激しく打ち付けた。ただの、頭突き。
 鈍い音がして、畳に血が滴った。田中が後に跳びすさる。
 ゆっくりと小太りの影が立ち上がる。
「鬼、だな。田中。」
 顔面を赤く染めて、御雷が笑う。額が割れている。
「俺も大概石頭だが…手を離してしまった。膝頭をむしり取ってやろうかと思ったんだが、ね。」
 ぞっとするようなことを平然と言う。
「田中、一つだけ答えろ。」
 膝を押さえて蹲っている田中の額からも、大量の出血がある。
「何よ。」
 御雷の眼が、半眼になる。朱を引いたような唇が、そろりと言葉を紡いだ。
「お前…自分の技で人を殺したことがあるな。」
 菊池は、息を呑む。
 がさつで、無神経で、粗忽だけど――明るくて、優しくて、頼もしい、先輩が。まさか、そんな。
 菊池の願いはあっさりと踏み砕かれる。
 田中が笑ったのである。勝ち気に切れ上がった目に、鋼のような光。薄い唇の両端が吊り上がっている。
 顔の半分を血に染めて、田中は笑っていた。美しくも凄絶な、笑み。
 彼女の声が、悪夢のように菊池に届く。
「たしかに、殺したわ。この手で、実の兄を。」
 御雷は大きく溜め息をついた。
「やっぱり、そうか。兄さんを殺して、比良坂の業を継いだわけだ。」
「そうよ。軽蔑する?たかが、古流の業のために身内で殺し合いをするなんて、と。」
 御雷は頭を振る。
「いや。俺のところでも、昔は似たようなことをやっていたそうだ。」
 言いながら、建の話を思い出している。兄弟や父親まで手に掛けたはずだ。
「じゃあ、私がどうしてもあなたに勝って、子供を作りたい気持ちも理解してもらえるわね。」
 ふん、と御雷は嘲笑った。
「わからないね。お前は同じ思いを自分の子供にもさせたいのか?もしそうなら、お前は大馬鹿だ。」
「何でもいいわ。」
 速い。あっという間に御雷の右手首を両手で掴んで、極める。捻りながら囁いた。
「私が勝って、あなたの血をもらえばいいだけよ。」
 体重を掛けて御雷を押し倒す。抵抗すれば手首が折れる。傾いた御雷の顔めがけて、体重の乗った肘が落ちてくる。
 殺し技、だ。
 御雷は身体が倒れきるのを待たずに両脚を地面から離した。支えを失った形の田中の首筋へ、オーバーヘッドキックの要領で蹴りを叩き込む。硬い膝が首筋にめり込み、田中の身体が吹き飛ばされる。
 御雷は立ち上がった。
 身体が、熱い。とうに限度は超えているはずだ。だが、肉の内から湧きだしてくるものがある。
 肉体の声に耳を澄ませた。
 闘え。倒せ。斃せ。殺せ。完膚なきまでに破壊しろ。
 ごぞり。
 己の肉の底で、何かが目を覚ます気配が、ある。
「田中、お前は強い。人間の域を超えてるよ。…だが、俺はもっと強い。」
 立ち上がった田中は、足下をふらつかせたりはしない。異常にタフなのだ。人ならぬ身に、己の肉体を造り上げることこそが、業。
 しかし。
 気が付けば御雷が目の前にいた。
 いつ動いたものか、見えなかった。
 重い突きが立て続けに襲う。ガードを弾き飛ばし、肩に胸に腹にめり込む。
田中は驚愕する。
 鍛え抜いたはずの身体が、段ボールでできているかのように脆い。
 田中は胃の中のものを吐いた。
 その顔を、容赦なく御雷の回し蹴りが襲う。辛うじて避けた。続く二発目を避けなければ…と思ったときにはもう当たっている。
 田中の視野の中で、着地した御雷の身体が今度は逆に回転するのが見えた。逆回転の回し蹴り二連撃。
速すぎる。同じ技を使うからこそわかる。異常だった。
 まだ、田中の身体は宙を舞っている最中だ。
 躱せなかった。顎と後頭部に喰らって畳に叩きつけられる。
 ごおっ。
 蹴り足の立てる風音は、後から聞こえた。
「…化け物ね。親父じゃ敵わないわけだ。」
 血の味がした。
「まだ、立つんだろうな、お前は。」
 口を拭いながら田中は立ち上がる。
「当たり前でしょ。私は、まだ全部出しきっていないもの。」
「俺を殺したくなったな?」
 痛みに顔をしかめながらも、田中は不敵に笑う。
「ええ。兄さんの時とは違う。たまたま死なせてしまうのではなくて…今の私は、あなたを殺したいとはっきり思ってるわ。」
 やはりそうか、と御雷は思う。兄を「殺した」、のではなく「殺してしまった」のだ。だからこそ、跡継ぎを強く求めるのだろう。兄殺しに対する罪の意識の裏返しだ。
「わかっていると思うが、俺達二人は殺すつもりで技を出さなければ殺せない。」
 頷く仕草が、何故か嬉しそうだ。
「そういうふうに身体を造ってきたんだから、当然よね。」
「まだ、あるのか。」
「さあね。」
 田中が動いた。
 驚くべきことに、御雷と言葉を交わしている間に随分と回復している。
 彼女の蹴りや突きを、御雷は敢えて全部受けた。
 何だ、これは。田中は再び驚愕せねばならなかった。
 こんなものが、人間の身体の感触なのか。自分の身体のことは棚に上げて、そう考えている。とにかく、硬い。手も足も、痛めてしまったようだった。
 それでも、勝たねばならない。
 御雷は待っていた。
 田中、お前にもあるのか。お前の家にも伝わっているのか。
 『あれ』が。
 田中が速攻のコンビネーションを打ち込んでくる。蹴りと突きのリズムに覚えがある。
 来るのか?『あれ』が。
 防御に動いた隙を突いて、御雷の懐に飛び込んできた。
 殆ど抱擁に近い形で密着する。田中の右拳が御雷の左胸にとん、と触れた。
 御雷の全身が総毛立つ感覚があった。
 これは近接打撃ではない。あれは拳一個分程度離して構える必要がある。
 腕の中で、田中が全身の力を束ねるのを感じた。速すぎる。避けるのは間に合わない―――。
 菊池は御雷の道着の背中が裂け、そこから田中の拳が突き出すのを見た。彼の身体を貫いた――我知らず悲鳴を上げた。
「騒ぐな。死んでない。」
 静かな声で告げるのを信じがたい思いで見るのは、菊池だけではない。
 田中は信じられなかった。
 渾身の一撃は、御雷の道着の胸に穴を開け、背中に突き抜けた。
 だが、道着に穴を開けただけだ。彼女の拳は御雷の肉体に傷一つつけることはできなかったのだ。正確には、彼女の拳は、胴着の中で彼の肉体に触れることなく背中に抜けてしまったのである。
 御雷は全く回避運動を取らなかった。取れないように密着したのだ。必ず当たるはずだった。
 なのに、一歩も動くことなく躱された。
 呆然としているところに、強烈な一撃を食らった。右の掌打が田中の左側頭部を捉えたのだ。
 長身だが、田中は軽い。人形のように吹き飛ばされる。
 ああ、このまま負けるんだろうか…。
 ぼんやりと思ったとき、空中を舞う自分に御雷が追いついたことを知って慄然とする。
 御雷の右手が、今度は左側頭部を掴んだ。
 田中は御雷の意図を理解する。
 このまま床に叩き付け――られた。衝撃で霞む視界に、体重を乗せた膝を落とす御雷の姿が見えた。
 あの膝が、私の頭を潰して、私は死ぬ…のだろう。
 田中は目を閉じなかった。己の死さえも最後まで見届ける。
 田中―――比良坂久仁恵は、そういう女であった。
 どん。
 鼻先を掠めるように重い膝が落ちてきたとき、さすがの田中も身を固くした。
「外して…くれた?」
 見上げると、御雷が立ち上がったところだった。道着の背中に開いた穴から、生白い肌が覗いている。
「菊池先生。時間は?」
 声は穏やかだが、顔面は血まみれだ。菊池の声が震えた。
「十五分。ちょうどです。」
 御雷は振り返った。
「よかった。ぼくの勝ち…です…ね。」
 そう言うのと、畳に崩れ落ちるのとがほぼ同時だった。

      12
 耳に絶え間なくノイズが流れ込んでいる。規則正しく脈打つそれが、やけに速い。
 ああ、血管内を流れる血液の音が聞こえているのだ。脈拍が速すぎるようだ。
 少しずつ、身体感覚が戻ってくる。聴覚が通常に戻る。
 ノイズが消えて、代わりに菊池の声が聞こえた。
「御雷先生!気が付いた…。」
 涙声になっている。誰だ、泣かせたのは。
 唐突に思い出す。
 俺…か?
 結局、俺は気を失ってしまったのか。
 起き上がろうとしたが、手足が動かなかった。感覚はあるが力が入らない。
 首筋や道着の脇の下に氷嚢が当てられていることに気付く。
「まだ、起きちゃ駄目ですよ。」
 眼だけを動かして見ると、枕元に田中が居た。顔の血を洗い流し、額に絆創膏を貼っている。縫うほどではなかったらしい。自分にも同様の処置が施されていることに気が付いた。
「体温が、下がらないんです。」
 御雷の左腕を取って、目の前に時計の表示盤を示してくれた。他の全ての表示が消え、でかでかと「体表温度四十六度。即時冷却」の文字だけが見える。
「このままだと、死んじゃいますね。ぼくは。」
 人事のような口調に、女二人がはっとする。自分の生命に関してすら、御雷は現実から目を逸らさない。
「氷水の風呂に浸かればいいんですが、家まで帰っていたら間に合いません。…一つ、賭けてみましょうか。」
 御雷は自らが助かるための算段をした。
 百キロ近い身体を、男子更衣室に運ばせる。氷嚢と、買っておいたスポーツドリンク四リットルも運ばせる。
 シャワールームのシャワーを、最大水量で出しっ放しにしてもらう。温度設定は完全な水だ。
「スポーツドリンクをもう四リットルほど買ってきてください。それと、氷をたくさんお願いします。ぼくは水で身体を冷やします。」
 床に座り込んだまま、帯を解き道着を脱ぎ捨てる。二人の女は慌てて更衣室から出た。
 全裸になると、擬態を解いた。血流が変わって、全身が満遍なく熱くなってくる。皮膚の紅い筋は消えない。
 ふらつきながらも立ち上がり、スポーツドリンクと氷嚢をシャワールームに放り込むと、最後に自分自身が転がるように降り注ぐ冷たい水に身体を曝した。
 両脇に氷嚢を挟み、床に座り込んだままスポーツドリンクを一本飲み干した。まずは、二リットル。
 腎臓への血流を増やし、腎機能自体も押し上げてやる。あくまで短時間しかできない芸当だ。
 すぐに激しい尿意を催した。座ったまま、放尿した。
 湯気が上がった。無論、沸騰するほど熱いわけではない。が、それでも生体を構成するタンパク質が変質する一歩手前ぐらいの温度はあった。危ないところだったのだ。
 シャワールーム内の高い湿度と、低い気温のおかげで、湯気が見えているわけだ。
 長々と放尿を続けながら、御雷は二本目のドリンクを飲み干す。
 身体の中に水分を通し、それに熱を移して体外に放出する。
 それが御雷が出した回答だ。
 一時的とはいえ血液は薄まり、内臓にも大きな負担がかかる。何度も経験したいことではないが、背に腹は替えられない。
 ドアの外に菊池の存在を感じた。すぐに声が聞こえる。
「御雷先生、新しいスポーツドリンクと氷を買ってきました。」
 磨りガラス状のドアを通して、俺の姿を見ることができるだろう。が、顔さえ見られなければかまわない。半ば投げやりな気分になっている。
「すみません。渡してもらえますか。」
 ドアが細く開き、差し出された腕は筋肉質でありながらほっそりとしてしなやかであった。指が見慣れた御雷のものであることを、菊池は目敏く確認する。あの指は、今の本当の腕に付いていた方が似つかわしい、と感じた。
 目を逸らそうと努力はしているが、ちらっとドアの方を見てしまう。ぼんやりと透けて見えた。床に蹲る人影が普段の半分ほどの大きさしかないことに、酷く驚く。
 そういえば、鍛えた女のような腕をしていた。思えば、声だっていつもと違う。低めの女性の声のようにも聞こえた…ような気もする。
 御雷の素顔を見てみたい。
 痛いほどの欲求を何とか抑え込んで、菊池は更衣室から出て行った。
 御雷は氷嚢に氷を足し、スポーツドリンクを飲む。大量に放尿する。
 全てのドリンクが尿に変わり、氷が全部溶けきったとき、体表温度は四十度を少し切るところまで下がっていた。
 足下が覚束ないが、立ち上がって小便まみれの身体を洗う。床も綺麗に洗い流した。
 シャワールームを出ると、脱ぎ捨てた胴着で身体の水分を拭い、自分のジャージを着た。当然だが、素顔の御雷にとってはブカブカだ。
 これからまた擬態にエネルギーを使うと思うと、正直うんざりする。このままベッドに倒れ込んでしまいたい。
 だが、女たちに今の姿を見せるわけにもいかなかった。気力を振り絞って、小太りの体型を作る。顔を作る。声を作る。少しだけ体温が上がったのを感じた。
 姿見に全身を映してみる。ジャージから露出した顔や手に、紅い筋が走っている。今回は、すぐには消えてくれないだろう。脳が肉体を支配する力が下がっている。異常な熱を溜め込んでしまったために、ダメージを受けないようにいくつかの機能が停止している。
「我ながら、みっともないな…。」
 ふらつきながら更衣室から出ると、濡れた道着を田中に返す。
「もう、帰ります。」
 田中は、もう止めなかった。ただ、謝った。
「本当に、ごめんなさい。」
「何が、ですか。」
 御雷は意外そうな顔をする。田中の眼は真っ赤に充血していた。
「私は、十五分の制限時間も嘘だと思っていたの。だから、こんなことになるなんて予想もしていなくて。」
 御雷は屈託無く笑った。
「まったく…一度はぼくを殺そうとしたくせに。」
 真顔に戻って、忠告する。
「闘ってみて、確信しました。ぼくらは源流を同じくする業を受け継いでいます。誰かは知りませんが、初代はろくなもんじゃないでしょうね。強い相手と当たれば、勝たずにはいられなくなる。あげくに殺したくなる。そういう風に、身体と心を造るプログラムが鍛錬に組み込まれてるんですよ。」
 だから、不用意に強い相手と闘わないでください。
 それだけ言うと、道場から立ち去ろうとする。
 止めたのは菊池だった。
「田中先生、御雷先生をこのまま帰らせるわけにはいきません。引き留めてください。」
 意外な言葉に、御雷はまじまじと菊池を見た。
「ぼくの顔なんて、もう見たくないんじゃないですか。」
 藍色を帯びた瞳からは感情を読み取ることができなかった。
「そこは、まだ実感が湧きません。正直言って、もの凄く腹も立っているし、モヤモヤしています。」
 ストレートに言われては、煙に巻いて誤魔化すこともできない。小さく肩を竦めるしかない。
「でも、今の状態の御雷先生をそのまま帰したら、女が廃ります。」
 まるで田中が言いそうなことを、言うようになった。
「大体、お店に寄ることもできないでしょう?」
 指摘されて、しげしげと自分の両腕を見てみる。皮膚を継ぎ合わせた境界を示す紅い筋が異様だ。
「たしかに…、これでは真っ直ぐ家に帰るしかなさそうです。」
「お腹も空いていますね。」
 指摘されるまでもなく、腹ぺこだ。そもそも、今日は自堕落にのんびりと過ごすつもりだったのだ。死ぬギリギリまで追い詰められるような闘いをする気など、初めはなかった。
 御雷にしろ比良坂にしろ、人体のポテンシャルを限界近くまで使い切ろうとする業の遣い手は、恐ろしく大食らいである。異常に強靱な肉体の燃費が悪い、ということもある。それ以上に、脳を酷使するために、大量のエネルギーを必要とするのである。
「そして、御雷先生の家には、例によってロクな食べものがない。」
 御雷は小さく溜め息をついた。
「全部、当たってます。」
 不意に、菊池は満面の笑みを浮かべた。田中も驚くほどの。
「じゃあ、これからみんなでご飯を食べましょう。こういう気分の時は、お腹いっぱい食べるのが手っ取り早い気分転換になるんです。」
「まあ、それもそうか。」
 田中は御雷の手を取った。白くて柔らかな手は驚くほどに力が無い。やはり、ダメージが抜けきっていないのだ。
「こんなんじゃ、誰かに襲われても一方的にやられて終わりですよ。」
 確かに。もし警察がマークとしてるとすれば、外出時を狙って職質を掛けてくるだろうことは容易に想像できた。だから、ここしばらく銃器は携帯していない。デリンジャーすらも、だ。ナイフの類いも身に付けたりはしない。
 普段の御雷であれば、目に見える範囲からの襲撃には銃器がなくても対抗できる自信はある。相手が鍛えられたプロであるならともかく、田舎ヤクザであればさほど脅威ではない。
 だが、それも御雷の体術を自由に使えればこその話だ。
 田中が駄目を押す。
「ほら、御雷先生にとっては最後の仕事になるんでしょう?食べて、身体を治してやり遂げなきゃ。」
「うちへ、来てください。ここからだと一番近いし。」
「いいんですか。」
「何が、ですか。」
 御雷の声には戸惑いがある。この展開は想定外だ。
「てっきり、二人してぼくを止めようとするとばかり…。」
「私は、止めない。」
 田中はきっぱりと言った。
「御雷先生の仕事が、どんな形で終わるのかは知らないけど。稲美中学校が、まともに頑張りたい生徒にとっては生きやすい環境になってきてるのは事実だし。」
 右手を拳の形にして見つめた。
「まあ、やってることは決して褒められたことではないんだけど。でも、そこは私も他人のことを言えた義理じゃないしね。それに、生徒に一生懸命教えている姿が嘘だとも思えない。」
「そこ、なんですよね。」
 菊池が小首を傾げて考える仕草を見せる。
「あれだけ親身になって生徒に接する人が、同時に大勢の人を殺しているといわれても。どうにもピンと来なくて。」
 困ったような顔をして笑う。
「それに、私には御雷先生を止めるほどの力はありませんから。残念だけど。」
 菊池にもよくわかる。御雷が派遣されたことの意味が。
 教師は無力だ。
 採用二年目にして、心のどこかでそんな思いが膨れあがりつつあったように思う。生徒の荒れにも対応できない。それは同時に、真面目に頑張っている子供たちの期待にも応えられないということでもある。
 教師は無力だ。
 だから、その枠に収まらない行動が可能な者を送り込む。学校再生専門員制度とはそういうものだ。
 頭では理解している。
 実際、御雷は問題が校外にまで大きく根を張っている事実を浮かび上がらせて見せた。麻薬使用者の大量死は、そういうことだ。
 それでも。
 銃を使って人を殺す者を嫌悪する感情は消せない。
 それでも。
 自分の御雷に対する想いは消せない。
 菊池は、自分の心が引き裂かれそうになっているのを痛切に感じている。
 だから、笑う。

      13
 御雷はしげしげと部屋の中を見回した。
 素っ気ないほどに物が無い。
 菊池のマンションである。1LDKの古い建物は、一人暮らしには十分な広さがあった。ちょくちょく田中が遊びに来たくなるのもわかるような居心地の良さがある。
 若い娘が好みそうな可愛らしいものは置いていない。どちらかといえば、モノトーンでまとめられた室内にはシャープな印象を与える小物が多い。言われなければ女の部屋だと認識できないかもしれない。
 御雷は本棚から一冊抜いて見てみる。ふむ。ここはヘミングウェイのコーナーか。日本の作家では…ははあ、大藪春彦はあるんだな。後は、北方謙三に、生島治朗…御雷の知らない作家の文庫本が並べられている。
 とにかく、本が多い。考古学者になるのが夢だったというだけあって、歴史書や博物館の図録も多い。引っ張り出してみると、付箋だらけである。今も独自に勉強しているわけか。
 女たちが風呂場から出てくる物音を聞いて、慌てて本を片付ける。
 ほかほかと身体から湯気を上げながら、田中がリビングダイニングに入ってくる。Tシャツにジャージという合宿スタイルだ。そのままパジャマになるのだろう。
「髪を乾かさないと風邪を引きますよ。」
「ん。菊ちゃんがドライヤーを使ってるから。順番待ちよ。」
 自分で氷嚢を造って、顎に当てる。御雷の蹴りを受けたところだ。痣になっている。顔以外にできた痣は無視するつもりらしい。
「田中先生、今日はあんまり身体を温めない方がいいんじゃないんですか。腫れが酷くなりますよ。」
「そうはいっても、汗ぐらい流したいじゃない。シャワーだけにしたから大丈夫よ。」
 ところで、と田中は言った。
「最後の私の突きをどうやって躱したのか、教えてもらえませんか。」
 絶対の自信があった。父の敗戦を教訓に、技を練ったのだ。だが、通用しなかった。
 御雷は苦笑した。
「あれはね、ズルをしたんですよ。まあ、魔法みたいなもんです。もし、胸郭の中央―――心臓の真上を狙って放たれたら、ぼくの負けだったと思います。」
 あの瞬間―――避けられないと悟った御雷は、胴体部分に限定して擬態を解除したのである。本来の細身に戻れば、道着には大きな空間ができる。田中の突きは、その何もない空間を虚しく突き抜けたというわけだ。
「それにしても、あの技は何なんですか?御雷にはない技です。いや、全身の力を束ねて出す技ならありますが、束ねる方法とスピードがまるで違う。」
 田中は片目を瞑ってみせた。
「あれが、私のとっておき。密着した間合いから、胸骨を砕くの。頭蓋骨だって割れるわよ。」
 菊池が戻ってきた。やはり上半身はTシャツで、下は藤色のジャージだ。
「二人で何を話してるんですか。」
「そうねえ。技の謎解きみたいなものかしら。」
 田中の浮き浮きした口振りに、守矢がよく言う「格闘馬鹿」という表現を思い出す。ついさっきまで殺し合いに近い試合をしていた二人が屈託なく話し込んでいるのを見ると、菊池は軽い目眩を覚える。
 それはそれ、これはこれ、なのだろうか。二人とも、その手で人の命を奪ったことがあるという。感覚が常人とは異なるのかもしれない。
 ここまで考えて、ふと可笑しくなった。
 私だって、人殺しじゃないか。
 何ということだろう。三人の人殺しが一室に集まって、これから飯を食おうとしている。
 そう思うと、皮肉な可笑しさがこみ上げてきた。
「ご飯と味噌汁みたいなものしかできませんけど、かまいませんか。」
「うん、それで十分。あとは漬け物でもあれば。」
「ご飯が炊きたてだったら、ぼくは生卵をかけて食べたいですねえ。」
「はいはい、できますよ。まるで朝食のメニューみたいですけど。」
 笑って準備にかかる。といっても、飯を炊き味噌汁を作るだけだ。すぐに仕上がった。
 御雷の体温は十分に下がっている。あとは食って寝ればいずれ体調は回復するはずだ。
 出てきた食事を、二人はものも言わずに掻き込んだ。お代わりのタイミングもほぼ同じだった。
 炊き出しのような量を腹に収めて、田中と御雷はようやく満足した。菊池はその間にきっちり一人前食べている。
 待ちきれないように、田中が話題を戻す。
「御雷先生の家に伝わるのは、どんな技なんですか。」
 そうですねえ…と言葉を探す。
「多分、ですけど。比良坂のあの技は、全身の力をスピードに振り向けて打ち抜く感じですよね?」
 正解、と田中はあっさりと種明かしする。
「よければ、もう一度やって見せてもらえませんか?」
 一応奥義なんだけど、と渋る田中の目の前に餌をぶら下げてやることにする。
「お返しに、うちのとっておきの技も教えますから。子種はあげられませんけど、あなたも手ぶらでは帰れないんでしょう?」
 これには田中も快諾した。
「できれば、下着姿でやってくれると有難いんですが。筋肉の動きが視たいんです。」
 田中は菊池に半紙を用意させると、ジャージとシャツを脱いだ。着痩せするタイプだというのがよくわかる。ショーツもブラジャーも飾り気はないが、シンプルな分、身体の線を綺麗に浮き立たせていた。
「そんなにじろじろ見ないでくださいよ。」
 田中が顔を赤くして言う。
「何を今更。子種が欲しいという人が、これぐらいで恥ずかしがってどうするんですか。」
 少しだけ、好色そうな表情を作ってやる。
「でも、これは…ちょっと早まったかもしれませんね。綺麗な身体です。」
 田中は目を輝かせる。
「じゃあ、抱いてくれるの?」
「抱きませんってば。大体、田中先生は生娘――処女でしょう。」
 思わず田中は自分の肩を抱く。微かに鳥肌が立っている。
「なんでわかるのよ。」
 御雷は菊池の方に意味ありげな笑いを向ける。
「ぼくぐらいになると、身体を見れば大体わかります。後は、肌を触って汗の味を見れば、ほぼ間違いありません。」
 乳首を探る指の動きが鮮明に思い出されて、菊池は顔から火が出そうな思いになる。
「というのは、嘘です。」
 真顔で言われてしまうと、田中としても立つ瀬が無い。
「もう。私はちゃんと処女だってば。」
「でしょうね。」
 涼しい顔で御雷は同意する。
「御雷の血統にも、女性で後を継いだ者が何人かいたそうですが、どれも化け物みたいに強かったそうですよ。彼女らは、自らの強さを保つために、子を成したいと思うまでは男性との性交渉を一切持たなかったそうです。田中先生も、そういうことなんでしょう?」
 田中は頷く。菊池は疑問を持つ。
「男性とそういう関係になったら、弱くなってしまうんですか。」
 御雷が説明してやる。
「ぼくと田中先生の流派は、基本的な考え方がよく似ているんですが…狙っているのは『人間の潜在能力をいかにして引っ張り出すか』ということです。」
 人間の潜在能力は、実に奥が深い、と御雷は言う。本人が全力だと思っていても、実際には半分程度の力しか出せていないものだ。それを、修練と鍛錬によって、限りなく百パーセントに近付けていく。それが比良坂流であり、御雷の業である。
「そこで鍵になるのが、『肉体に対する脳の支配力』ということなんです。筋肉の一つ一つの動きを正確に管理し、感覚器からの入力を常人の域を超えて認識する。そして、一連の処理速度をとてつもないレベルに押し上げる。それを可能にするのは、究極的には『脳の力』なんですよ。」
 つまり、田中と御雷の闘いの勝敗を分けたのは、『脳の支配力の差』 だと言っても過言ではないのだ。現に、技比べでは大差なかったではないか。
「で、ここが不思議なところなんですが、女性は処女を失うと脳に変化が起きるらしいんですよ。個の生存よりも、次世代を産むのに適した構造に変化するということみたいです。こればっかりは『男女平等』を唱えてみてもどうにもなりません。埋めようのない性差というやつです。結果、戦闘力が落ちる。だから、本当のギリギリまでそういう欲求は我慢していたようです。」
 そういうこと、と田中が賛意を示す。
「じゃ、ちょっとやってみせるから。」
 菊池に半紙の上端を持たせ、それに右の拳を付けた。軽い半紙は、ひらひらと細かく揺れ動いている。固定していない薄紙を拳のスピードだけで打ち抜こうというのだ。
「いくわ。」
 御雷は見た。
 田中の両足下から力の波が遡っていくのを。体幹に流れ込み、両脚からの波が大きな干渉波を形作る。その脈動が高まった瞬間、右腕に流れ込み―――。
 ぱちん。
 そんな硬い音がして、半紙に穴が開いた。拳大の丸い紙片が、ひらりと床に落ちた。
 拳が紙を突き破ったのではない。きれいに拳の形に打ち抜いたのである。恐るべきスピードと力であった。
 なるほど、と御雷は言った。筋肉の動きは覚えた。見れば、できる。
「ちょっと、真似してみます。」
 菊池に半紙を持たせる。拳を当てた。全身の筋肉が連動して波を起こす。
 ぱちん。
 拳は紙を打ち抜いたが、田中ほどにきれいな穴は開けられない。
「まあ、この姿じゃこれが精一杯ってところでしょう。構えてから打つまでが早いのが便利ですね。」
 田中は開いた口が塞がらない。
「曲がりなりにもうちの奥義なのよ。一回見て真似されたんじゃあ、子供の頃から鍛錬してきた私の立つ瀬が無いじゃないの。」
「たいていの技は、見ればできるんですよ、ぼくは。」
 ほら、最後に田中先生に出したあの技、と御雷は指摘する。
 側頭部に掌打を与えた後、再び同じ手で側頭部を掴み、床に叩きつける。のみならず、その頭に体重を乗せた膝を落とし、頭部を破壊する。
 完全なる殺しの技だ。
「あれは…『巌颪(いわおろし)』だった。」
 御雷は破顔した。
「ええ、そうです。漫画に出てくる技ですよ。この前、晩飯を食べに入った食堂で読みましてね。これならできそうだ…というので、ぶっつけでやってみんです。上手くやれたと思いますけど。」
「じゃあ、わざわざ畳の部屋を選んだのは…。」
「そうです。板の間で『巌颪』を外せば膝を痛めますからね。漫画とは違います。ま、新しい技のヒントぐらいにはなりますけど。」
「ふうん。たしかに、実戦じゃ膝を痛めたら足が止まるものね。御雷先生ならどうする?」
 即答する。
「ぼくなら、膝の方を下にしますね。膝を立てておいて、こう頭を持って行くんです。」
「うん、私もそうする。」
 にこやかに談笑しているが、内容は…聞いている菊池は溜め息をつく。
「ところで、そろそろ教えてくれませんか。この格好で居るのも落ち着かなくて。」
「もう少し鑑賞していたいところですが、湯冷めでもしては大変ですからね。菊池先生、油性ペンはありませんか。」
 菊池は電話台の下から太めのペンを持ってくる。
「本来なら口伝ですが、今日は特別です。全ての筋肉の動きを、田中先生の身体に書きこみます。見て、理解してください。できれば、週末にでもお父さんに見せてあげればいい。」
 ほんとは全裸がいいんですけどね、と呟きながら御雷はペンを走らせる。
 一つ一つの筋肉を指で探りながら、矢印を書きこんでいく。足下から始め、少しずつ矢印が這い上がってくる。大臀筋に書きこむときはショーツを尻に食い込ませた。体幹を矢印が覆っていく。手妻のようにブラのホックを外し、田中に悲鳴を上げる暇を与えず大胸筋にも矢印を書きこむ。最後に、腕。やはり、螺旋を描くように矢印が描かれる。
「これでできあがりです。足下から螺旋を描くように筋肉を連動させていけばいいんです。」
 ちょっとやってみる、と田中は言った。
 矢印を書きこまれている間に、その向きと順番は頭に入っている。田中もまた、脳の遣い手としては一流であった。
 自然体で構える。力みは筋肉の起こす波にブレーキを掛けてしまう。
「拳一つ分の空間が必要です。それに、螺旋を描く分、力を束ねるのに時間が掛かる。」
「その分、うちのよりパワーがありそうね。」
「ええ、比良坂の胸を陥没させるぐらいの力はありますよ。」
 田中が笑ったのは一瞬だけだった。すぐに真顔になる。全身の統御に神経を注ぐ表情だ。
 波が、起きた。足下で起きたさざ波は螺旋を描きながら連なって両脚を遡っていく。体幹部でより大きな波に―――田中は悲鳴を上げた。
「いたたたた!何よ、これ。」
「まあ、痛いでしょうね。全身の筋肉を極限まで使いますから、慣れるまでは無理できませんよ。少しずつ、全身が連動するように鍛錬してください。田中先生なら、早ければ半年もあれば初歩は習得できるんじゃないでしょうか。実戦で使えるようになるまでに、約一年。」
 身体をさすりながら、田中が恨めしそうに睨む。
「やって見せてはくれないんだ…。」
「そこは、勝者の特権というやつです…というのは嘘で、この姿だとぼくにもできないんですよ。あなたが言ったとおり、姿を変えるために使っている筋肉がブレーキを掛けてしまうので。強行すればぼくの全身はバラバラになるでしょうね。」
 あまり想像したくない光景ではある。田中は服を着ながら尋ねた。
「まあ、筋肉をそんな風に操れるっていうのが普通じゃないんだけど。で、大体何パーセントぐらいの筋肉を、その姿を維持するために使っているんですか。」
 話せることは話してやろう、と思う。本気で試合う姿を見られたのだ。菊池に聞かれてもかまわない。
「約、二十パーセントというところでしょうか。それらは殆ど全てが運動に反する動きをしたり、運動の抵抗になったりします。田中先生の指摘通り、身体の中で筋肉同士が喧嘩しているので発熱量も凄いことになるわけで。ぼくの悩みの種ですよ。」
 田中が嘆息した。
「それって、単純計算で二十パーセント筋力を使えないってことでしょ。しかもゼロじゃなくてマイナス方向に働くとすれば、実質六十パーセントの筋力しか発揮できないってこと?」
「まあ、そんなに単純な話でもありませんけど。この姿のときは、体感的には約半分の力しか出せていないというのは本当です。」
 田中は本気で頭を抱えた。
「それだけ制限があったのに、私は勝てないんだ。ところで、そんなに強いのに、どうして銃なんて使うんですか。」
 銃、と聞くと菊池の胸は冷たくなる。
 昔―――胸を躍らせ、タフな主人公たちの活躍を追って夢中でページを捲り続けていた、あの頃。
 それが随分昔のことのように思えた。考えてみればまだ六年ほどしか経っていない。
 御雷は田中の疑問に真面目に答えてやっている。
「それは、効率の問題です。ぼくの場合は体温の上昇を避ける意味もありますけど。」
「でも、私なら、拳銃の弾くらいなら避けるかナイフで受けるかぐらいはできますよ。」
「長距離からの狙撃はどうですか。」
「何というか、殺意が線になって届くのが見えるのよね。」
 高度に脳を使用できる者には、本来不可視であるはずのものを視覚イメージとして捉えられることがある。御雷であれば、自分や相手の突きや蹴りの軌跡が、未来予想的に紅い線として見えることがある。
 田中にとっては至近距離なら銃弾の弾道予想が、遠距離狙撃では射手の狙点が殺気の線として視覚化されるということだろう。
 実際、達人クラスであればそのような芸当ができる者も存在することは御雷も知っている。彼自身、相手の銃口が見えている状態でなら、丈夫な刃物で弾丸を受けるぐらいの芸当は可能だ。ただし、拳銃弾で、相手は一人。連射はなしだ。
 そんなのはただの曲芸だ、と思っている。だが、田中が生き残るために学ぶことは多い。
「では、銃を持った相手が、仮にぼくだったとして。それでも田中先生は生き残る自信がありますか。」
 少し黙ったのは、彼女なりにシミュレーションしてみたのだろう。
「…十中八九、勝てないわね、きっと。」
「ぼくはね、若い頃、こう考えてみたんですよ。『俺は、銃を使いこなす自分自身に勝てるのか』と。答えは明白でした。そして、今のぼくがあります。」
「古流と銃器の融合かあ…説得力はあるなあ…。」
 そこで思い出した。
「いけない。手合わせが終わったら親父に電話する約束だった。」

      14
『いよお、御雷さん。元気かい。』
 スピーカーモードにした田中の携帯電話から陽気な声が流れるのを聞いて、御雷はげんなりとなる。
 田中久仁恵の父、田中久那斗―――旧姓、比良坂久那斗(くなと)である。
 娘の久仁恵が今年で二十七歳だというから、五十をいくつか出たところか。
 その男が御雷を「さん」付けで呼ぶ。対する御雷の口調は砕けたものだ。
「元気も何も、あるか。田中なんて地味な姓に変えやがって。全然気が付かなかった。危うくお前の娘に殺されるところだったぞ。」
『その口振りだと、久仁恵は負けたんだな。』
「まあ、楽勝とはいかなかったけどね。本当に死ぬ目に遭わされたよ。もう二度と闘るのは御免だね。」
『素顔で闘ったのかい。』
「ううん。私は御雷先生の素顔を引っ張り出せなかったわ。」
 ふうん、と考え込む。
『御雷さん、あんたまた強くなったんじゃないか?』
 御雷は苦笑する。むしろ自分は弱くなったのではないかと思っているくらいだ。
「そんなことはないさ。先にお前の旧姓を聞いていなかったら、娘だと気付かないまま倒されてたところだよ。」
『そんなに俺に似てないかな。』
「全然、似てないね。お前にこんな美人の娘が生まれたこと自体、奇跡だよ。」
『嫁が美人なんでね。そっちに似たのさ。』
 臆面も無くのろけてみせる。
『どうだい、気に入ったのなら、婿にならないかい?』
「やだね。お前を『お義父さん』なんて呼べるか。」
 菊池は、いかにも田中の父らしい、と可笑しくなる。外見は母親に、内面は父親に似たのだろう。
 会話の邪魔をしないよう、そっと御雷と田中に茶を出してやる。
 湯飲みを置く微かな音に田中久那斗は反応する。
『おや、他に誰かいるのかい。』
「菊ちゃんよ。いつも話してる後輩の。菊ちゃんちから電話してるわけ。」
 菊池は携帯電話に向かって頭を下げた。
「菊池由美といいます。田中先生にはいつもお世話になっています。」
 電話の向こうで相好を崩す気配があった。
『いやいや、こちらこそ娘がお世話になっています。がさつな娘で申し訳ない。いろいろと迷惑をかけているんだろうねえ。』
 田中は顔をしかめる…が、事実だけに反論はしなかった。
『ははあ、わかったぞ、御雷さん。』
「何がだよ。」
『その、菊池さんがいるから、久仁恵と結婚するのが嫌なんだろう。』
 菊池は、どきりとする。御雷は困ったような笑顔を浮かべているだけだ。
「比良坂…お前のその口の軽さはどうにかならないのか?」
『学校再生専門員についてレクチャーしたことを怒ってるのかい。』
「俺のことをペラペラ話すこと全般について、だ。」
『そりゃあ、仕方ないだろう。まさか、娘の職場に御雷さんが派遣されてくるとは俺も予想していなかったんだから。』
 御雷は意外に思う。
「ただの偶然だというのか?俺が来ることを見越して娘を潜らせたんじゃないのか?文部省の監視役として。」
「何?監視役って。学校再生専門員には監視役が付くの?」
 御雷は少し混乱する。仕方なく、手の内を少しだけ見せてやることにした。
「いいえ。そういうわけではないんですが。例の役人の情報によると、文部省の中でも色々あるらしくて。今度科学技術庁と一緒になるらしいんですが、学校再生専門員制度を自分の手で潰して、手柄として持参したい向きがあるそうなんですよ。」
 田中に対する口調は、同僚に対するそれだ。
 ああ、なるほど、と田中父は納得する。
『それなら、御雷さんが派遣されたのもわかる。何しろ、専門員のトップだから。監視役を待たせておいて、そこに最高の学校再生専門員を派遣する。そうやってデータを取らせれば、これ以上無い攻撃材料になるだろうね。』
「周到だな…じゃあ、お前たちは俺の監視役ではないのか?」
『当たり前だよ。監視役が直接対決なんてやるわけがないだろう?』
 しっかりしてくれよ御雷さん、と笑う。
『久仁恵を県下でも荒れた学校に赴任させるのに、専門員時代のコネを使ったのは認めるよ。いずれ腕の立つ現役の専門員が派遣されてきたら、そいつと闘らせる腹づもりだっったのさ。』
「酷い父親もあったもんだな。本当に、強ければ誰でもいいのかよ。」
 田中父は答える代わりに言った。
『だから、娘から御雷さんの名前を聞いたときは耳を疑ったよ。まだ現役だったのかってね。でも写真を見たら、間違いなくあんただった。十五年前と全く変わっていない。』
「どういうことですか。」
 田中父の言わんとすることを掴みかねて、菊池が口を挟む。御雷は、もうどうにでもしてくれ、という気になっている。この親子はコントロールできない。
『話してもいいかい、御雷さん。この子はあんたのことは…。』
「仕事の内容は大体娘がバラしてくれたよ。まったく…厄介な親子だ。」
 御雷の笑みは皮肉なものではなかった。
「どうせもうすぐ引退するんだ。話せよ、比良坂。」
『じゃあ、菊池さんに少しだけ昔話をしようか。』
「はい。」
『俺が御雷さんに出会ったのは二十年近く前のことになる。もう久仁恵も生まれていて、家庭もあった。まあ、三十を越えての講師デビューだから変わり者ではあるな。』
「ただ強い奴に出会いたいだけの大馬鹿さ。俺はその時は気がつけなかったけど。」
『まあね。ともかく、俺と御雷さんは最初期の専門員なんだよ。いや、最初は御雷さんだけだった。その働きぶりと成果を目の当たりにした文部省が、いろんな癖のある人間を集めて制度として運用し始めた。それが学校再生専門員制度の始まりだ。結局、俺自身は五年ばかりやって、やめることになったけどね。』
「仕事を放り出して俺にちょっかいを掛けた報いだろ。」
 言葉は辛辣だが、敵意は感じられない。それが菊池には不思議ではあった。
 想像できる部分は、ある。
 命がけの闘いをしても、憎悪や怨恨が根にあるわけではないからだろう。勝者と敗者に別れはしても、互いを認める気持ちがある。それは先程の御雷と田中を見ていればわかる。
『あれは悪かったと思うけどね、後悔はしていない。』
「右眼を失った上に、脳に障害が残ってもか?」
 まあね、と電話の声が笑う。
『あのまま闘らずに別れていたら、ずっと後悔したまま生きることになっただろうさ。あんたが俺を壊してくれたおかげで、娘は俺よりも強くなってくれた。』
 おっと、話がそれるところだった。
『それでね、当時の御雷さんも今と全く同じ姿をしていたのさ。二十代後半の青年、に見えるだろう?』
「はい。田中先生と同じか少し上くらいに見えます。」
『俺よりもずっと年上なんだぜ、その男は。出会った頃は完全に若造扱いだったもんな。』
 田中と菊池が目を丸くする。田中は御雷の外見がこの十五年間変化していないことを知らされてはいる。それでも父親より年上となると、驚きもする。
「特異体質みたいなものです。肉体の老化が異常に遅いんですよ。検査してもらったら、二十六歳の頃から殆ど老化していないそうです。」
『で、うちとしてはどうしても御雷さんの血を家系に入れたくなるわけだ。』
 御雷は溜め息をついた。
「全盛期が長く続けば、それだけ強くなれる。強い相手と闘る機会も増えるはずだ―――理屈はわかるよ。だけど、それは未来永劫修羅道を往くようなものだよ。」
 酷く疲れたような響きが、御雷の声にあった。菊池が初めて聞く、苦い声であった。
 これが御雷の、本心。
『修羅道とは…珍しいな。死後の世界を信じるようになったのかい。』
 御雷は小さく笑った。
「いいや、信じない。人間は死んだらそれきりさ。魂もあの世も、俺は信じないね。」
『それでこそ、俺の知っている御雷さんだ。』
「比良坂、残念だが俺のこの体質は遺伝しない。一代限りのものだよ。だから、お前の娘の婿にはなれないし、子供も作らない。代わりに土産を二つやるよ。」
『殺しの才能だけもらえれば十分なんだが…。それはそれとして、土産とは嬉しいね。何だい?』
「一つは、十五年前にお前を倒した技の秘密。それをくれてやる。」
『いいのかい?秘伝なんだろう。』
「いいさ。どうせ、御雷の業を子孫に伝えるつもりはないし。かといって、誰でも習得できるものでもない。比良坂なら、受け継ぐ資格があると思うけど。」
『御雷の業を絶えさせるのかい?勿体ないな。』
「そもそも、俺自身が御雷の血筋じゃないよ。本家は、子が生まれなくなって絶えた。血で業を継いでいくと限界に突き当たるんだよ。比良坂では―――男児が生まれる率が極端に低くなっているんじゃないのか?」
 電話の向こうで肩を落とす気配がある。
『その通りだよ。たとえ生まれたとしても、強くはならない。久仁恵の兄も、弱くはなかった。だが、比良坂の本流の器ではなかった。』
 御雷は顔を上げた。強い光が瞳に宿っている。
「俺の養父(ちち)は言ってたよ。『血で業を継ぐのは限界がある。技は血ではなく才で継ぐべきなのだ』とね。娘を自由にしてやったらどうだ?比良坂。」
 応えたのは、田中本人だった。
「お言葉ですけどね、御雷先生。これは私自身が望んだことでもあるんです。私は、私の血に夢を託したい。」
 御雷は、何度目かの溜め息をついた。
「あなたも、よくよく業の深い人ですねえ…。」
 電話越しに父親が聞いているのを意識しながら続けた。
「技の要点は、もうあなたの身体に書き込んであります。消えないうちに実家に帰って比良坂に見せてください。あいつなら、一目で理解できるはずです。もう一つの土産は、あなた自身に差し上げます。」
「私に?何でしょうか。」
その前に、確認したいことがあります。そう御雷は言った。世間話をするような口振りに、田中は深く考えずに頷いた。
「あなたは、人を殺す経験を積みたいと思っていますか。」
 ちょっと、何を言っているかわからない。女二人の共通した思いだ。
「ぼくの見立てでは、あなたはもっと強くなる。あと三十人も殺せば、手が付けられないほどに、ね。」
 口元に淡い笑みを刻んで御雷は言う。
「だけど、今は圧倒的に経験不足です。人殺しが強い、と言いたいのではありませんが…ぼくとあなたの勝敗を分けたのは、殆ど経験値の違いだけなんですよ。」
 田中の瞳に複雑な色が浮いているのを認めて、御雷は僅かに苦笑する。
「怪しげな仕事を紹介しようというのではありませんよ。もし、あなたが望むなら、十分な教育を受けた上で、その技を振るう場所を与えてあげることができると言っているんです。」
「それは、どこ?」
「アメリカです。連邦捜査局―――FBIが喜んで雇ってくれるでしょう。そういう人材をスカウトする窓口に、心当たりがあります。」
 菊池の胸が苦しくなる。そういう話は単なる噂や都市伝説の世界のことだと思っていた。だが、気付いてしまった。これは、御雷自身が自らの経歴の一部を告白しているのだと言うことに。
 あの、鬼神のような闘い振り。その世界への扉を、御雷が開いてやる。
「先代の御雷―――最後の血統は、アメリカに渡ることを選びました。その結果としてぼくが生まれました。あの国は、広い。多分、底知れぬほどの強者が存在するはずです。」
 行く。田中は口を開きかけた。
 その唇を御雷の人差し指が押さえた。
「ただし、その場合は教職は諦めることになります。教師・田中久仁恵には死んでもらいます。」
 真っ直ぐに田中の眼を見て言った。
「あなたは、あの子たちを残して、殺しの世界に入れるのですか?」
 田中は唇を噛んだ。
 菊池は見た。爪が食い込むほどに田中の拳が強く握られていることに。眉間の皺が、深い。
 数瞬。
 田中は大きく息を吐き出した。
「父さん、ごめん。」
 菊池の方を見て、照れたように笑う。
「私、教師って仕事を辞められない。」
 田中父が笑った。
『これは、上手くやられたな。御雷さん、あんたの思惑通りなんだろうね。』
「違うね。ただの賭けさ。いや…むしろ。」
 御雷の唇にも柔らかな笑みが浮かんでいる。
「田中先生には教師として生きることを選んで欲しい、という俺の願いだよ。」
『相変わらず、女には甘いんだねえ。』
「抜かせ。俺が優しいのは美人に対してだけだよ。」
『菊池さんとやらも、きっと相当な美人なんだろうな。』
 御雷は鼻を鳴らしただけだった。改めて、田中を見る。
「田中先生。人を殺さずとも強くなる道はあるはずです。ぼくが歩んできた道と、あなたがこれから進んでいく道が同じである必要はありません。あなたは、教員を続けるべき人材です。」
 それだけ言うと、御雷は腰を上げた。
「少し長話が過ぎました。ぼくはもう帰ります。二人とも、難しいとは思いますが、もうしばらくの間よろしくお願いします。」
『もう帰るのかい。今度うちにも寄ってくれよ。で、気が向いたら久仁恵を抱いてやってくれ。』
 ふん、と鼻で笑った。
「お前が死んで、田中先生が子供に殺しの技を伝えるのを諦めた頃に、寄らせてもらうよ。」

 菊池は覚えている。
 濃い、血の匂い。そして。むせかえるような、栗の花に似た匂い。
 男の、荒い息遣い。がくがくと人形のように揺れ動く、姉の白い身体。
 脇腹が、灼けるように痛い。それ以上に、脳髄を灼き尽くすような感情が自分を支配している。
 怒りだ。どす黒い、殺意である。
 男が意味のわからない叫びを上げて、尻を痙攣させると栗の花の匂いが一層濃くなった。
 姉はもう死んでいる、と思った。瞬きをしない眼は焦点を結んでいない。
 もう何度、男が射精したかわからない。死体になった後も、姉を犯し続けているのだった。
 菊池は気配を殺して身を起こす。傷の痛みに呻き声を上げそうになるが、意志の力で噛み殺した。
 鈍い光を帯びた鋼のメカニズムに視線が吸い寄せられる。
 ガンブルーが所々剥げて銀色の地金が見えている、古い自動拳銃。
 男が放り出したままになっているそれを、そっと拾い上げる。
 小さな護身用拳銃は、菊池の手によく馴染んだ。口径二十五ACP。残弾一。
 たった一発で、殺す。殺しそこなえば、次は自分が男の餌食になる。それより、何より―――。
 菊池は、また飽きもせず死体を犯し始めた男の真横に立つ。銃口を耳の穴に当てた。
「それ以上、姉さんを汚すな。」
 自分の唇から出た嗄れた声を、他人のもののように聞いた。躊躇いはなかった。引き金を絞る。そして―――。
 菊池は跳ね起きた。暗い。
 自宅のマンションだと確認して、大きく安堵の息を吐いた。
「菊ちゃん。」
 すぐ横で声がした。闇を透かして、田中の白い腹が見えた。Tシャツが捲れているのだ。彼女は寝相が悪い。布団はとうに撥ね除けてしまっていた。上体だけを起こしている。
 切れ長の眼が、労るように菊池に向けられている。
「また、あの夢を見たの?」
 田中には、自分が教師を志すきっかけとなったあの事件のことも話してある。自分が撃ったのだ、ということも含めて。田中は黙って聞いてくれた。
「最近は殆ど見ることがなかったんですけど…。私、ちょっと疲れてるみたいです。」
 笑いに力が無い。
 ごめんね、と田中は言った。
「私のせいだ。やっぱり、菊ちゃんに知らせるべきじゃなかった。」
「御雷先生のことですか。」
「うん。嫌なことを思い出させちゃったね。あいつのこと、嫌いになった?」
 菊池は苦笑する。
「田中先生は、最初からそうするつもりで、あんなことをしたんでしょう?」
「まあね。あいつが危ない奴だってわかったから。本当のことを知ったら、きっと目が覚めると思ったの。けど、ちょっと変なのよね…。」
「変って、何がですか。」
 表情までは読み取れないが、考え込む気配がある。
「御雷先生は、菊ちゃんに自分の本当の姿を知ってもらいたかったんじゃないかってこと。だって、逃げるチャンスはいくらでもあったもの。いくら学校再生専門員のことを知っていたとしても、御雷先生がそれだという物的証拠があるわけじゃない。私の思い込みだと突っぱねられたらそれまでの話だもの。」
 なるほど、と思う。田中の父との会話だって、わざわざスピーカーモードにして菊池に聞かせてやる必要などなかったのだ。「携帯電話を持つことすら億劫だ」という彼の言葉も、今となっては怪しく思えてくる。
「菊ちゃんはさ、実際のところ御雷先生のことが好きだったの?」
 素直に答えることができた。
「ええ。とても好きでした。どうしてこんなに好きなんだろう、と何度も考えました。結局、わかりませんでしたけど。」
 小さく笑う。その笑いが苦いものを含んでいることが、田中の胸を刺す。
「そういう田中先生は、どうなんですか。」
 田中は小さく溜め息をついた。
「どことなく、似てるんだよね。あいつ。」
「誰に?」
「死んだ――そうじゃない――私が殺した、兄貴によ。それでかな、気になるのは。」
 二人して黙り込む。
 沈黙を破ったのは田中だった。
「今は、どうなの?」
 菊池は、答えない。唇を引き結んだ、あの表情を浮かべているのだろう、と田中は思った。
「銃を使って人を殺す者を許せない、か…。」
 田中の呟きにも、菊池は答えない。答える代わりに、言った。
「すっかり寝汗をかいちゃった。もう一回、シャワーを浴びてきます。」
 湿ったシャツを脱ぎ捨てると、熱いシャワーを浴びた。
 乾かす手間はかかるが、髪の毛まで丁寧に洗い直した。
 曇ったミラーを、手の平で拭う。自分の顔を映してみた。
 見慣れた、自分の瞳。藍色を帯びた瞳が、底知れぬ穴のように鏡の中から菊池を見返している。
 初めて御雷の瞳を見た時に、気付いていたのだ。自分も同じ眼をしていることに。
「私は、銃を使って人を殺す者を許せない…。だけど。」
 脇腹の銃創痕に手を当ててみる。
「一番許せないのは、私自身なんだ…。」
 涙が、溢れた。
 嗚咽を殺すように、菊池はシャワーをさらに強くした。

      15
 臨時休校が明けて、再び稲美中学校での勤務が始まった。
 御雷は、やや複雑な思いを抱えている。
 西本と石川は、当たり前のように登校している。登校して、御雷を監視している。
 それは、いい。予想していたことだ。
 もう学校で殺しはできない。それも、いい。当然のことだ。
 近いうちに、時と場所を選んで始末する。
 そうすれば、ひとまず御雷の仕事は終わる。
 そうなれば、稲美中ともおさらばできる。
 河津組の件は気になるが、問題があっても後任で来るはずの「建て直し役」に引き継ぐだけのことだ。必要なら巧く警察に情報を流してくれるだろう。
 監視者は無視して構わないだろうと判断している。文部省がどうなろうと知ったことではないし、日本を離れる御雷には関係の無いことだ。
 それよりも。
 菊池との距離感に居心地の悪さを感じている。
 全てではないにしろ、自分の裏の顔を晒してしまった以上、よそよそしくされることは想定の内だ。なのに、菊池の態度は変わらなかった。
 御雷は、戸惑う。
 それでも、菊池の心の中に、以前は存在しなかった壁があるのを感じることはできる。
 菊池も迷っているのだ。悩んでいるのも伝わってくる。心なしかやつれたようにも見える。
 迷っている者の近くに居ると、迷いが伝染する。
 そう思うから、御雷としては菊池の側には居たくない。しかし、彼女を守るためには近くに居なければならない。
 何なんだ、この居心地の悪さは。
 さすがの御雷も愚痴を言いたくなるが、その居心地の悪さの原因が自分自身の心の内にあることは認めざるを得ない。
 あからさまに嫌悪してくれた方が、よっぽど気が楽だ。まったく、俺としたことが、柄にもない…。
 そんな思いを抱えながら、授業をこなし、菊池のサポートを続けている。
 田中とは、以前よりも腹を割って話せるようになった。自分と菊池の距離が開くことを前提に、彼女の身辺の見守りを頼んである。
 二人の女も早々に始末してしまえば、楽になれる。
 それは十分にわかっている。が、これ以上学校関係者を死なせるには、それ相応のリスクを覚悟せねばならない。女が死ねば、接点のあった異性として御雷が注目を集めることも避けられないだろう―――というのも、結局は二人を殺さない言い訳に過ぎない。
 御雷自身がよくわかっている。
 俺は、やっぱり弱くなったのかもしれない。比良坂、お前の眼は曇ってるみたいだよ。
 迷いか。
 久しぶりの感覚に戸惑いはあるが、それでも授業は順調だ。生徒たちは去年の遅れを取り戻すだけに留まらず、益々旺盛な学習意欲を発揮しつつある。それに対する教材の準備も完璧にしてある。
 いつ、御雷が居なくなっても大丈夫なように。
 そして、それはいきなりやってきた。
 いつものように授業をしていると、教室のドアがノックされた。教頭である。生徒に自習課題を指示してから廊下に出る。
「済みませんね、授業中に。緊急の連絡だというので。」
 尋ねる前から、御雷にはわかっていた。一応、形だけは確認を取る。
「どうしたんです?」
「石上剣さんという人を知っているだろうか。」
「ええ。従兄弟にあたる人です。本家筋に当たるので、ぼくとは姓が違いますけど。それが、何か?」
「その人の親戚に当たる石上暁子さんが、危篤だそうだ。入所先の施設から、さっき連絡があった。石上剣さんから、『緊急の時には御雷武に連絡を』と頼まれていたそうだ。」
 わかってはいたが、改めて教頭の口から聞くと、御雷は全身の血が引くような気がした。
「石上暁子さんは、ぼくにとっても大切な身内です。すみませんが、今から有給をもらいます。復帰については改めて連絡します。」
 教頭の返事も待たずに、大股で歩き去る。背中で言った。
「帰るのは葬式が終わってからになるかもしれません。生徒には、ぼくの不在をあまり強調しない方が安全だと思います。」
 西本と、石川のことを言っているのだと教頭は理解する。
 気は急いていたが、体育館に行った。田中を呼ぶ。
「どうも、身内に不幸事がありそうなんで、ぼくは帰ります。二、三日は戻れないと思います。その間のことを頼みます。」
 言わずとも田中にはわかった。菊池のことだ。
 返事をする間もなく、御雷は足早に歩き去っている。その背中が、妙に小さく見えた。
 御雷は手早く手荷物をまとめるとスバルを出した。
 平屋に戻るとバイクに乗り換えて石上邸に向かう。焦りはあるが、尾行に対する油断は怠らなかった。
 本来の姿に戻り、服を着替え、スープラを出す。
 程なく、暁子が入所している高齢者福祉施設に着いた。
 御雷が付くのを待ちかねていたのか、顔馴染みになった職員が出迎える。
「お世話になります。容態は、どうなんですか。」
「今は、お部屋で眠っています。お元気だったんですが、急に気分が悪いと言われて。」
 施設出入りの医者が呼ばれた。暁子の健康診断も定期的に行っている。延命治療を希望していないことも承知済みだ。だから、結論を出すのも早かった。
「この人には、もう生きる力が残っていない。親族に連絡してあげてください。」
 そして、御雷はここにやってきた。
 そっとドアを開けると、滑るような足取りで医者が出てきた。他の入居者に聞かれないように小声で話す。こういう場面に慣れているのがわかる。
「心臓が、弱っています。今は眠っていますが、また目を開けてくれるかどうかは、わかりません。もし意識が戻ったとしても…。」
「わかっています。間に合ってよかった。」
 御雷の口元に浮かんだ微笑に、医師はどきりとした。同性である―――と聞かされている―――のに、老いた身体の芯が疼くような、哀しい笑みであった。
「お別れをしてきます。」
 用があったら呼んでください、という医者の言葉は、「暁子が死んだら呼べ」という意味だ。
 御雷は、入口のドアを閉めると、しばらくの間ベッドに横たわる暁子を見つめた。
 心拍数と血圧のモニターの作動音だけが聞こえる。当初よりの打ち合わせ通り、酸素マスクなどは付けられていない。
 カーテン越しの柔らかな日差しの中で、暁子はまどろんでいるように見えた。
 皺深く、痩せてはいる。美しい老い方をしている、と思った。
 往時の美貌を忍ばせる穏やかな寝顔に、死の影が色濃い。
 御雷は胸が苦しくなった。
 ベッドに歩み寄って、膝を突いた。やせ細った手を取って、優しく呼んだ。
「暁子。兄さんだよ。」
 辛抱強く、何度も呼びかける。
 暁子の瞼がゆっくりと開いた。淡い色の瞳が御雷を見付ける。
 血の気のない唇が微笑んだ。
「兄さん…来てくれたんだ。」
「もちろん来たさ。兄さんは、約束は守る。」
 御雷は暁子の手を握る力を、少しだけ強くした。暁子が握り返す感触は、ほんの僅かしかない。
「あのね…今、父さんと母さんが来てたの。」
 夢の、話か。
「そうか。何か言ってたかい。」
 暁子は御雷の顔を見詰めた。
「私を、迎えに来たって。もうすぐ、一緒に行くことになるって。だから…もう兄さんとはお別れなの。」
 暁子の生命はもう枯れかけていたが、涙を一筋流した。
「兄さんだけ残してしまって、ごめんなさい。」
「いいさ。お前と、約束したからな。」
 御雷の、声が震えた。涙が、溢れた。二十年ぶりの、涙。
「お前を見送ってやると、兄さんは約束した。ちゃんと守るから、心配しなくていいよ。」
 細い指が伸びて、御雷の涙を拭った。歳を取ってはいても、爪の形は美しかった。
「ねえ、兄さん。」
「ん。何だい。」
 淡い色の瞳が、黒曜石のような瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「兄さんは、あの世ってあると思う?」
 昔、同じことを尋ねられた。その度に同じことを答えたものだ。
「いや、思わない。人間は、死んだらそれっきりだよ。魂もあの世も、ぼくは信じない。」
 暁子は、満面の笑みを浮かべた。少女のように。
「やっぱり、私の晃兄さんだわ。ちっとも変わっていないのね。」
「暁子…やっぱり、認知症になったっていうのは。」
 少し、呼吸が苦しくなってきた。でも、笑ってみせる。
「嘘よ。財産目当てに寄ってくる連中が疎ましかったから。」
 くすくすという笑い声に、ぜいぜいという荒い呼吸音が混ざる。時間が、ない。
「ね、顔をよく見せて。」
 御雷は暁子に見えるように顔を近付けてやった。その頬を、暁子は愛おしそうに撫でた。
「本当に…お母さんにそっくり。男の子なのに、私より兄さんの方がお母さんに似てるなんて、変よね。でも、おかげで晃兄さんが来てくれたって、すぐにわかった。」
 会えてよかった、と言って暁子は泣いた。
「歳を取ってないのを変だと思わないのか?」
 そこは、御雷の実の妹である。
「それは、生きていれば色々あるでしょ。それよりも…すぐに見付けてあげられなくてごめんなさい。」
「それは、ぼくのセリフだよ。何度もアメリカに来てくれたんだろう?」
 結局、再会するまで六十年余りかかったことになるのか。
 晃・暁子という兄妹が数奇な運命の果てに再会したのは、永遠の別れが訪れるほんの僅かな手前であった。
「生きているうちに会えただけで、私には十分よ。」
 暁子の瞳は、幼かったあの日と同じように悪戯っぽく笑っていた。
「兄さんが信じてなくても、私はお父さんやお母さん、それに天狗の爺っちゃんたちのところにいるわね。」
「ああ。ぼくがどう言っても、お前は自分が好きなように行くんだろ。昔から、変わらない。」
 御雷は笑った。二人とも、笑いながら泣いていた。
「でも、あの世で兄さんを待ったりはしない。ね、最後の約束をして。」
「まだ、ぼくに何か約束させるのか?」
 淡い色の瞳が瞬きもせずに言った。
「死なないで。」
 御雷は、言葉に詰まる。その約束は、俺にとっては重すぎる。
「兄さんじゃなければできないことがあるような気がするの。兄さんじゃなければいけないことがあるような気がするの。」
 息が、切れそうになる。それでも、言う。
「だから、約束して。『死なない』って。」
 御雷の手を握りしめている、暁子の痩せた手。そこに込められた力が、彼女の命の最後の輝きだ。消えそうな炎を、引き留めるように御雷は呟いた。
「わかった。約束するよ。」
 よかった、と暁子は笑った。
「兄さんは、約束したことは必ず守ってくれるもの。」
「まったく…酷い妹だよ、お前は。」
 暁子は片目を瞑ってみせた。彼女も建の仕草を見ては、よく真似していたものだ。
「私のお願いを必ずきいてくれる兄さんが、私は大好きよ。だから、私が死んだらアルバムをもらって。兄さんが私にくれた、一枚だけしかない家族写真を貼ってあるから。」
 別れ際に渡した、大切な写真。それを暁子も心の支えにして生きてきたのだ。
「わかった。」
「それじゃ私、そろそろ行かないと。」
「うん。」
 暁子は目を閉じた。一度だけ、大きく息を吐いた。唇が言葉を紡ぐように動いた。それが「おやすみ」だったのか「ありがとう」だったのか、あるいは「さようなら」だったのか。御雷にも読み取ることはできなかった。
 それきり、暁子は動かなくなった。
 サイモンが日本に赴任した時から、彼に依頼して暁子の行方を捜していた。御雷にとっては唯一血を分けた妹である。稲美中学校を任地に選んだのは、ようやく見付けた彼女の様子を遠くからでも見てみたいと思ったからだ。それが、彼女の嘘をきっかけに、こうして看取ることになった。思えば、幼い頃から暁子には振り回されっぱなしだった…。
 御雷は、暁子の手を額に当てて、長い時間瞑目していた。
 これで、一つ約束を果たした。だが、俺はまた新しい約束を背負い込んだ。
 何十年生きても、人は成長しないものだ。
 ようやく苦笑らしきものを浮かべると、御雷は立ち上がった。
 暁子の死を伝えるべく、彼女の部屋を後にする。
 暁子は振り向かずに死出の旅路を行く。
 御雷も、振り返らなかった。
      *
 教頭は、御雷の指示を守って彼が最低でも数日は学校に戻らないことを生徒に対して明言しなかった。無論、教師には伝えてある。男性教師の不在を伏せるのは、稲美中学校ではある意味暗黙の了解になっている。羽目を外す生徒が出るのは誰だって面倒臭いと思うものだ。それがたとえ一線級のワルでないにしろ、だ。状況を察して、教諭たちも生徒の前では御雷の不在には敢えて触れない。
 だが、教頭も御雷も見落としていることがあった。
 教室前の廊下にホワイトボードが下げてある。そこに一週間分の授業予定が掲示してあった。
 掲示といっても、単純に一週間分の枠線が引いてあって、そこに教科名を書いたマグネットをぺたぺたと貼り付けてあるだけのことである。それを見て、各教科の係を務める生徒が授業の予定や課題等を教師に確認して、自分の学級に伝えるわけだ。
 二年生で、この掲示を担当している教諭は、穏やかで思いやりのある女性だった。人望もそれなりにあったが、残念なことに思慮が足りなかった。
 彼女は深く考えもせず、英語の札を別の教科に貼り替えてしまった。その週の、最後まで。
 言葉にせずとも、少しばかりの観察力があれば事情はわかる。
 西本はすぐさま玄に連絡した。内容は簡潔だ。
「御雷が、学校を離れました。事情はわかりませんが、今週一杯は奴の授業が他の教科に変わっています。」
 菊池由美が消息を絶ったのは、その日の帰宅途中のことであった。
 御雷は、いない。

【鳴神来たりて(仮題)】のための創作ノート⑥

 【第六章 暗躍】 

      1
 菊池は、初めて御雷の授業を見たときの驚きを忘れない。
 彼が稲美中で初めて授業を行ったときのことだ。
 二年五組―――菊池の学級だということもあり、見学させてもらうことにしたのだ。教室の後に立ち、メモを取る。すぐ近くに立った担任を、西本は無視した。
 何の変哲もない挨拶から、授業は始まった。
“Good morning, class.”
“Good morning, Mr. Mikazuchi.”
 御雷はにやりと笑って言う。
“You know, 知ってると思うけど、this is my second time to introduce myself. But, this time, I’ll do that in English. Listen carefully and try to understand. After my selfintroduction, I’ll ask you about me. 後で質問するからね。”
 などと、妙なタイミングで日本語を混ぜながら話す。
 気が付いた。
 御雷はまともな日本語を一切使ってはいない。英語の間に挟むのは、あくまで日本語の断片だ。あとは、身振りや表情、声音で情報を補完しているのだ。いや、正確にはそれらを使って生徒を刺激し、彼ら自身の脳の中で情報を補完するように仕向けているのだ。
 結果、御雷の声に耳を傾けている生徒たちは、「自分が英語を理解できたような気になる」のである。
 初めは嫌々聞いているのが明白だった生徒たちが、すぐに怪訝そうな表情になり、やがて身を乗り出して集中するのを、菊池は見た。
 この学級の生徒は、多くが英語を不得意としている。中学生から学び始める英語科は、初めこそ簡単だが、急速に難易度を上げていく。
 他の教科と比較するのは適切ではないが、例えるならこういうことだ。
 学習を積み重ねて学力を伸ばすことは登山に似ている。仮に、わかりやすく、山頂を高校受験に必要な学力ということにしよう。無論、受験だけが学習の目的ではないし、受験を目的にするにしても、個々の進路希望によって登るべき山の高さは変わってくる。そういうことを理解した上で、敢えて例え話をしてみようということだ。
 五教科の内、英語を除く四教科―――国語科、社会科、数学科、理科については、小学校からの学習の延長線上にあるということができる。つまり、生徒たちは九年間掛けて山頂に到達するわけだ。それに対し、英語科は三年間で山頂に立たねばならない。歩き始めは平地でも、加速度的に傾斜がきつくなる―――そういう登山をイメージしてもらえばいい。
 稲美中の二年生にとっては、英語の学習にほぼ一年間の空白がある。昨年はまともに授業ができなかったからだ。だから、多くの生徒は既に諦めている。残り二年間で学習の急傾斜を登りながら、同時に去年の分を取り戻すなど不可能だ、と。
 そんな彼らが、「思っていたよりも自分が英語を理解できる」という状況に遭遇したら、どうなる?
 菊池は、まさにそんな状況を見せられているのだ。
 御雷の自己紹介の後、その内容について簡単なクイズが出される。問題自体も、何とか生徒が理解できるぎりぎりのレベルを探りながら英語で出題される。
 軽妙な語り口と、にこやかな表情が、御雷の前では誤答をしても恥ずかしくない、という気持ちにさせてくれる。
 実際、普段は手を挙げないような生徒が発言する。的外れな答えも多いが、御雷は”Almost.惜しいね”だの、”Good guess.いいところを突くね”だのと相槌を打つ。この前の新任式と同じだ。かと思えば”Is that right?そうかな”などと揺さぶりを掛けたりもする。
 菊池から見れば、ちっとも惜しくなどないし、いいところも突いてはいない。確かに、そう言われれば生徒は気持ちよく授業に参加できるだろうし、それでやる気が出るなら、言ってやることに意味はあると思う。
 しかし、心にもないことを言って生徒を喜ばせるのは不誠実なのではないか、とも思ってしまう。後で質問をぶつけてみた。御雷は真顔で答えた。
「自分で答えようと一歩を踏み出した者は、何もしない者に比べれば、確実に正解に近付いています。始めなければ絶対にゴールには辿り着けませんからね。ゼロはどこまで行ってもゼロですが、最初の一歩を踏み出した者の前には二歩目、三歩目がある。それが続けば正解に続く道ができるでしょう。そういう意味で、生徒から出た答えは全部『惜しい』し、『もう一息』なんですよ。」
 なるほど、と思った。
 学ぼうとしなかった過去の自分と決別すること。自分自身で決めて、成長し続けること。そのような行動を取る生徒に対して、将来の期待分も含めての「惜しい」なのだ。
 御雷は決して生徒を喜ばせるために耳に心地よい言葉を与えているのではない。目先の点数が少しばかり上がることを期待しているのでもない。むしろ、ずっと先の、生涯にわたる生き方の指針を生徒が持ってくれることに期待しているのだ。
 菊池は大いに反省した。御雷は、菊池には見えていないものを見て、生徒に接している。教師が近視眼的になってしまっては、どうしようもない。
 教師として成長したい。菊池は強く願った。
 学級担任としては、西本と馬越がどう出るかも気になってはいた。
 最初の英語の授業では、彼ら二人は大人しいものだった。教科書やノートは持ってきていない。だが、それを必要としない授業を御雷が展開したために、困ることはない。かといって、授業に参加するわけでもない。
 ただ、見ているのだ。御雷という男を。
 無表情に教師を見詰める二人の生徒の姿は、授業前に御雷が言っていた言葉を思い出させた。
 「最初の一週間は様子見ですから。奴らも大人しくしているでしょう」と、彼は言ったのだ。
 なるほど、たしかに値踏みをする眼だ。と、菊池は思う。自分が授業をしているときはそれを察知するほどの余裕はないが、きっと彼らは私のことも同じように観察し、付け入る隙を探すのだろう。
 そう考えると、胃が重くなる。
「それじゃあ、予定より少し早めに進むことができたから、次回やるところを先取りで聞いてもらおうかな。」
 御雷がそう言うのが聞こえた。初日は内容を欲張らない。そして「教師が予想していた以上に君たちは頑張った」というメッセージを送ってやる。
 ここだけは、すっかり低くなってしまった自尊感情を、少しでも高めてやるためのテクニックだ。それは菊池にも理解できた。御雷の凄いところは、本心からの言葉と、テクニックとして機械的に発する言葉の間に境目がないことだ、と思った。だから、生徒に媚びる感じがないし、逆に素っ気なくもない。
 もしかすると、御雷の本心が一番透けて見えるのは、授業中かもしれない。
 ふと、そんなことを思い付いた。普段は、何を考えているのかよくわからないところがある。が、生徒に対する物言いには独特の真っ直ぐなものを感じる。
 御雷は持参したCDラジカセを教卓の上に置いた。学校の備品である。
「えーと、うん。CDは忘れずに入れてきた。」
 プレーヤー部の蓋を開いて確認する。その動きがいかにも不器用で、生徒たちから失笑が起きる。
「それじぁ、行くぞー。」
 言いながら演奏開始ボタンを押そうとする。
「せんせー、コンセント、コンセント。」
 無邪気な声で指摘が飛ぶ。しまった、という顔をして御雷は頭を掻いた。
 教室に和やかな空気が満ちる。
 しかし。
 御雷がラジカセの電源プラグをコンセントに挿そうとしたとき。
 教室の空気が凍り付いた。
 本来コンセントがあるべき場所に、ぽっかりと穴が開いている。壊されたのだ。
 御雷先生が修理してくれたはずなのに。いつの間に…。
 高木は唇を噛んだ。視線を走らせると広瀬も同じ表情をしていた。
 これだ。
 こんな小さな嫌がらせが、積み重なって渡部を追い込んでいったのだ。辛い記憶が甦ってきて、思わず目を閉じる。
「先生、そのラジカセは電池でも動くんじゃないですか。」
 誰かが言った言葉に救われた。御雷先生に授業を続けてもらいたいと思っている人は他にもいるのだ、と胸が熱くなる。
 だが、当の御雷は情けない表情で、ラジカセの電池スペースが空であることを示す。
「悪いな。電池は入ってないんだよ。」
 駄目か。
 教室が静まりかえる。
 乾いた嗤いが響いた。声変わりが終わりかけた声の主を、思わず皆が見る。
 西本祐司。不気味なまでに沈黙を守っていた少年が、実に愉快そうに笑っていた。嘲るような眼を御雷に据えている。追従するように馬越も笑い出す。
 何とかしなければ。菊池が口を開きかける。御雷を独りにしてはならない、と思った。
 高笑いを続けながら、西本は横目で菊池を見た。その眼に浮かんだ酷薄な表情。そして、その奥にある物欲しそうな光が、菊池に声を出させなかった。
 俺の気に入らない奴は、壊してやる。お前も、滅茶苦茶にしてやろうか。
 舌なめずりをするような視線に、敵意以外の感情を感じて、菊池は吐き気を覚える。
 西本が、敵意に満ちた視線を、再び御雷に据えた。
 彼の意に反して、御雷は涼しげな顔で口を開いた。いかにものんびりした口調である。
「上機嫌だなぁ、西本。」
 その声に怒りも不安もないことに、広瀬は胸を打たれた。朝、「おはよう」と挨拶するような、力みのない自然な声だった。そう感じたのは彼女だけではなかった。唇を噛んで俯いていた同級生たちが、御雷を見ようと顔を上げていく。
 やはりプーさんのように人のよい笑顔を浮かべながら、彼は言った。
「ご機嫌ついでに、いいものを見せてやろうかな。」
 電源プラグを床に放り出す。
「コンセントは使えない。」
 空の電池スペースを再び示す。
「電池もない。」
 肩を竦めてみせる。これは困った、というポーズだ。実に芝居がかっている。少しだけ、場の空気がほぐれる。
 西本と馬越は嘲笑の表情を崩さない。
「でも、ぼくにはとっておきがある。行くよ。」
 無造作に、演奏開始ボタンを押す。
 無駄だ。何も聞こえては―――聞こえてきたのは、紛れもなく教科書に書かれた対話文だった。中学生の男女が春休みを振り返りながらたわいもない会話を交わすという、一年生の内容の復習教材だ。少年の声と少女の声が交互に語り合い、尋ね合い、答え合いながら情報を交換していく。聞き慣れた教材の音声である。
 一同は唖然とした。電源もないのに、どうして。
 菊池は気が付いた。広瀬も、高木も気が付いた。西本も気が付いていた。馬越はぽかんと口を開けているだけだ。少しずつ真相に気が付く者が増えてくる。彼らの視線は御雷の口元に注がれていた。
 CDを流しているはずなのに、御雷の唇が動いている。もとより通電していないCDラジカセが動くわけがない。御雷が代わりに自分の口で言っているだけのことだ。
 教科書は手にしていなかった。それはいい。御雷は教科書を暗記しているのだろう。
 だが、彼の唇が発する声は普通ではなかった。
 少女のセリフの時は少女の声を。少年のセリフの時は少年の声を。
 教材CDと寸分違わぬ声を再現して見せたのである。
 最後まで暗唱してみせる。
「――ってことだ。電源なんてなくても、ぼくは困らない。」
 御雷が片目を瞑って笑うと、割れんばかりの拍手が起きた。何だかわからないが、凄いものを見せられたような気がする。
 広瀬と高木は顔を見合わせて笑った。このプーさんは、やはり只者ではない。
 がたん。
 机を蹴り倒して西本が立ち上がる。いつもなら静まりかえるはずが、今日は逆に歓声にかき消されてしまった。菊池を押しのけ、肩を怒らせながら教室を出て行く。馬越が慌てて後を追う。
 彼らの動きに気が付いた者もいたが、何故かこれまでのようには気にならなかった。生徒たちの中で物事の優先順位が変わろうとしていた。
 二人を追おうとして、菊池は御雷の視線で制止された。彼は内線電話を取って、職員室に連絡を入れる。
「今、西本と馬越が教室から飛び出しました。対応をお願いします。」
 端的に用件だけ告げると電話を切る。冷静なものだ。淡々と対応するから、他の生徒が動揺することもない。
「残り五分になった。宿題のプリントを配るぞー。」
 えー、いらなーい。
 そんな声を無視してB4版の更紙に印刷したワークシートを配ってしまう。渋々という顔で受け取った生徒の顔が変わる。
 一年生の学習を補完するための学習プリントだった。
「廊下に棚を置いて、そこにこいつの続きを準備してある。模範解答と解説もあるから、解けた者は自分で採点してみな。」
 普段目立つことのない男子が手を挙げた。
「続きもあるってことは、できそうなら新しいのをもらってもいいんですか。」
 同じ事を広瀬も考えていた。
「いいよ。そのために用意したんだから。できる人はどんどんやっていい。解説を見てわからないことがあったら質問して欲しいな。昼休みか放課後なら、補習みたいなこともできるからさ。」
 相変わらずのほほんとした調子で答える御雷に、広瀬は疑問をぶつけてみる。
「これは、もしかして御雷先生の手作りプリントですか。」
 ニヤリと笑って答える。
「そうだよ。世界に一つ。御雷武の特製プリントさ。」
「どれくらい量があるんですか?」
 御雷は即答した。
「取り敢えず、一年生の復習分と、二年生で習う分については全部作っておいた。みんなの様子を見ながら、必要なら補充プリントも作るから。」
 げえ。何枚あるんだよ。
 そんなことを呟きながらワークシートに目を通した生徒の目付きが変わる。これは…俺にもわかるように作ってくれているのかもしれない。思わず質問していた。
「これって、もの凄く準備するのが大変だったんじゃないの、先生。」
 まあね、と御雷は涼しげな口調のまま返す。
 生徒は絶句した。なんで、そんなにしてくれるんだよ。
 呟きは御雷の耳に届いていた。
「言っただろ。英語はタダで嫌と言うほど教えてやるってな。」
 約束を守る。稲美中で教師がそれを十分できなくなってから、どれくらいになるだろう。
 顔をくしゃくしゃにしてワークシートに涙の染みを作る生徒を見て、菊池は自分も泣きそうになっていることに気が付いた。

      2
 御雷の授業は、回を追うごとに生徒の心を掴みつつあった。決してスマートな、格好のよいものではない。むしろ、泥臭く、丁寧な取組が目立つ。基礎学力を付けるための特効薬などは無い。当たり前のことを当たり前にするしかないのだ。今の二年生に必要なことは、一年生時の遅れを取り戻すことと、失った自信を取り戻すことだ。
 普通にやったのでは退屈さに心が折れる。
 それを感じさせないのは、御雷が操る流暢な英語と、絶妙な場面の切り替えのおかげだ。
 授業が始まった瞬間から、御雷は特に必要が無ければ日本語を使わない。断片的な日本語と非言語コミュニケーションによる誘導は続いている。
 一週間も経つと、生徒たちは御雷の授業に慣れた。本流はありながらも、それぞれの生徒のニーズに合う課題や助言も与えてやる。他者と比べるのではない。今の自分を越えつつあるという手応えがあれば、次にのステップに繋げることができる。
 広瀬と高木は、もともと飲み込みのよい生徒である。前任の渡部を慕ってもいた。が、英語自体は得意な方ではなかった。真面目に努力をしているつもりだが、成果に繋がらない。そこが悩みだった。
 御雷は、授業時間が中途半端に残ったときなどに、様々な雑談を入れてくる。最初はたわいもない話で始まるのだが、よくよく聞いてみれば学習する者にとって大きなヒントになったり、戒めになったりする事柄に繋がっていたりする。
 御雷の話を聞き逃すのは損だ、という空気がどのクラスにも広がりつつあった。
 時には、生徒の方がドキリとするような、身も蓋もない発言が飛び出すこともある。
 例えば。
「あのな、中学までの勉強なんて、ほとんどはテクニックでどうにかなるのよ。本当に勉強を理解するのは大学に進んで学び続けようとする人だけで、実はいいんだよ。『高校受験に合格すればそれで十分』って人には、英語の攻略法じゃなくて、『入試の攻略法』を教えてやる。…だけどな、もし後で『大学に行きたい』という気持ちが起こったとき、それじゃあ無理だ。だから、どんな希望が出てきてもいいように、今は本気で理解することの方を勧めるよ。」
 こんなことを言ってくれた教師はいなかった。全員が同じゴールを目指す必要はない。だが、準備をしておくことは不確定な未来に対する備えになる。御雷の言葉を要約すればそういうことになる。
 広瀬は、思い切って自分の悩みを相談してみたことがある。授業後半の「相談タイム」だ。
「単語が覚えられなくて、困っています。まじめに努力しているつもりなんですが。」
 それ、おれもだ、と同様の悩みを持つ者が声を上げる。
 なるほど、と御雷は頷く。
「たしかに、英語の勉強で単語を知らないとか覚えていないというのは致命的だ。まあ、料理に例えれば、文法の勉強はレシピ――調理法を知ることで、単語や熟語を覚えるのは食材を揃えるのと同じ事。いくら料理の仕方をよく知っていても、冷蔵庫が空だったら何にも作れない。」
 広瀬は頷く。御雷は例によって、しれっと言ってしまう。
「ぼくはね、『努力』とか『集中』とか『精神力』とか『根性』なんて言葉を気安く使うのが好きじゃないんだ。ほら、部活の試合中によくあるだろ。応援してる人が『集中~』とか言ってるのを見ると、馬鹿じゃないかと思うよ。」
 広瀬は少しムッとする。他の運動部の連中も表情が険しい。
「私も、試合の時はそんな応援をするんですけど。馬鹿なんでしょうか。」
 棘のある言葉を、御雷は微笑で受け止めた。
「じゃあ、広瀬に質問。」
「はい。」
「広瀬の言う『集中』って、何に集中するの?」
「え?」
 思いがけない質問だった。言葉に詰まった彼女を、御雷の黒い瞳が見つめている。
「…ボールに、集中します。」
 ふうん、と少し考えて、さらに質問を発する。
「ボールに、どんな風に集中するの?そして、それは何のための集中なの?」
 広瀬は、冷や汗をかいた。答えられない。御雷が畳みかける。
「広瀬の言う『集中』をすることで、試合に勝てるのか?」
 この勝負は、完敗だ。険しい表情で御雷を見ていた連中も肩を落とす。今まで全く疑問に思ったことがない部分を突かれてしまった。
 改めて、御雷が話し始める。
「何事にも、『目的』とか『目標』というものがある。例えば試合の場合なら、まあ『勝つ』ことを目標にするとしようか。そうしたら、『集中』するにしても、それが『目標』を達成することにつながることかを考えなければならない。」
 広瀬は頷くしかない。
「『目的』に関係ない『集中』は、単なる『集中力の無駄遣い』だよ。おまじないのように唱えたって、試合になんて勝てるもんか。」
 頭を殴られたような衝撃を受ける。確かに、深く考えずに「集中」を叫ぶのは、効き目の怪しいおまじないの呪文を唱えるのと少しも変わらない。
 御雷の声は、あくまで優しい。大切なことを伝えようとする声だ。
「思い出してごらん。これまでの『努力』は、ちゃんと『目的』に繋がるものだったかい?無駄な部分や努力の空回りはなかったかい?」
 そう問われると自信が無い。広瀬は答えられなかった。そこで、御雷はより具体的な話に移る。
「広瀬は、英単語を百個覚えたいときに、どんな勉強をしてるんだい。」
「ええと…練習ノートに十回ずつ書いて覚えます。」
 おれもだ。私も、同じ。ざわざわと呟く声がある。
「じゃあ、百個分だと、合計千回書くわけだ。」
「はい。そうなります。」
 御雷は器用に片目を瞑った。悪戯っぽく笑う。
「ぼくなら、そんな勉強はしない。面倒くさがりだからな、やらなくていいことは絶対やらない。」
 プリントかごから、二種類の用紙を取り出した。
「ちょっと、試してみようか。」
 最初のプリントが配られた。中身を見て、広瀬は目眩がした。ちょうど百個英単語が並んでいる。
「一年生の教科書から取ったものだよ。今からテストをします。」
 もの凄い悲鳴と非難の声が上がったが、御雷は聞き流す。
「何問できてもいいから、まずは一度解いてみな。」
 解答用紙を配ってから、「始め」の合図を掛ける。
 不平の声が消えて、思い思いにテストに取り組む。まずまず学習習慣が身に付いてきたな。
「はい、そこまで。赤ペンを出して自分で採点してごらん。」
 解答用紙にペン先が走る音が微かに響く。
「では確認します。零点だった人はいるかい?」
 該当者はいなかった。
 西本と馬越はまだ登校していない。
「広瀬、何点だったか聞かせてもらえるかい。」
 出来はよくなかった。言いたくはなかったが、御雷の話の行き先を確かめたいという欲求には勝てない。
「五十点です。」
「お、抜き打ちテストだったにもかかわらず、半分取ったか。なかなかやるじゃないか。」
 意外にも褒められた。御雷が真顔になる。
「何の勉強もなく、書ける単語がもう五十個ある。書ける五十個まで十回ずつ練習するって、無駄じゃないか?」
 広瀬は、あっと叫んだ。そういうことか。
「練習するのは、書けなかった五十個だけでいい。仮に『千回書く』のを変更しなければ、五十個の単語を二十回ずつ練習できることになる。十回ずつ書くよりも、覚えられる可能性は高い。」
 わかったかい、と尋ねられる前に広瀬は理解していた。きっと、残りの五十個も、いきなり二十回書く必要などないのだ。十回ずつ書いて再び単語テストをし、できなかったものを更に十回―――というように対象を絞り込みながら練習した方が遥かに効率がいいはずだ。
 御雷と目が合った。思いは伝わったようだ。
「まずは、自分ができているところと、まだできていないところを面倒がらずに分けること。それが始まりだ。後はできていないところを集中的にやっつければいい。そうやって、無駄を無くしていくことは手抜きとは違う。『合理化』っていうんだよ。」
 御雷が言っているのは、問題の切り分けだ。そして、それは「目的と手段の整合性」の話でもある。真面目に努力するのに成果が出ないという者の多くは、それができていない場合が多い。
 何事も、優先順位を付けて、それが高いものから処理していくのだ。個人差はあれ、人間の処理能力には限界があるのだから。
 もし、それを徹底できるのなら。
「こんな風に無駄を無くしていけば、今の勉強を進めながら、去年の分を取り戻すことだって―――」
 御雷が不敵に笑った。
「十分可能だ、とぼくは思ってる。」
 精悍さとは無縁の顔に、酷く男性的な表情が浮かぶのを見て、広瀬は一瞬どきりとする。
 ちょうど、授業終わりのチャイムが鳴った。
 御雷は移動教室に向かう生徒に混ざって、廊下を歩く。一旦職員室に戻って、次は菊池の授業に入らねばならない。
 職員室の前に、生徒が集まっている場所があった。
 御雷が持参した棚を置かせてもらっている場所に、人だかりができている。生徒たちは思い思いに新しいプリントや解説を持って行く。進度は自分で調節するのだ。職員室前に設置したのは、悪戯避けが主な理由だが、プリントの補充がしやすいということもあった。
 大分、やる気が出てきたな。
 御雷は微笑を浮かべる。
「あの、御雷先生。」
 不意に声を掛けられた。
「ええと、君は確か…。」
 少女ははにかむような笑顔を浮かべている。
「三年生の郷田です。」
「だよねえ。普段の授業では見ない顔だと思ったんだ。で、郷田さんはぼくに何か用?」
「あの、先生が二年生にあげているプリントを、私にももらえないでしょうか。」
 ああ、そういうことか、と御雷は笑う。敬語の使い方は勉強した方がいいが、心掛けは立派なものだ。
「もちろん、いいよ。同じプリントを何回も解きたい人もいるから、余分に印刷してあるし。」
 やった、と郷田は無邪気に喜んだ。
「部活の後輩に見せてもらったら、わかりやすいんでびっくりしたんです。よかったぁ、受験に間に合いそう。」
 二人が話しているのを見かけて、日頃は交流のない三年生の女子が御雷のところに集まってくる。
「あ、郷田さん、あのプリントもらったんだ。」
「私もちょっと興味があったのよねぇ。」
「自分ばっかり、ずるい。」
 仲がいいのだろう。言葉にも遠慮がない。
 郷田が困った顔で御雷を見る。
「わかったよ。そんな顔をされるとぼくが困る。」
 友人たちの方を見た。
「他の三年生の中にもぼくのプリントが欲しい人っているのかな。」
 一人が答えた。
「きっとたくさんいると思います。勉強したいって思っている人は大勢いるから。」
 考えるまでもない。御雷は即答する。
「じゃあ、三年生全員が取っても足りるようにしておくから。みんなにも教えてあげてくれるかい?」
 一瞬、「信じられない」という顔をした後で、少女たちは歓声を上げた。
「みんなに伝えてきます。」
 駆け出そうとして、郷田が振り返る。
「御雷先生って、ハンサムですね。」
 御雷はげんなりした表情を作って、顔の前で手を振った。追い払う仕草だ。
「お世辞を言うんなら、『痩せてますね』くらいは言ってくれ。」
 きゃあきゃあと笑いながら掛けていく背中に声を掛けた。
「おーい、廊下は歩くもんだぞ。」
 やれやれ、何だか同じ事ばかり言っているような気がする。
 職員室に入り、自分の机に授業道具を置く。座って一息つく間もない。
「はい、カフェインの補給。」
 田中が差し出したカップに、半分だけコーヒーが入っている。がさつなようで気が利く女だ。しっかり菊池を守れ、という激励も含まれているのだろう。
「ありがとうございます、適量です。」
 立ったまま飲む。空になったカップを田中に渡すと、既に職員室の出口で待っている菊池の元へ向かう。
 慌ただしい。が、「授業開始のチャイムが鳴ったときには教師は既に教室にいるのが当たり前」と心掛けを説いた手前、守らないわけにはいかない。もっとも御雷にとっては、生徒の前にいる時間帯には鉄壁のアリバイがある、という意味でしかないのだが。
 廊下を菊池と並んで歩く。
「凄い人気ですね。」
 何が?と御雷は尋ねた。
「さっきの、三年生の女の子たちです。」
 御雷は苦笑した。菊池の声に、微かな嫉妬の感情が含まれていたからだ。
「ぼくが、じゃなくてプリントの話でしょう?」
 たしかに、と菊池は同意する。
「でも、それだけでしょうか?二年生の子たちの中にも、御雷先生を見る目が少し―――何というか…」
「教師じゃなくて、異性を見る目だと?」
「そう、それです。一生懸命勉強してくれるのは嬉しいんですが、いいことばかりじゃないような気もして。」
 御雷は笑わなかった。
「大部分の子は、心配しなくても大丈夫ですよ。あれぐらいの年頃だと、身近な大人の男性を意識したりするものですが、所詮は一過性のものです。こちらが意図的に引っ張らなければおかしなことにはなりませんよ。ただ…」
「ただ?」
「三年の小林。彼女のようなタイプには気を付けなければいけません。」
「あの子も、最初から御雷先生に懐いていましたよね。」
 御雷はうんざりした顔になる。
「あれはね、懐くっていうんじゃなくて、『性的なアプローチを仕掛ける』っていうんですよ。」
 菊池は目を丸くする。たかだか十五歳の少女が、そんなことをするものだろうか。
「しますよ。彼女、やたらとベタベタしてくるでしょう?身体をどう接触させれば異性の興奮を誘えるかわかってやってるんですよ。」
 ああ、それでか、と菊池は合点する。最近の御雷は身近に小林を寄せ付けない。
「寂しいんでしょうね。ああいうタイプは、同年代の集団に馴染めないことが多いんです。それで、年上の男性に走るんでしょうが…迷惑な話ですよ。」
「経験があるんですか。」
 一度だけね、と御雷は渋い顔になる。
「相手の好意を拒絶した方法がまずかったんでしょうね。ストーカーまがいのことをやられて、本当に困りました。」
 事実である。その時は裏の仕事を成し遂げるのに普段にはない労力を強いられた。
 ストーカー、と聞いて菊池は一瞬身を固くする。御雷は見逃さなかった。
「でもまあ、女子生徒の態度を好意と勘違いしたり、アプローチを断らなかったりする教師がいるから、色々とニュースになるんでしょうけどね。元々の性癖ってのもあるでしょうけど。いい年をした大人が何をやってるんだか…。」
 やれやれ、という風に肩を竦めて、御雷は話を切り上げた。

      3
 御雷は教室の後に立って、菊池が授業をするのを見守る。もし、厄介な連中が動きを見せたなら、即座に制止する。何より、男性教師が後から見ているというだけで、ある程度の抑止力にはなる。
 学校によっては、保護者が持ち回りで授業に入る場合もあるのだ。実態を保護者に知らせること、そして外部の眼が教室に入ることには意味がある。そうやって、荒れから立ち直ったところも全国にはある。
 残念なことに、稲美中学校ではそれを期待することはできない。
 まだ四月も半ばだというのに、生徒がトラブルを起こして保護者が学校に呼ばれる事案が数件発生している。御雷は関与の必要がないと判断した事案だが、校長室で保護者と教員が話している声には聞き耳を立てている。
「うちでは本当にいい子なんです。学校でそんなことをしたというのは信じられません」―――判で押したように、どの保護者も同じ事を言い立てていた。
 親馬鹿極まれりとは、このことだ。いや、馬鹿親極まれりというべきか。
 御雷は情けなくなる。家庭では本性を現したとしても、外面(そとづら)を取り繕うのがあるべき姿だろうに。家庭とは、ありのままの自分をさらけ出し、それを受け止めてもらえる大切な場だ。それを他人に期待するのは間違いだ。
 つまり。
 家庭が本来の機能を果たせなくなっているのだ。そして、親はそのことにまだ気付いていない。友人が、学校が、挙げ句の果てには社会が悪いと言い出す始末だ。
 おいおい、お前も、お前の子供も、その社会を構成する一員ではないのか。社会が悪いというのなら、それは構成員の質が悪いということだ。
 御雷は冷たく斬り捨てる。
 菊池は例によって熱弁を振るっていた。江戸時代の文化について熱く語っている。図版を使いながら、いかに豊かな文化が花開いていたか、そしてそれらが現代日本ばかりでなく海外にまで影響を与えたことを説いていく。
 中には、御雷が知らないこともあった。面白い。思わず引き込まれそうになる。そもそも、彼自身が国家への帰属意識に乏しいということもあるが、それ以上に菊池の知識が豊富なのだ。
 なかなか、やるもんだ。素直に称賛する。見せ方はまだ稚拙だが、経験を積めばいい教員になれるだろう。
 菊池の場合は、自分の熱意が生徒に伝染していくタイプの教員だ。歴史に対する思い入れや歴史を愛する心が、理屈抜きの説得力を持って生徒を圧倒する。
 一社会科教諭の域を超えた博学振りは、御雷に「歴史オタク」という言葉を想起させる。もし、恭子が生きていたら、きっと菊池の話を喜んで聞いただろう。それほどに、菊池の知識は深い。意外に二人は気が合ったかもしれない。
 いつもは自信なさげにおどおどしている菊池が、別人のように瞳を輝かせて語っているのを見ていると、不思議な感慨に包まれた。
 人間というのは、少し見たぐらいではわからないものだ。この、目の前で生き生きと授業を展開している姿こそが、菊池本来の姿なのだろう。
 普段の彼女は、本当の自分を隠している。
 それは、なぜだ。御雷は既に重要なヒントをいくつももらっていることを知っている。
 仮説はある。いくつかの傍証があれば、それが正しいか否か検証できるのだが。
 御雷は思考を中断する。
 後ろの席の遠藤が動きを見せたからだ。机の下で握っているのは消しゴムだ。
 少し前の席に座った白井希美が、振り向いて遠藤に意味ありげな視線を送っている。毒々しく紅が塗られた唇が、下品にめくれ上がる。
 御雷は、西本の情婦だというその少女を、汚らしいと思った。
 顔立ちそのものは可愛らしい――美人に成長するだろうと期待できるだけのものがある。色が白く目が大きい。緩やかにウェーブした髪が腰まである。しかし、濁った目と乾いた肌、年齢不相応に色気のある肉体は、腐り落ちる寸前の果実を思わせた。熟れきった皮一枚の下は、既に腐臭を放つ液体が詰まっているような。
 御雷は瞬時に理解する。白井が指示して、遠藤を使って菊池に嫌がらせをするつもりなのだ。白井の情夫である西本は、稲美中ではワル共の中心人物だ。
 ひとしきり話をした後、要点を整理するために菊池が黒板の方を向いてチョークを手に取る。
 遠藤は投擲を隠そうともしなかった。大きく振りかぶって、投げる。
 所詮は消しゴムだ。当たっても痛いくらいで済む。
 しかし、菊池の心は大きく傷付くだろう。誇りをもって責務を果たす彼女を守るのも、俺の仕事のうちだ。…少々サービスが過ぎるけどな。
 投げる動きに入ったら、もう御雷にも止められない。だから、言った。
「菊池先生。右に一歩。」
 菊池は素直に右に一歩だけ動いた。振り返って、「はい?」と御雷に疑問を送ってくる。
 その彼女の顔のすぐ脇を、消しゴムの軌跡が抜けた。黒板に跳ね返って、足下に落ちる。
 菊池はようやく気が付いた。御雷の指示がなければ、それは菊池の後頭部に命中していたはずだ。もし振り返っていたら顔面を直撃する。
 御雷にとっても賭だった。ここしばらくの間彼女を観察して、気付いたことがあった。あまりにも素直なのである。指示を受ければ、先に行動してから理由を問うようなところがある。その、素直な反応の早さに賭けて、勝ったのである。
 遠藤の顔色が変わる。それは怒りからではない。遠藤を睨み付ける白井の顔が、怒りでどす黒く変色していたからである。
 この、役立たずのカスめ。
 白井の眼がそう言っている。
 遠藤には、白井の怒りの理由がわかっている。
 嫉妬だ。
 始業式の放課後。いつもの溜まり場で駄弁っている最中に、西本が言ったのである。「菊池って、あんなにいい女だったんだなぁ」と。
 あの時の、舌舐めずりをするような西本の声と、嫉妬に充血した白井の眼を、遠藤は忘れられなかった。
 あれ以来、白井は菊池に対して激しい敵意を抱いているのだ。
 次も、投げずにはいられない。ポケットを探ると硬い感触があった。仲間内で金を掛けて遊ぶときに使うダイス――一辺が二センチほどのプラスティック製のサイコロである。
 ポケットから取り出して投げようとしたとき、御雷が声を掛けた。両手は上着のポケットに突っ込んでいる。相変わらず笑ったような目をしていた。
「遠藤、それは投げない方がいいな。さほど重くはないけど、当たれば痛いし怪我をするかもしれない。」
「うるせぇよ、この馬鹿。」
 悪態をついて振りかぶる。力一杯振った指先からダイスが離れる瞬間を狙って、御雷はポケットから抜き出した右手の親指を弾いた。モーションが小さいから、誰も御雷の動きには気が付かない。
 何かが接触するような鈍い音がした。
 続いて上がったのは悲鳴だ。
 白井が鼻を押さえていた。ダイスの直撃を受けて、大量の鼻血を出したのである。
「ほら、見ろ。怪我人が出たじゃないか、なあ遠藤。」
 のんびりした口調で御雷が言う。
 思いもしなかった結末に、遠藤の唇が白い。西本の女の顔に、傷を付けた。
「白井、痛そうだな。ティッシュを持ってこようか?それとも保健室に行くかい?」
 鼻を押さえたまま、白井は立ち上がった。燃えるような眼で菊池を見、御雷を睨み付ける。
「ひははい。ひょうははえる。」
 要らない。今日は帰る。
 鼻を押さえているためにセリフに迫力がない。
 薄っぺらい鞄を提げて、教室を出る間際に振り返って悪態をついた。
「ひねひょ、ほのふほへんほー。」
 御雷は笑いを抑えられなくなった。
 死ねよ。この糞先公。
「お前こそ、出血多量で死ぬなよー。ちゃんと病院に行けよな。」
 あくまでのんびりとした反応に、白井の顔がどす黒さを増す。何も言わずにずんずんと歩き去る。慌てて遠藤も鞄を持って後を追おうとする。
 御雷は遠藤の襟首を捕まえて、耳元で囁いた。恐ろしいほどの猫撫で声だ。
「西本に殺されないといいねぇ、遠藤君。」
 遠藤の顔色が紙のような白さになる。彼は混乱していた。怖いのは西本か、いや御雷か。何か、相手にしてはいけないものに手を出してしまったような感覚があった。
 呆然としている菊池に、授業を続けるように指示すると、例によって内線電話でことのあらましを職員室に伝える。
「ええ、遠藤の手元が狂ったのか、白井に当たりましてね。結構な量の鼻血がでまして…。はい、怒って帰りました。本当に帰ったか確認願います。菊池先生に被害はありません。授業を続けます。」
 生徒にも思ったほどの動揺はなかった。もともと、教室内の雰囲気を悪くしていた連中である。自ら出て行ってくれれば有難い、というのが本音であるらしかった。
 もう一人、白石直哉が残っているが、こちらは涎を垂らして熟睡している。
 御雷は教室前の戸棚から勝手に買い物袋を一枚出す。給食の牛乳パックをまとめて捨てるために生徒から集めたものだ。袋を裏返しにして手を突っ込み、簡易手袋のように扱って血の付いたダイスを掴む。そのまま袋をくるりと表向きにすれば、白井の血に触れずにダイスを回収できる。どんな病気を持っているかわからない他人の血に触れることはできない。百均で買ったか盗んだか知らないが、白いプラスティックのサイコロの表面に黒っぽい擦過痕があった。僅かだが、表面が溶けている。摩擦熱で、だ。
 何気ない動作で、床に落ちている十円玉を回収する。
 練習ってのは、しておくもんだな。
 改めて御雷は鍛錬を続けることの大切さを実感する。
 もともとは、御雷――建で途絶えた本来の御雷家の先祖が、対銃器用に生み出した技が基になっている。御雷自身がかつてFBI捜査官に対して用いたように、本当は専用の金属片を投げる。
 しかし、日本の社会ではあまりにも目立ちすぎる凶器であった。そこで代用品として、御雷は硬貨を使っているのである。
 中でも十円玉は便利だった。大して重さはないから、威力は期待できない。破壊力よりもスピードで打ち抜くことに向いている。何より酸化した銅の鈍い色は、その辺に落ちていても人の目を引かない。
 日本の硬貨の製造精度は高い。バランスもよく、軌道の計算が容易だ。最初は投げていたが、要領を掴めば親指で弾くだけで十分な威力と精度を発揮できることがわかった。無論、普通の状態ではない。弾く一瞬だけ、限界領域に入るのである。
 さっきのは、ダイスのリリースポイントから菊池までの軌道を計算して、十円玉をぶつけることによってその軌道を強引にねじ曲げたのである。
 神業、であった。
 御雷に言わせれば、相手の移動スピードとコースがわかっていて、なおかつこちらの弾体の飛翔スピードとコースを知っていれば、当てられない方がおかしい、ということになる。何しろ、御雷の業の神髄は、自らの人間性を捨て去り、肉体を優れた機械のように扱うことにあるのだから。
 ともかく、菊池は無事に授業を終えることができた。御雷は両ポケットに入った硬貨の重さに閉口している。

      4
 一週間が経ち、御雷が予告したように、稲美中は荒れ始めた。様子見の期間を終え、いよいよ糞餓鬼共が好き放題にやり始めたのだ。
 給食の準備の時間、御雷は廊下を走る自転車を見た。校舎内での二人乗り。よく見れば、運転している奴はちくわの磯辺揚げを口に咥え、後の奴も二本ほど同じものを手にしている。
 給食センターから配送車が来たタイミングを狙って、自分が食いたいものを奪ってきたのだ―――というより単なる低級な嫌がらせだ。
 やれやれ、猿共め。
 御雷は全力で走ってくる自転車を避けながら手近の傘立てを軽く蹴る。衝撃で一瞬浮いた一本を取って無造作に投げた。前輪のスポークに傘を差し込まれて、二人乗りの自転車は大きく前転した。自転車に背負い投げを食らった形で、二人の生徒が床に投げ出される。ちくわを口に咥えていた運転者は、綺麗に前歯を失った。
 自転車を避ける動作に隠して御雷が行った行為を見とがめる者はいなかった。それほどに、素早いのだ。
 また、ある日、他の男性教員と昼休みの見回りをしていたときのこと。
 離れ小島――二年生が入っている第二教棟の一階部分、問題生徒共の溜まり場に行ってみた。昼間でも異様な雰囲気のその場所を、意図的にパトロールのコースから外している教員も少なくない。
 その空間に入る前から、御雷の嗅覚は異臭を捉えていた。彼が今一番関心を抱いている麻薬の匂いではない。
 ただの喫煙と…それからシンナーか。
 三年生の男子が、二人。だらしなく壁にもたれている。床に腰を下ろしている一人は煙草を吹かし、その横に立っている者はビニール袋を手にしたまま、焦点の合わない眼を教師に向けていた。六道と近藤、だったか。
 三年生にもワルはいる。徒党を組み、似合いもしないサングラスを掛けて廊下を闊歩する姿を御雷も見たことがある。咥え煙草で肩で風を切って歩く三年生の後から、西本を初めとする二年生軍団が付いていく、という形は取っているが―――主力は、やはり二年生の方だ。
 三年生のこいつらは、ただのお飾りだ。あまりにも、おつむが弱い。サングラスを外して煙草を吹かしている六道の顔は、不健康に白く、そして猿に似ていた。大方、上手くおだてられ、暴力団員の威光でも見せ付けられて、巧みに前面に立たされているだけの操り人形だ。
 シンナーを吸っている近藤も、自分から主体的に何かをすることができない人間だった。利口な人間はシンナーを吸ったりはしない。
 この街の悪餓鬼共は、やたらとシンナーを吸っている。だから、薬物に対する抵抗感もないのか。
 今原市は造船の街だ。塗料や溶剤も大量にある。中には、御雷が侵入した工場のように警備が杜撰なところもあるのだろう。そういえば、以前に盗んだシンナーの一斗缶を裏山に隠していたことがあったと、青山が言っていたっけ…。
 ともかく放ってはおけなかった。関係者を一人一人排除していくことが、奴らの勢力を削ぐことに繋がるのだ。
「おい、シンナーを扱うときは火気厳禁が基本だろう。危ないぜ。」
 うるせぇよ、ほっといてくれ。
 例によって悪態をつく。眼が、座っていた。
「ああ、そうかい。」
 隣にいる教師に気取られぬ動きで、御雷は十円玉を弾いた。
 ビニール袋を綺麗に貫通した。こぼれたシンナーが、急速に気化しながら座って煙草を吹かしていた六道に降り注ぐ。御雷以外の人間には、何が起こったのか理解できなかった。
 炎が上がった。二人の少年の顔をオレンジ色の炎が舐める。のみならず、服や肌に飛び散った液体が、燃え続けている。シンナーは、よく燃える。気化するのが早いため、それほど長く燃焼は続けない。それでも呼吸器系にダメージを受ける可能性は、ある。
 先程までの気怠い様子が嘘だったように、六道と近藤は床を転げ回った。
 狼狽している同僚に、「消火器を」と指示を出して取りに行かせる。階段の気配を探る。二年生たちは、教師がいるときにはここに近付かないが、念のためだ。
 一人残った御雷は、にこやかに語りかけた。
「ほら、だから火気厳禁って言ったのに。さて、どうしようか?お前たちは、さっき『ほっといてくれ』と言ったよな。」
 口調が変わった。
「死にたければ、ほっといてやるよ。今すぐ選べ。」
 選択の余地はなかった。
「助…けて。」
 ふん、と鼻で笑って、御雷は傲然と二人を見下ろす。
 消火器が到着した。受け取って御雷がたっぷりと消化剤をぶっかけてやる。火はすぐ消えたが、恐怖心が深く刻まれた上に、全身を薬剤まみれにされたことで酷く自尊心を傷付けられていた。動けない。
「念のため、救急車の手配を。」
 再び同僚を職員室に走らせる。
 顔を押さえて呻いている六道の側にしゃがんだ。髪を掴んで引き起こす。眼に、怯えがあった。
「助けてやったぞ、六道。」
 無言。
 御雷は髪の毛を掴んだまま六道の顔を床に叩きつけた。呻き声が上がる。再び髪の毛を掴んで吊り上げる。
「礼ぐらい言ったらどうだい。」
 御雷はもう一度六道の顔を床に叩きつけようとした。
「…やめてくれ。」
 泣いていた。虚勢の仮面は剥がれ落ちている。
「最初から、忠告を聞いてりゃこんな目に遭わずに済んだんだ。これ以上苦しい思いをしたくなければ、もう一つの忠告を聞け。」
 御雷の黒曜石のような瞳が、無表情に六道を見ていた。
「西本たちと――二年生のワル共と手を切れ。」
 微かな動揺が、六道の表情に走った。こいつも、薬か。それとも女か。先日仕掛けたビデオカメラには写っていなかったが、そういう繋がりで縛られているのだろう。
「わかった。もういい。お前は忠告を聞く気はなさそうだ。」
 御雷は、笑った。そこに含まれる悪意に、六道は戦慄する。
 気を失っているらしい近藤に、御雷は近付いた。まだ内容物が残っているビニール袋を拾い上げる。その手に薄い手袋をしているのに気付いた。灰色の不燃性グローブである。
 近藤の鼻を摘まんで、口を開けさせる、シンナーを無造作に流し込むと、ポケットから出したオイルライターで火を付けた。
 御雷が近付いて来る。六道は膝が震えて立てなかった。眼の隅で、痙攣したように悶える近藤の姿を捉えている。
「さあ、六道、お前もだ。」
 御雷の声はあくまで優しい。鳥肌が立つほどに。
 払いのけようとした手は、御雷が軽く触れると一瞬で感覚が無くなった。何をされたのかわからない。額に人差し指を当てられた―――六道が覚えているのはそこまでだった。
 御雷は、指先に振動を発生させることで、瞬時に六道の脳を揺らし脳震盪を起こさせたのである。
 六道の口腔にもシンナーの残りを注ぎ込み、火を放つ。シンナーの入っていた袋に空いた貫通孔も周りを熱処理してやる。
 十分に呼吸器に火が回った頃を見計らって、残りの消化剤を掛けてやった。
 救急車が到着し、緊急搬送される。事の次第は、一緒にパトロールをしていた年配の教員が事細かく語ってくれた。おかげで、御雷は警察からしつこく話を聞かれることもなかった。
 その日の夜、二人が死亡したことが病院から伝えられた。
 まず、二人。行きがけの駄賃のようなものだ。

      5
 三年生の死は、思ったほどの騒ぎにはならなかった。死に様があまりに無様で、親も抗議の仕様が無かったのである。
 『煙草を吸っている奴の側でシンナーを吸っていたら、袋が破れて二人ともシンナー火事で焼け死にました。学校は責任を取れ。』
 そんな恥ずかしいことを平気で言える奴がいたら、顔を見てみたいものだ、と御雷は思う。
 近藤が持っていた袋が劣化の進んだビニール―――ポリ塩化ビニル製だったのも幸いした。ラッカーシンナーに溶ける素材だ。警察はあっさりと事故で処理した。淡々とした手続きは、無言のうちに「自業自得だ」という警察側の認識を示している。
 中学生の、しかも本人にとって決して名誉とはいえない死に方を、大々的に報道するわけにもいかず、地方紙に小さな記事が載ったのみである。マスコミに対応する教頭も、それほど忙しくはない。自業自得の事故であるから、保護者への説明会も開かれない。死者を、ひいてはその保護者を吊し上げるようなものだからだ。一応、緊急の集会を開いて、生徒に動揺が広がらないように配慮はする。
 そんな状況で、葬儀は家族のみでひっそりと行われ、校長と担任だけが通夜に訪れたのみである。通常は同級生が参列するものだが、親が断ってきたのだ。
 本人の死亡により、二人は除籍される。転出と同じく、稲美中から学籍がなくなったのだ。
 三年生たちの反応も、至って冷静だった。もともと、授業に参加するどころか、廊下を徘徊しながら学習を妨害するような連中である。二人が死んで、自覚した者も少なくなかった。「もっと早く死ねばよかったのに」と思ってしまった自分自身の気持ちに。
 放課後。
 職員室では、三年団の教員たちが生徒の動揺が予想外に小さかったことに安堵の言葉を漏らしている。
 それを聞きながら、御雷は思う。
 子供たちは、残酷だ。
 彼らは、自分たちにとって障害となるものが除かれたことを、喜んでいる。これで、少しは勉強に集中できる、と。
 自分の為したことではあるが、御雷は複雑な気分になる。人の死を喜ぶような子供を育ててしまうことが、本当に学校の再生といえるのだろうか。
 そんなことを思いながら、生徒が提出した課題に赤ペンを走らせている。模範解答を見もしない。すべて、頭に入っている。単に、正解と不正解を分けるだけでなく、誤答にはヒントを書き加えたり、今後の学習の指針をコメントとして書き加えたりする。
 達筆ともいえないが、とにかくペン先の動きに迷いがなく、速い。
 右手の赤ペンを動かしながら、左手は器用に必要な情報をパソコンに入力していく。授業中の様子などは紙の記録簿に書きこんでいるが、課題やテストなどは最初からデータ化しておく。後で成績を出すときのための備えだ。
 さっさと英語の課題チェックを済ませると、菊池の机からテストの束を持ってくる。しばらく模範解答を眺めてから、赤ペンを動かし始めた。もう模範解答と見比べたりはしない。覚えたのだ。
 記号問題や空欄補充など、テストの中では単純作業に近い部分だけを採点していく。記述式―――文章で説明したり分析を述べたりする問題は菊池に任せることにする。実際には俺が全部やった方が遥かに早い。そうは思うが、これはあくまで菊池の仕事で、御雷はそれを手伝っているに過ぎない。
 時計を見ると、終業の時間だ。部活動を担当しない御雷は仕事を切り上げたいところだが、あと少しだけ。
 人の気配に目を上げると、田中が立っていた。細身のジャージが、長身に似合っている。汗を拭き拭き、給水している。
「御雷先生、何だかんだいって菊ちゃんには甘いなぁ。」
 手を止めずに、御雷は苦笑してみせた。解答用紙の束と、生徒の日記帳の山を前に唸っていた菊池に、彼は言ったのだ。
「まずは生徒の日記を読んでやってください。テストの採点は、ある程度ならぼくでもできます。」
 菊池は躊躇した。英語科の教員である御雷にそこまで頼むのは厚顔が過ぎるような気がしたのだ。
 御雷は例によって片目を瞑って笑う。
「優先順位ですよ、菊池先生。今あなたが優先すべきは、日記に目を通して、拾い上げるべき問題点の種――兆候がないかチェックすることです。短くてもいいからコメントは毎日書いてやった方がいい。テストの方は、肝心の部分は手を付けずに残しておきますから。」
 などと言っているうちに、テストの採点――正確には菊池が本採点するための下準備が終わる。
「もう、終わったんだ。終業時刻はすぎちゃってますけどコーヒーでも飲みませんか。」
 いただきます、と言って御雷はカップを受け取った。一口飲む。
 小さく溜め息をついて、独り言のように呟いた。
「放っておくと、菊池先生は時間を忘れて遅くまで学校に残ってしまいますから。」
 田中は軽い苦笑を浮かべる。
「たしかに、そうですね。前に御雷先生が言ったように、あの子は自分が納得できるまで手を止めようとはしないです。」
 先日、夜間に学校を訪れたとき、近くで馬越を見かけた顛末を話してやる。田中の表情が変わる。
「そんなことがあったんですか。」
 そこへ、部活動を早めに切り上げた菊池が戻ってくる。彼女は女子卓球部の副顧問だ。
 早速、田中が絡む。
「菊池ィ、話は聞いたぞ。」
 御雷は目を逸らしてそ知らぬ顔をする。
 ずいっと、田中は菊池に迫った。
「夜遅くに一人で居残るのは、禁止。遅くても、私が帰るまでには学校を出ること。いい?」
「でも、やらなきゃいけないこともたくさんあるし。私、仕事が遅いんですよね。」
 小首を傾げる仕草が似合う、と思った。田中は御雷を指差す。
「だから、残らなくても済むように、御雷先生も手伝ってくれているでしょうが。心配してくれてるんだから、あんたもそれに応えなさいよ。」
 ありがとうございます、と言いかけて菊池は目を丸くした。
「もう丸付け終わっちゃったんですか。社会科まで?」
 速すぎる、と菊池は思う。御雷は涼しい顔で応えた。
「まあ、単純な採点だけですから。記述式問題と、ぼくの採点にミスがないか確認するのは、菊池先生の仕事ですよ。」
 それだけ言うと、御雷は原稿を持って印刷室に入る。出てきたときには、何種類ものプリントを両手に抱えている。
 廊下の棚にあるプリントの在庫を確認しながら、減り方によって学習集団としての二、三年生の特性を分析しようと試みているのがわかった。独り言を言いながら考えをまとめるのは、集中しているときの御雷の癖だ。
 手際よく新しいプリントを棚に納めてから、御雷は職員室に戻って帰り支度を始める。
 淀みない動きに、田中も、そして菊池も唖然とする、見惚れるほどに整然とした行動は、プログラミングされた機械のようでもであった。
 二人とも、もう十分わかっている。
 御雷は、有能な教師だ。
 だからこそ、拭いきれない疑問がある。
「ねえ、御雷先生。ちょっと訊いてもいいですか。」
 何ともいえない表情を御雷は浮かべた。
「どうしたんです?田中先生。改まって。」
 菊池が田中に目配せをした。自分に尋ねさせて欲しい。
「私の質問も、多分同じだと思うんですが。」
「菊池先生まで…何ですか、一体。」
 まさか、三年生の死についてのことか。内心の緊張を気取られないように、肉体をリラックスさせる。
「その…生意気な言い方かもしれませんが…御雷先生は教師としてとても優れていると思うんです。今は年齢制限も緩くなっています。教員採用試験を受けて、正規教員になる気はないんですか。」
 質問の形を借りた、これは誘いだ。
「私も、菊ちゃんと同じ気持ちです。それだけ才能があって、もったいないですよ。」
 ふっ…と御雷が微笑んだ。無意識に浮かべてしまう表情には、本当の気持ちが出ることを菊池は知っている。
 だから、胸を突かれた。
 それは、初めて御雷に逢ったときに、彼が見せたのと同じ表情だった。泣き笑いにも見える、そんな顔。
「才能…というなら、ぼくにはそんなものはありませんよ。」
 本心である。
 特殊技能や格闘の業は、訓練や修練によって身に付けたものだ。教師としての技量も、経験に裏打ちされているに過ぎない。ただ、その「経験」が、御雷の場合は少々特殊すぎるだけのことだ。
 帰り支度の手を止めて、椅子に腰を下ろした。
「自分が凡人だということは、ぼく自身が一番よく知っているつもりです。他人より仕事が特別速いわけでもありません。だから、先を見越して仕込みをしておくんです。まあ、結果から逆算して行動を開始するというか、そんな感じです。」
 菊池は諦めない。
「でも、それだけ努力をしているということじゃないですか。生徒との関わり方を見ても、とても丁寧で。」
 御雷の苦笑には、こんな思いも含まれている。このしつこさは、もはやある種の才能だ。
「凡人が努力を忘れたら、それこそ何の取り柄もなくなりますからねぇ。」
 田中が口を挟む。
「御雷先生自身もこの前言ってたじゃないですか。菊ちゃんには『努力する才能』があるって。そう言う御雷先生こそ、努力の才能があると、私は思うんだけど。」
 御雷が田中を見る目は、少し眩しそうだ、と菊池は思う。田中は美人だから、仕方がないか…とも思ってみる。
 御雷の思いは違う。
 田中の家のことはわからない。しかし…おそらくは、血反吐を吐くような思いをして武術の鍛錬をしてきたのであろう。強い血を欲して伴侶を求める純粋さは、御雷にとっては愚かしくもあり、同時に崇高にも思えた。
 だから、問うてみる。
「田中先生は、自分の才能に限界を感じたことはありませんか。」
 虚を突かれたように、田中は瞬きした。重ねて問う。
「自分より遥かに才能がある人物に出会ったことはありませんか。絶対に敵わない、というくらいの人物に。」
 田中は、首を捻る。
「強くなりたいということでいえば、残念ながら、まだです。『こいつと闘ったら生きては帰れない』という程の相手には、まだ出会ったことがありませんね。」
 御雷は肩を竦める。田中は、純粋に強さを求める姿勢にブレがない。
「まあ、本当にやばい連中は、表の世界には出てきませんからね…。」
 何気ない呟きは、田中の心を震わせる何かをもっていた。
「まるで、裏の世界を知っているようなことを言うんですねぇ。」
 場の空気を軽くするように田中が笑う。御雷は微笑んだだけだ。
 今日の俺は、何だか口が軽い。その自覚はあった。
 そんな日があっても、いい。
「日陰に咲く花、とでもいえばいいんでしょうか。」
 菊池にも、御雷の言葉が何を指すのか、すぐには理解できない。
「そんな女の子に、ずっと昔出会ったことがあるんです。アメリカ時代の話ですが。」
 へえ、と田中が身を乗り出した。御雷が自分のことを話すのは珍しい。どんな子だったの、と興味津々に尋ねる。
 黒曜石のような瞳に、一瞬夢見るような色が浮かぶのを菊池は見た。
「とても――本当に、綺麗な女の子でしたよ。そして、彼女は紛れもなく天才でした。」
「天才、ですって?」
 御雷は深く頷いた。
「ええ、天才です。十代前半でいくつもの博士号を取得するほどの。彼女の前ではIQなんて意味がないほどの。」
 IQが意味を持たないほどの天才とは…二人には想像もつかない。
「答えを出すのに思考を必要としないんです。それが数学だろうと物理の難問だろうと、見れば答えがわかる。本人は『正解が降ってくる』と言っていましたが、凄まじい能力でしたよ。十代で研究者として一目置かれる存在になっていましたから。」
 それほどの才能があって、若くして成功すれば、人格的に問題があっても不思議ではない。意地悪な田中の疑問を、御雷は笑顔で肯定する。
「たしかに、鼻持ちならないくらい傲慢な子でした。自信家でもあった。とても残酷な面も持ち合わせていました。でも、同時に繊細で、恐がりで、必死で大切なものを守ろうとする誠実な人物でもありました。」
「それで、その人と出会って、御雷先生はどうしたんですか。」
 菊池に目を向け、少しだけ笑う。
「出会った瞬間に、彼女に恋をしました。彼女もぼくのことを愛してくれましたよ。」
 今よりは多少ハンサムだったもので、と笑ってみせる。
 菊池は、尋ねずにはいられなかった。
「それで、その女性は、今―――。」
 質問を最後まで言うことはできなかった。御雷が、あの深い穴のような瞳を菊池に向けていたから。
 御雷は、直接質問に答える代わりに言った。
「ぼくは、交通事故で全身の皮膚を失うほどの大火傷を負いました。その時に、汗をかく機能も、ぼく本来の顔も失いました。だけど。」
 生白い顔をひと撫でして、呟く。その唇が、いつもより紅い。
「あの事故でぼくが失ったのは、それだけではないということです。」
 御雷は腰を上げた。二人は声を掛けられない。
「あの日から、ぼくの時間は止まったままなんですよ。どう生きていいのか、正直言ってわからないんです。」
 職員室を出る御雷の背中が言った。
「誘ってくれてありがとう。でも、これからも答を見付けるために、ぼくは一所には留まらないつもりです。」
 二人は御雷の後ろ姿が見えなくなるまで、無言で見つめ続けた。
 最後まで、御雷は振り返らなかった。

      6
 三時間後。欅橋の下に御雷の姿があった。正確には欅橋の横に架けられた歩行者橋の下である。
 闇が降りている上に橋自体が生む深い影に紛れて、肉眼でその存在を知ることは不可能だ。橋脚にもたれて、軽く目を閉じている姿は、眠っているようであった。
 その実、聴覚を中心とした感覚は研ぎ澄まされている。敢えて視覚を遮断することで、他の感覚の感度と精度を上げているのだ。
 橋の上には、カラスがいる。彼の動きを、微かな振動として橋脚に接した背中が捕らえている。ぼそぼそと話す声も、御雷なら聞き取ることができる。
 次々と客が来る。男、女、若者、中年、年寄り――そして子供。当然のように馬越もいる。週に一度の薬物調達は、彼にとって重要な役割だ。
 馬越以外にも、中高生と思われる足音、気配、声の持ち主が多い。そのことに、少なからず御雷は驚いている。
 稲美中だけではないのだ。麻薬を若者の間に広めようという、明らかな意図を感じる。
 それにしても、大した繁盛ぶりだ。今夜だけで、一体幾らの売り上げになるのだろう。
 カラスの値付けは良心的だ、という評判を聞いた―――餓鬼相手に売りやすいように、混ぜ物を多くして単価を下げているだけだろう。依存が深まれば、いずれ大量の薬が必要になる。敷居を下げることで、客の間口を広げているのだ。そして、一度捕まえた客は骨までしゃぶり倒す。
 麻薬の売人とは、そういうものだ。
 静かに耳を澄ませ、カラス特有の隠語の使い方も盗む。なるほど、そういうやりとりをするのか、こいつは。
 御雷は、周囲に捜査員の動きがないかということにも気を配っている。事前に周辺を調べたときには、周囲の廃屋に潜む人影はなかった。脳を灼ける寸前まで追い込むことで、視覚をサーモグラフィに近い状態にして得た情報である。ごく短い時間しか使えない割に、負荷が大きい。目を閉じているのは、脳の一部を休ませているということでもある。
 入ってくる情報量に対して、脳の機械的演算力が圧倒的に不足していることを、御雷は痛感する。身体を操る能力に不足は無い。感覚器の精度にも不満は感じない。ただ、せっかくの情報を上手く扱えないことが、もどかしい。
 冗談じゃなく、補助脳でも欲しいところだ、と考えている。人工体なら初めから補助脳を併用することを前提に造ってあるはずだ。感覚器――センサーの種類が生身の人間よりも格段に多いからだ。理論的には、阿修羅像のように三面六臂の身体であっても十分に扱えるくらいに演算力の余裕が生まれるだろう。
 今度、マシューに人工体の感想を聞いてみよう、と思った。若々しいマッドサイエンティストを想像して、御雷の唇に面白がっているような笑みが浮かぶ。御雷自身が人工体に乗り換えるつもりは、今のところない。
 かつてK2に語ったように、この肉体は彼にとって代わりがないものだ。それに、活動時間の限界があるとはいえ、能力に不足を感じたことがない。
 何より。
 御雷は、自分が老い、朽ち果てることを望んでいる。自分で命を絶つような真似はしない。殺されるか、老いて死ぬか。彼が望んでいるのは、「避けられない死」だけだ。自らの死を希求していながら、簡単に死んでやるつもりもない。
 我ながら、厄介な性分だ。
 御雷は目を開けた。
 客足が途絶えた。時計を見るまでもない。カラスが店仕舞いをする時間だ。
 足音が、歩行者橋を南――市外方向に向けて歩き出す。
 仕事を終えたカラスの行動を、御雷は把握している。ここから程近い商店の駐車場に停めてある黒い軽自動車に乗り、郊外の小さな一軒家に帰る。一人暮らしだ。
 御雷は、カラスのヤサに忍び込みたい誘惑に駆られる。そこには薬もポンプ――注射器も少しはストックしてあるだろう。
 しかし、警察が敢えてカラスを泳がせているということは、詳細な情報を既に握っているからだ、と考えるべきだ。行動も、住所も、本名も、勤め先も、すべて調べ上げた上で、いつでも逮捕できる状態で泳がせているのだ。
 何とも陰険な…とも思うが、同時にカラス自身は状況を理解しているのだろうか、という疑問が湧く。
 俺は、警察がマークしている場所にのこのこと潜り込むなんて真っ平だ。
 だから、この場で仕事をする。
 御雷は、歩道橋を支える鋼鉄製の橋脚に取り付いた。さほど太くもない鉄管が、この橋を支えている。細い分、本数は多い。老朽化が進んでいるために、掛け替えの計画が進んでいるという。
 細い、いっても成人男性が何とか抱えられるほどの太さはある。御雷は、両手の革手袋
と柔らかいスニーカーのソール、そして全身の衣類の摩擦力を巧みに使って、百キロ近い体重を感じさせない動きで、するすると柱を登った。
 カラスは油断していた。橋の両端には常に注意を払っている。しかし、河原から直接橋に上がり込んでくる奴などいるわけがない。
 相手が警察なら、それは間違っていない。
 だが、彼が相手にしているのは御雷武であった。欄干を乗り越え、足音も立てずカラスの真後ろに降り立つ。
 断っていた気配を、敢えて発してみた。
 カラスが逃げようとすれば、襟首を捕まえて、強烈な打撃を肝臓に入れる。いきなり攻撃してきたとしても結果は変わらない。きつい一撃が入れば、抵抗力は失われる。こんな目立つ場所で銃を使うつもりなどなかった。
 カラスの反応は早かった。ただ逃げるでもなく、御雷に襲いかかるでもなく。
 彼が選んだのは、「直接河原に逃げる」という選択肢だった。
 コートの内側からワイヤー付きの太いカラビナを出すと、器用に欄干に引っ掛ける。開いたコートの隙間から、腰にリガーベルトとブレーキ付きのワイヤーリールが着けられているのが見えた。
 要するに、このまま橋から跳べば、カラスの身体は適度に減速しながら安全に河原に到達するということだ。
 躊躇なくカラスは欄干を越えて空中に身を投げ出した。
 耳障りな音がして、カラスの腰から金属製のワイヤーが伸びる。
 御雷は欄干に引っ掛けられたカラビナに手を掛ける。
 仰向けの姿勢で空中を降りるカラスが、黒い丸眼鏡の下で笑うのが見えた。体重と落下の加速度を支えているワイヤーを外せるものか。
 それは、常識的な見方ではあるが、御雷の異常な膂力を知らない者の思い込みだ。
 御雷はカラビナのロックを解除し欄干から外すと、右手だけでワイヤーを一気に引き上げた。糞をした後にトイレットペーパーを引っ張り出すような何気ない動作には、恐ろしいほどの力が込められている。
 地上から二メートル程のところで、カラスは落下速度が急激に下がるのを感じた。ワイヤーのリールの軸受けが焼き付いたのか?常用するものではないだけに、手入れはしていても不安になる。宙吊りになるのは御免だ。
 カラスの心配は杞憂だった。
 落下の停止―――と思う間もなく、強い衝撃が腰に来た。いきなり一メートルあまり身体を跳ね上げられていた。
 リールからワイヤーが吐き出される音は途切れていない。
 ワイヤーの伸びる速度を遙かに上回る速さで、強引かつ瞬間的に引き上げられたのだと悟った。
 嘘だろ…。
 驚きは声にできなかった。落下から上昇に向かう過程で、全身に衝撃が徹っている。
 血が引く音を聴くような思いの中、逆光になった御雷が、頭上に投げ上げたワイヤーを離すのが見えた。そのまま左手を欄干に掛け、飛び降りた。
 嘘、じゃない。
 跳ね上げられたカラスの身体が、最高点を超えて落下に移る。三メートル余り下の河原に落ちる。今度は落下速度を抑えてくれる命綱はない。
 カラスは悲鳴の形に口を開けたが、声は出せなかった。
 すぐ脇を掠めるように、黒いジャンプスーツに身を包んだ御雷が落下する。橋を離れる瞬間に欄干を蹴って下向きの加速を得ているため、単なる落下というより急降下に近い。頭を下にしている。軽々とカラスを追い抜くと、四肢のモーメントを巧みに使い、空中姿勢を整え足から着地する。
 河原は砂が主体だが、堅く締まっている。さすがに無音で着地することはできない。深く足跡を刻む。
 間を置かず、カラスが無様にもがきながら降ってきた。御雷は容赦なくその背中を蹴り上げた。
 背骨にひびが入り、肋骨が何本か砕かれる。それでも砂に隠れた石塊に後頭部を直撃されるよりはマシというものだ。
 カラスの身体が衝撃で空中に浮いている間に、御雷は左の爪先をこめかみに食い込ませた。
 今度こそ完全に白眼を剥いて――黒眼鏡でよく見えないのだが――カラスは失神した。河原に落下した身体は関節の力を失い、壊れた人形のような姿で転がった。
 御雷は意識を失ったカラスを肩に担ぎ、暗い河原を上流に向かって歩きだした。
 軽い。仰々しい格好をしているが、本体は貧相な男だ。これは、ワイヤーを引き上げた感触でわかっていた。
 肩に当たる感触からも、コートの中に物騒なものを呑んでいるのは明らかだ。本来なら今すぐ危険物を全て取り除きたいが、今はこの場を離れるのが先決だ。万一カラスが襲撃を受けたことが警察に知れれば面倒なことになる。
 御雷は星明かりだけを頼りに、九百メートルほど上流にある郷田橋に向かっている。今原市の中心部から離れるため、欅橋周辺よりもさらに人気がない。麻薬の売人も、ここでは商売にならないのか、現れることはなかった。
 折からの予算不足によるものだろうか。河川の管理や整備は十分とはいえない。台風シーズンはまだ先だが、今のうちに川底を浚渫したり、河原や河川敷に伸び放題になっている大きな茅の株や灌木を除去しておかなければ、堤防の弱い部分が切れかねない。
 郷田橋の袂も、そんな伸び放題の灌木に覆われている。人の背丈よりも高い藪の中に、二坪ほどの空き地があった。
 御雷が伐採や除草作業を行って作り上げたものだ。周囲からは藪に邪魔されて見通せないようにしてある。夜間の作業は毎日少しずつしか進められなかった。
 その空き地に、御雷は穴を掘ってあった。縦二メートル。横一メートルの長方形だ。深さは一メートル余りあった。
 藪を巧みに抜けて空き地に入ると、御雷は穴の脇にカラスを転がした。意識を失い、眠り続けている。
 コートを開くと、鼠色の地味なスーツが現れた。服装に不釣り合いなリガーベルト、そしてワイヤーのリールが目を引いた。便利なものではある。差し当たって用のないものだ…が、有難く頂戴することにする。コートの中には少量の薬物と注射器があった。ショルダーホルスターに収まったロシア製の拳銃と、スリングで吊った、古い自動式散弾銃の銃身を短く切り詰めたものを奪う。大小のナイフと予備の銃弾も取り上げる。
 帽子を取り上げる。鬘を取り上げる。コートは予想通り盛大に肩パッドが入った革製の上質なものだ。これも取り上げた。黒眼鏡、これももらっておく。ご丁寧に、高い鼻は作り物の付け鼻だった。これも、いただく。
 御雷は、カラスの扮装を手早く空き地に用意していたボストンバッグに詰め込む。
 さっきまで現実感がないほどに芝居がかっていた麻薬の売人が、今は取り立てて特徴のない会社員然とした素顔を晒して横たわっていた。
 おそらく、日常は本当に一社員として働いているのだろう、と想像する。ちょっとした小遣い稼ぎが今や本業となり、かつては本業だった会社員という立場は、単なる隠れ蓑になってしまったというわけか。
 スーツの内ポケットを探ると、携帯電話が出てきた。電話帳を開いてみると、随分登録者が多い。すべて、ニックネームだった。
 なるほど、顧客リストというわけだ。これが、欲しかった。
 財布を開いてみると、多額の現金が入っていた。ポケットにもだ。すべて、頂くことにする。免許証も見てみたが、顔も名前も御雷の知らない男だった。
 御雷はフライトジャケットから長めのタイラップを取り出し、カラスの足首を縛った。両手首も身体の前で拘束する。カラスは微動だにせず気を失っている。その顔は安らかですらあった。
 まったく、よく寝る奴だ。
「まあ、うるさく騒ぎ立てるよりはマシか。」
 独りごちて、右手をフライトジャケットのポケットに突っ込む。
 すぐに、騒げなくなるさ。
 取り出したのは何の変哲もない事務用のステープラーだった。コの字の針で書類を綴じる、あれだ。
 左手でカラスの唇を上下合わせたまま引っ張る。
 ステープラーを四回握り込んだ。
 ぱちん、ぱちん、ぱちん、ぱちん。
 突如としてカラスが目を開けた。痛みで目が覚めたのだ。
 悲鳴はくぐもった奇声になっただけだ。唇は中央の僅かな部分を残して、ステープラーの金具で綴じられている。
 御雷はステープラーをしまうと、ポケットの中の小箱に付けられたスイッチを入れる。カラスの携帯電話の画面で、電波状況の表示が圏外を示しているのを確認する。
 ごく低い出力の通信抑止装置を使ったのである。今、着信音を響かせるわけにはいかない。電源を切ればいいようなものだが、携帯に登録された内容についてカラスに訊くことができなくなる。
 通信抑止装置の出力を抑えているのは、電波法を根拠に目を付けられるのを避けるためである。必要なら五百メートル四方の通話を完全に遮断するくらいのことはできる。だが、それは特別な場合の奥の手だ。
「起きたかい、売人さん。」
 カラスの側にしゃがみ込んで、囁いた。
 状況を理解し始めたカラスの目が、狂ったような表情を浮かべるのを、御雷は見た。ほぼ暗闇であっても、この距離ならよく見える。体温のある生物の方が視認しやすいな、と頭の隅で考えている。
「俺に何の用だ。てめえ、どこの組のモンだ。こんなことをして、ただで済むと思ってんのか。」
 恫喝は囁きにしかならなかった。
 御雷は低く笑ってやる。気配と声を伝えてやるためだ。カラスから御雷の姿を見ることはできない。
「なかなか威勢がいいじゃないか。あんたこそ、自分がどういう状況に置かれているかわかっていないらしいな。」
 御雷の声は笑いさえ含んでいた。
「一端の組員みたいな口をきいても無駄だ。お前がただの売人だっていうのはわかってるんだよ。ところで。」
 御雷の口調が、変わった。
「『こんなことをして、ただで済むと思うな』と言ったのか?俺は、始めたばかりなんだけどな。もう終わったと思うのは、ちょっとお気楽すぎないか。」
 ポケットから再びステープラーを出した。
「小説の中じゃ、大声を出させないために口を糸で縫ったりするらしいけどな。俺は、そんな面倒な真似はしない。」
 御雷が立ち上がると、微かに藪を通して差し込んでくる街灯の明かりがステープラーに反射した。カラスが身を固くする。光の加減も、見せ方も、御雷の予定通りだ。
 右手のステープラーを握り込む。
 ぱちん。
 味気ない音がして、綺麗に折りたたまれた針が一本、落ちた。金属針の鈍い輝きは、カラスにも見えたはずだ。その証拠に、彼の視線は針が落ちた先を追っている。
 ぱちん。
 再びステープラーの作動音がしたとき、カラスの身体がびくりと震えた。
 ぱちん。
 小刻みな震えが全身を這い上がってくる。冷や汗で身体がずぶ濡れになっていた。
「俺はね、あんたに少し協力して欲しいだけなんだよ。」
 御雷は言った。恐るべき猫撫で声で。
「あんたがやってる麻薬の取引について、洗いざらい喋ってくれない?」
 無自覚のうちに、少年時代に似た喋り方になっている。
 カラスはシルエットになっている御雷を睨み付けた。
「言えるわけないだろう!そんなことをしたら、俺は殺される。」
 御雷の唇に浮かんだ淡い笑みは、残念ながらカラスには見えなかった。
 優しい、といえる手付きでカラスの右の瞼に左手を伸ばす。右手の動きは速かった。
 ぱちん。
「…!」
 声すら上げられず、カラスは芋虫のように身体をくねらせた。手足の自由は奪われている。
 右目がステープラーで綴じられている。上下の瞼を合わせておいて針を通したのだ。
「心配しなくても、眼球に傷は付けていない。多少、痛いかもしれないけどね。」
 カラスは涙と鼻水を垂らしている。それでも虚勢を張ってみせた。
「糞ったれが。てめえ、サツじゃねぇな。」
 御雷は鼻で笑う。
「こんな真似をする警察官がいてたまるか。だから、ここでお前が何を喋ろうと、お前や取引相手が逮捕されるようなことはない。それは保証してやる。」
 嘘は、言っていない。だが、カラスも馬鹿ではなかった。
「てめえがサツじゃなければ、なおのこと言えねえよ。他所の組のモンに話したら、世話になってる人たちに迷惑が掛かる。」
 売人には売人の仁義というものがある。死んでも話すものか、とカラスは言った。
「へえ、大した啖呵だな。じゃあ、試してみようか。」
 無表情な声がかえって不気味だった。カラスは身をよじって逃れようとする。
 御雷はわざと足音を立てて近付くと、カラスの襟首を掴んで引き起こした。片手で軽々と成人男性を扱ってみせる。有無を言わせぬ怪力に、カラスはゴリラのような男を想像した。それにしては声が―――。
 ずるずると、カラスは空き地の端へ引き摺られていく。藪の向こうから水音が聞こえた。
 その時。
 雲が切れた。
 月が青い眼差しを地上に投げる。御雷の足が止まった。
 蒼い光の中に、御雷は立っている。
 月を見上げていた。
 その、白い横顔の、美しさ。
 すんなりとした、細身の身体。
 カラスは、普段他人が自分に対して抱くのと同じ感想を抱いた。これは…現実に存在する人間なのか。
 男だと思ったが、女なのか。いや、それにしては―――。
 御雷がカラスを見た。その、黒曜石のような瞳。
 心臓が凍るような感覚の中、思う。こんな眼の女がいて、たまるものか。
 淡い笑みがまた御雷の唇に浮かんだ。
「俺の素顔を、見たね。――あんたは運がいい。」
 すうっ、と眼を細めて笑う。
「何しろ、自分の覚悟が本物かどうか、確かめることができるんだからな。」
 再び歩み出す。姿形は幻影のようでも、カラスを引き摺る怪力は本物だった。
 藪を抜ける小道は、余人に見つかりにくいように、人一人がやっと通れるだけの広さしかなかった。幾度も折れ曲がっている。
 先を行く御雷は器用に枝葉を避けていくが、引き摺られたカラスの方はそうはいかない。河原に出たときには服から出た部分の皮膚は引っ掻き傷だらけになっていた。それでも、ステープラーの針が食い込んだ唇や瞼、ひびが入った背骨に比べれば痛みのうちには入らない。
 御雷は蛇河の水際までカラスを運んだ。
 無造作に放り出されて倒れた顔のすぐ先に、水面があった。波立つ面に月の明かりを映している。胸が苦しくなるほどに、嫌な予感がした。
 恐る恐る振り仰ぐと、月光の元で姿を隠そうともせずに立ち尽くす御雷の姿が眼に入る。
 何故、そんなに美しい。何故そんなに美しいのに、これほどまでに禍々しいのか。
「喋る気になったかい。」
「死んでも喋らないぞ。」
 御雷の口元がほころんだ。笑ったのだ。夢見る少女の笑みを思わせる、笑顔。
「よかった。あっさり吐かれたんじゃ、あんたの言葉を疑わなくちゃならないところだった。」
 俺は、面倒臭いことが大嫌いでね、と付け足す。
 改めて、御雷がカラスの襟首を掴み直す。ふと、身体の前で縛られた両腕に目をやり、「邪魔だな」と呟いた。
 カラスから奪ったナイフの一本を使って、タイラップを切ってやる。
 何故両腕を解放してくれたのか、カラスには御雷の意図が掴めない。それでも、両腕が自由になればやれることはある。
 カラスは河原に転がる石の中で、殴打に手頃なものを眼で探す。
 と、いきなり仰向けに突き倒された。
「悪巧みを考えるのはまだ早いな。」
 言いながら、両手でカラスの右腕を取る。右足はカラスの胸に乗せられている。
 力任せに――何の技も使わず、ただカラスの右腕を引っ張った。
 ごきっ。
 ぶちっ。
 音はほぼ同時に聞こえた。カラスの右肩の関節を、力だけで強引に脱臼させたのだ。筋も切れた。
 カラスの貧弱な身体が痙攣する。唸り声だけがごく短い距離に届く。
「大丈夫さ。これぐらいじゃ、あんたは死なない。だから、まだ話さなくていい。」
 御雷の声は、気味が悪いほどに優しい。
「まだ、もう一本ある。」
 御雷の接近を拒もうとするのだが、脱臼した右腕は重く垂れ下がるだけで動かすことはできない。
 あっさりと捕まり、簡単に左肩も脱臼させられる。もう、地面を転げ回ることもできない。
 御雷はまたカラスの襟首を掴み、その顔面を川面に突き出した。
 意図を悟ってカラスの身体ががたがたと震える。
「さあ、本番だ。―――死ね。」
 手を、離した。
 カラスの上半身が水面に落下する。
 水深は決して深くはない。
 だが。
 両腕が使えず、脚も封じられている状態では水面から顔を出すことはできない。
 水面に無数の泡が浮かび、カラスが無様にもがくのを、御雷は無感動に眺めている。
 だんだんと、その動きが緩慢になって――止まる寸前で、髪の毛を掴んで引き上げてやる。
 カラスは口から濁った水を吐き出した。口を綴じられているために、いくらか肺に向かって逆流し、激しく噎せ返る。
 無理な力が掛かって、口に刺さったステープラーの針の周りに血が滲んでいた。
 カラスの目を見た。
 御雷は「喋れ」と命じもしなければ「喋るか?」と問いもしなかった。決めるのはカラス自身だ。
 そのまま、またカラスの頭を水面に突っ込んだ。激しく抵抗したが、さっきより弱まるのが早い。
 当然であった。肺は大量の空気を要求しているにもかかわらず、口を開くことができないために十分な空気を補給させてもらえないのだから。
 意識を失う寸前で引き上げ、また水に漬ける。
 御雷は無言のまま、飽くことなく同じ作業を繰り返す。
 カラスは「死んでも喋らない」と言った。ならば、喋るまで死なせてはやらない。
 そう考えている。御雷の行動に躊躇はない。
 何度目かの水責めで、とうとうカラスの心臓が止まった。
 御雷は死にかけた肉体を河原に放り出し、右手をカラスの胸に当てた。全身の力を巧妙に束ね、振動でカラスの心臓を打ち抜く。エネルギーが大きすぎれば、カラスは全身の体液を沸騰させて死ぬ。水の分子を振動させると、熱が発生するのだ。加減は難しい。
 御雷は振動のエネルギーと、振動数をコントロールする修練を積んできた。K2から学んだその日から、ずっと。そして今では振動に指向性を持たせ、ピンポイントで射貫くことすらできる。
 K2に、何度も心停止から甦らされた経験が生きていた。御雷の筋肉では大電力を発生させることは不可能だから、電気ショックを与えることはできない。だが、特定波長の一撃が、停止した心臓の再始動に効くことを経験的に学習している。
 果たして、激しく咳き込みながら、カラスは蘇生した。
 また、水責めが再開される。
 心臓が止まる。
 蘇生させられる。
 水責めを受ける。
 心臓が止まる。
 蘇生させられる。
 苦痛のループに終わりがないらしいことに気付いたとき、とうとうカラスの心が折れた。
 何度目かの蘇生の後、言った。
「…喋る。喋るよ。もう…嫌だ。」
 一旦心が折れると、カラスの口は軽くなった。下手に隠し事をして、また拷問されるのは絶えられない。
 御雷の拷問には、怒りもなければ憎しみもない。嗜虐性も感じられない。
 そもそも、生きた人間を扱っているという認識すら、もっていないかのようであった。
 カラスが恐怖を感じたのは、そういう御雷の「得体の知れない機械のようなところ」だった。
 心底、怖かった。だから洗いざらい話した。
 客との取引の段取り。連絡の取り方。符牒の扱い。警察への備え。顧客情報――携帯電話を見せながら、詳細情報を語っていく。それらを一言一句逃さずに御雷は記憶していく。
 仕入れ値や売価、売り上げについても生の数字を教えた。
 麻薬の入手先については、一瞬躊躇いがあった。もし殺されるなら、どちらに殺される方が嫌か。その観点で考え、「御雷よりもヤクザに殺された方がマシだ」という結論に達した。
「薬は、河津組の沢田って幹部から回してもらってるんだよ。」
 御雷の唇の両端が吊り上がる。聞いた名だ。
「幹部から、直接?仲買人も通さずにか。――何か狙いがあるんだな。」
 カラスももう隠そうとはしない。
「あの人は、もっと若い連中に薬を広めようとしているのさ。それで、安く売れるように俺にブツを回してくれるわけだ。仲買人を通したら、どうしても値が上がるからな。沢田さん自身の取り分も増やせるというわけさ。」
 御雷はカマを掛けてみる。
「沢田ってのは、ジャグワーに乗って、中学生を舎弟にしている奴だな。」
 そうだ、とカラスは答えた。
「西本とかいう中坊だよ。俺も何回か会ったことがある。今、俺から薬を買っていく餓鬼共は奴の紹介が殆どさ。」
 カラスが挙げた何人かの中には、馬越も含まれている。
「ありがとうよ。十分だ。」
 御雷の声に偽りの響きはない。
 カラスを軽々と肩に担ぐ。
「痛い思いをさせて悪かったな。」
 労りの響きさえ感じられる言葉に、少なからずカラスは驚く。
「あんたの目的は何だ?筋者でもないんだろ。」
 御雷は答えない。歩みも止めない。歩きながら言葉を探しているような気配がある。
 そこに付け入る隙を探ろうとしたのはカラスの不明だ。御雷の肩の上で、肩関節が脱臼している両腕をぶらぶらと揺らしながら、囁きかける。
「あんたさえその気になってくれるなら、何でも協力する。俺が口を利けば、薬の売買に一枚噛めるぜ。あんたが兄貴で、俺は弟分でいい。どうだい?馬鹿な餓鬼を相手に二人で稼ぎまくるんだ。」
 御雷は藪に入り込んだ。元の空き地を目指している。
 カラスの誘いに答える代わりに尋ねた。
「沢田のところに用心棒みたいな爺さんがいるな。」
「いる。気味の悪い爺さんだ。」
「知っていることを話せ。」
「詳しくは知らない。俺も一度しか会ったことがないんだ。ただ、奴が来てから沢田さんが力を持つようになったのは確かだ。」
「殺しが専門なのか?」
「知らん。ただ、他の幹部のところの奴がおかしな死に方をしたことはあった。沢田を狙っていた他の組が全滅したり、とかな。」
 水責めで肺に負担が掛かったのか、カラスの呼吸音に雑音が混ざっている。
「名前を知っているか?」
 カラスはしばし黙った。記憶を辿っているのだ。ここで御雷の歓心を買うことができたなら、あるいは。彼が生き残る道はそこにしかなかった。
「耳で聞いただけだから、字は知らない。この辺りでは聞かない、珍しい名字だったよ。たしか、あの月みたいな名前だった…と思う。」
 カラスの言葉を吟味するように、御雷は背後の月に顔を向けた。痩せた月が、中天で今は銀色の光を振り撒いている。
 頭の中で、小さな火花がチリチリと音を立てる感覚があった。危ない、相手か。
 空き地に、着いた。
 掘られた穴が、月光の中で黒々と口を開けている。カラスは怖気を震った。
「何だ、あの穴は。俺を殺してあの穴に埋めようってのか。」
 御雷は軽く笑った。
「最初は、情報を引き出したら射殺するつもりだったんだが。」
 ベレッタを抜き出して、見せてやる。カラスがぎょっとする。撃たれないと察して少しだけ安心する。
「少し気が変わった。あんたの協力を受けることにする。」
 カラスの身体をそっと地面に横たえてやる。今になって痛みが耐えがたいものになってきて、思わず呻いてしまう。先程まで全身に回っていたアドレナリンが切れたのだ。
「その痛みをなんとかしなくちゃな。売り物だが、仕方がないな。」
 カラスから奪ったパケ――麻薬の小袋を取り出す。同じく、奪った小皿と水差しを使って、薬を水溶液にする準備をする。月の明かりのおかげで手元がよく見える。
「あんたが扱っている薬の純度は?普段使っている量を教えてくれ。これを打てば痛みは楽になるはずだ。」
 カラスは痛みで思考力を失いかけていた。外されたままの肩は熱を帯びている。やがて腫れ上がり、カラスは発熱で床に伏せることになるだろう。
 痛みからだけでも今すぐに逃げたくて。
 カラスは薬の純度と、自分が一回に使用する量を教えた。いや、教えてしまった。
 御雷は鮮やかな手付きで薬を皿に落とし、水を加えてカラスの望む水溶液を作ってやった。注射器は既に出してある。
 御雷はすぐに液体を注射器に吸い上げるようなことはしなかった。
 内ポケットからジップロックに大事そうにしまった別のパケを取り出す。
 水溶液の入った皿に、パケに入った粉末を、耳かきのようなものを使って少しずつ加えていく。
「おい、何をしている。」
 カラスを見た御雷の眼は半眼になっていた。整った少女のような面差しに不思議な半眼の眼差し――美しい仏像のようだ。恐怖の裏で、カラスはそんなことを考えている。
「なに、ただの混ぜ物の実験さ。あまり多く混ぜても、薬の効きが十分出せなくて客離れを起こしてしまうだろ。」
 追加で入れた粉末は、あっさりと水溶液に溶け込んだ。
 御雷は注射器に溶液を吸い上げた。軽くピストンを押して、空気を抜いてやる。
 カラスの左腕を取った。痛みに呻く。
「すぐに痛みはなくなる。少しだけ我慢しろ。」
 腕の静脈は注射痕だらけだが、まだ針は通る。中毒患者の例にならい、皮膚のアルコール消毒はしなかった。
 右手に注射器を持ち、左手でカラスの上腕部を強く掴むと、肘の内側に静脈が浮かび上がってきた。
 意識が朦朧としているカラスの静脈に、注射針を差し込んだ。
 虚ろな声でカラスが問うた。
「ところで、混ぜ物には何を使ったんだ。」
 御雷は爽やかな笑みを浮かべて答えた。
「シアン化ナトリウム――青酸ソーダだよ。」
 カラスの眼が小さな注射器に釘付けになる。それがどれだけ危険なものか、程々に化学の知識がある者ならわかっている。
「何でも協力するって言ったのに!」
 御雷が笑みを納めた。真顔になったときの、凄味のある美貌。紅い唇が、愛の言葉を告げるように動いた。
「そう言ってくれたからこそだ。あんたの協力があれば、どれぐらい青酸ソーダを混ぜればいいのか見極められる。ありがとうよ。―――まともに生きている人間を実験台に使うのは、さすがに気が引けてね。」
 ピストンを押し込んだ。薬液が有無を言わさぬ速さで静脈に入り込み、全身に送られる。
 シアン化ナトリウムの効き目が現れるまで、どれほどの時間も残されていない。
 だから、御雷はカラスの質問に答えてやる。
「俺の目的は、お前たちのようなクズを、この世から消し去ることだ。大人だろうが、餓鬼共だろうが、関係ない。」
 果たしてカラスに俺の言葉が届いただろうか。御雷は少々疑問だ。
 御雷は息を止めた。御雷は、泳げない。その代わりに、十分程度なら無呼吸のまま水中に留まれるように訓練を積んでいる。
 カラスは白眼を剥き、僅かに開く口元から嘔吐物をこぼしている。皮膚が、紅い。わずか、数分。
 なるほど、こんな感じか。奴の呼気にも毒性のある気体が含まれている。御雷は常に風上に立つように位置を変えた。
 息を止めたまま、カラスの身体を穴に蹴り落とす。無論墓穴として掘ったものだ。
 カラスの拳銃を、分解し、撃針を折って墓穴に放り込む、ソウドオフの自動式散弾銃も同様の処置をしてから放り込む。弾は銃から抜き、カラスのナイフを使って薬莢に切れ目を入れて墓穴の底に撒いた。
 死の間際の呼吸をしながら、カラスは穴の底に横たわっている。一度も目を開けなかった。
 御雷はベレッタを取り出して銃口に減音器を着けた。死の痙攣を始めたカラスの頭に一発撃ち込んだ。エンプティケースは穴の底に落ちた。
 これも、練習だ。
 御雷は藪に隠していた大振りのスコップを使って穴を埋め戻す。すぐにこの空き地も草木に覆われて姿を消すだろう。
 もしかすると犬や野生動物が死体を掘り返すかもしれない。が、危険な匂いに敏感な彼らが、わざわざ毒の回った死体を食う理由が御雷には見付けられない。
 上流で大量の雨が降れば、この辺りには大きな渦がいくつもできる。橋脚の形が水流を誘導し、渦ができやすいのだ。水の力が死体を掘り出すかもしれない。
 それでもいい、と思った。
 俺の仕事が終わるまで、本物のカラスが出てこなければ、それだけでよいのだ。
 御雷は地面に置いたボストンバッグに目をやった。
 カラスになりかわるための扮装が詰め込まれたバッグを見詰める視線が、熱い。
 次に馬越が薬の買い付けに来るときが楽しみであった。

      7
 麻薬の売人が一人死んだところで、何も変わらない。
 今原市の日常は相変わらず退屈で、稲美中は順調に荒れている。
 年配の教員の顔色が優れない。自身もプライドもガタガタにされているのだ。
 まともに授業ができない、と愚痴ばかりこぼしている者も少なくはなかった。
 といっても、全ての教員が苦痛を受けているわけではない。
 今年の一年生は、例年になく好人物が多いという評判である。内々には「稲美中立て直しの切り札」と目されている学年だ。彼らが三年生になるときまでに、ある程度荒れを抑えておく。そうすれば、有望な人材が揃っている学年が最高学年になったときに、リーダーシップを遺憾なく発揮することができる。そこまで持って行けるか否かで、稲美中が将来的にどうなっていくのかをある程度見通すことができるだろう。
 田中の学級経営は、概ね順調のようだ。子供たちにとっては、田中のように明るくて、きっぱりとしていて、しかも美しい女性の担任は嬉しいものらしい。
「やっぱり、美人は得ですよねえ。」
 職員室を訪れた生徒と笑顔で会話を交わす田中を眺めながら、菊池がぼやく。
 始業のチャイムが鳴って、慌てて生徒が職員室を飛び出していく。田中まで慌てているところを見ると、自分の授業を忘れていたらしい。
「何を言いだすのかと思ったら…。」
 隣の机で御雷は笑う。週に一コマほどだが、二人とも空き時間になることがある。伊賀が担任と副担任