【鳴神来たりて(仮題)】のための創作ノート⑦

 【第七章 交錯】

      1
 御雷は、大きなくしゃみを一つした。
「誰か、俺の噂でもしているのかねえ。」
 風邪を引いているわけでもあるまいが、昼夜の寒暖差が大きい時期ではある。
 深夜、二時。もう日付が変わって、土曜日になっていた。
 狙撃練習を終えて、公園で小休止を取っている。
 コーヒーの空き缶を、ゴミ箱に投げ入れた。大欠伸をする。
 スープラの奏でる低いアイドリング音が、眠気を誘う。
 運転席に戻ったが、シートベルトをせずに軽く目を閉じる。
 御雷といえども、週末は待ち遠しい。教師の仕事に手を抜いていない証拠ではある。
 教師という仕事は危険だ、と御雷は思う。
 生徒に教えるという立場ではあるが、生徒から学ぶことも多い。御雷が経験の豊富な教員であるといっても、転勤する度に新しい発見がある。さらにいえば、出会った生徒一人一人が、全て異なった個性を持っている。
 当たり前の話ではある。だが、それが面白い。
 授業に没頭し、放課後の補習では全力で指導に当たる。休み時間には雑談に興じたり、たまには相談に乗ってやったりもする。
 そんな、教師としての日常は、御雷にとっては毒だ。
 腹立たしいことも、当然ある。しかし、やりがいも、ある。興味深い同僚にも恵まれている。
「正規教員になれ…か。」
 それも、いいかもしれない。一教諭として教育に人生を捧げるのも悪くない。そう感じている自分を、はっきりと御雷は自覚している。
「でも、そうはいかないんだよな。」
 御雷は他の教員ができないこと―――血を流すために稲見中に赴任してきたのである。普通の教員になったら、それはもはや御雷ではない。
 為すべきことを、為す。そして、それはまだ始まったばかりなのだ。
 河津組襲撃の件で警察が動いてる気配は、相変わらず、ない。報道も一切なかった。
 一度、何食わぬ顔で中華料理店に顔を出してみたが、「諸事情により閉店」の張り紙が一枚してあっただけだ。首を捻る演技をしてから店を離れた。常連客が事情を知らずに訪れた、というポーズだ。
 警察が動いていないということは、河津組は大量の死体を処理して、襲撃事件そのものを「なかったこと」にしたのかもしれない。
 状況を見れば、そして仲間内にモグリの医者でもいれば、夕食に毒が盛ってあったことなどすぐに露見するだろう。中華料理店の主人が酷い目に遭っていなければよいが…。人の良さそうな笑顔と、サービスしてくれた品々を思い出しながら真剣にそう思った。
 御雷が出前を利用して襲撃を掛けたから、主人にとばっちりが行ったのだ、とは考えない。十分な博愛精神と実利主義が絶妙に一人の人間の中で共存しているのだ。
 全てを組の手で隠蔽するのなら、主人の身はさほど危険ではないだろうという読みはあった。「何もなかった」のに、主人を拷問に掛けたり殺したりすれば、それは逆に「あの店を起点に何か大変なことが起こった」というサインを出すようなものだ。とはいえ、主人も自分が不自然に眠らされていたことに不信感はあるだろうから、状況を問われた上で口止め料を渡されて、今原市から去った―――というあたりが一番無難な後始末の仕方だろう。主人が約束を守れば、警察に駆け込むことはない。
 沢田…か。事務所詰めのローテーションから考えれば、発見したのは沢田その人のはずだ。組長の口振りからも、彼が会長の寵愛を受けているのを御雷は知っている。それなりに能力は高いはずだ。
 となれば、若いながらも奴が後始末の指揮を執った可能性は高い。
 その前提で、呟いてみる。
「沢田という男も、なかなか肝が据わっているらしい。隠しきろうとするとはね…上手くいっているところを見る限り、組長が死んでも大きな混乱はない、か。」
 御雷は、少しだけ迷っている。
 西本は、殺す。稲見中の暴力と混乱、そして薬物の全ての交差点に立っているからだ。裏の世界に生きるという、奴の決意は固い。更正の見込みは無い。だから消せばいい。
 ただ、薬を辿ってみると、供給源には沢田がいる。奴も、消すべきだろうか。
 河津組自体を潰すことまでは考えていない。それはあくまで警察の仕事だ。御雷が暴力団に絡むのは、生徒に関わる問題についてのみ、である。
 あくまで、御雷武は教師として考え、行動しているのだ。その基準があまりにも教育界の常識とかけ離れているだけのことだ。
 だが、教師としての御雷が蒔いた種は少しずつ育っている、と感じている。
 やる気のある生徒、真面目に努力する生徒が称賛される雰囲気。無気力だったのは生徒集団だけではない。それ以上に諦めの境地に達していた教師集団も変わりつつある。
 保護者の認識も、変わらざるを得ない。
 金曜日の午後、馬越の両親が見舞金として百万円を持参した。週明けになると踏んでいただけに意外だったが、校長室で御雷が受け取った。管理職は席を外す。録音されている可能性も考慮して、一言一句前日の猿芝居を再現してやった。
 予想に反して守矢も復帰している。思いの外、精神的にタフだったようだ。馬越夫妻に頭を下げられて目を白黒させていたのが、妙に可愛らしかった。
 思い出して、御雷の唇に小さな笑みが灯る。
 本来なら、百万円もの見舞金を受け取ることには問題があるのかもしれない。管理職もそれを危惧してはいた。御雷は、「学校再生専門員の活動費は現地調達が許されている」という条項を盾に取り、県教育長に「問題ない」と明言させた。守矢が直接受け取るのはまずいから、一旦御雷が全額受け取ってから、活動費の一環として半額を彼女に渡してやる。
 分厚い封筒にどぎまぎしていたが、校長室でのやりとりを巧くまとめて説明してやると、「痛快だわ」と早速毒舌を吐いてみせた。
 先日の夕飯の件もある。臨時収入があったから、ということで田中と菊池に何か欲しいものがないか尋ねてみた。
 二人とも、「あんなことでお礼なんてもらえない」と恐縮したが、御雷は引き下がらなかった。「年長者の言うことには従うものです」の一言で押し通す。嘘は、言っていない。
 結局、菊池には「ちょっといいランニングシューズ」を贈ることになった。もう、一緒に店へ行って商品は決めてある…のだが、彼女の足のサイズである二十三センチに希望の色の在庫がなかった。取り寄せるまでしばらくかかるそうだ。
 田中の方は、いろいろ迷っている。欲しいものも食べたいものもたくさんあるらしい。が、結局決めきれずに、こんなことを言い出した。「何でも一つだけ言うことを聞いてくれるというのは、どう?もちろん、その時にできることしか頼まないから」…一番面倒臭い、というより危険な願いだ。特に、田中は何を考えているかわからない。
 御雷は少し考えて、「『これ以上は無理』というラインを引かせてもらえるなら」という条件付きでOKした。
 それしても。馬越夫妻の報告を思い出して御雷は苦笑する。
 結構な重傷に見えたし、診断書にも右手が完全に潰れて云々、と書かれていたのだが。
 あっさりと月曜日には退院するという。何度か手術をしなければならないのは嘘ではないようだが、かなり大げさに書類には書いてもらったようだ。
 麻薬の買い付けに関しては、カラスの携帯に馬越から連絡が入った。予定の時間と場所、取引量は変わらない。ただ、馬越の代理として白石直哉が来るという。顔を見ればわかるのだが、もっともらしく合い言葉を伝えてやった。
 御雷は目を開けた。スープラのコンソールに目をやる。メーター類と共に並んでいるデジタル時計を見た。そろそろ、いい時間だ。
 携帯電話を取りだして、番号を入力する。通話ボタンを押した。
 呼び出し音。
『もしもし。武さんですか。』
 名乗る前から、K2の声は弾んでいる。息遣いからも、待ちかねていたのがわかる。二十年分の思いが言葉にならずとも伝わってくる。
 どれだけ待たせ続けたのか…と、さすがの御雷も申し訳なくなる。
「うん、ぼくだ。元気か。」
 変なことを言う、とK2は笑う。
『私は病気にはなりませんよ。知っているくせに。』
 つられて、御雷も笑った。
「お前こそ、そういう意味じゃないってわかってるだろう。」
 ええ、と応えるK2の表情がわかるような気がした。穏やかな笑みを浮かべているのだろう。
『心の方ですね。大丈夫、私は元気です。この前、電話をいただいてから、ずっと。』
 もっと早く連絡してやればよかった、と思う。逆に言えば、御雷からの連絡が途絶えていた二十年間、彼女は元気ではなかったということでもある。
「ちゃんと、ご飯は食べてるか。」
『はい。三食きちんと食べています。朝夕はちゃんと自分で作っていますよ。』
「風呂もちゃんと入ってるか。」
 K2はたまらず吹き出した。
『武さんは、埃まみれの私を想像しているのですか?髪はボサボサ、服はボロボロ…私だって、女の子なんですから。そこは、きちんとしています。』
 女の子ねえ…と御雷は声に出してみる。
「お前、今年でいくつになったんだっけ。」
 ぐっ、とK2が言葉に詰まる。
『…初代の身体が誕生してから、四十六年経ちますけど。』
「四十六歳の、女の子か。」
 からかうような響きが、ある。
『もう、年齢のことは言わないでください。中身はずっと女の子なんですから。それじゃ、駄目ですか?』
 むくれ顔が目に浮かぶような声に、「ごめん」と素直に言えた。
「悪かったよ。長く放っておいたぼくが、悪いんだ。」
 真面目な声に戻す。
「お前が言うとおり、中身が大事なんだ。人間らしく生活してくれてて安心した。」
 少なくとも、今の俺よりはずっと人間らしい。
『【人間】の定義にもよるとは思いますけど。身体の組成を除けば、私は自分を人間だと認識しています。』
「ああ。ぼくも、そう思う。たしかに、お前は女の子だよ。」
『私のことを全く顧みてくれない武さんのことだけを、一途に慕い続けている可哀想な女の子です。』
 御雷は一方的に責められている気分になる。
「なあ、K2。」
『はい?』
「この二十年間、お前はずっとぼくに遠慮してきたんだろう?」
『ええ。率直に言えば、その通りです。』
「今は、全く遠慮が無くなったな。」
 御雷の苦笑に、K2は朗らかなくすくす笑いで返してみせた。
『我慢するのを、やめることにしたんです。』
「我慢を、やめる?」
 息遣いの変化と、頷く気配があった。声に、僅かな緊張がある。
『ずっと―――人形でいようと努力しました。私の存在が、あなたを苦しめてしまってはならないと。』
 その思いを想像すると、御雷には返す言葉がない。無言のうちに彼女にそれを強いたのは、俺だ。
『でも。』
 意外にも明るいトーンでK2は言った。
『二十年の間、あなたへの想いは変わることはありませんでした。この前、あなたの声を聞いたとき、はっきりわかったんです。【ああ、私はこの人のことが本当に好きなんだな】って。』
 言葉に淀みはないが、声には微かな緊張と恥じらいがある。彼女にとっても勇気の要る発言―――言おうと心に決めていたのだろう。
『だから、たとえあなたに疎まれることになったとしても。あなたに嫌われたとしても、自分の気持ちに正直になろうと決めたんです。』
 あくまで静かな口調ではあったが、御雷の心に染み入るものがある。
「嫌いになんか、なるもんか。」
 K2は次の言葉を待っている。
「初めて逢ったときから、ぼくはお前のことが好きだよ。」
『女性として?』
 御雷は溜め息と共に答えた。不思議とK2には率直に話すことができる。
「そう。一人の女の子として、お前のことが好きなんだ。」
『まあ。』
 その声には、喜びと驚きと安心と――明らかに呆れている響きがあった。
『それでは、武さん。姉様と私の二股をかけていたということですか?』
 何だか、雲行きが怪しくなってきた。
「ちょっと待て。それはもの凄く誤解を招く言い方だぞ。大体、お前は、あの頃はまだ『人間』になる途中だったじゃないか。」
『では、お尋ねしますけど。』
 言葉遣いは違うのに、恭子に問い詰められたときを思い出す。それはつまり、逃げ道が無いということだ。
『もし、あの頃、私が既に【人間】であったならば…。』
 予想していた詰問口調ではない。御雷は耳を傾ける。
『私と姉様を同時に愛していただくことはできたのでしょうか。』
 思い詰めたような声に、K2の真意を知った。
 元々、K2は恭子の死後、御雷のパートナーとなるべく生み出された存在だ。それは、K2自身に、「自分は恭子の身代わりでしかないのか」という疑問を抱かせる。自分の、存在意義に関わる大きな問題だ。
 御雷の答えは最初から決まっている。
「もしそうだったら、二人ともぼくの奥さんにしようとしただろうな。―――まあ、外観が十六歳のままだと、少し困ることになるだろうけど。」
『まあ、呆れた。』
 そう言いながら、K2の声が潤んでいる。
『同時に二人の妻を持とうだなんて。やはり、撃墜数千二百のスーパーエースだと、これも仕方ないことなのでしょうか。』
 笑って同意してやる。
「そうさ。ぼくは、欲張りなんだよ。相手の女性が同意してくれるなら、ね。」
 あなたの言っていることは無茶苦茶です、と泣き笑いの声が返ってきた。
『でも、私を一人の女性と認めてくださっていると聞いて、とても幸せです。』
 今が切り出し時だと御雷は判断した。
「そのことなんだが、ぼくから一つ提案がある。」
『結婚なら最初からOKですが。』
 気が早いところは相変わらずだ。御雷は頭を掻いた。
「いや、そっちじゃなくて。」
 明らかに落胆した気配があった。
『ねえ、武さん。』
「うん?」
『こう見えても、私は結構モテるんですよ。』
「だろうな。」
『研究所の職員からも随分お誘いをいただいています。私、普段は髪も黒くしてますし、炭素基系の人類だと勘違いしている方も多いみたいで。あまり放置されると、私だって気持ちが動いてしまうかもしれませんよ。』
 御雷の唇に淡い笑みが浮かぶ。
「いいや。お前の気持ちは動かない。」
 たじろぐ気配がある。
『なぜ、そう言い切れるんですか。』
「決まっているだろう。このぼくが、お前はぼくのものだと決めたからだ。」
『もう…強引なんだから。』
 溜め息をつきながらも、満更ではない様子に、御雷はしてやったりと笑う。
『でも、あなたは私に【相手は自分で決めろ】と言いましたよ。』
「言ったね、確かに。だけど『俺のことは好きになるな』とは言わなかったよ。」
 K2は何ともいえない声で唸った。
『こんな調子で、姉様も丸め込まれていたのかしら。演算速度だけでいえば私の方が優れているはずなんですが。あなたと話していると、どうも調子が狂います。』
「それが、『人間』ってものだよ。単に性能の善し悪しで関係が決まるわけじゃない。」
 人間、という言葉にK2が反応する。
『そういえば、私。ここ数年は眠るようになったんです。』
「へえ。疲れるようになったのか?」
 御雷の声に、微かな不安が宿る。未知の素材でできているK2のボディと頭脳には、意外な弱点や予想外の劣化がないとも限らないのだ。
『いえ。疲れはしませんが…その、なんというか。昼間経験したことや思考したことを整理するために睡眠を要求されるようになったんです。私自身、最近まで気付かなかったのですが…。』
「じれったいな。勿体ぶらずに教えてくれ。」
 すうっと深呼吸するのが聞こえた。
『私にも【無意識領域】があるのを発見したんです。』
「それって、つまり…?」
『私自身が意識しない間に、何かをしている可能性がある、ということです。それは、主人格である私にもコントロールできない領域です。』
 御雷が無意識領域のかなりの部分を意識でコントロールできるように改変したのと、ちょうど逆のことが起こっているわけだ。
 ふうん、と御雷は考える。
「自分でも思ってもみなかったことをやらかしている、という可能性もあるわけか。」
『はい。無意識に願うことの恐ろしさを、実感しているところです。』
 声が、重い。感じるものが、あった。
「何を、願った?」
 言えません、とK2は応えた。
『言えば、きっとあなたに叱られます。―――あなたは、必ず私を嫌いになる。』
「もしかして…ぼくの身体のことか?お前が直してくれたこの身体に、何かまずいことがあるのか。」
 最近は体調不良を感じることが多い。といっても、「身体が重い」くらいな感覚だが。
 御雷の質問には直接答えず、K2は言った。
『私は、あなたと離れている間に、大きく四つの研究を進めてきました。一つ目―――最優先は、あなたの脳内にある破片を取り出す方法。これは不完全ながら目処が立ちました。』
「ああ。お前が頑張ってくれたおかげで、ぼくは手術を受けられるところまできたわけだ。」
『成功率は三割程度。最初はゼロだったことを考えれば、成果はあったといえます。この成功率でも、手術を受けますか。』
 受けたい、と御雷は即答した。そのために待ち続けたのだ。
「もし失敗しても、死ぬのが少し早まるだけだ。」
『破片への処置については、逆方向からのアプローチも試みました。研究の二つ目は脳内の破片を取り出さず、そのままの状態で危険性を取り除く方法です。発想の逆転で、破片が動き回らないように脳内に固定してしまいます。』
 なるほど。破片が暴れない安心感は大きい。MRIだって受けられるだろう。熱の問題はあるにしても。
「だけど、それじゃぼくの寿命や痛覚は今のままだ。このまま生き続けるための研究なら…。」
 要らない。
 はい、とK2は声を落とす。
『ですから、この研究テーマは三つ目のテーマの母体として活用しました。』
「それは、何だ?」
『今は、詳しくお話しすることはできません。ただ、私が無意識に願ってしまったばかりに、武さんの身体に変化が起きています。それを何とかするための研究だとだけ。いずれ、あなたがアメリカに帰ってこられたときに直接お話しします。』
「電話じゃ駄目なのか?それとも、すぐに命に関わるような問題ではない?」
 受話器を握るK2が表情を歪めた―――ように思えた。
 声が苦い。
『今すぐ命に関わることではありませんが、直接話したいんです。私の話を聞けば、きっとあなたは私のことを嫌いになります。面と向かって言って欲しいんです。【お前が嫌いだ。顔も見たくない】って。もう、会えないままで置き去りにされるのは嫌なんです。たとえ耐えがたい言葉であっても、直接言って欲しい。』
 K2が、嫌われることを前提に話していることに、御雷は腹が立ってきた。
「何を願ったか知らないが、無意識にやってしまったことなんだろう?」
『はい。あなたに施した手術の不備を、なんとかしてあげたくて。』
「不備?二十年前の技術と機材では、あれ以上は望めなかったはずだけど。」
 たしかに、とK2は肯定した。
『仰るとおり、限られた条件の中で、私は最善を尽くしました。それは嘘ではありません。でも…私の見通しが甘かったのも事実です。自分では完全だ、と思っていたのですが。』
 一旦言葉を切って、呼吸を整える。
『あなたの身体に、変化のきっかけを与えたのは私のミスです。』
 姿の見えぬ不安が、御雷の中で頭をもたげる。何も言えない。
 話題を変えたのはK2の方だった。
『ところで、お仕事の進捗は順調ですか。』
 順調だとは答えられなかった。かいつまんで、状況を説明してやる。
『なるほど。最近は常に疲労感があるわけですね。』
「うん…疲れを感じることが多いのは確かだよ。胸が空っぽになったような気になることもある。」
『その原因の一端が、身体の変化にあるとは思います。武さん自身も気付かないうちに、変化に対応するために脳の処理能力を使っているんです。』
 自分の責任だ、と再びK2は謝罪した。
「いいよ。無意識なら、仕方ないさ。それが『人間』ってことだ。お前も、苦しいんだろう?」
 はい、と答える声が沈んでいる。
『人間であることが、こんなにも苦しく切ないものだとは…。』
「人間になったことを後悔しているのか?」
『いいえ。それは、少しも。苦しさも喜びも、みんな一緒にして飲み込もうと決めています。それが、私の考える【人間らしさ】ですから。』
「だったら、もう悩むな。どのみち、この仕事が終わったら一度そちらに戻る。その時に話してくれればいいさ。」
 御雷は、今日はもう話を切り上げるべきだと感じている。頼みたいこともあったのだが…K2の落ち込み方を見ると、日を改めるべきだと思った。が、意外にも彼女の方から助け船を出してくれた。
『ごめんなさい、私ばかり話して。武さんの提案を聞いていませんでしたね。』
 言っておこう、と思った。大事なことは言葉にして伝えねばならないことを、御雷は学んでいる。
「あのな、K2。」
『はい。』
「そのK2という呼び方を、そろそろやめたらどうだろう。」
『それは…恭子と名乗れということでしょうか。』
 そうだ、と御雷は言った。
『でも…それでは姉様に申し訳ないような気がします。姉様に成り代わるようで、少し気が引けるんです。』
「でもな…、お前は生まれたときからキョウコなんだぞ。K2という名は、いうなれば『恭子のレプリカ』という意味だよ。だけど、実際にはそうじゃない。」
 K2は耳を傾けている。思考を巡らせている気配がある。
「たしかに、外見は恭子の写しかもしれない。でも、中身はまるで違うだろう?」
『ええ。姉様は、私の内面が自由に成長できるように、敢えてご自身には似せませんでした。』
「だから、お前は今のお前になれた。恭子とは全く別の人間にな。お前は恭子のレプリカなんかじゃない。『本物のK2』だよ。それとも、キョウコという名は嫌か?」
『そんなこと、あるわけないじゃないですか。』
 声が震えていた。
『姉様から頂いた、大切な私の名前です。ただ…姉様と同じ名をそのまま名乗るのには抵抗があります。』
 だったら、と御雷は提案を加える。
「違う漢字を、選べばいい。お前が一番愛着を持てる字を。恭子も、子供の頃そうやって自分の名を付けたと聞いたぞ。」
 人工的に天才を生み出す実験の検体であった恭子は、マシューに引き取られるまでは個体名を持っていなかった。キョウコという名を選んだのも、それに「恭子」という字を当てたのも、彼女自身だ。
「まあ、ちっとも恭しくはなかったけどな。」
 亡き妻を思い出して笑みを浮かべられる自分に、御雷は少なからず驚いている。
 K2が小首を傾げる―――様子が見えたような気がした。
『では、武さんが提案してください。あなたが私に一番相応しいと思う字を。』
 御雷は少し考える。
「…難しいな。帰るときまでに考えておく、というのはどうだ。それでも思い付かなかったら、相談して決めよう。」
『約束ですよ。』
「ああ、約束だ。」
 この約束は守ろう、と思った。K2との約束を違えることはできない。それが、彼女の献身に対する御雷なりの報い方だ。
 K2が、不意に声の調子を変えた。
『ときに、武さん。ちょっと伺いたいのですが。』
「何だよ、改まって。」
 数瞬の沈黙。御雷は心の内を見透かそうとする鳶色の視線を感じる。
『私に話してくださっていないことがありますよね。』
「全部、話したよ。」
 迂闊にも声が裏返った。
 K2の声が僅かに尖る。
『女が、いますね。』
 御雷は答えない。女―――菊池に振り回される形になっていることは否定できない。だが、菊池は俺の女ではない…少なくとも、今は、まだ。
 K2は心底情けなさそうに深いため息をついた。
『私というものがありながら、また別の女にうつつを抜かしているなんて。本当は、それで仕事が遅れているんでしょう?』
 御雷は狼狽を押し隠す術に長けている。話題をすり替えればいいのだ。
「『また』とはなんだ。こんなことはこれまで一度もなかったさ。」
 失言、である。
 電話の向こうでK2が低く笑った。
『それは、【これが初めてだ】と解釈してよろしいのでしょうか?女がいることを認めるのですね?武さん。』
 丁寧な言葉遣いに、却って冷たい怒りが込められているようで、御雷は小さく身震いする。
 案に反して、K2の溜め息は優しいものであった。
『やれやれ、と言いたいところですが。それが御雷武さんですものね。』
 仕方がない、と笑ってみせる。
『きっと、私とその人と、【両方とも好きだ】くらいのことは平気で言うんでしょう。あなたという人は。』
「…怒らないのか?」
『怒ってますよ。』
 御雷は小さく肩を竦めた。穏やかな声で言われると却って恐ろしい。何しろ、彼女は御雷の業を継承する者の中で、史上最強なのだ。
『でも、先程お話ししたように、私には大きな負い目がありますから。もし、全部お話しして、それでも許して頂けたなら。一つだけお願いがあります。』
 正面から来られると逃げられない。そもそもK2の指摘は的を射ている。
「…きかないわけにはいかないみたいだな。」
 溜め息と共に敗北宣言した。K2が笑みを浮かべる気配がある。
『その人と私、二人ともあなたの奥さんにして頂きたいんです。』
 御雷は少しばかり混乱する。
「ちょっと待ってくれ。二人の妻をもつのは、まずいだろう。」
 K2は動じない。
『【できる】と仰いましたよ。御雷武さんは欲張りなんでしょう?』
「だから、それは相手の女性がOKしてくれないと、無理だってば。」
 ふふん、とK2は鼻で笑う。
『わかりました。その女性の説得は私がします。必ずOKさせてみせますから、安心してください。』
 その自信が、御雷を不安にさせる。
『…冗談ですよ。』
 K2の声は完全な棒読みだ。
 まったく、冗談じゃない。
 御雷は出てもない汗を拭う仕草をする。無意識の行為だと気付いて苦笑する。
「お前と話していると、どうも調子が狂う。ぼくがお前に勝てない理由が、わかるような気がするよ。」
 リズム、というのだろうか。拳を交えて勝てないのは、K2の身体能力が御雷を上回っているからという理由だけではない。こうやって言葉を交わしているときでさえ、気が付けば主導権を握られているのが、その証拠だ。
 考えてみれば、彼女と出会ってから、一度も勝てたことが無いのではないか。
 ふと、そう思い付いた。
 恭子にも、K2にも、負けっ放しだ。
 まったく…この姉妹ときたら。
 それは、決して嫌な気分ではなかった。素直に白旗を揚げることにする。
「わかったわかった。負い目と言えば、ぼくにだってある。」
『浮気をしたことですか。』
 御雷は目眩がした。
「だから…まだしてないって。」
『これから、するんですよね。』
 K2の声に嗜虐の響きがあるように思えるのは被害妄想だろうか、と思った。そして、気が付いた。
「おい。浮気も何も、ぼくらの間にはまだそういう関係はないじゃないか。」
 またしても、失言であった。K2がにんまりと笑う顔が目に浮かぶ。
『ええ、今は【まだ】です。ですが、今の言葉は【いずれそうなる】と解釈しておきます。』
「もう…好きにしてくれ。さっきまで泣きべそかいてたやつと同一人物とは思えないな。」
 けろりとした調子でK2が応じる。
『切り替えは早いんです、私。父様から、目から鱗が落ちるような言葉を頂いたもので。』
「聞くのが怖い気もするけど、教えてくれるかい。」
 堂々と、彼女は宣言した。
『【それは、それ。これは、これ。】です。』
 便利でしょ、とK2は笑った。御雷はがっくりと肩を落とす。マシュー、お前…。
 義父を恨んでも仕方がない。
「じゃあ、ぼくもその流儀でいくことにする。お前に、頼みたいことがあるんだ。」
 御雷は、順を追って依頼事項を説明した。K2の声が高くなる。
『まあ、なんて図々しい。私にそんなことを頼むなんて。』
 見えないのはわかっているが、御雷は片目を瞑って笑顔を見せた。
「図々しいのはお互い様さ。確かに、頼んだぞ。」
 K2が図々しく振る舞ってくれたおかげで、彼女に対して気を遣わずに済んでいることは自覚している。自分の過ちを後悔しているという、彼女の告白に嘘はない。その上で御雷の気分を軽くしてくれる気遣いが嬉しかった。
 一つ、思い出す。
「そういえば、四つ目の研究テーマを聞いてなかった。一体何なんだ?」
『今はまだ…とても言えません。』
 こういうのも豹変というのだろうか。こちらまで恥ずかしくなるほどに、恥じらいを含んだ声でK2は答えた。
『あなたとそういう関係になるまでは、内緒です。』
 妙に艶っぽい声に、思わず御雷は赤面した。

      2
 起きたら、もう九時過ぎだった。
 石上邸の中は静まりかえっている。
 柔らかなベッドの中で、御雷は静けさを楽しんでいる。敷地が広い上に、住宅街の奥に位置するために、人の気配や車の通過音が殆ど感じられない。
 腹が減っている。が、もう少しベッドの中でゴロゴロしていたかった。
 昨夜はK2と話し込んでしまったおかげで、すっかり夜更かしをしてしまったのだ。
「あいつめ…結局、自分の言いたいことだけ話しやがったな…。」
 天井を見ながら呟く声は、自分でも驚くほどに穏やかだった。思い起こせば、K2の手の平の上で上手に転がされただけのように思えた。可笑しくなって、御雷はくすりと笑った。
「どこまで本気なんだか…。」
 恭子。君の妹は、しっかり人間をやってるよ。彼女に漢字の名前を贈ろうと思うんだが、君ならどんな字を当てるのかな。
 時々、御雷は恭子の面影に呼びかけることがある。無論、返事など期待していない。
 ただの、習慣だ。
 大きく伸びをして起き上がる。素足で床に立つと、ゆっくりと身体をほぐした。
 そんなことをせずとも、脳から各筋肉に信号を送れば、肉体の暖気は終わる。だが、それではあまりにも味気ないではないか。
 だから、昔と同じやり方で入念に身体と意識を覚醒させる。
 小便をし、顔を洗う。まじまじと鏡で見てみる。
「顔が変わってきてるのも、K2の言う『変化』に含まれるんだろうか。」
 そもそも手術の不備とは何なのか。
「聞いときゃよかったな。…いや、あのまま話し続けたらどうなっていたことやら。」
 冷蔵庫を開いて、袋詰めのフランクフルトソーセージを取り出す。大きめの鍋に湯を沸かして放り込む。パンケーキミックスを取り出すと、水で溶いてフライパンで手早く薄手のパンケーキを何枚も焼く。ホットケーキ用の粉と違って甘くないし、卵や牛乳を入れなくてもいいところが手軽である。
 マグカップに熱いコーヒーと冷たい牛乳を一対一の割合で注ぐ。
 御雷はパンケーキにフランクフルトを挟んで食った。味を変えるためにマスタードを付ける。
 バナナを食い、ヨーグルトを食い、野菜ジュースを飲む。少し考えて、インスタントの味噌汁を定量の一・五倍の湯で溶かして飲んだ。御雷の生まれ育った地域では、甘い味噌を使う。関東風のインスタントは、御雷には塩気が強すぎるのだ。
 飯を食ったら、便意を感じた。いつものことだ。
 腹を軽くした後も、テレビのニュースを見たりしながら、何をするでもない時間を楽しむ。
 今日は土曜日だ。今ごろ、他の教員たちは部活動の指導に当たっていることだろう。
 ご苦労なことだ、と思う。アメリカでは部活動など存在しない。それぞれの生徒は思い思いにクラブスポーツを楽しんだり、文化活動を行ったりする。
 日本の学校は、何もかも背負い込もうとしすぎるのだ。本来ならば、個人や家庭、あるいは地域の問題に属することまで引き受けようとする。
 分を超える責任を背負い込むのはある種の傲慢だ、と御雷は考えている。
 それにしても。
 稲見中の教師陣の数名を思い浮かべて、溜め息をつく。
 部活動に熱心なのは、まあいい。御雷に、その熱意はない。大切な個人の時間を割いてまで生徒の指導に当たることは、今の彼にはできない。
 しかし。部活動の指導には熱心に取り組むが、他の仕事にあからさまに手を抜いたり、あまりにも仕事ができない教員に対する見方は厳しい。
「自分が何で給料を貰ってるか、忘れてるのかな。」
 声に出してみて、少し違うと感じた。部活動は、あくまで教師のボランティアという体裁を取っている。それ自体が給与の対象ではないのが事実ではある。それよりも。
 毎日放課後になるまでは眠ったような顔をして過ごしている教諭の顔を思い浮かべてみる。部活の時間になると、ようやく起きる、という感じだ。噂では、土日は丸々家を空けることが続いて、最近は夫婦仲も怪しいと聞いた。同僚の私生活にさほど興味はないが、教員というものも存外口さがないものだ。
「――ああ、ただの『趣味』なんだ。」
 納得のいく答えだが、呟いた口の中が苦い。指導者=監督が、生徒ではなく自分のために指導することの愚かしさ。審判に見つからないように反則を犯すテクニックを伝授した指導者を、御雷は知っている。
 まったく…生徒をどのように育てたいのか。目先の勝ち負けにこだわって、大事なものを見落としているのではないか。
「生徒に勝利を味わわせたい、だと?嘘をつくな。お前自身が勝ちたいだけだろう。」
 と、吐き捨ててはみるものの、直接は言えない。御雷の立場上は。
 勝てば、それでよい―――殺し合いの世界ならそれは正解だ。だが、それを教育の場に持ち込むことには賛成できない。
「そうはいっても、生徒に活動の場を保証することも必要、か。面倒なことだ。」
 とはいえ、御雷自身が休日の使い方を変えるつもりはない。
 今日は、久しぶりに石上暁子に会いに行くつもりであった。
 欠伸を一つして立ち上がろうとしたとき、電話が鳴った。仕事用の携帯電話だ。学級担任でもない彼に、急な呼び出しが掛かることはまず無い。それほどの緊急事態は、むしろ御雷自身が生み出す可能性が高い。
 職員会で開示された稲見中の教員の電話番号はすべて登録してある。何名かとは携帯電話の番号も交換している。やはり、若手の方が持っている率が高い。
 相手の名前は表示されていなかった。公衆電話からだ。
「もしもし。御雷です。」
 事務的な声を作った。
『ああ、御雷先生ですか。お休み中だったんでしょう?どうも、申し訳ありません。』
 若い男の声が、愛想よく言った。少しも申し訳ないと思っていないのが伝わってくる。御雷の唇に小さな笑みが浮かぶ。
「あんたか。あんまり調子がいいから何かのセールスかと思ったよ。」
 いやいやいや、と恐縮してみせる。
『あんまりぶっきらぼうなのも、いかがなものかと思いましてね。』
「愛想がいい役人ってのも、気持ちのいいもんじゃない。あんたの前任者は、いかにもお役人って感じだったけど。」
 御雷は顔も知らない文部省の役人のことを思う。学校再生専門員は御雷一人ではない。それぞれに担当者が付いている。
「で、今日の用件は?」
『あれ?何だか機嫌が悪そうですね。』
「悪そう、じゃなくて実際悪いんだよ。」
 思い出しても腹が立つ。
「何故、校内人事に口を出した?おかげで、こっちは色々と困ったことになっている。」
 ああ、あのことですか、と悪びれもせずに男は言った。名は知らされていない。そういう関係だ。
『あれは、私じゃありませんよ。実は、私がお知らせしたいのもそのことでして。』
「あんたじゃない?」
 学校再生専門員個人と、その仕事を知っているのは省内でも一握りの人間だ。無能では務まらない。この男も、若くしてエリートコースに乗った者の一人であるはずだ。
 だからこそ、文部省の暗部を知ることも余儀なくされる。秘密を共有することで文部省という巨大な組織と一蓮托生になるわけだ。
『あれはね、御雷先生。私なんかよりずっと上の方から出た指示ですよ。』
 相手の意図を掴みかねて黙っている。男は構わず話を進めた。
『単刀直入にいきましょう。誰かが、あなたの行動に制限を掛けて、監視しようとしています。』
「誰か、といっても文部省内の人間だろう?学校再生専門員制度反対派の巻き返し工作かい?」
『まあ、そんなところです。いや、もっと悪いかもしれません。これまでは賛成派だった者まで一枚噛んでいるようで。』
「何だか複雑そうだな。ぼくは、シンプルな話が好きなんだ。」
『いえいえ、突き詰めれば単純な話なんです。今、省庁再編の話が進んでいるのはご存じでしょう?』
「かなり体制が変わるらしいな。…ああ、業務整理の一環か。」
『あなたも、身も蓋もない仰り方をしますねえ。ご自身のことなのに。』
「ビジネスの話だからね。」
『まあ、仰るとおりです。今度、うちは科学技術庁と一緒になる見通しです。その際に、業務の引き継ぎをしなければなりませんが…。』
「表に出せない仕事もある、ということだね。ぼくとしても、そろそろ廃業を考えていたところだよ。制度そのものを終了させてくれればちょうどいい。」
『それが、そう簡単にもいかないんですよ。』
 男の声が苦いものになる。
『新たに編成される省の中での立場を固めるために、現在の文部省事業の瑕疵を暴いてやろうと動いている連中がいるんですよ。』
「つまり、点数稼ぎか。確かに、ぼくらがやっていることが表に出たら―――いや、出さずに済ませるために詰め腹を切らされる人間が出るだろうな。」
『私もその一人ですよ、御雷先生。』
 御雷は低く笑った。
「直接の担当者が知らぬ存ぜぬでは通らないだろう。それで、他の専門員にも監視が付いているのか?」
『いえ、私たちが掴んでいる限りでは、あなただけです。』
 御雷はあからさまに不機嫌になる。
「なんでまた、ぼくなんだ?他にも専門員はいるじゃないか。」
 御雷だけで全国をカバーすることはできない。殆ど顔を合わせることもないし、総員が何名になるのかは知らないが、少なくとも十名やそこらはいるはずだ。
 男の分析には容赦がない。
『それはですね、御雷先生。あなたが学校再生専門員第一号だからですよ。正確には、あなたの働きを見て、学校再生専門員制度は創設されました。二十年もの間、常にトップエージェントとして最前線に立ち続けているあなたは、制度の根幹を成す存在なのです。だからこそ、あなたの仕事ぶりを詳細に調べ上げ、あなたの存在意義を否定すれば、制度そのものを否定することができる。さらに、相手に取って幸いなことに。』
「ぼくは他のどのエージェントより血を流す、か。」
『あなたは、華のある仕事を好みますからねえ。』
 事故死ではない。とてつもない腕を持った死に神が、お前たちを狙っている。そう思わせることが、ワルの予備軍を引き返させることにつながる。
 だから、最高難易度の殺しを、一つは組み込むことにしているのだ。
「状況は、わかった。監視者の情報をくれ。」
 御雷の決断は早い。
『殺すんですか。』
「人聞きが悪いな。まだ仕事の途中なんだ。教師が巻き添えを食らったとしても仕方ないだろう?…ま、できれば決定的な証拠を握られないように気を付けるさ。ぼくだって、殺しは好きじゃない。」
 はあ、と応える男の声は疑心に満ちている。それでも話を続けた。
『それが…わからないんですよ。』
「はあ?」
 男の、歯切れが悪い。
『稲見中学校については、内偵をうちのチームがしたわけではないんです。もちろん、元になったのはあなた自身の希望です。あなたの住居等についても、私が手配しました。』
 石上邸のことは男には知らせていないが、教師としての仮住まいとは別に住処を持つことには暗黙の了解がある。
「普通は、内偵からぼくの派遣、そして仕事が終わった後の後任の手配まで、一括して行うよな。」
『ええ、オールインワンでパッケージングされています。壊すのはあなたの仕事。その後立て直すのは、それを得意とする人にやってもらうのが常ですが…。』
「一番大事な情報収集のところを他所にやらせたのか。」
 御雷の冷たい怒りを、男は受け流した。伊達に彼の担当官をしているわけではないのだ。
『やらせたのではなく、持って行かれたんですよ。おそらく―――内偵を行った者が、そのまま監視役として残っているかと。』
 声を潜めるようにして続けた。
『私も迂闊でした。思えば、今回の仕事は最初から、きな臭かったんです。』
 御雷は唸った。
「わざわざ電話をしてくるなんて、珍しいと思ったら。やれやれだね。」
『まったくです。内輪のごたごたでご迷惑をおかけして申し訳ありません。おかげで、改めてお願いしなければならなくなりました。』
 御雷の唇に薄い笑みが浮かぶ。
「ああ。もし、ぼくが尻尾を掴まれて全てが明るみに出そうになったら。」
『死んでください。』
 心得た、と御雷は応えた。そこまでのヘマをすれば、どの道生きて帰ることができない状況に陥っているはずだ。
『よかった。これで、安心して眠れますよ。』
 苦笑しながら電話を切ろうとした御雷に、男が囁いた。
『別ルートで、あなた個人の情報が流出しました。くれぐれも気を付けてください。』
 御雷の頬が、一瞬痙攣する。
「誰だ。」
『さて…ね。米軍ルートのようですが、死人に尋問するわけにもいきませんしね。』
 これは、ボーナスですよ。含み笑いとともに、電話が切られた。
 何がボーナスだ。携帯電話を睨み付ける…が、すぐに溜め息をついた。
 ソファに寝転んで天井を眺める。
 サイモンとは別のルートで、圧力なり懐柔なりが行われている。御雷の根っ子の部分はアメリカにある。恨みを買っているにしろ、追われる理由なら心当たりは腐るほどあった。
 そして、改めて思い出す。
 俺の身体。そして脳。俺の存在自体が機密扱いだった…な。
 人を兵器として運用する実験が今も続いているのだ。
 それにしても。
「なぜ、『今』なんだ?誰がぼくの情報を欲しがるっていうんだろう?」
 考えても答えは出ない。技術漏洩があったとしても、とうの昔に人体を意図的に御雷と同じ状態に改造することは不可能だと、結論が出たはずだ。
 情報を漏らした本人に訊くわけにもいかない。数日前の首都圏の新聞に、小さな記事が出ていることだろう。不幸な交通事故の記事が。
 建の教えを思い出す。
 考えることは大切だ。立ち止まってみるのも大切だ。だが、立ち止まって考え込むのは駄目だ。どうせ前に進むなら、歩きながら考えろ。
「今思うと、割と雑なことを言ってたんだよな、先生も。」
 死者に対する言葉は厳しいが、御雷の貌は穏やかだ。
 誰が俺の邪魔をしようとしているは知らない。ただ、仕事を少しばかり急ぐだけのことだ。
 時計を見る。十一時半になろうとしている。
 御雷は慌てて着替えを済ませると、スープラのキーを掴んで玄関を出た。

      3
 しばらくぶりに会う石上暁子は、やはり童女のような笑顔を見せてくれた。ひとしきり話し込みながら、一緒に食事を摂る。外来者用の昼食を事前に注文してあった。
 高齢者用に、塩分を控えめにしてある―――ということはない。むしろ、味覚の衰えに合わせて、少し濃い味にしてあった。暁子は大分食が細くなってきている。塩分の過剰摂取よりも、食べられないことの方が問題だ。
 だから、施設の医師とも相談して、「とにかく暁子が美味いと感じること」を可能な限り優先してもらっている。
 皺深い顔は、相変わらず気品のある美しさを湛えていた。やや頬がこけた感じがするのが、御雷の胸を刺す。できれば、もっと会いに来てやりたいが…。
 他愛もない話を続けていたとき、ふと暁子が御雷の手を握った。
「兄さん。」
「ん。なんだい。」
 暁子の瞳は明るい色をしていた。もともと、色素が薄いのだ。
「兄さんは、何だか疲れているみたい。顔色が、少し悪い。」
 御雷は手を握り返す。
「心配させてすまないな。ぼくは大丈夫だよ。だから、お前も少し昼寝をするといい。」
 暁子は素直に自室に戻ってベッドに入った。彼女が眠るまで、御雷は見守ることにする。いつもと同じだ。
「あのね…最近よく夢を見るの。」
「ふうん。誰か出てくるのかい?」
「ええ。お父さんと、お母さん、それに兄さん。みんなが一緒に暮らしているの。前に住んでいたあの家に戻っているのよ。」
 そうか、と言って御雷は一瞬目を瞑る。
「父さんと母さんは、元気なのかな。」
「夢の中では、とても元気よ。でも、目を覚ましたら、私には兄さんしかいないの。」
 暁子の両親は、もう何十年も前に他界している。
「ぼくは、お前を置いていなくなったりしないよ。」
 掛け布団を、軽く叩いてやる。一定のリズムが、暁子を眠りに誘う。
「私が兄さんを置いていくかもしれないわ。お父さんとお母さんが、もうすぐ迎えに来てくれるような気がするの。」
 御雷は、辛うじて声を絞り出す。
「だったら、ぼくがちゃんと見送ってやる。ぼくはまだ一緒には行けないからな。」
 暁子が、閉じかけた目を開けた。淡い色の瞳が御雷の美貌を映している。
「約束してくれる?」
「ああ。兄さんは約束を破らない。だから、ぼくが来るまではちゃんと待っているんだぞ。」
 うん、と答えて暁子は目を閉じる。手を握ってやると、すぐに眠りに落ちた。
 風邪を引かぬよう、腕を布団の中に戻してやる。
 そっと部屋を出ると、暁子の担当職員に声を掛けた。
「少し、元気が無いようですね。」
「そうなんです。お食事の量も減っています。特に疾患があるわけではないのですが…何分ご高齢なのと、若い頃に随分ご無理をされているので…。」
 体力の低下が著しい、という。
「まだ七十歳を少し出たばかりだというのに…仕方がないことなんでしょうか。」
 職員は首を横に振った。
「残念ですが、自然に任せるしかないとお医者様も仰っています。ゆっくりと、人生の最期に向かうだろうと。」
 御雷は頷いた。延命治療をする予定はない。
 できることならば。暁子を安らかに逝かせてやってくれ。
 御雷は誰にともなく祈った。

 午後九時。
 例によってコンビニで買ったおにぎりを三つ胃に収めた後、御雷はスープラを峠に向けた。免許も、車検証も、それに合わせたナンバープレートも、全てが「田中吾郎」のものだ。
 土曜の夜の、祭が始まる頃合いだった。
 御雷はドリフト組の車列に並んでスタートを待つ。助手席には濃いグレーのフライトジャケットが伏せられている。左手が、その下で減音器付きのボウランドを握っていた。
 合図に合わせて一台ずつ飛び出していく、新旧の国産スポーツカーのテールランプを眺めながら、御雷はぼんやりと考えている。
 片瀬啓介を、殺す。
 その結論は、四月当初からの奴の様子を見た上で出したものだ。とにかく、「酷薄」を絵に描いたような少年だった。小柄な外見に騙されれば痛い目に遭う。暴力に対する歯止めがない。必要なら刃物を持ち出すことにも躊躇はなかった。
 馬越が騒動を起こす少し前に、生徒指導の青山が背中を刺されたことがあった。原因は、やはり校内での喫煙を咎められたとか、そのような些細なことである。幸いにも、青山が日頃から服の下に入れておいた分厚い電話帳が刃を防いでくれた。おかげで、僅かに飛び出した切っ先が、肌を浅く傷付けただけで済んだ。
 だが。
 片瀬は、あろうことか、そのナイフの柄を蹴り込もうとしたのだ。小柄ではあっても、体重を乗せた蹴りであれば、青山の体内に刃をねじ込むことは可能だ。
 間一髪の所で田中が片瀬を蹴り飛ばしたため、それ以上のことにはならなかったが…。
「片瀬…やっぱりお前は死んだ方がいい。」
 左手で強くボウランドのグリップを握りしめる。ぐるりと全周を囲むチェッカリングが、手の平に食い込む。全鋼製のグリップは、やはり冷たい。
 手に震えが来ないところまで力を緩めると、銃器と自分の境界線が曖昧になるような感覚があった。
 正確には、自分自身が武器になる感覚だ。
 鋼のメカニズムと一体になる瞬間は、御雷が己の生を実感できる数少ない時間だ。
 運転席と助手席のウインドウを全開にする。デフロスターを作動させる。
 スタートの合図を待つ御雷の口元がほころんでいる。
 微かに笑みを浮かべているのだ。
 自分が菊池の調子外れな歌を真似していることに、御雷は気付いていない。
 スタート係がニンジン――誘導灯を振った。
 無造作にアクセルを踏み込む。
 短いスキール音。猛烈に加速する黒い車体。
 最初のコーナーに飛び込む際のドリフトアングルの付け方も、殆どカウンターステアを当てずに右手だけで操作するのも、練習と同じだ。
 毎回、難易度の高い殺しを実行するときに、御雷は思う。
 練習こそが本番だ。繰り返し繰り返し策を練り業を高めることには、緊張と悦びがある。その一方で、実際に殺すときには意外なほどに感慨がない。
 スープラを走らせるのも同じ事だ。御雷は走行ラインを紅い線としてイメージしている。練習通り、そのラインに車を乗せて走らせるだけのことだ。
 出鱈目な歌を口ずさみながら、御雷は次々とコーナーをクリアしていく。スープラのテールは大きく左右に振り出され、激しいタイヤスモークと派手なスキール音が一際ギャラリーの注目を集めた。
 長い上り坂。大きく踏み込んだアクセルの開度も、いつもの通りだ。
 ボウランドを取り出して、構えた。スーパータイジャーの光点が明るい。ダットサイトの筒の中で乱反射を起こさないギリギリの所まで輝度を上げてあるのだ。
 一台で走るのなら、光量を絞ってシャープな光点で狙う。だが、複数の車が走ればテールランプの明かりもある。ときには対向車が来ることも。
 光量の変化に対応するためには、たとえ逆光であってもダットを見失うことがあってはならない。
 これも、練習で学んだことだ。
 このコースの最高速を記録した直後、フルブレーキングしながら右の直角コーナーに飛び込む。理想的なドリフトアングルで飛び出すと、そのまま四輪を流しっぱなしでS字コーナーに入る。
 そこに、いるんだろう?片瀬。
 一瞬、ヘッドライトの明かりに浮かんだ奴の横顔を目に焼き付ける。
 今、行ってやる。
 大きく車体を横に向けたまま、ギャラリーコーナーの前を通過する瞬間。
 ボウランドの銃口が綺麗な軌跡を描いてスイングした。
 御雷はトリガーを三回絞る。
 押し殺したような銃声はバックファイヤの音よりも小さく、弾き出された空薬莢は薬莢受けで回収される。
 ガンスモークは乾燥したフロントガラスを殆ど汚すことはなかった。全開にした窓からすぐに流れ去る。
 セフティを掛けてボウランドをジャケットの下に戻す。
 両手でステアリングを握り、さらに加速する。
 峠の頂点で、コーナーの路面が大きくうねっている。グリップ走行で進入し、路面のうねりで四輪の荷重バランスが崩れるのを利用してテールを派手に振り出した。端から見れば破綻寸前の走りなのだが、御雷にとっては予定通りだ。
 まだタイヤのグリップは、車体をコントロール下に置くことを可能にする程度には残っている。
 道は下りに変わった。だらだらと下りながら曲がっていく先に、九十度の右コーナーがあり、さらに左のヘアピンカーブへと続く。路肩がないためギャラリーはいないが、最も難易度が高い区間だ。重いスープラにとっては苦手な区間でもある。
 御雷は躊躇無くアクセルを踏む。今の彼にとって速く走ることは、いち早く犯行現場を離れることを意味する。
 直角コーナーの進入では最初から車体を横向きにし、四輪の抵抗を利用しながら曲がれる速度まで減速する。四本のタイヤが一際激しく煙を上げる。
 グリップを回復させないまま、高低差のあるヘアピンカーブに突入した。振り戻しを利用して一瞬で車体の向きを変える。クリッピングポイントでは、長いフロントノーズがガードレールに擦りつけられそうな程に接近した。
 御雷は終始、小さな声で歌を口ずさみ続けている。その瞳に、夢見るような不思議な色が浮かんでいた。
 峠の出口で一時停止の標識を守り、広域農道に合流する。制限速度を守って走り去った。
 かくして、狙撃者は誰にも見とがめられることなく犯行現場を後にすることに成功したのであった。

 片瀬は、自分に何が起きたのか、最期まで知ることはなかった。
 もし、彼が気まぐれを起こして、昼間峠を訪れていたなら。
 彼は発見したはずだ。
 自分の定位置の背後に据え付けられた、丸い鉄板製のターゲットを。そして、そのターゲットに無数の凹みが穿たれていることを。ターゲットが取り付けられている樹の幹には、外れた弾が、これも無数の弾痕を残していた。
 それが意味するところを理解できれば、片瀬は峠でドリフト見物などしなかったに違いない。馬越の見舞にでも行ってやればよかったのだ。
 だが、そうするにはあまりにも片瀬は酷薄すぎた。だから、御雷の読み通りに行動し―――死んだ。
 片瀬はお気に入りの場所で、樹にもたれて座っていた。両眼は開いたまま、瞬き一つしない。
 眉間に開いた穴は、三連射の二発目が穿ったものだ。
 頭上に据えられた丸い鉄板に、後頭部の射出口から吐き出された脳髄と大量の血液が撒き散らされていた。
 ほんのしばらく前に御雷が白いペンキを塗ったターゲットが、今は赤く染まっている。
 赤いターゲットに呼ばれたように、空で赤い月が不吉な光を投げていた。禍々しい赤い光の中、座り込んだ片瀬の身体から、温かい液体の海が静かに広がっていく。
 ゴムの灼ける匂いや違法改造車の排気ガスの匂いを圧倒するように、血の匂いが辺りに立ちこめ始めていた。

      4
 片瀬の死体が発見されたのは、日曜も日が高くなった頃だった。
 一人で特等席を独占していることが災いし、闇の中で彼の命が失われたことに誰も気付かなかったのだ。
 ただでさえ交通量の少ない旧道である。家族連れは通らず、休日で通勤に使う者も今日だけは通らない。
 発見したのは県外から大型バイクを連ねてやってきたツーリングの一団であった。
 通報を受けて飛んで来た今原署の署員は、異様な光景に息を呑んだ。
 単なる射殺体である。額にただ一発銃弾を受けているだけの死体は、むしろ綺麗な部類に入る。
 腹を撃たれたり、刃物で切り裂かれたり、あるいは可燃性の液体を掛けられた上で焼き殺されたり。時間が経てば、小動物に食い荒らされたり虫が集ったりする。水中に遺棄されれば、時間をおいて酷い姿で浮かび上がることもある。
 損傷の激しい死体は、嫌でも死というものを意識せざるを得ないだけの凄惨さをもっているものだ。
 片瀬の場合、それは無かった。光を失った瞳は生前の凶眼ではなくなっている。むしろ自分の死を実感できていないきょとんとした表情が、愛らしくさえある。
 小柄であどけない少年の、射殺体。
 御雷なら平然と言ってのけるだろう。「害が無くなれば、片瀬だって可愛いものだ」と。
 捜査員を慄然とさせたのは、死体がもたれかかった樹に穿たれた無数の弾痕であった。その数が、そして頭の高さに来るように設置された練習用のターゲットが、殺人者の周到な計画と異様なまでの準備の緻密さを示している。
 普通であれば、こんな難しい状況下では撃たない。峠を走っている連中から情報が集められた。当日の状況を総合してみると、走行中の車の中から撃ったとしか思えない。
 助手席から撃ったとしても、難しいことに変わりはない。だが、スタート係の記憶によれば当日の参加者は一人が多かったというし、少なくとも助手席から銃器を突き出して走る車が目撃されてはいない。
 一応、助手席に人を乗せていた者を中心に捜査してみるが、もとよりお互いに知り合いというわけではないため、雲を掴むような話に終始する。
 周辺のNシステムの情報も解析されたが、決定打は出ない。
 片瀬自身を洗うと、色々と不審なものが出てきた。
 乗ってきたスクーターは盗難車であった。ポケットの中のナイフと、煙草は予想通りだった。が、体内から麻薬を使用している痕跡が得られたことは大きかった。以前から、不良少年グループの一員として、触法行為に関しては警察のブラックリストに載っている。実は、小学生のときから。
 仲間の中には暴力団との付き合いが噂される者もいるが、麻薬が出てきたことである程度裏付けられたことになる。
 強引に物語を作るとするならば。
 敵対組織に関係する者―――そいつも多分中高生ぐらいだろう―――が、何らかの理由で片瀬を殺した。要するに、暴力団同士の抗争の代理戦争のようなことが、下部組織である不良少年たちの間で行われているのではないか。
 実際の所、その説を唱えている捜査員ですら、自説を微塵も信じてはいない。マスコミ発表用に、それなりに面白いストーリーを用意しているだけのことだ。
 これは、プロの仕事だ。練習に使った弾の数を見ただけで、自在に弾薬の補充が可能であることがわかる。ケチなチンピラの所業ではない。
 この事件の根は、深い。
 案の定、上から深追いするなという指示が下りてくる。
 捜査員たちにはわかっている。このような指示が出たときの展開が。
 これから、たくさん死ぬ。そして、それは地方の所轄がどうにかできるようなものではないのだ。
 生徒が射殺されたということは稲見中にも伝えられる。生徒指導に警察から連絡が入り、管理職や担任に情報が伝わる。捜査中であるため、細かい情報は伏せられている。
 校長は全職員に非常招集を掛けた。昼飯を食おうとしていたときに呼び出しを受けた者も多い。
 稲見中の職員室には御雷の姿もあった。うんざりした表情と欠伸を噛み殺し、神妙な表情を保っている。
 尾内校長が、現時点で判明していることを伝達する。銃撃による殺害、という話が出ると職員室はざわめいた。
 隣の席の菊池を見ると、顔色が悪い。血の気の引いた唇を噛み締めていた。
 銃撃による死。
 彼女にとっては思い出したくもない記憶に繋がっているものだ。
 校長が話をまとめにかかる。
「――というわけで、詳細についてはまだわかりません。ですが、マスコミにとっては格好のターゲットであることも確かです。マスコミだけではなく、保護者からもみなさんに何らかのアプローチがあるかもしれません。その際に、決して憶測でものを言わないでください。外部への対応は全て教頭先生に回してください。生徒への説明はきちんと集会を開いて行います。時期は―――新聞に載るのとタイミングを合わせた方がいいと考えています。」
 片瀬の死体はまだ警察にある。通夜もできないのだが、管理職と担任が弔意を伝えに行くのだという。それ以外の教員については、ひとまず解散ということになった。何しろ、日曜日なのである。生徒一人が死んだことは大事件ではあるが、教師にも自分の家庭というものがある。
 あっさりと引き上げていく…のだが、皆無口だった。無意識のうちに事件のことを口にしないよう、言動に制限を掛けているのだ。
 御雷は、虚ろな目で座っている菊池には、敢えて声を掛けなかった。急ぐともなく、何気ない様子で職員室を後にする。
 その背に、田中が暗い視線を注ぐ。
 こいつ…とうとう、本気を出し始めた。これで、三人。いや、馬越も入れれば三人半というところか。
 何人、殺すつもりなのか。
 胸の中の呟きとは別の言葉が口から出た。
「菊池ィ、こういうときは飯だ。せっかく外に出たんだから、昼ご飯を食べて帰ろう。今日は私がおごるからさ。」
「じゃあ私はお寿司がいい。」
 田中はじろりと守矢を睨む。
「なんで洋子がおごられる気満々なのよ。」
 んー、と声を出しながら守矢は天井を眺めた。やがて、満面の笑みを浮かべて親友に人差し指を立てて見せた。
「私の、快気祝い。」
 化粧で隠してはいるが、まだ痣が残っている。髪型で誤魔化すこともできるだろうに、長い髪を後でまとめている。敢えて、顔をきっちりと出すあたりが、田中と馬が合う所以だ。新調した眼鏡が、細面の顔によく似合っている。
 田中はまじまじと守矢の顔を見つめた。
「洋子、あんたって、よく見ると美人だね。」
 思わぬ言葉に、毒舌家に似合わず赤面する。
「何よ。藪から棒に。」
 田中はにやりと笑った。
「別に。高校時代からあんたの隠れファンが結構いた理由がわかっただけの話。黙って澄ましていれば、確かに綺麗な文系知的女子に見えるわね。」
「数学科の教師に向かって『文系女子みたい』って…褒めてないわね。というか、私の隠れファンって何よ?そんな奴誰も私の前には現れなかったわよ。」
 田中は説明してやる。
「だから…隠れているうちに、あんたの実態―――毒舌に恐れをなして姿を消しちゃうのよね。もし、あんたが毒舌を封印していたら、彼氏どころか、今ごろは結婚して子供の一人くらいいたんじゃない?」
 失ったものの大きさが実感として降ってきて、守矢は思わず頭を抱える。
「青い鳥か!憧れの結婚生活が、実はすぐそこにあったなんて…。」
「鳥かごを開けて逃がしちゃったのは洋子自身だけどね。」
 本気で落ち込む姿に、少し可哀想になってきた。
「わかった。今日は二人ともおごってやろう。」
 尊大にいってから、器用に片目を瞑って笑う。
「ただし、回る寿司だぞ。」
 ようやく、菊池が笑顔を見せた。

 スバルを駆って、御雷は坂道を下る。
 稲見中を背に、幹線道路まで細い道を下るのだ。
 小さく欠伸した。
 狙撃が上手くいったことを知って、安堵した。手応えはあったと感じたが、実際に片瀬の死体を確認したわけではない。
 時々、ルームミラーに視線を走らせる。
 尾行は付いていない。
 これから、学校関係者に警察が張り付くようなこともあるだろう。そこは何とかしなければならない…のだが、御雷の仕事には常について回る問題ではあった。
 必要であれば警察関係者であろうと始末するまでだ。―――もし血路を開けなかったら、自分が死ぬだけのことだ。
「その時は、K2に詫びながら死なねばならない…か。」
 声に出してみて、今更のように実感する。
「約束なんてするもんじゃないな。」
 K2に会って話をする約束。彼女に名前の漢字を贈る約束。
 石上暁子の死を見届ける約束。
 菊池由美を守る約束。
 そういえば、田中に礼をするという約束はまだ果たされていない。
 英語の学びを保証する約束は、生徒自身によって実現しつつある。彼がいなくなってもやっていけるように、教材も準備してある。
 御雷は、自分自身のことを特別律儀な人間だとは思っていない。
 ただ、一度交わした約束は、必ず守らねばならない。少なくとも、守るために全力を尽くさねばならない。そう考えている。
 とはいえ、何事にも優先順位というものがある。
 彼が最も優先すべきは、稲見中の荒れの原因を綺麗に取り除くことであった。
 それができなければ、己の存在意義など無いに等しい。
 血を流す武器に、己を変える。それが、生きた証。
 御雷は、そういう男であった。

      5
 教員として借りている住宅に戻ると、スバルをガレージに仕舞った。
 建物の出入り口に目立たぬように貼ってあった細いマスキングテープも切れてはいない。古典的なやり方だが、御雷が極細のペンでサインし、封印として機能するよう仕掛けておいたのだ。
 もし招かれざる客が注意深い人間であったなら、封印を発見して侵入を諦めるであろう。
 しかし、それは同時に御雷が侵入者を意識していることを知らせることにもなる。何か隠し事をしているのではないか、と勘ぐられることにも繋がりかねない。
 諸刃の剣、である。気付かぬ振りをしている方が、先手を取りやすくはあるが、向こうから引き下がってくれればそれに越したことはないとも考えている。
 ベレッタは仕事用のビジネスバッグに移している。
 ひんやりとした室内に入り、念のため各部屋を見て回る。盗聴電波も調べてみたが、反応はない。
 休日の非常招集であったから、御雷はジャージ姿だ。ごろりと横になる。本当なら、太った体格の擬態を解いて、本来の姿でリラックスしたいところだ。そうするなら、この大きいサイズの服は邪魔になる。
 だが、と御雷は薄暗い天井を睨む。
 尾行は警察だけとは限らない。
 文部省内の勢力争い―――学校関係者にはこの家の所在は知られている。監視者が誰であれ、見張られていると考えておいた方がいい。
 そして、米軍ルートからの情報漏洩。
 得体が知れない分、こちらの方が気持ちが悪かった。ただ、その情報がどこに流れるのかと考えたとき。いくつかのシミュレーションを行い、直ちに問題になるのは河津組の関係者に知られることであろう、と思う。
 何といっても、河津組は御雷によって存亡の危機に陥りかねないほどのダメージを負わされている。御雷に余裕があったのは、彼自身が暴力団との接点を持っていなかった―――河津組には存在すら知られていなかったからである。御雷の一方的な都合で襲撃を掛けられた河津組が不幸だったというしかない。
 御雷の存在が、襲撃犯として認知されれば立場は逆転する。仮にも準公務員である。勤務先も住居も、丸裸にされると思って間違いない。
「最悪の場合、河津組そのものを潰してしまうことも必要かな。…西本共々。」
 言葉にして考えを整理するのが習慣になっている。
 御雷は自分の唇が笑みを浮かべていることに気付き、少しだけ呆れた。
 文部省の担当官は「死ね」と言った。それは受け入れたが、その場合には盛大な花火を打ち上げて少しばかり慌ててもらおう。
 火消しと後始末は役人の仕事だ。
 身動きが取れなくなる前に、同時進行で準備をしておく必要がある。
 決断してからの行動は早い。
 ジャンプスーツとフライトジャケットという、お決まりの格好に着替えると、ヤマハを引っ張り出した。威力の大きなボウランドは石上邸にある。ベレッタだけが頼りなのは、この際仕方がない。
 目視で索敵する。のみならず、五感の全てを限界領域に押し上げて周辺を探る。完全とはいえないが、差し当たって危険な存在は察知できない。
 御雷はバイクを出した。
 走り始めて五分ほどで、尾行の存在に気付いた。
 地味な国産小型車だ。目線だけでミラーを確認すると、小さな車に不釣り合いな人相の悪い男が二人。
 河津組の方か、とも思うが人相の悪さなら刑事たちも負けてはいない。ただ、捜査車両によく使われる車種ではないことが、警察である可能性を低いと判断させた。
 人気の無い場所に誘い込んで始末するのは簡単だ。何なら、今すぐ、走行中に後ろ手で撃ってやってもいい。
 問題は、その行為が相手の警戒心を高めるだろうということだった。尾行者が河津組関係者だと仮定するならば、もし御雷が襲撃犯だという確信があれば尾行などというまどろっこしい方法は取らないはずだ。
 こういう場合は、あくまで気付かぬ振りをするのがよい、と判断した。
 御雷は西本に映像を撮られたことも、それを沢田らが見たことも知らなかった。が、玄はともかく他の連中が、丸っこい見た目の一講師に組事務所襲撃などという大それたことができるとは信じていないのも事実である。たとえ、個人としての体術がいかに優れていようと、できることとできないことがあるはずだ。
 ヤクザといえども常識には縛られる。
 だからこそ、尾行し、観察し、玄の言葉の裏付けを取ろうとする。その、沢田の指示を、玄は止めなかった。「餌に傷を付けなければ、別に問題はない」ということであった。
 御雷はコンビニに入った。弁当と茶をのんびりと選ぶ。缶コーヒーもだ。
 ヤマハの荷台に取り付けたコンテナ状のボックスに入れると、再び走り出す。
 尾行車は付いてきている。
 特に飛ばすでもなく、すいすいと軽快に走る。山手に近付いてきたところで公園に寄った。
 御雷はのんきな表情を浮かべてベンチに腰掛ける。買ってきた弁当を広げ、野鳥のさえずりを楽しみながら食事を摂る。コーヒーを飲み干すと、几帳面にゴミを分別してゴミ箱に放り込む。
 休日に林道ツーリングを楽しむ、という体裁で尾行者を連れ回しているのだ。一度も振り返ったり存在に気付いた素振りは見せない。
 昼食後、公園脇の道から山に入った。この道は狭いが普通乗用車なら何とか通り抜けることができるだけの道幅がある。ただし、離合スペースは皆無だ。
 さらに。奥の方で路面が大きくえぐれ、乗用車では通過できない場所がある。
 ヘルメットの下で、御雷は意地悪い笑みを浮かべている。体型が福々しいだけに違和感があった。この姿は善良な教師を演じるための仮面だ。
 未舗装の細い道を、御雷は結構なスピードで走った。逃げ切ろうとする走りではない。相手には気付かない振りを続けている。つまりは、追ってこられるスピードしか出していない。コーナーでは派手に土埃を巻き上げ、後輪をスライドさせながら曲がる。
 尾行者の運転技術はまずまずだった。スリッピーな路面をものともせず、一定の距離を空けて追ってくる。時々、前輪駆動車特有のタックイン現象を生かして車体の向きを変えているのを、ミラーの隅で捉えている。それでいて、無駄な土煙を上げないように気を遣っているのも伝わってくる。
 なかなか、いい腕だ。でも、物理限界は超えられないぜ。
 十キロばかり走ったところで御雷はスピードを上げた。追跡車も間隔を一定に保つために加速する。
 と、追跡車のフロントガラスの視界の中で、御雷がシートから腰を浮かすのが見えた。
 激しく暴れる車体を巧みに押さえ込んだと見えるや、大きく空中に飛び出した。一際大きな地面のこぶに跳ね上げられたのである。
 それも計算ずくなのか、着地とともに何事もなかったように走り出す。相変わらずのツーリングペースだ。
 追跡車の方はそういうわけにはいかなかった。路面は、荒れているなどという生易しいものではなかった。豪雨によって土石流が洗った跡、である。古い土石流の傷跡が、整備されないままに残されているのだ。
 何しろ、今原市には金がない。
 激しく車体を揺さぶられ、車体の底を擦り、挙げ句に大きな石に乗り上げて止まった。運転手が下りて確認してみると、エンジン下部のオイルパンが割れて、大量のエンジンオイルが流れ出していた。
 憎々しげに睨む視野の中を、御雷の後ろ姿が悠々と走り去っていく。
 いっそ、後から撃ってやろうか。助手席の相方が言ったが、止めた。そんなことをすれば玄に殺されるのは自分たちだ。
 助けを呼ぼうと携帯他電話を出して、目が点になる。「圏外」の表示が出ていた。
 御雷は声を出して嗤っていた。この道には、今原市内でも数少ない、携帯電波の空白地帯があるのだ。無論、こんなときのために用意したいくつかの逃走ルートの一つである。
 少々遠回りしたが、石上邸に辿り着く。
 体型を変え、服装を変えた。軽トレッキングにでも行くような服装だが、バックパックが大きい。
 少し危険はあったが、時間が惜しい。公共機関を使わずにスープラをガレージから出す。今日は石上剣名義の車両ということになっている。
 いつもの通勤路とは別ルートで稲見中学校に戻る。
 以前、麻薬の買い付けを終えた馬越を追跡し、学校に先回りするために通ったルートである。
 御雷は県道を外れて山手の脇道へ入る。舗装が古く、傷んでいる。スープラには少々狭く感じられる。稲見中の上手――山側に出るため、だらだらとした上り坂が延々と続く。運転はしにくいが、距離的には近道なのである。
 住宅地を抜け、溜め池の脇を通り、短い切り通しを抜ければ、もう学校だ。
 御雷は、溜め池の手前で左折した。稲見中の裏山の頂上には展望台があり、その手前は駐車場になっている。そこへ、向かう。
 日曜の午後である。、山歩きや犬の散歩をしている近隣の住民とは出会わなかった。市外からハイキングを楽しむ連中にも会わない。彼らは朝方に登ってしまう。
 ちょうど、空白の時間帯を狙って、ここへ来たのだ。
 駐車場にスープラを突っ込むと、大きなバッグを背負って、御雷は来た道を下っていく。足取りは軽い。
 本気で膂力を振るわなければ、体温の上昇もそれほど気にしなくて済む。それでも時々冷たい水を口に含む。
 車道を離れ、遊歩道に入る。しばらく歩いてから、遊歩道からも逸れる。腰まである藪をかき分け、御雷は斜面を下っていく。この辺りはマダニの被害が多いから、服の中に侵入されないようにした上で、殺虫剤を振りかけてある。
 地形図は頭の中に入っているが、そんなものが無くとも方向を間違えることはなかった。
 御雷が真っ直ぐに進んでいる先に、稲見中学校の白い校舎の先端が見えている。通称「離れ小島」の最上階が見えているのだ。
 藪が、切れた。斜面に開けた小さな空き地に出たのである。稲見中に向かって張り出した小さな尾根のてっぺんが剥げたように植物がない状態になっていた。
 腰を下ろして校舎を眺めてみると、上手い具合に離れ小島の一階―――ワル共の溜まり場にある嵌め殺しの窓を通して中を見ることができた。
 決して偶然ではない。赴任前からこの辺りを歩き回り、条件に合う場所を見付けておいたのである。
 レーザーレンジファインダーで計測すると、窓までで約五十メートル。近いが、高低差があるので道からも、校舎内からも見つかる可能性はほぼ無い。
 ここを、狙撃ポイントに決定する。
 御雷がバッグから取り出したのは、ダットサイトが載ったルガー10/22である。二十年経っても、やはりこの銃を使うのであった。二十五発入りのマガジンも用意してある。ストックと機関部に分解してあったそれを、手早く組み立てる。
 次いでバッグから取り出したのは、金属製のアタッシュケースのような物体であった。艶消しの灰色に塗られている。取っ手が付いているそれは、航空機内に持ち込み可能な程のサイズである。御雷は軽々と扱っているが、実に二十キロ近い重量がある。無造作に地面に置いた。
 最後に取り出したのは、まだ珍しいタブレット型コンピュータだ。この時代には無線でインターネットに接続する技術が確立されていないため、「端末」という名称は馴染まない。当然ながら無線LAN機能など搭載されてはいない。
 そこで。
 御雷はタブレットの端子にケーブルを繋ぐ。本来は、ごく短い距離で液晶プロジェクター等にデータを飛ばすための発信装置を繋ぐ端子である。例えば、室内におけるプレゼンテーションなどに使用する際に役に立つ。発言者は自由に歩き回りながらプレゼンを行うことができる。
 もともとはビジネスの現場で活用されている技術ではある。電波自体は室内での使用を想定しているため、極弱いものだ。
 しかし。御雷が送信機として繋いだのは、裏の仕事で使うための携帯電話端末であった。衛星経由でアメリカとの会話を行うことができるそれを、御雷はコンテナハッチの開閉リモコンとしても活用している。
 要するに、携帯電話の通話電波を使えば、より遠くまで情報を伝達することができるということだ。
 初めに、電話でK2を呼び出す。電話機をポケットに落とし込む。
「今から、起動する。通話を維持したまま、命令の伝達ができるかい。」
『ええ。特に難しくはありません。一回線を仮想的に二回線として扱うことにします。』
 御雷は耳に挿したイヤフォンでK2の声を聞いている。両手をフリーにするためだ。彼の声はポケットの中の携帯電話がきちんと拾ってくれる。外見こそ市販品のようだが、一つ一つの部品の品質がとてつもなく高いのだ。といっても、分解した程度では見分けが付かないように偽装してある。専門家が部品単位で比較実験を行わなければ、容易には露見するまい。
 御雷はタブレットの電源を入れる。起動に掛かる時間は、それほど長くない。ホーム画面には、授業で生徒に見せてやる予定の動画がいくつか貼り付けてある。それらに混じって、目立たないアイコンが、一つ。
 タップすると、小さなウインドウが開いた。味気ない数字や言葉が並んでいる。それが機材の状態を示していることを御雷は知っている。
 電源…待機状態。機体状態…収納モード。火器管制システム…停止。登載火器…無し。予備弾薬…無し。
 「起動」を示すアイコンにタッチする。電源が「待機」から「稼動」に表示が変わる。機体状態が「収納モード」から「展開」に変わる。
 御雷はトランクから二メートルほど離れた。
 微かな振動音がして、トランクが開いた。蓋が開いたのではない。トランク全体に切れ目が入り、無数の細切れのような細く長い足を持った姿に変じたのである。例えるならば、金属でできたゲジゲジのような姿だ。
 中央の胴体の部分に異様なものが立ち上がっていた。双眼のテレビカメラである。フレキシブルアームの先に取り付けられたボックスに、丸い二つのレンズが光る様は、顔のように見えなくもない。
 胴体の前半分には、さらに異様なものがあった。銀灰色の三本の腕―――色を除けば人間の腕が生えている。右腕が一本、左腕が二本。トランク内に収納するために、ミイラ化した死体のように細く作られている。
『システムチェック完了。人工筋肉に動作命令を伝達します。』
 人工の腕が、ぴくりと動いた。わさわさと指を動かし、各関節の動きを確認する一連の動作を行う。
 タブレットの画面に「銃器装備」の指示が出ている。御雷はマガジンを抜き、チェンバーを空にしたルガー10/22を右手に持たせてやった。左手の一本が自然な動きでストックに手を添え、右肩でバットプレートを受けた。フレキシブルアームが勝手に動き、右眼――カメラのレンズをダットサイトに当てる。左眼は素通しで景色を映している。
 ライフルのゼロインは済ませてある。弾薬の諸元も入力済みだ。
 御雷は画面を切り替えて、狙撃モードにしてみる。
 ウインドウの中に、稲見中学校の校舎が映っている。離れ小島の最下層、嵌め殺しの窓を通して室内を見ることができる。
 毒々しいピンク色のマーカーが画面上に浮かんでいる。小さな十字のマークが狙点を示している。右眼から得られたダットサイトの照準情報を、左眼の映像に映し込んでいるわけだ。
 最初はダットサイトを覗くためのカメラ一台で照準システムが作られていた。だが、それだと電子的に倍率を上げたときにダットまで拡大されてしまい、使い物にならなかったのだ。
 改良を加えながら、これまでのいくつかの仕事でも使ってきた。体術と銃器という、原始的な道具で闘う御雷にとって、裏の仕事に用いる数少ないハイテク装備である。
 狙撃支援ロボットとでもいえばいいのか。遠隔操作で銃撃を行い、仕事が済めば回収場所まで自律的に移動する。現場を離脱する際に、使用した銃器を捨てて、ロボットだけが脱出するのが成功の秘訣であった。
 銃器を発見されるより、ロボットの存在を知られる方が遥かにまずい。
 最初は、小型のロボットを得意とするサイモンに依頼した。それなりの水準ものはできたが、耐候性や稼動時間、さらにはよりきめ細やかな狙撃や自動マグチェンジ等の要求に応えることができなかった。
 そこで、サイモンは駄目出しを受けたプロトタイプを研究施設に送り、K2に改善を依頼した。彼女が出した結論はひどくシンプルなものだった。
 駆動系にはK2由来の人工筋肉を使用する。自家発電可能なそれを使うことで、バッテリーの問題は解決する。モーターやギアを使うわけではないからゴミ等で故障することもない。狙撃に使う腕の動きは滑らかになり、反動の処理も向上した。
 改良ついでに、K2が直接リモートコントロールすることもできる仕様にしてあるが、御雷はこれまでそれを依頼したことはない。
 御雷は画面上のマーカーに人差し指を当て、あちらこちらに動かしてみる。同期して銃口が向きを変える。
 「動作確認」を選び「ドライファイヤ」を試してみる。マガジンは挿入せず、機械の腕がボルトハンドルを操作した。チェンバーは空だ。
 再びマーカーを動かして、室内の一点を狙ってみる。よく、ワル共が寝転がっている辺りだ。日曜なので人影はない。画面をスワイプして拡大する。スコープの倍率を上げるのと機能的にはよく似ている。一旦マーカーから指を離し、軽く二回タップした。
 ぱちん。
 ルガー10/22の撃針が空を打った。
『よそさうですね。』
「そのようだ。あとは、当日か。狙撃が終わったら、こいつの誘導を頼むよ。」
 本来なら、自律的に回収場所まで移動できるのも、狙撃支援ロボットの大きな特長である。しかし、ここでは自立航行機能が上手く働かないことがあった。GPSを活用しても、予定外の所に現れたりする。何度かテストした結果、K2に回収だけ手伝ってもらうことにしたわけだ。
『お安い御用ですが…風に対する着弾補正もお手伝いできますよ。』
 御雷は呆れたように笑った。
「お前らしくもないな。いくらお前が優秀で、衛星回線を使ったとしても、アメリカからだとタイムラグでどうしようもないだろう?」
『では、私に少しチャンスをください』
 御雷は付き合ってやることにした。
 もう一度、ドライファイヤ―――空撃ちモードで試してみる。
 狙点を定める。画面の隅にガラスに貼り付けられた毛糸がなびいているのが見える。風速を計るために御雷が貼ったものだ。わずか五十メートルの距離であっても、軽い二十二ロングライフル弾は横風の影響を無視することができない。
『右から、四メートルの風』
 K2の声と狙点が僅かに右――風上に向かって移動するのは同時であった。その後、風向きや風力の変化があったが、K2の補正が遅れることは一切なかった。
 さすがの御雷も唖然とする。
 なぜ?と問う御雷に、K2はどう説明したらいいか迷っているようであった。
 うーん…と考え込んでいたが、細かく説明するのは諦めたようだ。
『実は、私と【この子】は、通信用の電波を使って情報のやり取りをしているわけではないんです。覚えていますか?私の頭脳がまだ別体のスーパーコンピュータだった頃のことを。たとえ電気的な繋がりがなくとも各筋肉間で情報を共有して最適化が進むのを止められなくて困ったことがあったでしょう?」
 覚えている。K2と道場で本気で試合って、死にそうになったときのことだ。
『私は、自分自身のことも研究しています。私とはどんな存在なのか。何ができて何ができないのか。どんなポテンシャルが眠っているのか。そうした中でわかったんです。』
 K2が息を継いだ。普通に声帯を使って声を出すには呼気が必要だ。
『これは、一種の量子通信です。』
 御雷には小耳に挟んだ程度の知識しかない。
「あの、SFとかに出てくるやつかい?距離に関係なく、時間差もないっていう。」
 K2が小さく笑う。
『正確には違うものですが、人類の思考フレームにその概念を落とし込むのが難しくて…。結果としてそのような効能が得られるとだけ、ご理解いただければ十分です。』
 ふうん、便利なものだな。感心したものの、疑問もあった。
「電子的に介入できるなら、どの機械に対しても可能なのか?」
 否、とK2は答える。
『このロボットには私由来の微細構造―――言うなれば、私の細胞を培養したものが組み込まれています。自分に由来するものとの間に、私は【量子リンク】とでもいうものを構築することができるのです。』
「自分の細片の動きや所在を知ったり、操ったりできるってことかい?」
 K2が首を捻る気配があった。
『それは、微細構造の量にもよります。それから、たとえ量自体は大したことがなくとも、私自身が強く命じて指向性を持たせた微細構造は強い力を持つようになります。』
 御雷には今ひとつピンと来ない。が、今は彼女の能力を頼もしいと感じた。
「それじゃあ、準備を頼むよ。」
 余っている左手にマガジンを渡してやると、器用に銃に装着した。二本の予備マガジンは指の間に挟んで待機状態を作る。右手がボルトを操作して初弾をチェンバーに送り込んだ。セフティを掛ける。
「一つ、約束だ。トリガーを引く命令は、ぼくが出す。お前は狙点の調整だけ手伝ってくれ。」
『わかっています。私は手を汚すなというんでしょう?』
「ま、これだけ頼っておいて、言えたことじゃないんだけどね。」
 苦笑しながら、狙撃システムの上から防水布を被せた。目隠しになる。
 タブレットのみを収めたバックパックは軽い。
 御雷は飛ぶように斜面を登り、他の人間に出会わぬよう注意を払いながらスープラに戻る。
 車に妙な細工はされていなかった。
 本当は石上邸でゆっくりと眠りたい。だが、長時間自宅を空けているのも不自然だ。
 仕方なく、バイクで平屋に戻った。
 敷きっぱなしの布団に寝転ぶと、耳元でK2の声がした。イヤフォンは挿しっぱなしにしている。
『一つ言い忘れていることがありました。この電話にも、実は私の微細構造を小型のチップに偽装して使っています。』
「ああ、だからお前の声と狙撃アシスタントの動きにタイムラグがなかったのか。納得した。」
 つまり、今まで衛星回線で話していると思っていたものが、いつのまにか量子通信による直接通話に変わっているというわけだ。
『もしかして、怒ってます?』
 御雷の声に切れがなくなってくる。
「いや、電話代がかからなくて助かるよ。でも、今は少し眠りたい。…もしかして、腕時計にもお前に直通のセンサーを仕込んでいるのか?」
 K2はあっさりと認めた。彼の体調をモニターし、必要な支援をサイモンに要請するのは自分の役目だと自認しているのだ。
「大した世話女房ぶりだな。隙がない。」
 御雷の笑いは本物だ。もう、半分眠り掛けている。
 思いがけず、K2の反応は真剣だった。
『眠る前に、聞いてください。やっぱり…ご報告することにします。』
 これほどに口惜しげな彼女の声を聞いたことがない。そのことが、御雷を眠りの淵から引き戻す。
『隙がないなんて、とんでもない。実は…中央演算装置から、あなたに関するデータが外部にコピーされた痕跡を発見したんです。』
 研究施設時代に取られた各種データだけではない。激しい損傷を受けた身体を奇跡のように甦らせた、K2の術式。新たな機能制限と姿を変える能力。
 そういった諸々の情報を抜き取られたという。
『あんまり腹が立ったので、盗んだ相手方の電脳を焼き潰しました。』
「可愛い顔をして、怖いことをするね。相手はわかったのかい。」
『いいえ。とにかく盗んだ相手の形跡を辿って、とっておきのデータ爆弾を送りつけてやりました。あなたの情報を盗むなんて、私は許さない。』
「で、どうなった?」
『西部の陸軍基地が、三ヵ月機能を停止したそうです。』
 可愛らしい声で愉快そうに笑うのが、怖い。
 軍が身内にハッキングを仕掛けるとは穏やかではない。
 K2が声を改めた。
『この状況では、戦略的なシミュレーションはあまり意味を持たないかもしれません。ですので、私は自分の直感に従って行動することにします。近々お届けする荷物の中に、一応備えとなるものを入れておきます。』
 これからは、私と話したいときはダイヤルなしで直接呼びかけてください。
 それだけ言うと、K2は沈黙した。
 身体は眠っているのに、思考だけが冴えているような状態になる。
 もはや、間違いはない。御雷に用のある者が、この日本にいる。アメリカのデータに加え、文部省から日本におけるデータを引き出していることからも明らかだ。
「ハンターのつもりで乗り込んでみたら、ぼく自身が獲物だったとか…勘弁してほしいね。本当に。」
 呟きに、悲壮感はない。
 目を閉じた。状況がどうあれ、必要であれば十分な睡眠を取る。
 それが御雷という男だ。

      6
 月曜日。
 まだ傷の癒えぬ馬越は自宅で療養している。応急的に傷を塞いではあるが、ここから先は整形外科の守備範囲だ。最低でも数度の手術を受けねばならない。特に、右の拳に関しては他人を殴ることはおろか、柔道選手としてやっていくことも絶望的だと言われている。
 稲見中学校は、いたって平和であった。
 片瀬が死んだことはまだ伏せられている。警察からも正式に発表があったわけではない。
 彼が死んだことを知っている生徒は、西本と石川賢治。そして、南方猛。この三人に片瀬を加えれば、稲見中のワルの四天王ということになる。
 優れた頭脳と胆力を持ち、裏社会で生きることを既に決めている西本は、全体のボス格に当たる。御雷には中心人物である西本を最初に始末するという選択肢もあった。にもかかわらず周辺部から攻めたのは、ただの気まぐれではない。
 始末されるラインを明確に示すことで、「生死のボーダーラインを超えるか否か」という選択肢をワル共に突きつけるのだ。
 生き続けたければ、生き方を改めればよい。
 四天王―――半ば馬鹿にしつつ教員たちが呼んでいるわけだが―――は、全員消すつもりであった。
 石川は、半グレの違法漁師になることを公言して憚らない。南方はとにかく頭が悪い上に破壊的な暴力を振るう。死んだ片瀬は深刻な刃傷沙汰を起こすのは時間の問題だった。
 一番のポイントは、彼らが西本の供給する薬によって「飼われて」いることである。馬越を介して買うのではない。いわば、河津組の駒として、既に押さえられているわけだ。
 ダニは成虫になる前に潰しておく方がいい、というのが御雷の考えだ。
 その四天王の残党が、不気味なほどに大人しい。
 西本は、御雷の動きをつぶさに観察している。
 玄の指示であった。
 奴は、舌舐めずりでもするような声で告げたのだ。
「毎日学校に行き、御雷を観察しろ。大人しく授業を受けて、奴の言葉一つ聞き漏らすな。例の女が餌に使えるかどうか、判断できる材料ももう少し欲しい。変わった動きがあれば、どんな小さなことでも知らせろ」と。
 本当は、御雷のことが怖くなってきている。にこやかでいながら、躊躇いもなく馬越を自滅に誘った手際の良さ。一瞬浮かべた、表情。
 外見はまるで違うのに、どこか玄に似ていると思った。
 芽生えた恐怖心は、監視には役に立った。御雷から目を離すことができなくなってしまったのだ。
 忌々しいことだが、授業を妨害しようとした数々の試みは徒労に終わったことを認めざるを得ない。御雷は生徒たちの心を掴み、学習しようという熱意がクラスに、そして学年全体を満たし始めている。そして、稲見中そのものの雰囲気が大きく変わってしまった。
 悔しいが、御雷は優秀な教師だ。
 西本も、それは感じている。ただ、その優秀さは修羅場をくぐって身に付けたものだ、という直感がある。
 菊池に対しても、西本は悔しさを感じている。
 雰囲気が変わった。前のおどおどしていたときよりも、遥かに綺麗になったと思う。
 高校生のような童顔は相変わらずだが、何となく手が届かなくなったような感覚があった。
 理由は簡単だ。
 常に側に居る御雷の存在だ。
 玄に言われるまでもない。彼女の眼差しや、表情を見ればわかる。
 あれは、恋をしている女の態度だ。好きな女のことであるからこそ、西本にはそれが手に取るようにわかった。
 悔しい。
 だから、玄が御雷を始末するというなら諸手を挙げて賛成する。が、餌となった菊池はどうなるのか?ヤクザ共の慰み者にされた上で埋められるのか?それとも、薬漬けにされた上で売春婦にでも堕とされるのか?
 そんな女を抱いたことがあったし、女を埋めるのを手伝ったこともあった。
 惜しい、という気持ちはあるが、同時に仕方がないとも思っている。
 すべては、己が裏社会でのし上がるための第一歩だ。
 そう割り切れるだけのものを、西本は持ち合わせていた。
 だから。恐怖を押し殺し、悔しさを黙殺して、御雷を観察し続けることができるのだ。
 本当に、玄の言うような死に神なのか。それは、彼が予言した「御雷の周りでは、大勢死ぬ。特に、ワルが」という言葉が現実のものになれば証明される。
 だから、西本は待っていた。仲間が殺されていくのを。
 西本祐司は、そういう男に成長しつつあった。
 そんな西本の視線を意識しながらも、御雷は平然と教師生活を満喫している。

 夜。
 御雷はカラスの扮装を纏い、カラスの身振りを真似、声を模倣して街角に立つ。
 黒衣の密売人の元を、ひっきりなしに客が訪れる。電話で予約を受けた数を捌ききると、場所を変えて待つ。そこでも、かなりの数の客が薬を買いに来た。
 事前に、次回の入荷の見通しが不透明であることを伝えていたため、一人が買っていく量も多い。グラム一万円程度だから、格安とも言えないが、それこそ飛ぶように売れていく。
 更に場所を変える。
 一晩で四千ものパケを捌けば、さすがに警察からお目こぼしはもらえないかもしれない。
 御雷は釣り銭を出さない。売るのは四パケから。つまり、一グラムが最低の量ということになる。殆どの客は万札で支払いをする。
 見る間に溜まっていく一万円札は、最終的に一千万円ほどになるはずだ。御雷は几帳面に百枚溜まるごとに輪ゴムで束にしてやる。用意した黒いデイパックに放り込む。
 最後にやって来たのが欅橋であった。ここまでの動きは、普段のカラスと変わらない。
 ここでも、客の数は多かった。計算通り、販売用のパケを全て売り切ることができそうだ。
 御雷は待った。白石直哉が馬越の代役として現れるのを。
 白石は、御多分に漏れず盗難品と思われるスクーターでやって来た。お椀を伏せたようなヘルメットを後頭部にぶら下げている。相変わらずの猿顔だ。色が白い。
 律儀に合い言葉で互いを確認する。
 やはり、いつもより購入する量が多いようだ。
 御雷は声を掛けてやった。
「おい、いつもの奴はどうしてる。怪我をしたとか連絡があったが。」
 白石は物事を深く考えない男だ。裏世界の人間と接触することに緊張も感じている。思わず答えてしまう。
「あいつなら、家で寝てる。怪我が痛むんだとさ。」
「なら、帰りに薬を届けてやったらどうだい?痛みが楽になるってのは、お前も知ってるだろう?」
 御雷の聴覚が、複数の足音が接近するのを察知する。ゴム製のソールで足音を消してはいるが…派手な商売をしたからな、今回は。
 そんな思いも知らず、白石は御雷の提案に目を輝かせた。
「そりゃいいや。ちょうど帰り道だ。」
 静かに、と御雷は声を潜めて囁いた。
「警察が、来る。お前は強引に突破しろ。奴らの狙いは俺の方だ。ちゃんと引きつけてやるから捕まるなよ。」
 スクーターを押し出してやる。
 それを合図にしたかのように、いくつもの人影が欅橋に迫った。白石のスクーターはそれをはね飛ばす勢いで突進し、包囲網を抜けた。
 見届けて、御雷は欅橋の中央に走る。その動きが、捜査員の知るカラスの動作よりも桁違いに素早くて、彼らの驚きを誘う。
 捜査員の対応が、一瞬遅れた。その隙を御雷は見逃さない。
 欄干にワイヤー付きのカラビナを器用に引っ掛け、橋から身を躍らせた。ブレーキの効きは極端に弱めてある。こんなものなどなくても、この高さならどうということはない。
 常人のふりをするのも大変だ。
 河原に着地するとリガーベルト自体を切断して身体から離した。
 土手沿いにも数名の捜査員は配置されていた。が、河原にはいない。足場が悪いのと、土手を押さえておけば、河原から出さずに済むという計算が働いている。そうこうしているうちに、応援が川上・川下の両方から河原を封鎖するだろう。
 だが、御雷はそんな時間を与えるつもりなど更々無かった。
 直ちに、暗い河原を一切照明を点けることなく、全力疾走で川上に向かったのである。
 御雷の脚は速い。人体が秘めるポテンシャル一杯を発揮することで、文字通り飛ぶように走る。足場の悪さをものともしない。視覚を押し上げ、真昼に匹敵する視界を得るのと同時に、可聴域を超えた音を使ってエコーロケーションも行っている。
 走りながらカラスの扮装を脱ぎ、バラバラに捨てる。身軽になると、更にスピードが上がった。
 目の前を蛇河の本流が横切っている。今日は水量が多い。スピードを落とさずに跳び越えた。九メートルを優に越える距離を跳んで、まだ着地に余裕がある。すぐに走り出す。百メートルを九秒足らずで駆け抜ける様は、まさに走るというより「飛ぶ」感覚に近い。
 闇に溶ける御雷の服装を、土手からは十分に視認することはできない。
 慌てた捜査員たちが的外れな場所にライトの光芒を走らせている様を背に、悠々と駆け去って行く。
 彼を捉えようとするであろう捜査員を出し抜くために御雷が用意した方法は、極めてシンプルなものであった。
「あり得ない場所をあり得ない速度で走って逃げる」である。
 実際、土手に配置されていた捜査員は御雷の動きを追いきれず、すぐに彼を見失った。
 河原に隠してあったヤマハのエンジンを掛け、土手に駆け上がる。
 遠くから赤色回転灯とサイレンの音が追ってくるのを感じたが、それだけだった。周到に調べ上げたルートの一つを用いて広域農道に出て、コンテナ基地に向かう。コンテナ内に現金を仕舞った。馬鹿共が自分の命の代金として払った金だ。大切に使わせてもらうことにする。
 御雷は麻薬を売る人間を嫌悪している。他人の命を食い物にするから。同時に、麻薬に溺れる人間も嫌いだ。自分の命をあまりにも軽く扱うから。
 どちらも、死んでしまえ。そう思っている。
 だが、金に罪はないのだ。それは、河津組から現金を頂いたときと同じ理屈である。
 自分自身が売人を演じたことに罪の意識はない。
 簡易トイレで用を足し、少しだけ仮眠を取った。体温が少々上がりすぎた。
 外部の状況はカメラや集音マイクで知ることができる。特に緊急車両が走り回っているような様子もない。
 どのみち、家には帰らねばならない。
 御雷は体型と声を教師用に調整する。コンテナに収まったスバルに乗り換え、広域農道に出た。
 石上邸には寄らずに、粗末な平屋に帰る。途中でコンビニに寄って夜食を買った。買い出しが、外出の名目ということになる。
 自宅周辺の監視はなかった。侵入者もいない。この前見せてやった、あまりにも無防備な姿に、監視者の方が毒気を抜かれたのかもしれない。
 いずれにせよ、今日はもう寝る。成果を確認するのは、明日だ。

      7
 火曜日。
 いつものように、御雷は早朝から出勤した。
 警備装置を解除して職員室に入る。
 その前に、運動場への大階段にある植え込みを確認してみる。昨夜白石が置いたと思われる麻薬の包みがあった。五人分。馬越の分は買い付けの帰りに届け、白石本人の分も既に抜いてあるわけだ。
 生徒玄関の周辺を掃き掃除しながら、登校してくる生徒たちに声を掛ける。
 最近は、御雷が声を掛ける前に「おはようございます」と挨拶の言葉を投げかけてくる生徒が増えた。自発的に挨拶をするのが当たり前になりつつある。いいことだ、と思う。
 生徒たちに向けられる御雷の眼差しは優しい。
 その一方で、油断なく彼らの動向に注意を向けてもいる。
 西本と白井は二人乗りで登校してきた。二人とも眼の下に隈が浮いている。
「おはよう。」
 御雷が声を掛けても目を合わせようともしない。いつものことだ。
 昨夜は、お楽しみか。それでも遅刻せずに来るとは、どういう風の吹き回しだろう。
 小さく肩を竦めただけで、それ以上考えるのはやめた。職朝―――職員朝礼の時間だ。
 職員室に戻ると、何名かの教員の姿がない。担当学年の生徒の様子を見守るために、教室前の廊下に立っているのだ。荒れた学校に限らず、輪番制で置くようにしているところは少なくない。大抵は副担任の仕事だ。稲見中では男性副担任がその仕事を担う。
 今日の担当は矢沢だ。
 御雷は菊池の隣で、今日の予定や各担当からの連絡事項を聞く。管理職の話は聞き流しておいた。
 校長の話が終わると、平教員たちは自分の持ち場へと移動を開始する。菊池も二年五組の教室へ行き、朝の会を行うのが常だ。が、今の彼女にはやらねばならぬ事があった。
 自宅療養をしている馬越の、保護者からの電話連絡を受けることである。
 欠席するからには、保護者から欠席連絡をもらわねばならない。馬越の場合、しばらく休むことは確定している。とはいえ、今後担任業を続けていくなら、この機会に学んでおいた方がいいこともある。
 御雷は、見舞金を持って来た馬越夫妻に、「休みが続く間は、面倒でも毎朝欠席連絡を入れるように」と要請し、呑ませた。
 菊池にはわからない。それは、必要なことなのか?
 御雷の回答は身も蓋もないものだが、的は射ている。
「まあ、『学校はお子さんのことを気にしていますよ』というポーズが半分です。いずれにせよ、ご機嫌伺いというか、馬越の様子を尋ねるために毎日電話を入れるつもりなんでしょう?だったら、向こうから電話してもらえば面倒が無くていい。それに、こちらから掛けた電話のタイミングが悪かった、なんてこともないですから。」
 なるほど、と思った。朝のうち、という制約はあるものの、馬越夫妻にとって都合のいいタイミングで電話をしてもらえれば、向こうに「鬱陶しい電話だ」と思われることもない。それに、連絡をもらったことに対して、こちらは労いや感謝の言葉を掛けることができる。
 最初に面倒な頼みを承諾させてしまえば、後はお互いの関係が悪くなることはない。少なくとも、「わざわざご連絡いただき恐縮です」とか「どうか無理をせず、お大事に」などと丁寧に対応する菊池に対する心証は悪くならない。
 これも、最初に嫌われ役を引き受けてくれた御雷のおかげだ、と感謝している。同時に、彼の心理誘導の手腕に怖さを感じているのも事実だ。自分が御雷に対して抱いている好意もまた、誘導されたものなのではないか。
 その疑いは拭いきれないが、彼が菊池に指一本触れようとしないのも事実だ。それに安心している自分と、不足を感じている自分がいる。
 時々、菊池は自分という人間がいくつにも引き裂かれそうになる感覚に襲われることがあった。自分の中に、幾人もの菊池由美が居て、それぞれが矛盾したものを抱えているのだ。
 常に穏やかな笑みを浮かべたような御雷の横顔を見ていると、疑問が湧いてくる。この人は、自分が感じているような葛藤を唯の一つも持っていないのだろうか。
 その御雷は、いつものように職員室の出口で菊池を待っていた。
「菊池先生、馬越からの連絡待ちですか。」
 困惑した表情を浮かべて答える。
「ええ、そうなんですが…今朝はまだ電話がないんです。」
 御雷は渋い表情を作る。
「もう面倒臭くなったんですかね。ほんの数分の手間なのに。」
 教頭先生、と御雷は小泉に声を掛ける。
「こういう場合はこちらから連絡して確認した方がいいですね。」
 小泉は理解する。御雷は、菊池に担任の行動パターンを教えようとしているのだ。
「そうですね―――菊池先生、お手数ですが馬越の家に電話してもらえますか。馬越の場合は自宅から出ることもないでしょうが、過去の例だと登校中に事故に遭ったのを親も知らなくて、無事に学校に着いたものだと思っていた…なんてこともあるのですよ。」
 過去の実例を示してやる辺り、小泉はちゃんと若年教員を育てようとしている。親も学校も生徒の所在を掴めない、という事態に陥ってはならないのだ。
 職員室の電話が鳴るのと、二年一組の担任がぱたぱたと足音を立てて教室から戻ってくるのはほぼ同時だった。
「すみません。白石直哉がまだ来ていないんですが、欠席連絡はありましたか?」
 教頭が電話を取った。
「はい。稲見中学校教頭の小泉です。ああ白石さん?ちょうど担任がおりますので電話を替わります。」
 一組の担任が電話に出る。
「いつもお世話になります。直哉君はどうかしましたか―――。」
 言葉が途切れ、見る間に顔色が青くなる。
 ただならぬ雰囲気に、御雷も戻ってくる。
「ええ?それは、一体――はい。ええ、わかりました。とにかく落ち着いてください、お母さん。救急車は?…わかりました。」
 小泉が素早くメモを書いて渡してやる。担任はそれに目を落としながら言葉を紡ぐ。
「急を要することですから、ひとまず電話を切ります。済みませんが、後で連絡が取れる電話番号を教えて頂いてかまいませんか。管理職にも状況を話して対応させていただきます。」
 母親の携帯番号を聞き出して、担任は受話器を置いた。唇が、白い。
「どうしました?」
「白石が死んだそうです。」
 菊池と御雷は顔を見合わせた。
「今朝、起こしに部屋を覗いたら、息をしていなかったと。」
「それは、母親も取り乱すでしょうね。」
 小泉が爬虫類の冷酷さを露わにする。
 悪くない。
 御雷は分析する。死にそう、なら慌てる必要がある。死んだ後なら慌てても無駄だ。
 一方の担任は、取り乱しそうな己を必死で抑えているのがわかる。それでも報告を続けた。
「それが…白石が倒れている側に注射器があったとかで。それで、警察も来る騒ぎになっているらしいです。」
 小泉の片眉が上がる。決断は早かった。
「ただ事ではありませんね。校長先生にも報告を。菊池先生は、すぐに馬越に電話をしてください。今日に限って連絡がないのも気になります。」
 教頭が案ずるところはわかっている。白石と馬越は、つながっている。一人に異変があれば、あるいはもう一人も。
 教頭と一組の担任が校長室に入ったのを見届けて、菊池は馬越宅に電話を掛ける。
 自宅の電話―――繋がらない。留守番電話になっているわけでもない。
 母親の携帯電話―――繋がらない。
 父親の携帯電話―――繋がらない。
 延々と続く呼び出し音の響きだけが、菊池の耳に残る。
 御雷は内心呆れている。まだそれほど普及していない携帯電話を、あの夫婦は持っていたのか。他人から金をむしりながら、文明の利器の恩恵を享受していたというわけだ。
「駄目です。―――もしかして、まだみんな寝ているとか?」
 菊池の藍色がかった瞳が不安に揺れている。
「だと、いいんですが。」
 御雷の声は硬かった。彼自身、予想していなかったことが起きているのかと思えば…。わかってみればなんということはない。そうか、そういうことだったのか。
 どんな表情を浮かべていいかわからない。だから無表情のまま言った。
「馬越の家に行ってみた方がいいかもしれません。矢沢先生に五組のことを頼んできます。」
 御雷は体格に似合わぬ素早さで、職員室を出た。足音を立てないので生徒も注意を向けないが、かなりの俊足ぶりを発揮する。
 矢沢に、白石に何らかの異変があったこと、馬越にも同様の恐れがあることをかいつまんで伝える。管理職の許可なく、詳細は話せない。ましてや、耳のいい生徒なら断片的にでも聞こえてしまうかもしれない。ともかく、家庭訪問の必要があるかもしれないから、五組のことはよろしく、とだけ頼んだ。菊池と御雷が抜ける授業のことも頼んでおく。念のため確認したところ、二年生には他に欠席者はいない―――片瀬は生徒の間では欠席が続いていると思われているが、奴がもう登校することはない。
 こういうときに根掘り葉掘り尋ねないのが教員というものだ。説明は、事が済んだ後でいい。まずは、目の前の生徒たちが困らないようにすることを優先すべきなのだ。ベテランである矢沢はそのことをよくわかっている。一言、「気を付けて行ってきなよ」とだけ言うと、気障なポーズを取って見せた。
 御雷が職員室に駆け戻ると、青い顔をした校長、教頭、そして一組の担任が校長室から出てきたところだった。
 菊池が馬越宅に電話を掛けたときの状況を報告する。管理職の表情が曇る。
 御雷は進言した。
「校長先生、大体の事情はわかっているつもりです。馬越の家が心配です。すぐに家庭訪問をするべきだと思いますが。矢沢先生に、学級と授業のことは頼んでおきました。」
 二年生には他の欠席者がいないことを報告し、他学年の欠席状況も直ちに確認するべきだと述べる。
 校長は頷いた。
「では、お願いします。状況によっては警察への連絡をお願いすることになるかもしれませんが…。」
 自分に対応できるだろうか。不安そうに顔を強ばらせている菊池の背中を軽く叩いた。
「大丈夫ですよ。ぼくが一緒に行きますから。狭いですが、ぼくの車に乗ってください。その方が、早い。携帯電話を忘れないで。」
 菊池の手を引くようにして、御雷は職員室から出る。教頭が校内放送ではなく、内線電話で各担任に呼び出しを掛けているのが聞こえた。異常事態についての情報が決定的に不足している今、生徒に無用な混乱を起こさせる必要はない。それは、正しい判断だ。
 これが…白石と馬越だけの問題ならば、な。せいぜい、情報を伏せておいてくれよ。
 御雷の唇に一瞬浮かんだ淡い笑みを、彼の後を歩く菊池は見ることができなかった。
「少し、飛ばします。怖くても、今日だけは我慢してください。」
 スバルの助手席に納まった菊池に声を掛けて、御雷は車を出した。
 スムーズな走りに、菊池は状況を忘れて見惚れる。
 アクセルの開け方が。ステアリングの切り方が。そしてシフトチェンジの操作が。
 どれを取っても、正確で、丁寧で、しかも尋常でなく速い。しっかりとブレーキングして、強力な減速Gが発生しているにもかかわらず、乱暴に身体を振り回される感覚がない。
 それは、加速も同じ。コーナリング中も同様だ。
 スピードメーターを覗くと、教員の運転としてはあり得ない速度を示している。なのに、怖くない。苦しくない。加速から減速、コーナリング、再びの加速―――それらの繋がりが異常なほどに滑らかで、継ぎ目がないように感じられるからだ。
 一瞬、御雷の細く長い指が執拗なほどの丁寧さで女体を愛でる姿が頭に浮かび、菊池は胸の内で自分を叱りつけた。
 こんなときに、私は何を考えているんだろう。
 御雷が車や銃器に接するときに見せる繊細さが、女体に触れるときのそれと同種のものであることを、菊池は知らない。
 御雷はヒール&トウで巧みに車速を落とし、路地に入り込んだ。スバルですらドアミラーを擦ってしまいそうな道幅しかない。
「こんなところに道があったなんて…。」
「走りにくいけど、ずっと早く着けるんです。」
 前を見据えたまま応じる御雷は意識していないだろう。運転に集中しているから。
 彼は、自ら「前の家庭訪問のときは菊池にとって最もよいルートを提案したのだ」と告白したのだ。
 菊池は理解する。御雷の運転技術は確かに大したものだ。だが、それ以上に、常に影から彼女を支えてくれる御雷武その人が側にいてくれるからこそ、怖さを感じずに済んでいるのだ。
 ものの数分で着いた。さすがに、車を降りると足下がふらついて、御雷に支えてもらう。
 馬越の家は、漁村の外れというよりも、漁村に接した住宅街の外れに建っていた。
 それなりに敷地も広く、二台の乗用車が停まっている。両親ともに在宅中のようだ。兄だか姉だかがいるはずだが、県外に就職していてここには住んでいない。
 スバルを敢えて路上駐車したのは、庭にタイヤの跡を残さぬようにするためだ。駐車禁止の対象にもなっていない。前回もそうしたのは、馬越夫妻が何かと難癖を付けてくるタイプだと知っていたからだった。敷地内にものを持ち込む行為はなるべく避けたかっただけのことだ。
 建物自体は、ごく普通の平屋建てである。極端に大きくはないが、それなりに金の掛かった日本家屋であった。
 どこから、これだけの金を引っ張ってきたのやら。玄関の前に立って、御雷は前回と同じ事を思う。
 菊池を後ろに立たせて、ドアフォンのボタンを押す。反応がない。
「稲見中学校の菊池と御雷です。いらっしゃいますか。」
 マイクに向かって呼びかけても、返事がない。
「いないんでしょうか。」
 いや、と御雷は二台の車を指す。
「いるはずです。タクシーやバスを使うような人たちでしょうか?」
 囁くように言った。
「金を使ったり、面倒なことをしたがる人たちじゃありませんよ。きっと、いるはずです。―――元ハードボイルド愛好家なら、わかるでしょう?」
 車のボンネットを指してやる。菊池の表情が引き締まる。
「そうか…冷たいです。朝から動かしてないみたい…。」
 御雷は頷く。
「ま、昨日から帰ってない、という可能性もありますが。」
 何気なく、という様子で、玄関の引き戸を開けてみる。
 からり、と音がして戸が開いた。
「鍵が掛かっていません。」
 戸を開くと、二人は玄関に入った。直接奥に呼びかける。
「御免ください。稲見中学校の菊池と御雷です。いらっしゃいますか。」
 やはり、返事はなかった。
「何だか、空気が冷たいです。」
 菊池の声が震えている。人の気配がしない。早く出たい…そう思いながら目をやると、御雷の横顔に厳しい表情が浮かんでいた。
「不安が、的中したかもしれません。ちょっと、見てきます。」
 靴を脱ごうとする御雷の腕にすがった。
「待って。もし…中で死んでいるとして。例えば強盗とかがまだいる可能性だってあるじゃないですか。」
 御雷は笑顔を作って見せた。菊池にも、それが自分を安心させるための表情だということぐらいは察しが付く。それでも―――。
 御雷は何の前置きもなく、菊池の髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。乱暴、ともいえる手付きで頭を撫でる。
 さすがに抗議しようと見上げた眼前に、御雷の顔があった。互いの息遣いを感じられるほどに近い。
「ほら、菊池先生。今、『私は子供じゃない』って言いかけたでしょう?」
 当たりだ。
「その通り、あなたは子供じゃない。だから、我慢してください。殺人犯が潜んでいることも考えて、大きな声で呼びかけたんですから。」
 そういうことか、と納得する。仮にそういう危険な人間が潜んでいたとして、彼らが一番嫌がるのは騒がれて周囲の注目を集めてしまうことだ。大声で呼びかければ、冷静ではいられない。気配にしろ、物音にしろ、必ず何らかの反応を示す。
 鈍感なテレパスの感覚でも、呼びかけ前と呼びかけた後で、家の中の空気に何の変化もないのは感じ取れている。
 それに、と続ける御雷の表情が少しだけ硬くなる。
「職員室で聞いたでしょう?注射器があったって。憶測が許されるなら…ですが、自分で薬物を注射した可能性もあります。」
 あなたは、ここにいてください。
 御雷は強く念を押した。
「あなたは、一度見たものを忘れるのが苦手なんでしょう?」
 菊池は少なからず驚く。特技でもあり、嫌な記憶がいつまでも付き纏う原因にもなっている。
 御雷にとっては、姿を変えてなお自分を言い当てられた苦い経験がある。現場の詳細を見て覚えられるのは得策ではない。
「見なければよかった、というものが奥にあるかもしれません。ぼくが先に行って見てきます。」
 御雷は靴を脱いで上がり込んだ。廊下を少し進むと、直角に右に折れてから奥に伸びているのが見えた。
 菊池の視界から外れたのを確認して、御雷は皮肉な笑みを浮かべる。
 これは、厳密には不法侵入だ。本来なら、警察なりに連絡して確認してもらうのが筋である。が、今日は白石の件もある。緊急度の高さや、極度の動転を理由に言い抜ける自信があった。
 ゆっくりと歩を進めながら、廊下に沿って並んでいる部屋を見ていく。
 開けっ放しの扉から見える室内は、どこも散らかっている。この乱雑さは住人の人柄そのままだ。
 いくつかの部屋を見た後、御雷は見付けた。
 馬越夫妻の寝室である。
 素っ裸のままで、既に事切れている。嘔吐物が乾いているところを見ると、死んだのは昨夜だ。二人とも注射器の針が腕の静脈に入ったままになっていた。よく見れば、注射痕が目立つ腕だった。
 おそらく。二人は麻薬を使用して情事に及ぶつもりだったのだろう。御雷は経験がないからわからないが、薬が効いた状態で行うセックスは例えようのない快楽をもたらしてくれるという。
 しかし、残念なことに二人は本物の天国に旅立ってしまった。…いや、地獄かな、と思い直して可笑しくなった。もとより御雷自身は魂の存在も、死後の世界も信じてなどいない。
 御雷は侮蔑の眼差しを、股間を丸出しにして死んでいる夫妻に投げかける。
 シアン化ナトリウム――青酸ソーダ入りの麻薬なんて使うからだ。
 事の次第は、おおよそ御雷が想像したとおりだったようだ。
 馬越が入手した薬を、両親も使っていたのだ。つまり、一家揃って麻薬中毒に陥っていたわけだ。馬越経由で両親が覚えたものか、それとも元々親が薬漬けだったから馬越自身も早くから薬を始めたのか。そこはわからないが、大した問題ではない。
 今は馬越本人を見付けるのが先決だ。
 廊下の突き当たりが、馬越の部屋になっていた。
 子供部屋というには、あまりにも荒んだ空気が淀んでいる。壁はヤニで黄色く汚れ、馬鹿馬鹿しいほどに乳房の大きい金髪女のピンナップが貼ってある。床に投げ出されているのは下らない漫画とエロ本の類いぐらいだ。申し訳程度にダンベルやトレーニング機材が置かれていた。
 部屋の隅に置かれたベッドの上で、布団を被って震えている人影があった。
 いた。
 床に転がっている食いかけの菓子の袋を避けながら、御雷は近付いた。
「馬越。無事か。」
 囁くような御雷の声に、びくりと大きく震えた。容赦なく布団を引き剥がす。
 馬越は酷い顔をしていた。まるで―――一晩で老人になったかのように、生気がない。眼だけがギラギラと光っているのは、恐怖と混乱と…ある種の飢餓だ。
「話せ。何があった。」
 目を逸らそうとする馬越の顎を掴んで顔を引き起こす。眼を覗き込む。
 勝負は初めから決まっていた。親子揃って、御雷に対する言いようのない恐怖心が心に刻まれてしまっているのだ。おまけに、馬越は両親が苦悶する声を聞くか、断末魔を見るかしてしまったのだろう。
 悪夢のような経験だったはずだ。
 あっさりと心が折れた馬越は、御雷が見付けるまで布団を被って震えていたというわけだ。そんな状態で逆らえるわけがない。
 ぽつりぽつりと話し始めた。
 月曜の深夜、白石が持って来た麻薬を、両親はことのほか喜んだ。そろそろ手持ちが乏しくなっていたのである。一旦全量を親に取り上げられた馬越は、仕方なく前月の残り分を使って凌ぐことにした。翌日、自分の取り分を取り返せばいい。どのみち、麻薬が届いた日は激しいセックスを楽しむのが両親の習慣だ。気が済むまで楽しませてやらないと、親父に殴られることになる。
 自分も早く傷を治して西本に女を世話してもらおう、と自慰に耽っていたとき。明らかに悦楽の呻きとは異なる声が両親の寝室から聞こえてきた。嫌々ながらも松葉杖を突きながら、様子を見に行った。尋常ではない雰囲気がある。そこで目にしたのは、注射器を腕に刺したまま、嘔吐しながら死の痙攣を起こしている両親の姿であった。
 一目見て、助からないとわかった。原因は何だ。薬か?白石が毒でも持って来たのか?あるいは不甲斐ない自分を、西本が殺そうとしているのか。
 激しい混乱と恐怖に襲われて、馬越は判断力を失った。もともと頭の回転は鈍い方だ。それでも、この状況で警察や救急を呼べば自分自身の薬物使用まで問題にされることくらいは察しが付いた。馬越の能力ではそこまでが限界だった。思考停止に陥って朝まで震えていたところに御雷がやって来たというわけだ。
「ということは、薬は全部親の部屋にあるわけか。」
 馬越は頷いた。
 御雷は内心舌打ちをする。親の部屋には入らない方がいい。
 ここにいろ、と言い置いて、一旦玄関まで戻る。暗い表情を作ってから、菊池の前に姿を現した。
「どうでした?」
「あなたは、見ない方がいい。」
 強く何度か瞬きしながら言う。目に焼き付いた光景を消し去るように。
「親の方は二人とも死んでいるみたいです。馬越は辛うじて息がある。救急車と警察を呼んでください。状況は白石と同じ――注射器がありました。嘔吐もしています。これだけのことを連絡できますか?ぼくは馬越の様子を見ています。できることがあるかもしれない。向こうから何か指示があったら、奥には来ずにここから叫んでください。それでぼくには届きますから。」
 不安の色しかなかった菊池の瞳が、一瞬絶望を映し、次いで違う色を浮かべるのを御雷は見た。―――鋼の色。こういう眼をしたときの菊池は、強い。
 返事をする代わりに菊池は携帯電話を取りだした。一刻を争うのだという判断は、正しい。
 頼みます、と言い置いて馬越の元に戻った。早ければ数分で救急車が来てしまう。
「もう大丈夫だ。俺がお前を助けてやる。」
 ぞっとするほどに優しい声で御雷は言った。
「右の袖をめくれ。腕を出すんだ。」
 御雷は、上着のポケットからラテックスゴムの手袋を出して着けた。それを見た馬越の目が、飛び出しそうに見開かれる。
「い、いやだ。」
 声は上ずってまともに出せない。
「手間を掛けさせるなよ。俺も忙しいんだ。」
 御雷の指先が左腕に触れると、腕全体の感覚が無くなった。同様に右腕の感覚も奪う。左脚はギプスで固定されているから、もう動けない。
 御雷は室内を見回して微笑した。馬越が普段使っているとおぼしき小皿を発見したのだ。上手い具合に、側には十分な水が残ったペットボトルもある。皿の上には小さな匙が載っていた。
「こういう道具はな、見えないところに仕舞っておくもんだぞ、馬越。」
 にこやかに言いながら、スーツの襟の裏から極小さなものを取り出した。それを見て馬越が呻く。
 見慣れた小袋―――パケだ。
 御雷が馬越の左手にハサミを握らせる。ギプスで固められた右拳と右膝にパケを挟んで固定してやると、優しく手を添えて、パケの端を切り落とさせた。
 二人羽織のように、背後から馬越の身体を操る。
 ハサミを捨てさせ、パケに持ち替えさせる。
 小皿に指紋を付けさせてから、パケの中身を全て小皿に出させる。
「一回分には少し多いけどね、馬越君。」
 御雷の唇から滑り出た声に、馬越は絶望する。
「君には俺が売った薬をきっと気に入ってもらえると思うよ。」
 カラスの声で、底意地悪く嗤う。
 ポケットから取り出した注射器も、カラスから奪ったものだ。だから、馬越家に落ちていても違和感は無い。やはり馬越の手足を駆使して封を切らせる。
 自分の手がペットボトルの水を小皿に注ぐのを、馬越は悪夢でも見ているような気分で見詰めていた。粉末は簡単に溶けた。
 片手で薬液を注射器に吸い上げるには、それなりにテクニックが要る。
 御雷は、馬越の左手の関節に巧みに力を加え、複雑な動作をやりおおせた。多少空気を吸っても気にしない。
 しっかりと注射器を握り直させる。予告もなく右腕の静脈に針を入れた。
「心配しなくても、お友達の白石君も死んだそうだよ。」
 御雷の声が、変わる。
「注射器のピストンを押せば、お前は死ぬ。この前、お前は俺を殺す気で殴ろうとしたな?」
 手足の感覚はなくとも、恐怖に震えることはできる。高熱でもあるかのように、激しく震えながら、「許して」と繰り返す。
 御雷の唇に、淡い笑みが浮かんだ。黒曜石のような瞳が、無表情に馬越を見ていた。
 こいつの唇は、こんなに紅かっただろうかと、馬越はふと思った。恐怖に震えながら。
「俺はね、自分を殺そうとした奴を許せるほど、人間ができてないんだよ。残念だけど、これでお別れだ。」
 馬越の親指が、強くピストンの尻を押した。麻薬と青酸ソーダの混合液が静脈に放たれ―――全身に散っていった。
 御雷は素早く身体を離し、ベッドから立ち上がる。シーツを整えて自分の痕跡を消した。ラテックスゴムの手袋は裏返しに外し、堅く縛ってポケットに落とし込む。表面に薬剤が付いていれば危険だ。
 混ぜ物なしの過剰な量の麻薬。そして、シアン化ナトリウムの毒性。それらが効力を発揮するのは早かった。白眼を剥いた馬越が仰向けに倒れるまで、数秒。痙攣を起こし、嘔吐物が口から溢れるのを見届けると、御雷は口元を押さえて部屋から出た。
 まだ、救急車のサイレンの音はしない。菊池の声が聞こえた。
「御雷先生。救急車が出払っているって。応援を頼んでも、まだ十分近くかかるそうです。それから、患者の側からすぐに離れるように言われました。」
 玄関に戻る。
「それじゃあ間に合わない。何があったんですか。側に居ないと心肺蘇生措置もできないというのに。」
 怒気を含んだ声で尋ねてやると、菊池自身戸惑っているのがわかった。
「それが、今日に限って救急要請が殺到しているらしくて。警察の方も一一〇番通報が立て続けにあって、大変なことになっているようです。多分、警察が来る方が早いと思います。状況から判断して、毒物による二次被害を避けるために救急隊員が到着するまで患者に近付いてはならないそうです。救命措置もしてはいけないと。」
 菊池はまだ学校には連絡を入れていなかった。御雷が状況を報告する電話を入れる。菊池にも聞かせて、御雷が見たものを理解させる。
「―――ええ。親子で何か薬をやっていたらしくて。救急も警察も出払っていて、まだしばらく待たされそうな勢いです。今見たときは、馬越本人にだけは辛うじて息がありましたが…多分、間に合いません。」
 御雷の分析が、菊池の胸を刺す。だが、それは多分正しい。
「はい、わかりました。警察や消防の到着を待って学校へ帰りますが、きっと時間が掛かります。警察から話を聞かれることになると思うのですが、今朝からの一連の流れと、普段からの馬越の行動について知っていることを話しますよ。」
 不審死ということになれば、発見者であり日頃の接点もある御雷や菊池が協力を依頼されるという形を取りながら事情聴取を受けるのは仕方のないことだ。校長が異論を挟む余地はない。
 緊急車両の到着を待ちながら、御雷は考えている。
 何故、今日に限って救急車が出払っているのか。警察が人手不足に陥る状況とは、何か。
 答えに辿り着いて、御雷は笑みを浮かべそうになった。
 四千ものシアン化ナトリウム混入済みのパケだ。売りながら、御雷は客の多さと客層の広さに少しばかり驚いたものだ。まさに老若男女、全てが客だった。中高生と思われる見知らぬ顔の少年や少女もいた。会社員風の男もいれば、教員の匂いのする女もいる。
 これほどまでに、今原市には麻薬が蔓延しているというのか。御雷は絶望的な気分になったが、それらの何分の一かでも使われたとしたら。夥しい数の死者が発生するはずだ。
 この、緊急車両が足りない状況は、俺自身が作りだしたものだったのだ。意図せぬうちに、馬越を殺すための時間を自分で確保していたというわけだ。
 そう考えると救急車の到着時間を睨みながら焦りつつ馬越を殺したことが馬鹿らしくなる。もっと、気の利いた言葉でも掛けてやればよかった。
 菊池と御雷は、玄関先に並んで立ち、無言で救急車の到着を待っている。
 不意に菊池が御雷の腕に自分の腕を絡めてきた。見れば、整った童顔の鼻が赤い。眼も充血している。
「菊池先生…?」
「ごめんなさい。少しだけ、甘えさせてください。」
 御雷は目を閉じた。菊池の心を折るようなことをしたのは、この俺だ。わかってはいたが、実際に落ち込んでいる様を見せられると無下に突き放すことはできなかった。
「ええ。でも、少しだけですよ。」
 立ったまま、御雷は菊池の肩を抱いた。彼女は頭を御雷の肩に預けてきた。艶やかな黒髪からは、甘いシャンプーの香りがした。顔を見られないように俯いているが、泣いているのは明らかだった。
 菊池の肩は、見た目以上に細かった。なのに御雷に触れている身体は熱く、十分な肉感が感じられた。見た目以上に、メリハリのあるプロポーションなのだ。
 どうしようもなく菊池が欲しくなっている自分を、御雷は叱りつける。
 お前は、自分が心を折った女を、どんな顔をして抱くつもりなのだ。それとも、御雷という人間は、これも行きがけの駄賃であると嘯くことができるのか。
 苦しい、と御雷は思った。肉体的な苦痛とは無縁の彼だが、まだ痛みを残しているところがあったらしい。
 この俺が。もう何も新しく手に入れることはすまいと決めていた、この俺が。こんな気持ちになるのか。
 菊池に見えないように、唇に皮肉な笑みを浮かべたとき、サイレンの音が近付いて来るのが聞こえた。
 警官と救急隊員が到着し、必要なのは救命活動ではなく現場検証であることが確認される。
 予想通り、今原署に同行を求められ、発見時の状況について詳細に説明した。発端となった白石の不審死や、そこから急遽家庭訪問をすることになった経緯まで正確に話す。さらに、日頃つるんで悪さをしている連中についても確実な事実に限定しながら情報を提供した。
 二人の聴取は別室で行われた。それぞれの言うことに矛盾がないか検証するためだ。
 御雷については、遺体発見現場の状況や発見時は息があったという馬越について細かく説明を求められた。現場に残されていた様々な痕跡との矛盾点がないことが確かめられると、ようやく解放されることになった。
 雑談めかして刑事が尋ねた。
「息子だけ死ぬのが遅かったのはどうしてだと思います?」
 うーん…と天井を見上げながら考えるフリをする。そもそも、事件に関して警察から何の情報ももらってはいないのだ。それでも、答えてやることにする。
「よく、テレビで見るような注射器がありました。もしそれが原因なら、息子だけ注射をするタイミングが遅かった、とか。今のところ、他の原因は思い付きませんね。」
 何で今日に限って似たような事件ばかり起きるのかな。
 つい、独り言を言ってしまった刑事が、慌てて手を振った。
「今のは聞かなかったことにしてください。」
「本当なんですか。」
 仕方ない、という風に声を潜めて刑事が告げる。
「まあ、明日の新聞には載るんですけどね。同じような死に方をした人がかなり出ています。」
 念を押すように御雷に顔を寄せる。
「まだ捜査中なんで、今日の現場で見たことは他言無用に願います。報道でも詳細は伏せて発表されるはずです。故人の人権にも関わることだし、それに…。」
 真顔で御雷は頷いた。
「死んだのが中学生ですからね…わかっています。ぶっちゃけの話、ぼくらとしても、生徒が薬物に手を染めていたなんていうことは大きな不祥事ですから。ただ、管理職への報告はかまわないでしょうね?ぼくらの義務ですから。もちろん、守秘義務は守ります。」
 それには及ばない、と刑事は言った。もう隠しても仕方がない、と思っている。
「実は、生徒が死んだのは稲見中学校だけではないんですよ。既に、関係校の校長先生たちには署まで来ていただくよう要請済みです。状況の説明と、情報の取り扱いについてのお願いは直接警察が行います。」
 この事件での死者数は、最終的にどこまで膨らむかわからない。
 だからこそ、情報の出し方には細心の注意が必要だと考えているのだ。
 御雷は内心ほくそ笑む。情報が伏せられるのは都合がいい。
 しかし、警察にとっては決定的な判断ミスだ。馬越宅に残されたパケを分析すれば、すぐにシアン化ナトリウムが検出されるだろう。なりふり構わず、危険な薬物が混ぜ込まれた麻薬が出回っていることを周知すれば。
 あるいは被害の拡大を抑えることができるかもしれない。
 もっとも、麻薬自体が危険な薬物なのだが…と御雷は皮肉に考える。
 いずれにせよ、今回のケースでは時間は御雷に味方する。
 早々に毒物が混ぜられた麻薬が出回っていることが知れれば、使うのを躊躇う奴が出るかもしれない。それでは苦労してパケを準備し、大量に売りさばいた甲斐が無いではないか。
 死ぬべき奴は、死ね。
 御雷はそう思っている。
 カラスもそうだった。やがて警察はカラスと事件との関連に気付くだろうが、奴はとっくに墓穴の中だ。
 取り調べ室を出ると、菊池が待っていた。瞼が腫れぼったいが、彼女のことだ。きっと自分の言葉でしっかりと説明したのだろう。
「お待たせしました。帰りましょう。」
 その後は、二人とも無言で廊下を進む。一階のロビーに下りたところで校長の尾内が入口から入ってくるのが見えた。
「ああ、二人ともお疲れ様。」
 そう言う尾内の方が、疲労の色が濃い。先程刑事が言っていたように、状況説明や情報の取り扱い―――要するに口止めが行われるのだろう。被害者が複数校に跨がっているということだから、来た者から順番に説明を受けるのだろう。今原市教育委員会からも教育長あたりが呼ばれているはずだ。
「校長先生こそ、大丈夫ですか。お顔の色が優れませんが。」
 御雷の言葉の中に「しっかりしろ」というメッセージを読み取って、尾内は緊張する。これも―――こんな惨劇すらも学校再生に必要な手順だというのか。
 もう後戻りできないことを、改めて噛みしめる。元はと言えば、自分が文部省に要請したことだ。
 無理に笑顔を作った。
「私は大丈夫です。お二人は疲れたでしょう。今日はもう帰って休んでください。」
「ぼくは、何とか。でも、菊池先生はさすがにショックが大きいみたいで。当たり前ですけど。」
 菊池は俯いたままだ。涙が、一粒だけこぼれた。
 娘のような年齢の菊池が憔悴しているのを見るのは、尾内にとっても辛い。
「菊池先生には辛い思いをさせてしまいましたね…。御雷先生、後をお願いできますか。」
「ええ。ちゃんと学校まで連れて帰ります。後は…田中先生や守矢先生もいますから。」
 たしかに、女性同士の方がいいこともあるだろう。
 納得して歩き去ろうとした尾内を、背後から御雷が呼び止めた。
「校長先生。」
「何でしょう。」
「これからも、よろしくお願いします。」
 何ということはない声と表情ではあったが。
 そこに込められたニュアンスに、尾内は心臓を掴まれたような気分になる。それでも、こう言うのが校長の務めだ。
「こちらこそ。最後までよろしくお願いしますよ、御雷先生。」

      8
 結局、学校に戻る車中で菊池は一言も喋らなかった。
 御雷も、敢えて声を掛けることはしない。
 たった一言喋っただけで、堪えていたものが崩れてしまうことが、人間にはあるものだ。
 菊池が沈黙を以て己の内にあるものに耐えているなら、それを妨げてはならない。
 そう考えている。
 菊池が御雷の存在を心の支えにしていることは、何となくわかる。それも、ある程度は仕方のないことだと諦めている。
 しかし、御雷に依存しきってしまうのは駄目だ。この女を、俺なしでは生きられない人間にしてしまってはならない。
 だから、慰めない。言葉でも、態度でも、もちろん身体でも。
 大切に思えば、却って冷淡とも思える態度になる。
 御雷は、そういう男であった。
 菊池が初めて涙を見せたのは、職員室で田中や守矢の顔を見たときだった。子供のように声を上げて泣き崩れる彼女を、二人が別室に連れて行く。
 放課後の校舎内に生徒の姿はない。
 御雷は校庭で部活動に励む生徒たちを眺めて小さく溜め息をついた。
 教頭には帰校の報告をしたが、馬越宅の状況についてあれこれ尋ねられることはなかった。校長から指示を受けているのだ。他の教員にも白石と馬越が死んだという事実だけは伝えられているようだ。それなりに、気を遣ってくれている雰囲気がある。
 白石の担任は体調を崩して早退したらしい。それも仕方のないことだ。
 御雷も、帰ろうと思っている。校長から許可ももらっている。
 自分が酷く疲れているという実感があった。警察は、やはり苦手だ。御雷自身が法の番人だったのは、遙かな過去の話である。
 だが、菊池を放置するのも躊躇われた。かといって、乱れた感情を吐き出している最中であろう彼女の様子を見に行くのは更に躊躇われた。
 ひょっこりと田中が職員室に戻ってきた。
「菊池先生の様子はどうですか。」
 御雷の声に待ちかねていたような響きを感じて、田中は小さく笑った。この男にしては、珍しい。
「少し、落ち着きました。けど、大分参っているみたい。」
「警察でお昼を出してくれたんですが、殆ど食べられなかったみたいです。」
 ぼくも、半分しか食べられませんでしたが、と付け加える。無論、食べられなかったのではない。食べなかっただけだ。だから、今は苦しいほどの空腹を感じている。
「田中先生。」
「どうしたんですか。改まって。」
「今日は、菊池先生を一人にしない方がいいと思うんです。田中先生の所に泊めてあげられませんか。逆に、あなたが菊池先生の家に泊まってもいい。」
 教頭に視線を送ると、小泉も同意した。
「たしかに…菊池先生は責任感の強い人ですからね。一人で思い詰めてしまうのが心配ではありますね。」
「それは、別にかまいませんけど。私も同じことを思って、御雷先生に頼みに来たんですけど。」
「ぼくに?」
 田中は大きく頷いた。
「こんな時だからこそ、好きな人の側に居て、あれこれ身の回りの世話でもしていれば気が紛れるかと思って。」
 おいおい。ちょっと待て。今夜も俺は忙しい。
「それは、駄目ですよ。」
「何故?いくら御雷先生でも、さすがに今日は菊ちゃんを手込めにしようとはしないでしょう?」
「手込めって…いつの時代ですか。」
 思わず笑ってしまう。少しだけ、身体が軽くなった気がした。
 こんな時だからこそ、敢えて馬鹿馬鹿しいことを言ってみる―――田中には、場を明るくする才能があった。
「まったく、田中先生には敵いませんよ。」
 笑顔を収めて、真っ直ぐに田中の瞳を見据えた。
 黒曜石のような瞳の底に強い光が宿っているのを見て、あの田中が頬を赤らめた。
 何という眼で女を見るのだ、この男は。平和そうな外見に騙されると痛い目に遭わされそうだ。田中は動悸を抑えようと努めながら、そんなことを思った。
「でも、駄目ですよ。菊池先生を泊めるわけにはいきません。まあ、彼女の作る飯を食べられないのは残念ですが…やっぱり駄目です。」
 どうして、と重ねて尋ねた。
「ぼくと居ると、今日のことをどうしても思い出してしまうからですよ。」
 ああ、と田中は理解する。
「彼女には、死体を見せないようにしました。でも、人が死んでいる現場には特有の空気感みたいなものがあるでしょう?菊池先生は、そういうものに割と敏感なようなので。」
 田中は目を丸くする。
「それって…霊感みたいなもの?」
「さあ、どうでしょう。本人が聞いたら怒りそうですが、割と鈍い方ですよね?菊池先生は。」
 この指摘には頷くしかない。良くも悪くも、それが菊池の持ち味だ。
「でも、時々、意外なほどに鋭い指摘をしたりすることはありませんか。一度見たものを驚くほど詳細に記憶していたり。」
「うん…私もそれは経験があります。」
「多分、ですが。菊池先生は『忘れる』ことが苦手なんだと思います。ふだん鈍いのも、敢えて自分自身の感度を下げているように思えてならないんです。嫌な記憶を取り込まずに済むように。」
 それは、あるかもしれない。以前に菊池から身の上話を聞かされたことがある田中には、納得できる話であった。
「だから、今晩はぼくと一緒に過ごさない方がいいんです。できれば気分転換させてあげてください。」
 お願いします、と御雷は頭を下げた。
「それはいいけど…。わかりました。ぐずぐず言うようなら、みっちりと道場でしごいてやりますよ。」
 余計なことを考えられないくらいに肉体を追い込んでやれば、意外に感情や思考の切り替えが上手く行ったりするものだ。
「今原市の体育館でやってますから、暇なときに覗きに来てくださいよ。菊ちゃんもきっと張り切るから。」
 言いたいことを言ってしまうと、田中はさっさと職員室から出て行った。
 稲見中に田中が居てくれてよかった。この時の御雷は心からそう思った。

 翌日の新聞には、一面にでかでかと今原市の名前が出ていた。大量の不審な死を遂げた者が発生している、という内容だ。
 御雷は新聞を取っていないから、出勤途中にコンビニで購入して、そのまま駐車場のスバルの中で広げてみる。深夜のニュースで扱った内容よりは詳しく書いてあった。
 曰く―――今原市を中心に、隣接する郡市で毒物による中毒症状を訴えて救急搬送される者が相次いだ。家族が見付けたときには既に死亡していた者も多く、現在わかっているだけで二十名余りの死亡が確認されている。それぞれの被害者同士に接点は見つかっていないが、死亡現場からいずれも麻薬の包みと注射器が発見されたことから、日常的に薬物を使用していたと見られる。残されていた薬物から、猛毒のシアン化ナトリウムが検出されており、何者かが大量殺人の狙いをもって毒物を混入した麻薬を売ったものと考えられる。警察では麻薬の販売ルートを調べるとともに、テレビ放送で麻薬使用者らを対象に薬物の使用をやめるよう異例の呼びかけを行った。今後、さらに被害者が増える可能性もあるため、予断を許さない状況だといえる。なお、被害者の中には小学生から高校生までの子供も含まれており、県教育委員会は臨時の校長会を開いて、子供達への啓発活動の強化を中心とした対策や、その他の子供達に対する心のケアについて協議を行った…云々。
 そういうことらしい。
 現時点では、保護者説明会を開いたり、臨時集会で生徒に状況を知らせたりすることは難しいだろう。そう思いながら、御雷は出勤する。普段より随分遅い。職員室に入ったのは、もうすぐ職員朝礼が始まろうかという時間であった。
 今日も職員室は慌ただしい雰囲気に満ちていた。欠席者が四人。家庭からの連絡は悲痛なものであった。昨日の白石のケースと全く同じだ。職朝は省かれることになった。
 名を聞かずとも、御雷にはわかる。来ないのは、まず二年生の遠藤秀一。あとは三年生が四人だ。その中には生徒会役員もいれば、常にトップクラスの成績を誇る俊英もいる。
 御雷は事前にビデオカメラの映像で確認しているが、三年団の教員にとっては寝耳に水だろう。慌てふためいて対応しているように見えるが、その実不思議な落ち着きがある。
 三年生の六道と近藤が、死んだ。二年生の片瀬が死んだ。白石と馬越も死んだ。
 まだ死ぬ奴が出てくるのではないか。
 無意識のうちに心の準備ができつつあるのだ、と御雷は分析する。
 それは大事なことだと思うが、「今年に限って生徒がたくさん死ぬのは何故だ」という思考に繋げてもらっては困る。
 西本が執拗に御雷を観察していることにも気が付いてはいた。おそらく、河津組の差し金だろう。奴らを少し混乱させてやらねばならない。
 御雷が自分の席に座ると、菊池の方から声を掛けてきた。
「昨日はありがとうございました。いろんなことを御雷先生に助けてもらったのに、お礼も言えなくて…ごめんなさい。」
 まだ、顔色が優れない。
「気にしないでください。動転して当然ですよ。それより…昨夜はちゃんと眠れましたか。」
 意外なことに菊池は苦笑してみせた。
「昨夜は田中先生にみっちりと鍛えられましたから。何も考えられないほど疲れさせてくれたので、今朝は起きられませんでした。」
 田中がコーヒーカップを持ったまま、ニヤニヤと笑っている。
「その顔…まだモヤモヤしてるな。今日も揉んでやるから覚悟しなよ。」
 菊池が助けを求めるような視線を御雷に向ける…のに対して、笑顔で応えてやった。
「田中先生の言うとおりですよ。自分の中の感情が燃え尽きるまで、身体を追い込むのもいいもんですよ。」
 恨みがましい眼で、菊池が睨む。
「助けてはくれないんですか。」
 御雷は器用に片目を瞑って笑った。
「『今はないものについて考えるときではない。今あるもので、何ができるかを考えるときである。』ですよ。あなたには田中先生がいます。精一杯稽古に励んでください。」
 がっくりと机に突っ伏す様を見て、御雷は少しだけ安心する。
 修羅場を経験して、この女はまた少し強くなった。
 田中を便利に使わせてもらおうと思う。彼女がいてくれれば、菊池は元気でいられるだろう。そして田中が彼女を守ってくれるだろう。
 御雷が稲見中を去った後も。
 仕事を進めるということは、離任の日が近付くということでもある。
 雑な仕事は好まないが、攪乱と御雷にとって都合のよい誤解を生み出すためには、熟考よりも拙速を尊ぶことも致し方ない。
 惨事と混乱の中だからこそ、今が攻め時なのだ。
 
 昨夜のうちに、二年生教室のある教棟――「離れ小島」の一階部分にある嵌め殺しのガラス窓を割っておいた。
 校舎というものは、外に面している窓には軟式野球の打球程度なら簡単に弾き返すことができる強化ガラスを用いているものだ。非常に高い強度を誇る強化ガラスではあるが、一旦傷が付けば、一気に崩壊するという性質を持っている。
 強化ガラスは普通の板ガラスを加熱し、急冷却することで作り出される。ガラス表面には圧縮応力層、ガラス内部には引張り応力層が形成され―――などと説明しても混乱するだけだ。要は、二種類の応力がパンパンに張り詰めた状態を作ることで、外力に対して非常な抵抗力をもたせているとイメージすればいい。もし、張り詰めて均衡を保っている二種類の応力のバランスを崩せばどうなるか?内に張り詰めていた力がガラス自体を砕いてしまう。
 だから、強化ガラスはある程度の深さの傷が付けば、たとえそれが小さなものであっても、ガラス全体が細かな破片となって砕けてしまうのだ。粒状の破片になるため、比較的安全性は高いが、樹脂フィルムなどを幾重にも挟んだ防犯ガラスに比べれば、はるかに割りやすい。
 単に鋭利なもので――点で突いてやればいいのだ。御雷は自動車用品店で売っていた、非常時にサイドウインドウを割るためのグラスブレイカーで、窓を無造作に叩く。粉々になったガラスは室内に落ちる。窓枠に残った破片を丹念に取り除き、室内に滑り込む。
 警備装置は貴重品や生徒の個人情報、あるいは危険物のある場所を中心に設置されている。決して校舎全体をカバーしているわけではない。
 室内に入り込んだ御雷は、掃除用具庫から箒を出して、ガラス片を綺麗に部屋の端に掃き寄せた。ガラスの破片に気付いたワル共が、自分で片付けた、という体裁を取るためだ。さすがにガラスまみれの空間で寛ぐ気にはならないだろう。
 だが、御雷が使った箒には、奴らの指紋が付いていない。チャンバラごっこに使ったとしても、指の向きを調べれば持ち方は判ってしまう。それでも、「指紋がない」よりはましか…。
 少し考えて、二本の箒を奴らがよくダベっている場所に転がした。どこから持って来たのか、擦り切れた体育館用のマットが敷かれている。古い廃棄用のものを持ちだしてきたものか。彼らにとってはソファであり、ベッド代わりにもなる。邪魔になるものは自分たちで勝手にどかしてくれるはずだ。べったりと指紋を付けながら。
 今の季節、窓から入ってくる風は心地よいものだろう。ガラスがなくても「誰がやったのかは知らないが、具合がいい」程度の認識しか持つまい。むしろ、校舎を損傷した犯人を称賛するかもしれない。
 準備を調えると、御雷は窓から外に出た。ガラス面に貼っていた毛糸は失われているため、改めて窓枠に貼り直す。
 下ごしらえは上々だ。料理と違うところは、当日にならないと何を料理するかわからないところだけである。

 いつものように、御雷は授業を始めた。二年五組の英語科である。馬越以外は全員出席している。相変わらず西本の視線は御雷に注がれていた。特に邪魔をするということもない。
 不気味ではあるが、授業は格段にやりやすい。
 御雷は単元のまとめを兼ねて発展的な学習をさせてやろうと考えていた。
 日本人の中学生が、留学生とともにアメリカに住む彼女の祖母に会いにいく、というストーリーを扱ったばかりである。その中で触れられていたアメリカの街の様子や観光地等の生の映像を見せてやる。事前に、映像から引き出すべき情報の項目を挙げたワークシートを配布している。
「それじゃあ、準備ができたら動画を流すからね。メモするのは英語でも日本語でもいいから、気楽にいってみようか。」
 投影スクリーンは各教室備え付けのものだが、そこに映像を映し出す小型のプロジェクターは御雷の私物だ。手にしたタブレット型コンピュータから伸びたケーブルが、ネイビーブルーのジャケットのポケットの中に消えている。
 スクリーンにはタブレットの画面が映し出されている。いくつものアイコンや、動画のサムネイルが並んでいる。
 久しぶりに御雷の授業を見学している菊池は、ほう…と驚きの溜め息を吐く。生徒たちが、御雷の用意した機材に完全に馴染んでいるのを感じたからだ。近くの生徒に尋ねてみる。
「ねえ、御雷先生は、よくああいう機械を使うの?」
「はい、いつもじゃないけど。動画を見せてくれたり、聞き取りの練習をするときにも使います。あと、授業中も成績データを入力していることがありますよ。」
「ああ、私たちが記録簿にいろいろ書くのと同じ事を、コンピュータに直接入れているわけね。」
「そうみたいです。最初は目の前で記録されるのは嫌だったんだけど。御雷先生は基本的にみんなが頑張っているところを記録してくれるから、もう慣れましたけど。」
 記録簿。補助簿。古くは閻魔帳とも呼ばれることもあった。教師にとっては日々の授業や課題について記録し、生徒の評価や指導の改善に生かすための大切な情報の記録媒体だ。
「私が生徒だった頃は、タブレットなんて使う先生はいなかったけれど。」
 まだ若いつもり―――実際若いのだが、それでも時間の流れを感じずにはいられない。
 御雷が最初の動画をタップした。すぐにタブレット全面に動画ウインドウが広がり、坂の多いサンフランシスコの街並みが映し出された。可愛らしいケーブルカーが走る様に、生徒の視線が引き寄せられる。教科書では文章で説明されていたことを、ほぼそのままの映像で見せてやる。
 生徒たちは瞬時に映像に入り込む。それは、菊池も同じだ。
 御雷は、狙撃支援アプリを起動させた。タブレットの画面では、動画の画面に被さるようにウインドウが開いているのだが、プロジェクターには送られない。
 狙撃システムをコントロールするための画面は、御雷にしか見ることができないようになっているわけだ。
 口では動画の中のそれぞれのシーンについて解説を加えながら、指先は狙撃支援ロボットの起動操作を行っている。耳にイヤフォンを挿してはいなかったが、御雷にはK2の声を聞くことができた。
 プロジェクターのスピーカーから出ているのは動画の音声だけではない。同時にK2からの通信もポケット内の携帯電話を通して流されている。ただし、K2の声は常人の可聴域を遥かに超えたところで発せられているため、御雷以外には認識できないのだ。
『狙撃支援ロボット起動。量子リンク良好です。システム異常なし。登載銃器正常。照準システム正常。離脱ルートセッティング完了。防水カバー排除完了。いつでも、撃てます。』
 ウインドウを狙撃モードに切り替えた。味気ない文字情報だけの画面から、カメラを通して見た『離れ小島』の映像に切り替わる。
 動画はチャイナタウンに変わっている。御雷はすいすいとタブレットの画面に触れながら解説を続けている。
 狙撃ウインドウをタブレットの画面全体まで大きくする。窓の奥に、人影が、四つ。スワイプして倍率を上げる。
 一際大柄な影は南方猛だ。熟れすぎた果実のような、白井希美。パシリ担当の田村浩二も、顔を見れば決して嫌々つるんでいるのではないのが判る。もう一人は――。
 御雷の表情が僅かに曇る。解説は淀みなく続けている。動画はフィッシャーマンズワーフに切り替わった。
 四人目の生徒は玉井淳也であった。まだ奴らと切れていなかったのか…と口の中が苦くなるような思いがあった。授業を抜け出しているのだから、そういうことなのだろう。
 御雷は狙撃マーカーを動かして一人一人の頭を狙ってみる。二十二口径弾は、強化ガラスを抜ける際に弾道に大きく影響を受ける。ガラスの割れる音は彼らを慌てさせるだろうし、初弾を外せば御雷が思い描くような仕事にならない。だから、事前にガラスを除いたのだ。
 四人は雑談に興じ、分け合って煙草を吸った。
 やがて、宴が始まった。
 白井が男三人に薬を打ってやる。彼女は西本から直接麻薬を供給してもらっているため、安全だというわけだ。自分にも打つ。
 すぐに薬が全員に効いてくる。
 白井の動きに、御雷はある種投げやりで捨て鉢なものを感じる。その直感は当たっていた。
 男三人が見守る前で、白井はセーラー服を脱ぎ捨て、白い裸体を惜しげもなく見せ付けながら、露骨に誘惑し始めたのである。
 へえ、と御雷は驚きを感じる。解説は続けている。
 目の前に西本がいる。奴は、自分の情婦(いろ)が今まさに他の男と寝ようとしていることを知っているのだろうか。
 自分が五組で授業をしている間に、溜まり場に現れたワル共は全員撃つつもりであった。既に仲間内から死亡者が出ている状況下で、なおも行いを改められない奴は、切除の対象になる。
 すぐに撃つつもりであったが、少しだけ成り行きを見守ることにする。
 ウインドウの中で、我慢しきれなくなった南方が白井をマットに押し倒すのが見えた。前戯もそこそこに男根を白井の股に突っ込む。避妊具は着けていない。激しくのたうち回りながら腰を振り、汗まみれになりながら喘ぐ姿は、浅ましい動物そのものだ。交尾を間近で見ていて興奮したものか、田村と玉井も下半身裸になって、粗末な男性器をおっ立てている。
 白井は全員と寝るつもりなのだろう。
 よりによって、学校でやるなよ。
 皮肉な笑みは、御雷の胸の中に仕舞われる。
 おそらく。原因は西本の心変わりだ。あいつは、この頃菊池にご執心のようだから。
 それで、ヤケになったのか、西本への当てつけかは知らないが、こんな無茶苦茶な行為に及んだというわけだ。
 そこまで西本が菊池に入れ込んでいるなら、なおのこと菊池の守りを固める必要がある…。
 そう思いながら、マーカーを南方の横顔――耳の穴に合わせた。南方が尻を痙攣させ、ダイレクトに白井の中に射精するタイミングに合わせて、タップを二回。柔道で潰れた耳から血を吹き出し、南方の瞬きが止まった。腰は惰性で二、三回動いて止まった。
 乾いた発射音が、遅れて聞こえてきた。二十二ロングライフル弾をライフル銃で撃つなら、五十メートルも離れれば聞こえる発射音は極軽いものになる。
 百キロ近い体重をもろに受け止めて身動きが取れなくなった白井の眼を撃った。
 性器を勃起させて呆然と目の前の殺人に目を奪われている田村の男根の根元を撃った。堪らずしゃがみ込む首筋に数発撃ち込む。
 あっという間に、三人の中学生が人の形をした肉になるのを、玉井は信じがたい思いで見ていた。そして、当たり前のことに気が付いた。
 次は、自分の番だ。震えが全身に走る間も与えられはしなかった。
 玉井…最後まで親不孝だったな。これで、お別れだ。
 微塵の躊躇いもなく、御雷は玉井の顔を二回タップした。
『全員、ほぼ即死ですが、まだ撃ちますか。』
 返事の代わりに、御雷は画面をリズミカルにタップし続けた。
 菊池は異変に気付いた一人だった。
 動画を見ていて、「まるで実際に街を歩いている人間の目線のようだ」と感心していた。
 と、あることに気が付いた。画面に時々黒いノイズが入るのである。黒いコマが一瞬挿入されるような感覚がある。気を付けていないとわからないが、ほぼ一定のリズムで、数秒に一回。
 どこかで見たような。とてもよく知っている現象―――これは、まばたきだ。ということは、この映像は本当に誰かの目が見た光景を記録したものなのか…。
 菊池は、映像がK2の視覚記録であることを知らない。
 小さく混乱しかけたとき、乾いた破裂音が遠くで鳴るのを聞いた。
 銃声だ、と思った。菊池は聞いたことがあった。ただ彼女がかつて聞いたのは、もっと近く―――本当に目の前だったが。
 一瞬、御雷が顔を上げた。が、気のせいだったのかとでもいうように、授業に戻ってしまう。途切れることなく英語と日本語を織り交ぜながら解説やらワークシートのヒントを与えてやったりしている。
 破裂音はしばらくの間続いた。大した音ではないから、初めは気が散っていた生徒もすぐに慣れてしまった。
 御雷はウインドウをぼんやりとした視線を装いながら眺めている。マグチェンジ。
 やがて、異変に気付いたらしい教師の一団がどやどやと溜まり場にやって来た。
 やっと来たか。生徒ばかり撃たれるというのもバランスが悪いからな。
 御雷はマーカーを動かした。
 お前は部活だけじゃなく、少しはまともに仕事をしろ。
 御雷は個人的に嫌いな、その教師の尻に一発撃ち込んだ。飛び上がったかと思えば、そのまま尻餅をついて悲鳴を上げる。
 悲痛な悲鳴は、二年五組まで聞こえてきた。
 御雷は画面から顔を上げた。
「今のは、何でしょう。」
 菊池に問いながら、狙撃支援アプリに狙撃終了の指示を入力する。
『狙撃終了の命令を受諾。銃器及び弾倉を投棄。移動形態に変形して回収地点に向かいます。タブレットから狙撃アプリを消去してください。以上で直接通信を終了します』
 K2の声が作戦終了を告げる。今ごろ、巨大なゲジゲジのような姿から、蛇のような姿に姿を変えた狙撃支援ロボットは、人間が決して通ることができない低木の下や狭い隙間ばかりを選んで、御雷に回収される予定地に向かいつつあるはずだ。
 御雷は、そっと狙撃支援アプリをタブレット上から消去する操作を行った。

      9
 さすがに今度ばかりは騒然となった。
 稲見中学校には何台ものパトカーが駆けつけている。
 現場検証が行われている間、生徒たちは自分たちの教室に留め置かれている。
 管理職は教育委員会への報告や、家庭への配布文書を作成するのに忙しい。
 校内で銃撃による死者が出たのである。銃声を聞いた生徒も多い。中学生ともなれば、物々しい雰囲気から、ただ事ではないことぐらいは悟ってしまう。
 このまま、何事もなかったように帰らせるわけにはいかない。不確定な情報が一人歩きするのも困るし、それ以上に生徒の安全確保について保護者からクレームが付くことを恐れているのだ。
 こういうケースでは、情報の出し方が難しい。校長と今原市教育長は、県教委とも相談の上、無難な対応を取ることに決めた。
 警察とも相談して、出せる範囲で情報を出すことにしたのである。
 詳細は不明ながら、非常事態が発生したことを知らせ、学校の安全が確認されるまでの間、臨時休校とする。捜査の進展も見ながら、保護者説明会を開くこととし、授業の再開や、説明会の開催日については、決まり次第担任から連絡する。家庭においては無用の外出を避け、戸締まり等に注意を払って過ごすよう保護者に協力を依頼する。
 そのような内容が記された文書を、生徒たちが持ち帰ることになっている。
 非常に特殊な事案であると思われること、それでも万一の場合に備えて生徒の安全を最優先にすることなど、教務主任の伊賀が書き上げたのは名文と呼ぶに値する内容と表現力であった。
 物腰の柔らかいベテランの刑事たちが、各クラスで同時に聞き取りを行った。銃撃事件があったことを知らせ――死者が出たことなどはまだ伏せているが――、銃撃があった時間帯の生徒たちの動向や、銃声その他で気付いたことはなかったか…などというようなことが尋ねられる。
 銃声を聞いた者は多かったが、それを銃声だと認識した者はいなかった。当然ながら、教室で授業を受けていた者には鉄壁のアリバイがある。
 それは、教師についても同じだ。
 「全員を疑え」が絶対のセオリーではあるが、生徒の目の前で授業をしている教師に犯行は不可能である。実現するには身体が二つ必要だ。御雷や菊池は、生徒同様通り一遍の聞き取りをされただけで解放された。
 菊池はそのまま保護者への連絡に追われている。生徒を迎えに来るように要請しているのだ。必要なら親の職場へも連絡を入れる。顔色は悪く、唇にも血の気がないが、気丈にも電話をかけ続けている。
 死亡した生徒の担任は、実況見分に呼ばれている。二年生ばかり、一組から四組まで、それぞれのクラスから被害者が出ていた。担任が不在の学級については、学年主任をはじめ、副担任が代わって連絡する。菊池同様電話にかじりついている。一、三年生の担任も同様の動きを始めている。稲見中の電話回線は二本しかないから、自前の携帯電話を使っている者も多い。
 御雷は、二年五組の連絡を半分受け持ってやる。こうショックが続くと、本当に菊池は倒れてしまう。
 自分の行為が菊池を打ちのめしていることは自覚しているが、彼女を気遣う気持ちにも嘘はない。
 矛盾はあっても躊躇いは、ない。
 御雷は、そういう男であった。

 生徒全員を保護者に引き渡し終えたときには、午後七時を回っていた。生徒の聞き取りが終わった後、一旦全員を体育館に集め、改めて校長から現在の状況と臨時休校の間の過ごし方について説明があった。後は、保護者が迎えに来た者から、順に帰って行く。何人かの親は渋々という感じではあったが、それでも全員が帰路に就いた。
 生徒が帰っても、教師は帰れない。少なくとも、多くの教員は事件の詳細を知らされてはいないのだ。
 はっきり言って、銃器を使った犯罪に対して日本の教育現場は無力といっていい。実際には、一人の刃物男を制圧できる程度の訓練ですら、行われている学校の方が少ないのが現実だ。
 今回の事件に対して打てる対策などなきに等しい。それでも情報の共有化は図らねばならない。
 教頭より、被害者―――殺された四人の名前が挙げられる。それぞれの生徒が全身に十発余りの小口径の銃弾を浴びており、おそらくそのうちの一発が致命傷になったであろうこと。
 さらに、南方と白井は性交の真っ最中であり、残る二人も白井と寝る順番待ちをしていたであろう状況証拠があった…さすがに女性教員の前では報告しにくい内容ではある。
 狙撃に用いられたライフルはすぐに発見された。学校からわずか五十メートル。裏山の尾根の上で、三本の弾倉を撃ち尽くした状態で見つかっている。犯人のものらしい足跡はなかった。
 ただ、細く鋭い杭を何本も地面に打ち込んだような痕跡と、重く長いものが引き摺られたような跡が銃器の周りにあった。異様なことだが、犯人が這いずって移動した可能性もある。
 だが、期待はあっさりと裏切られた。引き摺り痕は、すぐに低木の茂みの中に消えていたのである。地面からの空間は二十センチもない。人間が通り抜けられるだけの空間が無いのである。無論、御雷は狙撃支援ロボットを設置後、自分の足跡を消しながら車まで戻っていた。
 結局、大したことはわからぬまま、臨時の職員会はお開きとなった。明日からは休校日だ。教員にとっても精神的なショックは大きい。状況を勘案して、職務専念の義務が免除されることとなった。管理職や教務主任、生徒指導主事あたりはそうもいかない。マスコミへの対応も含めて、職員室に詰めることになる。
 さて、と御雷は考える。
 残るターゲットは西本祐司と石川賢治だけである。休校日の間に姿をくらませる可能性は否定できない。ここまで仲間が殺されれば、明確な意図を持った攻撃を受けていることを自覚するだろう。
 そうなると、狩り出して殺すには少々手間が掛かる。隠れるとすれば、沢田のところだろう。ことによると、本当に河津組を潰す気で取り組まねば、こちらの身が危ないかもしれない。
 休校日の過ごし方について、御雷は考えてみる。有難いことに教員業は休みだ。一刻も早く西本と石川の立ち回り先を押さえたい、という気持ちはある。が、この状況で活発に動けば、周囲に潜んでいるであろう警察の情報網に容易く捉えられるだろう。
 ここは一つ、ゆっくり骨休めをした方が、仕事の仕上がりをよくすることに繋がるのではないか?そんな風に考えることにした。
 一つ心配なのは菊池のことだ。
 西本が彼女に強い関心を寄せているのは、御雷も知るところである。とにかく菊池を見る目が違う。彼女を傷付けようとした仲間をひどく痛めつけたこともある。何より、ほぼ夫婦同然であった白井との関係が、急速に冷めているという噂であった。今日の事件の状況を見れば、それもあながち間違っていないような気がしてくる。白井はどうしてそこまで壊れてしまったのか。
 おそらく。
 嫉妬に狂った白井は、薬の量を増やすことでストレスに対処しようとしたのだろう。だが、それは白井という人間を壊すことにも繋がる愚かな試みであった。最終的に、己の内面が吹き出すのを押さえられなくなってしまった。
 捨て鉢なのは自己評価の低さ。他の男に抱かれようとするのは西本に対する執着の深さの屈折した顕れ。そして、十分に奴に抱いてもらえない欲求不満の表れだ。複数の男を同時に受け入れようと誘惑したのは、己の魅力に不安を感じていることの裏返しだ。
 それらが白井自身を喰い尽くしたのだ。
 御雷が放った銃弾が命を奪う以前から、白井という人間は既に死んでいたのである。
 かつて御雷は「自分はどう生きればいいのかわからないのだ」と語ったことがある。
 田中と菊池に、教諭になることを勧められたときのことだ。
 どう生きればいいのかわからないのは、きっと白井たちも同じだったのだろう。
 だが、断じて同じではない。
 自分で手を下してみて、御雷は殆ど初めて自覚した。
 俺は、どう生きればいいのかわからないのでは、ない。
 どう死ねばいいのかわからないだけなのだ。
 学校再生専門員を続けていれば、やがて命を失うことがあるかもしれない。そう思いながら、二十年が過ぎた。
 今は、どうだ?と自問する。
 終わりの見えない退屈な生を、生き続けたいとは思わない。
 しかし、今は死ねない。少なくとも稲見中での仕事を仕上げるまでは。
 守りたいものがある。
 御雷は、改めて田中に頼んだ。休校中の菊池の身の安全を、である。
 田中は快諾してくれた。
「本当はさ。二人でデートにでも行けって言いたいんだけど。この状況じゃ、そうもいきませんからね。」
 菊池は不満そうだ。また子供扱いされていると感じているのかもしれない。
「そんな顔をしないでください。まだ銃撃犯も捕まっていないし、西本たちも気が立っているはずです。」
 何気ない調子で情報を与えてやる。
「気付いていましたか?西本はあなたのことが好きなんですよ。」
 菊池はぎょっとした。その様子に、田中の方が驚きを隠せない。
「おい、鈍感にも程があるでしょうに。あいつがあんたを見る目は、完全に『女』を見る目なのよね。これはまずいかも、と私も思ってたんだ。」
「だって、私は十歳も年上なんですよ。いくらなんでも、そんな。」
「関係ありませんよ。あいつを、年相応の子供だと考えてはいけないでしょう?」
 たしかに。他の連中とは、違う。一人だけ大人びたような雰囲気を纏ってはいる。そして、西本こそがまだ原石でしかなかった白井に手を付け、あのような女になるよう全身を開発してやった張本人なのである。
 少年でありながら、女体を熟知した指先が己の肌に触れるのを想像して、菊池は身震いした。
 それを見ながら、御雷は己を振り返って苦笑いする。俺が女を知った頃はどうだったか。それを知ったなら、菊池はもう俺を身近には置かないだろう。
「もう、時効ですけどね。」
 思わず呟いた声を、菊池が聞きとがめる。
「え?何ですって?」
 微笑で誤魔化した。
「落ち着いたら、いくらでも遊びに行けますよと言ったんです。」
 話の流れ的に、どこへ行きたいか尋ねないわけにはいかなかった。
「遊園地とかは嫌ですよ。人混みは苦手なんです。」
「そうですねえ…。」
 人差し指を下唇に当てて、しばらく考え込む。
 美術館か博物館ぐらいにしてほしい、と御雷は思った。百歩譲って、大型ショッピングモールでの買い物に付き合うぐらいなら我慢する。
 菊池の顔が輝いた。名案が浮かんだらしい。
「アメリカ。」
「はい?」
 御雷は困惑を声に乗せた。菊池は実に歯切れよく希望を言葉にしてみせた。
「アメリカに行って、御雷先生が通った学校や、住んでいた街を見てみたいです。」
 これは、また、意外な…。やっとのことで、声を絞り出す。
「連れていくのはかまいませんが…しばらくは帰れませんよ。そうなると、もう旅行になりますね。」
「できれば、向こうに住んでみたいぐらいですよ。」
 菊池はいつもと変わらぬ笑顔で言ってのけた。
 考えておきます、と言い残して職員室から出て行く御雷の足取りが、いつになく危うい。試合後のボクサーのようだ、と田中は可笑しくなる。
「効いてる効いてる。菊ちゃん、凄いところにパンチを打ったねぇ。」
「え?何がですか。」
 当人は眼をぱちくりさせている。
「おい、マジか。」
 細い肩を掴んで揺さぶった。声が大きくなる。
「あんたねぇ、『あなたの故郷に行きたい』『しばらく帰れなくてもいい』『むこうに住みたい』って、言われた方はどう受け取るかわかってんの?」
 まだピンときていない。ならば、これでどうだ。
「あんたはね、『あなたの故郷であるアメリカで、あなたと一緒に暮らしたい』って言ったのよ。」
 あ、と菊池は口を押さえた。瞬時に真っ赤になる。これは、女性からのプロポーズだ。
「菊池ィ、見かけによらず大胆だな。ついに押し掛け女房になる覚悟を決めたか。」
 面白がって茶化す田中の方を、不意に真顔で見る。
「もし、御雷先生がいいって言ってくれるなら、それもいいかも。」
 吉本新喜劇ばりにずっこけながら、田中は豪快に笑った。
「あんたも、大物に成長したじゃない。」
 だけど、あの男だけはやめた方がいいかもしれない。あんたとは、相性が悪すぎる。
 恋に落ちた後輩の目をどう覚まさせるか。
 笑顔の下で田中は暗く思考を巡らせていた。
その頃。
 スバルのハンドルを握りながら、御雷は大きなくしゃみをした。やっぱり、風邪だろうか。
 休校日の間は自堕落に過ごす時間も作ろう、と心に決める。
 ちらちらとミラーに目をやるが、尾行は付いていない。
 車窓の風景が田園部に変わってきた頃、一台の自動販売機の前で車を停めた。運転席のドアを開けたまま、御雷はスバルを下りる。自動販売機に近付き、小銭を何枚か投入する。冷たい缶コーヒーを買った。最近少し蒸し暑い日が続いている。
 自動販売機の後から滑り出たものがあった。速い。御雷と入れ違うように、運転席側の道から車内に入り込む。
 金属製の蛇であった。狙撃支援ロボットが現場を離脱するときの形態の一つである。全体が小片状の金属部品と人工筋肉の組み合わせで作られているため、パーツの位置関係を調節することで活動環境に適した形態を取ることができる。今回使用したのは、静的安定度に優れたゲジゲジのような多脚形態と、移動速度及び移動ルートの自由度に優れた蛇のような形態である。他にもいくつか形を変えられるが、御雷自身が苦手としている百足のような形態だけは使ったことがない。
 金属製の蛇は助手席のシート状に腰を落ち着けると、全身のパーツを組み替えて最初のトランク状の形態に戻った。何食わぬ顔で御雷が乗り込み、ドアを閉める。
 そのまま、コンテナ基地へ運び込んだ。今は石上邸と頻繁に往復するのは避けた方がいい、という予感がある。
      *
 毒物混入麻薬―――御雷が売り捌いた薬の被害者が、ついに五十人を超えた。
 河津組組長である沢田は、頭が痛い。
 これまでは、河津組が大量に仕入れる麻薬を使って、多額の活動資金を得てきた。他の組へも薬を融通してやることで、緩やかな協力関係―――実質的に河津組傘下となった小組織も多い。
 事実上、今原市を中心としたかなりの範囲で、麻薬の独占販売を行っているのだ。
 それだけに。
 一度付いた傷は致命的なものになる可能性があった。
 つまり。
 今原市で売られた麻薬に猛毒が混入してあったおかげで多数の死者が出た。実際には一人の売人に扮した御雷の仕業だが、他の組織や薬を買い求めるものはそんなことは知らない。そして、疑心を抱くようになる。
 河津組の扱う麻薬に手を出すと、死ぬかもしれない。一般人には、現物を見ても、それが安全なのか、それとも毒物が混ぜられているか知りようがないのだ。
 結果、取引量はじりじりと下降線を辿っている。右肩下がりの傾向が続くならば、河津組は業態変化を余儀なくされる。
 御雷という男。もし玄が言うとおりの男ならば、よくもこんなことができたものだ、と逆に賛辞を贈りたくなる。といっても、玄の話を丸々信じたわけではないし、次の大きな取引の準備も忙しい。
 河津組の扱う薬に疑義があるのなら、いっそ新しい薬を輸入して、古いパケと交換してやればよい。そうすれば誰も死なずに済むし、組の信用も回復するだろう。
 「損して得取れ」はヤクザの世界でも同じだ、と沢田は考えている。武闘派でありながら、知性は高い。
 そこへ、西本と石川が駆け込んできて、学校で起きた事件について語る。
 沢田は二人がホラを吹いているのかと思った。
 御雷が教室で授業をしている時間帯に、外部からワル共を銃撃した奴がいる。それが現実だとすると、チームで行動しているということか。
「一人だと思うよ、組長。」
 玄が、立っていた。西本と石川が凍り付く。いつ現れたのか。それとも最初からいたことに気付かぬほど、穏形の技に優れているのか。
「それにしても、今回は派手にやったなあ。薬でざっと五十人。撃たれて死んだ奴も含めると稲見中の生徒が十人余り、か。」
 玄はアロハの内側から安い板チョコを出して、バリバリと咀嚼する。沢田は、玄が普通の食事を摂っているのを見たことがない。時折こうやってチョコレートを囓るのが常なのだ。
「なあに、人間の臓器の中で一番エネルギーを食うのは脳味噌だからな。時々は燃料を足してやらんと頭がぼおっとするのよ。」
 ついっ…とサングラスの下の目線が、西本に据えられる。
「小僧、お前の女が殺されたのは知っておるな?」
 自宅の庭先に建てられた専用のプレハブでしばらく待ってから来たが、結局白井は戻っては来なかった。
 被害者の一人だという予感があった。
 玄は、四人の殺害現場の写真を見せてやる。今原署に潜らせてある内通者からの情報である。
 写真を持つ西本の手が、わなわなと震えた。
 自分を裏切った、白井への怒り。
 自分の女を抱いた、南方への怒り。
 自分の女を抱く気満々で待っていた田村と玉井に対する怒り。
 下半身が他の男と繋がったまま死んでいる情婦の姿は、西本にとっては恥辱以外の何者でもない。
 どうにもできなかった、己への怒り。
 そして。玄が言うように、全ての事件が御雷の仕業だとしたら。
 西本は、御雷への怒りを加えないわけにはいかない。
 玄は、微に入り細に入り、近頃の御雷の様子を尋ねる。最後に言った。
「で、例の女―――菊池先生とやらは、どうだ?餌になると思うかね?」
 西本の中での評価は既に固まっている。
「なる、と思います。すくなくとも、賭けてもいいくらいの確率はあると感じました。」
 玄が、眼を細める気配があった。
「ときに小僧、お前は菊池先生のことを好いとっただろう?餌にしてもかまわんのかね。」
 本心は隠し切れなかったか、と驚きはするが、西本の決意は揺るがない。
「それよりも御雷の野郎をぶっ殺すのが先です。」
 そりゃそうだ、と沢田も同意する。
「堅気の女を引っ張り込むのは気が引けるが、もともと堅気を薬漬けにする商売をしているわけだからな。その菊池先生には気の毒だが、協力してもらおう。」
 ちらっと西本の瞳を見る。
「役目が終わったら、菊池先生をお前の新しい情婦(いろ)にするかい?お前にその気があるなら、他の連中に手を出させたりはしないが。」
 こういうちょっとした気配りができるのが、沢田が慕われる理由の一つだ。
「ま、力尽くで自分のものにしようなんて野暮な真似はよしときな。」
 のんびりと玄が言う。
「好きな男が目の前で殺されたら、菊池先生はお前のことを憎むだろう。それを全力で口説き落とせ。あるいは、口説かれたフリをするだけで、お前の寝首を掻こうと狙ってくるかもしれんが…想像してもみろ。己の命を常に狙う女と臥所を共にするなど、これ以上愉しいことは中々無いに違いないわ。」
「玄さんが女の扱いを語るなんて珍しいな。」
「儂にだって血気盛んだった頃はあるさ。」
 サングラスの下で、片目を瞑って笑ってみせる。
「こう見えても、若い頃は結構もてたもんだよ。」
 さて、と玄は声を改めた。
「決まりだな。御雷が女から離れるようなことがあったら、すぐに情報を入れろ。攫うのは、儂がやってやるよ。」
 近所へのお遣いを頼まれるような気軽な口調の中に、怖い響きがあった。

      10
 実に、蒸し暑い夜であった。
 稲見中学校が臨時休校になって二日目である。御雷は、その日一日を本当に自堕落に過ごした。
 好きなほど眠り、適当にインスタント食品で食事を済ませる。だらだらとテレビを見たり、買っただけで開いてもいなかった本を読んでみたりする。合間にK2に連絡を入れて、狙撃を手伝ってくれた礼を言う。いくつか名前の漢字を提案したが、全て却下されてしまった。彼女曰く、「愛が足りない」のだそうだ。確かに、そこまで自分を追い込んで絞り出した案ではない。が、キョウコに当てる字は候補が多すぎる。「次はもっとよい案を出す」と約束させられた。
 夕方になって、そのK2から小包が届いた。差出人はKyoko (02)となっている。
何だ、お前自身もK2をやめたがってるんじゃないか。御雷は可笑しくなる。
 包みを解くと、ダマスカス鋼のナイフが二振り出てきた。大きくて、分厚い。片刃の形状をしているが、グリップまで一体の鋼材で作られている。しかも刃が付けられていない。刃先はそれなりに薄くて鋭く見えるのだが、せいぜいペーパーナイフ程度にしか使えない。
 電話が鳴った。誰かはわかっている。
『荷物が届いた頃だと思うのですが。』
「よくわかったな。見てるのか?」
 ある意味、そうなのだろう。腕時計に備えているセンサーは、体温と同時に心拍数も測定している。変化があれば、何かがあったときだ。
 美しい縞模様が現れた鋼材を眺めながら、御雷は問う。
「ダマスカス鋼にしたんだな。本物かい?」
 高級ナイフに用いられるダマスカス鋼は、異種の金属を積層し鍛造することで、縞模様を表面に浮かび上がらせた鋼材である。正確には、「ダマスカス鋼の見た目を再現したもの」といったほうがいい。
 御雷も詳しく知っているわけではないが…古代インドで製造されたウーツ鋼の別称であることくらいの知識はある。木目状の紋様を特徴とする鋼であるのは「もどき」同様だが、本物の方は鍛造によって模様が形成されるのではなく、るつぼ内での製鋼過程で内部結晶作用が起こることによって特有の紋様ができあがるのだという。
 製法が失われて久しいはずだが。
『再現しました。』
 K2はあっさりと言ってのける。
『今回の用途に、最も適した素材だと判断しました。チタンでは損耗に耐えきれませんし、日本刀では異質な鉄を打ち合わせた構造が、振動の伝達を不安定なものにしてしまいます。』
 なるほど、それでダマスカスか。振動ブレードに適した材質を研究した者など、彼女ぐらいなものだろう。
「試し切りはしてみたのかい?」
 もちろん、とK2は答えた。
『よく切れますよ。とにかく硬いですから、もし研ぐなら超高圧水流か超音波が必要です。』
「お前…日本の漫画を読んでるだろ。」
『アイデアの出所はともかく、切れ味は私が保証します。』
 まあ、出来上がったものが確かなら、御雷にも文句を言う気は無い。だが。
「ところで、一緒に入ってたこれは、何?」
 怪しげな透明の筒に、これまた見るからに怪しい蛍光イエローの液体が詰まっている。太めの油性ペンほどの大きさであった。針こそ無いが、この形状は…。
『注射器(インジェクション)です。』
「だから、何のだよ。」
『この前お話しした【備え】です。これを使えば、あなたは助かります。でも、私のことは嫌いになる。だから…本当に死にそうになったとき以外には使わないで。』
 K2は沈黙してしまう。
 仕方なく、寝室の隠し物入れに仕舞っておくことにする。
 何だかよくわからないが、K2がわざわざ送りつけてくるくらいだから、きっと役に立つ。そして、相当にやばいものだ。
 石上邸の静けさが恋しくなった。が、しばらくは向こうへは行けまい。
 疲れると、無性に甘いものが食べたくなることがある。脳が糖分を欲しているのかもしれない。おまけに、今夜はやけに蒸し暑い。
 エアコンを入れたが、口寂しさは去ってくれない。
 冷たいものが欲しい、と思った。が、冷蔵庫には冷凍食品の類いしか入っていない。
 一旦欲しいと思ったら歯止めが利かない。これも自堕落な一日を過ごした影響かもしれない。
 御雷は、どうしてもアイスクリームを食いたくなった。
 砕いたアーモンド入りのチョコレートでコーティングした棒付きのバニラアイスを思い浮かべると、堪らなくなる。
 外出するのは億劫だが仕方がない。
 ジャージにスニーカーという軽装で、一番近くのコンビニまでスバルを走らせた。といっても、一旦街道まで出なくてはならない。
 着いてみれば、店の駐車場は満車であった。
 今夜の俺は、ついてない。
 御雷は低く唸った。別の店にするか…一瞬迷ったが、隣に市営体育館があるのを思い出し、その駐車場に車を突っ込んだ。
 体育館には灯りが点き、バレーボールをやっているとおぼしき声が聞こえる。二階の武道場にも明かりが点いている。
 本来ならば、体育館の利用者のみが駐車場を利用することができる。特に罰則があるわけでもないが、そのような注意書きの看板が立てられている。
「すぐ出るからさ。勘弁してくれよ。」
 誰にともなく謝って、車を降りる。
 アイスを買い込み、ついでだからとスポーツドリンクの二リットル入りペットボトルも二本購入する。発汗機能を失っている御雷にとっては、適度に身体を内側から冷やす必要がある。
 何しろ、蒸し暑い。
 車のところに戻ると、体育館の正面玄関から、道着姿の子供達が出てくるところだった。
 御雷は納得する。コンビニの客層を思い出したのだ。彼らは、稽古上がりの子供達のために、飲み物や甘いものを買っていたのか―――親というのも有難いものだ。
「せんせー、さようならー。」
 可愛らしい声で二階の窓に手を振る小学生たちを、微笑ましい思いで眺める。
「おう、風呂に入って早く寝ろよー。」
 ぎくりとした。この声は。
 こそこそと車に乗り込もうとした御雷を呼び止める別の声があった。
「あれ?御雷先生じゃないですか。」
 菊池…。今夜も絞られてるのか。
「あ、本当だ。御雷先生、差し入れに来てくれたんですか。」
 田中…そういえば、今原市の体育館で空手教室をやってると言っていたな。今日が、それか。
 御雷は仕方なく二階の窓を見上げた。二人と目が合う。
 目敏くレジ袋越しにアイスのパッケージを見付けて、女たちの顔が輝く。
 御雷は笑うしかない。
 今夜の俺は、ついてない。

 結局、六本入りのアイスは三人で二本ずつ食った。御雷もそれなりに満足する。
 二階の道場で飲み食いするのは、原則として禁止されている。が、空手教室の指導者で、武道場を借りている田中自ら「暑いときはアイスに限るわ」とかいいながら食っているのだからどうしようもない。
 これから、一般の教室終了後に菊池と二人で行う護身術の稽古が始まるところである。御雷は差し入れ―――本人にそんな気はなかったのだけれど――だけ預けたら退散するつもりだった。それを強引に引き留めたのは田中だ。耳元で「落ち込んでいる菊ちゃんを励ますと思って協力して」と囁かれては、断れない。その田中は、電話する約束を忘れていたとかで、一時的に席を外している。
 菊池は、既に汗だくになっていた。小学生に混じって練習メニューをこなすのも、楽なことではない。練習強度自体は成人用に上げられているし、菊池以外にも成人の受講者がいるから手を抜くことも許されない。
 性格的に、たとえ誰も見ていない自主トレでも、菊池は手抜きをしないのだろう。
 御雷はそう思っている。
 ごめんごめんと謝りながら田中が戻って来た。
 板の間に胡座をかいて座り、女たちの稽古を見学することになった。もぐもぐと口を動かしているのは、買い足してきた菓子パンを食っているからだ。
 田中と菊池が向かい合って立つ。あれこれ個別の技を教えるのではなく、実戦形式の中で、流れで技を出せるようにする稽古だ。
 菊池も基本の部分は習得しているということだ。
 田中が動いた。御雷は少し驚く。
 ノーモーションからの突き。一撃で倒すほどの威力は無いが、速い。
 それを、菊池は躱した。髪の毛が大きく揺れたのは、田中の拳が顔面を狙ったものだったからだ。
 顔を殴りにいく方もどうかしてるが、あれを躱すのも尋常ではない。御雷は内心呆れている。
 田中の突きは、見せかけだ。躱して体勢を乱した菊池の襟をしっかりと掴む。そのまま右手一本で背負い投げに行く。軽い菊池の身体が弧を描き、板の間に叩きつけられた。受け身は取れているが、これは痛い。
 菊池が「田中の個人教授場はとにかく痛い」と言っていたのを思い出す。他の連中が辞めていったのも当然だ。
 たしかに、空手教室ではないな、これは。
 菊池は、襟を掴んでいる田中の腕に両脚を絡めて、肘の関節を極めようとする。
 そうだ。転がすだけの投げで人を殺すことはできない。生きている限り反撃の糸口を探せ。
 御雷は自分の思考が既に護身の技から離れつつあることに気が付かない。
 田中は肘を捻って逃れ、逆に菊池の顔を踏みにいった。手加減しているとはいえ、えげつない。菊池は踏み足を避ける動作から足首を取る動作に繋げ、アキレス腱をねじ切ろうとする。
 しばらくの間、二人の女は互いの関節を取ろうと、板の間で組んず解れつの攻防を繰り広げた。
 へえ。大したもんだ。
 菊池の健闘に、御雷は驚きを禁じ得ない。田中がかなり手加減してやっているとはいえ、稽古の内容自体は古流―――比良坂の稽古そのものである。
 その家に生まれ、幼少期から鍛えられたのならともかく、成人してからここまで遣えるようになる人間は多くない。
 指導者がいいのか。菊池の「努力する才能」の賜物なのか。
「多分、その両方だな。」
 独りごちる。
 やがて、二人の動きが止まった。菊池は大汗をかいているが、息を切らしてはいない。なるほど、たしかに田中の言うとおりだ。
 当の田中は、多少汗ばんでいる程度で、表情は涼しげだ。こいつも、化け物級ということか。
「さて、ここからは役割を決めて、状況練習になるんだけど。今日は『約束練習』はやめて、本物の暴漢に襲ってもらおうよ。」
 約束練習とは段取り――決まった筋書きの通りに技をかける練習である。対戦型のスポーツでは、当たり前のように行われる練習方法だ。武道であれば、約束組み手と言った方が通りがいいかもしれない。
 菊池は戸惑っている。
「本物の暴漢って。」
 田中の笑みが深くなる。
「うってつけの人がいるじゃない。身長一メートル七十五センチ。体重は?」
「大体百キロです。」
 そう答えてから、御雷は尋ね返した。
「ぼくが、暴漢役をするんですか。」
「そうよ。適任でしょ。」
 田中は当然とばかりに答えた。菊ちゃんを守るためなら協力してくれるでしょう?
 要するに、菊池にやられればいいんだろう?まあ、それぐらいなら…。
 不承不承引き受けることにする。
「じゃ、これに着替えて。」
 田中が放った道着を受け止める。御雷にも着られるサイズだ。
「まるで、ぼくが道場に来るのを予想してたみたいですねえ。でも、黒帯が付いてますよ。」
 いいからいいから、と男子更衣室に追いやってしまう。
 数分後。
 更衣室から出てきた御雷は、道着が意外なほど似合っていた。が、当人は不満そうだ。
「ズボンっていうんですか、下が随分短いですね。」
 田中は頭を掻いた。
「確かに。というか、御雷先生ってぱっと見より脚が長いんですね。」
 肉付きは誤魔化せても、眼や、手足の長さまでは隠し切れない。
 といって、素顔と本来の体型を見せるわけにもいかない。不格好なのにもすっかり慣れてしまった。
「で、ぼくはどうすればいいんです?菊池先生と殴り合えって言うんじゃないでしょうね。」
「襲って。」
「へ?」
 思わずおかしな声になってしまう。
「だから、菊ちゃんを襲って。」
「いや、その。襲うっていっても色々あるでしょう?命を奪うのが目的で襲うのと、強盗目的とでは、襲い方も違う。」
 そうねえ…と田中は少し考える。
「せっかくだから、菊ちゃんが一番苦手なやつにしましょうか。」
 菊池の汗の量が増えたような気がした。
「それって、もしかして。」
「そ。菊ちゃんの身体目当てで御雷先生が襲ってくるの。」
 御雷は露骨に顔をしかめた。
「嫌ですよ。強姦の真似事をするなんて。」
 数知れぬ程に女を抱いたが、暴力や脅しで身体を開かせたことはない。これからも、それはしないと決めている。ましてや、菊池の過去を知っているのである。彼女の忌まわしい記憶に触れる気にはなれなかった。
「じゃあ、痴漢なら?」
「具体的には、どんな?」
「えーと…シンプルに、後から抱きついて、菊ちゃんの胸を触る。」
 悪くない。御雷は素早く思考を巡らせ、思い付く。ここで悪のりすれば、菊池が俺のことを嫌うように仕向けることができるかもしれない。ごく自然に、ロクでもない人間だということを知らせてやればいいのだ。
「わかりました。じゃあ、どの程度手加減すればいいですか。」
 わざと、そう言った。
 田中の眼が険しくなる。菊池も不満そうに唇をへの字に曲げている。
「本気でやってくれないと。」
「それでは意味がありません。」
 抗議は二人同時だった。御雷は苦笑する。
「それじゃあ、菊池先生。ぼくは本気であなたの胸を触りに行っていいんですね?」
「どうぞ。」
 つんとした声で菊池が応える。
「道着の上から触るだけでは済ませませんよ。」
 菊池が笑顔を見せた。こいつ…こんな笑い方もできるのか。
 初めて見せた、凶暴な笑みだった。美貌だけに、怖い。
「直に触られても怒りませんよ。できるならば、の話ですけど。」
 面白い。
「後悔しても、知りませんよ。」
 御雷は田中を見る。
「本気でやっていいんですね?」
「いいわよ。好きなだけ揉んじゃっていいから。」
 苦笑しながら菊池の背後に立つ。
「どう攻めればいいですか。」
 間抜けな質問だと自分でも思う。しかし、合図して攻めれば稽古にならない。不意打ちに備えて身構えている状態からの反撃が、菊池に与えられた課題だ。
 田中の答えは明快だ。
「はじめ、の合図を掛けるから。その後は御雷先生の好きなタイミングで襲いかかって。ただし、打撃で気絶させるとか、絞め技で落としてから触るのは禁止。」
「後から殴ったり絞めたりなんてしませんよ。」
 御雷の苦笑が深くなる。あくまで、稽古だ。田中が頷いた。
「では、はじめ。」
 空気が、ぴりっと電気を帯びるような気配があった。
 御雷はまた少し驚く。
 気配の源は―――菊池だ。田中に視線を送ると、ウインクを返してきた。
 なるほど。菊池が自らの周囲に張り巡らせた警戒網が、気配として感じられるのだ。この中で動けば、背後からの襲撃であろうと察知されるだろう…と思う。
 当人にその認識があるのかはわからないが、これは「勘」などという生易しいものではない。
 手を伸ばせば届くところに、小柄な背中がある。緊張はしているが、力みはない。よく鍛えられている、と思った。
 御雷は、動けない。
 面白い。
 再び、御雷は思った。唇の両端が、僅かに上がる。
 田中は驚いた。
 御雷が消えた―――ように思えたのである。無論、姿は見えている。ただ、その気配が唐突に消えたので、脳が視覚情報に疑問を覚えただけのことだ。
 無造作に御雷が出た。ノーモーションの動き。足音はしない。
 瞬時に菊池に密着しそうなところまで接近する。御雷は押さえていた気配を、すべて解放した。
 菊池は、戸惑っていた。
 御雷の居場所が掴めない。気配がない。足音も聞こえない。息遣いも…ない。
 田中を相手にしてすら、全く掴めないということはないのに。
 戸惑いが頂点に達したとき、すぐ背後に巨大な気配を感じた。凄まじいばかりの、殺気だ。
 いつの間に。
 反射的に振り返った視線の先に御雷はいない。
「こっちですよ。」
 御雷の声は背後からした。回り込まれたのだ。気配は、囮だ。
 強い力で抱きすくめられる。
 蛇のような素早さで右手が道着の襟を割った。そのままTシャツの首元から中へ滑り込む。
 ちょっと、待って。
 そう言わせてはもらえなかった。
 長くてしなやかな指が、汗で湿ったスポーツブラの縁を器用に越えて侵入してくる。汗ばんだ乳房を御雷の手が這い、指先が乳首を捉えた。人差し指と中指で器用に挟み込む。
 菊池の全身を軽い痙攣が走った。その首筋に、御雷は舌を這わせた。若い女の汗の匂いと塩っぱさに、どうしようもなく性欲が疼くのを感じた。
 全ては田中の死角で行われていることである。
 菊池は一瞬意識が遠のくような、身体の芯が疼くような感覚に襲われる。が、彼女はそこで終わらなかった。
 懐に入っている御雷の手首を道着の上から掴み、関節を極める。同時に彼の脚に自分の脚を絡めながら、強く後に跳んだ。
 二人分の体重を乗せて後頭部を強打するわけにはいかない。御雷は菊池を抱きすくめていた左手を解いた。
 その瞬間を、菊池は待っていた。後に倒れようとする動きはフェイクである。誰しも倒れまいと無意識に抵抗する。
 胸を触らせたまま、御雷の手首は離さない。強烈な肘打ちを彼の鳩尾に入れた。常人なら胃が裂けるほどの威力に、さしもの御雷も肺から息を絞り出す。力が、緩んだ。
 菊池は無造作に投げた。手首の関節を極められているから、御雷には抵抗の仕様が無い。板の間で背中を強打する。
 菊池は御雷の右腕を絞り上げた。両脚を絡め、瞬時に手首に加え肘の関節まで極めてしまう。
 みしり、と右腕が軋んだ。
 痛みは感じないが、堪えていれば折れる。
「痛い痛い痛い!」
 御雷は叫んだ。
「参りました。勘弁してください。」
 少しだけ、菊池は力を緩める。
「この右手…。」
 珍しく無表情だ。
「随分慣れてるみたいですけど。」
 御雷は照れたように笑った。
「いやあ、鷲掴みにすると痛いかと思って。」
 乳首を挟んだときのように手をわさわさと動かしてみせる。
「褒めてません。」
 菊池は渾身の力を込めた。
「痛いってば!何をそんなに怒っているんですか。」
 また、少しだけ緩める。
「別に、怒ってません。ただ、他にもたくさん女の人を触った手で触れられたのが不愉快なだけです。」
 セリフが完全な棒読みだ。あの一瞬で、女性に対する経験の豊富さを読み取られた―――のも、当然か。
 つい、苦笑いしてしまう。
「何が可笑しいんですか。」
 菊池が全力で絞り上げる。御雷は悲鳴を上げた。
「本当に折れますって。田中先生、止めてくださいよ。」
 そこまで、と言った田中の声は明らかに呆れている。
 やっと解放された御雷は、大の字になってうーんと唸った。菊池は赤い顔をして道着の乱れを直している。これで、少しは嫌ってもらえるだろう…か。
「菊ちゃんをあんなに怒らせるなんて…御雷先生も、こう言っちゃなんですけど、馬鹿ですねえ。」
「油断してました。暴力女は田中先生だけだと思っていたんですが。」
 田中は怒らない。
「否定はしませんけどね。で、どうです?菊ちゃんの技は。」
 御雷は身体を起こした。
「どうもこうもありませんよ。ここまで手酷くやられるとはね。でも、あの肘打ちは気を付けないと。ちょっと強力すぎます。」
 まだ顔を背けている菊池に声を掛ける。
「菊池先生、肘を痛めたんじゃないですか?冷やした方がいいですよ。」
 田中が菊池の胴着の袖を捲ってみると、右肘が赤く腫れている。事務所で氷を分けてもらって、氷嚢で冷やしてやる。
 御雷の身体を殴るということは、そういうことである。菊池に無用の怪我をさせないために、御雷自身が致命的なダメージを受けない程度に衝撃を受け止めてはやった。それでも、この始末だ。
 今になって痛くなってきたのか、菊池は顔をしかめている。打った瞬間の、堅い板のような感触を思い出していた。
「菊池先生の長所は、反応速度の速さですね。田中先生の突きを避けるなんて、誰にでもできることじゃありませんよ。それに、何ですか。あの―――。」
「ぴりぴり来るやつ、でしょ?」
 達人同士が対峙するとき、そういうものを感じることはある。だが、菊池はそういう者ではない。
「よくわかんないけど、厄介よねえ。」
 私たちにとっては、という言外の響きがある。
「全くです。特技といっていいでしょうね。」
 菊池の場合、そういう方向にテレパスとしての力が集約されているのか、とも思う。
 どちらにしても、そろそろ潮時だ。
「それじゃあ、ぼくはそろそろ帰ります。菊池先生も怒らせちゃったし。」
 直に触っても怒らないって言ったのに、とぼやいてみせる。
「あれは…御雷先生の触り方がいやらしかったからです。…別に、触られたことを怒ってるわけじゃないし。」
 口を尖らせる菊池の顔が赤い。
 可愛いな、と思った。同時に激しく狼狽する。
 菊池の怒りの原因が、彼女の知らぬ他の女たちへの嫉妬だとわかったから。触れられたことに対してはむしろ恥じらいを伴いながらも受け入れていることが伝わってきたから。
 俺は、またしても悪手を選んでしまったのではないか。火に油を注いでしまったのではないか。
 それもこれも、元はといえば…。
 原因になった女が、腰に手を当てて微笑んでいた。
「まだ、帰しませんよ。というより、本題はここからなんです。」
 田中は不敵に笑った。
「この前の、私のお願いをきいてくれるって話、覚えていますか。」
「ええ。ぼくにできることなら、と言いました。ただし、受けるかどうかはぼくが決める約束です。」
 それでいい、と田中は言った。
「私の願いは、ただ一つ。御雷先生と手合わせをお願いしたいんです。」
 やっぱりか。そんな面倒なことは御免だ。
 断ることは最初から決めていた。
「あの、婿探しの件ならお断りしましたよ。ぼくでは相手にならないと。」
 田中の薄い唇が動いた。
「…学校再生専門員。」
 御雷の頬が一瞬痙攣するのを菊池は見た。

      11
 田中の願い―――彼女が御雷に試合を申し込むことは、菊池にも容易に想像が付いていた。それを御雷が受けないだろうということも。
 だが…何だか様子が変だ。
「その顔…図星だったみたいですね。」
 田中は笑っている。御雷は笑わなかった。
「…カマを掛けましたね。田中先生。」
「ええ。確信はありましたけど、念のためにね。」
 ごりっ。
 御雷の肉の底で殺気が凝る。
 こいつが、文部省の監視者だというのか。
 そう考えれば納得できる点は多い。昨年度から引き続き稲見中に勤務し、御雷との接点も多い。馬越を潰した現場にも、こいつは居た。おまけに、武道にも通じ、眼がいい。見られれば情報が筒抜けになると思って間違いない。
 何より―――あの比良坂の、娘だ。
 殺さなくては。
 今なら、殺せる。
 視界の端に、正座して見守る菊池の姿が見えた。
「どうします?御雷先生。」
 御雷は答えない。いつもは福々しい笑みを浮かべている口元が、今は力が入って白っぽくなっている。
「私はね、自分の力がどれ程のものか試したいだけなんですよ。」
「それで、ぼくの秘密をネタに勝負を強要するんですね。」
 御雷は腹を立てていた。この、美しく、身勝手な女に対して。
「それがどれほど危険なことか、あなたにはわかっているんですか。」
 自分を抑えられなくなっていた。やはり、今回の仕事はイレギュラーだらけだ…と頭の隅で思った。
 ぎりっ。
 奥歯が軋むほどに力が入る。絞り出した声は酷く苦かった。
「あなただけじゃない。秘密を知れば…ぼくは、菊池先生まで殺さねばならなくなる。」
 思わず腰を浮かしかけた菊池を、田中が制した。
「菊ちゃんは黙ってて。いろいろ聞きたいことはあるだろうけど。今は、こいつがとんでもなく危険な奴だってことをわかってくれればいいから。」
 御雷から目線を切らず、距離も詰めない。
「ぼくが、菊池先生の方を先に殺すとは考えないんですか。ぼくにとってはあなたより、むしろ彼女の方が厄介だ。」
 田中の口元に、淡い笑みが浮かんでいた。半眼になった切れ長の眼が、仏像を思わせた。
「あんたが菊ちゃんを真っ先に殺すとは思わない。殺すなら、一番最後。稲見中での仕事が完了してからのはず。だって―――。」
 悪魔のような笑みだ、と思った。
「あんたは菊ちゃんに惚れてるんでしょ。」
 御雷は舌打ちした。
「口数が多いひとだな。他人のことをペラペラと、よく喋る。」
 田中は肩を竦めた。小さく笑う。
「性分なものでね。ともかく、これまであんたは菊ちゃんを何だかんだいって守ってきた。常に危険から遠ざけるように気を配ってきた。それは、あんたが義務感だけで行動しているわけではないからよ。」
 菊池に視線で同意を求める。彼女は黙って頷いた。
「私もね、あんたと菊ちゃんがくっついても、まあいいかと思ってたのよ。」
 芝居がかった仕草で天を仰ぐ。御雷に戻した視線の底に、危険な光がある。
「だけど、馬越を殺したのは不味かったわね。」
 御雷の表情は動かない。
「何を言っているのかさっぱりわかりませんね、田中先生。」
 ふん、と鼻で笑われる。
「初め――馬越が手と脚を怪我したのは、あんたが誘ったのよね。」
 否定しても仕方がない。小さく溜め息を吐く。
「ええ。自滅するように、ぼくが誘いました。」
「あれは見事だったわ。見ていて胸がすっとしたもの。『これが、学校再生専門員の手際か』と感心した。」
 非難されるならともかく、褒められると居心地が悪い。
「学校再生専門員って、何ですか。」
 御雷は目を瞑った。彼女の疑問に田中は答えてやるだろう。
「荒れた学校から、荒れの原因を取り除く専門職のこと。文部省から直接派遣される特殊な技能を備えたスペシャリスト集団…と聞いてるわ。」
「荒れの原因、って。」
 ねえ、菊ちゃん。と田中は思考を促した。
「もう、何人死んでる?」
 殆ど一瞬で、菊池の顔から血の気が引く。理解したのだ。
「思い出して。馬越の家に、何故御雷先生が付いて行ったのか?馬越を殺すチャンスはなかった?ずっと菊ちゃんから見えるところにいたの?」
 菊池の身体が小刻みに震えていた。思い当たる節なら、いくらでもあった。
「ここしばらくの間に、今原市では不審死が相次いでる。馬越や白石みたいな死に方をした奴だけで、四十とも五十とも。おまけに、うちの学校では銃撃事件まで起きた。おかげで学校は随分平和になったけれど。」
「なるほど、と言いたいところだけど、すべて仮説ですね。現に、ぼくが授業をしている最中に銃撃事件が起きた。どう説明するんです?」
 言葉に詰まるかと思いきや、田中は満面の笑みを浮かべた。
「正直言って、まるでわからない。でも、聞いたことがあるの。はじめてあんたの名前を聞いて、姿を見たときには『まさか』って思ったんだけど。」
 笑みの質が変わる。凄絶な―――これは、殺気だ。
「父が、言っていた。『学校再生専門員の中に御雷武という男が居る。素手でも滅法強い上に、銃器の扱いが巧みなんだ』ってね。もう、十五年も前の話だけど――」
 やはり、聞いていたか。退職後も守秘義務ってのは残るんだぜ、比良坂よ。
「私の父も、学校再生専門員だった。そして―――やっぱり人殺しだったのよ。」
 言ってしまってから、田中はふと笑った。
「あんたからも、血の匂いがする。」
「あなたの目的は何ですか。父親の復讐、ですか。」
 違う違う、と手を振って笑う。
「父が十五年前あんたに負けたのは、弱かったからよ。だから、右眼を潰された上に丸三日間生死の境を彷徨うことになった。危うく、私たち家族は路頭に迷うところだったわ。」
 そもそも、学校再生専門員同士が争うことなど起こりえない。それぞれが別の学校へ派遣され、互いに干渉し合うことはない。それが、御雷と比良坂の場合は、赴任先がたまたま隣接する学校だったのが間違いの始まりだった。ワルの繋がりは校区を跨いで多校に渡る。勢い二人は顔を合わせることが多くなった。それまでにも、文部省の研修等で偶に顔を合わせることはあった。
 だが。御雷の技を実際に見て、比良坂は驚いた。あまりにも自分たちの伝える業との共通点が多い。業の源流を探り、先祖たちが何を思って業を練り上げ伝えてきたのか。それを知りたい。切に願う者にとって、同類との出会いはまたとないチャンスであった。
 相手を喰らう。つまり、闘って倒す。それを繰り返していけば、各地に散らばった業は集約され、最後に残った者が、先祖が夢見た境地に至れるだろうという予感があった。
 比良坂は学校再生専門員の道を踏み外した。
 こともあろうに、仕事が継続中のある日、御雷に強引に試合を申し込んだのである。いわば決闘だ。
 結果、右眼をえぐり取られ、両腕は無残に折られ、脳に深刻なダメージを受けた。さらに胸郭は馬に蹴飛ばされたかのごとく拳大に陥没していた。命を取り留めるまでに三日かかり、そして比良坂は学校再生専門員ではなくなった。
「親父が負けたのは自業自得みたいなものなの。私はね、全盛期の父より強い。御雷にだって勝ってみせる。だから、あんたには、私も菊ちゃんも、殺すことはできないわ。」
 そういうことか。ここで俺を倒せば、二人が命を落とすことはない。しかし…。
「ぼくを、ここで殺そうというんですか。」
「そこまでやるつもりはないけれど。本気でやらなければ死ぬかもしれませんよ。」
 田中は頭を振った。眼は笑っていない。
「私は、怒っているんです。御雷先生は、菊ちゃんを騙している。優しく支える振りをしながら、その実、菊ちゃんの心を折るような事件を起こしているのは、他ならぬあんただ。」
 御雷は菊池の視線を強く感じた。お前が今どんな顔をしているのか、俺にはわかる。だから、お前の顔を見ることができない。―――俺は、弱い人間なんだよ。
 唇に皮肉な笑みを浮かべるのに、少しばかり苦労する。
「それで、可愛い後輩を守るために、ぼくを叩きのめそうというんですね。」
 一応、頼んでみる。
「もうすぐ、ぼくの仕事も終わります。そうなったら、ぼくは稲見中からいなくなる。あと少しの間だけ、見逃してもらうわけにはいきませんか。」
 田中の返事には感情がなかった。
「それは、駄目。このままあんたが居なくなったら、菊ちゃんの中にはずっとあんたへの想いが残ってしまうから。」
 声が変わる。
「だから、この場で御雷武がどんな男かしっかりと見てもらう。そうすれば、菊ちゃんだって目を覚ますわ。」
 つまり。殺人者を忌避する菊池の深層意識に訴えることで恋心を冷まし、御雷に対する嫌悪感を植え付けようというのである。
 田中にとって意外だったのは、御雷の口元に一瞬寂しげな笑みが浮かんだことだった。
「そういうことなら、受けましょう。場所を、移します。」
 先に立って、畳敷きの部屋――柔道場へ歩き出す。
 その背中に、菊池が声を掛けた。
「本当、なんですか。みんな、御雷先生が殺したんですか。」
 御雷は答えない。学校再生専門員にも守秘義務がある。少なくとも自分の口から喋るわけにはいかない。
「ちゃんと答えて!」
 叫び声が、胸に痛い。振り向いた御雷の唇に、淡い笑みが浮かんでいた。
「ぼくのことを『嘘つきだ』と言ったのは、菊池先生、あなたですよ。」
 歌うように続ける眼差しに、夢見るような趣があった。
「最初に言ったはずです。ぼくは、あなたには相応しくない人間だ、と。」
 再び歩き出す。背中で言った。
「あなた自身の眼で、そのことを確かめなさい。」
 御雷は菊池の視線の外で唇を噛みしめている。
 これでいい。お前は、俺を嫌いになれ。

 柔道場は静まりかえっていた。今日は夜稽古もない。
 御雷はすたすたと部屋の中央に進む。
「何故、柔道場なの。」
「野試合―――野外での闘いに近いのは、板の間より畳の上だからです。」
 三メートルほどの距離を置いて、対峙する。
「一つ確認させてください。これは『殺し合い』なんですか。」
「違うって言ったわよね。だから勝敗のルールを決めましょう。」
 御雷は頷いた。
「ぼくの身体には、時間制限があります。何しろ汗をかけないもので。どう頑張っても十五分が精一杯です。それ以上やると、本当に死んでしまいます。」
「ふうん。じゃあ、時間を長引かせればあんたを殺せるわけだ。」
 怖いことをさらりと言ってのける。
「そういうことです。銃も刃物も要らない。ただぼくが自滅するのを待てばいいだけです。それも勝ちでしょうが…。」
 田中が唇の左端を持ち上げる。
「当然、私はそんな勝ち方はしない。あんたを叩きのめして勝つ。」
 ゴム紐でさほど長くもない髪の毛をまとめながら続けた。
「制限時間は十五分。十五分経って、立っていられた方が勝ち。」
「いいですね、シンプルで。親父さんの時と同じだ。」
 要するに、目潰しや急所への攻撃等、何でもありということだ。
「殺し合いではないけれど、気を抜いてると事故が起こるかもしれないわね。」
 田中の瞳の底に閃く光を見て、御雷は苦笑する。たしかに、道場で人が死んでも事故で片付けることは容易いだろう。今日でなくても、いずれ御雷を道場に引っ張り込むつもりだったのだ。
 油断のならない女だ。
「せっかくだから、勝った方には賞品を用意しましょうか。」
 御雷は少しだけ面食らう。
「賞品、ですか。」
「そう。殺し合いじゃないんだから、何か励みが欲しいじゃないですか。私は、欲張りなんですよ。」
「ぼくと闘(や)るだけじゃ不満なんですか。」
 田中はポンと手を叩く。わざとらしい…。
「それ、いただき。もし御雷先生が勝ったら、ヤってください。」
「はあ?」
 田中は整った貌を真っ直ぐに向けて言う。
「御雷先生が勝ったら私を抱いてください、と言ってるんです。」
 菊池が抗議の声を上げた。
「それ、何かおかしくないですか。私には諦めろって言いながら、自分が…。」
「田中先生的には筋が通っているんですよ。」
 御雷が説明してやる。
「別に、ぼくのことを好きなわけじゃない。ぼくの血が欲しいだけなんです。」
「そういうこと。別に結婚してくれって言ってるわけじゃないの。子供の認知も求めない。ただ、妊娠させてくれれば十分よ。…ま、私に勝てるようなら、あんたを愛する自信はあるけどね。」
 御雷は顔をしかめた。
「綺麗な顔をして『ヤってくれ』なんて言わないでください。」
 酷く男性的な笑みを浮かべて、真っ直ぐに田中の眼を見返した。
「勝っても、あなたを抱いたりはしませんよ。ぼくを種馬扱いするのはやめてください。大体、ぼくの遺伝子を受け継いだ子供が、自分の知らないところで殺しの技を仕込まれると思うとぞっとします。ぼくは…自分の子供を人殺しの道具に育てるつもりはありませんから。」
 我が子に殺しの技は伝えない。かつて恭子との間に武を授かったときと、その想いは変わらない。
「そもそも、ぼくが勝ったら、二人とも命が危ないとは考えないんですか。」
 それもそうか、と田中はようやく気が付いたようだ。
 呆れた単細胞だ。
「ぼくが勝っても、二人を殺したりはしませんよ。でも、これだけは約束してください。今日知ったことは口外しないこと。少なくとも、ぼくが稲見中に居る間は。それから、何があってもぼくの邪魔はしないでください。これは、文部省から依頼された仕事なんです。」
 田中は意外そうに眼をしばたかせる。
「それだけでいいの?学校再生専門員は、正体に気付いた者を必ず殺すっていうルールがあると聞いたんだけど。」
 御雷は苦笑いを微笑に変えた。
「比良坂は本当に口が軽い―――ええ、ありますよ。いくら自信があっても、菊池先生を巻き込むなんて無謀すぎますね。でも、今回はルールを無視します。ぼくの邪魔をしない限り、殺したりはしませんよ。」
「どうして?ルールは絶対なんでしょう?」
「ええ。この前も文部省の役人から直接電話が掛かってきましてね。念を押されましたよ。」
「何て、言われたの?」
「『正体がばれそうになったら死ね』と言われました。」
 これには二人とも絶句する。教育行政の暗部に属するとは、こういうことなのだ。
 御雷の声に湿っぽさは微塵もない。
「普段は役人が直接連絡してくることなんてないんですが。まあ、基本的にはそういうことなんです。ぼくらは、文部省の道具です。道具が使い手に害を為すようであれば、廃棄されるのは当然です。そして、おそらく。ぼくにとっては稲見中での仕事が、学校再生専門員としての最後の仕事になるはずです。」
「引退、するんですか。」
 菊池の声には、微かな希望がこもっている。殺しをやめるなら、あるいは。
「政治的なあれこれで、学校再生専門員制度自体が解体されます。実際、上の方で情報が漏れてしまって、ぼくの正体が、もうばれかかっているみたいで。」
 お前が、情報を流しているのではないのか。そんな思いを視線に乗せてみたが、田中は無反応だった。
「ともかく、時間が無いんですよ。それに、この仕事が終わったら日本を離れます。」
「海外へ?」
 御雷は生白い顔を撫でた。
「手術から大分経って、この身体もメンテナンスが必要らしいんですよ。担当した医者からは早く帰ってこいと急かされています。だから――多分、お二人の前にぼくが姿を現すことは二度とありません。」
 御雷が去った後であれば、警察に話すなり好きにすればいい。そう言っているのである。
「わかった。菊ちゃんにもそれで納得させる。」
 後輩に人差し指を突きつける。
「そういうわけだから、あんたも約束しなさい。もし約束を破ったら、その時は…。」
 瞬きもせず菊池の藍色ががった瞳を見詰めた。
「あたしが、あんたを殺す。」
 菊池が、ぎょっとして固まった。田中の決意は、本物だ。彼女にとっての「約束」とはそれほどの重みをもつのだろう。
「で、私が勝った場合のことも考えておかなくちゃね。御雷先生の秘密は、勝っても負けても喋らない。そこは変えないわ。それ以外に…もし、私にあっさり負けるようなら何も要らない。でも、私を追い詰めて苦戦させるようなら。私が勝った後、子種をもらいますから。私だって、手ぶらでは帰れないもの。」
「まだ、諦めてなかったんですか。そもそも、そこまで競り合って負けたら、ぼくは五体満足ではいられないでしょう。寝たきりになってしまうかもしれませんよ。」
「心配しないで。もしそうなったら、一生をあんたの介護に捧げるぐらいの覚悟はできてるから。」
 言い切った田中の頬が紅潮しているのを、菊池は見た。そして、悟った。これは、田中なりの愛情表現なのだと。
 これから、死力を尽くした闘いの中で、二人は語り合うのだろう。そこに加われない自分にもどかしさを感じた。同時に、激しい嫉妬も。
 しかし、若干の心許なさも感じている。あまりにも現実感のない話ではある…が、少しずつ染み渡るように菊池の中に広がりつつあった。御雷がこれまで示してくれた優しさや厳しさが全て偽りだとしたら。自分が御雷に抱いているこの気持ちも偽りでないと言いきれるだろうか。
 わからない。
 御雷が腕時計を外して菊池に放った。
「預かってください。壊されると困る。体温センサー付きの特注品なんです。」
 表示板を見ると、小さくエラー表示が出ている。センサーが皮膚表面に接触していないためだ。
「その時計で時間を計ってください。ストップウォッチモードにしたら、合図をお願いします。」
 操作は市販品と同じだ。菊池は側面の小さなスイッチを何回か押して、ストップウォッチの画面を出した。スタートボタンに指を掛けて、叫んだ。
「はじめ!」
 田中が構えを取る。軽く握った両の拳を顔の高さに。両脚は肩幅より少し広いほどに開き、少しだけ右足を引いている。
 本当に、御雷の業の構えによく似ている。田中の言うとおり、元は一つの業だったものがいつの頃か別れたのかもしれない。
 御雷は、構えない。両手を下げたまま、自然体で立っている。その脚が、動いた。
 無造作に距離を詰める。
 不意に、御雷の右腕が上がった。
 次の瞬間、彼の手の中に田中の左脚が現れるのを、菊池は信じがたいもののように見詰めた。
 ノーモーションで放った左のハイキックを、御雷が掴み止めたのである。蹴りの速度が速すぎて、菊池の眼では追い切れないのだ。
 のみならず。
 田中の両手は、胸郭すれすれのところで御雷の左手首を掴み止めていた。同じくノーモーションで放った突きを見切ったのである。
 田中がにっと笑ったように見えた。
 掴まれた左手首をねじ切ろうとする力に逆らわず、御雷は身体を回転させた。倒れ込みながら、蹴りの軸足を刈って、田中の身体を宙に浮かせる。
 両足が地に着いていなければ、御雷の手首を捻ることすらできない。田中の身体が宙にある間に体勢を入れ替え、無造作に蹴りを入れた。
 菊池は蹴りがまともに腹に入ったのを見て悲鳴を上げる。細身の長身が車にでも跳ねられたように派手に転がった。
 御雷は、構えを取った。田中と同じ、御雷の構え。
「確かに、父親より強い。」
「やっぱ、油断はしてくれないか。」
 腹をさすりながら起き上がった田中は笑顔を浮かべていた。眼は、笑っていない。
 御雷の左足は少し痺れている。田中の腹を蹴った感触を思い出す。
「まったく…女性の腹とは思えませんね。人の身体の感触じゃありませんよ。」
「そっちこそ、女の腹を躊躇無く蹴るなんて。まともな人間のやることじゃないわね。」
 御雷の眼が笑っている。黒曜石のような瞳が光った。
 田中の眼も、笑った。底光りする怖い眼だ。
 御雷の蹴りが奔った。顎を真下から打ち抜くような前蹴りだ。
 田中は身体を反らせて避ける。
 吹き抜けた蹴りが吹き戻って今度は後頭部を襲った。
 田中は避けなかった。一歩踏み込んで、打撃力の小さい部分を受け止める、そのまま蹴り足を掴んだまま、軸足を刈った。御雷が転倒する。その足首を田中がアキレス腱固めに持って行こうとする。決まり切る寸前、御雷が田中の肩口を蹴り込んで技を外す。
 再び立ち上がっての対峙。
 田中が距離を詰めた。ただの正拳突きが、重い。捌ききれずに、御雷は両腕を交差させて受けるしかない。一瞬動きが止まったところへ、田中の回し蹴りが跳んだ。顔面狙いだ。
 避けた。と思った瞬間、第二撃が飛んで来た。最初の蹴り足が通過した後、軸足まで地面を離れて蹴り足に変化したのだ。これも、避ける。田中の身体が空中で綺麗に回転するのが見えた。
 着地の瞬間を御雷は見逃さない。素早く背後に回り込んで、プロレス技―――バックドロップで投げた。最短距離で投げ落とすような、鋭い投げである。田中といえども受け身を取る間を与えなかった。板の間なら死んでいたかもしれない。畳でもそれなりにダメージがあるはずだ。
 しかし、田中は立ち上がってくる。殆どダメージは負っていない。
 業(わざ)とは、人間自体を作ることだ。その上に技が成立する。幼少期からの絶え間ない鍛錬。それを可能にする遺伝的素養。そして幾世代にも渡って練り上げられた鍛錬法。それらが生み出す強靱な肉体とそれを支配する脳こそが、神髄。
 そういう意味で、田中は紛れもなく比良坂の業を継ぐ者であった。
「ぬるいわね。御雷先生。」
 先程に倍する速度で田中は動いた。
 顔面への蹴りが変化し、金的を狙う。懐へ入り込んで強烈な投げ技を見舞ったかと思えば、すぐさま関節を取り、絞め技を狙う。
 打撃技から投げ技、関節技へと連続的に変化していく。その変幻自在さこそ比良坂流の本質だ。
 次第に防戦一方になっていく。
 体温の上昇が酷い。自分の肌に赤い筋が現れたり消えたりし始めるのが見えた。
「まさか、適当なところで負けてやろうなんて思ってないでしょうね。」
 ぎくりとする。
「なめられたもんね。何だか、本当に殺したくなってきたわ。」
 さらに重い突きが数発。受けるのに苦労する。痛みは感じないが、骨にヒビぐらいは入ったかもしれない。
 息が荒いのは、呼気に乗せて体内の熱を逃がすためだ。体表の血流はこれ以上増やせない。空冷ではこれが精一杯だ。
 今や、全身に皮膚の分割線がくっきりと浮き出している。
 田中が構えを取ったまま笑う。
「苦しいんでしょう?無理せずに、素顔で闘えばいいのに。全体の何パーセントぐらいの筋肉を姿を変えることに使っているかは知らないけど。その分動きにブレーキがかかるし、余計な熱も発生するはずよ。」
 御雷は肩で息をしながら、それでも笑った。
「それも、親父から聞いたのか。」
「ええ、そうよ。あんたには、別の顔と姿があるってね。父と闘ったときは出したらしいじゃないの。今日は出さないの?」
 御雷は、全身の筋肉の統御に全力を傾けている。内部に籠もる熱が、危険な領域に達しようとしていた。闘う身体は、随分前から声を上げ続けている。
 戻れ。本来の姿に戻れ。そうすればこんな女は粉々に砕いてやる。
 少しでも気を抜けば、擬態が解ける―――綱渡りのような肉体のコントロールを強いられているのだ。
 御雷は沈黙を守るしかない。
 田中は菊池へ視線を走らせた。納得する。
「ああ、菊ちゃんに見せたくないんだ。菊ちゃんは、あんたの素顔について誤解しているようだから。」
 うまく誘導したものだ、と感心してみせる。また一つ、嘘が暴かれるのか、と御雷は内心溜め息をつく。
「菊ちゃんは、御雷先生の素顔を『醜い顔だ』と思ってるみたいだけど。」
 菊池は混乱しながらも頷く。
 大火傷の治療。隠しておきたい素顔。…そして気付いた。御雷自身は一言も「醜いから見られたくない」とは言わなかったことに。
「父によるとね、この人の素顔はとてつもなく綺麗なんだって。そう聞くと、見てみたくなるじゃない。」
「いやだね。お前には見せない。」
 口調が、変わった。
「俺の素顔を見るときは、お前が死ぬときだ。」
「あっそ。」
 田中が口をすぼめるのが見えた。脳が警告を発する。飛翔体接近。
 左眼の周辺に衝撃を感じて、視界にノイズが走った。口に含んだ金属の小片を吹き付けたのだ。いつ仕込んだのか、御雷にもわからなかった。
 咄嗟に避けたために眼球は無事だが、動くのが一瞬遅れた。
 滑るように移動してきた田中が出した前蹴りを躱せない。まともに腹に喰らって、反射的に身体が丸まろうとした。
 田中は、その御雷の髪の毛を両手で掴んで強く頭を押さえつける。同時に、顔に向けて膝を突き上げた。
 まともに喰らえば顔面が陥没する。
 これで死んでも仕方ない。そう思って、田中は膝蹴りを放った。
 だが。
 突き上げた膝頭を御雷の両手が受け止める感触があった。
 みしり。
 瞬間、激痛が走る。
 命じずとも身体は動く。
 田中は御雷の髪の毛を掴んだまま、自分の額を激しく打ち付けた。ただの、頭突き。
 鈍い音がして、畳に血が滴った。田中が後に跳びすさる。
 ゆっくりと小太りの影が立ち上がる。
「鬼、だな。田中。」
 顔面を赤く染めて、御雷が笑う。額が割れている。
「俺も大概石頭だが…手を離してしまった。膝頭をむしり取ってやろうかと思ったんだが、ね。」
 ぞっとするようなことを平然と言う。
「田中、一つだけ答えろ。」
 膝を押さえて蹲っている田中の額からも、大量の出血がある。
「何よ。」
 御雷の眼が、半眼になる。朱を引いたような唇が、そろりと言葉を紡いだ。
「お前…自分の技で人を殺したことがあるな。」
 菊池は、息を呑む。
 がさつで、無神経で、粗忽だけど――明るくて、優しくて、頼もしい、先輩が。まさか、そんな。
 菊池の願いはあっさりと踏み砕かれる。
 田中が笑ったのである。勝ち気に切れ上がった目に、鋼のような光。薄い唇の両端が吊り上がっている。
 顔の半分を血に染めて、田中は笑っていた。美しくも凄絶な、笑み。
 彼女の声が、悪夢のように菊池に届く。
「たしかに、殺したわ。この手で、実の兄を。」
 御雷は大きく溜め息をついた。
「やっぱり、そうか。兄さんを殺して、比良坂の業を継いだわけだ。」
「そうよ。軽蔑する?たかが、古流の業のために身内で殺し合いをするなんて、と。」
 御雷は頭を振る。
「いや。俺のところでも、昔は似たようなことをやっていたそうだ。」
 言いながら、建の話を思い出している。兄弟や父親まで手に掛けたはずだ。
「じゃあ、私がどうしてもあなたに勝って、子供を作りたい気持ちも理解してもらえるわね。」
 ふん、と御雷は嘲笑った。
「わからないね。お前は同じ思いを自分の子供にもさせたいのか?もしそうなら、お前は大馬鹿だ。」
「何でもいいわ。」
 速い。あっという間に御雷の右手首を両手で掴んで、極める。捻りながら囁いた。
「私が勝って、あなたの血をもらえばいいだけよ。」
 体重を掛けて御雷を押し倒す。抵抗すれば手首が折れる。傾いた御雷の顔めがけて、体重の乗った肘が落ちてくる。
 殺し技、だ。
 御雷は身体が倒れきるのを待たずに両脚を地面から離した。支えを失った形の田中の首筋へ、オーバーヘッドキックの要領で蹴りを叩き込む。硬い膝が首筋にめり込み、田中の身体が吹き飛ばされる。
 御雷は立ち上がった。
 身体が、熱い。とうに限度は超えているはずだ。だが、肉の内から湧きだしてくるものがある。
 肉体の声に耳を澄ませた。
 闘え。倒せ。斃せ。殺せ。完膚なきまでに破壊しろ。
 ごぞり。
 己の肉の底で、何かが目を覚ます気配が、ある。
「田中、お前は強い。人間の域を超えてるよ。…だが、俺はもっと強い。」
 立ち上がった田中は、足下をふらつかせたりはしない。異常にタフなのだ。人ならぬ身に、己の肉体を造り上げることこそが、業。
 しかし。
 気が付けば御雷が目の前にいた。
 いつ動いたものか、見えなかった。
 重い突きが立て続けに襲う。ガードを弾き飛ばし、肩に胸に腹にめり込む。
田中は驚愕する。
 鍛え抜いたはずの身体が、段ボールでできているかのように脆い。
 田中は胃の中のものを吐いた。
 その顔を、容赦なく御雷の回し蹴りが襲う。辛うじて避けた。続く二発目を避けなければ…と思ったときにはもう当たっている。
 田中の視野の中で、着地した御雷の身体が今度は逆に回転するのが見えた。逆回転の回し蹴り二連撃。
速すぎる。同じ技を使うからこそわかる。異常だった。
 まだ、田中の身体は宙を舞っている最中だ。
 躱せなかった。顎と後頭部に喰らって畳に叩きつけられる。
 ごおっ。
 蹴り足の立てる風音は、後から聞こえた。
「…化け物ね。親父じゃ敵わないわけだ。」
 血の味がした。
「まだ、立つんだろうな、お前は。」
 口を拭いながら田中は立ち上がる。
「当たり前でしょ。私は、まだ全部出しきっていないもの。」
「俺を殺したくなったな?」
 痛みに顔をしかめながらも、田中は不敵に笑う。
「ええ。兄さんの時とは違う。たまたま死なせてしまうのではなくて…今の私は、あなたを殺したいとはっきり思ってるわ。」
 やはりそうか、と御雷は思う。兄を「殺した」、のではなく「殺してしまった」のだ。だからこそ、跡継ぎを強く求めるのだろう。兄殺しに対する罪の意識の裏返しだ。
「わかっていると思うが、俺達二人は殺すつもりで技を出さなければ殺せない。」
 頷く仕草が、何故か嬉しそうだ。
「そういうふうに身体を造ってきたんだから、当然よね。」
「まだ、あるのか。」
「さあね。」
 田中が動いた。
 驚くべきことに、御雷と言葉を交わしている間に随分と回復している。
 彼女の蹴りや突きを、御雷は敢えて全部受けた。
 何だ、これは。田中は再び驚愕せねばならなかった。
 こんなものが、人間の身体の感触なのか。自分の身体のことは棚に上げて、そう考えている。とにかく、硬い。手も足も、痛めてしまったようだった。
 それでも、勝たねばならない。
 御雷は待っていた。
 田中、お前にもあるのか。お前の家にも伝わっているのか。
 『あれ』が。
 田中が速攻のコンビネーションを打ち込んでくる。蹴りと突きのリズムに覚えがある。
 来るのか?『あれ』が。
 防御に動いた隙を突いて、御雷の懐に飛び込んできた。
 殆ど抱擁に近い形で密着する。田中の右拳が御雷の左胸にとん、と触れた。
 御雷の全身が総毛立つ感覚があった。
 これは近接打撃ではない。あれは拳一個分程度離して構える必要がある。
 腕の中で、田中が全身の力を束ねるのを感じた。速すぎる。避けるのは間に合わない―――。
 菊池は御雷の道着の背中が裂け、そこから田中の拳が突き出すのを見た。彼の身体を貫いた――我知らず悲鳴を上げた。
「騒ぐな。死んでない。」
 静かな声で告げるのを信じがたい思いで見るのは、菊池だけではない。
 田中は信じられなかった。
 渾身の一撃は、御雷の道着の胸に穴を開け、背中に突き抜けた。
 だが、道着に穴を開けただけだ。彼女の拳は御雷の肉体に傷一つつけることはできなかったのだ。正確には、彼女の拳は、胴着の中で彼の肉体に触れることなく背中に抜けてしまったのである。
 御雷は全く回避運動を取らなかった。取れないように密着したのだ。必ず当たるはずだった。
 なのに、一歩も動くことなく躱された。
 呆然としているところに、強烈な一撃を食らった。右の掌打が田中の左側頭部を捉えたのだ。
 長身だが、田中は軽い。人形のように吹き飛ばされる。
 ああ、このまま負けるんだろうか…。
 ぼんやりと思ったとき、空中を舞う自分に御雷が追いついたことを知って慄然とする。
 御雷の右手が、今度は左側頭部を掴んだ。
 田中は御雷の意図を理解する。
 このまま床に叩き付け――られた。衝撃で霞む視界に、体重を乗せた膝を落とす御雷の姿が見えた。
 あの膝が、私の頭を潰して、私は死ぬ…のだろう。
 田中は目を閉じなかった。己の死さえも最後まで見届ける。
 田中―――比良坂久仁恵は、そういう女であった。
 どん。
 鼻先を掠めるように重い膝が落ちてきたとき、さすがの田中も身を固くした。
「外して…くれた?」
 見上げると、御雷が立ち上がったところだった。道着の背中に開いた穴から、生白い肌が覗いている。
「菊池先生。時間は?」
 声は穏やかだが、顔面は血まみれだ。菊池の声が震えた。
「十五分。ちょうどです。」
 御雷は振り返った。
「よかった。ぼくの勝ち…です…ね。」
 そう言うのと、畳に崩れ落ちるのとがほぼ同時だった。

      12
 耳に絶え間なくノイズが流れ込んでいる。規則正しく脈打つそれが、やけに速い。
 ああ、血管内を流れる血液の音が聞こえているのだ。脈拍が速すぎるようだ。
 少しずつ、身体感覚が戻ってくる。聴覚が通常に戻る。
 ノイズが消えて、代わりに菊池の声が聞こえた。
「御雷先生!気が付いた…。」
 涙声になっている。誰だ、泣かせたのは。
 唐突に思い出す。
 俺…か?
 結局、俺は気を失ってしまったのか。
 起き上がろうとしたが、手足が動かなかった。感覚はあるが力が入らない。
 首筋や道着の脇の下に氷嚢が当てられていることに気付く。
「まだ、起きちゃ駄目ですよ。」
 眼だけを動かして見ると、枕元に田中が居た。顔の血を洗い流し、額に絆創膏を貼っている。縫うほどではなかったらしい。自分にも同様の処置が施されていることに気が付いた。
「体温が、下がらないんです。」
 御雷の左腕を取って、目の前に時計の表示盤を示してくれた。他の全ての表示が消え、でかでかと「体表温度四十六度。即時冷却」の文字だけが見える。
「このままだと、死んじゃいますね。ぼくは。」
 人事のような口調に、女二人がはっとする。自分の生命に関してすら、御雷は現実から目を逸らさない。
「氷水の風呂に浸かればいいんですが、家まで帰っていたら間に合いません。…一つ、賭けてみましょうか。」
 御雷は自らが助かるための算段をした。
 百キロ近い身体を、男子更衣室に運ばせる。氷嚢と、買っておいたスポーツドリンク四リットルも運ばせる。
 シャワールームのシャワーを、最大水量で出しっ放しにしてもらう。温度設定は完全な水だ。
「スポーツドリンクをもう四リットルほど買ってきてください。それと、氷をたくさんお願いします。ぼくは水で身体を冷やします。」
 床に座り込んだまま、帯を解き道着を脱ぎ捨てる。二人の女は慌てて更衣室から出た。
 全裸になると、擬態を解いた。血流が変わって、全身が満遍なく熱くなってくる。皮膚の紅い筋は消えない。
 ふらつきながらも立ち上がり、スポーツドリンクと氷嚢をシャワールームに放り込むと、最後に自分自身が転がるように降り注ぐ冷たい水に身体を曝した。
 両脇に氷嚢を挟み、床に座り込んだままスポーツドリンクを一本飲み干した。まずは、二リットル。
 腎臓への血流を増やし、腎機能自体も押し上げてやる。あくまで短時間しかできない芸当だ。
 すぐに激しい尿意を催した。座ったまま、放尿した。
 湯気が上がった。無論、沸騰するほど熱いわけではない。が、それでも生体を構成するタンパク質が変質する一歩手前ぐらいの温度はあった。危ないところだったのだ。
 シャワールーム内の高い湿度と、低い気温のおかげで、湯気が見えているわけだ。
 長々と放尿を続けながら、御雷は二本目のドリンクを飲み干す。
 身体の中に水分を通し、それに熱を移して体外に放出する。
 それが御雷が出した回答だ。
 一時的とはいえ血液は薄まり、内臓にも大きな負担がかかる。何度も経験したいことではないが、背に腹は替えられない。
 ドアの外に菊池の存在を感じた。すぐに声が聞こえる。
「御雷先生、新しいスポーツドリンクと氷を買ってきました。」
 磨りガラス状のドアを通して、俺の姿を見ることができるだろう。が、顔さえ見られなければかまわない。半ば投げやりな気分になっている。
「すみません。渡してもらえますか。」
 ドアが細く開き、差し出された腕は筋肉質でありながらほっそりとしてしなやかであった。指が見慣れた御雷のものであることを、菊池は目敏く確認する。あの指は、今の本当の腕に付いていた方が似つかわしい、と感じた。
 目を逸らそうと努力はしているが、ちらっとドアの方を見てしまう。ぼんやりと、床に蹲る人影が、普段の半分ほどの大きさしかないことに、酷く驚いた。
 そういえば、鍛えた女のような腕をしていた。思えば、声だっていつもと違う。低めの女性の声のようにも聞こえた…ような気もする。
 御雷の素顔を見てみたい。
 痛いほどの欲求を何とか抑え込んで、菊池は更衣室から出て行った。
 御雷は氷嚢に氷を足し、スポーツドリンクを飲む。大量に放尿する。
 全てのドリンクが尿に変わり、氷が全部溶けきったとき、体表温度は四十度を少し切るところまで下がっていた。
 足下が覚束ないが、立ち上がって小便まみれの身体を洗う。床も綺麗に洗い流した。
 シャワールームを出ると、脱ぎ捨てた胴着で身体の水分を拭い、自分のジャージを着た。当然だが、素顔の御雷にとってはブカブカだ。
 これからまた擬態にエネルギーを使うと思うと、正直うんざりする。このままベッドに倒れ込んでしまいたい。
 だが、女たちに今の姿を見せるわけにもいかなかった。気力を振り絞って、小太りの体型を作る。顔を作る。声を作る。少しだけ体温が上がったのを感じた。
 姿見に全身を映してみる。ジャージから露出した顔や手に、紅い筋が走っている。今回は、すぐには消えてくれないだろう。脳が肉体を支配する力が下がっている。異常な熱を溜め込んでしまったために、ダメージを受けないようにいくつかの機能が停止している。
「我ながら、みっともないな…。」
 ふらつきながら更衣室から出ると、濡れた道着を田中に返す。
「もう、帰ります。」
 田中は、もう止めなかった。ただ、謝った。
「本当に、ごめんなさい。」
「何が、ですか。」
 御雷は意外そうな顔をする。田中の眼は真っ赤に充血していた。
「私は、十五分の制限時間も嘘だと思っていたの。だから、こんなことになるなんて予想もしていなくて。」
 御雷は屈託無く笑った。
「まったく…一度はぼくを殺そうとしたくせに。」
 真顔に戻って、忠告する。
「闘ってみて、確信しました。ぼくらは源流を同じくする業を受け継いでいます。誰かは知りませんが、初代はろくなもんじゃないでしょうね。強い相手と当たれば、勝たずにはいられなくなる。あげくに殺したくなる。そういう風に、身体と心を造るプログラムが鍛錬に組み込まれてるんですよ。」
 だから、不用意に強い相手と闘わないでください。
 それだけ言うと、道場から立ち去ろうとする。
 止めたのは菊池だった。
「田中先生、御雷先生をこのまま帰らせるわけにはいきません。引き留めてください。」
 意外な言葉に、御雷はまじまじと菊池を見た。
「ぼくの顔なんて、もう見たくないんじゃないですか。」
 藍色を帯びた瞳からは感情を読み取ることができなかった。
「そこは、まだ実感が湧きません。正直言って、もの凄く腹も立っているし、モヤモヤしています。」
 ストレートに言われては、煙に巻いて誤魔化すこともできない。小さく肩を竦めるしかない。
「でも、今の状態の御雷先生をそのまま帰したら、女が廃ります。」
 まるで田中が言いそうなことを、言うようになった。
「大体、お店に寄ることもできないでしょう?」
 指摘されて、しげしげと自分の両腕を見てみる。皮膚を継ぎ合わせた境界を示す紅い筋が異様だ。
「たしかに…、これでは真っ直ぐ家に帰るしかなさそうです。」
「お腹も空いていますね。」
 指摘されるまでもなく、腹ぺこだ。そもそも、今日は自堕落にのんびりと過ごすつもりだったのだ。死ぬギリギリまで追い詰められるような闘いをする気など、初めはなかった。
 御雷にしろ比良坂にしろ、人体のポテンシャルを限界近くまで使い切ろうとする業の遣い手は、恐ろしく大食らいである。異常に強靱な肉体の燃費が悪い、ということもある。それ以上に、脳を酷使するために、大量のエネルギーを必要とするのである。
「そして、御雷先生の家には、例によってロクな食べものがない。」
 御雷は小さく溜め息をついた。
「全部、当たってます。」
 不意に、菊池は満面の笑みを浮かべた。田中も驚くほどの。
「じゃあ、これからみんなでご飯を食べましょう。こういう気分の時は、お腹いっぱい食べるのが手っ取り早い気分転換になるんです。」
「まあ、それもそうか。」
 田中は御雷の手を取った。白くて柔らかな手は驚くほどに力が無い。やはり、ダメージが抜けきっていないのだ。
「こんなんじゃ、誰かに襲われても一方的にやられて終わりですよ。」
 確かに。もし警察がマークとしてるとすれば、外出時を狙って職質を掛けてくるだろうことは容易に想像できた。だから、ここしばらく銃器は携帯していない。デリンジャーすらも、だ。ナイフの類いも身に付けたりはしない。
 普段の御雷であれば、目に見える範囲からの襲撃には銃器がなくても対抗できる自信はある。相手が鍛えられたプロであるならともかく、田舎ヤクザであればさほど脅威ではない。
 だが、それも御雷の体術を自由に使えればこその話だ。
 田中が駄目を押す。
「ほら、御雷先生にとっては最後の仕事になるんでしょう?食べて、身体を治してやり遂げなきゃ。」
「うちへ、来てください。ここからだと一番近いし。」
「いいんですか。」
「何が、ですか。」
 御雷の声には戸惑いがある。この展開は想定外だ。
「てっきり、二人してぼくを止めようとするとばかり…。」
「私は、止めない。」
 田中はきっぱりと言った。
「御雷先生の仕事が、どんな形で終わるのかは知らないけど。稲見中学校が、まともに頑張りたい生徒にとっては生きやすい環境になってきてるのは事実だし。」
 右手を拳の形にして見つめた。
「まあ、やってることは決して褒められたことではないんだけど。でも、そこは私も他人のことを言えた義理じゃないしね。それに、生徒に一生懸命教えている姿が嘘だとも思えない。」
「そこ、なんですよね。」
 菊池が小首を傾げて考える仕草を見せる。
「あれだけ親身になって生徒に接する人が、同時に大勢の人を殺しているといわれても。どうにもピンと来なくて。」
 困ったような顔をして笑う。
「それに、私には御雷先生を止めるほどの力はありませんから。残念だけど。」
 菊池にもよくわかる。御雷が派遣されたことの意味が。
 教師は無力だ。
 採用二年目にして、心のどこかでそんな思いが膨れあがりつつあったように思う。生徒の荒れにも対応できない。それは同時に、真面目に頑張っている子供たちの期待にも応えられないということでもある。
 教師は無力だ。
 だから、その枠に収まらない行動が可能な者を送り込む。学校再生専門員制度とはそういうものだ。
 頭では理解している。
 実際、御雷は問題が校外にまで大きく根を張っている事実を浮かび上がらせて見せた。麻薬使用者の大量死は、そういうことだ。
 それでも。
 銃を使って人を殺す者を嫌悪する感情は消せない。
 それでも。
 自分の御雷に対する想いは消せない。
 菊池は、自分の心が引き裂かれそうになっているのを痛切に感じている。
 だから、笑う。

      13
 御雷はしげしげと部屋の中を見回した。
 素っ気ないほどに物が無い。
 菊池のマンションである。1LDKの古い建物は、一人暮らしには十分な広さがあった。ちょくちょく田中が遊びに来たくなるのもわかるような居心地の良さがある。
 若い娘が好みそうな可愛らしいものは置いていない。どちらかといえば、モノトーンでまとめられた室内にはシャープな印象を与える小物が多い。言われなければ女の部屋だと認識できないかもしれない。
 御雷は本棚から一冊抜いて見てみる。ふむ。ここはヘミングウェイのコーナーか。日本の作家では…ははあ、大藪春彦はあるんだな。後は、北方謙三に、生島治朗…御雷の知らない作家の文庫本が並べられている。
 とにかく、本が多い。考古学者になるのが夢だったというだけあって、歴史書や博物館の図録も多い。引っ張り出してみると、付箋だらけである。今も独自に勉強しているわけか。
 女たちが風呂場から出てくる物音を聞いて、慌てて本を片付ける。
 ほかほかと身体から湯気を上げながら、田中がリビングダイニングに入ってくる。Tシャツにジャージという合宿スタイルだ。そのままパジャマになるのだろう。
「髪を乾かさないと風邪を引きますよ。」
「ん。菊ちゃんがドライヤーを使ってるから。順番待ちよ。」
 自分で氷嚢を造って、顎に当てる。御雷の蹴りを受けたところだ。痣になっている。顔以外にできた痣は無視するつもりらしい。
「田中先生、今日はあんまり身体を温めない方がいいんじゃないんですか。腫れが酷くなりますよ。」
「そうはいっても、汗ぐらい流したいじゃない。シャワーだけにしたから大丈夫よ。」
 ところで、と田中は言った。
「最後の私の突きをどうやって躱したのか、教えてもらえませんか。」
 絶対の自信があった。父の敗戦を教訓に、技を練ったのだ。だが、通用しなかった。
 御雷は苦笑した。
「あれはね、ズルをしたんですよ。まあ、魔法みたいなもんです。もし、胸郭の中央―――心臓の真上を狙って放たれたら、ぼくの負けだったと思います。」
 あの瞬間―――避けられないと悟った御雷は、胴体部分に限定して擬態を解除したのである。本来の細身に戻れば、道着には大きな空間ができる。田中の突きは、その何もない空間を虚しく突き抜けたというわけだ。
「それにしても、あの技は何なんですか?御雷にはない技です。いや、全身の力を束ねて出す技ならありますが、束ねる方法とスピードがまるで違う。」
 田中は片目を瞑ってみせた。
「あれが、私のとっておき。密着した間合いから、胸骨を砕くの。頭蓋骨だって割れるわよ。」
 菊池が戻ってきた。やはり上半身はTシャツで、下は藤色のジャージだ。
「二人で何を話してるんですか。」
「そうねえ。技の謎解きみたいなものかしら。」
 田中の浮き浮きした口振りに、守谷がよく言う「格闘馬鹿」という表現を思い出す。ついさっきまで殺し合いに近い試合をしていた二人が屈託なく話し込んでいるのを見ると、菊池は軽い目眩を覚える。
 それはそれ、これはこれ、なのだろうか。二人とも、その手で人の命を奪ったことがあるという。感覚が常人とは異なるのかもしれない。
 ここまで考えて、ふと可笑しくなった。
 私だって、人殺しじゃないか。
 何ということだろう。三人の人殺しが一室に集まって、これから飯を食おうとしている。
 そう思うと、皮肉な可笑しさがこみ上げてきた。
「ご飯と味噌汁みたいなものしかできませんけど、かまいませんか。」
「うん、それで十分。あとは漬け物でもあれば。」
「ご飯が炊きたてだったら、ぼくは生卵をかけて食べたいですねえ。」
「はいはい、できますよ。まるで朝食のメニューみたいですけど。」
 笑って準備にかかる。といっても、飯を炊き味噌汁を作るだけだ。すぐに仕上がった。
 御雷の体温は十分に下がっている。あとは食って寝ればいずれ体調は回復するはずだ。
 出てきた食事を、二人はものも言わずに掻き込んだ。お代わりのタイミングもほぼ同じだった。
 炊き出しのような量を腹に収めて、田中と御雷はようやく満足した。菊池はその間にきっちり一人前食べている。
 待ちきれないように、田中が話題を戻す。
「御雷先生の家に伝わるのは、どんな技なんですか。」
 そうですねえ…と言葉を探す。
「多分、ですけど。比良坂のあの技は、全身の力をスピードに振り向けて打ち抜く感じですよね?」
 正解、と田中はあっさりと種明かしする。
「よければ、もう一度やって見せてもらえませんか?」
 一応奥義なんだけど、と渋る田中の目の前に餌をぶら下げてやることにする。
「お返しに、うちのとっておきの技も教えますから。子種はあげられませんけど、あなたも手ぶらでは帰れないんでしょう?」
 これには田中も快諾した。
「できれば、下着姿でやってくれると有難いんですが。筋肉の動きが視たいんです。」
 田中は菊池に半紙を用意させると、ジャージとシャツを脱いだ。着痩せするタイプだというのがよくわかる。ショーツもブラジャーも飾り気はないが、シンプルな分、身体の線を綺麗に浮き立たせていた。
「そんなにじろじろ見ないでくださいよ。」
 田中が顔を赤くして言う。
「何を今更。子種が欲しいという人が、これぐらいで恥ずかしがってどうするんですか。」
 少しだけ、好色そうな表情を作ってやる。
「でも、これは…ちょっと早まったかもしれませんね。綺麗な身体です。」
 田中は目を輝かせる。
「じゃあ、抱いてくれるの?」
「抱きませんってば。大体、田中先生は生娘――処女でしょう。」
 思わず田中は自分の肩を抱く。微かに鳥肌が立っている。
「なんでわかるのよ。」
 御雷は菊池の方に意味ありげな笑いを向ける。
「ぼくぐらいになると、身体を見れば大体わかります。後は、肌を触って汗の味を見れば、ほぼ間違いありません。」
 乳首を探る指の動きが鮮明に思い出されて、菊池は顔から火が出そうな思いになる。
「というのは、嘘です。」
 真顔で言われてしまうと、田中としても立つ瀬が無い。
「もう。私はちゃんと処女だってば。」
「でしょうね。」
 涼しい顔で御雷は同意する。
「御雷の血統にも、女性で後を継いだ者が何人かいたそうですが、どれも化け物みたいに強かったそうですよ。彼女らは、自らの強さを保つために、子を成したいと思うまでは男性との性交渉を一切持たなかったそうです。田中先生も、そういうことなんでしょう?」
 田中は頷く。菊池は疑問を持つ。
「男性とそういう関係になったら、弱くなってしまうんですか。」
 御雷が説明してやる。
「ぼくと田中先生の流派は、基本的な考え方がよく似ているんですが…狙っているのは『人間の潜在能力をいかにして引っ張り出すか』ということです。」
 人間の潜在能力は、実に奥が深い、と御雷は言う。本人が全力だと思っていても、実際には半分程度の力しか出せていないものだ。それを、修練と鍛錬によって、限りなく百パーセントに近付けていく。それが比良坂流であり、御雷の業である。
「そこで鍵になるのが、『肉体に対する脳の支配力』ということなんです。筋肉の一つ一つの動きを正確に管理し、感覚器からの入力を常人の域を超えて認識する。そして、一連の処理速度をとてつもないレベルに押し上げる。それを可能にするのは、究極的には『脳の力』なんですよ。」
 つまり、田中と御雷の闘いの勝敗を分けたのは、『脳の支配力の差』 だと言っても過言ではないのだ。現に、技比べでは大差なかったではないか。
「で、ここが不思議なところなんですが、女性は処女を失うと脳に変化が起きるらしいんですよ。個の生存よりも、次世代を産むのに適した構造に変化するということみたいです。こればっかりは『男女平等』を唱えてみてもどうにもなりません。埋めようのない性差というやつです。結果、戦闘力が落ちる。だから、本当のギリギリまでそういう欲求は我慢していたようです。」
 そういうこと、と田中が賛意を示す。
「じゃ、ちょっとやってみせるから。」
 菊池に半紙の上端を持たせ、それに右の拳を付けた。軽い半紙は、ひらひらと細かく揺れ動いている。固定していない薄紙を拳のスピードだけで打ち抜こうというのだ。
「いくわ。」
 御雷は見た。
 田中の両足下から力の波が遡っていくのを。体幹に流れ込み、両脚からの波が大きな干渉波を形作る。その脈動が高まった瞬間、右腕に流れ込み―――。
 ぱちん。
 そんな硬い音がして、半紙に穴が開いた。拳大の丸い紙片が、ひらりと床に落ちた。
 拳が紙を突き破ったのではない。きれいに拳の形に打ち抜いたのである。恐るべきスピードと力であった。
 なるほど、と御雷は言った。筋肉の動きは覚えた。見れば、できる。
「ちょっと、真似してみます。」
 菊池に半紙を持たせる。拳を当てた。全身の筋肉が連動して波を起こす。
 ぱちん。
 拳は紙を打ち抜いたが、田中ほどにきれいな穴は開けられない。
「まあ、この姿じゃこれが精一杯ってところでしょう。構えてから打つまでが早いのが便利ですね。」
 田中は開いた口が塞がらない。
「曲がりなりにもうちの奥義なのよ。一回見て真似されたんじゃあ、子供の頃から鍛錬してきた私の立つ瀬が無いじゃないの。」
「たいていの技は、見ればできるんですよ、ぼくは。」
 ほら、最後に田中先生に出したあの技、と御雷は指摘する。
 側頭部に掌打を与えた後、再び同じ手で側頭部を掴み、床に叩きつける。のみならず、その頭に体重を乗せた膝を落とし、頭部を破壊する。
 完全なる殺しの技だ。
「あれは…『巌颪(いわおろし)』だった。」
 御雷は破顔した。
「ええ、そうです。漫画に出てくる技ですよ。この前、晩飯を食べに入った食堂で読みましてね。これならできそうだ…というので、ぶっつけでやってみんです。上手くやれたと思いますけど。」
「じゃあ、わざわざ畳の部屋を選んだのは…。」
「そうです。板の間で『巌颪』を外せば膝を痛めますからね。漫画とは違います。ま、新しい技のヒントぐらいにはなりますけど。」
「ふうん。たしかに、実戦じゃ膝を痛めたら足が止まるものね。御雷先生ならどうする?」
 即答する。
「ぼくなら、膝の方を下にしますね。膝を立てておいて、こう頭を持って行くんです。」
「うん、私もそうする。」
 にこやかに談笑しているが、内容は…聞いている菊池は溜め息をつく。
「ところで、そろそろ教えてくれませんか。この格好で居るのも落ち着かなくて。」
「もう少し鑑賞していたいところですが、湯冷めでもしては大変ですからね。菊池先生、油性ペンはありませんか。」
 菊池は電話台の下から太めのペンを持ってくる。
「本来なら口伝ですが、今日は特別です。全ての筋肉の動きを、田中先生の身体に書きこみます。見て、理解してください。できれば、週末にでもお父さんに見せてあげればいい。」
 ほんとは全裸がいいんですけどね、と呟きながら御雷はペンを走らせる。
 一つ一つの筋肉を指で探りながら、矢印を書きこんでいく。足下から始め、少しずつ矢印が這い上がってくる。大臀筋に書きこむときはショーツを尻に食い込ませた。体幹を矢印が覆っていく。手妻のようにブラのホックを外し、田中に悲鳴を上げる暇を与えず大胸筋にも矢印を書きこむ。最後に、腕。やはり、螺旋を描くように矢印が描かれる。
「これでできあがりです。足下から螺旋を描くように筋肉を連動させていけばいいんです。」
 ちょっとやってみる、と田中は言った。
 矢印を書きこまれている間に、その向きと順番は頭に入っている。田中もまた、脳の遣い手としては一流であった。
 自然体で構える。力みは筋肉の起こす波にブレーキを掛けてしまう。
「拳一つ分の空間が必要です。それに、螺旋を描く分、力を束ねるのに時間が掛かる。」
「その分、うちのよりパワーがありそうね。」
「ええ、比良坂の胸を陥没させるぐらいの力はありますよ。」
 田中が笑ったのは一瞬だけだった。すぐに真顔になる。全身の統御に神経を注ぐ表情だ。
 波が、起きた。足下で起きたさざ波は螺旋を描きながら連なって両脚を遡っていく。体幹部でより大きな波に―――田中は悲鳴を上げた。
「いたたたた!何よ、これ。」
「まあ、痛いでしょうね。全身の筋肉を極限まで使いますから、慣れるまでは無理できませんよ。少しずつ、全身が連動するように鍛錬してください。田中先生なら、早ければ半年もあれば初歩は習得できるんじゃないでしょうか。実戦で使えるようになるまでに、約一年。」
 身体をさすりながら、田中が恨めしそうに睨む。
「やって見せてはくれないんだ…。」
「そこは、勝者の特権というやつです…というのは嘘で、この姿だとぼくにもできないんですよ。あなたが言ったとおり、姿を変えるために使っている筋肉がブレーキを掛けてしまうので。強行すればぼくの全身はバラバラになるでしょうね。」
 あまり想像したくない光景ではある。田中は服を着ながら尋ねた。
「まあ、筋肉をそんな風に操れるっていうのが普通じゃないんだけど。で、大体何パーセントぐらいの筋肉を、その姿を維持するために使っているんですか。」
 話せることは話してやろう、と思う。本気で試合う姿を見られたのだ。菊池に聞かれてもかまわない。
「約、二十パーセントというところでしょうか。それらは殆ど全てが運動に反する動きをしたり、運動の抵抗になったりします。田中先生の指摘通り、身体の中で筋肉同士が喧嘩しているので発熱量も凄いことになるわけで。ぼくの悩みの種ですよ。」
 田中が嘆息した。
「それって、単純計算で二十パーセント筋力を使えないってことでしょ。しかもゼロじゃなくてマイナス方向に働くとすれば、実質六十パーセントの筋力しか発揮できないってこと?」
「まあ、そんなに単純な話でもありませんけど。この姿のときは、体感的には約半分の力しか出せていないというのは本当です。」
 田中は本気で頭を抱えた。
「それだけ制限があったのに、私は勝てないんだ。ところで、そんなに強いのに、どうして銃なんて使うんですか。」
 銃、と聞くと菊池の胸は冷たくなる。
 昔―――胸を躍らせ、タフな主人公たちの活躍を追って夢中でページを捲り続けていた、あの頃。
 それが随分昔のことのように思えた。考えてみればまだ六年ほどしか経っていない。
 御雷は田中の疑問に真面目に答えてやっている。
「それは、効率の問題です。ぼくの場合は体温の上昇を避ける意味もありますけど。」
「でも、私なら、拳銃の弾くらいなら避けるかナイフで受けるかぐらいはできますよ。」
「長距離からの狙撃はどうですか。」
「何というか、殺意が線になって届くのが見えるのよね。」
 高度に脳を使用できる者には、本来不可視であるはずのものを視覚イメージとして捉えられることがある。御雷であれば、自分や相手の突きや蹴りの軌跡が、未来予想的に紅い線として見えることがある。
 田中にとっては至近距離なら銃弾の弾道予想が、遠距離狙撃では射手の狙点が殺気の線として視覚化されるということだろう。
 実際、達人クラスであればそのような芸当ができる者も存在することは御雷も知っている。彼自身、相手の銃口が見えている状態でなら、丈夫な刃物で弾丸を受けるぐらいの芸当は可能だ。ただし、拳銃弾で、相手は一人。連射はなしだ。
 そんなのはただの曲芸だ、と思っている。だが、田中が生き残るために学ぶことは多い。
「では、銃を持った相手が、仮にぼくだったとして。それでも田中先生は生き残る自信がありますか。」
 少し黙ったのは、彼女なりにシミュレーションしてみたのだろう。
「…十中八九、勝てないわね、きっと。」
「ぼくはね、若い頃、こう考えてみたんですよ。『俺は、銃を使いこなす自分自身に勝てるのか』と。答えは明白でした。そして、今のぼくがあります。」
「古流と銃器の融合かあ…説得力はあるなあ…。」
 そこで思い出した。
「いけない。手合わせが終わったら親父に電話する約束だった。」

      14
『いよお、御雷さん。元気かい。』
 スピーカーモードにした田中の携帯電話から陽気な声が流れるのを聞いて、御雷はげんなりとなる。
 田中久仁恵の父、田中久那斗―――旧姓、比良坂久那斗(くなと)である。
 娘の久仁恵が今年で二十七歳だというから、五十をいくつか出たところか。
 その男が御雷を「さん」付けで呼ぶ。対する御雷の口調は砕けたものだ。
「元気も何も、あるか。田中なんて地味な姓に変えやがって。全然気が付かなかった。危うくお前の娘に殺されるところだったぞ。」
『その口振りだと、久仁恵は負けたんだな。』
「まあ、楽勝とはいかなかったけどね。本当に死ぬ目に遭わされたよ。もう二度と闘るのは御免だね。」
『素顔で闘ったのかい。』
「ううん。私は御雷先生の素顔を引っ張り出せなかったわ。」
 ふうん、と考え込む。
『御雷さん、あんたまた強くなったんじゃないか?』
 御雷は苦笑する。むしろ自分は弱くなったのではないかと思っているくらいだ。
「そんなことはないさ。先にお前の旧姓を聞いていなかったら、娘だと気付かないまま倒されてたところだよ。」
『そんなに俺に似てないかな。』
「全然、似てないね。お前にこんな美人の娘が生まれたこと自体、奇跡だよ。」
『嫁が美人なんでね。そっちに似たのさ。』
 臆面も無くのろけてみせる。
『どうだい、気に入ったのなら、婿にならないかい?』
「やだね。お前を『お義父さん』なんて呼べるか。」
 菊池は、いかにも田中の父らしい、と可笑しくなる。外見は母親に、内面は父親に似たのだろう。
 会話の邪魔をしないよう、そっと御雷と田中に茶を出してやる。
 湯飲みを置く微かな音に田中久那斗は反応する。
『おや、他に誰かいるのかい。』
「菊ちゃんよ。いつも話してる後輩の。菊ちゃんちから電話してるわけ。」
 菊池は携帯電話に向かって頭を下げた。
「菊池由美といいます。田中先生にはいつもお世話になっています。」
 電話の向こうで相好を崩す気配があった。
『いやいや、こちらこそ娘がお世話になっています。がさつな娘で申し訳ない。いろいろと迷惑をかけているんだろうねえ。』
 田中は顔をしかめる…が、事実だけに反論はしなかった。
『ははあ、わかったぞ、御雷さん。』
「何がだよ。」
『その、菊池さんがいるから、久仁恵と結婚するのが嫌なんだろう。』
 菊池は、どきりとする。御雷は困ったような笑顔を浮かべているだけだ。
「比良坂…お前のその口の軽さはどうにかならないのか?」
『学校再生専門員についてレクチャーしたことを怒ってるのかい。』
「俺のことをペラペラ話すこと全般について、だ。」
『そりゃあ、仕方ないだろう。まさか、娘の職場に御雷さんが派遣されてくるとは俺も予想していなかったんだから。』
 御雷は意外に思う。
「ただの偶然だというのか?俺が来ることを見越して娘を潜らせたんじゃないのか?文部省の監視役として。」
「何?監視役って。学校再生専門員には監視役が付くの?」
 御雷は少し混乱する。仕方なく、手の内を少しだけ見せてやることにした。
「いいえ。そういうわけではないんですが。例の役人の情報によると、文部省の中でも色々あるらしくて。今度科学技術庁と一緒になるらしいんですが、学校再生専門員制度を自分の手で潰して、手柄として持参したい向きがあるそうなんですよ。」
 田中に対する口調は、同僚に対するそれだ。
 ああ、なるほど、と田中父は納得する。
『それなら、御雷さんが派遣されたのもわかる。何しろ、専門員のトップだから。監視役を待たせておいて、そこに最高の学校再生専門員を派遣する。そうやってデータを取らせれば、これ以上無い攻撃材料になるだろうね。』
「周到だな…じゃあ、お前たちは俺の監視役ではないのか?」
『当たり前だよ。監視役が直接対決なんてやるわけがないだろう?』
 しっかりしてくれよ御雷さん、と笑う。
『久仁恵を県下でも荒れた学校に赴任させるのに、専門員時代のコネを使ったのは認めるよ。いずれ腕の立つ現役の専門員が派遣されてきたら、そいつと闘らせる腹づもりだっったのさ。』
「酷い父親もあったもんだな。本当に、強ければ誰でもいいのかよ。」
 田中父は答える代わりに言った。
『だから、娘から御雷さんの名前を聞いたときは耳を疑ったよ。まだ現役だったのかってね。でも写真を見たら、間違いなくあんただった。十五年前と全く変わっていない。』
「どういうことですか。」
 田中父の言わんとすることを掴みかねて、菊池が口を挟む。御雷は、もうどうにでもしてくれ、という気になっている。この親子はコントロールできない。
『話してもいいかい、御雷さん。この子はあんたのことは…。』
「仕事の内容は大体娘がバラしてくれたよ。まったく…厄介な親子だ。」
 御雷の笑みは皮肉なものではなかった。
「どうせもうすぐ引退するんだ。話せよ、比良坂。」
『じゃあ、菊池さんに少しだけ昔話をしようか。』
「はい。」
『俺が御雷さんに出会ったのは二十年近く前のことになる。もう久仁恵も生まれていて、家庭もあった。まあ、三十を越えての講師デビューだから変わり者ではあるな。』
「ただ強い奴に出会いたいだけの大馬鹿さ。俺はその時は気がつけなかったけど。」
『まあね。ともかく、俺と御雷さんは最初期の専門員なんだよ。いや、最初は御雷さんだけだった。その働きぶりと成果を目の当たりにした文部省が、いろんな癖のある人間を集めて制度として運用し始めた。それが学校再生専門員制度の始まりだ。結局、俺自身は五年ばかりやって、やめることになったけどね。』
「仕事を放り出して俺にちょっかいを掛けた報いだろ。」
 言葉は辛辣だが、敵意は感じられない。それが菊池には不思議ではあった。
 想像できる部分は、ある。
 命がけの闘いをしても、憎悪や怨恨が根にあるわけではないからだろう。勝者と敗者に別れはしても、互いを認める気持ちがある。それは先程の御雷と田中を見ていればわかる。
『あれは悪かったと思うけどね、後悔はしていない。』
「右眼を失った上に、脳に障害が残ってもか?」
 まあね、と電話の声が笑う。
『あのまま闘らずに別れていたら、ずっと後悔したまま生きることになっただろうさ。あんたが俺を壊してくれたおかげで、娘は俺よりも強くなってくれた。』
 おっと、話がそれるところだった。
『それでね、当時の御雷さんも今と全く同じ姿をしていたのさ。二十代後半の青年、に見えるだろう?』
「はい。田中先生と同じか少し上くらいに見えます。」
『俺よりもずっと年上なんだぜ、その男は。出会った頃は完全に若造扱いだったもんな。』
 田中と菊池が目を丸くする。田中は御雷の外見がこの十五年間変化していないことを知らされてはいる。それでも父親より年上となると、驚きもする。
「特異体質みたいなものです。肉体の老化が異常に遅いんですよ。検査してもらったら、二十六歳の頃から殆ど老化していないそうです。」
『で、うちとしてはどうしても御雷さんの血を家系に入れたくなるわけだ。』
 御雷は溜め息をついた。
「全盛期が長く続けば、それだけ強くなれる。強い相手と闘る機会も増えるはずだ―――理屈はわかるよ。だけど、それは未来永劫修羅道を往くようなものだよ。」
 酷く疲れたような響きが、御雷の声にあった。菊池が初めて聞く、苦い声であった。
 これが御雷の、本心。
『修羅道とは…珍しいな。死後の世界を信じるようになったのかい。』
 御雷は小さく笑った。
「いいや、信じない。人間は死んだらそれきりさ。魂もあの世も、俺は信じないね。」
『それでこそ、俺の知っている御雷さんだ。』
「比良坂、残念だが俺のこの体質は遺伝しない。一代限りのものだよ。だから、お前の娘の婿にはなれないし、子供も作らない。代わりに土産を二つやるよ。」
『殺しの才能だけもらえれば十分なんだが…。それはそれとして、土産とは嬉しいね。何だい?』
「一つは、十五年前にお前を倒した技の秘密。それをくれてやる。」
『いいのかい?秘伝なんだろう。』
「いいさ。どうせ、御雷の業を子孫に伝えるつもりはないし。かといって、誰でも習得できるものでもない。比良坂なら、受け継ぐ資格があると思うけど。」
『御雷の業を絶えさせるのかい?勿体ないな。』
「そもそも、俺自身が御雷の血筋じゃないよ。本家は、子が生まれなくなって絶えた。血で業を継いでいくと限界に突き当たるんだよ。比良坂では―――男児が生まれる率が極端に低くなっているんじゃないのか?」
 電話の向こうで肩を落とす気配がある。
『その通りだよ。たとえ生まれたとしても、強くはならない。久仁恵の兄も、弱くはなかった。だが、比良坂の本流の器ではなかった。』
 御雷は顔を上げた。強い光が瞳に宿っている。
「俺の養父(ちち)は言ってたよ。『血で業を継ぐのは限界がある。技は血ではなく才で継ぐべきなのだ』とね。娘を自由にしてやったらどうだ?比良坂。」
 応えたのは、田中本人だった。
「お言葉ですけどね、御雷先生。これは私自身が望んだことでもあるんです。私は、私の血に夢を託したい。」
 御雷は、何度目かの溜め息をついた。
「あなたも、よくよく業の深い人ですねえ…。」
 電話越しに父親が聞いているのを意識しながら続けた。
「技の要点は、もうあなたの身体に書き込んであります。消えないうちに実家に帰って比良坂に見せてください。あいつなら、一目で理解できるはずです。もう一つの土産は、あなた自身に差し上げます。」
「私に?何でしょうか。」
その前に、確認したいことがあります。そう御雷は言った。世間話をするような口振りに、田中は深く考えずに頷いた。
「あなたは、人を殺す経験を積みたいと思っていますか。」
 ちょっと、何を言っているかわからない。女二人の共通した思いだ。
「ぼくの見立てでは、あなたはもっと強くなる。あと三十人も殺せば、手が付けられないほどに、ね。」
 口元に淡い笑みを刻んで御雷は言う。
「だけど、今は圧倒的に経験不足です。人殺しが強い、と言いたいのではありませんが…ぼくとあなたの勝敗を分けたのは、殆ど経験値の違いだけなんですよ。」
 田中の瞳に複雑な色が浮いているのを認めて、御雷は僅かに苦笑する。
「怪しげな仕事を紹介しようというのではありませんよ。もし、あなたが望むなら、十分な教育を受けた上で、その技を振るう場所を与えてあげることができると言っているんです。」
「それは、どこ?」
「アメリカです。連邦捜査局―――FBIが喜んで雇ってくれるでしょう。そういう人材をスカウトする窓口に、心当たりがあります。」
 菊池の胸が苦しくなる。そういう話は単なる噂や都市伝説の世界のことだと思っていた。だが、気付いてしまった。これは、御雷自身が自らの経歴の一部を告白しているのだと言うことに。
 あの、鬼神のような闘い振り。その世界への扉を、御雷が開いてやる。
「先代の御雷―――最後の血統は、アメリカに渡ることを選びました。その結果としてぼくが生まれました。あの国は、広い。多分、底知れぬほどの強者が存在するはずです。」
 行く。田中は口を開きかけた。
 その唇を御雷の人差し指が押さえた。
「ただし、その場合は教職は諦めることになります。教師・田中久仁恵には死んでもらいます。」
 真っ直ぐに田中の眼を見て言った。
「あなたは、あの子たちを残して、殺しの世界に入れるのですか?」
 田中は唇を噛んだ。
 菊池は見た。爪が食い込むほどに田中の拳が強く握られていることに。眉間の皺が、深い。
 数瞬。
 田中は大きく息を吐き出した。
「父さん、ごめん。」
 菊池の方を見て、照れたように笑う。
「私、教師って仕事を辞められない。」
 田中父が笑った。
『これは、上手くやられたな。御雷さん、あんたの思惑通りなんだろうね。』
「違うね。ただの賭けさ。いや…むしろ。」
 御雷の唇にも柔らかな笑みが浮かんでいる。
「田中先生には教師として生きることを選んで欲しい、という俺の願いだよ。」
『相変わらず、女には甘いんだねえ。』
「抜かせ。俺が優しいのは美人に対してだけだよ。」
『菊池さんとやらも、きっと相当な美人なんだろうな。』
 御雷は鼻を鳴らしただけだった。改めて、田中を見る。
「田中先生。人を殺さずとも強くなる道はあるはずです。ぼくが歩んできた道と、あなたがこれから進んでいく道が同じである必要はありません。あなたは、教員を続けるべき人材です。」
 それだけ言うと、御雷は腰を上げた。
「少し長話が過ぎました。ぼくはもう帰ります。二人とも、難しいとは思いますが、もうしばらくの間よろしくお願いします。」
『もう帰るのかい。今度うちにも寄ってくれよ。で、気が向いたら久仁恵を抱いてやってくれ。』
 ふん、と鼻で笑った。
「お前が死んで、田中先生が子供に殺しの技を伝えるのを諦めた頃に、寄らせてもらうよ。」

 菊池は覚えている。
 濃い、血の匂い。そして。むせかえるような、栗の花に似た匂い。
 男の、荒い息遣い。がくがくと人形のように揺れ動く、姉の白い身体。
 脇腹が、灼けるように痛い。それ以上に、脳髄を灼き尽くすような感情が自分を支配している。
 怒りだ。どす黒い、殺意である。
 男が意味のわからない叫びを上げて、尻を痙攣させると栗の花の匂いが一層濃くなった。
 姉はもう死んでいる、と思った。瞬きをしない眼は焦点を結んでいない。
 もう何度、男が射精したかわからない。死体になった後も、姉を犯し続けているのだった。
 菊池は気配を殺して身を起こす。傷の痛みに呻き声を上げそうになるが、意志の力で噛み殺した。
 鈍い光を帯びた鋼のメカニズムに視線が吸い寄せられる。
 ガンブルーが所々剥げて銀色の地金が見えている、古い自動拳銃。
 男が放り出したままになっているそれを、そっと拾い上げる。
 小さな護身用拳銃は、菊池の手によく馴染んだ。口径二十五ACP。残弾一。
 たった一発で、殺す。殺しそこなえば、次は自分が男の餌食になる。それより、何より―――。
 菊池は、また飽きもせず死体を犯し始めた男の真横に立つ。銃口を耳の穴に当てた。
「それ以上、姉さんを汚すな。」
 自分の唇から出た嗄れた声を、他人のもののように聞いた。躊躇いはなかった。引き金を絞る。そして―――。
 菊池は跳ね起きた。暗い。
 自宅のマンションだと確認して、大きく安堵の息を吐いた。
「菊ちゃん。」
 すぐ横で声がした。闇を透かして、田中の白い腹が見えた。Tシャツが捲れているのだ。彼女は寝相が悪い。布団はとうに撥ね除けてしまっていた。上体だけを起こしている。
 切れ長の眼が、労るように菊池に向けられている。
「また、あの夢を見たの?」
 田中には、自分が教師を志すきっかけとなったあの事件のことも話してある。自分が撃ったのだ、ということも含めて。田中は黙って聞いてくれた。
「最近は殆ど見ることがなかったんですけど…。私、ちょっと疲れてるみたいです。」
 笑いに力が無い。
 ごめんね、と田中は言った。
「私のせいだ。やっぱり、菊ちゃんに知らせるべきじゃなかった。」
「御雷先生のことですか。」
「うん。嫌なことを思い出させちゃったね。あいつのこと、嫌いになった?」
 菊池は苦笑する。
「田中先生は、最初からそうするつもりで、あんなことをしたんでしょう?」
「まあね。あいつが危ない奴だってわかったから。本当のことを知ったら、きっと目が覚めると思ったの。けど、ちょっと変なのよね…。」
「変って、何がですか。」
 表情までは読み取れないが、考え込む気配がある。
「御雷先生は、菊ちゃんに自分の本当の姿を知ってもらいたかったんじゃないかってこと。だって、逃げるチャンスはいくらでもあったもの。いくら学校再生専門員のことを知っていたとしても、御雷先生がそれだという物的証拠があるわけじゃない。私の思い込みだと突っぱねられたらそれまでの話だもの。」
 なるほど、と思う。田中の父との会話だって、わざわざスピーカーモードにして菊池に聞かせてやる必要などなかったのだ。「携帯電話を持つことすら億劫だ」という彼の言葉も、今となっては怪しく思えてくる。
「菊ちゃんはさ、実際のところ御雷先生のことが好きだったの?」
 素直に答えることができた。
「ええ。とても好きでした。どうしてこんなに好きなんだろう、と何度も考えました。結局、わかりませんでしたけど。」
 小さく笑う。その笑いが苦いものを含んでいることが、田中の胸を刺す。
「そういう田中先生は、どうなんですか。」
 田中は小さく溜め息をついた。
「どことなく、似てるんだよね。あいつ。」
「誰に?」
「死んだ――そうじゃない――私が殺した、兄貴によ。それでかな、気になるのは。」
 二人して黙り込む。
 沈黙を破ったのは田中だった。
「今は、どうなの?」
 菊池は、答えない。唇を引き結んだ、あの表情を浮かべているのだろう、と田中は思った。
「銃を使って人を殺す者を許せない、か…。」
 田中の呟きにも、菊池は答えない。答える代わりに、言った。
「すっかり寝汗をかいちゃった。もう一回、シャワーを浴びてきます。」
 湿ったシャツを脱ぎ捨てると、熱いシャワーを浴びた。
 乾かす手間はかかるが、髪の毛まで丁寧に洗い直した。
 曇ったミラーを、手の平で拭う。自分の顔を映してみた。
 見慣れた、自分の瞳。藍色を帯びた瞳が、底知れぬ穴のように鏡の中から菊池を見返している。
 初めて御雷の瞳を見た時に、気付いていたのだ。自分も同じ眼をしていることに。
「私は、銃を使って人を殺す者を許せない…。だけど。」
 脇腹の銃創痕に手を当ててみる。
「一番許せないのは、私自身なんだ…。」
 涙が、溢れた。
 嗚咽を殺すように、菊池はシャワーをさらに強くした。

      15
 臨時休校が明けて、再び稲見中学校での勤務が始まった。
 御雷は、やや複雑な思いを抱えている。
 西本と石川は、当たり前のように登校している。登校して、御雷を監視している。
 それは、いい。予想していたことだ。
 もう学校で殺しはできない。それも、いい。当然のことだ。
 近いうちに、時と場所を選んで始末する。
 そうすれば、ひとまず御雷の仕事は終わる。
 そうなれば、稲見中ともおさらばできる。
 河津組の件は気になるが、問題があっても後任で来るはずの「建て直し役」に引き継ぐだけのことだ。必要なら巧く警察に情報を流してくれるだろう。
 監視者は無視して構わないだろうと判断している。文部省がどうなろうと知ったことではないし、日本を離れる御雷には関係の無いことだ。
 それよりも。
 菊池との距離感に居心地の悪さを感じている。
 全てではないにしろ、自分の裏の顔を晒してしまった以上、よそよそしくされることは想定の内だ。なのに、菊池の態度は変わらなかった。
 御雷は、戸惑う。
 それでも、菊池の心の中に、以前は存在しなかった壁があるのを感じることはできる。
 菊池も迷っているのだ。悩んでいるのも伝わってくる。心なしかやつれたようにも見える。
 迷っている者の近くに居ると、迷いが伝染する。
 そう思うから、御雷としては菊池の側には居たくない。しかし、彼女を守るためには近くに居なければならない。
 何なんだ、この居心地の悪さは。
 さすがの御雷も愚痴を言いたくなるが、その居心地の悪さの原因が自分自身の心の内にあることは認めざるを得ない。
 あからさまに嫌悪してくれた方が、よっぽど気が楽だ。まったく、俺としたことが、柄にもない…。
 そんな思いを抱えながら、授業をこなし、菊池のサポートを続けている。
 田中とは、以前よりも腹を割って話せるようになった。自分と菊池の距離が開くことを前提に、彼女の身辺の見守りを頼んである。
 二人の女も早々に始末してしまえば、楽になれる。
 それは十分にわかっている。が、これ以上学校関係者を死なせるには、それ相応のリスクを覚悟せねばならない。女が死ねば、接点のあった異性として御雷が注目を集めることも避けられないだろう―――というのも、結局は二人を殺さない言い訳に過ぎない。
 御雷自身がよくわかっている。
 俺は、やっぱり弱くなったのかもしれない。比良坂、お前の眼は曇ってるみたいだよ。
 迷いか。
 久しぶりの感覚に戸惑いはあるが、それでも授業は順調だ。生徒たちは去年の遅れを取り戻すだけに留まらず、益々旺盛な学習意欲を発揮しつつある。それに対する教材の準備も完璧にしてある。
 いつ、御雷が居なくなっても大丈夫なように。
 そして、それはいきなりやってきた。
 いつものように授業をしていると、教室のドアがノックされた。教頭である。生徒に自習課題を指示してから廊下に出る。
「済みませんね、授業中に。緊急の連絡だというので。」
 尋ねる前から、御雷にはわかっていた。一応、形だけは確認を取る。
「どうしたんです?」
「石上剣さんという人を知っているだろうか。」
「ええ。従兄弟にあたる人です。本家筋に当たるので、ぼくとは姓が違いますけど。それが、何か?」
「その人の親戚に当たる石上暁子さんが、危篤だそうだ。入所先の施設から、さっき連絡があった。石上剣さんから、『緊急の時には御雷武に連絡を』と頼まれていたそうだ。」
 わかってはいたが、改めて教頭の口から聞くと、御雷は全身の血が引くような気がした。
「石上暁子さんは、ぼくにとっても大切な身内です。すみませんが、今から有給をもらいます。復帰については改めて連絡します。」
 教頭の返事も待たずに、大股で歩き去る。背中で言った。
「帰るのは葬式が終わってからになるかもしれません。生徒には、ぼくの不在をあまり強調しない方が安全だと思います。」
 西本と、石川のことを言っているのだと教頭は理解する。
 気は急いていたが、体育館に行った。田中を呼ぶ。
「どうも、身内に不幸事がありそうなんで、ぼくは帰ります。二、三日は戻れないと思います。その間のことを頼みます。」
 言わずとも田中にはわかった。菊池のことだ。
 返事をする間もなく、御雷は足早に歩き去っている。その背中が、妙に小さく見えた。
 御雷は手早く手荷物をまとめるとスバルを出した。
 平屋に戻るとバイクに乗り換えて石上邸に向かう。焦りはあるが、尾行に対する油断は怠らなかった。
 本来の姿に戻り、服を着替え、スープラを出す。
 程なく、暁子が入所している高齢者福祉施設に着いた。
 御雷が付くのを待ちかねていたのか、顔馴染みになった職員が出迎える。
「お世話になります。容態は、どうなんですか。」
「今は、お部屋で眠っています。お元気だったんですが、急に気分が悪いと言われて。」
 施設出入りの医者が呼ばれた。暁子の健康診断も定期的に行っている。延命治療を希望していないことも承知済みだ。だから、結論を出すのも早かった。
「この人には、もう生きる力が残っていない。親族に連絡してあげてください。」
 そして、御雷はここにやってきた。
 そっとドアを開けると、滑るような足取りで医者が出てきた。他の入居者に聞かれないように小声で話す。こういう場面に慣れているのがわかる。
「心臓が、弱っています。今は眠っていますが、また目を開けてくれるかどうかは、わかりません。もし意識が戻ったとしても…。」
「わかっています。間に合ってよかった。」
 御雷の口元に浮かんだ微笑に、医師はどきりとした。同性である―――と聞かされている―――のに、老いた身体の芯が疼くような、哀しい笑みであった。
「お別れをしてきます。」
 用があったら呼んでください、という医者の言葉は、「暁子が死んだら呼べ」という意味だ。
 御雷は、入口のドアを閉めると、しばらくの間ベッドに横たわる暁子を見つめた。
 心拍数と血圧のモニターの作動音だけが聞こえる。当初よりの打ち合わせ通り、酸素マスクなどは付けられていない。
 カーテン越しの柔らかな日差しの中で、暁子はまどろんでいるように見えた。
 皺深く、痩せてはいる。美しい老い方をしている、と思った。
 往時の美貌を忍ばせる穏やかな寝顔に、死の影が色濃い。
 御雷は胸が苦しくなった。
 ベッドに歩み寄って、膝を突いた。やせ細った手を取って、優しく呼んだ。
「暁子。兄さんだよ。」
 辛抱強く、何度も呼びかける。
 暁子の瞼がゆっくりと開いた。淡い色の瞳が御雷を見付ける。
 血の気のない唇が微笑んだ。
「兄さん…来てくれたんだ。」
「もちろん来たさ。兄さんは、約束は守る。」
 御雷は暁子の手を握る力を、少しだけ強くした。暁子が握り返す感触は、ほんの僅かしかない。
「あのね…今、父さんと母さんが来てたの。」
 夢の、話か。
「そうか。何か言ってたかい。」
 暁子は御雷の顔を見詰めた。
「私を、迎えに来たって。もうすぐ、一緒に行くことになるって。だから…もう兄さんとはお別れなの。」
 暁子の生命はもう枯れかけていたが、涙を一筋流した。
「兄さんだけ残してしまって、ごめんなさい。」
「いいさ。お前と、約束したからな。」
 御雷の、声が震えた。涙が、溢れた。二十年ぶりの、涙。
「お前を見送ってやると、兄さんは約束した。ちゃんと守るから、心配しなくていいよ。」
 細い指が伸びて、御雷の涙を拭った。歳を取ってはいても、爪の形は美しかった。
「ねえ、兄さん。」
「ん。何だい。」
 淡い色の瞳が、黒曜石のような瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「兄さんは、あの世ってあると思う?」
 昔、同じことを尋ねられた。その度に同じことを答えたものだ。
「いや、思わない。人間は、死んだらそれっきりだよ。魂もあの世も、ぼくは信じない。」
 暁子は、満面の笑みを浮かべた。少女のように。
「やっぱり、私の晃兄さんだわ。ちっとも変わっていないのね。」
「暁子…やっぱり、認知症になったっていうのは。」
 少し、呼吸が苦しくなってきた。でも、笑ってみせる。
「嘘よ。財産目当てに寄ってくる連中が疎ましかったから。」
 くすくすという笑い声に、ぜいぜいという荒い呼吸音が混ざる。時間が、ない。
「ね、顔をよく見せて。」
 御雷は暁子に見えるように顔を近付けてやった。その頬を、暁子は愛おしそうに撫でた。
「本当に…お母さんにそっくり。男の子なのに、私より兄さんの方がお母さんに似てるなんて、変よね。でも、おかげで晃兄さんが来てくれたって、すぐにわかった。」
 会えてよかった、と言って暁子は泣いた。
「歳を取ってないのを変だと思わないのか?」
 そこは、御雷の実の妹である。
「それは、生きていれば色々あるでしょ。それよりも…すぐに見付けてあげられなくてごめんなさい。」
「それは、ぼくのセリフだよ。何度もアメリカに来てくれたんだろう?」
 結局、再会するまで六十年余りかかったことになるのか。
 晃・暁子という兄妹が数奇な運命の果てに再会したのは、永遠の別れが訪れるほんの僅かな手前であった。
「生きているうちに会えただけで、私には十分よ。」
 暁子の瞳は、幼かったあの日と同じように悪戯っぽく笑っていた。
「兄さんが信じてなくても、私はお父さんやお母さん、それに天狗の爺っちゃんたちのところにいるわね。」
「ああ。ぼくがどう言っても、お前は自分が好きなように行くんだろ。昔から、変わらない。」
 御雷は笑った。二人とも、笑いながら泣いていた。
「でも、あの世で兄さんを待ったりはしない。ね、最後の約束をして。」
「まだ、ぼくに何か約束させるのか?」
 淡い色の瞳が瞬きもせずに言った。
「死なないで。」
 御雷は、言葉に詰まる。その約束は、俺にとっては重すぎる。
「兄さんじゃなければできないことがあるような気がするの。兄さんじゃなければいけないことがあるような気がするの。」
 息が、切れそうになる。それでも、言う。
「だから、約束して。『死なない』って。」
 御雷の手を握りしめている、暁子の痩せた手。そこに込められた力が、彼女の命の最後の輝きだ。消えそうな炎を、引き留めるように御雷は呟いた。
「わかった。約束するよ。」
 よかった、と暁子は笑った。
「兄さんは、約束したことは必ず守ってくれるもの。」
「まったく…酷い妹だよ、お前は。」
 暁子は片目を瞑ってみせた。彼女も建の仕草を見ては、よく真似していたものだ。
「私のお願いを必ずきいてくれる兄さんが、私は大好きよ。だから、私が死んだらアルバムをもらって。兄さんが私にくれた、一枚だけしかない家族写真を貼ってあるから。」
 別れ際に渡した、大切な写真。それを暁子も心の支えにして生きてきたのだ。
「わかった。」
「それじゃ私、そろそろ行かないと。」
「うん。」
 暁子は目を閉じた。一度だけ、大きく息を吐いた。唇が言葉を紡ぐように動いた。それが「おやすみ」だったのか「ありがとう」だったのか、あるいは「さようなら」だったのか。御雷にも読み取ることはできなかった。
 それきり、暁子は動かなくなった。
 サイモンが日本に赴任した時から、彼に依頼して暁子の行方を捜していた。御雷にとっては唯一血を分けた妹である。稲見中学校を任地に選んだのは、ようやく見付けた彼女の様子を遠くからでも見てみたいと思ったからだ。それが、彼女の嘘をきっかけに、こうして看取ることになった。思えば、幼い頃から暁子には振り回されっぱなしだった…。
 御雷は、暁子の手を額に当てて、長い時間瞑目していた。
 これで、一つ約束を果たした。だが、俺はまた新しい約束を背負い込んだ。
 何十年生きても、人は成長しないものだ。
 ようやく苦笑らしきものを浮かべると、御雷は立ち上がった。
 暁子の死を伝えるべく、彼女の部屋を後にする。
 暁子は振り向かずに死出の旅路を行く。
 御雷も、振り返らなかった。
      *
 教頭は、御雷の指示を守って彼が最低でも数日は学校に戻らないことを生徒に対して明言しなかった。無論、教師には伝えてある。男性教師の不在を伏せるのは、稲見中学校ではある意味暗黙の了解になっている。羽目を外す生徒が出るのは誰だって面倒臭いと思うものだ。それがたとえ一線級のワルでないにしろ、だ。状況を察して、教諭たちも生徒の前では御雷の不在には敢えて触れない。
 だが、教頭も御雷も見落としていることがあった。
 教室前の廊下にホワイトボードが下げてある。そこに一週間分の授業予定が掲示してあった。
 掲示といっても、単純に一週間分の枠線が引いてあって、そこに教科名を書いたマグネットをぺたぺたと貼り付けてあるだけのことである。それを見て、各教科の係を務める生徒が授業の予定や課題等を教師に確認して、自分の学級に伝えるわけだ。
 二年生で、この掲示を担当している教諭は、穏やかで思いやりのある女性だった。人望もそれなりにあったが、残念なことに思慮が足りなかった。
 彼女は深く考えもせず、英語の札を別の教科に貼り替えてしまった。その週の、最後まで。
 言葉にせずとも、少しばかりの観察力があれば事情はわかる。
 西本はすぐさま玄に連絡した。内容は簡潔だ。
「御雷が、学校を離れました。事情はわかりませんが、今週一杯は奴の授業が他の教科に変わっています。」
 菊池由美が消息を絶ったのは、その日の帰宅途中のことであった。
 御雷は、いない。

【鳴神来たりて(仮題)】のための創作ノート⑥

 【第六章 暗躍】 

      1
 菊池は、初めて御雷の授業を見たときの驚きを忘れない。
 彼が稲見中で初めて授業を行ったときのことだ。
 二年五組―――菊池の学級だということもあり、見学させてもらうことにしたのだ。教室の後に立ち、メモを取る。すぐ近くに立った担任を、西本は無視した。
 何の変哲もない挨拶から、授業は始まった。
“Good morning, class.”
“Good morning, Mr. Mikazuchi.”
 御雷はにやりと笑って言う。
“You know, 知ってると思うけど、this is my second time to introduce myself. But, this time, I’ll do that in English. Listen carefully and try to understand. After my selfintroduction, I’ll ask you about me. 後で質問するからね。”
 などと、妙なタイミングで日本語を混ぜながら話す。
 気が付いた。
 御雷はまともな日本語を一切使ってはいない。英語の間に挟むのは、あくまで日本語の断片だ。あとは、身振りや表情、声音で情報を補完しているのだ。いや、正確にはそれらを使って生徒を刺激し、彼ら自身の脳の中で情報を補完するように仕向けているのだ。
 結果、御雷の声に耳を傾けている生徒たちは、「自分が英語を理解できたような気になる」のである。
 初めは嫌々聞いているのが明白だった生徒たちが、すぐに怪訝そうな表情になり、やがて身を乗り出して集中するのを、菊池は見た。
 この学級の生徒は、多くが英語を不得意としている。中学生から学び始める英語科は、初めこそ簡単だが、急速に難易度を上げていく。
 他の教科と比較するのは適切ではないが、例えるならこういうことだ。
 学習を積み重ねて学力を伸ばすことは登山に似ている。仮に、わかりやすく、山頂を高校受験に必要な学力ということにしよう。無論、受験だけが学習の目的ではないし、受験を目的にするにしても、個々の進路希望によって登るべき山の高さは変わってくる。そういうことを理解した上で、敢えて例え話をしてみようということだ。
 五教科の内、英語を除く四教科―――国語科、社会科、数学科、理科については、小学校からの学習の延長線上にあるということができる。つまり、生徒たちは九年間掛けて山頂に到達するわけだ。それに対し、英語科は三年間で山頂に立たねばならない。歩き始めは平地でも、加速度的に傾斜がきつくなる―――そういう登山をイメージしてもらえばいい。
 稲見中の二年生にとっては、英語の学習にほぼ一年間の空白がある。昨年はまともに授業ができなかったからだ。だから、多くの生徒は既に諦めている。残り二年間で学習の急傾斜を登りながら、同時に去年の分を取り戻すなど不可能だ、と。
 そんな彼らが、「思っていたよりも自分が英語を理解できる」という状況に遭遇したら、どうなる?
 菊池は、まさにそんな状況を見せられているのだ。
 御雷の自己紹介の後、その内容について簡単なクイズが出される。問題自体も、何とか生徒が理解できるぎりぎりのレベルを探りながら英語で出題される。
 軽妙な語り口と、にこやかな表情が、御雷の前では誤答をしても恥ずかしくない、という気持ちにさせてくれる。
 実際、普段は手を挙げないような生徒が発言する。的外れな答えも多いが、御雷は”Almost.惜しいね”だの、”Good guess.いいところを突くね”だのと相槌を打つ。この前の新任式と同じだ。かと思えば”Is that right?そうかな”などと揺さぶりを掛けたりもする。
 菊池から見れば、ちっとも惜しくなどないし、いいところも突いてはいない。確かに、そう言われれば生徒は気持ちよく授業に参加できるだろうし、それでやる気が出るなら、言ってやることに意味はあると思う。
 しかし、心にもないことを言って生徒を喜ばせるのは不誠実なのではないか、とも思ってしまう。後で質問をぶつけてみた。御雷は真顔で答えた。
「自分で答えようと一歩を踏み出した者は、何もしない者に比べれば、確実に正解に近付いています。始めなければ絶対にゴールには辿り着けませんからね。ゼロはどこまで行ってもゼロですが、最初の一歩を踏み出した者の前には二歩目、三歩目がある。それが続けば正解に続く道ができるでしょう。そういう意味で、生徒から出た答えは全部『惜しい』し、『もう一息』なんですよ。」
 なるほど、と思った。
 学ぼうとしなかった過去の自分と決別すること。自分自身で決めて、成長し続けること。そのような行動を取る生徒に対して、将来の期待分も含めての「惜しい」なのだ。
 御雷は決して生徒を喜ばせるために耳に心地よい言葉を与えているのではない。目先の点数が少しばかり上がることを期待しているのでもない。むしろ、ずっと先の、生涯にわたる生き方の指針を生徒が持ってくれることに期待しているのだ。
 菊池は大いに反省した。御雷は、菊池には見えていないものを見て、生徒に接している。教師が近視眼的になってしまっては、どうしようもない。
 教師として成長したい。菊池は強く願った。
 学級担任としては、西本と馬越がどう出るかも気になってはいた。
 最初の英語の授業では、彼ら二人は大人しいものだった。教科書やノートは持ってきていない。だが、それを必要としない授業を御雷が展開したために、困ることはない。かといって、授業に参加するわけでもない。
 ただ、見ているのだ。御雷という男を。
 無表情に教師を見詰める二人の生徒の姿は、授業前に御雷が言っていた言葉を思い出させた。
 「最初の一週間は様子見ですから。奴らも大人しくしているでしょう」と、彼は言ったのだ。
 なるほど、たしかに値踏みをする眼だ。と、菊池は思う。自分が授業をしているときはそれを察知するほどの余裕はないが、きっと彼らは私のことも同じように観察し、付け入る隙を探すのだろう。
 そう考えると、胃が重くなる。
「それじゃあ、予定より少し早めに進むことができたから、次回やるところを先取りで聞いてもらおうかな。」
 御雷がそう言うのが聞こえた。初日は内容を欲張らない。そして「教師が予想していた以上に君たちは頑張った」というメッセージを送ってやる。
 ここだけは、すっかり低くなってしまった自尊感情を、少しでも高めてやるためのテクニックだ。それは菊池にも理解できた。御雷の凄いところは、本心からの言葉と、テクニックとして機械的に発する言葉の間に境目がないことだ、と思った。だから、生徒に媚びる感じがないし、逆に素っ気なくもない。
 もしかすると、御雷の本心が一番透けて見えるのは、授業中かもしれない。
 ふと、そんなことを思い付いた。普段は、何を考えているのかよくわからないところがある。が、生徒に対する物言いには独特の真っ直ぐなものを感じる。
 御雷は持参したCDラジカセを教卓の上に置いた。学校の備品である。
「えーと、うん。CDは忘れずに入れてきた。」
 プレーヤー部の蓋を開いて確認する。その動きがいかにも不器用で、生徒たちから失笑が起きる。
「それじぁ、行くぞー。」
 言いながら演奏開始ボタンを押そうとする。
「せんせー、コンセント、コンセント。」
 無邪気な声で指摘が飛ぶ。しまった、という顔をして御雷は頭を掻いた。
 教室に和やかな空気が満ちる。
 しかし。
 御雷がラジカセの電源プラグをコンセントに挿そうとしたとき。
 教室の空気が凍り付いた。
 本来コンセントがあるべき場所に、ぽっかりと穴が開いている。壊されたのだ。
 御雷先生が修理してくれたはずなのに。いつの間に…。
 高木は唇を噛んだ。視線を走らせると広瀬も同じ表情をしていた。
 これだ。
 こんな小さな嫌がらせが、積み重なって渡部を追い込んでいったのだ。辛い記憶が甦ってきて、思わず目を閉じる。
「先生、そのラジカセは電池でも動くんじゃないですか。」
 誰かが言った言葉に救われた。御雷先生に授業を続けてもらいたいと思っている人は他にもいるのだ、と胸が熱くなる。
 だが、当の御雷は情けない表情で、ラジカセの電池スペースが空であることを示す。
「悪いな。電池は入ってないんだよ。」
 駄目か。
 教室が静まりかえる。
 乾いた嗤いが響いた。声変わりが終わりかけた声の主を、思わず皆が見る。
 西本祐司。不気味なまでに沈黙を守っていた少年が、実に愉快そうに笑っていた。嘲るような眼を御雷に据えている。追従するように馬越も笑い出す。
 何とかしなければ。菊池が口を開きかける。御雷を独りにしてはならない、と思った。
 高笑いを続けながら、西本は横目で菊池を見た。その眼に浮かんだ酷薄な表情。そして、その奥にある物欲しそうな光が、菊池に声を出させなかった。
 俺の気に入らない奴は、壊してやる。お前も、滅茶苦茶にしてやろうか。
 舌なめずりをするような視線に、敵意以外の感情を感じて、菊池は吐き気を覚える。
 西本が、敵意に満ちた視線を、再び御雷に据えた。
 彼の意に反して、御雷は涼しげな顔で口を開いた。いかにものんびりした口調である。
「上機嫌だなぁ、西本。」
 その声に怒りも不安もないことに、広瀬は胸を打たれた。朝、「おはよう」と挨拶するような、力みのない自然な声だった。そう感じたのは彼女だけではなかった。唇を噛んで俯いていた同級生たちが、御雷を見ようと顔を上げていく。
 やはりプーさんのように人のよい笑顔を浮かべながら、彼は言った。
「ご機嫌ついでに、いいものを見せてやろうかな。」
 電源プラグを床に放り出す。
「コンセントは使えない。」
 空の電池スペースを再び示す。
「電池もない。」
 肩を竦めてみせる。これは困った、というポーズだ。実に芝居がかっている。少しだけ、場の空気がほぐれる。
 西本と馬越は嘲笑の表情を崩さない。
「でも、ぼくにはとっておきがある。行くよ。」
 無造作に、演奏開始ボタンを押す。
 無駄だ。何も聞こえては―――聞こえてきたのは、紛れもなく教科書に書かれた対話文だった。中学生の男女が春休みを振り返りながらたわいもない会話を交わすという、一年生の内容の復習教材だ。少年の声と少女の声が交互に語り合い、尋ね合い、答え合いながら情報を交換していく。聞き慣れた教材の音声である。
 一同は唖然とした。電源もないのに、どうして。
 菊池は気が付いた。広瀬も、高木も気が付いた。西本も気が付いていた。馬越はぽかんと口を開けているだけだ。少しずつ真相に気が付く者が増えてくる。彼らの視線は御雷の口元に注がれていた。
 CDを流しているはずなのに、御雷の唇が動いている。もとより通電していないCDラジカセが動くわけがない。御雷が代わりに自分の口で言っているだけのことだ。
 教科書は手にしていなかった。それはいい。御雷は教科書を暗記しているのだろう。
 だが、彼の唇が発する声は普通ではなかった。
 少女のセリフの時は少女の声を。少年のセリフの時は少年の声を。
 教材CDと寸分違わぬ声を再現して見せたのである。
 最後まで暗唱してみせる。
「――ってことだ。電源なんてなくても、ぼくは困らない。」
 御雷が片目を瞑って笑うと、割れんばかりの拍手が起きた。何だかわからないが、凄いものを見せられたような気がする。
 広瀬と高木は顔を見合わせて笑った。このプーさんは、やはり只者ではない。
 がたん。
 机を蹴り倒して西本が立ち上がる。いつもなら静まりかえるはずが、今日は逆に歓声にかき消されてしまった。菊池を押しのけ、肩を怒らせながら教室を出て行く。馬越が慌てて後を追う。
 彼らの動きに気が付いた者もいたが、何故かこれまでのようには気にならなかった。生徒たちの中で物事の優先順位が変わろうとしていた。
 二人を追おうとして、菊池は御雷の視線で制止された。彼は内線電話を取って、職員室に連絡を入れる。
「今、西本と馬越が教室から飛び出しました。対応をお願いします。」
 端的に用件だけ告げると電話を切る。冷静なものだ。淡々と対応するから、他の生徒が動揺することもない。
「残り五分になった。宿題のプリントを配るぞー。」
 えー、いらなーい。
 そんな声を無視してB4版の更紙に印刷したワークシートを配ってしまう。渋々という顔で受け取った生徒の顔が変わる。
 一年生の学習を補完するための学習プリントだった。
「廊下に棚を置いて、そこにこいつの続きを準備してある。模範解答と解説もあるから、解けた者は自分で採点してみな。」
 普段目立つことのない男子が手を挙げた。
「続きもあるってことは、できそうなら新しいのをもらってもいいんですか。」
 同じ事を広瀬も考えていた。
「いいよ。そのために用意したんだから。できる人はどんどんやっていい。解説を見てわからないことがあったら質問して欲しいな。昼休みか放課後なら、補習みたいなこともできるからさ。」
 相変わらずのほほんとした調子で答える御雷に、広瀬は疑問をぶつけてみる。
「これは、もしかして御雷先生の手作りプリントですか。」
 ニヤリと笑って答える。
「そうだよ。世界に一つ。御雷武の特製プリントさ。」
「どれくらい量があるんですか?」
 御雷は即答した。
「取り敢えず、一年生の復習分と、二年生で習う分については全部作っておいた。みんなの様子を見ながら、必要なら補充プリントも作るから。」
 げえ。何枚あるんだよ。
 そんなことを呟きながらワークシートに目を通した生徒の目付きが変わる。これは…俺にもわかるように作ってくれているのかもしれない。思わず質問していた。
「これって、もの凄く準備するのが大変だったんじゃないの、先生。」
 まあね、と御雷は涼しげな口調のまま返す。
 生徒は絶句した。なんで、そんなにしてくれるんだよ。
 呟きは御雷の耳に届いていた。
「言っただろ。英語はタダで嫌と言うほど教えてやるってな。」
 約束を守る。稲見中で教師がそれを十分できなくなってから、どれくらいになるだろう。
 顔をくしゃくしゃにしてワークシートに涙の染みを作る生徒を見て、菊池は自分も泣きそうになっていることに気が付いた。

      2
 御雷の授業は、回を追うごとに生徒の心を掴みつつあった。決してスマートな、格好のよいものではない。むしろ、泥臭く、丁寧な取組が目立つ。基礎学力を付けるための特効薬などは無い。当たり前のことを当たり前にするしかないのだ。今の二年生に必要なことは、一年生時の遅れを取り戻すことと、失った自信を取り戻すことだ。
 普通にやったのでは退屈さに心が折れる。
 それを感じさせないのは、御雷が操る流暢な英語と、絶妙な場面の切り替えのおかげだ。
 授業が始まった瞬間から、御雷は特に必要が無ければ日本語を使わない。断片的な日本語と非言語コミュニケーションによる誘導は続いている。
 一週間も経つと、生徒たちは御雷の授業に慣れた。本流はありながらも、それぞれの生徒のニーズに合う課題や助言も与えてやる。他者と比べるのではない。今の自分を越えつつあるという手応えがあれば、次にのステップに繋げることができる。
 広瀬と高木は、もともと飲み込みのよい生徒である。前任の渡部を慕ってもいた。が、英語自体は得意な方ではなかった。真面目に努力をしているつもりだが、成果に繋がらない。そこが悩みだった。
 御雷は、授業時間が中途半端に残ったときなどに、様々な雑談を入れてくる。最初はたわいもない話で始まるのだが、よくよく聞いてみれば学習する者にとって大きなヒントになったり、戒めになったりする事柄に繋がっていたりする。
 御雷の話を聞き逃すのは損だ、という空気がどのクラスにも広がりつつあった。
 時には、生徒の方がドキリとするような、身も蓋もない発言が飛び出すこともある。
 例えば。
「あのな、中学までの勉強なんて、ほとんどはテクニックでどうにかなるのよ。本当に勉強を理解するのは大学に進んで学び続けようとする人だけで、実はいいんだよ。『高校受験に合格すればそれで十分』って人には、英語の攻略法じゃなくて、『入試の攻略法』を教えてやる。…だけどな、もし後で『大学に行きたい』という気持ちが起こったとき、それじゃあ無理だ。だから、どんな希望が出てきてもいいように、今は本気で理解することの方を勧めるよ。」
 こんなことを言ってくれた教師はいなかった。全員が同じゴールを目指す必要はない。だが、準備をしておくことは不確定な未来に対する備えになる。御雷の言葉を要約すればそういうことになる。
 広瀬は、思い切って自分の悩みを相談してみたことがある。授業後半の「相談タイム」だ。
「単語が覚えられなくて、困っています。まじめに努力しているつもりなんですが。」
 それ、おれもだ、と同様の悩みを持つ者が声を上げる。
 なるほど、と御雷は頷く。
「たしかに、英語の勉強で単語を知らないとか覚えていないというのは致命的だ。まあ、料理に例えれば、文法の勉強はレシピ――調理法を知ることで、単語や熟語を覚えるのは食材を揃えるのと同じ事。いくら料理の仕方をよく知っていても、冷蔵庫が空だったら何にも作れない。」
 広瀬は頷く。御雷は例によって、しれっと言ってしまう。
「ぼくはね、『努力』とか『集中』とか『精神力』とか『根性』なんて言葉を気安く使うのが好きじゃないんだ。ほら、部活の試合中によくあるだろ。応援してる人が『集中~』とか言ってるのを見ると、馬鹿じゃないかと思うよ。」
 広瀬は少しムッとする。他の運動部の連中も表情が険しい。
「私も、試合の時はそんな応援をするんですけど。馬鹿なんでしょうか。」
 棘のある言葉を、御雷は微笑で受け止めた。
「じゃあ、広瀬に質問。」
「はい。」
「広瀬の言う『集中』って、何に集中するの?」
「え?」
 思いがけない質問だった。言葉に詰まった彼女を、御雷の黒い瞳が見つめている。
「…ボールに、集中します。」
 ふうん、と少し考えて、さらに質問を発する。
「ボールに、どんな風に集中するの?そして、それは何のための集中なの?」
 広瀬は、冷や汗をかいた。答えられない。御雷が畳みかける。
「広瀬の言う『集中』をすることで、試合に勝てるのか?」
 この勝負は、完敗だ。険しい表情で御雷を見ていた連中も肩を落とす。今まで全く疑問に思ったことがない部分を突かれてしまった。
 改めて、御雷が話し始める。
「何事にも、『目的』とか『目標』というものがある。例えば試合の場合なら、まあ『勝つ』ことを目標にするとしようか。そうしたら、『集中』するにしても、それが『目標』を達成することにつながることかを考えなければならない。」
 広瀬は頷くしかない。
「『目的』に関係ない『集中』は、単なる『集中力の無駄遣い』だよ。おまじないのように唱えたって、試合になんて勝てるもんか。」
 頭を殴られたような衝撃を受ける。確かに、深く考えずに「集中」を叫ぶのは、効き目の怪しいおまじないの呪文を唱えるのと少しも変わらない。
 御雷の声は、あくまで優しい。大切なことを伝えようとする声だ。
「思い出してごらん。これまでの『努力』は、ちゃんと『目的』に繋がるものだったかい?無駄な部分や努力の空回りはなかったかい?」
 そう問われると自信が無い。広瀬は答えられなかった。そこで、御雷はより具体的な話に移る。
「広瀬は、英単語を百個覚えたいときに、どんな勉強をしてるんだい。」
「ええと…練習ノートに十回ずつ書いて覚えます。」
 おれもだ。私も、同じ。ざわざわと呟く声がある。
「じゃあ、百個分だと、合計千回書くわけだ。」
「はい。そうなります。」
 御雷は器用に片目を瞑った。悪戯っぽく笑う。
「ぼくなら、そんな勉強はしない。面倒くさがりだからな、やらなくていいことは絶対やらない。」
 プリントかごから、二種類の用紙を取り出した。
「ちょっと、試してみようか。」
 最初のプリントが配られた。中身を見て、広瀬は目眩がした。ちょうど百個英単語が並んでいる。
「一年生の教科書から取ったものだよ。今からテストをします。」
 もの凄い悲鳴と非難の声が上がったが、御雷は聞き流す。
「何問できてもいいから、まずは一度解いてみな。」
 解答用紙を配ってから、「始め」の合図を掛ける。
 不平の声が消えて、思い思いにテストに取り組む。まずまず学習習慣が身に付いてきたな。
「はい、そこまで。赤ペンを出して自分で採点してごらん。」
 解答用紙にペン先が走る音が微かに響く。
「では確認します。零点だった人はいるかい?」
 該当者はいなかった。
 西本と馬越はまだ登校していない。
「広瀬、何点だったか聞かせてもらえるかい。」
 出来はよくなかった。言いたくはなかったが、御雷の話の行き先を確かめたいという欲求には勝てない。
「五十点です。」
「お、抜き打ちテストだったにもかかわらず、半分取ったか。なかなかやるじゃないか。」
 意外にも褒められた。御雷が真顔になる。
「何の勉強もなく、書ける単語がもう五十個ある。書ける五十個まで十回ずつ練習するって、無駄じゃないか?」
 広瀬は、あっと叫んだ。そういうことか。
「練習するのは、書けなかった五十個だけでいい。仮に『千回書く』のを変更しなければ、五十個の単語を二十回ずつ練習できることになる。十回ずつ書くよりも、覚えられる可能性は高い。」
 わかったかい、と尋ねられる前に広瀬は理解していた。きっと、残りの五十個も、いきなり二十回書く必要などないのだ。十回ずつ書いて再び単語テストをし、できなかったものを更に十回―――というように対象を絞り込みながら練習した方が遥かに効率がいいはずだ。
 御雷と目が合った。思いは伝わったようだ。
「まずは、自分ができているところと、まだできていないところを面倒がらずに分けること。それが始まりだ。後はできていないところを集中的にやっつければいい。そうやって、無駄を無くしていくことは手抜きとは違う。『合理化』っていうんだよ。」
 御雷が言っているのは、問題の切り分けだ。そして、それは「目的と手段の整合性」の話でもある。真面目に努力するのに成果が出ないという者の多くは、それができていない場合が多い。
 何事も、優先順位を付けて、それが高いものから処理していくのだ。個人差はあれ、人間の処理能力には限界があるのだから。
 もし、それを徹底できるのなら。
「こんな風に無駄を無くしていけば、今の勉強を進めながら、去年の分を取り戻すことだって―――」
 御雷が不敵に笑った。
「十分可能だ、とぼくは思ってる。」
 精悍さとは無縁の顔に、酷く男性的な表情が浮かぶのを見て、広瀬は一瞬どきりとする。
 ちょうど、授業終わりのチャイムが鳴った。
 御雷は移動教室に向かう生徒に混ざって、廊下を歩く。一旦職員室に戻って、次は菊池の授業に入らねばならない。
 職員室の前に、生徒が集まっている場所があった。
 御雷が持参した棚を置かせてもらっている場所に、人だかりができている。生徒たちは思い思いに新しいプリントや解説を持って行く。進度は自分で調節するのだ。職員室前に設置したのは、悪戯避けが主な理由だが、プリントの補充がしやすいということもあった。
 大分、やる気が出てきたな。
 御雷は微笑を浮かべる。
「あの、御雷先生。」
 不意に声を掛けられた。
「ええと、君は確か…。」
 少女ははにかむような笑顔を浮かべている。
「三年生の郷田です。」
「だよねえ。普段の授業では見ない顔だと思ったんだ。で、郷田さんはぼくに何か用?」
「あの、先生が二年生にあげているプリントを、私にももらえないでしょうか。」
 ああ、そういうことか、と御雷は笑う。敬語の使い方は勉強した方がいいが、心掛けは立派なものだ。
「もちろん、いいよ。同じプリントを何回も解きたい人もいるから、余分に印刷してあるし。」
 やった、と郷田は無邪気に喜んだ。
「部活の後輩に見せてもらったら、わかりやすいんでびっくりしたんです。よかったぁ、受験に間に合いそう。」
 二人が話しているのを見かけて、日頃は交流のない三年生の女子が御雷のところに集まってくる。
「あ、郷田さん、あのプリントもらったんだ。」
「私もちょっと興味があったのよねぇ。」
「自分ばっかり、ずるい。」
 仲がいいのだろう。言葉にも遠慮がない。
 郷田が困った顔で御雷を見る。
「わかったよ。そんな顔をされるとぼくが困る。」
 友人たちの方を見た。
「他の三年生の中にもぼくのプリントが欲しい人っているのかな。」
 一人が答えた。
「きっとたくさんいると思います。勉強したいって思っている人は大勢いるから。」
 考えるまでもない。御雷は即答する。
「じゃあ、三年生全員が取っても足りるようにしておくから。みんなにも教えてあげてくれるかい?」
 一瞬、「信じられない」という顔をした後で、少女たちは歓声を上げた。
「みんなに伝えてきます。」
 駆け出そうとして、郷田が振り返る。
「御雷先生って、ハンサムですね。」
 御雷はげんなりした表情を作って、顔の前で手を振った。追い払う仕草だ。
「お世辞を言うんなら、『痩せてますね』くらいは言ってくれ。」
 きゃあきゃあと笑いながら掛けていく背中に声を掛けた。
「おーい、廊下は歩くもんだぞ。」
 やれやれ、何だか同じ事ばかり言っているような気がする。
 職員室に入り、自分の机に授業道具を置く。座って一息つく間もない。
「はい、カフェインの補給。」
 田中が差し出したカップに、半分だけコーヒーが入っている。がさつなようで気が利く女だ。しっかり菊池を守れ、という激励も含まれているのだろう。
「ありがとうございます、適量です。」
 立ったまま飲む。空になったカップを田中に渡すと、既に職員室の出口で待っている菊池の元へ向かう。
 慌ただしい。が、「授業開始のチャイムが鳴ったときには教師は既に教室にいるのが当たり前」と心掛けを説いた手前、守らないわけにはいかない。もっとも御雷にとっては、生徒の前にいる時間帯には鉄壁のアリバイがある、という意味でしかないのだが。
 廊下を菊池と並んで歩く。
「凄い人気ですね。」
 何が?と御雷は尋ねた。
「さっきの、三年生の女の子たちです。」
 御雷は苦笑した。菊池の声に、微かな嫉妬の感情が含まれていたからだ。
「ぼくが、じゃなくてプリントの話でしょう?」
 たしかに、と菊池は同意する。
「でも、それだけでしょうか?二年生の子たちの中にも、御雷先生を見る目が少し―――何というか…」
「教師じゃなくて、異性を見る目だと?」
「そう、それです。一生懸命勉強してくれるのは嬉しいんですが、いいことばかりじゃないような気もして。」
 御雷は笑わなかった。
「大部分の子は、心配しなくても大丈夫ですよ。あれぐらいの年頃だと、身近な大人の男性を意識したりするものですが、所詮は一過性のものです。こちらが意図的に引っ張らなければおかしなことにはなりませんよ。ただ…」
「ただ?」
「三年の小林。彼女のようなタイプには気を付けなければいけません。」
「あの子も、最初から御雷先生に懐いていましたよね。」
 御雷はうんざりした顔になる。
「あれはね、懐くっていうんじゃなくて、『性的なアプローチを仕掛ける』っていうんですよ。」
 菊池は目を丸くする。たかだか十五歳の少女が、そんなことをするものだろうか。
「しますよ。彼女、やたらとベタベタしてくるでしょう?身体をどう接触させれば異性の興奮を誘えるかわかってやってるんですよ。」
 ああ、それでか、と菊池は合点する。最近の御雷は身近に小林を寄せ付けない。
「寂しいんでしょうね。ああいうタイプは、同年代の集団に馴染めないことが多いんです。それで、年上の男性に走るんでしょうが…迷惑な話ですよ。」
「経験があるんですか。」
 一度だけね、と御雷は渋い顔になる。
「相手の好意を拒絶した方法がまずかったんでしょうね。ストーカーまがいのことをやられて、本当に困りました。」
 事実である。その時は裏の仕事を成し遂げるのに普段にはない労力を強いられた。
 ストーカー、と聞いて菊池は一瞬身を固くする。御雷は見逃さなかった。
「でもまあ、女子生徒の態度を好意と勘違いしたり、アプローチを断らなかったりする教師がいるから、色々とニュースになるんでしょうけどね。元々の性癖ってのもあるでしょうけど。いい年をした大人が何をやってるんだか…。」
 やれやれ、という風に肩を竦めて、御雷は話を切り上げた。

      3
 御雷は教室の後に立って、菊池が授業をするのを見守る。もし、厄介な連中が動きを見せたなら、即座に制止する。何より、男性教師が後から見ているというだけで、ある程度の抑止力にはなる。
 学校によっては、保護者が持ち回りで授業に入る場合もあるのだ。実態を保護者に知らせること、そして外部の眼が教室に入ることには意味がある。そうやって、荒れから立ち直ったところも全国にはある。
 残念なことに、稲見中学校ではそれを期待することはできない。
 まだ四月も半ばだというのに、生徒がトラブルを起こして保護者が学校に呼ばれる事案が数件発生している。御雷は関与の必要がないと判断した事案だが、校長室で保護者と教員が話している声には聞き耳を立てている。
「うちでは本当にいい子なんです。学校でそんなことをしたというのは信じられません」―――判で押したように、どの保護者も同じ事を言い立てていた。
 親馬鹿極まれりとは、このことだ。いや、馬鹿親極まれりというべきか。
 御雷は情けなくなる。家庭では本性を現したとしても、外面(そとづら)を取り繕うのがあるべき姿だろうに。家庭とは、ありのままの自分をさらけ出し、それを受け止めてもらえる大切な場だ。それを他人に期待するのは間違いだ。
 つまり。
 家庭が本来の機能を果たせなくなっているのだ。そして、親はそのことにまだ気付いていない。友人が、学校が、挙げ句の果てには社会が悪いと言い出す始末だ。
 おいおい、お前も、お前の子供も、その社会を構成する一員ではないのか。社会が悪いというのなら、それは構成員の質が悪いということだ。
 御雷は冷たく斬り捨てる。
 菊池は例によって熱弁を振るっていた。江戸時代の文化について熱く語っている。図版を使いながら、いかに豊かな文化が花開いていたか、そしてそれらが現代日本ばかりでなく海外にまで影響を与えたことを説いていく。
 中には、御雷が知らないこともあった。面白い。思わず引き込まれそうになる。そもそも、彼自身が国家への帰属意識に乏しいということもあるが、それ以上に菊池の知識が豊富なのだ。
 なかなか、やるもんだ。素直に称賛する。見せ方はまだ稚拙だが、経験を積めばいい教員になれるだろう。
 菊池の場合は、自分の熱意が生徒に伝染していくタイプの教員だ。歴史に対する思い入れや歴史を愛する心が、理屈抜きの説得力を持って生徒を圧倒する。
 一社会科教諭の域を超えた博学振りは、御雷に「歴史オタク」という言葉を想起させる。もし、恭子が生きていたら、きっと菊池の話を喜んで聞いただろう。それほどに、菊池の知識は深い。意外に二人は気が合ったかもしれない。
 いつもは自信なさげにおどおどしている菊池が、別人のように瞳を輝かせて語っているのを見ていると、不思議な感慨に包まれた。
 人間というのは、少し見たぐらいではわからないものだ。この、目の前で生き生きと授業を展開している姿こそが、菊池本来の姿なのだろう。
 普段の彼女は、本当の自分を隠している。
 それは、なぜだ。御雷は既に重要なヒントをいくつももらっていることを知っている。
 仮説はある。いくつかの傍証があれば、それが正しいか否か検証できるのだが。
 御雷は思考を中断する。
 後ろの席の遠藤が動きを見せたからだ。机の下で握っているのは消しゴムだ。
 少し前の席に座った白井希美が、振り向いて遠藤に意味ありげな視線を送っている。毒々しく紅が塗られた唇が、下品にめくれ上がる。
 御雷は、西本の情婦だというその少女を、汚らしいと思った。
 顔立ちそのものは可愛らしい――美人に成長するだろうと期待できるだけのものがある。色が白く目が大きい。緩やかにウェーブした髪が腰まである。しかし、濁った目と乾いた肌、年齢不相応に色気のある肉体は、腐り落ちる寸前の果実を思わせた。熟れきった皮一枚の下は、既に腐臭を放つ液体が詰まっているような。
 御雷は瞬時に理解する。白井が指示して、遠藤を使って菊池に嫌がらせをするつもりなのだ。白井の情夫である西本は、稲見中ではワル共の中心人物だ。
 ひとしきり話をした後、要点を整理するために菊池が黒板の方を向いてチョークを手に取る。
 遠藤は投擲を隠そうともしなかった。大きく振りかぶって、投げる。
 所詮は消しゴムだ。当たっても痛いくらいで済む。
 しかし、菊池の心は大きく傷付くだろう。誇りをもって責務を果たす彼女を守るのも、俺の仕事のうちだ。…少々サービスが過ぎるけどな。
 投げる動きに入ったら、もう御雷にも止められない。だから、言った。
「菊池先生。右に一歩。」
 菊池は素直に右に一歩だけ動いた。振り返って、「はい?」と御雷に疑問を送ってくる。
 その彼女の顔のすぐ脇を、消しゴムの軌跡が抜けた。黒板に跳ね返って、足下に落ちる。
 菊池はようやく気が付いた。御雷の指示がなければ、それは菊池の後頭部に命中していたはずだ。もし振り返っていたら顔面を直撃する。
 御雷にとっても賭だった。ここしばらくの間彼女を観察して、気付いたことがあった。あまりにも素直なのである。指示を受ければ、先に行動してから理由を問うようなところがある。その、素直な反応の早さに賭けて、勝ったのである。
 遠藤の顔色が変わる。それは怒りからではない。遠藤を睨み付ける白井の顔が、怒りでどす黒く変色していたからである。
 この、役立たずのカスめ。
 白井の眼がそう言っている。
 遠藤には、白井の怒りの理由がわかっている。
 嫉妬だ。
 始業式の放課後。いつもの溜まり場で駄弁っている最中に、西本が言ったのである。「菊池って、あんなにいい女だったんだなぁ」と。
 あの時の、舌舐めずりをするような西本の声と、嫉妬に充血した白井の眼を、遠藤は忘れられなかった。
 あれ以来、白井は菊池に対して激しい敵意を抱いているのだ。
 次も、投げずにはいられない。ポケットを探ると硬い感触があった。仲間内で金を掛けて遊ぶときに使うダイス――一辺が二センチほどのプラスティック製のサイコロである。
 ポケットから取り出して投げようとしたとき、御雷が声を掛けた。両手は上着のポケットに突っ込んでいる。相変わらず笑ったような目をしていた。
「遠藤、それは投げない方がいいな。さほど重くはないけど、当たれば痛いし怪我をするかもしれない。」
「うるせぇよ、この馬鹿。」
 悪態をついて振りかぶる。力一杯振った指先からダイスが離れる瞬間を狙って、御雷はポケットから抜き出した右手の親指を弾いた。モーションが小さいから、誰も御雷の動きには気が付かない。
 何かが接触するような鈍い音がした。
 続いて上がったのは悲鳴だ。
 白井が鼻を押さえていた。ダイスの直撃を受けて、大量の鼻血を出したのである。
「ほら、見ろ。怪我人が出たじゃないか、なあ遠藤。」
 のんびりした口調で御雷が言う。
 思いもしなかった結末に、遠藤の唇が白い。西本の女の顔に、傷を付けた。
「白井、痛そうだな。ティッシュを持ってこようか?それとも保健室に行くかい?」
 鼻を押さえたまま、白井は立ち上がった。燃えるような眼で菊池を見、御雷を睨み付ける。
「ひははい。ひょうははえる。」
 要らない。今日は帰る。
 鼻を押さえているためにセリフに迫力がない。
 薄っぺらい鞄を提げて、教室を出る間際に振り返って悪態をついた。
「ひねひょ、ほのふほへんほー。」
 御雷は笑いを抑えられなくなった。
 死ねよ。この糞先公。
「お前こそ、出血多量で死ぬなよー。ちゃんと病院に行けよな。」
 あくまでのんびりとした反応に、白井の顔がどす黒さを増す。何も言わずにずんずんと歩き去る。慌てて遠藤も鞄を持って後を追おうとする。
 御雷は遠藤の襟首を捕まえて、耳元で囁いた。恐ろしいほどの猫撫で声だ。
「西本に殺されないといいねぇ、遠藤君。」
 遠藤の顔色が紙のような白さになる。彼は混乱していた。怖いのは西本か、いや御雷か。何か、相手にしてはいけないものに手を出してしまったような感覚があった。
 呆然としている菊池に、授業を続けるように指示すると、例によって内線電話でことのあらましを職員室に伝える。
「ええ、遠藤の手元が狂ったのか、白井に当たりましてね。結構な量の鼻血がでまして…。はい、怒って帰りました。本当に帰ったか確認願います。菊池先生に被害はありません。授業を続けます。」
 生徒にも思ったほどの動揺はなかった。もともと、教室内の雰囲気を悪くしていた連中である。自ら出て行ってくれれば有難い、というのが本音であるらしかった。
 もう一人、白石直哉が残っているが、こちらは涎を垂らして熟睡している。
 御雷は教室前の戸棚から勝手に買い物袋を一枚出す。給食の牛乳パックをまとめて捨てるために生徒から集めたものだ。袋を裏返しにして手を突っ込み、簡易手袋のように扱って血の付いたダイスを掴む。そのまま袋をくるりと表向きにすれば、白井の血に触れずにダイスを回収できる。どんな病気を持っているかわからない他人の血に触れることはできない。百均で買ったか盗んだか知らないが、白いプラスティックのサイコロの表面に黒っぽい擦過痕があった。僅かだが、表面が溶けている。摩擦熱で、だ。
 何気ない動作で、床に落ちている十円玉を回収する。
 練習ってのは、しておくもんだな。
 改めて御雷は鍛錬を続けることの大切さを実感する。
 もともとは、御雷――建で途絶えた本来の御雷家の先祖が、対銃器用に生み出した技が基になっている。御雷自身がかつてFBI捜査官に対して用いたように、本当は専用の金属片を投げる。
 しかし、日本の社会ではあまりにも目立ちすぎる凶器であった。そこで代用品として、御雷は硬貨を使っているのである。
 中でも十円玉は便利だった。大して重さはないから、威力は期待できない。破壊力よりもスピードで打ち抜くことに向いている。何より酸化した銅の鈍い色は、その辺に落ちていても人の目を引かない。
 日本の硬貨の製造精度は高い。バランスもよく、軌道の計算が容易だ。最初は投げていたが、要領を掴めば親指で弾くだけで十分な威力と精度を発揮できることがわかった。無論、普通の状態ではない。弾く一瞬だけ、限界領域に入るのである。
 さっきのは、ダイスのリリースポイントから菊池までの軌道を計算して、十円玉をぶつけることによってその軌道を強引にねじ曲げたのである。
 神業、であった。
 御雷に言わせれば、相手の移動スピードとコースがわかっていて、なおかつこちらの弾体の飛翔スピードとコースを知っていれば、当てられない方がおかしい、ということになる。何しろ、御雷の業の神髄は、自らの人間性を捨て去り、肉体を優れた機械のように扱うことにあるのだから。
 ともかく、菊池は無事に授業を終えることができた。御雷は両ポケットに入った硬貨の重さに閉口している。

      4
 一週間が経ち、御雷が予告したように、稲見中は荒れ始めた。様子見の期間を終え、いよいよ糞餓鬼共が好き放題にやり始めたのだ。
 給食の準備の時間、御雷は廊下を走る自転車を見た。校舎内での二人乗り。よく見れば、運転している奴はちくわの磯辺揚げを口に咥え、後の奴も二本ほど同じものを手にしている。
 給食センターから配送車が来たタイミングを狙って、自分が食いたいものを奪ってきたのだ―――というより単なる低級な嫌がらせだ。
 やれやれ、猿共め。
 御雷は全力で走ってくる自転車を避けながら手近の傘立てを軽く蹴る。衝撃で一瞬浮いた一本を取って無造作に投げた。前輪のスポークに傘を差し込まれて、二人乗りの自転車は大きく前転した。自転車に背負い投げを食らった形で、二人の生徒が床に投げ出される。ちくわを口に咥えていた運転者は、綺麗に前歯を失った。
 自転車を避ける動作に隠して御雷が行った行為を見とがめる者はいなかった。それほどに、素早いのだ。
 また、ある日、他の男性教員と昼休みの見回りをしていたときのこと。
 離れ小島――二年生が入っている第二教棟の一階部分、問題生徒共の溜まり場に行ってみた。昼間でも異様な雰囲気のその場所を、意図的にパトロールのコースから外している教員も少なくない。
 その空間に入る前から、御雷の嗅覚は異臭を捉えていた。彼が今一番関心を抱いている麻薬の匂いではない。
 ただの喫煙と…それからシンナーか。
 三年生の男子が、二人。だらしなく壁にもたれている。床に腰を下ろしている一人は煙草を吹かし、その横に立っている者はビニール袋を手にしたまま、焦点の合わない眼を教師に向けていた。六道と近藤、だったか。
 三年生にもワルはいる。徒党を組み、似合いもしないサングラスを掛けて廊下を闊歩する姿を御雷も見たことがある。咥え煙草で肩で風を切って歩く三年生の後から、西本を初めとする二年生軍団が付いていく、という形は取っているが―――主力は、やはり二年生の方だ。
 三年生のこいつらは、ただのお飾りだ。あまりにも、おつむが弱い。サングラスを外して煙草を吹かしている六道の顔は、不健康に白く、そして猿に似ていた。大方、上手くおだてられ、暴力団員の威光でも見せ付けられて、巧みに前面に立たされているだけの操り人形だ。
 シンナーを吸っている近藤も、自分から主体的に何かをすることができない人間だった。利口な人間はシンナーを吸ったりはしない。
 この街の悪餓鬼共は、やたらとシンナーを吸っている。だから、薬物に対する抵抗感もないのか。
 今原市は造船の街だ。塗料や溶剤も大量にある。中には、御雷が侵入した工場のように警備が杜撰なところもあるのだろう。そういえば、以前に盗んだシンナーの一斗缶を裏山に隠していたことがあったと、青山が言っていたっけ…。
 ともかく放ってはおけなかった。関係者を一人一人排除していくことが、奴らの勢力を削ぐことに繋がるのだ。
「おい、シンナーを扱うときは火気厳禁が基本だろう。危ないぜ。」
 うるせぇよ、ほっといてくれ。
 例によって悪態をつく。眼が、座っていた。
「ああ、そうかい。」
 隣にいる教師に気取られぬ動きで、御雷は十円玉を弾いた。
 ビニール袋を綺麗に貫通した。こぼれたシンナーが、急速に気化しながら座って煙草を吹かしていた六道に降り注ぐ。御雷以外の人間には、何が起こったのか理解できなかった。
 炎が上がった。二人の少年の顔をオレンジ色の炎が舐める。のみならず、服や肌に飛び散った液体が、燃え続けている。シンナーは、よく燃える。気化するのが早いため、それほど長く燃焼は続けない。それでも呼吸器系にダメージを受ける可能性は、ある。
 先程までの気怠い様子が嘘だったように、六道と近藤は床を転げ回った。
 狼狽している同僚に、「消火器を」と指示を出して取りに行かせる。階段の気配を探る。二年生たちは、教師がいるときにはここに近付かないが、念のためだ。
 一人残った御雷は、にこやかに語りかけた。
「ほら、だから火気厳禁って言ったのに。さて、どうしようか?お前たちは、さっき『ほっといてくれ』と言ったよな。」
 口調が変わった。
「死にたければ、ほっといてやるよ。今すぐ選べ。」
 選択の余地はなかった。
「助…けて。」
 ふん、と鼻で笑って、御雷は傲然と二人を見下ろす。
 消火器が到着した。受け取って御雷がたっぷりと消化剤をぶっかけてやる。火はすぐ消えたが、恐怖心が深く刻まれた上に、全身を薬剤まみれにされたことで酷く自尊心を傷付けられていた。動けない。
「念のため、救急車の手配を。」
 再び同僚を職員室に走らせる。
 顔を押さえて呻いている六道の側にしゃがんだ。髪を掴んで引き起こす。眼に、怯えがあった。
「助けてやったぞ、六道。」
 無言。
 御雷は髪の毛を掴んだまま六道の顔を床に叩きつけた。呻き声が上がる。再び髪の毛を掴んで吊り上げる。
「礼ぐらい言ったらどうだい。」
 御雷はもう一度六道の顔を床に叩きつけようとした。
「…やめてくれ。」
 泣いていた。虚勢の仮面は剥がれ落ちている。
「最初から、忠告を聞いてりゃこんな目に遭わずに済んだんだ。これ以上苦しい思いをしたくなければ、もう一つの忠告を聞け。」
 御雷の黒曜石のような瞳が、無表情に六道を見ていた。
「西本たちと――二年生のワル共と手を切れ。」
 微かな動揺が、六道の表情に走った。こいつも、薬か。それとも女か。先日仕掛けたビデオカメラには写っていなかったが、そういう繋がりで縛られているのだろう。
「わかった。もういい。お前は忠告を聞く気はなさそうだ。」
 御雷は、笑った。そこに含まれる悪意に、六道は戦慄する。
 気を失っているらしい近藤に、御雷は近付いた。まだ内容物が残っているビニール袋を拾い上げる。その手に薄い手袋をしているのに気付いた。灰色の不燃性グローブである。
 近藤の鼻を摘まんで、口を開けさせる、シンナーを無造作に流し込むと、ポケットから出したオイルライターで火を付けた。
 御雷が近付いて来る。六道は膝が震えて立てなかった。眼の隅で、痙攣したように悶える近藤の姿を捉えている。
「さあ、六道、お前もだ。」
 御雷の声はあくまで優しい。鳥肌が立つほどに。
 払いのけようとした手は、御雷が軽く触れると一瞬で感覚が無くなった。何をされたのかわからない。額に人差し指を当てられた―――六道が覚えているのはそこまでだった。
 御雷は、指先に振動を発生させることで、瞬時に六道の脳を揺らし脳震盪を起こさせたのである。
 六道の口腔にもシンナーの残りを注ぎ込み、火を放つ。シンナーの入っていた袋に空いた貫通孔も周りを熱処理してやる。
 十分に呼吸器に火が回った頃を見計らって、残りの消化剤を掛けてやった。
 救急車が到着し、緊急搬送される。事の次第は、一緒にパトロールをしていた年配の教員が事細かく語ってくれた。おかげで、御雷は警察からしつこく話を聞かれることもなかった。
 その日の夜、二人が死亡したことが病院から伝えられた。
 まず、二人。行きがけの駄賃のようなものだ。

      5
 三年生の死は、思ったほどの騒ぎにはならなかった。死に様があまりに無様で、親も抗議の仕様が無かったのである。
 『煙草を吸っている奴の側でシンナーを吸っていたら、袋が破れて二人ともシンナー火事で焼け死にました。学校は責任を取れ。』
 そんな恥ずかしいことを平気で言える奴がいたら、顔を見てみたいものだ、と御雷は思う。
 近藤が持っていた袋が劣化の進んだビニール―――ポリ塩化ビニル製だったのも幸いした。ラッカーシンナーに溶ける素材だ。警察はあっさりと事故で処理した。淡々とした手続きは、無言のうちに「自業自得だ」という警察側の認識を示している。
 中学生の、しかも本人にとって決して名誉とはいえない死に方を、大々的に報道するわけにもいかず、地方紙に小さな記事が載ったのみである。マスコミに対応する教頭も、それほど忙しくはない。自業自得の事故であるから、保護者への説明会も開かれない。死者を、ひいてはその保護者を吊し上げるようなものだからだ。一応、緊急の集会を開いて、生徒に動揺が広がらないように配慮はする。
 そんな状況で、葬儀は家族のみでひっそりと行われ、校長と担任だけが通夜に訪れたのみである。通常は同級生が参列するものだが、親が断ってきたのだ。
 本人の死亡により、二人は除籍される。転出と同じく、稲見中から学籍がなくなったのだ。
 三年生たちの反応も、至って冷静だった。もともと、授業に参加するどころか、廊下を徘徊しながら学習を妨害するような連中である。二人が死んで、自覚した者も少なくなかった。「もっと早く死ねばよかったのに」と思ってしまった自分自身の気持ちに。
 放課後。
 職員室では、三年団の教員たちが生徒の動揺が予想外に小さかったことに安堵の言葉を漏らしている。
 それを聞きながら、御雷は思う。
 子供たちは、残酷だ。
 彼らは、自分たちにとって障害となるものが除かれたことを、喜んでいる。これで、少しは勉強に集中できる、と。
 自分の為したことではあるが、御雷は複雑な気分になる。人の死を喜ぶような子供を育ててしまうことが、本当に学校の再生といえるのだろうか。
 そんなことを思いながら、生徒が提出した課題に赤ペンを走らせている。模範解答を見もしない。すべて、頭に入っている。単に、正解と不正解を分けるだけでなく、誤答にはヒントを書き加えたり、今後の学習の指針をコメントとして書き加えたりする。
 達筆ともいえないが、とにかくペン先の動きに迷いがなく、速い。
 右手の赤ペンを動かしながら、左手は器用に必要な情報をパソコンに入力していく。授業中の様子などは紙の記録簿に書きこんでいるが、課題やテストなどは最初からデータ化しておく。後で成績を出すときのための備えだ。
 さっさと英語の課題チェックを済ませると、菊池の机からテストの束を持ってくる。しばらく模範解答を眺めてから、赤ペンを動かし始めた。もう模範解答と見比べたりはしない。覚えたのだ。
 記号問題や空欄補充など、テストの中では単純作業に近い部分だけを採点していく。記述式―――文章で説明したり分析を述べたりする問題は菊池に任せることにする。実際には俺が全部やった方が遥かに早い。そうは思うが、これはあくまで菊池の仕事で、御雷はそれを手伝っているに過ぎない。
 時計を見ると、終業の時間だ。部活動を担当しない御雷は仕事を切り上げたいところだが、あと少しだけ。
 人の気配に目を上げると、田中が立っていた。細身のジャージが、長身に似合っている。汗を拭き拭き、給水している。
「御雷先生、何だかんだいって菊ちゃんには甘いなぁ。」
 手を止めずに、御雷は苦笑してみせた。解答用紙の束と、生徒の日記帳の山を前に唸っていた菊池に、彼は言ったのだ。
「まずは生徒の日記を読んでやってください。テストの採点は、ある程度ならぼくでもできます。」
 菊池は躊躇した。英語科の教員である御雷にそこまで頼むのは厚顔が過ぎるような気がしたのだ。
 御雷は例によって片目を瞑って笑う。
「優先順位ですよ、菊池先生。今あなたが優先すべきは、日記に目を通して、拾い上げるべき問題点の種――兆候がないかチェックすることです。短くてもいいからコメントは毎日書いてやった方がいい。テストの方は、肝心の部分は手を付けずに残しておきますから。」
 などと言っているうちに、テストの採点――正確には菊池が本採点するための下準備が終わる。
「もう、終わったんだ。終業時刻はすぎちゃってますけどコーヒーでも飲みませんか。」
 いただきます、と言って御雷はカップを受け取った。一口飲む。
 小さく溜め息をついて、独り言のように呟いた。
「放っておくと、菊池先生は時間を忘れて遅くまで学校に残ってしまいますから。」
 田中は軽い苦笑を浮かべる。
「たしかに、そうですね。前に御雷先生が言ったように、あの子は自分が納得できるまで手を止めようとはしないです。」
 先日、夜間に学校を訪れたとき、近くで馬越を見かけた顛末を話してやる。田中の表情が変わる。
「そんなことがあったんですか。」
 そこへ、部活動を早めに切り上げた菊池が戻ってくる。彼女は女子卓球部の副顧問だ。
 早速、田中が絡む。
「菊池ィ、話は聞いたぞ。」
 御雷は目を逸らしてそ知らぬ顔をする。
 ずいっと、田中は菊池に迫った。
「夜遅くに一人で居残るのは、禁止。遅くても、私が帰るまでには学校を出ること。いい?」
「でも、やらなきゃいけないこともたくさんあるし。私、仕事が遅いんですよね。」
 小首を傾げる仕草が似合う、と思った。田中は御雷を指差す。
「だから、残らなくても済むように、御雷先生も手伝ってくれているでしょうが。心配してくれてるんだから、あんたもそれに応えなさいよ。」
 ありがとうございます、と言いかけて菊池は目を丸くした。
「もう丸付け終わっちゃったんですか。社会科まで?」
 速すぎる、と菊池は思う。御雷は涼しい顔で応えた。
「まあ、単純な採点だけですから。記述式問題と、ぼくの採点にミスがないか確認するのは、菊池先生の仕事ですよ。」
 それだけ言うと、御雷は原稿を持って印刷室に入る。出てきたときには、何種類ものプリントを両手に抱えている。
 廊下の棚にあるプリントの在庫を確認しながら、減り方によって学習集団としての二、三年生の特性を分析しようと試みているのがわかった。独り言を言いながら考えをまとめるのは、集中しているときの御雷の癖だ。
 手際よく新しいプリントを棚に納めてから、御雷は職員室に戻って帰り支度を始める。
 淀みない動きに、田中も、そして菊池も唖然とする、見惚れるほどに整然とした行動は、プログラミングされた機械のようでもであった。
 二人とも、もう十分わかっている。
 御雷は、有能な教師だ。
 だからこそ、拭いきれない疑問がある。
「ねえ、御雷先生。ちょっと訊いてもいいですか。」
 何ともいえない表情を御雷は浮かべた。
「どうしたんです?田中先生。改まって。」
 菊池が田中に目配せをした。自分に尋ねさせて欲しい。
「私の質問も、多分同じだと思うんですが。」
「菊池先生まで…何ですか、一体。」
 まさか、三年生の死についてのことか。内心の緊張を気取られないように、肉体をリラックスさせる。
「その…生意気な言い方かもしれませんが…御雷先生は教師としてとても優れていると思うんです。今は年齢制限も緩くなっています。教員採用試験を受けて、正規教員になる気はないんですか。」
 質問の形を借りた、これは誘いだ。
「私も、菊ちゃんと同じ気持ちです。それだけ才能があって、もったいないですよ。」
 ふっ…と御雷が微笑んだ。無意識に浮かべてしまう表情には、本当の気持ちが出ることを菊池は知っている。
 だから、胸を突かれた。
 それは、初めて御雷に逢ったときに、彼が見せたのと同じ表情だった。泣き笑いにも見える、そんな顔。
「才能…というなら、ぼくにはそんなものはありませんよ。」
 本心である。
 特殊技能や格闘の業は、訓練や修練によって身に付けたものだ。教師としての技量も、経験に裏打ちされているに過ぎない。ただ、その「経験」が、御雷の場合は少々特殊すぎるだけのことだ。
 帰り支度の手を止めて、椅子に腰を下ろした。
「自分が凡人だということは、ぼく自身が一番よく知っているつもりです。他人より仕事が特別速いわけでもありません。だから、先を見越して仕込みをしておくんです。まあ、結果から逆算して行動を開始するというか、そんな感じです。」
 菊池は諦めない。
「でも、それだけ努力をしているということじゃないですか。生徒との関わり方を見ても、とても丁寧で。」
 御雷の苦笑には、こんな思いも含まれている。このしつこさは、もはやある種の才能だ。
「凡人が努力を忘れたら、それこそ何の取り柄もなくなりますからねぇ。」
 田中が口を挟む。
「御雷先生自身もこの前言ってたじゃないですか。菊ちゃんには『努力する才能』があるって。そう言う御雷先生こそ、努力の才能があると、私は思うんだけど。」
 御雷が田中を見る目は、少し眩しそうだ、と菊池は思う。田中は美人だから、仕方がないか…とも思ってみる。
 御雷の思いは違う。
 田中の家のことはわからない。しかし…おそらくは、血反吐を吐くような思いをして武術の鍛錬をしてきたのであろう。強い血を欲して伴侶を求める純粋さは、御雷にとっては愚かしくもあり、同時に崇高にも思えた。
 だから、問うてみる。
「田中先生は、自分の才能に限界を感じたことはありませんか。」
 虚を突かれたように、田中は瞬きした。重ねて問う。
「自分より遥かに才能がある人物に出会ったことはありませんか。絶対に敵わない、というくらいの人物に。」
 田中は、首を捻る。
「強くなりたいということでいえば、残念ながら、まだです。『こいつと闘ったら生きては帰れない』という程の相手には、まだ出会ったことがありませんね。」
 御雷は肩を竦める。田中は、純粋に強さを求める姿勢にブレがない。
「まあ、本当にやばい連中は、表の世界には出てきませんからね…。」
 何気ない呟きは、田中の心を震わせる何かをもっていた。
「まるで、裏の世界を知っているようなことを言うんですねぇ。」
 場の空気を軽くするように田中が笑う。御雷は微笑んだだけだ。
 今日の俺は、何だか口が軽い。その自覚はあった。
 そんな日があっても、いい。
「日陰に咲く花、とでもいえばいいんでしょうか。」
 菊池にも、御雷の言葉が何を指すのか、すぐには理解できない。
「そんな女の子に、ずっと昔出会ったことがあるんです。アメリカ時代の話ですが。」
 へえ、と田中が身を乗り出した。御雷が自分のことを話すのは珍しい。どんな子だったの、と興味津々に尋ねる。
 黒曜石のような瞳に、一瞬夢見るような色が浮かぶのを菊池は見た。
「とても――本当に、綺麗な女の子でしたよ。そして、彼女は紛れもなく天才でした。」
「天才、ですって?」
 御雷は深く頷いた。
「ええ、天才です。十代前半でいくつもの博士号を取得するほどの。彼女の前ではIQなんて意味がないほどの。」
 IQが意味を持たないほどの天才とは…二人には想像もつかない。
「答えを出すのに思考を必要としないんです。それが数学だろうと物理の難問だろうと、見れば答えがわかる。本人は『正解が降ってくる』と言っていましたが、凄まじい能力でしたよ。十代で研究者として一目置かれる存在になっていましたから。」
 それほどの才能があって、若くして成功すれば、人格的に問題があっても不思議ではない。意地悪な田中の疑問を、御雷は笑顔で肯定する。
「たしかに、鼻持ちならないくらい傲慢な子でした。自信家でもあった。とても残酷な面も持ち合わせていました。でも、同時に繊細で、恐がりで、必死で大切なものを守ろうとする誠実な人物でもありました。」
「それで、その人と出会って、御雷先生はどうしたんですか。」
 菊池に目を向け、少しだけ笑う。
「出会った瞬間に、彼女に恋をしました。彼女もぼくのことを愛してくれましたよ。」
 今よりは多少ハンサムだったもので、と笑ってみせる。
 菊池は、尋ねずにはいられなかった。
「それで、その女性は、今―――。」
 質問を最後まで言うことはできなかった。御雷が、あの深い穴のような瞳を菊池に向けていたから。
 御雷は、直接質問に答える代わりに言った。
「ぼくは、交通事故で全身の皮膚を失うほどの大火傷を負いました。その時に、汗をかく機能も、ぼく本来の顔も失いました。だけど。」
 生白い顔をひと撫でして、呟く。その唇が、いつもより紅い。
「あの事故でぼくが失ったのは、それだけではないということです。」
 御雷は腰を上げた。二人は声を掛けられない。
「あの日から、ぼくの時間は止まったままなんですよ。どう生きていいのか、正直言ってわからないんです。」
 職員室を出る御雷の背中が言った。
「誘ってくれてありがとう。でも、これからも答を見付けるために、ぼくは一所には留まらないつもりです。」
 二人は御雷の後ろ姿が見えなくなるまで、無言で見つめ続けた。
 最後まで、御雷は振り返らなかった。

      6
 三時間後。欅橋の下に御雷の姿があった。正確には欅橋の横に架けられた歩行者橋の下である。
 闇が降りている上に橋自体が生む深い影に紛れて、肉眼でその存在を知ることは不可能だ。橋脚にもたれて、軽く目を閉じている姿は、眠っているようであった。
 その実、聴覚を中心とした感覚は研ぎ澄まされている。敢えて視覚を遮断することで、他の感覚の感度と精度を上げているのだ。
 橋の上には、カラスがいる。彼の動きを、微かな振動として橋脚に接した背中が捕らえている。ぼそぼそと話す声も、御雷なら聞き取ることができる。
 次々と客が来る。男、女、若者、中年、年寄り――そして子供。当然のように馬越もいる。週に一度の薬物調達は、彼にとって重要な役割だ。
 馬越以外にも、中高生と思われる足音、気配、声の持ち主が多い。そのことに、少なからず御雷は驚いている。
 稲見中だけではないのだ。麻薬を若者の間に広めようという、明らかな意図を感じる。
 それにしても、大した繁盛ぶりだ。今夜だけで、一体幾らの売り上げになるのだろう。
 カラスの値付けは良心的だ、という評判を聞いた―――餓鬼相手に売りやすいように、混ぜ物を多くして単価を下げているだけだろう。依存が深まれば、いずれ大量の薬が必要になる。敷居を下げることで、客の間口を広げているのだ。そして、一度捕まえた客は骨までしゃぶり倒す。
 麻薬の売人とは、そういうものだ。
 静かに耳を澄ませ、カラス特有の隠語の使い方も盗む。なるほど、そういうやりとりをするのか、こいつは。
 御雷は、周囲に捜査員の動きがないかということにも気を配っている。事前に周辺を調べたときには、周囲の廃屋に潜む人影はなかった。脳を灼ける寸前まで追い込むことで、視覚をサーモグラフィに近い状態にして得た情報である。ごく短い時間しか使えない割に、負荷が大きい。目を閉じているのは、脳の一部を休ませているということでもある。
 入ってくる情報量に対して、脳の機械的演算力が圧倒的に不足していることを、御雷は痛感する。身体を操る能力に不足は無い。感覚器の精度にも不満は感じない。ただ、せっかくの情報を上手く扱えないことが、もどかしい。
 冗談じゃなく、補助脳でも欲しいところだ、と考えている。人工体なら初めから補助脳を併用することを前提に造ってあるはずだ。感覚器――センサーの種類が生身の人間よりも格段に多いからだ。理論的には、阿修羅像のように三面六臂の身体であっても十分に扱えるくらいに演算力の余裕が生まれるだろう。
 今度、マシューに人工体の感想を聞いてみよう、と思った。若々しいマッドサイエンティストを想像して、御雷の唇に面白がっているような笑みが浮かぶ。御雷自身が人工体に乗り換えるつもりは、今のところない。
 かつてK2に語ったように、この肉体は彼にとって代わりがないものだ。それに、活動時間の限界があるとはいえ、能力に不足を感じたことがない。
 何より。
 御雷は、自分が老い、朽ち果てることを望んでいる。自分で命を絶つような真似はしない。殺されるか、老いて死ぬか。彼が望んでいるのは、「避けられない死」だけだ。自らの死を希求していながら、簡単に死んでやるつもりもない。
 我ながら、厄介な性分だ。
 御雷は目を開けた。
 客足が途絶えた。時計を見るまでもない。カラスが店仕舞いをする時間だ。
 足音が、歩行者橋を南――市外方向に向けて歩き出す。
 仕事を終えたカラスの行動を、御雷は把握している。ここから程近い商店の駐車場に停めてある黒い軽自動車に乗り、郊外の小さな一軒家に帰る。一人暮らしだ。
 御雷は、カラスのヤサに忍び込みたい誘惑に駆られる。そこには薬もポンプ――注射器も少しはストックしてあるだろう。
 しかし、警察が敢えてカラスを泳がせているということは、詳細な情報を既に握っているからだ、と考えるべきだ。行動も、住所も、本名も、勤め先も、すべて調べ上げた上で、いつでも逮捕できる状態で泳がせているのだ。
 何とも陰険な…とも思うが、同時にカラス自身は状況を理解しているのだろうか、という疑問が湧く。
 俺は、警察がマークしている場所にのこのこと潜り込むなんて真っ平だ。
 だから、この場で仕事をする。
 御雷は、歩道橋を支える鋼鉄製の橋脚に取り付いた。さほど太くもない鉄管が、この橋を支えている。細い分、本数は多い。老朽化が進んでいるために、掛け替えの計画が進んでいるという。
 細い、いっても成人男性が何とか抱えられるほどの太さはある。御雷は、両手の革手袋
と柔らかいスニーカーのソール、そして全身の衣類の摩擦力を巧みに使って、百キロ近い体重を感じさせない動きで、するすると柱を登った。
 カラスは油断していた。橋の両端には常に注意を払っている。しかし、河原から直接橋に上がり込んでくる奴などいるわけがない。
 相手が警察なら、それは間違っていない。
 だが、彼が相手にしているのは御雷武であった。欄干を乗り越え、足音も立てずカラスの真後ろに降り立つ。
 断っていた気配を、敢えて発してみた。
 カラスが逃げようとすれば、襟首を捕まえて、強烈な打撃を肝臓に入れる。いきなり攻撃してきたとしても結果は変わらない。きつい一撃が入れば、抵抗力は失われる。こんな目立つ場所で銃を使うつもりなどなかった。
 カラスの反応は早かった。ただ逃げるでもなく、御雷に襲いかかるでもなく。
 彼が選んだのは、「直接河原に逃げる」という選択肢だった。
 コートの内側からワイヤー付きの太いカラビナを出すと、器用に欄干に引っ掛ける。開いたコートの隙間から、腰にリガーベルトとブレーキ付きのワイヤーリールが着けられているのが見えた。
 要するに、このまま橋から跳べば、カラスの身体は適度に減速しながら安全に河原に到達するということだ。
 躊躇なくカラスは欄干を越えて空中に身を投げ出した。
 耳障りな音がして、カラスの腰から金属製のワイヤーが伸びる。
 御雷は欄干に引っ掛けられたカラビナに手を掛ける。
 仰向けの姿勢で空中を降りるカラスが、黒い丸眼鏡の下で笑うのが見えた。体重と落下の加速度を支えているワイヤーを外せるものか。
 それは、常識的な見方ではあるが、御雷の異常な膂力を知らない者の思い込みだ。
 御雷はカラビナのロックを解除し欄干から外すと、右手だけでワイヤーを一気に引き上げた。糞をした後にトイレットペーパーを引っ張り出すような何気ない動作には、恐ろしいほどの力が込められている。
 地上から二メートル程のところで、カラスは落下速度が急激に下がるのを感じた。ワイヤーのリールの軸受けが焼き付いたのか?常用するものではないだけに、手入れはしていても不安になる。宙吊りになるのは御免だ。
 カラスの心配は杞憂だった。
 落下の停止―――と思う間もなく、強い衝撃が腰に来た。いきなり一メートルあまり身体を跳ね上げられていた。
 リールからワイヤーが吐き出される音は途切れていない。
 ワイヤーの伸びる速度を遙かに上回る速さで、強引かつ瞬間的に引き上げられたのだと悟った。
 嘘だろ…。
 驚きは声にできなかった。落下から上昇に向かう過程で、全身に衝撃が徹っている。
 血が引く音を聴くような思いの中、逆光になった御雷が、頭上に投げ上げたワイヤーを離すのが見えた。そのまま左手を欄干に掛け、飛び降りた。
 嘘、じゃない。
 跳ね上げられたカラスの身体が、最高点を超えて落下に移る。三メートル余り下の河原に落ちる。今度は落下速度を抑えてくれる命綱はない。
 カラスは悲鳴の形に口を開けたが、声は出せなかった。
 すぐ脇を掠めるように、黒いジャンプスーツに身を包んだ御雷が落下する。橋を離れる瞬間に欄干を蹴って下向きの加速を得ているため、単なる落下というより急降下に近い。頭を下にしている。軽々とカラスを追い抜くと、四肢のモーメントを巧みに使い、空中姿勢を整え足から着地する。
 河原は砂が主体だが、堅く締まっている。さすがに無音で着地することはできない。深く足跡を刻む。
 間を置かず、カラスが無様にもがきながら降ってきた。御雷は容赦なくその背中を蹴り上げた。
 背骨にひびが入り、肋骨が何本か砕かれる。それでも砂に隠れた石塊に後頭部を直撃されるよりはマシというものだ。
 カラスの身体が衝撃で空中に浮いている間に、御雷は左の爪先をこめかみに食い込ませた。
 今度こそ完全に白眼を剥いて――黒眼鏡でよく見えないのだが――カラスは失神した。河原に落下した身体は関節の力を失い、壊れた人形のような姿で転がった。
 御雷は意識を失ったカラスを肩に担ぎ、暗い河原を上流に向かって歩きだした。
 軽い。仰々しい格好をしているが、本体は貧相な男だ。これは、ワイヤーを引き上げた感触でわかっていた。
 肩に当たる感触からも、コートの中に物騒なものを呑んでいるのは明らかだ。本来なら今すぐ危険物を全て取り除きたいが、今はこの場を離れるのが先決だ。万一カラスが襲撃を受けたことが警察に知れれば面倒なことになる。
 御雷は星明かりだけを頼りに、九百メートルほど上流にある郷田橋に向かっている。今原市の中心部から離れるため、欅橋周辺よりもさらに人気がない。麻薬の売人も、ここでは商売にならないのか、現れることはなかった。
 折からの予算不足によるものだろうか。河川の管理や整備は十分とはいえない。台風シーズンはまだ先だが、今のうちに川底を浚渫したり、河原や河川敷に伸び放題になっている大きな茅の株や灌木を除去しておかなければ、堤防の弱い部分が切れかねない。
 郷田橋の袂も、そんな伸び放題の灌木に覆われている。人の背丈よりも高い藪の中に、二坪ほどの空き地があった。
 御雷が伐採や除草作業を行って作り上げたものだ。周囲からは藪に邪魔されて見通せないようにしてある。夜間の作業は毎日少しずつしか進められなかった。
 その空き地に、御雷は穴を掘ってあった。縦二メートル。横一メートルの長方形だ。深さは一メートル余りあった。
 藪を巧みに抜けて空き地に入ると、御雷は穴の脇にカラスを転がした。意識を失い、眠り続けている。
 コートを開くと、鼠色の地味なスーツが現れた。服装に不釣り合いなリガーベルト、そしてワイヤーのリールが目を引いた。便利なものではある。差し当たって用のないものだ…が、有難く頂戴することにする。コートの中には少量の薬物と注射器があった。ショルダーホルスターに収まったロシア製の拳銃と、スリングで吊った、古い自動式散弾銃の銃身を短く切り詰めたものを奪う。大小のナイフと予備の銃弾も取り上げる。
 帽子を取り上げる。鬘を取り上げる。コートは予想通り盛大に肩パッドが入った革製の上質なものだ。これも取り上げた。黒眼鏡、これももらっておく。ご丁寧に、高い鼻は作り物の付け鼻だった。これも、いただく。
 御雷は、カラスの扮装を手早く空き地に用意していたボストンバッグに詰め込む。
 さっきまで現実感がないほどに芝居がかっていた麻薬の売人が、今は取り立てて特徴のない会社員然とした素顔を晒して横たわっていた。
 おそらく、日常は本当に一社員として働いているのだろう、と想像する。ちょっとした小遣い稼ぎが今や本業となり、かつては本業だった会社員という立場は、単なる隠れ蓑になってしまったというわけか。
 スーツの内ポケットを探ると、携帯電話が出てきた。電話帳を開いてみると、随分登録者が多い。すべて、ニックネームだった。
 なるほど、顧客リストというわけだ。これが、欲しかった。
 財布を開いてみると、多額の現金が入っていた。ポケットにもだ。すべて、頂くことにする。免許証も見てみたが、顔も名前も御雷の知らない男だった。
 御雷はフライトジャケットから長めのタイラップを取り出し、カラスの足首を縛った。両手首も身体の前で拘束する。カラスは微動だにせず気を失っている。その顔は安らかですらあった。
 まったく、よく寝る奴だ。
「まあ、うるさく騒ぎ立てるよりはマシか。」
 独りごちて、右手をフライトジャケットのポケットに突っ込む。
 すぐに、騒げなくなるさ。
 取り出したのは何の変哲もない事務用のステープラーだった。コの字の針で書類を綴じる、あれだ。
 左手でカラスの唇を上下合わせたまま引っ張る。
 ステープラーを四回握り込んだ。
 ぱちん、ぱちん、ぱちん、ぱちん。
 突如としてカラスが目を開けた。痛みで目が覚めたのだ。
 悲鳴はくぐもった奇声になっただけだ。唇は中央の僅かな部分を残して、ステープラーの金具で綴じられている。
 御雷はステープラーをしまうと、ポケットの中の小箱に付けられたスイッチを入れる。カラスの携帯電話の画面で、電波状況の表示が圏外を示しているのを確認する。
 ごく低い出力の通信抑止装置を使ったのである。今、着信音を響かせるわけにはいかない。電源を切ればいいようなものだが、携帯に登録された内容についてカラスに訊くことができなくなる。
 通信抑止装置の出力を抑えているのは、電波法を根拠に目を付けられるのを避けるためである。必要なら五百メートル四方の通話を完全に遮断するくらいのことはできる。だが、それは特別な場合の奥の手だ。
「起きたかい、売人さん。」
 カラスの側にしゃがみ込んで、囁いた。
 状況を理解し始めたカラスの目が、狂ったような表情を浮かべるのを、御雷は見た。ほぼ暗闇であっても、この距離ならよく見える。体温のある生物の方が視認しやすいな、と頭の隅で考えている。
「俺に何の用だ。てめえ、どこの組のモンだ。こんなことをして、ただで済むと思ってんのか。」
 恫喝は囁きにしかならなかった。
 御雷は低く笑ってやる。気配と声を伝えてやるためだ。カラスから御雷の姿を見ることはできない。
「なかなか威勢がいいじゃないか。あんたこそ、自分がどういう状況に置かれているかわかっていないらしいな。」
 御雷の声は笑いさえ含んでいた。
「一端の組員みたいな口をきいても無駄だ。お前がただの売人だっていうのはわかってるんだよ。ところで。」
 御雷の口調が、変わった。
「『こんなことをして、ただで済むと思うな』と言ったのか?俺は、始めたばかりなんだけどな。もう終わったと思うのは、ちょっとお気楽すぎないか。」
 ポケットから再びステープラーを出した。
「小説の中じゃ、大声を出させないために口を糸で縫ったりするらしいけどな。俺は、そんな面倒な真似はしない。」
 御雷が立ち上がると、微かに藪を通して差し込んでくる街灯の明かりがステープラーに反射した。カラスが身を固くする。光の加減も、見せ方も、御雷の予定通りだ。
 右手のステープラーを握り込む。
 ぱちん。
 味気ない音がして、綺麗に折りたたまれた針が一本、落ちた。金属針の鈍い輝きは、カラスにも見えたはずだ。その証拠に、彼の視線は針が落ちた先を追っている。
 ぱちん。
 再びステープラーの作動音がしたとき、カラスの身体がびくりと震えた。
 ぱちん。
 小刻みな震えが全身を這い上がってくる。冷や汗で身体がずぶ濡れになっていた。
「俺はね、あんたに少し協力して欲しいだけなんだよ。」
 御雷は言った。恐るべき猫撫で声で。
「あんたがやってる麻薬の取引について、洗いざらい喋ってくれない?」
 無自覚のうちに、少年時代に似た喋り方になっている。
 カラスはシルエットになっている御雷を睨み付けた。
「言えるわけないだろう!そんなことをしたら、俺は殺される。」
 御雷の唇に浮かんだ淡い笑みは、残念ながらカラスには見えなかった。
 優しい、といえる手付きでカラスの右の瞼に左手を伸ばす。右手の動きは速かった。
 ぱちん。
「…!」
 声すら上げられず、カラスは芋虫のように身体をくねらせた。手足の自由は奪われている。
 右目がステープラーで綴じられている。上下の瞼を合わせておいて針を通したのだ。
「心配しなくても、眼球に傷は付けていない。多少、痛いかもしれないけどね。」
 カラスは涙と鼻水を垂らしている。それでも虚勢を張ってみせた。
「糞ったれが。てめえ、サツじゃねぇな。」
 御雷は鼻で笑う。
「こんな真似をする警察官がいてたまるか。だから、ここでお前が何を喋ろうと、お前や取引相手が逮捕されるようなことはない。それは保証してやる。」
 嘘は、言っていない。だが、カラスも馬鹿ではなかった。
「てめえがサツじゃなければ、なおのこと言えねえよ。他所の組のモンに話したら、世話になってる人たちに迷惑が掛かる。」
 売人には売人の仁義というものがある。死んでも話すものか、とカラスは言った。
「へえ、大した啖呵だな。じゃあ、試してみようか。」
 無表情な声がかえって不気味だった。カラスは身をよじって逃れようとする。
 御雷はわざと足音を立てて近付くと、カラスの襟首を掴んで引き起こした。片手で軽々と成人男性を扱ってみせる。有無を言わせぬ怪力に、カラスはゴリラのような男を想像した。それにしては声が―――。
 ずるずると、カラスは空き地の端へ引き摺られていく。藪の向こうから水音が聞こえた。
 その時。
 雲が切れた。
 月が青い眼差しを地上に投げる。御雷の足が止まった。
 蒼い光の中に、御雷は立っている。
 月を見上げていた。
 その、白い横顔の、美しさ。
 すんなりとした、細身の身体。
 カラスは、普段他人が自分に対して抱くのと同じ感想を抱いた。これは…現実に存在する人間なのか。
 男だと思ったが、女なのか。いや、それにしては―――。
 御雷がカラスを見た。その、黒曜石のような瞳。
 心臓が凍るような感覚の中、思う。こんな眼の女がいて、たまるものか。
 淡い笑みがまた御雷の唇に浮かんだ。
「俺の素顔を、見たね。――あんたは運がいい。」
 すうっ、と眼を細めて笑う。
「何しろ、自分の覚悟が本物かどうか、確かめることができるんだからな。」
 再び歩み出す。姿形は幻影のようでも、カラスを引き摺る怪力は本物だった。
 藪を抜ける小道は、余人に見つかりにくいように、人一人がやっと通れるだけの広さしかなかった。幾度も折れ曲がっている。
 先を行く御雷は器用に枝葉を避けていくが、引き摺られたカラスの方はそうはいかない。河原に出たときには服から出た部分の皮膚は引っ掻き傷だらけになっていた。それでも、ステープラーの針が食い込んだ唇や瞼、ひびが入った背骨に比べれば痛みのうちには入らない。
 御雷は蛇河の水際までカラスを運んだ。
 無造作に放り出されて倒れた顔のすぐ先に、水面があった。波立つ面に月の明かりを映している。胸が苦しくなるほどに、嫌な予感がした。
 恐る恐る振り仰ぐと、月光の元で姿を隠そうともせずに立ち尽くす御雷の姿が眼に入る。
 何故、そんなに美しい。何故そんなに美しいのに、これほどまでに禍々しいのか。
「喋る気になったかい。」
「死んでも喋らないぞ。」
 御雷の口元がほころんだ。笑ったのだ。夢見る少女の笑みを思わせる、笑顔。
「よかった。あっさり吐かれたんじゃ、あんたの言葉を疑わなくちゃならないところだった。」
 俺は、面倒臭いことが大嫌いでね、と付け足す。
 改めて、御雷がカラスの襟首を掴み直す。ふと、身体の前で縛られた両腕に目をやり、「邪魔だな」と呟いた。
 カラスから奪ったナイフの一本を使って、タイラップを切ってやる。
 何故両腕を解放してくれたのか、カラスには御雷の意図が掴めない。それでも、両腕が自由になればやれることはある。
 カラスは河原に転がる石の中で、殴打に手頃なものを眼で探す。
 と、いきなり仰向けに突き倒された。
「悪巧みを考えるのはまだ早いな。」
 言いながら、両手でカラスの右腕を取る。右足はカラスの胸に乗せられている。
 力任せに――何の技も使わず、ただカラスの右腕を引っ張った。
 ごきっ。
 ぶちっ。
 音はほぼ同時に聞こえた。カラスの右肩の関節を、力だけで強引に脱臼させたのだ。筋も切れた。
 カラスの貧弱な身体が痙攣する。唸り声だけがごく短い距離に届く。
「大丈夫さ。これぐらいじゃ、あんたは死なない。だから、まだ話さなくていい。」
 御雷の声は、気味が悪いほどに優しい。
「まだ、もう一本ある。」
 御雷の接近を拒もうとするのだが、脱臼した右腕は重く垂れ下がるだけで動かすことはできない。
 あっさりと捕まり、簡単に左肩も脱臼させられる。もう、地面を転げ回ることもできない。
 御雷はまたカラスの襟首を掴み、その顔面を川面に突き出した。
 意図を悟ってカラスの身体ががたがたと震える。
「さあ、本番だ。―――死ね。」
 手を、離した。
 カラスの上半身が水面に落下する。
 水深は決して深くはない。
 だが。
 両腕が使えず、脚も封じられている状態では水面から顔を出すことはできない。
 水面に無数の泡が浮かび、カラスが無様にもがくのを、御雷は無感動に眺めている。
 だんだんと、その動きが緩慢になって――止まる寸前で、髪の毛を掴んで引き上げてやる。
 カラスは口から濁った水を吐き出した。口を綴じられているために、いくらか肺に向かって逆流し、激しく噎せ返る。
 無理な力が掛かって、口に刺さったステープラーの針の周りに血が滲んでいた。
 カラスの目を見た。
 御雷は「喋れ」と命じもしなければ「喋るか?」と問いもしなかった。決めるのはカラス自身だ。
 そのまま、またカラスの頭を水面に突っ込んだ。激しく抵抗したが、さっきより弱まるのが早い。
 当然であった。肺は大量の空気を要求しているにもかかわらず、口を開くことができないために十分な空気を補給させてもらえないのだから。
 意識を失う寸前で引き上げ、また水に漬ける。
 御雷は無言のまま、飽くことなく同じ作業を繰り返す。
 カラスは「死んでも喋らない」と言った。ならば、喋るまで死なせてはやらない。
 そう考えている。御雷の行動に躊躇はない。
 何度目かの水責めで、とうとうカラスの心臓が止まった。
 御雷は死にかけた肉体を河原に放り出し、右手をカラスの胸に当てた。全身の力を巧妙に束ね、振動でカラスの心臓を打ち抜く。エネルギーが大きすぎれば、カラスは全身の体液を沸騰させて死ぬ。水の分子を振動させると、熱が発生するのだ。加減は難しい。
 御雷は振動のエネルギーと、振動数をコントロールする修練を積んできた。K2から学んだその日から、ずっと。そして今では振動に指向性を持たせ、ピンポイントで射貫くことすらできる。
 K2に、何度も心停止から甦らされた経験が生きていた。御雷の筋肉では大電力を発生させることは不可能だから、電気ショックを与えることはできない。だが、特定波長の一撃が、停止した心臓の再始動に効くことを経験的に学習している。
 果たして、激しく咳き込みながら、カラスは蘇生した。
 また、水責めが再開される。
 心臓が止まる。
 蘇生させられる。
 水責めを受ける。
 心臓が止まる。
 蘇生させられる。
 苦痛のループに終わりがないらしいことに気付いたとき、とうとうカラスの心が折れた。
 何度目かの蘇生の後、言った。
「…喋る。喋るよ。もう…嫌だ。」
 一旦心が折れると、カラスの口は軽くなった。下手に隠し事をして、また拷問されるのは絶えられない。
 御雷の拷問には、怒りもなければ憎しみもない。嗜虐性も感じられない。
 そもそも、生きた人間を扱っているという認識すら、もっていないかのようであった。
 カラスが恐怖を感じたのは、そういう御雷の「得体の知れない機械のようなところ」だった。
 心底、怖かった。だから洗いざらい話した。
 客との取引の段取り。連絡の取り方。符牒の扱い。警察への備え。顧客情報――携帯電話を見せながら、詳細情報を語っていく。それらを一言一句逃さずに御雷は記憶していく。
 仕入れ値や売価、売り上げについても生の数字を教えた。
 麻薬の入手先については、一瞬躊躇いがあった。もし殺されるなら、どちらに殺される方が嫌か。その観点で考え、「御雷よりもヤクザに殺された方がマシだ」という結論に達した。
「薬は、河津組の沢田って幹部から回してもらってるんだよ。」
 御雷の唇の両端が吊り上がる。聞いた名だ。
「幹部から、直接?仲買人も通さずにか。――何か狙いがあるんだな。」
 カラスももう隠そうとはしない。
「あの人は、もっと若い連中に薬を広めようとしているのさ。それで、安く売れるように俺にブツを回してくれるわけだ。仲買人を通したら、どうしても値が上がるからな。沢田さん自身の取り分も増やせるというわけさ。」
 御雷はカマを掛けてみる。
「沢田ってのは、ジャグワーに乗って、中学生を舎弟にしている奴だな。」
 そうだ、とカラスは答えた。
「西本とかいう中坊だよ。俺も何回か会ったことがある。今、俺から薬を買っていく餓鬼共は奴の紹介が殆どさ。」
 カラスが挙げた何人かの中には、馬越も含まれている。
「ありがとうよ。十分だ。」
 御雷の声に偽りの響きはない。
 カラスを軽々と肩に担ぐ。
「痛い思いをさせて悪かったな。」
 労りの響きさえ感じられる言葉に、少なからずカラスは驚く。
「あんたの目的は何だ?筋者でもないんだろ。」
 御雷は答えない。歩みも止めない。歩きながら言葉を探しているような気配がある。
 そこに付け入る隙を探ろうとしたのはカラスの不明だ。御雷の肩の上で、肩関節が脱臼している両腕をぶらぶらと揺らしながら、囁きかける。
「あんたさえその気になってくれるなら、何でも協力する。俺が口を利けば、薬の売買に一枚噛めるぜ。あんたが兄貴で、俺は弟分でいい。どうだい?馬鹿な餓鬼を相手に二人で稼ぎまくるんだ。」
 御雷は藪に入り込んだ。元の空き地を目指している。
 カラスの誘いに答える代わりに尋ねた。
「沢田のところに用心棒みたいな爺さんがいるな。」
「いる。気味の悪い爺さんだ。」
「知っていることを話せ。」
「詳しくは知らない。俺も一度しか会ったことがないんだ。ただ、奴が来てから沢田さんが力を持つようになったのは確かだ。」
「殺しが専門なのか?」
「知らん。ただ、他の幹部のところの奴がおかしな死に方をしたことはあった。沢田を狙っていた他の組が全滅したり、とかな。」
 水責めで肺に負担が掛かったのか、カラスの呼吸音に雑音が混ざっている。
「名前を知っているか?」
 カラスはしばし黙った。記憶を辿っているのだ。ここで御雷の歓心を買うことができたなら、あるいは。彼が生き残る道はそこにしかなかった。
「耳で聞いただけだから、字は知らない。この辺りでは聞かない、珍しい名字だったよ。たしか、あの月みたいな名前だった…と思う。」
 カラスの言葉を吟味するように、御雷は背後の月に顔を向けた。痩せた月が、中天で今は銀色の光を振り撒いている。
 頭の中で、小さな火花がチリチリと音を立てる感覚があった。危ない、相手か。
 空き地に、着いた。
 掘られた穴が、月光の中で黒々と口を開けている。カラスは怖気を震った。
「何だ、あの穴は。俺を殺してあの穴に埋めようってのか。」
 御雷は軽く笑った。
「最初は、情報を引き出したら射殺するつもりだったんだが。」
 ベレッタを抜き出して、見せてやる。カラスがぎょっとする。撃たれないと察して少しだけ安心する。
「少し気が変わった。あんたの協力を受けることにする。」
 カラスの身体をそっと地面に横たえてやる。今になって痛みが耐えがたいものになってきて、思わず呻いてしまう。先程まで全身に回っていたアドレナリンが切れたのだ。
「その痛みをなんとかしなくちゃな。売り物だが、仕方がないな。」
 カラスから奪ったパケ――麻薬の小袋を取り出す。同じく、奪った小皿と水差しを使って、薬を水溶液にする準備をする。月の明かりのおかげで手元がよく見える。
「あんたが扱っている薬の純度は?普段使っている量を教えてくれ。これを打てば痛みは楽になるはずだ。」
 カラスは痛みで思考力を失いかけていた。外されたままの肩は熱を帯びている。やがて腫れ上がり、カラスは発熱で床に伏せることになるだろう。
 痛みからだけでも今すぐに逃げたくて。
 カラスは薬の純度と、自分が一回に使用する量を教えた。いや、教えてしまった。
 御雷は鮮やかな手付きで薬を皿に落とし、水を加えてカラスの望む水溶液を作ってやった。注射器は既に出してある。
 御雷はすぐに液体を注射器に吸い上げるようなことはしなかった。
 内ポケットからジップロックに大事そうにしまった別のパケを取り出す。
 水溶液の入った皿に、パケに入った粉末を、耳かきのようなものを使って少しずつ加えていく。
「おい、何をしている。」
 カラスを見た御雷の眼は半眼になっていた。整った少女のような面差しに不思議な半眼の眼差し――美しい仏像のようだ。恐怖の裏で、カラスはそんなことを考えている。
「なに、ただの混ぜ物の実験さ。あまり多く混ぜても、薬の効きが十分出せなくて客離れを起こしてしまうだろ。」
 追加で入れた粉末は、あっさりと水溶液に溶け込んだ。
 御雷は注射器に溶液を吸い上げた。軽くピストンを押して、空気を抜いてやる。
 カラスの左腕を取った。痛みに呻く。
「すぐに痛みはなくなる。少しだけ我慢しろ。」
 腕の静脈は注射痕だらけだが、まだ針は通る。中毒患者の例にならい、皮膚のアルコール消毒はしなかった。
 右手に注射器を持ち、左手でカラスの上腕部を強く掴むと、肘の内側に静脈が浮かび上がってきた。
 意識が朦朧としているカラスの静脈に、注射針を差し込んだ。
 虚ろな声でカラスが問うた。
「ところで、混ぜ物には何を使ったんだ。」
 御雷は爽やかな笑みを浮かべて答えた。
「シアン化ナトリウム――青酸ソーダだよ。」
 カラスの眼が小さな注射器に釘付けになる。それがどれだけ危険なものか、程々に化学の知識がある者ならわかっている。
「何でも協力するって言ったのに!」
 御雷が笑みを納めた。真顔になったときの、凄味のある美貌。紅い唇が、愛の言葉を告げるように動いた。
「そう言ってくれたからこそだ。あんたの協力があれば、どれぐらい青酸ソーダを混ぜればいいのか見極められる。ありがとうよ。―――まともに生きている人間を実験台に使うのは、さすがに気が引けてね。」
 ピストンを押し込んだ。薬液が有無を言わさぬ速さで静脈に入り込み、全身に送られる。
 シアン化ナトリウムの効き目が現れるまで、どれほどの時間も残されていない。
 だから、御雷はカラスの質問に答えてやる。
「俺の目的は、お前たちのようなクズを、この世から消し去ることだ。大人だろうが、餓鬼共だろうが、関係ない。」
 果たしてカラスに俺の言葉が届いただろうか。御雷は少々疑問だ。
 御雷は息を止めた。御雷は、泳げない。その代わりに、十分程度なら無呼吸のまま水中に留まれるように訓練を積んでいる。
 カラスは白眼を剥き、僅かに開く口元から嘔吐物をこぼしている。皮膚が、紅い。わずか、数分。
 なるほど、こんな感じか。奴の呼気にも毒性のある気体が含まれている。御雷は常に風上に立つように位置を変えた。
 息を止めたまま、カラスの身体を穴に蹴り落とす。無論墓穴として掘ったものだ。
 カラスの拳銃を、分解し、撃針を折って墓穴に放り込む、ソウドオフの自動式散弾銃も同様の処置をしてから放り込む。弾は銃から抜き、カラスのナイフを使って薬莢に切れ目を入れて墓穴の底に撒いた。
 死の間際の呼吸をしながら、カラスは穴の底に横たわっている。一度も目を開けなかった。
 御雷はベレッタを取り出して銃口に減音器を着けた。死の痙攣を始めたカラスの頭に一発撃ち込んだ。エンプティケースは穴の底に落ちた。
 これも、練習だ。
 御雷は藪に隠していた大振りのスコップを使って穴を埋め戻す。すぐにこの空き地も草木に覆われて姿を消すだろう。
 もしかすると犬や野生動物が死体を掘り返すかもしれない。が、危険な匂いに敏感な彼らが、わざわざ毒の回った死体を食う理由が御雷には見付けられない。
 上流で大量の雨が降れば、この辺りには大きな渦がいくつもできる。橋脚の形が水流を誘導し、渦ができやすいのだ。水の力が死体を掘り出すかもしれない。
 それでもいい、と思った。
 俺の仕事が終わるまで、本物のカラスが出てこなければ、それだけでよいのだ。
 御雷は地面に置いたボストンバッグに目をやった。
 カラスになりかわるための扮装が詰め込まれたバッグを見詰める視線が、熱い。
 次に馬越が薬の買い付けに来るときが楽しみであった。

      7
 麻薬の売人が一人死んだところで、何も変わらない。
 今原市の日常は相変わらず退屈で、稲見中は順調に荒れている。
 年配の教員の顔色が優れない。自身もプライドもガタガタにされているのだ。
 まともに授業ができない、と愚痴ばかりこぼしている者も少なくはなかった。
 といっても、全ての教員が苦痛を受けているわけではない。
 今年の一年生は、例年になく好人物が多いという評判である。内々には「稲見中立て直しの切り札」と目されている学年だ。彼らが三年生になるときまでに、ある程度荒れを抑えておく。そうすれば、有望な人材が揃っている学年が最高学年になったときに、リーダーシップを遺憾なく発揮することができる。そこまで持って行けるか否かで、稲見中が将来的にどうなっていくのかをある程度見通すことができるだろう。
 田中の学級経営は、概ね順調のようだ。子供たちにとっては、田中のように明るくて、きっぱりとしていて、しかも美しい女性の担任は嬉しいものらしい。
「やっぱり、美人は得ですよねえ。」
 職員室を訪れた生徒と笑顔で会話を交わす田中を眺めながら、菊池がぼやく。
 始業のチャイムが鳴って、慌てて生徒が職員室を飛び出していく。田中まで慌てているところを見ると、自分の授業を忘れていたらしい。
「何を言いだすのかと思ったら…。」
 隣の机で御雷は笑う。週に一コマほどだが、二人とも空き時間になることがある。伊賀が担任と副担任の打ち合わせ時間として、時間割に組み込んでくれた時間だ。
 御雷が付け加えたアドバイスは、本心からのものである。
「菊池先生も、もっとお洒落をすればいいんですよ。例えば、そうですねえ…。」
 無遠慮に、菊池の頭の先から爪先まで眺め回す。菊池は顔を赤らめた。
「御雷先生、そういうのは、ちょっと…。」
 困ります、という菊池の抗議を無視した。
「菊池先生の場合は、あまりアクセサリーで飾り立てたり、派手な化粧をすると、元々の良さが失われるような気がします。」
 二人の会話を聞きつけた守矢が寄ってくる。この時間には普段は授業があるはずだが、今日は他の教員の出張に関連して多少の変更があったらしい。
「何々?二人して面白そうな話をしているじゃないですか。」
 敬語は御雷に対してのものだが、最近は大分砕けてきた。
「そうなんですよ。菊池先生の魅力を引き出すにはどうすればいいかという話です。本人は、田中先生みたいな方向性に憧れているようなんですが、ぼくは違う方向を狙った方がいいような気がして。」
 ふむふむ、と守矢は頷いた。
「確かに、菊ちゃんは普段はジャージ姿が多いし。あんまり自分を良く見せようって気がないみたい。」
 素材はいいのに、と心底残念そうに言う。
 御雷は、菊池に言ったのと同じ事を守矢にも聞かせてやる。
「派手な化粧やきらびやかなアクセサリーというのは、菊池先生がもっている元々の良さを殺してしまうのではないかと思うんです。たとえば、服装を少しだけシンプルだけどセンスが良いものにして。あとは髪型を変えるぐらいで随分印象が変わるはずです。」
 御雷は立ち上がった。
「菊池先生、ちょっと失礼。髪の毛を触らせてください。守矢先生は意見を聞かせてください。」
「心得ました。」
「ちょっと、二人とも――。」
 逃げようとする菊池を、守矢が椅子に拘束する。
 御雷は素早く菊池の髪を結んでいるゴム紐を取り去った。解いてみると、意外に長く、肩口まで髪が届く。
「手櫛で申し訳ありませんが。」
 御雷の指は、体型に似合わず細くて長い。数回髪に通すと、毛の流れが整う。セミロングまであと一息という菊池の髪は、艶やかに光った。
「菊池先生は耳の形が綺麗だから、隠すのは勿体ないですね。」
 髪の毛の流れを変えて、両耳を露出させる。
 少し離れて、御雷は菊池を見る。うーん…と唸った。
「意外に、ばっさりと短くしてしまうのもいいかもしれません。どちらもよく似合うでしょう。ただ…。」
 言いたいことは守矢にもわかる。
「その前髪は何とかしたいわね。」
 中途半端に顔を隠しているから、何となく自信なさげにも見える。
「じゃあ、こうしましょう。ちょっとヘアピンを何本か貸してください。」
 御雷は、重く顔の半分近くを覆っている前髪を掻き上げた。大部分を後に流しながらピンで留める。額が見える程の密度で前髪を残してやった。
 菊池はもう抵抗を諦めている。私は、完全なオモチャだ。
「どうです?」
 守矢は何度か瞬きをした。へえ…と感極まったような声を出す。
「菊ちゃんって、本当はこんな顔だったんだ。」
 菊池としては落ち着かないこと甚だしい。普段は隠している顔の大部分を露出させられたのだから。
「自分で見てみますか。」
 渋々、という足取りで、職員室内に備え付けられた洗面台の鏡の前に立つ。
 まじまじと、鏡の中の自分の顔を見てみる。
 高校時代から、これが私の顔だ。愛着のある、だけど素直に好きにはなれない、顔。
 顔の輪郭自体は、顎を中心にシャープだ。が、どこか豊かさのある曲線を描く。ちんまりとしたイメージの鼻だが、低いわけではない。尖っていたり、高さが際立つ形をしていないだけだ。慎ましく、可愛らしい形に、愛嬌がある。眉はくっきりと黒い。細く整えたりはしていないが、自然の状態でも綺麗な形をしていた。その下に、整ったアーモンド型の目がある。瞳は藍色がかった黒だ。睫毛が長い。肌の色が極端に白いからか、鼻のあたりにそばかすがちらほら見える。唇は厚すぎず薄すぎず。紅も殆ど引いていないのに、鮮やかな色をしている。
 バタバタと足音を立てて、田中が職員室に戻って来た。保健体育科の教員にあるまじき失態―――ホイッスルを忘れていたのである。愛用の紅い笛を首に掛けて、職員室を出て行こうとする。
 ふと、菊池と目が合った。
「誰?」
 マジか、と守矢が頭を押さえた。御雷も苦笑を抑えられない。
「よく見てください。菊池先生ですよ。」
 ぽかん。
 文字にすると間抜けな字面だが、その時の田中の表情そのままだ。
 数瞬固まった後、猛烈な勢いで菊池に駆け寄る。
「菊池ィ!」
 そのまま、彼女の両肩をがっしりと掴む。顔を寄せた。
 菊池が、一瞬田中に唇を奪われるのではないかと思うほどの近さで、まじまじと見詰める。
 田中が向日葵のような笑顔を見せた。
「綺麗じゃないか。そっちのほうが、ずっといい。これからは、そうしなよ。」
 それじゃあ後で、と言い残しバタバタと走り去る。
「忙しい人ですねえ。」
 率直な感想に、守矢も同意する。
「昔からずっとあんな感じなんです。久仁恵といえば走ってるイメージで。」
 歩いているときの印象が、ない。
 ふうん、と御雷は考える。あの、騒がしい足音は、わざと立てたものだ。本来の田中は、もっと静かに動けるのだろう。
「でもさ、菊ちゃん。私も、その方がいいと思う。せっかく可愛いんだから、勿体ないよ。」
 菊池の表情は冴えなかった。御雷の視線を避けるように、眩しげな表情になる。
「私…男の人から注目されるのって…」
 息を止めて、言葉を探す。
「…苦手なんです。」
 嘘だ。
 御雷にはわかっている。本当は、菊池は「怖いのだ」と言いたかったのだ。
 サイモンに、菊池が過去に銃撃を受けた事件について調べるように依頼していた。
 彼から報告が届いたのが、つい数日前のことだ。
 石上邸の郵便受けに入っていた愛想のない茶封筒を開くと、中から新聞記事のコピーが出てきた。地方紙の切り抜きだ。扱いは大きくなかった。
 二人暮らしの姉妹が暮らすアパートに、拳銃を持った男が押し入った事件である。男は麻薬中毒患者であった。当時高校二年生だった妹の方に目を付け、ストーカーのようなことをしていたらしい。
 やがて、ある日。
 男は妹を我が物とするため、下校途中の彼女をつけてアパートまでやってきた。ちょうど、二つ年上で大学生の姉が在宅中で、妹を守ろうとした。逆上した男は数発発砲し姉を射殺。弾は妹にも当たり、重傷を負った。警察が男を捕らえたが、既に自殺した後だったという。
 ここからはサイモンによる補足だ。新聞記事上は詳細が伏せられている。
 実際には。
 発砲による興奮からか、男は妹ではなく死にかけている姉の方を犯したのである。よく似た美しい姉妹だったという。警察が現場に到着したときには既に幾度も射精をした後だった。おそらく、姉が死体になった後も犯し続けたに違いない。異様なことに、男の方も事切れていた。頭部に銃弾を一発。
 御雷は電話でサイモンに確認した。
『男の拳銃はね、気絶した妹の手に握られていたそうだよ。状況が悲惨だったことと、次は妹の方にも危害が加えられる可能性を考えれば、正当防衛とまではいかなくても、罪に問われない可能性もあっただろうけど。何しろ高校生が人一人を撃ち殺したとなると、その後日本で生活していくには何かと不利な点も多いだろ?それで、自殺の線で話をまとめたのさ。悪人が死んで、将来のある高校生が守られる。誰も損はしないだろ。』
 こういうのを「大岡裁き」というのかね、と冗談で締めくくった。
 その話を聞いてから、菊池に対する御雷の認識は変化している。
 彼女の気丈さ。教職に掛ける思い。それは姉の遺志を継ぎたい、という彼女の言葉を裏付けている。
 時に見せる自信のなさ。自己主張の弱さ。自分のことを後回しにする謙虚さ――それらは「罪の意識」の裏返しだ。自分を狙っていた男を、みすみす自宅まで連れてきてしまった、負い目。自分の代わりに姉が肉体を汚され、命まで奪われたことに対する、負い目。自分だけが助かってしまった、負い目。
 そして。
 事情はどうあれ、人を殺した自分が教壇に立つことに対する、負い目。
 それは、古傷も痛むだろう…と思った。菊池という女は、そういうものを背負うべき人間ではない、と御雷は感じている。俺とは違うのだ。
 それでも。
 菊池にだって幸せになる権利はある、とも考えている。過去は、過去だ。一歩を踏み出さなければ、未来はない。
 俺にはそれができないのだ、と内心御雷は苦く笑う。
 菊池先生。あなたには日の当たる場所の方が似合っている。
 だから、敢えて勧めた。
「菊池先生、あなたが男性を怖がっているのは、何となくわかります。」
 やっぱりわかりますか?と問う菊池に笑顔を向けてやる。
「わかりますよ。普段、どれだけ一緒にいると思ってるんですか。」
 パートナー、という言葉が浮かんで、菊池は赤くなる。御雷は不思議な男だった。とても男性的な面もあるくせに、日頃は男性であることを意識させない術を心得ているようだった。
 自分に対する気遣いなのかもしれない。そんなことを思った。
「それでも、ぼくは、あなたに髪を切ることを勧めます。」
 御雷は片目を瞑って笑う。
「『正面突破』が、菊池由美の身上だったんじゃないんですか?そりゃあ、菊池先生が本来の魅力を見せたら、寄ってくる男はたくさんいるでしょう。でも、見える相手なら対応は容易なはずです。今の、菊池先生ならね。」
 教職で自分がしていることを持ち出されると、菊池は弱い。疑問もある。
「私って…そんなに魅力があるんでしょうか。」
 守矢が即答した。
「あるに決まってるじゃない。隠しておくのは勿体ないよ。」
 菊池が御雷に目を向ける。
「ぼくも、そう思います。前に言いましたよね。あなたはとても綺麗だって。」
「どうも、御雷先生は平気で嘘をつきそうで、信用できません。」
 これは参った、という顔を御雷はする。
「嘘なんて言いませんよ。」
 これは、嘘だ。これからも俺は嘘をつき続ける。
 お願いがあります、と菊池は言った。藍色ががった瞳が不安に揺れていた。
「私…髪を切ってみようと思います。これからも―――私を守ってくれますか。」
 御雷は笑顔を引っ込めた。目を合わせて、ゆっくりと宣言する。
「もちろん。これからも、あなたを守ります。ぼくの、全力で。」
 これは、本当だ。ただし、俺が生きていられたら、の話だが。

      8
 あまり時間が、ない。
 御雷は街灯の光も届かぬ路地で時間の経過を待っていた。イヤフォンを挿している。
 中華料理店と隣の建物――「貸店舗」の表示が出て久しい――の間を走る、ごく狭い道だ。自動車は通れない。歩行者か、自転車、あるいはバイクが通り抜けられる程度の幅しかない。
 実際の所、この路地を利用する者は殆どいない。中華料理店の厨房から吐き出される油を含んだ煙を、もろに被ってしまうからだ。結果、普段は件の中華料理店の、出前用のスーパーカブの置き場になっている。
 時計で確認しなくても、その時が迫っているのはわかっていた。御雷の耳には、店主が出前料理を岡持に収める音が聞こえている。河津組への出前の時間だ。
 既に、店のシャッターは閉まり、黄色の回転灯や看板も電源を落としている。
 スーパーカブに程近い、店の勝手口が開いた。御雷は路地に澱んだ闇の中で身じろぎもしない。
 店主はスーパーカブの荷台に取り付けられた出前機に岡持を載せて固定する。次いで、勝手口に施錠する。河津組への出前を済ませたら、その足で帰宅するのが日課である。
 店主はポケットから鍵を出し、勝手口の鍵穴に差し込んだ。御雷に背中を見せている。
 影が、動いた。
 御雷が動いたのである。黒ではなく、赤身のある濃灰色のジャンプスーツに身を包んでいる。フライトジャケットも似たような色であった。低光量時に身体の輪郭を曖昧にしてくれる。
 御雷は足音を立てなかった。気配もない。
 意識せずとも、それが当たり前のことになっている。修練とはそういうものだ。
 店主は最後まで御雷の接近に気付かなかった。
 御雷は右手の人差し指と中指を立てて、店主の後頭部に触れる。瞬間的に脳を揺らされ、昏倒する身体を左手で支えた。路上に転がれば仕事着を汚してしまう。
 御雷は鍵が差し込まれたままの勝手口を開ける。店主の身体を左脇に抱え、店内に入った。鍵は自分のポケットに収める。肩からは黒いメッセンジャーバッグを掛けていた。
 小上がりに店主を寝かせ、仕事用の帽子と料理服の上下を脱がしてやる。下に、黒のTシャツを着ていた。
 好都合だ。
 御雷は持参した医療キットから麻酔薬を取り出し、店主の静脈に注入した。脳震盪を起こしているから簡単には目覚めないだろうが、保険というやつだ。通常の体力を持つ者なら八時間程度は起きない量である。
 念には念を入れて、点滴でもブドウ糖とともに弱めの麻酔薬を入れ続けることにする。点滴袋を手近の柱に吊す。手足の自由はタイラップで奪い、口にはガムテープを貼る。呼吸が落ちないことを祈るばかりだ。
 固定電話の電話線はコネクタを引き抜いた。店主の身体を探ったが、携帯電話は出てこなかった。
 ここまで、実質三分もかかっていない。
 御雷はジャンプスーツとフライトジャケットの上から料理服を着る。恰幅の良い店主のサイズは、服を着た上からでも楽々と御雷を包み込んだ。シャワーキャップを被った上からヘルメットを着ける。
 勝手口から出て、施錠する。
 終始ラテックスゴムの手袋は外さない。
 岡持の蓋をスライドさせて開ける。手早く中の丼物や麺類に掛けられたラップを三分の一ずつ剥がす。
 ポケットから取り出した樹脂製の小瓶に、白い粉末が入っている。滅多なことでは壊れない、ポリカーボネート製の容器であった。
 蓋を開ける御雷の瞳に緊張の色があった。
 シアン化ナトリウム。万一吸引でもすれば、命にかかわる。
 息を止めたまま、全ての料理に毒物を混入していく。水気の多い部分を選んで入れたので、簡単に溶けた。ラップを元に戻し、岡持の蓋を閉める。
 御雷は空になった容器を店のゴミバケツに放り込む。手袋を脱ぐと、その下からもラテックスゴムの手袋が現れた。脱いだものは、やはりバケツに捨てた。
 カブに跨がってエンジンを掛けると、いつも店主が通るルートで河津組の事務所に向かう。
 スーパーカブをいつもの場所に停め、岡持を持って玄関まで歩く。
 ジェットヘルメットのバイザーは上げているが、バイザー自体が黒いので上手い具合に顔に影が落ちる。それは、相手が赤外線のライトであっても変わらない。言うまでもなく、御雷はごく自然な動きで顔に落ちる影をコントロールしている。
 玄関前に岡持を置いた。
 ドアフォンのボタンを押す。
『おう、来たか。』
 潰れてはいるが若い声が聞こえた。
 御雷はカメラに映るように頷いて、踵を返す。
 そのままカブを発進させた。店主の帰宅ルートを百メートルばかり走らせて、右に折れる。大回りして、中華料理店に戻った。
 店内に入ると店主はぐっすりと眠り込んでいる。血色は悪くない。
 出前機を付けたスーパーカブは、何とか勝手口を通り抜けることができた。店内に持ち込む。
 御雷は店主から借用した衣装を脱ぐ。シャワーキャップはメッセンジャーバッグにしまった。
 店に施錠すると、再び歩いて河津組に向かう。直線距離で三百メートル程しかない。所要時間は五分程度だ。暗い路地を選んで歩きながら、革の手袋を着けた。ポケットの中の通信抑止装置を出力最大にして作動させる。
 もうこの一帯では携帯電話は不通になっているはずだ。
 御雷の足が止まる。
 事務所を見通せる角まで来たのだ。
 ベレッタを抜いた。減音器を着ける。
 ひょい、と構え、無造作に撃った。二発、三発、四発。
 街灯の光を受けて、切れた電話線が垂れ下がっているのが見えた。外部との連絡を断ったわけだ。実質的に事務所の付属施設である井門商店に電話線が来ていないのは確認済みだ。
 御雷は路地を僅かに戻って、闇が濃いあたりにしゃがみ込む。マガジンに補弾する。そして、待った。
 相も変わらず、男たちの食欲は旺盛であった。
 イヤフォンを通して、我先にと自分の注文した料理を取りだして食い始める様子が伝わってくる。
 ―――最後の晩餐っていうやつだ。味わって、食え。
 御雷自身は、今日は中華料理店には行っていない。万一店主を眠らせる際に姿を見られ、服装の一致にでも気付かれたら面倒なことになる。この日のために、毎日通うことは避けていたのだ。
 盗聴器の調子はいい。
 割り箸を割る音。麺を啜る音。飯を咀嚼する音。
 だが、それは長くは続かなかった。
 呻き声。食器が割れる音。重く柔らかい物が床に落ちる音。
 それらを聞きながら、御雷は待った。
 数分。一度も倒れた者を気遣う声も、意味のある言葉も聞くことはなかった。
 音もなく御雷は立ち上がった。事務所から道を二本挟んだ電気工務店に向かう。
 工務店に灯りはなかった。ここには事務所と資材置き場があるだけだ。
 御雷は資材置き場のシャッターを簡単に解錠した。巻き上げ式のシャッターを、可能な限り静かに上げる。今日が初めてではない。慣れた足取りで営業用のトヨタハイエースのロングボディ車に近付く。
 ランドクルーザーと並んで盗難の被害に遭うことが多いというハイエースだが、傷付きくたびれた営業車のオーナーに、その意識は無いようだった。セキュリティ装置がないことは確認済みだ。
 雑な仕事をする工務店を選んで下見をした。やはり、仕事全般に対する意識が低い。事務所に忍び込んで営業車のスペアキーを盗むことなど簡単であった。信じられないことだが、事務所内の鍵保管場所―――単に壁面にフックを打ってあるだけの場所だが―――には、ハイエースの鍵が複数掛けてあったのだ。常用するキーに加え、スペアキーまで同じ場所に置くとは…苦笑しつつも有難く一本拝借したというわけだ。それでも、気付かれない。
 後部座席は取り外されていた。室内は改造され、ぎっしりと工具やら様々な太さの電線やらが詰め込まれている。人が乗れるのは運転席と助手席のみだ。スライドドアを開けても、作り付けにされた工具・資材棚が現れるだけで、乗り込むことはできない。
 そこが、いい。
 御雷はエンジンを掛けた。暖気の必要はない。すぐに発進させた。
 荷物を満載にしていると、さすがに重い。のっそりと、ハイエースはスピードを上げ、交差点では低速でも大きくロールした。積載量は設定された限界に近いようだ。
 そこが、いい。
 御雷は薄く笑うと、ハイエースを河津組に向けた。
 ものの二分で到着する。事務所の前を通り過ぎる。井門商店の前で車を停めた。クリーム色のシャッターは閉じられているが、それに接触しそうなほどに車体を寄せる。エンジンを止めた。
 その間も盗聴器からの音を聴き続けているが、何も聞こえない。
 メッセンジャーバッグから防毒マスクを出して装着する。ベレッタは減音装置を付けたまま、フライトジャケットの内ポケットに収まっている。減音装置がポケットの底に開けられた逃がし穴から突き出して肋骨に当たる感触が不快だった。
 インサイドパンツホルスターにはボウランドが納まっている。が、人を撃つだけなら三八〇ACP弾で十分だ。
 御雷はハイエースのドアを薄く開け、運転席から滑り出た。しっかりと施錠する。背の高いボディの影になって、カメラに御雷の姿は映らない。
 監視できる人間が残っていれば、の話だが。
 マスクの下で皮肉な笑みを浮かべながら、玄関ドアに近付く。幸いなことに、鉄製のドアには鍵穴があった。基本的には中の人間が来訪者を確認した後、ドアを開けてやることにはなっている。しかし、万が一の場合には全員が事務所を留守にすることも考えておかねばならない。
 だから、俺のような人間に狙われる。
 御雷はピッキングツールを取り出して、ものの数秒で解錠した。普段は専用器具を使っているのを悟られないようにあり合わせの道具で開けているのだが、今はスピードを重視すべきだと判断している。
 躊躇無くドアを開けた。
 盗聴器の威力は絶大だ。事前の情報収集で、ドアを開ける際に防犯装置に特別な操作を加えたり、アラームが鳴ったりしないことは確認している。河津組では、事務所詰めの人間そのものが防犯装置なのだ。
 原始的な方法だが、有効なやり方だと御雷は評価する。たとえ電力の供給を止めても機能し続け、電子的な介入で無効化することができない。
 だから。
 原始的な防犯装置には原始的なやり方で対処するのだ。
 鉄の扉は内側にもあった。鍵穴がある。素早く解錠した。このドアは薄い。遮蔽物にならないのなら可能な限り早く室内に入るべきだ。玄関ホールでは逃げ場がない。
 薄くドアを開くと、眩い蛍光灯の光が眼を刺した。姿勢を低くして滑り込む。イヤフォンからはドアが微かに軋む音だけが聞こえた。
 ベレッタを構えたまま、室内をスキャンする。視線と銃口の動きが一致していた。
 室内に動きはない。
 目に見える範囲に限っていえば、室内のレイアウトは御雷の想像に酷似していた。
 中央に大きなテーブルとソファー。右手奥に両袖のデスク。手前は普通の事務机だ。左手には書類のキャビネットやテレビなどが並んでいる。
 一見して、田舎の不動産業者の事務所のようであった。
 しかし、事務机に置かれたモニターには、事務所の各所に仕掛けられた監視カメラの映像が映し出されている。事前に設置を確認したカメラの映像が全て揃っていることに、御雷はほくそ笑む。
 ここは、いわば他人に見せるための部屋だ。いかにも暴力団の事務所めいたものは、目の届くところには置かれていない。同時に、事務所詰めの人間が待機する場所でもある。
 足下に人体が一つ転がっていた。ラーメン丼を派手にひっくり返した脇に、仰け反るような姿勢で固まっている。嘔吐していた。頭を――耳の穴を狙って、撃った。
 携帯を手にしている者。固定電話に手を伸ばしている者。先に倒れた者の側に寝ている男は、仲間を助け起こそうとして呼気に含まれる毒性ガスにやられたのであろう。
 全員に、まだ息があった。
 当たり前だ。
 シアン化ナトリウムは酷い味がする。自殺する気で飲むのでなければ、一気に致死量を口にできるものではない。ましてや食物に混入したなら、最初の一口で吐き出す者が多いだろう。たとえ、味の濃い中華料理に混ぜたとしても、だ。致死量には届かないと考えるべきだろう。
 だが、一定量の毒物を摂取させれば抵抗力を奪うことはできる。
 御雷は、全員の頭に銃弾を送り込んだ。身体には触らないままに、鼻の下、耳の穴、眼窩など、狙える角度から脳を破壊するポイントを選択する。
 床に置かれた岡持は、いつもの場所にあった。ほぼ、毎日同じ場所に置かれていることを、御雷は知っている。盗聴器が拾う音には、壁面に反響した音も含まれている。言葉を発した当人の声と、反響音の微妙なずれ。それを解析した結果、周囲の壁と岡持の位置関係が、毎回ほぼ一定であることに御雷は気が付いたのである。その技術の応用として、数回分の盗聴音声を録音し、必要な部分を切り出して繰り返し聞くことで、室内に置かれた物のおおよその配置を割り出すことができたというわけだ。
 おかげで突入のリスクを大幅に減らすことができたが、あの作業は脳への負担が大きかった…などと思い起こしつつ、五人目の男の頭を撃った。
 今日は七人入ったはずだ。
 六人目は壁面のインターフォンに手を伸ばしたまま意識を失っていた。機器が壁面にあったために毒に侵された身体では届かなかったのだ。
 御雷は少しだけヒヤリとする。最上階の組長に連絡されたら、面倒なことになる。電話回線の切断ばかりに気を取られていたことを反省する。
 今日の当番のリーダーである、幹部らしき姿がない。
 御雷は迷わなかった。
 事務所を抜け、その先の廊下を進む。暗かった。脇の給湯室に人はいない。仮眠室にもだ。トイレにも、いない。
 今、御雷が追っているのは、足跡だ。無論、靴跡が残っているわけではない。床に残された僅かな熱を辿っているのである。
 マガジンを新しい物に交換した。本当なら使った分だけ補弾したいのだが、視覚情報の処理能力を限界一杯まで上げている今、細かな作業に振り向ける余力が無い。
 足跡を追う作業は、途中で格段に楽になった。歩いた跡ではなく、這って進んだ痕跡に変わったからだ。床面に、太いナメクジが通った跡のように温かい部分が見えている。御雷は小走りで追った。足音はしない。
 と。ドアの前で立ち止まる。
 さほど大きくはないが、頑丈な鉄製の扉だ。壁を叩いてみると見えている以上に外枠が大きいことがわかった。
 幹部が這った跡は、ドアの向こうに消えている。
 ドアの表面にも幹部の体温が残っていた。必死に立ち上がったのだ。
 鍵穴は無かった。代わりに、テンキー――数字が書かれたボタンが十個並んでいる。
 電子ロックか。悠長に暗証番号を解析する時間も、そのつもりも御雷には無い。
 テンキーを凝視すると、熱の残留が見えた。四つのキーに。つまり、四桁の数字だ。
 御雷は四つのキーを温度が低い順に押した。温度が最も高いキーが、最後に押されたキーだ。
 電子錠が解除される音がした。御雷は躊躇無くドアを開ける。右目だけ出して、中を窺った。この、金庫の扉ほども厚みがあるドアなら、遮蔽物に使える。
 長い階段が真っ直ぐ上に伸びていた。なるほど、直通で三階まで行ける階段か。
 ドアの内側を確認し、簡単に開けられることを確かめてから手を離す。油圧ダンパーの働きで静かにドアは閉まり、電子ロックが掛かった。確かに、これなら施錠忘れは発生しない。
 大人が二人並んで歩ける程度の広さはあるが、今は照明が落とされている。入口にスイッチがあったのは知っているが、点けるつもりもない。
 途中に小さな踊り場のようなところがあって、そこにもドアがあった。二階の会議室だ。今は、素通りする。
 その前に。踊り場で力尽きている幹部の頭部を撃った。ここまで這って来たのは大したものだ。結果的に、それが御雷の侵入を助けることになったとしても。

      9
 御雷は階段を上る。
 登り切る直前で足を止める。話し声がしたからだ。
 半ば信じられない思いで、階段に身を伏せて耳を澄ませる。
 話しているのは二人の男たちだった。アルコールを飲ませてもらえないことに対して不満を述べている。この後、ベンツの運転をしなければならないからだ。
 間違いない。組長直属の用心棒兼運転手だ。それが、何故こんなにも隙だらけで油断しているのか。
 しばらく耳を傾けているうちに、御雷にもわかってきた。
 この事務所の防衛システムは、あまりに偏りすぎているのだ。
 全ては、組長とその家族が安全で快適に過ごすことを第一に考えられている。だから、監視カメラの映像は一階の事務所で全て処理され、上まで回ってこない。そんな情報は、上の者にとっては雑音でしかないからだ。
 電子ロックにしてもそうだ。解錠されたら上で警報が鳴るようにすればいい。
 だが、自動ロックであることに安心し、さらに真っ正面から乗り込んでくる者などあり得ないという思い込みが、警報システムを設置させなかった。ドアは幹部も使用する。一々アラームが鳴っては、組長の家族も落ち着いて生活できない、ということである。
 せめて、用心棒の詰め所でそれを知れるようにすることぐらいはできたろうに…。
 他人事ながら、御雷は気の毒になる。おそらく、用心棒としても静かに過ごしたいのだろう。
 ふと、稲見中の教師陣の顔が目に浮かんだ。高給取りが楽をすると、しわ寄せは下っ端に来るものだ。それは、どの世界でも同じらしい。
 声の響きから、二人の位置を探る。テーブルで、ポーカーに興じているようだ。掛け金は決して少なくない。
 二人の目の前に暗い階段がある。御雷が潜む階段がある。
 なのに、二人は階段に全く注意を向けていなかった。
 ならば、やることは一つだ。
 御雷は身体を起こした。二人からは彼の上半身だけが見える。
 用心棒たちは、双子かと思うほどによく似ていた。それほどに二人とも容貌的な特徴が無い。痩せて、よく鍛えられた肉体をしている。ただ、それだけだ。憶測になるが、整形手術で平凡な容姿を作ったのだろう。
 完全に虚を突かれた形だが、反射的に二人同時に立ち上がる。懐に手が伸びる。その身体が正面を向いた瞬間に、御雷は撃った。
 二人の股間に三発ずつ。膀胱や大腸を避けて撃つのはなかなか難しい。
 睾丸を破壊され、骨盤を割られた身体が前に傾く。その両肩を撃った。手は懐に入らない。
 ゆっくりと、御雷は全身を現した。男たちは信じられないものを見る目をしている。痛みと、驚きと、そして、恐怖。
 不意に、一人が絶叫した。痛みが勝ったのだ。
 御雷が頭を蹴ると静かになった。指一本で静かにさせることは可能だが、これは見せしめだ。もう一人の方に近付く。
 御雷が防毒マスクを外すと、男は息を呑んだ。
 白い美貌が、悪意を隠そうともせずに微笑んでいた。
「お仲間はおねんねしたけど、あんたはどうする?」
 いつでも眠らせてやる、と言外に伝えている。
 手早く二人の身体検査をし、銃器や刃物を取り上げる。二人とも抗弾装備の類いは身に付けていなかった。
「だったら腹でも撃てばよかったかな。死ぬまでに話はできたろうし。」
 呟く横顔が、美しい。
 男は痛みと混乱で熱に浮かされたようになっている。
「何が知りたい。」
 へえ、と御雷は驚いてみせた。
「喋ってくれるのかい。組長の直属なんだろう?」
 プロだからな、と悪びれもせずに男が言う。骨盤が砕けているから立てないし、肩を撃たれているから両腕も使えない。報酬と天秤に掛けると、完全に赤字だ。
「金で雇われているだけだ。これ以上痛めつけられる分は給料には入っていない。」
 御雷は破顔した。その笑顔が、世の中の仕組みを知らぬ少女のようで。男はさらに混乱する。
「金で計算できる考えの人は好きだよ。わかりやすくて。」
 声も、少し低めだが女の声のようにも聞こえた。
 こいつが、わからない。それが男の恐怖心の源だ。
 御雷は笑みを収めた。
「あるんだろ、組長の部屋に。」
「何が。」
 御雷は片目を瞑って笑った。凄味のある、笑みだ。
「麻薬さ。」
 男は答えなかった。
 御雷もそれ以上問い詰めようとはしない。代わりに、気絶している男のところへ近寄る。いつの間に取り出したものか、その手にはステープラー。
「おい、何を…。」
 最後まで言うことはできなかった。
 男は同僚が唇を綴じられるのを呆然と見詰める。彼は、数日前に一人の売人が同じ目に遭ったことを知らなかった。
 痛みで目を覚ますタイミングまで、カラスの時と全く同じだった。無論、偶然ではない。最初の蹴り方にコツがある。
 御雷が戻って来た。ステープラーは仕舞ってある。
「お仲間は、麻薬について知っているのかな。」
 沈黙。
「『知らない』と解釈する。じゃあ、撃ってもいいね。」
 声も機械のようなら、射撃も機械そのものの正確さであった。
 背中を向けたまま、後ろ手に放った銃弾は、大腿部に命中した。口を綴じられているために悲鳴を上げられない。ただ、もがくだけだ。
「お仲間は知らない、か。あんたはどうなんだ。」
 沈黙。
 御雷が口を綴じられた男を撃つ。
 何度か、やりとりが交わされ、その度に御雷は撃った。激しく痙攣しながらも、意識を保ち、死ぬ様子のない同僚を見ているうちに、男は気付いた。いや、気付いてしまった。
 御雷は、致命傷を避け、ひたすら苦痛を与えるためだけに撃っているのだということを。
 だから、出血も少ないし、内臓にダメージも受けないのだということを。
 男は不覚にも感動していた。一人の人間を殺さずに、これほどの数を撃てるものなのか…と。
 御雷はバッグから弾箱を取り出し、空になったマガジンに補弾する。
「ああ、考えてみれば、あんたに質問してるのに、お仲間を撃つのは筋違いか。」
 夕食の食材を買い忘れていたのを思い出したかのような口調に、心臓が冷たくなる。
「でも、もうあの人に質問するのは無理みたいだね。」
 言い終わる前に、頭を撃った。
 死んだ。今度は、完全に死んだ。
 銃口が自分に向けられる。
「…酷え奴だな、あんた。いつでも殺せるのによ。」
 男の額に浮いているのは脂汗だ。三八○ACPとはいえ、撃たれれば当然痛い。出血が多くない場所を選んで撃たれている。だから気を失うこともできない。
 本当に酷え野郎だ。なんて眼をして人を撃ちやがるんだ。女みたいな顔をしているが―――こんな女がいてたまるか。
 身体の震えは恐怖によるものではない。さすがにショック症状が出始めているのだ。アドレナリンの効果はとっくに切れている。
 御雷が低く笑った。
「あんたの方は、自分で言うほど酷い奴じゃないな。ちゃんと組長さんに忠義を尽くしているじゃないか。」
 男の瞳孔が窄まった。
「だから――あんたの時間稼ぎに付き合ってやったんだよ。」
 下から重い振動が伝わってきた。十二気筒エンジンの始動音だ。
「さすがに、ここでの会話は組長さんにも届いている。そうだろ?」
 当然だ。ここが組長にとっては最終防衛ラインなのだ。鉄の扉で守られているとはいえ、用心棒が倒されればもう後が無い。
「大事なものを、組長さんが自ら持ち出してくれてると助かるんだがな。」
 御雷は血だまりを避けながら、鉄製の扉に近付いた。この向こうに、組長とその家族の暮らしの場がある。
 ドアノブはレバー式だが、鍵が掛かっている。ここも電子ロックだった。
 男は嘲笑う。
「悪いが、暗証番号を俺から引き出す前に組長は逃げてしまうぜ。」
 死ぬ覚悟はできていた。
 御雷は振り向きもせずに応える。
「最初から暗証番号を尋ねる気もないし、組長も逃がさない。」
 レバーに手を掛けた。ぐっと力を入れると、太い閂が頑丈なロック機構によって守られているのが感触でわかった。
 しかし。K2の古いボディの骨格よりは遥かに脆弱だ。
 ほんの一瞬だけ、限界を超えた領域に入る。暴走したK2の、チタン製の関節をねじ切った感触を思い出す。
 男は信じがたい思いで見詰めた。
 御雷は電子ロックの機構自体を、鉄のドアからもぎ取ったのである。分厚い鉄が飴のように歪み、閂がへし折れた。人間離れした怪力を、最適化によって強化された骨格が完全に受け止めている。
 御雷は体温が急激に上昇したのを感じた。速度を重視して限界領域に入ったときよりも上昇率が高い。水風呂に入りたい、と思った。
 思いは表情に出なかった。
 ロック機構を抜き取られ、フリーになった扉を薄く開き、身体を滑り込ませる。
 押し殺したような銃声が四回。
 ドアが開き、苦笑を浮かべた御雷が出てくる。
「酷いもんだな、組長って奴も。眠っている正妻と息子を置き去りにして逃げるなんてな。」
 撃ったのか、と男は訊いた。
「当たり前だ。」
「坊ちゃんはまだ小学生なんだぞ。」
 御雷の眼が、細められる。その、黒曜石のような瞳に、男は射すくめられた。
「小学生か…たしかに、今はな。だけど。」
 紅い唇の両端が吊り上がるのを男は見た。何という顔をして、こいつは笑うのだ。
「いずれ、お前たちと同じクズになる。掃除をするなら早い方がいいってことさ。」
 御雷にとって目的のものと思われる金庫は発見した。その有り様を思い出して、渋い顔になる。きっちりと施錠されていた。
「中身はどうあれ、扉を開けっ放しにしてくれればいいものを。妙なところで几帳面な奴だ。」
 再びドアをくぐり、寝室に行く。
 ベッドに近付き、シーツを捲る。二つの死体のうち、小柄な方の襟首を掴んで軽々とぶら下げる。そのまま、用心棒の所に戻ってくる。
 死体を見せてやった。
 間違いない。小学四年生の組長の一人息子だ。眉間に小さな穴が開いている。
「糞が。極道だってガキは殺さねえんだ。」
 御雷は動じない。
「餓鬼共に麻薬をばら撒いておいて、よく言うよ。薬を使い続ければ奴らも死ぬぞ。」
 男は答えない。御雷は鼻で笑う。
「ま、俺にはどうでもいいことさ。極道じゃないしな。糞餓鬼共が何人死のうが知ったこっちゃない。俺が今関心があるのは。」
 澄んだ眼で、何ということを言うのか。
「この餓鬼の死体と、あんたと、どっちが役に立つかということだけさ。」
 御雷は用心棒を撃った。眼窩から入った弾丸は、破片を撒き散らしながら頭蓋内を掻き回した。
「役に立つのは餓鬼の方だ。」
 滴る血が自分に付着しないように、子供の死体をぶら下げた左腕を身体から離して、御雷は歩き出す。
 組長と妻、息子が暮らすスペースは普通のマンションと同じような作りになっていた。寝室があり、リビングがあり、風呂場や台所、トイレがある。個室もいくつかあり、その中には子供部屋もあったが、特に感慨は湧かなかった。
 御雷は廊下の突き当たりまで進んだ。ここにも頑丈な鉄製の扉がある。が、開けっ放しになっていた。凄まじいスキール音と大排気量エンジンの唸り、そしてゴムの焦げる匂いが下から吹き上げてくる。
 何が起きているかは百も承知している。特に急ぐでもなく、御雷はドアをくぐって階段を降りる。
 井門商店の古ぼけた外観とは裏腹に、内部は鉄骨で補強された上、壁の内側まで船舶用と思われる鋼板で覆われている。三層吹き抜け構造で、脱出用の階段だけが壁面に設けられていた。
 木造の建物の中に、総鋼製の大きな箱を組み立てたわけか。拳銃弾程度なら防ぐことができるシェルターになるだろう。そんなことを思いながら、歩を進める。
 河津組の現組長である河津幸三郎は激しく狼狽していた。
 まさか、こんな日が来ようとは。
 用心棒たちと得体の知れない男のやり取りは、全て聞いていた。妻と息子は幸三郎と別の部屋で休んでいる。最近は妻を抱くことも少なくなった。夜中に出かけるのは新たな妾のいる別宅である。とはいえ、一人息子は大切な跡取りであった。
 それを放り出してでも逃げ出したくなるものを、夜の来訪者はもっていた。黒い炎のような情念が、鉄の扉越しに自分を灼くような感覚に囚われたとき。
 矢も楯もたまらず、幸三郎は逃げる決断をしていた。拳銃は持っているが、使ったことはない。人を殺すように指示することはあっても、自らの手を汚した経験はなかった。
 二代目である幸三郎は、もっぱら頭脳労働を得意とするインテリヤクザであった。実働は部下の役目だ。あくまで交渉と懐柔、そして幾分かの恫喝を以て今原市での勢力基板を安定させる。そして、彼にはそれを実現するだけの才があった。
 そういう意味で、彼は紛れもなく企業の社長であった。ただ、その企業が汚れきっているだけのことだ。
 ベンツを出すためにシャッターを開けた瞬間の驚愕が今でも残っていた。紺色の巨体―――ハイエースがきれいに出口を塞いでいたのである。あまりにも建物に接近しているために、隙間から人間だけが逃れることもできない。車体の下に潜れないように、ご丁寧に有刺鉄線の束まで押し込んであった。
 相手の周到さにゾッとした。
 仕方ない。六リッター十二気筒エンジンの力で、押しのけてやる。
 知識だけはあった。進路を塞ぐように停まった車がある場合。エンジンがフロントにある車種なら、後輪を押すように力を掛ければよい。
 だが。ハイエースのホイールベースは三メートル程もある。見事に後輪がシャッターの外側になるように配置してあった。
 悪魔か。
 罵倒は言葉にならず、幸三郎は闇雲にハイエースに突っ込んだ。
 確かに、ベンツS600Lのボディは重く頑丈で、エンジンも強力ではある。しかし、十分な助走距離も取れない状況で突っ込んでは、長所を十分に生かせない。ましてや御雷が運んできたのは八百キロもの荷物を満載にした営業車なのである。
 まるで、動かせない。アクセルを踏みつけても虚しく後輪が空転するだけであった。それでも、踏まずにはいられない。
 あいつが、来てしまう。声を聞いただけで震え上がった。姿を見たら死ぬかも知れない。
 いや。姿を見た者を生かしてはおくまい。そんな確信があった。本能だ。
 もう一度、少しでも助走を付けて。
 ベンツを一旦バックさせたとき、フロントガラスに何かが降ってきた。
 べったりとガラスに押しつけられた顔に、見覚えがある。
「り、龍司…!」
 額に穴の開いた幼い顔。虚ろな目が父を見ていた。
 死んでいる。わかっているのに、反射的にギアセレクターをパーキングに入れてしまった。
 その時、さらに何かか降ってきた。重い。
 御雷は二階部分にある踊り場から、子供の死体を投げ下ろすと、自らも跳んだのである。
 体重百キロの身体が、ベンツのボンネットを大きく凹ませて着地する。車体全体が大きく揺れて、幸三郎は悲鳴を上げた。
 息子の死体越しに、彼は見た。闇に浮かぶ白い美貌が自分を見下ろしているのを。
 御雷はボウランドに持ち替えていた。減音器は着けてある。
 子供の後頭部に五発、打ち込んだ。九ミリパラベラム弾は、ベレッタの三八〇ACP弾に比べると遥かに強力だ。体内で変形しやすいジャケテッドホローポイント弾は、遺憾なく威力を発揮した。
 幸三郎は、見慣れた我が子の顔が、瞬時に破壊され、どろどろの汚物と化してフロントガラスにぶちまけられるのを見た。貫通した弾が二発、ガラスに食い込んで停まっている。
 ほう、と御雷は感心する。反社会的な組織には防弾車両は販売されないはずだが。少なくともガラス面には多少の防弾製があるようだ。
 屋根は、どうだ。三発撃ち込んで素早くスペアマグと交換する。弾は弾かれていた。
 なるほど、結構まともな防弾車両じゃないか。
 ならば。竜司の死体を蹴り落とす。
 御雷は運転席の幸三郎をきっちりと狙って銃弾を放った。ガラスに挟み込まれた複数の樹脂フィルムが弾丸を包み込み、停めた。室内側のガラスは僅かに盛り上がっているだけである。幸三郎は少しだけ安心した。この中にいれば―――その間に事務所詰めの交代要員が来れば、形勢は逆転する。それまでにまだ三時間ばかりあった。
 御雷は第二弾を放った。それがガラスに食い込んでいる初弾の尻を正確に捉えたと知ったときの、衝撃。押された弾は、さらに深くガラスに食い込んだ。
 第三弾。またも、命中し、さらに深く弾が押し込まれる。
 そして、第四弾。最初の弾が、ついにぽろりと室内に落ちた。小さな穴が防弾ガラスを貫通したのである。
 第五弾。その穴を通り抜けた弾丸が、運転席のヘッドレストに食い込んだ。幸三郎の頭から三センチ離れた場所だ。さらに、着弾を修正するために、角度を調整しつつ狙う。
 幸三郎の心が、折れた。
「撃つな。」
 両手を頭の後で組む。御雷は窓を開けさせ、ベンツのエンジンを止めた。リモコンを操作させてシャッターも閉める。シャッターの巻き上げ装置をボウランドで撃ち、機能を失わせた。もう中からも外からも開くことはできない。巻き上げ軸が妙な具合に曲がってしまったためだ。
 幸三郎を運転席から引きずり下ろし、コンクリートの床に突き倒して身体検査をした。持っていた拳銃はスミスアンドウェッソンのスナブノーズリボルバーだった。確かに安全性は高いだろうが、この男には身を守れるように使いこなす技術がない。
 内心の苦笑を感じながら、財布や別宅の鍵などを取り上げる。刃物の類いは持っていなかった。
 車内検索をかけたが、何も出てこない。本当に身一つで脱出を図ったようだ。御雷は舌打ちする。
「とんだ期待外れだよ、組長さん。まさか、本当に自分だけ助かればいいと考えていたとはね。」
 階段の上に目を遣り、暗い声で呟いた。
「あの男も浮かばれないだろうよ。」
 立て、と御雷は命じた。拳銃はホルスターに収めてある。
 のろのろと幸三郎は立ち上がった。
「この事務所に麻薬はあるか。」
 答えない。
 御雷は歯を剥き出しにして笑った。女性のような美貌にそぐわぬ表情に、幸三郎は唖然とする。
 御雷は大股で幸三郎に近付いた。暴力への渇望で全身が疼いている。
 無言のまま下腹部に右拳を叩き込んだ。
 小太りの幸三郎の身体が、一瞬浮き上がるほどの衝撃があって、意識が遠くなる。
 すかさず肝臓を打った。凄まじい苦痛が、幸三郎の意識を気絶の縁から強引に引き戻した。
 海老のように身体を曲げ、苦悶の表情でのたうつ幸三郎を、御雷は冷たく見下ろす。吐瀉物が自分にかからないように、微妙に立ち位置を調整する。
 幸三郎の口が動いた。が、御雷の声が先だった。
「喋らなくていい。」
 瞳に鋼の色が浮いている。
「あんたが喋ったら、もうあんたを痛めつける理由がなくなるからな。」
 暴力を生活の糧にしている者は、自分自身に対する暴力には弱いものだ。それがいかに情け容赦ないものか知り尽くしているだけに。中でも、幸三郎は肉体的な苦痛に対する耐性が極端に低いだろうという察しはついていた。
 それにしても。
 こうもあっさりと、話せるものだろうか。
 涙すら流しながら、幸三郎は洗いざらい喋った。麻薬の密輸ルートのこと。部下への分配の仕方。事務所に備えてある物騒な装備品について。構成メンバーについての情報。沢田についても、尋ねた。
「あいつは、若いのに大したもんだよ。薬の売買に関しては、あいつが窓口になっている。親父から届く品を受け取って管理するのもあいつの役目だ。」
「ふうん。随分親父さん――今は会長さんか――の信頼が厚いんだな。あんた、そのうち組を乗っ取られるんじゃないか。」
「親父の親心だよ。俺は直接薬の売買には関わっていないという形を作るための方便さ。」
 これだから、お坊ちゃんは扱いやすい。寝室の金庫に麻薬の現物があれば、どんな方法を取っても「関係ない」では済まされないだろうに。
 意外に、沢田という男は会長――幸三郎の父が、別の女に産ませた妾腹の弟なのかもしれないな。
 ふとそんなことを思い付いたが、確かめようがない。幸三郎自身も思ってもみないことであろう。
 知らぬが仏とは、よく言ったものだ。
 ともかく、幸三郎は金庫の中身についても喋ってくれた。今は、薬はあまりない。現金についても多くはないという。後は金塊や株券、何かの証書やらが詰まっている。
 まあ、全部は語っていないだろうが…ね。
 御雷は数秒思案する。
 金庫の開け方を聞いた後、幸三郎を始末した方が面倒は少ない。しかし、万一情報が正しくない場合には、無理矢理こじ開けることになる。時間や労力はともかく、頑丈な金庫を破るにはそれなりの技術が要る。それは、御雷がどのような人間かを相手に開示するようなものだ。
 少なくとも、沢田の用心棒だという爺には、まだ知られない方がいい。これは、予感だ。
 御雷は改めて銃口の恫喝で幸三郎を立たせた。パジャマに漏らした小便の染みがみっともないが、それは指摘せずにおいてやる。
 一応、正妻の死体も見せてやる。愛する――もはや愛していないのかも知れないが、家族の死体を二つ見せ付けられ、幸三郎は完全に観念したようだった。
 金庫は現在幸三郎の寝室として使われている部屋に据えてあった。今時珍しい、古めかしい代物だ。
 開けろ、と単純に命じた。幸三郎は、最初に隠し場所から鍵を出してきた。そんなところに…と御雷は軽く驚く。
 単純なダイヤル錠だ。番号そのものは、音を頼りに合わせることくらいは御雷にもできる。しかし、最後にキーを回さねば解錠が完了しないタイプであった。手持ちの道具で開けられないこともないが、無駄な時間を使わずに済めば、それに越したことはない。
 無駄な暴力を振るったことを棚に上げて、御雷はそんなことを考えている。
 暴力を振るいついでに、試してみたいことがあった。そっとボウランドをホルスターに戻す。外した減音器は上着の内ポケットの中だ。
 無心にダイヤルを操作する幸三郎の背後で、御雷は壁面の飾り棚に近寄った。飾り台に大小二振りの日本刀が載っている。大刀の方を取った。室内の探索を行った際に、真剣だということは確認してある。ヤクザの組長には勿体ないくらいの逸品―――古刀であった。
 御雷の聴覚は、金庫の扉の内部で金属板が回転し、連接する音を捉えている。間もなく、開く。
 日本刀の柄に手を掛け、鯉口を切った。
 番号が全て揃った。幸三郎が鍵を捻る。回った。続いて扉に設けられたレバーに手を掛ける。
 御雷に背を向けて、幸三郎は笑っていた。この場面で、俺に扉を開けるところまでやらせるのは馬鹿だ。そう思っている。
 そんなことは御雷も承知している。扉を開ける瞬間が、幸三郎にとっては逆襲に転じる最後の機会だからだ。
 僅かに開いた扉に、幸三郎は素早く手を突っ込んだ。それまでの、放心したような緩慢な動きが嘘のようだ。否、そう思わせるように放心状態を演じていたのである。
 必ずぶっ殺す。自分が死ぬのは決まっていても、だ。
 そういう意味で、彼は根っからのインテリ「ヤクザ」なのであった。
 だが、悲しいかな。幸三郎には会心の動きであっても、御雷にとっては止まって見える。鍛え方が絶対的に足りていないのだ。そういう意味で、彼は根っからの「インテリ」ヤクザなのであった。見るからに鈍重そうな矮躯は、平和な会社員の方が似合っていた。
 幸三郎が金庫から抜き出したのは、やはりスミスアンドウェッソンのスナブノーズであった。
 道具を統一する。そのことについては、御雷も感心する。手順の単純化はつまらないミスを防いでくれる。
 だが、それだけだ。
 銃口がこちらを向く前に、日本刀を鞘走らせた。そのまま幸三郎の両手首を薙ぐ。
 斬れた。
 骨も肉も、同じ感触で刃が抜けたことで、御雷は確信する。
 俺にも、できる。
 幸三郎は、床に転がった手首を呆然と見詰めていた。拳銃を握ったままの――これは、俺の両手だ。
 恐る恐る目をやると、両腕の手首から先が消失していた。
 切断面は熱を加えたようにタンパク質が変質している。
 不思議と痛みはなかった。
 それでも絶叫しようとしたのは、純粋な恐怖からであった。
 悲鳴を上げようとする顔に、刃が走った。頭が斜めに切り落とされる。
 御雷は手を止めなかった。
 頸を断つ。
 両腕ごと胴を断つ。
 血は出ない。
 刃の切れ味も鈍らない。
 切断され、床に転がった人体は、ことごとく白く変色した断面を見せている。
 僅か数秒で、幸三郎は細切れになっていた。一滴の血も流れていないのが異様だった。
 御雷は右腕に、振動を停める信号を送る。それに合わせたように、柄が割れた。刀身が抜け落ち、床に刺さる。刃には血も油も付着していない。
 御雷は柄の残骸を投げ捨てた。
「やっぱり。柄から刀身まで、同素材じゃないと保たないか。」
 わかってはいたけれど、と軽く笑う。
 御雷がやったのは、実に単純なことであった。前腕で発生させた振動を刀身に伝え、切れ味を引き上げる。それは、かつてK2が装甲板を切断してみせたのと同じ原理―――振動ブレードである。
 出力こそ低いものの、医療分野では似たようなものが既に実用化されていた。俗に言う「超音波メス」である。刃先を超音波振動させることで切れ味を保ちながら、同時に組織と刃の間に発生する摩擦熱によって止血まで行うのだ。
 理屈上は、と御雷は考える。得物は鋭利な日本刀などではなくていいはずだ。十分な強度があり、なおかつ適度に微細な凹凸さえあれば。ただの金属片ですら、御雷が持てば恐ろしい振動ナイフと化すはずだ。
 淡い笑みを浮かべながら、金庫に近付く。幸三郎の肉片は邪魔にならないところに飛ばしてある。後で片付けやすいようにまとめているところが、妙に几帳面ではあった。

      10
 金庫の扉を開く。
 幸三郎の言葉に嘘はなかった。
 麻薬が入った袋が、二つ。一つが五百グラムだから、一キロ。個人が持つには多すぎる量だが、売る側としてはそれほどでもないのだろう。
 カラスはパケ――小袋に何グラム入れることにしていたか。これを、小売り用に分ける作業を考えると気が滅入る…。
 そんなことを思いながら、防刃布の袋に入れてメッセンジャーバッグに仕舞う。
 四千万円ほどあった現金もバッグに入れた。日本円は嵩張る。入りきらない分は、持参した折りたたみ式のバッグを広げて収めた。
 ゴールドや証券の類いにも大いに惹かれるものはある。が、金儲けに来たわけではないし、第一処分するときのリスクが大きい。
 後ろ髪を引かれる思いで、諦めた。
「ま、これで必要経費は取り戻せたし。欲を掻くのは駄目だな。」
 独り言は御雷の癖だ。
 薬と現金が少ないのは、近々大きな取引が予定されているからだ。売る方も、買う方も、だ。それ故今は、金も薬も沢田によって別所に保管されている。
 薬の取引自体に干渉するつもりは、御雷にはない。警察の仕事だ。
 さて。
 次の段階に進まねばならない。体内時計を疑うわけではないが、念のため腕時計で確認する。
 日付が変わろうとしていた。時計に仕込まれた体温センサーは、御雷の体表が三十八度になっていることを察知して、一度目の警告を送ってくる。無視した。
 あと三時間半で、次の事務所詰めの連中がやって来る。
 トイレから、掃除用のゴム手袋を拝借した。
 まず、幸三郎の死体を金庫の隙間という隙間に詰め込んだ。金庫の扉を閉め、ダイヤルを出鱈目に回す。その上でダイヤルを撃った。重要部品である回転軸が歪む。鍵はトイレに流した。途中に引っかかろうと困りはしない。
 竜司――河津組の跡取り息子の死体は損傷が酷い。放置して井門商店への鉄扉を閉じる。電子ロックが作動するのを確認してから、操作盤を中心に数発撃ち込む。復旧には相当な時間がかかるはずだ。
 取り上げた拳銃から弾を抜き、撃針を折った。新品のリボルバーである。惜しい、とは思ったが、持ち帰ってテストをしてまで使おうとは思わない。それは、弾薬も同じだ。
 信じられるのは己の技と鋼のメカニズムのみ。その思いは今も変わらない。ただし、自分あるいは信頼できる人間が調達したものに限る。御雷にとってそう思える相手はサイモンとK2だけだ。
 用心棒の銃も分解して撃針を折った。弾倉から抜いた弾を、無造作にスーパーの買い物袋に放り込む。
 メッセンジャーバッグを肩に掛け直し、現金の入ったバッグと弾の入った買い物袋を提げて階段を降りる。防毒マスクを着けていた。二階の会議室に出て、軽く調べてみる。壁の一部に武器の隠し場所があった。ライフルやショットガンと共に弾薬がある。銃器は無効化し、弾薬は回収する。
 例によって二階への扉の電子ロックを復旧不能になるまで破壊した頃には、さすがの御雷も飽きていた。それでも踊り場で死んでいる幹部の銃を無効化し、弾を抜く。財布から紙幣だけを抜き取るところも、他の連中に対して行ったのと変わらない。現金入れに使っているバッグには、メッセンジャーバッグに入りきらなかった帯封付きの札束に加え、既にかなりの枚数の使い込んだ紙幣が入っている。
 小遣い稼ぎとしては悪くない、と思うことにする。
 イヤフォンは耳に挿しっぱなしだが、特に変わった音は拾っていない。
 一階に下りた。鉄扉が閉じないように、給湯室の椅子をドアストッパー代わりに使う。
 死んでいる連中について、これまでと同様の処置を行った。ここでもかなりの額の紙幣と弾薬を手に入れる。頭を撃ったから、懐の紙幣は血で汚れていない。もともと汚い金なのは間違いないが、金自体に罪はない。御雷は有難く使わせてもらうことにする。
 厄介なのは、室内の空気に混ざっている有毒な気体だ。吐瀉物からも立ち上っていることだろう。
 御雷はバッグ類を事務机に置くと、拝借してきたゴム手袋を着けた。
 死体の襟首を掴むと、口の中に溜まったものがこぼれ出さないように気を付けながら、開いたままにしてある鉄扉の中に放り込む。六つの死体を放り込んだ。上階の換気扇を全て作動させてあるので、扉を閉めてしまえば階段室も含めて負圧になるはずだ。そうなれば死体から発する有毒ガスを吸ってしまう危険性は下がる。
 吐瀉物は新聞紙でまとめ、袋詰めにして、これも階段室に放り込む。
 食い残した飯にも毒物は残っている。取り敢えずトイレに流す。褒められたことではないが、ひとまず浄化槽に飲み込んでもらうことにする。この辺りにはまだ下水道が通っていないのだ。
 食器も洗った。いつもは汚れたまま返すのだ。たまにはこんな日があってもいいだろう。事情を知らない中華料理店の店主を毒物に触れさせるわけにもいかない。
 病巣に対しては容赦なくメスを振るうが、無関係なところへのダメージは極力抑えること。文部省の指針と御雷の信条は、この点では一致している。
 目立たぬ程度に窓を開けると、外から新鮮な空気が入ってくるのが感じられた。風は、階段室に向かって動いていた。言うまでもなく、上階の換気扇のおかげだ。間もなく防毒マスクを外せる程度にはなるだろう。
 数分待ち、最後にゴム手袋を放り込んでから、御雷は階段室の扉を閉めた。電子ロックが作動すると、例によってコンソールを中心に銃弾で破壊し、復旧を困難にする。
 これで。
 組長を含む全員の死体が、侵入困難な密室に存在することになった。事務所の床の血痕は、まあ仕方がない。新たに死ぬ奴に関しても同様だ。死体が残るのは仕方がない。
 それでも、組の関係者や警察が今夜の犯行の規模や内容の全貌を知るのには、それなりの時間を要するだろう。
 御雷が動けるだけの時間を稼げれば、それでいい。
 防毒マスクを外した。体調に異常はない。
 ボウランドとベレッタを出して、それぞれの予備弾倉に弾を補充する。
 一階にある武器庫を探し出し、撃針を折って銃器をことごとく無効化する。弾薬は、拳銃弾だけで二千発あった。
 午前二時を回っている。
 御雷は岡持に食器を入れて玄関先に出しておいた。耳のイヤフォンは抜かないままにする。
 事務所を漁ると、何に使うのか麻袋が出てきた。誰かの頭に被せれば、昔のドラマでよくあった誘拐のシーンを再現できるだろう。まさか、本当に「それ用」じゃあるまいな、と妙に可笑しくなる。
 河津組で得た弾薬類を麻袋に放り込んだ。そのまま玄関を出る。自分のバッグを事務所に残したまま、御雷は井門商店前に駐車しているハイエースに向かった。駐車違反の印は付けられていない。手袋を厚手のものに替えて、有刺鉄線の束を車内の資材棚に押し込んだ。麻袋を助手席に置いて、車を出した。
 深夜の警邏に遭遇しないように、道を選んでそろそろとハイエースを走らせる。工務店に返しておくのだ。そのままにしておけば、事務所詰めの交代要員に怪しまれる。
 リスクはあったが、少しだけ遠回りした。事務所から程近い今原港に立ち寄ったのである。深夜から漁に出る者もいるから、魚市場のある南側は避けて、フェリーの発着場のある北側に向かう。今原警察署水上交番などもあるから、決して近寄りたい場所ではない。
 だからこそ、逆にいい。午前二時過ぎという時刻が味方になってくれる。
 無人のフェリー乗り場の前で車を停める。目出し帽を被った。ここで映像を残したいとは思わない。
 麻袋を担ぐと、低いフェンスを乗り越え、桟橋に走った。少し離れると、赤味を帯びた濃灰色の衣類が夜間迷彩として優れていることがわかる。所謂「茶鼠(ちゃねず)」色が近い。闇の中では輪郭がぼやけ、周囲に紛れ込んでしまう。
 御雷は遠心力も使って麻袋を投擲した。大量の弾薬が、水音を立てて海中に沈む。予想したよりも着水音が大きい。可能な限り急いで、ハイエースをこの場から移動させねばならない。
 御雷が銃の撃針を折るのは、日本で違法な銃器を運用する場合、細々とした部品の供給が大きな問題となることを知っているからだ。撃針という小さな部品が一つ無いだけで、銃は銃としての機能を失う。そして部品は手に入らない。河津組が所有する銃器の稼動数を削るためには有効なやり方だった。銃そのものは事務所に置いたままだから、今原署の皆さんにとってもそれなりのお手柄になるだろう。
 弾薬を投棄したのは、ある意味銃本体よりも弾の方が入手が難しい、という現実に即してのことだ。当たり前だが、弾の切れた銃など、精々鈍器ぐらいにしか使えない。そして弾は、基本的に工場のラインを使った大量生産品だ。一々薬莢から手作りするような暇人はいない――のだが、かつてテレビで見た、どこかの国にあるという密造銃器で生計を立てている集落では、薬莢を一発ずつ旋盤で真鍮の丸棒から削り出すという。火薬や雷管の入手も面倒で、リスクも大きい。
 そんな事情もあって、暴力団組員の間では、弾が異常な高値で取引されているわけだ。
トカレフは随分値崩れしたというが、弾代はむしろ上がっている。
 だからこそ、御雷は弾を捨てたのである。仮に補充したとしても、河津組は経済的に大きく体力を消耗するだろう。
 無事に工務店の倉庫にハイエースを収め、シャッターの施錠をしたときには、御雷は思わず安堵の溜め息をついてしまった。
 まだだ。まだ、終わってはいない。
 盗んだスペアキーは、ハイエースに挿したままにしてある。きちんと返却したのだ。
 足早に路地の闇を縫って移動しながら、御雷は腕時計を見た。
 午前二時四十分。
 河津組の事務所に帰り着く。イヤフォンは御雷不在の間も、不快な来訪者がいなかったことを教えてくれていた。
 御雷は、岡持の内部の棚板を持参したものと交換した。盗聴器を仕込んだ方は、オリジナルに似せて御雷が新たに作ったものである。それを、本物に戻したのである。木の色味や油の染み具合などを合わせるために、何度か定休日に忍び込む必要があった。
 ようやく、イヤフォンを外すことができる。
 玄関先に置かれた岡持の盗聴器は、たしかに有用な情報を御雷にもたらしてくれるだろう。しかし、回収し損ねる可能性は断たねばならない。それに、今や事務所に設置された防犯装置の情報を、御雷は好きなだけ利用できるのであった。
 監視カメラの映像を映し出しているモニターに近付いてみる。やはり、カメラの性能については御雷の読み通りであった。赤外線ライトの照射圏外にあるものを見るのは難しい。
 録画記録を調べてみる。一週間程度で記録は上書きされるようだ。それにしても、古いハードディスクドライブを使っているものだ。情報こそは金と同等か、それ以上の価値を持つものなのに。
 普段は漠然と感じていることが、不意にまとまりを見せることが、ある。今のが、それだ。
 情報の価値か…思考に沈み込みそうになる意識を引き戻し、御雷は自分が映っているであろう記録の全てを消去した。
 午前三時二十分。
 モニターに人影が映る。画面はいくつかに分割され、複数のカメラが送ってくる映像を表示している。駐車場を監視する画面の中で派手なアメリカ製SUVが二台増えている。
 減音器を着けたベレッタを握ったまま、御雷は待った。
 ドアフォンが鳴る。来意を告げる声が室内のスピーカーから流れる。無論、事務所詰めの交代だ。
 御雷は、出前の時に聞いた声を思い出しながら声帯を調整する。潰れていながら、若さのある声。マイクとスピーカーを通してそのように聞こえる、声。
 こんな、感じか。
「おう、来たか。今、鍵を開ける。」
 敬語を使わないのは、ドアフォンを押すのもそれに応対するのも下っ端の役目だからだ。
 玄関の鍵は、初めから掛けていない。内ドアの方も無施錠だ。
 だが、御雷の言葉を信じて、男たちは行儀よくドアの前で待っている。
 御雷の眼が、笑っている。唇が動いた。
 きっ。かちゃっ。
 出てきたのは、あろうことか鍵が作動する際の金属音であった。
 先入観とは、恐ろしい。
 御雷の言葉に意識を誘導されている男たちは、その音がドアフォンから出ていることに気が付かなかった。脳が勝手に補正を掛けて、ドアの鍵穴付近から聞こえたと錯覚してしまったのだ。
 人間の眼は事実を見るのではない。見たいものを見たいように見るだけだ。
 正確には、眼ではなく、脳が。聴覚についても、同じ事が言える。
 御雷は瞬きをした。黒曜石のような瞳が、冴える。
 あの、淡い笑みが、紅い唇を彩っている。
 音もなく内ドアに近付く表情は、夢見るようですらあった。
 御雷の聴覚が、玄関ドアが内側から施錠される音を聴いた。
『おうい、鍵は閉めた。中に入れてくれ。』
 玄関ホールのマイクが男たちの声を拾う。インターフォンが備えてあるのだ。
 鍵なら、最初から掛けていない。
 御雷は唐突にドアを開けた。
 立ち尽くす六人のうち、最後尾―――最も玄関ドアに近い男の眼を撃った。後頭部から吹き出したものが玄関ドアを汚す。
 そのまま、後の奴から順に撃っていく。目の前で人が撃たれて死ねば、誰でもパニックになる。咄嗟に身構えもする。だから、見えない後ろ側から倒していくのだ。
 本来は隊列を組んで進む相手を狙撃する際のセオリーだ。最後尾から倒していく。最初に先頭を撃てば、他の連中を仕留め損なってしまうことになりかねない。
 御雷にとっては簡単な仕事だった。六~七人が入れば一杯になる、玄関ホールの容量。ドアの向こうは安全な空間だという油断。
 ほんの数秒あれば、六人を死体に変えることができることを証明しただけだ。懐に呑んだ拳銃に手を伸ばす間もなく、男たちは絶命した。念のため、頭にもう一発ずつ撃ち込んでおく。
 几帳面に、懐を探り銃器を無効化した。弾をコンクリートの床の上に置き、事務所の工具入れから持ち出した金槌を振り下ろす。あるものは薬莢が潰れ、あるものはリムが歪んだ。これで、役に立たなくなった。
 御雷は全ての監視カメラの電源を落とした。改めてカメラの録画記録を消す。その上で、ハードディスクドライブを撃った。完全に破壊して、データの復元を防ぐ。ここまでやってなお、データを復元できる奴がいたなら、御雷は称賛を惜しまない。
 ベレッタのマガジンを抜いて補弾する。そして、減音器を着けたまま、フライトジャケットの内ポケットに仕舞った。危険だが、銃器を手にしたまま表に出るわけにはいかない。
 いざとなれば、インサイドパンツホルスターに納まったボウランドが、毒蛇の一撃のように閃くはずだ。しかし、減音器を着けずに発砲することは避けたいところであった。
 御雷は食料庫に入って段ボール箱をいくつか持ってきた。嵩張らないように潰して保管してあったものを拝借したわけだ。
 メッセンジャーバッグを肩から掛け、防毒マスクは現金を入れた手提げバッグに収めてジッパーを閉めた。
 潰した段ボールを、玄関ホールを埋めた死体の上に敷き詰めると、その上に足を踏み出した。
 死体を踏むことに躊躇いはない。死んだ人間はただのモノだ。段ボールを通して伝わる柔らかな感触は歩きにくくて嫌になるが、靴を血で汚すよりは遥かにマシだ。御雷が履いている靴は何の変哲も無い量産品だが、それでもはっきりと靴跡を残すほど愚かではない。
 そうはいっても、靴だけはやっぱり始末しよう…と考えながら、内ドアに施錠する。撤収の際に施錠する手口はFBI時代に学んだ。盗みに入られたことを悟られにくくすることが目的だが、御雷の意図は時間稼ぎと―――単なる嫌がらせだ。
 分厚い鉄板製の玄関ドアを開けて外に出た。ここも施錠した。その上で、鍵穴に防水処理用のコーキング材をたっぷりと注入してやる。固まると弾性のあるゴム状の樹脂になる。
 俺も、ほとほと性格が悪い男だ。
 少女を連想させる美貌に、思いがけず男性的な笑みが浮かぶ。御雷の姿はすぐに闇に紛れた。
 路地を辿って、中華料理店に戻る。
 店内に入ると、店主はまだ眠っていた。点滴は切れている。まだ数時間は眠っていてもらわねばならない。
 御雷は用量を抑えて麻酔薬の注射を打ってやった。点滴の機材などは撤去してバッグに収める。
 自分のバッグを置くと、店主の料理服を着て、ヘルメットを被った。スーパーカブを表に出す。エンジンは冷えていたが、簡単に始動した。
 軽やかな音を立てて、河津組まで走らせる。
 午前四時十分。
 東の空が白んできた。
 岡持を回収すると、中華料理店に戻る。
 スーパーカブを定位置に停め、岡持を持って店内に入る。食器を仕舞う。丁寧に洗浄したから、そのまま客に料理を出すのに使用しても差し支えはない。
 眠りこけている店主の手足の戒めを解き、口に貼ったテープを胡麻油を使って剥がしてやる。料理服を着せてやった。新聞紙を被せておいてやったため、身体が冷えすぎたということはなさそうだった。
 スーパーカブの鍵と店の鍵を枕元に置いてやる。
 御雷は自分のバッグを持って勝手口から出た。ピッキングツールで施錠し、そのまま路地をアーケードまで抜けた。店舗ばかりの通りだが、まだ営業している店はない。全ての店のシャッターは閉じられている。その中には永久に開店時間がやってこない店もある。慢性的な不景気が、かつては賑わった商店街を蝕んでいた。
 いや、それも違うな。と足早にアーケード街を歩きながら御雷は思った。ここは、客を呼べる要素が無いから寂れただけだ。駐車場の便も悪ければ、ここに来なければ手に入らないものがあるわけでもない。価格にも魅力が無い。
 郊外型の大型店舗に客が流れるのは当然だ。週末に行われる商店街のイベントの告知ポスターを見ていると悲しくなってくる。こいつらは、本当にイベントで商店街に客が戻ってくると信じているのだろうか。イベントなど一時の打ち上げ花火に過ぎない。商店街自体に魅力が無ければ、いずれは死ぬ。
 それはともかく、人気の無い商店街は御雷にはありがたかった。寂れた街には防犯カメラを導入する予算もなければ、それを必要とするほどの人出もない。最短距離で今原市の中心部を抜け、スクランブル交差点を渡らずに左折する。歩道を五分ばかり歩いて足を止めた。
 パチンコ屋の前の歩道上に、自転車やバイクがずらりと停まっている。無論、駐輪場などではない。勝手に停めているのだ。
 この場所を選んだ理由は簡単だ。片側二車線の国道を挟んだ向かいが、今原警察署なのである。今のところ駐輪に関してうるさいことは言われていないし、場所柄盗難被害にあったという話も聞かない。
 御雷はヤマハのチェーンロックを解く。合わせて、近くの電柱に結びつけていたワイヤーロックも解く。エンジンを掛けないまま少しだけ歩道を押し、手近な路地に入った。
 ヘルメットを着け、荷台に二つのバッグを括り付ける。エンジンを始動させると、暖気もそこそこに走り出した。
 尾行者に気を配りながら、石上邸に辿り着く。
 麻薬と現金をガレージの物入れに仕舞うと、御雷はベッドに倒れ込んだ。
 時間が無い、と思う。次に馬越が麻薬を買いに来る日まで、もうどれほども残されていない。
 既に、カラスの携帯には顧客からの注文が続々と入っていた。御雷は欲しいものの数量を尋ねると、必ず一言付け加えた。
「悪いが、次回はいつ売ってやれるかわからない。どうやらブツが手に入りにくくなりそうなんだ。次回の入荷は未定。そこで、だ。単価は安くしてやるから、少し多めに買わないか。」
 その結果。さすがの御雷も、メモしないと管理できないほどの注文を抱えているのだ。月曜の夜までには準備を調えねばならない…。
 御雷の意識はそこで途切れた。

      11
 どれほど疲れていようと、朝が来れば身支度をし、仕事に行かねばならない。
 河津組襲撃の翌日も、御雷は何食わぬ顔で出勤した。
 わずか二時間ほどの睡眠の後、教員として借りている自宅に戻り、スバルに乗り換えた。昨夜使った田中吾郎名義の免許証ではなく、ちゃんと本名の免許証を持っている。
 欠伸を噛み殺しながら授業を行い、菊池のフォローもする。
 給食はいつも通り三人前食べた。寝ていない分は食事で活力を補うのだ。御雷が実に美味そうに食うので、最近は生徒たちも食べる量が多くなってきた。不味いと評判の給食センターの食事が、最近は足らないぐらいになりつつある。以前はとにかく食が細い生徒が多かった。だからこそ、御雷も遠慮無く食えたのだが…。
 単純な話だが、たくさん食べるクラスには、活気がある。御雷の経験則では、そうだ。何かをするには――心の力を使うにことも飯を食うことは必要だ。
 無気力だった生徒集団が、少しずつ変わりつつある。
 御雷はそう感じている。
 三年生は二人の死人を出して以来、少し落ち着いてきた。大人達の動揺と反比例するように、子供達は冷静になりつつある。むしろ、受験生としての雰囲気を持つのが例年より早いくらいだ。
 これも、一種のショック療法だ。
 馬鹿が無様な死に方を見せることで、各々が自分の立ち位置を認識したのだ。危機感を持った者の行動は、変わる。
 二年生は相変わらずだった。
 御雷の授業ですら、妨害しようとする。今日授業をした四クラスともだ。
 飛来する物体を、背中を向けたまま御雷は避けた。自然に板書を続ける動きが、避ける動きになっている。
 だから、物を投げた方が、下手糞に見える。間抜けに見える。
 本来は、生徒に背中を向けたまま喋るべきではない。喋るときは生徒を見て―――それが基本だが、この場合は御雷流の演出である。
 どれほど物を投げようと、御雷の授業はペースを乱さない。
 いつしか生徒たちは学習に没頭し、小者のワル共は沈黙せざるを得ない。
 西本には、それが面白くない。
 今までの教師は、何が飛んでくるかビクビクしながら授業をしていたというのに。実際、細かな嫌がらせの積み重ねで精神を病んで、休職したり退職したりした者が何人もいる。
 菊池にサイコロを投げ損なった件の後、遠藤には制裁を加えた。顔の形が変わるほどに、石川と片瀬に殴らせた。二人は、行動に遠慮が無い。自分が正式に組員になった後に便利に使える駒になってくれるだろう。そのために、二人には薬を直接渡してやっている。
 西本自身は薬を使わない。あんなものを使うのは愚か者だと思っている。沢田の教えだ。
 西本が遠藤を痛めつけたのは、白井の顔に傷を付けたからではない。むしろ、菊池を傷付けようとしたことに激怒したのである。
 始業式の日、一瞬見た菊池の姿。そして、今日髪を切って出勤した彼女の姿を見て、はっきり自覚した。
 俺は、この女が欲しい。
 十歳も年上の女だが、そんなことはどうでもよくなった。外見的にも、高校生と間違われるような童顔である。
 ともかく、自分が暴力の世界でのし上がったときに、自分の隣に立っているのが菊池であれば…と考えて、気付いてしまった。
 俺は、もう白井希美の肉体に飽きている。
 それ以来、急に彼女のことが疎ましくなった。相変わらず白井は西本の部屋で寝起きしているが、最近は気が向いたときに抱くくらいだ。白井はそれが不満だと感じている。今日も今日とて、登校もせず西本の部屋でエロビデオでも見ながら自慰に耽っているのだろう…。
 自分が成り上がれば、女の数人ぐらい養える。男を教え、薬を教えてやった白井を捨てるつもりもなかった。
 だが、白井よりも、菊池だ。そこは動かない。
 西本が感じているのは、菊池への好意だ。しかし、歪んだ育ち方をした人格は、それを正しく認識することも、正しく相手に伝えることもできないのであった。
 そして今。西本は御雷に激しい憎悪を感じている。
 その正体は嫉妬だ。
 常に菊池の側に居る姿が目障りだった。菊池が御雷に向ける信頼に満ちた眼差しが目障りだった。二人は付き合っているのではないか、という他愛もない噂話が耳障りだった。
 だから、英語の授業中に物を投げつけた。
 避けられる。
 投げた。
 避けられる。
 御雷は西本の方を見ようともしない。
 腹立ち紛れに、休み時間に使うためのサッカーボールを持ちだして、教室の床で突き始めた。あからさまな妨害に、他の生徒たちは息を呑む。
 どう対処するかで、教師に対する評価が変わる場面であった。
 ボールが弾む音に、さすがの御雷も眉をひそめる。板書する動きが、止まった。
 その瞬間を狙って西本は投げた。
 コンパスであった。当たっても死にはしないだろうが、精神を折るくらいのダメージは与えられるはずだ。
 御雷は避けなかった。
 その手がすいっと動き、銀色の軌跡がそこに吸い込まれるところまでは見えた。
 次の瞬間。
 唐突な破裂音に全員が耳を塞いだ。西本の聴覚が一瞬馬鹿になる。
 突いていたサッカーボールが破片になって散らばっていた。革製の本格的なものではなく、ゴム製の安価な遊び用だ。サッカーボール同様の模様が付いているだけの、所謂ゴム鞠である。
 空気をみっしりと押し込むことで堅く膨らんでいたボールが、突然に裂けたのだ。
「おい、西本。さすがにコンパスは危ないだろう。」
 いつものようにのんびりとした口調で御雷が言った。左手を伸ばしている。
 御雷の手と、裂けたボールがあった場所を結んだ延長線上。壁面に深々とコンパスが刺さっているのを発見して、西本は全てを悟った。
 御雷は飛来するコンパスを空中で掴み、瞬時に投げ返したのだ。彼の手の動きは全く見えなかった。
 全ての生徒が西本の方を見ていた。だから、御雷の表情は西本にしか見えない。
「それは、仕舞っておけ、西本。そんなものでも、当たり所が悪ければ―――。」
 御雷の声が僅かに凄味を帯びる。普段浮かべている微笑みとは異質な笑みが、唇に浮かんだ。
「簡単に、死ぬ。」
 西本は、全身が冷たい汗を吹き出すのを感じた。「殺す」だの「死ね」だのという言葉を、彼らは日常的に使ってはいる。付き合いのあるヤクザも同様だ。だが、御雷の唇から出ると、別の重みが加わるような気がした。
 強張った表情のまま、無言を貫いた。そのまま、教室から出る。
「西本は帰っちゃったな。あ、忘れ物だ。」
 わざとらしく言いながら、御雷は壁面に刺さったままのコンパスを抜き取る。さりげなく自らの指紋を拭き取って、教室内の教師用机に仕舞った。西本め、教科書は持ってこないくせに、コンパスはあるなんてな…。そう考えると妙に可笑しくなる。
 手短に職員室に連絡を入れてから、生徒に向き直る。
「じゃ、続けようか。」
 授業は、順調だ。

 菊池は、思い切って髪を切ったのに、御雷の反応が薄いのが不満だった。
 前髪をすっきりと短く。全体的にボリュームを削いで、しっかり顔が見えるようにした。後ろ髪の長さはそのままに、簡単に一つにまとめている。顔で風を受ける感覚が心地よい。高校生の頃以来だ、と思い出す。
 彼女が出勤したとき、教頭をはじめ男性教諭達は瞠目して迎えた。称賛と、戸惑いと、幾分かの性的な関心。それらを、菊池は複雑な心境で受け止めた。怖いが、受け止めねば前には進めない。
 なのに。
 それを促した当人の反応が、薄い。一瞥して、「やっぱり思った通りだ」と言っただけで、それ以上は褒めてもくれない。と腹を立てている自分に、少しばかり動揺する。
 自分が髪を切ったのは、御雷に褒めてもらいたかったからだ。そう自覚したから。
 動揺を抑えようとすると、自然と視線に力が入る。険がある眼差しになっていたかもしれない。
 御雷が気付いて、頭を下げだ。その貌が、いつもにまして白い…ような気がする。
「すみません。気の利いたことの一つも言いたいんですが、どうにも体調がよくなくて。」
 笑顔にも、心なしか影かある。
「大丈夫ですか。」
 菊池の切り替えも早い。自分の感情は棚上げにする。
「ええ。年に何回か、こんな感じになるんです。きっと、昔に受けた傷のせいでしょうけど。一日二日休んでれば回復します。今日は、午後の授業が終わったら早退します。西本もさっき帰りましたから、多分大丈夫でしょう。」
 御雷の言葉には、いくつか嘘がある。
 体調の悪さを招いた「傷」を、菊池は火傷のことだと受け取っただろう。本当は、脳に受けた破片のことだ。たまに、全身の活力が無くなって無気力になることがある。武と恭子を失った日も、俺はそうなっていた。もし万全の体調であったなら…それでも、きっと何も変わらなかったのだろう、と苦く考える。
 それに、今日の体調不良の大本は、単純な寝不足だ。思考が鈍ると、判断が過激な方に寄っていく傾向がある。西本の時も、もっとさりげなく流したかったのに、つい抑えが効かなくなってしまったのだ。
 自制が効かなくなっている。それは、菊池に対しても同じだ。すっきりと本来の姿を晒した菊池を見た時は、心臓を射貫かれる思いがしたものだ。努力する天才であった恭子。それと対極にあるような、ひたすら努力する凡人である菊池。どちらも同じ眩しさをもって、御雷の魂を揺さぶる輝きがあった。
 久しぶりに、抱きたいと思える女に出会った。が、今の御雷にとっては危険なことだ。
 だから、一旦学校から距離を取る。そのための早退でもある。
 五時間目の授業を終えると、帰り支度を始めた。
 次回の授業予定を聞きに来た高木が目敏く見とがめる。
「御雷先生、今日は帰ってしまうんですか。」
「ああ。ちょっと体調が悪くてね。」
 菊池が信頼を置いている少女は、残念そうに溜め息をつく。
「それじゃあ、今日は『御雷塾』はありませんね。」
「ごめんよ。また明日やるから勘弁してくれよ。みんなに連絡してもらっていいかい?」
 はい、と屈託無く笑った後で、心配そうな顔になる。
「御雷先生。」
「ん。何だい。」
 高木の眼は真剣だった。
「稲見中で働くのがしんどいんじゃないんですか。」
 御雷は苦笑した。
「しんどいと思っていたら、放課後に生徒を集めて補習授業なんてするもんか。」
 よかった、と高木は胸をなで下ろす仕草をしてみせる。
 相変わらず、御雷の用意した自学自習用プリントの評判はいい。より深く学びたいと、直接質問に来る者が増えてきている。それらが一定数を超えた時点で、教室を一つ借りて放課後に一時間ばかり希望者のみ参加の補習を行うことにしたのである。
 通称、「御雷塾」だ。望めばいくらでも学びを深めることができる。そういう場を得た生徒の反応は、非常によい。今では「菊池塾」だの「守矢塾」だのが並立している。さすがに、部活動の主顧問をしている教諭が同じ事をするのは難しい。そこは「棲み分け」だ。
 部活動顧問とも相談して、部員が学習にも参加できるようにした。スポーツだけで飯を食えるようになる者は多くない。その現実を考えると、運動面の成績だけで高校に進学することには不安がある。そう考えている現実的な顧問は多い。何といっても、教師の本分は生徒に確かな学力を付けてやることだ。
 御雷は高木に追加の指示を出した。
「ついでに、玉井にもおなじことを伝えてやってくれないか。」
 一瞬訝しげな表情を浮かべたものの、すぐに笑顔になった。
「はい。ちゃんと玉井君にも伝えます。」
 さようなら、と言って高木は職員室を出て行った。

 西本たち二年生のワル共の中で、御雷は最近、玉井淳也に何くれとなく目を掛けてやっている。普段は片瀬の子分としていいように使われ、授業を妨害したり煙草を吸ったりしている。暴力的なところもないことはない。
 ある日の放課後、南方の暴力から助けてやったのがきっかけとなった。南方も玉井も柔道部である。ついでに言えば馬越もそうだ。幽霊部員ばかりの悪餓鬼共の中で、唯一例外的に柔道部員だけは活動に参加している。
 単に、暴力に対する欲求を合法的に満たせるからだろう、と御雷は推測している。強さで言えば、南方が群を抜いている。身長こそ一メートル七十センチほどだが、ベンチプレスで百キロを挙げる肉体は、ゴリラのように猛々しい。馬越も弱くはないが、筋肉馬鹿の南方には敵わない。最近マシントレーニングに励んでいるのは、何とか南方に追いつきたいという思いがあるからだ。
 その中で、玉井はこれといって特長のある選手ではなかった。体格的に恵まれているわけでもなく、体力的に充実しているわけでもない。頭の回転が特別速いということでもない。
 柔道選手として大成する要素がまるでなかった。それでも部活に参加するのは、ワル共にくっついていれば、刹那的とはいえ楽しいことに出会えるのと、他の連中からの無言の圧力のおかげであった。抜けようとすれば、酷い目に遭わされる。実際、遠藤はボコボコにされている。
 そんな玉井を、モップの柄を振り回した南方が追い回しているところに出くわしたのである。南方の力は強い。止めようと腰にしがみついた三名の男性教諭をものともせず、玉井に迫る。目付きが尋常ではない。
 ちらっと、「馬鹿同士で殺し合ってくれれば手間が省ける」という考えが頭に浮かんだが、この状況で止めなければ教師としての資質を疑われることになる。
 御雷は滑るように南方に近づき、モップを持った両肘に軽く手を当てた。神経に振動という形を取ったショックを打ち込まれて、南方の両腕が痺れた。驚きが怒りを上回っている間に、さっさとモップを取り上げてしまう。
 それから、別室で玉井と少し話をした。
 南方が怒り出したのは些細なことが原因であった。が、その些細なことで殴られ、いいように使いっ走りをやらされているのも事実である。
「玉井はさ…。」
 なるべく軽い感じで御雷は尋ねた。
「いつまで、あいつらとつるんでいるつもりだい」
 答えはない。質問を変えた。
「ちらっと聞いたんだけど、高校へは行かないんだってな。」
 助けてもらったばかりだというのに、玉井の笑いは不貞不貞しかった。丸顔だが、眼が刃物で切ったように細いから、人相はよろしくない。が、瞳そのものには感情の色が浮かんでいる。
「卒業したら、片瀬の家の船に乗る。漁師になって稼ぐんだよ。だから、勉強なんて要らない。」
 なるほどねえ、と感心してみせる。
「それで、お前は一生片瀬の子分のままで終わる。」
 ぴくり、と玉井の肩が震えた。畳みかける。
「あいつらは違法漁――密漁で儲けるだろうな。だけど、お前の取り分はどれくらいある?自分の船を買えるほどにもらえると思うかい?結局、この先もずっとパシリで違法行為の片棒を担がされるのさ。」
「仕方ないだろ。」
 玉井の声に苦さが混じる。
「うちは、母ちゃんだけだし。貧乏だし。俺が稼いで何とかしなきゃいけないんだよ。それに、俺は頭が悪いからな。今から勉強したって高校になんて行けるもんか。」
 糸口を、得た。
「金なら、奨学金を借りることだってできる。お母さんに負担を掛けなくても済む。働き出してから、自分で返せばいいんだ。制服や教科書だって、お前さえ気にしなければ先輩達のお古をもらうことだってできる。」
 実際、そのようにして貧しい生活の中で学び続けている高校生は、いる。
「それに、だ。お前は『自分は頭が悪い』と言ったけど、それは本当だろうか。」
「どういう意味だよ。」
 英単語を十個覚えさせてやる。最初にテストをして、間違ったところだけを練習して、さらにテストをして―――以前授業中に語ったことを、もう一度やらせてみた。
 玉井は十五分で全ての単語を覚えることができた。
「たった十五分で、初めて見る単語を覚えられる奴を『頭が悪い』とは言わないさ。」
 玉井の目が、変わっていた。

 そんなことがあって、今では社会科の菊池塾、数学科の守矢塾にも顔を出すようになった。西本らとの繋がりは大分薄くなっているようだ。それにつれて、テストの出来もよくなってきた。
 御雷がワル共の集団を切り崩す際の、常套手段ではあった。が、思わぬ拾いものかもしれない。
 初めから諦めていたから伸びなかっただけだ。ここからあいつはまだ化けるだろう、と御雷は期待している。補習の中で問いかけてくる質問が、どんどん鋭いものになりつつある。
 その様子を目撃して、高木や広瀬も玉井のやる気を認めたようであった。休み時間にも勉強を教えてやったりもしているようだ。
 それはともかく。適度に休養を取りながら作業も進めねばならない。
 御雷は帰宅すると、早々に石上邸に向かう。
 書斎に籠もり、無風の状態で麻薬のパケ―――小袋を作っていく。厚手のポリ素材のテープを器用に折り曲げ、割り箸で挟んで両端をアルコールランプで炙る。熱で溶着した。袋状になったところに、麻薬を入れる。デジタル秤で正確に計測して、分量を調節する。その上から、シアン化ナトリウムを加えた。最後に袋の口を閉じて、同じようにアルコールランプの炎で溶着してやる。密閉が完了すれば、完成だ。
 何とも古めかしい、一昔前のやり方だ、と御雷は思う。市販のファスナー付きビニール小袋を使う売人も多いと聞く。が、カラスのやり方に合わせる必要はある。シアン化ナトリウムをこぼさないように。不用意に熱を加えて気化させないように。
 辛気臭く、神経を使う作業は、御雷を酷く疲れさせた。
 ざっと計算すると、四千ばかり作ることになるはずだった。実際、注文総数を確認するとそれくらいにはなる。一晩で売り払うとなると、欅橋はスーパーの特売品売り場のようになるのではあるまいか。
 どこかシュールな光景を想像して、御雷は退屈を紛らわせた。
 ひたすら作業に没頭し、夕食も摂らずに二千五百ばかり作り上げたところで根気が尽きた。
 結構な時間になっている。気分転換も兼ねて狙撃練習に行くことにする。
 入念にストレッチをして、強張った首筋をほぐす。細身のジーンズと半袖のポロシャツを身に着けた。どちらも黒だ。
 出かける前に、鏡で自分の素顔を見てみた。
 また、変わっている。御雷の記憶が正しければ、ほとんど火傷を負う前の顔に戻っているといっていい。肌の色は相変わらず白いが、その白さが自然なものになりつつあるような…。
 そういえば、皮膚の下がムズムズと落ち着かないことが、ある。あるいは、最近疲れやすいのも―――。
 俺の身体で、何が起こっているのか。気味が悪かった。
 痩せた体型になっているため、男にしては髪の毛が長く見える。鏡の中の自分は、母の若い頃によく似ていた。むしろ、事故前より女性的な美貌を得たような気すらする。
 服装と声を工夫すれば、大柄な女と言っても通りそうだ。試しに様々な表情を作ってみる。――FBI捜査官時代には、こんなこともやったっけ。
 声の出し方を思い出す。女性の声で口にしてみる。
「まずは、腹ごしらえからね。コンビニに寄ることにしましょう。」
 鏡の中の女は、何の違和感も無く喋ってみせた。
 そのうち、一人二役で独り言を言って、寂しさを紛らわせることになりそうだ。
「馬鹿みたい。」
 苦笑いも女性的にやってみた。本当に寂しくなればK2に電話しよう。あいつの取り留めも無いお喋りに付き合うのも一興だ。そのうち、彼女に提案しようと思っていることもある。
 スープラを出して、コンビニに向かう。
 昨夜の犯行のことはテレビでもニュースでもまだやっていない。無理もあるまい。明朝三時半になるまでは、次の事務所詰めのメンバーはやって来ない。昼間でも外部からの電話があるかもしれないが、すべて不通になっていることに不信を抱く者はいるかもしれない。
 いずれにせよ、御雷が仕掛けた細工により、事務所の内部に入るのは難しくなっている。あれだけ死体があれば、時間の経過と共に異臭が流れ出すはずだが…。
 さて、最初に動くのは組の残党か、それとも警察か。
 他人事のように御雷は考えている。昨夜、事務所詰めのチームを二班殲滅した。週に一回の割り当てだというから、幹部と呼ばれる人間はあと五人いることになる。そいつらが、どう出てくるか。むしろ、息を潜めて動かない目もあるかもしれない。
 いずれにせよ、沢田もいなければ、西本もいなかった。
 少し残念ではあった。御雷の見立てでは、西本はクロだ。必ず切除せねばならぬ。とはいえ、用心棒の爺さんとやり合うことは避けたい。
 カラスの証言は、御雷にとってにわかには信じられない情報を含んでいた。だが、それがもし事実だとしたら。
 実に、厄介なことになる。
「ありそうな話だけに、面倒なんだよな…。」
 ステアリングを操作しながら、ついぼやいてしまう。
 この時の御雷は、あまりにも油断していた。
 郊外型のコンビニの駐車場は、広い。店の明かりからなるべく離して、駐車ロットにスープラを突っ込んだ。
 黒いボディは、少し離れると単に低くて長い、黒色の塊としか認識できない。黒ずくめの御雷自身、闇に紛れている。顔だけが仄白い。
 施錠を確認して、数歩歩いた時である。
「御雷先生。」
 聞き慣れた声で呼びかけられて、御雷はぎょっとした。
 スープラの数台向こうに、白い小型車が停まっている。女が二人、立っていた。御雷からは店の照明で逆光になる。が、視覚を調整することで視ることができた。
 菊池先生と、田中先生じゃありませんか。
 反射的に口を突きそうになる言葉を必死で飲み込んだ。
 動揺を顔に出さないように努めて、明かりの中に姿を晒した。
 菊池が驚くのがわかった。
「あれ…?女の人?」
 御雷は大胆にしらを切ることにした。
「私のこと?」
 女の声で応えたのである。
「あの…すみません。てっきり知り合いかと思ったもので。失礼しました。」
 田中も一緒になって頭を下げる。
「すみません。この子の早とちりでした。人違いです。ごめんなさい。」
 潔い謝り方だ…が、確かめておかねばならないことがある。
「別にいいけど。それより、私の何処がお友達に似ていたのか興味があるわね。」
 菊池は、もじもじしていたが、思い切って言った。
「眼です。」
「眼?そんなに特徴があるかしら。」
「さっきは暗かったので、眼しか見えなかったんです。それがあんまり知り合いに似ていたから、つい。」
「知り合いって、女の人?」
「いえ…その、男の人です。」
 御雷は苦笑してみせた。
「男でも女でも、部品だけで見れば、よく似ている人っているものよ。」
「はい。気を付けます。」
「私は気にしてないわ。それより、こんな時間に若い子が出歩いているのは危ないわよ。用事が済んだら帰った方がいいわね。」
 それじゃあ、また。
 それだけ言うと御雷は店舗に向かった。背後で菊池と田中が話しているのが聞こえた。
「御雷先生と同じ眼だったから、絶対間違いないと思ったんだけどなぁ」
「菊ちゃんはさ、御雷先生のことを意識しすぎなのよ。もう誰でもあの人に見えるレベルでやられちゃってるか。」
「まだ、やられてません。」
 菊池の顔が赤い。田中が例によって面白がる。
「おい、菊池ィ。私が言ってるのは肉体関係のことじゃない。」
 顔から火を噴きそうなほど赤面した後輩の背中を軽く叩いてやった。
「悪い悪い。ただの冗談だから。それにしても…」
「ええ。それにしても…」
 二人は店内で買い物をしている御雷に視線を走らせた。言葉を発したのは同時だった。
「あんなに綺麗なひとが、いるなんて。」
 御雷が遅い夕食兼夜食の袋を提げて出てきたときには、菊池の車はもう無かった。週末なら稽古の後の飯の準備かも知れないが、今日は単純に田中が遊びに来ていたのだろう。
 そういえば、菊池の家からこのコンビニまでは近い。便利がよいからしばしば利用していたが、その習慣を考え直すべきかも知れない。
 スープラに戻った御雷は、まだ心臓の鼓動を抑えかねていた。
 車を出す。
 誤魔化せたとは思うが、素顔をしっかりと見られてしまった。
 鈍いと思って油断していたが、菊池の観察力は侮れない。
 眼か。
 顔の肉付きは変えられても、眼だけは変えられない。眼の位置は骨格に由来するからだ。成形手術をしたとしても、そこは変えられない。だからこそ、顔認証システムは判断要素の一つに両眼の位置を取り込んでいるのである。
 今でも、菊池の声に心臓を鷲づかみにされたような、ゾッとする感覚が残っていた。
 こんな日は、練習しても逆に調子を落とすだけだ。
 御雷は狙撃練習を諦めて、石上邸に戻り、残りの千五百のパケを仕上げた。
 深夜になってしまったが、昨夜よりはしっかり眠れそうだ。

      12
 自分は臆病で小心者だ、という自覚が御雷にはある。
 だから用意周到に準備をし、日々の鍛錬も欠かさない。そうしないと、自分の中の「こわい」という感情に押し潰されそうになる。
 俺のことを「強い」と評してくれる奴は多いが、とんだ買い被りだ。敢えて言えば、臆病だからこそ負けないように闘う。負けないからこそ、強い。逆説的にいえば、そういうことになるか…。
 いや、少し違う。
 御雷は思い直す。
 負けないだけでは不十分だ。臆病だからこそ、勝つ。勝った奴が、強い。
 これも、十分ではないような気がした。
 思考を中断する。
 心底、田中のシンプルな頭の中が羨ましくなる。ただ、強くなりたい。彼女なら、多分「死ぬことより負けることの方が、怖い」ぐらいのセリフは吐けるのではなかろうか。
 ともかく。
 用意周到を宗とし、常に状況をコントロールしながら仕事を進めるのを好む御雷にとって、稲見中での仕事はイレギュラーが多すぎた。
 どこでボタンを掛け違えたものか…と記憶を辿ると、文部省から横槍が入ったあたりから雲行きが怪しくなったような気がする。菊池の副担任になってからだ。
 それを言えば、そもそも初日に菊池と出会ったときに、破綻の兆しがあったような気もする。
 要するに、俺にとっては菊池と絡んでしまったのが不運ということか。
 凜とした美貌を隠すことがなくなった彼女を横目で見ながら、苦笑することが最近は多い。
 全く、俺にとっては疫病神のような女だ。死に神が疫病神に取り憑かれるとは、ねぇ。
 御雷の疫病神は、相変わらずジャージ姿が多い。身体の線が出るスーツ類はまだ苦手なままだ。
 徐々に慣れれば、いい。いずれもう少しまともな職場に転勤すれば、良縁にも恵まれるだろう。
 それでいい、と思う。
 イレギュラーを正し、本来の進行予定に戻さねばならない。強くそう思った。
 その矢先、早くも新たな事件が起こった。
 対教師暴力。
 簡単に言えば、生徒が教師を殴ったのである。
 加害者は馬越良太。被害者は守矢洋子であった。
 二時間目後の休み時間、咥え煙草で歩いているところを守矢に注意されて激高し、守矢に同行していた男性教諭が止める間もなく、顔面に拳が入った。
 二年五組の二時間目の授業は、担任である菊池の社会科であった。いつものように御雷がフォロー要員として同室している。が、授業自体は順調で、西本も馬越もおとなしいものだった。
 授業終了の挨拶の後、馬越が一人教室を出て行くのは御雷も気が付いていた。
 煙草か。
 重度のニコチン中毒者になると、長くても一時間おきにニコチンの補充をせねば苦しくてたまらないという。どうしても禁煙できない教師がそう話しているのを聞いたことがあった。禁煙するくらいなら、最初から吸わねばよいのに、と御雷は軽蔑する。
 馬越の場合は…薬か。
 御雷の判定では、馬越はクロだ。麻薬の供給源になっているこの男は、死なねばならない。
 ただし、もう少しだけ役に立ってもらってからだ。
 そう考えているから、御雷は今も彼を生かしているだけのことだ。
 菊池と他愛もない会話を交わしながら階段を下り、第一教棟に向かう途中に、人だかりができていた。
 馬越を制止する声。守矢を気遣う声。管理職への連絡を促す声。生徒に教室に戻るように指示する声。
 殆ど怒号に近い声が飛び交う中、瞬時に御雷は状況を理解した。
「馬越が守矢先生を殴ったみたいです。行きましょう。」
 瞬時に青ざめた菊池の手を引いて、人垣を分ける。野次馬の生徒たちは渋々という感じで教室に戻っていく。
 三年生の教室の前であった。
 授業を終えて教室から出てきた守矢と鉢合わせしたのであろう。彼女は三年団の所属だ。
 守矢一流の、毒のある言葉が馬越を刺激したものか。いや、奴に守矢の皮肉を理解できるだけの頭は無いだろう。
 そんなことはどうでもいい。
 フレームがひしゃげ、レンズが砕けた眼鏡が最初に眼に入った。
 守矢は閉じた瞼を押さえている。左目の目頭から血が流れ出していた。養護教諭が駆けつけて状態を確認している。同行していた男性教諭はおろおろと立ち尽くすばかりだ。
 この、無能め。
 その時、田中が現れた。足音はしなかった。文字通り、忽然と現れたように見えた。
 やっぱり、やればできるんじゃないか。食えない女だ。
 何を興奮しているのか、馬越はなおも守矢を殴ろうとした。男性教諭が制止しようとしてまともに殴られた。
 ごっ。
 鈍い音がして、昏倒する。
 こいつ―――柔道部だが、空手か何かやっている。そういう突きだ。
 ごりっ。
 御雷の肉の中で、何かが軋みをあげる気配がある。
 その突きで、守矢を――素人の女の、顔を殴ったのか。
 御雷は、自分が正義漢だとは思っていない。ただ、ユーモアと互いを思う気持ちに満ちている三人組を好ましく感じているだけだ。
 田中の目が据わっていた。
 待て。お前が本気を出したら、馬越は死ぬ。
 御雷にも怒りはあるが、他人が怒っているのを見ると、却って意識が醒める性分であった。
 馬越に死を与えるのは田中の仕事ではない。ここで奴を殴り殺しでもしたら、稲見中は貴重な人材を失うことになる。それは避けねばならない事態であった。
 そう思ったときはもう身体が動いていた。
 田中にすら、御雷がどうやってその位置に入り込んだのか見えなかった。
 彼は、守矢を守るように馬越の前に立ったのである。
「馬越。女性の顔を殴るのはよくないな。」
 いつもの笑みはなかった。冷たく、無表情な御雷が、そこにいた。
「うるせえ。ちょうどいい、俺はお前のことが嫌いなんだよ。」
 唾を飛ばして馬越が喚く。
 御雷が唇の右端を吊り上げて、笑った。
「奇遇だな。俺も、猿は嫌いだ。」
 怪鳥(けちょう)の叫びを上げて、馬越は御雷に拳を打ち込んだ。何発も、何発も。
 そのことごとくを、御雷は軽く握った拳で弾き、逸らし、あるいは硬い肘で受ける。ダメージは、ない。
「御雷先生。」
 菊池の呼びかけに、片目を瞑って応える。
「護身術程度なら心得ていると言ったでしょう。早く救急車を呼んであげてください。眼の怪我はまずい。それに警察も。守矢先生は職員室へ。早くしてください。」
 一息に指示を出してしまうと、数名の教員が動いた。
 複数の足音が入り乱れる中、御雷は特殊な発声を使った。声の指向性を高め、聞かせたい相手だけに言葉を届かせる。乱戦になったときに味方と連携を取る技術。御雷の技の中でも数少ない連携のための技術だ。
『馬越。』
 殆ど耳元で囁くように聞こえた声に、馬越は身を固くした。
 御雷と目が合った。笑っている。唇が、赤い。不思議な、淡い笑みがそこにあった。
 御雷の唇が動いた。
『そんな技じゃ、人は殺せない。お前には人を殺すだけの度胸もないんだろうだけどな。』
 単純な挑発だが、単純な男には十分以上に有効であった。
「ああ、殺してやるよ。お前を叩き殺してやるさ。」
『その程度の腕でか?話にならない―――無理だね。』
 田中はその場に残っていた教員の一人だった。御雷がやられた場合は、自分が馬越を叩きのめすつもりである。殺さないように手加減しなければならない…と考えていたのだが、どうも様子がおかしい。
 二人が会話を交わしているようでもあるのだが、御雷の言葉は聞こえなかった。馬越が一方的に興奮し、言葉が物騒になっていく。
 馬越の中で殺気が凝るのがわかった。もう空手の構えを隠そうともしない。腰の入った万全の体勢から放たれた拳や蹴りは、当たり所が悪ければ命に関わるかもしれない。
 田中の見立てでは、馬越は軽く黒帯の実力がある。筋力では南方に敵わないためなのか、喧嘩用に打撃を鍛えたのかもしれない。一対多の乱戦で、悠長に寝技をやっている余裕などは無い。
 御雷の捌き方には感心した。最小限の動きで、相手の攻撃のベクトルを変化させてダメージを受けずに済ませている。護身の技としての完成度は高い。
 だが。
 まともに喰らって同じ事ができるだろうか。
 少し胸を躍らせている自分に、「親友が怪我をさせられたというのに不謹慎だろうか」、と問いかけてみる。
 不謹慎でもいい、と結論した。御雷の実力の片鱗でも見ておきたかった。
 先に動いたのは馬越だった。
 当然ではあった。御雷は護身―――相手の攻撃に対して身を守ることが主なのだから。
 左の拳を、右肩を引いて避けた―――それは突きではなかった。空を切った拳が、引き戻される途中で、御雷の左手首を掴んだのである。
 なるほど、まずは御雷を捕まえて、逃げられないようにしてから顔面なりを殴ろうというのか。
 田中は馬越の意図を理解する。えげつないが、喧嘩のやり方としては間違っていない。
 御雷は馬越の手を振りほどこうとするが、外れない。
 馬越は歯を剥き出して笑った。
「お前みたいなデブに外せるかよ。」
 左手で御雷を引き寄せながら、右の拳を振りかぶった。顔面をまともに打ち抜くつもりだ。筋肉の張りから、その後に左の回し蹴りを入れるつもりだとわかる。
 あっ…と田中は声を上げそうになる。御雷の、立ち位置が。
 馬越を振りほどこうとしている間に、僅かだが移動している。
 御雷の真後ろに、校舎の重要な構造物である太いコンクリート製の柱があった。
「死ねや、糞が!」
 御雷が死んでもいいと、本気で思っていた。だから、渾身の力を込めた拳を、突きだしたのだ。
 しかし。そこに御雷の顔はなかった。馬越は、御雷の黒曜石のような瞳が息がかかるような近さで自分を見詰め、少し笑うのを見た。そのまま身体の右側を擦り抜けていくのを悪夢のように見送る。
 一度命令を受けた肉体は、すぐには止められない。
 馬越の右拳はコンクリート柱に激突した。容赦ない殺意は、凄まじい破壊力となって全て自らに返ってくる。拳の骨は簡単に砕けた。拳に留まらず、手首近くまで潰れたようになる。折れた骨が皮膚を突き破った。太い血管を傷付けたものか夥しい量の血液を噴き上げた。
 痛みはまだ脳まで達していない。
 続く回し蹴りも止められない。背後に御雷の気配を感じた。彼は馬越と背中合わせに立っている。その左肩が異様に伸びているのを馬越は知らない。
 御雷の声が聞こえたような気がした。
『そんな技じゃ、俺を殺すことはできないよ。』
 とん、と御雷の尻が馬越の尻を押した。
 勢いを増した回し蹴りはこれでもかというほどにコンクリート柱を蹴り込んだ。ぱっくりと傷口が開き、そこを中心に関節ではないところが折れ曲がる。再び大量の出血。見事な開放骨折であった。
 痛みより、自分の身体から流れ出す赤黒い液体の多さが、馬越の恐怖のスイッチを入れた。絶叫する。絶叫が、今度は痛みのスイッチを入れた。
 血の海でのたうつ馬越を背に、御雷は立っていた。返り血一つ浴びてはいない。
「救急車をもう一台お願いします。だれか、馬越の止血を。」
 田中と、保健体育科の男性教諭がタオルを持ってきて圧迫止血を試みる。
 田中の全身が粟立っていた。
 何だ、今の御雷の動きは。身体を拘束された状態で、あの至近距離からの打撃を躱して見せたのである。しかも―――。
 田中は御雷が払った代償に気付いた。
「御雷先生、その左肩。」
 ああ、と痛そうに顔をしかめる。危うく痛みの演技を忘れるところだった。
「ええ、脱臼してます。馬越の力が予想外に強くて。無理に避けたら、この有り様です。ぼくも病院で診てもらいますよ。」
 救急車が立て続けに二台到着し、守矢には三年の学年主任が、馬越の方には養護教諭が同乗して病院に向かう。教頭が馬越の保護者に連絡を取り、矢沢と菊池を伴って馬越の搬送先の病院へと出て行った。担任は菊池だが、重傷なのがわかりきっているだけに最初から管理職が前面に立つつもりだ。
 小泉も、なかなか腹が据わっている。
 御雷は感心した。が、ともかく自分の左肩を何とかせねばならない。
 自分で外した関節を、自分で入れるのは容易い。しかし、周囲の目がある中でその行為はまずい。
 ふと気が付くと、誰もが御雷が怪我をしていることを忘れていた。他の二人の怪我の深刻度が高いためだとはいえ、寂しいものだ。御雷は小さく苦笑いをする。
 それだけ、緊迫した状況だったということだろう。
 仕方ない。タクシーでも呼んで、一応は病院へ行くか。
「御雷先生。」
 背後から呼びかけられて、さすがにぎょっとした。本当に存在に気付かなかったのだ。
「田中先生、どうしたんですか。」
「みんな、御雷先生のことを忘れてるから。私でよかったら、その肩を入れてあげましょうか。」
 遠慮します、と即答した。田中には触られたくない。筋肉の感触一つでどんな情報を掴まれるかわからないのだ。
「どうして。私は、こう見えても上手いんですけど。」
「いやぁ…ぼくは痛いのは苦手で。こうしていても冷や汗が――ぼくは汗をかきませんけど、それぐらい痛いんです。田中先生は手加減してはくれないでしょう?」
 笑みを殺して苦痛を装う。
 田中は折れた。
「じゃあ、知り合いの接骨院に連れて行きます。格闘技をやってる連中の間では結構知られているから、下手ではないと思います。」
 この辺りが妥協のしどころか。あまり拒んでも怪しまれる。
 結局、校長の助言もあり、近場の整形外科に行くことになった。診断書を書いてもらうには医師に診てもらうことが必要だからだ。
 車は田中が出した。他のベテラン勢は浮き足だった生徒たちをまとめる任に就いている。担任とはいえ、動きやすいのは田中である。
 行きの車中で、ぽつりと田中が言った。
「そういえば、私もよく練習したもんですよ。」
「何を、ですか。」
 怪訝そうに返す御雷の顔は痛みに歪んでいる――演技を続けている。
 田中は何気ない調子で言った。
「関節を、外す練習です。」
 その眼は、車の進行方向に向けられたままだ。でも、俺を見ているんだろう?お前は。
 御雷は顔をしかめた。
「こんな痛い思いをわざわざ繰り返すなんて、信じられませんね。一体どんな流派なんですか、あなたの家は。」
 たしかに、と田中は笑った。
「馬鹿みたいですよね、本当に。そんな、いつ使うかわからないような技術を、山のように学びました。」
 独り言のように呟く。
「あんな風に使うんですね…。やっとわかりました。」
「何のことです?」
 あくまでとぼけ通すつもりだ。
 出し抜けに、田中がにっと笑った。
「確かに、『護身術』ですよ。御雷先生は、身を守るのが上手です。」
 はあ、と中途半端な返事をして、溜め息をついた。
 やっぱり、田中に任せて自分は手を出すべきではなかったかもしれない。結局、馬越はあの怪我だ。自業自得なのは実に結構だが、俺のために働いてもらうわけにはいかない。これでは、俺の見られ損ではないか。今後は田中と今まで以上に距離を置かねばならない。
 下手に関わると、本気で決闘もどきに付き合わされそうだ。
 そんな面倒なことまで引き受けられるものか。
 うきうきとしてさえ見える田中の横顔に、少しだけ救いがあるのがわかった。
 親友に怪我を負わせた馬越が見事に自滅したことに、溜飲を下げているのだ。本心では、自分の手で叩きのめしたいところだったはずだ。
 少しだけ、現実に引き戻してやることにする。
「守矢先生は大丈夫でしょうか。」
 多分、と田中は応えた。声に動揺はない。御雷の見立てと同じことを述べた。
「眼鏡の壊れ方を見ると、正面から目を殴ったわけではないみたい。目頭をフレームで切ったんだと思います。レンズの破片も入っていないだろうし、眼球に大きなダメージは無いのではないかと。」
 今日はコンタクトレンズでなくてよかった。守矢は花粉症であることに感謝せねばならない。
 それよりも、と思案顔になる。
「精神的なダメージが心配かな…。あいつ、毒舌家のくせにナイーブなところがあるし。」
 ええ、と御雷は同調する。
「相手に対する愛がないと、あんな感じで言葉が出てくることはありません。基本的に気遣いの人なんでしょう。」
 へえ、と田中が驚いた顔をする。
「結構しっかり見てるんですね。もっと、何というか、朴念仁なのかと思っていました。」
「心外ですね。新しい職場に就いたら、同僚の女性をチェックするのは基本です。」
 すました顔で応えた。
「で、うちの女性陣はどうです?私も含めて。」
「ぼくの手には余りますね。みなさん、個性が強い。」
「相変わらず物言いがストレートですねえ。」
 程なく病院に着いた。事前に連絡を入れてあるので、すぐに診てもらえた。
 検査後にあっさりと肩関節を嵌めてもらった御雷は、左腕を三角巾で吊っている。今夜あたりは腫れと発熱があるだろうとの見立てである。
 書類の作成には思いの外時間が掛かった。
 診断書には、怪我の程度と、それが起こるに至る原因が所見として書かれている。曰く、御雷の手首を掴む力が非常に強かったことが、脱臼の大きな要因であろう。馬越は絶対に逃がさないという強固な意志を、御雷を捕まえた手に込めたのである。
 勿論、馬越をそのように誘導したのは御雷自身である。振りほどこうとする動きに馬越が対応してくるのはわかっていた。だから、十分な力で掴まれたのを確認した瞬間に、相手の力を利用して肩を外したのである。外力なしで関節を外すことなど不可能だ。無論、御雷は痛みなど微塵も感じない。それ故に、必要以上のダメージを筋肉や腱に残さないように、冷静に状況を観察することができる。
 それは御雷のみが知る奇妙な感覚であった。痛みのない世界に生きることには、何十年経っても慣れることができなかった。
「今日は、ぼくが早退しても非難されたりはしないですよね。」
 帰路で、御雷は言ってみた。
「いいんじゃないですか。少なくとも、今日一日は安静にしていた方がいいでしょうね。第一、片腕じゃ菊ちゃんを守るどころじゃないでしょ。」
「そういえば、馬越のところは、親も相当なモノらしいですね。」
 田中が盛大に溜め息を吐く。
「道理も何もあったもんじゃないって聞きますけど。何でもかんでも『学校が悪い』というタイプの人たちですよ。」
 今日でいうところの「モンスターペアレント」の類いは昔からいる。インターネット等で情報が共有されることがなかった時代には、「地域の変わり者」「異常に面倒臭い保護者」で済まされていただけのことだ。
 御雷は我知らず呟きを漏らす。
「菊池先生が大変なことになっていなければいいんですけどね。」

      13
 菊池は、大変なことになっていた。
 正確には、校長室が、である。
 病院で息子の状態を確認した馬越の両親は、激怒した。
 教頭の説明にも耳を貸そうとしない。最初に守矢を殴ったことの非も認めない。
 最後は「校長を出せ」と学校に乗り込んできたのである。
 こういう親が少なくないから尾内はいつも出張に逃げているのだが、さすがに今回はそうもいかなかった。
 状況説明を繰り返す管理職と、聞く耳を持たず「責任を取れ」の一点張りの親との間に挟まれた菊池の顔色は悪い。この状況では隣に座る矢沢にもフォローすることができない。
 御雷と田中が帰校したのは、まさに堂々巡りの話し合い―――全く噛み合っていないのだが―――の最中であった。既に正午が近い。
 職員室に入る前から、馬越の父親の怒声が聞こえてくる。
「これは、すぐに帰るというわけにもいかないようですね。」
「あの馬鹿親。似た者夫婦って奴なんです。殴ってやろうかしら。」
 御雷は肩を竦めた。
「あなたが本気を出すような場面じゃないでしょう。あの人達が用があるとしたら、ぼくにでしょうね。」
 二人を教務の伊賀が迎えた。騒がしくて済まんね、と声を潜めて詫びる。会議中とは口調が違うのは、今は役職でものを言っているわけではないからだ。
「守矢先生は、目の方は大したことはないそうだよ。診断書も、頭部打撲で出してもらったらしい。ただ、精神的なショックが大きくてねえ…。」
 田中が頷く。二、三日は休んだ方がいいかもしれない。
「で、洋子はもう帰ったんですか。」
「うん。今井先生と二人で家まで送った。」
 伊賀は三年生の学年主任の名を挙げた。一度学校に寄って荷物を取り、そのまま自宅へ送られていったのである。しばらくは殴られた側の目は開けられない。車の運転は無理だ。守矢の車を自宅まで運び、再び学校に戻ってくるためには人手が二人必要だった。
 馬越の親が来る前に帰ったのは正解だった、と溜め息にも似た笑い方をする。
 三角巾で吊られた御雷の腕に目を留め、伊賀は言った。
「御雷先生も災難だったね。菊池先生も、初担任になって早々に気の毒なことだよ。」
「ごねてるんですか。」
「いつものことだよ。散々罵倒しておいて、その後市教委にでも行くんだろう。馬越も重傷だからね、市を相手取って金をむしり取るつもりなんだろう。学校でごねてるのは、行きがけの駄賃みたいなものだよ。多少なりとも金が出れば、ラッキー…くらいに思っているんだろうな。」
 伊賀は侮蔑の表情を浮かべているが、御雷は知っている。時に、保護者の剣幕に負けて、理不尽な念書を書いてしまったり、個人的に見舞金を出してしまったりする管理職がいることを。
 前例主義を軽蔑する御雷ではあるが、悪しき前例はやはり作ってほしくないと考えている。
 伊賀が耳打ちした。
「御雷先生は、あいつらには会わない方がいい。直接関わった相手には、あいつらも言いたいことが山ほどあるだろうから。」
 保護者を「あいつら」呼ばわりするとは、普段の伊賀からは考えられない。
 ふうん、と御雷は唸った。そして、伊賀が目を剥くようなことを言い出した。
「それって…逆に言えば、ぼくが校長室に行けば話が終わるってことですよね。」
 管理職から自分を校長室に入れるなと命じられているか、確認する。
「いや、特に何も言われていないけど…。本当に会うつもりなのか。」
 御雷は片目を瞑って笑った。
「ぼくは、万年講師ですからね。他の先生方とは少しばかり違うんですよ。失うものもあまりないですから。」
 田中に目を向ける。
「じゃあ、終わらせてきます。拳を使わずにね。」
 田中は、派手に溜め息をついた。
「もう、少々のことじゃ驚きませんけどね。一つだけ訊いていいですか。」
「ええ、答えられることなら。」
 田中の目は笑っていなかった。
「何故、わざわざ苦しい道を選ぶんですか。」
 御雷は、田中の質問の深さを掴みかねた。深読みすれば、己の魂に近いところまで踏み込まれそうだ。
 だから、問いを限定的に解釈することにする。
「今からやろうとすることに関して言えば、そうですねえ…強いて言うなら、約束したから、ですかね。」
 何を、と問う田中に、「うっかり引き受けてしまったもので」と苦笑してみせた。
「菊池先生に、『守ってくれるか』と訊かれて、つい守ってやると言っちゃったんですよ。」
 いやあ、迂闊でした、と頭を掻く。笑顔を引っ込めた。
「ですが、約束は守らなくてはなりません。校長室で菊池先生はとても困っているはずです。」
 自分の机の引き出しを開け、小さな機械を取り出してポケットに落とし込んだ。
 一切の躊躇なく、校長室のドアをノックする。続いていた罵声が途切れる。そのタイミングでドアを開けた。
「御雷です。今、戻りました。」
 さっさと入り込んでドアを閉めてしまう。
 鮮やかとさえいえる身のこなしに、伊賀と田中は開いた口が塞がらない。

「お前が、良太に怪我をさせた張本人か。」
 言葉を発する前から、馬越の父親だというのはすぐわかった。見事な馬面だ。身体は大きい。よく鍛えられているのは職業柄だろう。
 まったく、よく似た親子だ。奇妙な感慨は、女の金切り声でかき消された。
「ちょっと、何とか言いなさいよ。あんな酷い怪我をさせておいて、何も言うことはないの。」
 ああ、こいつが母親か。考え無しなところが、やっぱり親子だ。似た者夫婦でも、ある。
「そんなに大きな声を出さなくても、十分聞こえていますよ。」
 御雷は不貞不貞しく笑った。
 思いがけない反応に、馬越夫妻が呆気にとられている。それは、校長や教頭も同じだ。
 尾内の目が必死で訴えていた。ここは、穏便に―――。
 糞食らえだ。
「校長先生、かまいませんね。」
 返答がない。御雷は声の調子を変えた。
「私は質問しているんですよ、校長先生。」
 尾内は剃刀を首筋に当てられたような気分になる。
 御雷はこう言っているのだ。「自分は、本来この場で校長の許可をもらう必要などない。そのことを忘れるな」と。
 文部省から直接派遣されてきた御雷は、校長の命令に縛られない。
「どうぞ、御雷先生。好きになさってください。」
 そう言って自分の席を譲る校長に、小泉は目を剥いた。
 御雷は馬越夫妻の正面にどっかりと腰を下ろした。
「まず、矢沢先生と菊池先生は席を外してください。」
「てめえ、何を勝手なことを抜かして――。」
「黙りなさい。」
 馬越の父親を制した御雷の言葉は、簡潔だが鞭の鋭さを持っていた。保護者の怒りを平然と無視する態度が、他の教員とは違う。思わず黙ってしまう。
「矢沢先生も菊池先生も、良太君の関係者ではありますが、今回の件で直接関わりがあるのは私だけです。無関係な人間が大勢いても、話が進まない。違いますか?」
 ここでごねれば相手が困ることを夫妻は経験から学んでいる。
「だから、普段からあんたたちのやり方がまずいから、こんなことになったんじゃないかって言ってんのよ。逃げないで。」
 御雷は無表情に母親を見た。瞬きもせずに眼を見詰めて口を開く。道端の石ころを見るような視線だ。
「あなたは、何をしに来たんですか。普段のことなら、普段話しに来てください。大事(おおごと)になってから騒ぐのは愚か者のすることです。私はね、お母さん。あなたの息子が、『今日』やったことについて話したいんですよ。いくつものことを同時に話すことはできません。論点を絞ってください。」
「怪我のことに決まってるだろうが。馬鹿か。てめえは。」
 ふん、と御雷は鼻で笑う。
「安心しましたよ。息子が大怪我をしたというのに、普段の指導がどうのと的外れなことを言う保護者じゃなくて、本当によかった。」
 夫婦は怒りの余り声も出ない。真っ青になっているのは怒りが大きいためだ。
 言葉を発することができない間に、御雷は矢沢と菊池を退席させてしまう。
「それじゃあ、改めて始めましょうか。」
 御雷は不敵に笑った。両手を上着のポケットに突っ込む。右のポケットからボイスレコーダーを出して、テーブルに置く。録音スイッチを押した。
「言った、言わないの水掛け論は真っ平です。会話は全て録音させてもらってかまいませんね?もし記録に残せないような話をしたいのなら、あなた方と話し合うつもりはありません。どうぞお引き取りください。…さて、いかがです?」
 渋々、といった様子で夫婦は録音に同意した。
「これで、この記録は許可を取って録音したものということになります。裁判の際にも証拠として有効ですので、ご承知の上発言してください。」
 無言で頷くしかない。
「では、教頭先生、申し訳ありませんが、事実関係をもう一度整理して頂けますか。」
 それはもう聞いた、と父親が抗議しかけるのを、
「記録に残すためです。あなた方もきちんと聞いて正確に理解してください。」
と棘のある言葉で制する。その表情はあくまでにこやかだ。
 教頭は、初めて罵声の妨害なく状況の説明をすることができた。
 今日の事件に限っていえば、構造は極めて単純だ。
 ①馬越が喫煙しながら校内を歩いていた。
 ②授業を終えた守矢がそれを目撃し、指導した。
 ③指導に対して激高した馬越が、守矢を殴打。その結果守矢は怪我を負い、助けに入った男性教諭も殴られた。こちらは軽い打撲で済んだ。
 ④なおも守矢を殴打しようとしたところに御雷が助けに入り、邪魔をされた馬越がさらに激高。
 ⑤御雷に顔面への突きと回し蹴りを見舞うも、どちらも避けられる。結果的に校舎のコンクリートを殴ることになり右手を負傷。同じく左脚も負傷した。避ける際に御雷は左肩を脱臼させられた。
「以上が事実ですね。何か仰いたいことがあれば、伺いましょうか。」
 御雷は足を組んだ。ソファの背もたれに体重を預けて夫妻を眺める。
 二十代半ばか、せいぜい三十歳前の若造が、この場で誰よりも尊大に振る舞っていることに、馬越夫妻は驚きを隠せない。
 それは教頭も同じだ。咎めねばならない―――が、咎めるべき点などない、と気付いた。それよりも理不尽に対して御雷がどう対処するのか興味が湧いた。
「コーヒーをいただけますか。」
 誰にともなく御雷は呟いた。
「こっちは脱臼させられたところが痛むんだ。コーヒーの一杯くらい飲みながら話を聞いても罰は当たらないでしょう。」
 不意に校長を睨め付けた。
「お茶汲みに使って申し訳ありませんがね―――たまには働いたらどうですか。」
 弾かれたように校長が給湯室に向かう。御雷に出されたコーヒーは、来客用のカップに入れられていた。かちゃかちゃとうるさいのは、校長の手が小刻みに震えているためだ。
 何なんだ、この若造は。
 馬越夫妻と教頭の、共通の思いである。
「事実関係について、間違っているところはありませんかね。」
 御雷は微笑みながら問うた。その福々しい笑みが、何故か怖い。
 苦虫を噛み潰したような顔で父親が答えた。
「ああ。流れは合っている…らしい。良太もそう言ってたよ。」
「そうですか。複数の生徒からも目撃情報を採っていますが、こちらも先程御説明した内容と矛盾するものは無いそうです。」
 御雷は笑みを深めた。
「これで、本題に入れます。」
 父親が身を乗り出した。
「そうよ。俺達が言いたいのはそのことだ。息子の怪我の責任をどう取ってくれるんだって話だよ。」
 御雷の笑みの質が、変わる。眼が半眼になり、唇の両端が吊り上がった。
 へえ、と声に出して驚いてみせる。
「なるほど、第一声がそれですか。お宅の息子さんが怪我をさせた相手に労りも謝罪もなく、ね。これは、驚きだ。」
 ボイスレコーダーに記録するために、要点をまとめながら相手の発言を引き出すのだ。
「大体、殴られた先生の注意の仕方が悪かったんじゃないんですか?だからイライラして――。」
 黒曜石のような瞳が底光りするのを見て、母親は口をつぐんだ。
「つまり。」
 声は穏やかだが、鋼の響きがある。
「あなたは、教師の注意の仕方が悪かったから、殴ったことには問題がない、と仰るんですね。」
 母親は失言に気付いた。録音されていることを思い出す。
「そんなことは言っていません。」
 もう、遅い。御雷の唇に悪魔のような笑みが浮かんだ。
「でも、あなたは―――あなた方は、そう思っている。『教師のやり方が気に入らなければ、殴っても問題ない』と思っていますね。」
「思ってねえって言ってるだろ。」
 たまらず父親が声を上げた。半眼の眼差しが馬面を映す。
「では、お尋ねしますが。ならば、何故最初に守矢先生に対する謝罪の言葉が出てこないんですか?それどころか、守矢先生を非難するようなことまで言ってしまうのは、どうしてですか?―――理由は簡単です。」
 初めて、御雷は眼に感情を映して二人に見せてやる。
「あなた方は、これっぽっちも自分たちが悪いなんて思っちゃいないんですよ。」
 言葉こそ静かだが。睨み上げる視線の鋭さに、夫妻は心臓を掴まれたような気分になる。
 だが、父親にも薄っぺらいが矜恃はあった。舐められてはならない。チンピラなりに譲れない線というものがあった。
 空気が足りない。妻は完全に御雷に呑まれている。
 ぱくぱくと口を開け、息を継いで言った。
「良太があんなことになったんだぞ。なんで被害者の側が反省しなくちゃいけないんだ。」
 また、引っ掛かった。これだから馬鹿は扱いやすい。
 御雷の唇には謎めいた笑みが浮かんだままだ。声は、冷たかった。
「勘違いなさってもらっては、困る。良太君は被害者などではありません。」
 刃の鋭さを以て、断じた。
「加害者です。」
「何だと!」
 父親が立ち上がる。テーブル越しに御雷の胸倉を掴んだ。教頭が制止しようとした。
「手を出すな。」
 小泉の手が、止まる。御雷の声は反論を許さない。
「失礼。私は馬越さんと話がしたいので、見るだけにして頂けませんか。」
 父親に視線を転じた。
「お待たせしました。で、どうしたいんですか?ああ、私を殴りたいのですね。」
 刃を思わせる光が、御雷の黒瞳に閃いた。唇から出た言葉は、あくまで酷薄だ。
「そして――親子揃って傷害罪に問われたい、というわけだ。」
 事もなげに、とんでもないことを口にする。だが、それが現実だ。
 父親の動きが、止まった。
「どうしたんですか。他人の胸倉を掴んで、次にどうしたいんですか。」
 御雷はボイスレコーダーに対して状況を吹き込んでいる。そのことにも馬越夫妻は気が付いた。
「私はせっかちなんですよ。早く決めてください。」
 笑ったような目の底で、黒曜石のような瞳が無感動に相手を映している。
 こいつ―――他の教員とはどこか違う。異質すぎて、どこが違うのか指摘することもできないほどに、違う。
 父親は、手を離した。
「やれやれ。息が止まるかと思いましたよ。」
 顔色も変えずに御雷は言う。実際、鍛えていない者であれば絞め落とされるほどの力であった。
「で?私に対して何か言うことはないんですか。」
 咄嗟に言葉が出ない夫妻に御雷が見せたのは、とびきりの笑顔であった。それも、この上なく邪悪な。
 見せたのは、一瞬だけ。管理職は気付かない。
「大の大人が、自分の息子が怪我をさせた相手の胸倉を掴んだ上に、頸まで絞めたんだ。言うべき言葉があるでしょう?」
 ちっぽけなチンピラのプライドなど、粉々にしてやる。二度と俺に逆らおうなどという気を起こさぬほどに。
 悪かった、と父親は口の中で言った。母親は御雷が一瞬見せた顔に震え上がっている。
「聞こえませんねえ。もっとはっきり言ってもらわないと謝罪にはなりませんよ。」
「済まなかった。」
 父親は頭を下げた。謝罪の言葉に歯ぎしり音が混じる。
「わかりました。私に暴力を振るったことに対しては許して差し上げましょう。実害もなかったことですし。あなたの身体が見かけ倒しで助かりましたよ。」
 涼しい顔で、慇懃無礼に言ってのける。
 嘘だろ、と父親は耳を疑った。腕っ節には自信がある。
 怖くなってきた。
「それで、何の話でしたっけ?ああ、良太君の怪我の件でしたね。」
 天気の話でもするような口調に、たまらず叫んでいた。
「あんた、それでも教師か!良太のことが可哀想だとは思わないのか。」
 火を噴くような視線を平然と受け止め、微笑みさえ浮かべる。
「教師か、というご質問には『どうやらそのようです』とお答えしましょう。教員免許状も本物ですよ。」
 大げさに肩を竦めてみせる。声以外は記録に残らない。
「良太君が可哀想だとは思わないのか、ということですが…。」
 御雷の言葉は切れ味の落ちない刃物だ。
「怪我をしたこと自体は、全く、これっぽっちも、小指の先ほどにすら、可哀想だとは思いませんね。」
 あまりに明快な返答に、夫妻は絶句する。
 教師であれば、表面上だけでも取り繕うものだ。当たり前の教師であれば。
 残念なことに御雷は数少ない例外であった。
「自分でコンクリートの柱を殴った。蹴った。怪我をするのは当たり前です。当然の結果に対して『可哀想』などと同情するのは、ただ滑稽なだけですよ。だから私は可哀想だとは思いません。」
 小さく溜め息をつく。
「ま、彼が感じている苦痛については、多少は同情しますがね。さぞ痛いことでしょう。ですが――。」
 御雷の生っ白い貌を、酷く野性味のある笑みが掠めた。
「所詮は自業自得です。」
 母親の顔が白くなる。驚きと怒りで心臓が止まりそうになっているのだ。父親の方はそれでも言い募るだけのタフさがあった。
「この人でなしが!良太の診断書を見ても同じ事が言えるのかよ。」
 投げつけるように書類を寄越した。
 目を通してみる。内容を口に出してまとめてみた。
「右手首から先は骨が粉々ですか。手術を繰り返しても完全な機能回復は難しい、と。脚の方も酷い。足を引きずって歩くようになるかもしれない。走ることは諦めた方がいい…なるほど。」
 御雷の「なるほど」を、夫妻は完全に誤解していた。馬越良太の怪我は相当に酷い。特に右手は原形を留めないほど潰れていた。脚の方も、成長期にこれだけの損傷を受けると後々問題が出てくるのは明らかだ。
 さすがの御雷も、同情を禁じ得ないだろう。そう思っていた。
 しかし。
「これほどの力を込めて、私を殴ろうとしていたわけですね、良太君は。」
 紙屑でも捨てるような気軽さで、診断書をテーブルに落とす。
「え?」
 すぐには理解できなかった。
 御雷が説明してやる。
「複数の生徒が、良太君の『死ね』という言葉を聞いています。この診断書を見れば、その証言が嘘でないことがわかります。―――私は、良太君が私に対して殺意を抱いていたことを確信しました。」
「ちょっと待て。何を――。」
 完全に、当初の目論見とは違う方向に話が転がり始めていることに、ようやく夫妻は気が付いた。
 御雷の唇に、淡い笑みが浮かんでいる。両眼が、眠っているのかと思うほどに細められている。その奥で黒い瞳が濡れたような光を湛えていた。
 懐から自分の診断書を出して見せてやる。怪我の程度と、それが起こるに至る原因が所見として書かれている。曰く、御雷の手首を掴む力が非常に強かったことが、脱臼の大きな要因であろう。馬越良太は絶対に逃がさないという強固な意志を、御雷を捕まえた手に込めたのである。
「もし、私が無理にでも避けなければ、私は死んでいたかも知れませんね。」
 拳のダメージだけではない。頭のすぐ後は硬いコンクリートの柱だったのだ。
「よかったじゃないですか。良太君は自分の怪我だけで済んで。それとも。」
 御雷は細めていた眼を見開いた。
「良太君が人殺しになった方がよかったというのですか?」
 深い穴のような瞳に、飲み込まれそうな感覚に、夫妻は目眩がする。すぐには答えられない。
 御雷の声が変わった。
「殺人者の親として生きていく覚悟があるのかと訊いているんですよ、私は。」
 答えなさい、と促す御雷の声は、不気味なほどに優しかった。
 震えは、夫妻の足下から這い上がってきた。教師など――税金で飯を食っている奴らなど、所詮は甘ちゃんばかりだと思っていた。暴力の匂いや恫喝で容易く屈服させることができると信じていた。
 だが、こいつは何だ。こいつに比べればヤクザの方がよっぽどマシだ。奴らは損得で動く。だからある意味とてもわかりやすい。
 だが、こいつはわからない。頭のどこかで、息子が死ななかっただけ儲けものだ、という声がしたような気がした。
 父親は譫言(うわごと)のように答えた。
「いや…、俺は良太があんたを…いや先生を殴らなくてよかったと、思っている。」
「守矢先生に対しては?」
「…詫びを入れる。」
 御雷は破顔した。邪気の無い笑顔が先程までと別人のようだ。
「それは、よかった。では、良太君の怪我に関しては、学校側は今後一切の抗議等は受け付けませんが、それでよろしいですね?」
 両親はがっくりと項垂れた。
「それで、いい。もう文句を言ったりはしない。」
 しかし。
 御雷にとってはここからが本題だ。
「ところで、一つだけ確認したいのですが。」
「何だ。まだあるのか。」
 夫妻の顔は、「もう帰りたい」と言っている。―――そう簡単に帰してやるものか。
 御雷は残酷な気分になっている自分に気付く。珍しいことだった。殺し方は凄惨であっても意識は醒めている…それが普段の自分なのに。稲見中での仕事は、イレギュラーだらけだ。俺自身も含めて。
 改めて笑みを浮かべ直すことで思考を切り替えた。
「単純なことです。今日、こうして学校まで来られた目的をはっきり伺っておきたいのですよ。」
 言葉に、詰まった。言うまでもない。憂さ晴らしと、多少なりともゼニにならないかという気があったのは事実だ。市立中学だから、本格的に金をふんだくる時は今原市が相手になるのはわかっている。が、取れそうな所からは全て取るつもりであった。
 恐喝になることは自覚している。相手が甘ちゃんだから、穏便に済ませようとするだろうという読みは、外れた。
 御雷がいたからだ。
 冷たい汗が両親の背中を流れた。あくまで笑顔を保ったままで、この得体の知れない教師は自分たちを「詰み」に追い込むつもりなのだ。何の躊躇も、そして容赦もなく。
「私はね、自分に対して悪意を抱いた人間を許すのが、とても苦手なんですよ。だから、正直に答えてください。」
 こういうとき、御雷は恐ろしいほどの猫撫で声になる。
「学校から金を取るつもりだったんですか?それとも、良太君が守矢先生や私に怪我をさせたことを詫びに―――あるいは見舞に来てくれたんですか?」
「そ、それは…お詫びに…。」
 母親はもう御雷と目を合わせることができない。
「つまらない嘘はおやめなさい。」
 御雷はぴしゃりと遮った。肉の付いた母親の肩が震えた。
「あなた方の言動が脅迫なのか、恐喝が狙いなのかなどというようなことは、録音を聞いてもらえば警察の方で判断してくれますよ。見苦しく言い逃れをしようとしても無駄です。」
 父親の頭に閃くものがあった。かつて使ったことがない速度で脳を使って、思考する。
 見付けた。状況を打開する一手を。
 何だ、簡単なことじゃないか。
 父親の動きは速かった。
 拳でテーブル上のボイスレコーダーを叩き壊したのである。拳が傷付くが気にしない。
 勝ち誇ったように哄笑した。
「最初からこうしときゃよかったんだ。よくも好き勝手言ってくれたなあ、先生よお。お前の言うとおりだよ。俺達はゼニを巻き上げるために来てやったんだよ。お前も、あの女先公も目障りだ。さっさと死ねよ、カスが。」
 御雷は溜め息をついた。
「馬越さん、さっきのは訂正します。」
「ああ?なんのこった?」
「良太君が可哀想じゃない、という話ですよ。」
 その声に何の動揺もないことに、ようやく気付いた。
「良太君は十分可哀想です。彼にとっての一番の不幸は――――あなた方のような両親に育てられたことです。」
 御雷が上着のポケットから取りだしたものを見て、馬越夫妻は呻いた。
 テーブルの上にあったものより、遥かに小型のボイスレコーダー。録音中である証に、赤い発光ダイオードが点灯している。
「盗み録りなんて卑怯だろ!」
 御雷は動じない。
「私は『録音する』と言っただけです。録音機が一台しかないと、一言でも言いましたか?ま、音声データを再生すればわかることですが。」
 不敵な笑みを浮かべ、浅はかな夫婦を睨み付けた。
「まったく、私の想像以上に愚かな人たちだ。録音機を壊せば全て無かったことにできるとでも思ったのですか?こちらとしては、ペラペラと喋ってくれて助かりましたけどね。」
 怒りと、屈辱と、そして恐怖。それらが入り交じった感情が、馬越夫妻の顔色を蒼く染め上げていた。
 御雷は片目を瞑って笑う。
「では、もう一度問いましょうか。まだ、私たちを恐喝するつもりですか?それとも心を入れ替えて、本当に詫びを入れるようにしますか?」
 選択の余地はない。父親は、初めて敬語を使った。
「…先生達に、お詫びします。」
 御雷は二人を睨み付けたまま、ボイスレコーダーに吹き込んだ。表情とは裏腹に、声は爽やかだ。
「馬越さん、お見舞いまでいただいて、申し訳ありません。」
 二人はぎょっとして御雷を見る。発言は視線で押さえ込まれた。御雷の一人芝居が続く。
 診断書を指で探ってがさごそと音を立てる。
「ああ!?こんなにはいただけません。見舞金としては多すぎます。」
 黙ってボイスレコーダーを指差す。
 話を合わせろ。視線の圧力には抵抗できない。
「い、いや…うちの馬鹿息子がしたことだから、なあ。」
 母親も調子を合わせる。
「こ、これでも少なすぎるくらいだから…。」
「でも、百万円もありますよ。」
 二人はぎょっとする。御雷が歯を剥き出して笑っていた。肉食獣の貌だった。
「一人五十万というのも多すぎるとは思いますが…。お二人の気持ちが変わらないのなら、有難く頂戴することにします。治療費や眼鏡を新調する費用にさせていただきます。お気遣いに感謝します。」
 言いたいことだけ言って、御雷はレコーダーを止めた。
「良太君の分と私たちの診断書に、私の意見書を付けて警察に提出します。被害届も当然出します。そこは学校の方針なので変わることはありません。」
 御雷の視線に、校長が頷く。
「この録音データも、参考資料として警察に預けます。まあ、見舞金の話が入っていれば、情状酌量の余地ありと判断してもらえるかもしれません。」
 そういうことか、と二人は安堵する―――にはまだ早かった。
「ただし、それは録音データが『事実』であれば、の話です。」
 御雷は凄まじいほどの笑顔を作った。
「あなた方には、先程の話が『事実』になるように行動していただきます。」
 つまり。
 馬越夫妻は小金をせびろうとして逆に百万円もの大金を払う羽目になったわけだ。
 目眩がした。御雷から「芝居に付き合え」と明確に強要されたわけではない。音声上は、あくまで自発的に見舞金を出した体(てい)になっている。
 相手が悪かった。こんな悪党が、善人の振りをして教師をしているとは。
 恐ろしい。
「あの…お支払いはいつまで待ってもらえますか。」
 御雷は顔をしかめた。
「私は借金取りじゃありませんよ。あくまで見舞金なんですから、常識で考えればわかるでしょう。」
 わからない。これまでの人生の中で、他人から金を取ることしか考えたことがないからだった。
 御雷は苦笑した。
「普通は、見舞うなら怪我をして三日以内です。」
 今度こそ二人は青くなった。挨拶もそこそこに、校長室を逃げ出す。
 もう稲見中の教師にちょっかいを出すのは、金輪際やめだ。次は金だけでは済まないかもしれない。

      14
 御雷が校長室から出てくるまで、一時間も掛かっていなかった。ちょうど昼休みである。
 涼しい顔の御雷に対して、管理職の顔色はまるで土だ。
 特に教頭は止まらない汗を拭き続けている。あの後、尾内校長から御雷が何者なのか説明させた。彼は、荒れた学校を正すという文部省の意志が具現化した存在だ。その行動を阻む者は、教師であっても正す対象になり得るのだ。
 御雷のただならぬ力量と、独特の雰囲気の意味を理解した今、小泉は動揺している。しかし、動揺の理由を他の職員に気取られてはならない。
 他言無用と釘を刺したときの御雷の眼差し。それが普段生徒たちと談笑しているときのものとまるで変わらないことが、却って恐ろしかった。
 小泉は、沈黙を守ることに決めた。
 大欠伸をしながらソファーに座った御雷の元に、田中と菊池が駆け寄ってくる。
「どうでした?」
「まあ、あんなもんでしょうね。」
 矢沢が差し出したコーヒーを受け取りながら小さく笑う。
「あんなもん、とは?」
 田中が怪訝な顔をする。いつもは肩で風を切るように帰って行く馬越夫妻が、今日に限って酷く顔色が悪かった。誰とも目を合わさないようにして、それこそ逃げるように帰っていったのだ。
 一体どんな魔法を使ったのか。
「いや、特別なことは、何も。ただ、事実をきちんと説明して、自分たちが置かれている状況を正しく理解してもらっただけのことです。後は、自分たちで行動してくれるでしょう。それなりに危機感を持ったようだから。」
「あの分からず屋に、よく話を聞かせたねえ。」
 矢沢が感に堪えないという風に呟く。
 御雷は空とぼけることにする。
「状況を理解してからは話が早かったですよ。近々、守矢先生へのお詫びとお見舞いを兼ねてまた来るそうです。週明けになると思いますが、その頃には守矢先生も復帰しているでしょう。」
 うそ、と言った田中の口調は驚き半分、呆れが半分といったところか。。
「なんであいつらに、そんなことをさせられるんですか?全く…何者なんだか。」
「ただの、英語科講師ですよ。少しばかり、お願いを聞いてもらうのが上手なだけの。」
 しれっと答える口調は、いつもの御雷だ。特に疲れた様子もないことに、菊池は安心した。
「それじゃあ、今日はもう帰ります。給食も食べ損ねたし。」
 御雷が立ち上がる。鞄を持ってから、「あっ」と声を上げた。
「どうしたんですか。」
 菊池の問いに、情けなさそうな顔で答える。
「ぼくの車は、マニュアルトランスミッション車でした。片手でも運転できないことはありませんが…。」
「それ、絶対にやめた方がいいです。」
 田中の声も強い。御雷はあっさりと引き下がる。
「そうですよね。申し訳ないんですが、代行運転を呼んでもらえないでしょうか。」
 片手では、固定電話を使うのにも不自由する。
 ふふーん、と田中が笑った。
「もう、代行なんて水臭いことを言わないでくださいよ。」
 嫌な予感がした。
「私たちで御雷先生をお家まで送ることにしたんです。」
 教頭が頷く。
「許可します。生徒は集会後下校にするから。学担が二人抜けても大丈夫だというのは学年主任さんにも確認済みです。」
「じゃ、教頭先生。私たち二人とも午後は有給を取ります。」
 あっさりと教頭は了承した。有給を使う権利を制限する程の、正当な理由は無い。
 おいおい、俺の家に来るつもりか。ぱっと見でわかるようなまずいものは置いていないが…。
 困惑した表情を浮かべる御雷の前に、菊池は立った。しっかりと目を合わせ、きっぱりと告げた。
「ご迷惑だとは思うんですが、何とかお役に立てないかと思って…。せめて、今日の夕食だけでも作らせてください。」
 確かに、左手が使えないとなれば、買い物や外食にも差し障りが出るのは明らかだ。
 それにしても、菊池も言うようになったものだ。
 田中が御雷に目配せする。唇が動いた。彼女の声は、御雷だけに届いた。
『約束のこと、菊ちゃんに話したんです。そうしたら責任を感じちゃって。』
『わざと、ですね。こうなるのがわかっていて、あなたは。』
 秘話法を中断する。
 菊池が唇を引き結んで御雷を見つめている。すっきりとした美貌は童顔といってよいものだが、かつての気弱な印象は影を潜めている。僅かな期間ではあるが、担任としての決意と苦労、そして手応えが彼女を成長させているのだ。
 しかし、御雷は知っている。凜とした表情を浮かべているときの菊池は、その下に泣き顔を隠していることを。隠している涙が見えるくらいには、彼女のことを理解している。
 いつもは苦手な藍色の瞳が―――今日は、愛おしい。
 不意に彼女を抱きしめたい衝動に駆られて、御雷は内心狼狽する。「家に菊池を入れる」というフレーズから、性的な行為を連想したのである。
 一瞬だけ、全身の皮膚に赤い筋が走って、消えた。本来の姿に戻らねば、女は抱けない。本能が変身の解除を命じようとするのを、意志の力で押さえ込んだのである。
 今のは、危なかった。
 いつまでも、俺はそういう欲望から逃れられないらしい、と苦笑した。
 だが、菊池は駄目だ。彼女は男性を怖がっている。心をほぐし、身体を開かせることは不可能ではないだろうが、いつまでも寄り添ってやるわけにはいかないのだ。いずれ去ることが決まっている以上、菊池の中で存在感を増すような行為は慎まねばならない。
 逡巡した後、ようやく言葉を発する。
「何というか、男の一人暮らしですから、片付いてなくて。女性を家に上げたこともありませんし。正直言ってぼくだって恥ずかしいんですよ。」
「部屋の片付けだってさせていただきます。」
「ふすまを開けたら布団を延べてあったりしても、怒りませんか。」
 御雷が言わんとすることを察して、菊池は赤くなる。
「わ、わたしは、そういうことをしに伺うわけではありませんから。」
 御雷は真顔で、「いいえ、そういうことなんです」と応じた。
「一人暮らしの男の家に、女性が一人で来るっていうことは、そういうことです。すくなくとも、菊池先生。ぼくはあなたが一人で来てくれたなら、必ずあなたを抱きます。」
 菊池が見る間に真っ赤になる。男性に耐性がないとはこういうことだ。ましてや、男性に対する恐怖心を拭いきれない彼女なら、きっと思いとどまる。
 しかし。
 菊池は目を逸らそうともしなかった。紅潮した顔を昂然と上げて、真っ直ぐに見つめてくる。
「それでも、私は御雷先生のお家に伺いたいんです。」
 あ…れ…?
 重要な局面で、決定的な一手を指し違えた気がした。
「変わった愛情表現をするねえ。二人とも。」
 矢沢が見事に言語化してみせた。
「御雷先生は、『来たら抱く』と言い、菊池先生は『それを理解した上で行く』と返したわけじゃない?」
 あっ…と口を押さえたのは、御雷と菊池とも同時であった。
「実にロックな方法だけど、これでカップル成立ってことでいいのかな。」
 目眩がした。
 頭を抱える御雷の姿に、小泉の唇が緩む。冷徹に理屈の通じない保護者を罠に追い込んだ男と、同一人物とは思えなかった。
 学校再生専門員、か。
 先程の手際は見事だった。普通の教員では到底振るえない大鉈を、この男は振るってみせる。
 それはともかく、御雷という男は、面白い。
 小泉は一個人として、御雷に対して畏怖よりも好感を持っていた。たとえ文部省が派遣した男であっても、遠慮なくものを言う度胸もある。
「それは結構ですがね、御雷先生。真っ昼間の職員室で、抱くの抱かないのという話は、いかがなものでしょう。そういう話はね、二人きりの時にするものですよ。」
 御雷は赤面した。

 その結果、御雷は菊池の運転する車の助手席に座っている。
 何だか、妙なことになってしまったな…。
 そう思いながら、前方を行く銀色のスバルを眺めている。
 田中が運手するスバルは、理想的なラインで車速を伸ばしていく。無理はしない。効率がいい走り方なのだ。交差点が近付くと、ヒール&トウでエンジンを吹かしながら綺麗にシフトダウンして見せた。
「上手いもんですね。」
「車が好きなんですよ、田中先生は。前から、御雷先生の車を運転してみたかったそうです。」
 田中は、普段古いランドクルーザーを転がしている。御雷自身も、本当は四輪駆動車の安心感に強い魅力を感じている。道具を選ぶ規準について、御雷と田中が一致する部分は多い。肉体を道具として扱う者の性、といっていい。
 菊池はといえば、晴れやかな顔をして運転している。可愛らしい唇が、調子外れな歌を口ずさんでいる。でたらめな音程で、楽しそうに歌う姿が微笑ましい。
 目を細めた御雷に、菊池は言った。
「自分が音痴なのは自覚してますから。」
 心の中を視られたようで、ぎょっとする。
「心でも読めるんですか、あなたは。」
「まさか。」
 前を向いたまま、笑う。
「御雷先生が笑っていたからですよ。歌が下手なのを笑われるのには慣れてますけど。」
 少し考えて、付け加えた。
「御雷先生に笑われるのは、嫌な気持ちにならないから。」
「馬鹿にしてるわけじゃないですよ。気持ちよさそうに歌っているのを見ていたら、こっちまで楽しくなっただけです。」
 菊池は笑みを深めた。
「そう。歌うと楽しくなるんですよね。よく、『悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ』っていうでしょう?逆もまた真なり、じゃないかと私は思うんです。」
 御雷は菊池の言葉に耳を傾けた後、少しの間沈黙した。
 やがて、ぽつりと言った。
「菊池先生は、悲しいとき歌ってきたんですね。」
 はい、と菊池は素直に答えた。
 何となく、話したい気分になっている。この前の御雷がそうだったように。
「初めは、泣く代わりに歌っていたような気がします。いつの間にか、癖になっちゃいましたけど。」
 御雷が少し躊躇う気配があった。この男にしては珍しい、と菊池は思った。
「それは―――お姉さんを亡くされてから、ですか。」
 そうですね…と少し考える。
「その前からだったような気もします。うちは早くに両親を亡くしたもので、寂しいときはいつも歌っていました。」
 俺は、どうだったろう…と御雷は考える。養父と――建と共に過ごした時間は楽しかった。が、まだ幼かった御雷は両親や妹が恋しくなることがあった。
 そんな時、俺は肉体を虐め、技を鍛えてきた。己を絡め取りそうになる寂寥を振り払うように、鍛錬に打ち込んできたのだ。
 菊池にとっては、歌が寂しさと闘う武器だったわけだ。
「幼い頃は、考古学者になりたかったんです。」
 唐突に菊池は言った。
「夢を諦めることに葛藤はありましたけど、今は教師になってよかったと思っています。」
「お姉さんの遺志を継ぐのではなく…?」
「ええ。私の意志で。」
 この女なりに、様々なことに折り合いを付けられるようになってきたということか。
「だから、ですか。あなたの歌は、心に響きます。」
 歌ってください、と御雷は言った。
 改まってそう請われると、菊池は恥ずかしくなる。
「出鱈目な歌だし…本当は、もっと上手になりたいんです。」
 菊池の音痴を直す方法はある、と御雷は思う。それなりのトレーニングを受ければ、張りのある声を上手く生かして歌えるようになるだろう。
 だが、それよりも、今は。
「ぼくは、菊池先生の歌を聞いていたいんです。歌っている横顔を、見ていたい。」
 菊池は、むくれた。頬が赤い。
「御雷先生、その言い方は狡いです。」
 怒っているのではない。なじっているのだ。
「田中先生が一緒に来るとわかって、ほっとしたくせに。」
 御雷は、今日何度目かの苦笑を浮かべる。
「菊池先生だって、ほっとしたでしょう?あのまま、ぼくに抱かれに来るわけにもいかなかったでしょう?」
 それは、そうですけど…と言いかけて、口をつぐむ。本当にそうだろうか。その場の勢いだったかもしれないが、そのまま突っ走ってもよかったとも思っている。無茶苦茶なやり取りだったが、ともかく自分の気持ちを吐き出したことで、気分は晴れやかだ。
 御雷がどう受け取ろうと、自分の気持ちに嘘はない。
「ぼくは、正直言って、『惜しいことをした』と思っています。」
 意外な告白だった。
「ぼくだって、男です。あなたのような人と二人きりでいたら、自分を抑える自信はありません。むしろ、積極的にあなたを自分のものにしたいという気持ちはあるんですよ。」
 でも、これでよかったのかもしれません。視線で田中を指しながら御雷は笑う。
「軽蔑されるかもしれませんが、こんな見てくれでも、女が欲しくてたまらなくなることがあるんです。」
 女性に話すようなことではないかもしれない。が、それだけに御雷が誠実に語ろうとしているのがわかった。
「でも、ね。ぼくが女性を抱くには、一つ大きなハードルがあるんですよ。」
 思わず、「どんな?」と尋ねていた。
 御雷は生白い貌をつるりと撫でた。無事な右手でだ。
「この貌と、身体です。」
「手術の跡は気にしません。あなたを救ってくれた手術なんですから。顔だって、ハンサムじゃないかもしれないけど、私は好きですよ。」
 運転に集中しているからか、それとも御雷への好意を表に出して吹っ切れたのか。
 菊池は真っ直ぐに御雷に向かってくる。愚直なまでの一途さが、眩しい。
「この顔や身体は、意志の力で保っているんですよ。教師として働くためにね。これでも、相当な集中力と体力を使っています。」
 ある程度、真実を語る。虚実を交えて語るのだ。
「他人の身体を継ぎ合わせてこしらえたぼくの身体は、いわば雑多な部品の組み合わせです。全身を統合して『ある程度まともに見えるように』調整しているだけなんです。もし、その調整をやめたら―――本来は見た目も雰囲気もまるで違うんですよ。」
 深く溜め息をついてみせる。
「あなたが、ぼくの素顔を見て平気でいられるとは思えないんです。でも、本来の姿でなければ女性を抱くことはできません。寝ているときもそうです。少なくとも一日数時間はすべての調整をやめて本来の姿で眠る必要があります。」
 遠くに視線をやる。
「ぼくには、あなたに素顔を見せる勇気が無いんですよ。」
 菊池は沈黙した。
 御雷が負ったのは肉体的な傷だけではない。愛する者を失い、己の姿を他人の目に晒すことすら躊躇わざるを得ない、境遇。
 御雷の孤独を想った。
 言葉は口を突いて出た。
「いつか…私の心の準備ができたら、素顔を見せてくれますか。」
 御雷は片眉を上げた。驚いているのだ。
「何を言っているのか理解していますか?ぼくは、自分の素顔を見た者を決して逃がしません。ぼくの素顔を他言できないように―――。」
 殺す。
 口には出さなかった。
「私は、逃げません。」
 短い言葉に込められた、確固たる意志。
 溜め息の代わりに、言った。
「菊池先生は、強い人ですね。」
 可愛らしい唇が、微かな笑みを浮かべた。
「冷たい女だとも思われていますよね、きっと。」
「馬越のことですか。あなたが気に病む必要もないと思いますが…。」
 御雷が敢えて触れなかった話題に、菊池は自分から踏み込んできた。
「それでも、やっぱり落ち込みますよ。担任ですから。」
 藍色の瞳が、一瞬苦痛にも似た表情を浮かべた。
「でも、思うようにしてるんです。『今はないものについて考えるときではない。今あるもので、何ができるかを考えるときである。』と。」
「Now is no time to think of what you do not have. Think of what you can do with that there is.――ヘミングウェイですね。」
 菊池が頷く。今、自分にできることを続けることが、未来に繋がるのだ。
「私、やっぱり歌います。」
 楽しげな表情と、出鱈目な音階だが明るいメロディー。それが、菊池の泣き声に聞こえて。
 御雷は助手席で目を瞑った。

      15
 途中でスーパーマーケットと菊池のマンションに寄り、食材や調味料を調達した。御雷の家の冷蔵庫には大したものは入っていないが、調理器具だけは揃っている。
 駐車場に停めた車の中で、御雷は菊池と田中が荷物を持ってくるのを待っていた。
 眠い。
 菊池の運転は、四月当初に比べれば格段の進歩を遂げている。家庭訪問のために同乗した時は、何度も「死ぬ」と思わされたものだ。
 生徒の家を住宅地図で調べたのは御雷だった。裏の仕事で必要な情報を表の仕事にも生かして、菊池に余裕を与えてやったのだ。ルートは効率優先ではなく、菊池にとって運転しやすい道を選んで組み立てた。にもかかわらず、肝の冷えるような思いをさせられた。
 それが、今は。御雷の眠りを誘うまでに自然で優しい運転ができるようになっている。
 あくまで、仮眠である。熟睡しなければ、温厚そうな丸っこい姿を維持し続けることができる。
 コツコツと窓ガラスを叩く音に、目を開けた。サイドウインドウを下ろすと、田中が立っている。―――こいつが相手なら、気配を感じ取れなくても、さほど己を恥じる必要もないだろう。
「ごめんなさい。起こしちゃいました?いろんな荷物を、御雷先生の車にも積ませてもらおうかと思うんですが、かまいません?」
 菊池の車にも載りきらない荷物とは…キャンプにでも行くのか?
「ほら、一人暮らしだと食器もないんでしょう?それで、今日使う分も持って行った方が簡単だということで。」
 なるほど。確かに、家には御雷の使う簡単な食器があるだけだ。徹底して生活用品は減らしてある。そもそも客を招くことは想定していないし、何より簡単に引き払える。
「別に、かまいませんよ。リヤシートの倒し方はわかりますね?」
 今日もベレッタはスペアタイヤの下にある。田中に底意があれば、探るかもしれない。そうなったら、その時のことだ。
 田中の腹が、ぐう、と鳴った。
 さすがの女傑も、これには赤面する。彼女とて、年頃の娘なのだ。
「もしかして、お昼を食べなかったんですか。」
 まあね、と田中は苦笑する。
「菊ちゃんが、どうにも食事が喉を通らないようだったから、私もつい…ね。おかげで目が回りそう。」
「大飯喰らいなのは、きっと身に付けた武術のせいですね。」
 田中はあっさりと肯定する。
「親父によると、『肉体を道具としていかに活用するか』というのがテーマらしいのよね。突き詰めれば、私たちの身体も機械と変わらないもの。ただねえ、肉体のポテンシャルを使い切れるようになってくると、とにかく燃費が悪くて。」
 たしかに。人間の肉体も、化学反応と電気信号で駆動する有機機械ではある…のだが、まともな流派は、そんな人間性を否定するような修練を求めない。
「田中流、ではないですよね。」
 田中は頷いた。
「田中はね、母の方の姓なの。結婚する前の父の姓は比良坂。」
「比良坂流、ですか。黄泉比良坂―――生きて帰れる気がしませんね。」
 だから、流派は特に名乗らず、単に「古流」と称することが多いのだという。
「ほら、何しろイメージが悪いから。それに、名乗りあって試合うような場面は、現代じゃ滅多にないし。」
「滅多にって…たまにはあるってことですか。」
 呆れたように御雷は言う。
 内緒、と悪戯っぽく笑って、田中はスバルに乗り込んだ。妙に色っぽい。
 腕の立つ相手を品定めして、辻斬りみたいなことをやってるんじゃあるまいな…まさかね。
 そういう御雷も、特に「御雷流」を名乗ることは無い。身に付けた業そのものが名刺代わりだ。
 菊池が戻ってきて、何やら積み込んでいる。
「お待たせしました。夕食、という話だったんですが、予定を変更します。」
「はあ。どんな風に?」
「まず、遅めの昼食にしましょう。私も田中先生も、実はお腹がぺこぺこで。このままだと夕方まで保ちません。」
 菊池のマンションから御雷の家まで、車で十分程度だ。
 二台の車を乗り入れても敷地には余裕がある。
 御雷から鍵を受け取って、田中が玄関を開ける。
 ガサ入れを受ける気分だ。
 御雷に続いて家に入った女たちは、冷え冷えとした空気にたじろぐ。単に家の中が殺風景だというだけではない。
 人の生活している気配が無いのだ。
 もとより、この場所は御雷にとっては仮住まいである。単に寝る場所でしかない。が、それは豪奢な石上邸も同じ事である。
 自宅とは、広さや豪華さに関係なく、自分の居場所であり心安らげる場所である―――そんなことを常識だと考えている人間には、この場の空気の冷たさは耐えがたいものに違いない。
 この空気の原因は御雷本人にあると、菊池は看破している。テレパスでなくてもわかることだった。
 御雷には安らぐ場所が無い。安らぎを求める気も無い。単に身体を休める場所があるだけだ。
 福々しい笑顔の下に隠した寒々しい魂を思うと、菊池は心が痛む。
 誰かと一緒にご飯を食べることは、とても大事なことだ。
 田中と出会ってから、菊池はそのことを学んだ。がさつで大雑把な田中だが、頼もしい姉のような存在である。あれこれ理由を付けては菊池のマンションに上がり込み、飯を食ったり泊まっていったりする。
 最初の頃は、「この人は、女性を愛する人なのかもしれない」とも思ったが、そういうわけでもなかった。身の上話をぽつりぽつりするくらいには打ち解けてきた頃、田中は言ったのだった。「菊ちゃんみたいな子はね、独りでご飯を食べてちゃ駄目なの。誰かと一緒に食事をするだけで、温かい気持ちになれるでしょ?」と。
 自分の行動が御雷にどれほど響くかは、わからない。しかし、菊池はエプロンを着けて腕まくりをする。
「よし、始めるか。」
 台所に入り込んで、もう作業に入っている。
 田中が物珍しそうに家の中をウロウロするので、御雷は気が気ではない。仕方なく、田中の後を付いて歩く。
 脱衣場に置いた製氷機。化膿止めや止血剤が揃った薬箱。
 そんなものを見て回った挙げ句に、田中は言った。
「独身男性の必需品、エロ本がどこにも無い…!」
 そんなものありませんよ、と御雷は笑う。そのまま大欠伸した。
「そうだ、寝室をまだ見せてもらってませんね。」
「田中先生、ぼくがあなたの家に行って、同じ事をしたら怒りませんか。」
 そうねえ…と田中は思案する。
「ベッドルームに入ってもらうってことは、OKってことです。今度来ます?」
 台所でボウルをひっくり返す音が派手に響いた。
「おー、動揺してる動揺してる。」
 可哀想ですよ、と御雷はたしなめた。
「そういう御雷先生は、実際の所どうなんですか。」
 田中が真顔になっている。菊池のことだ。
「嫌いじゃないですよ。というより、むしろ好みのタイプだといっていいでしょうね。」
 へえ、あっさり認めるんだ。と田中は驚きを通り越して嬉しくなる。
「訊きにくいことですけど、この前話に出てきた、昔の恋人に似ている…とか。」
「それは、ないです。」
 考えるまでもない。御雷は恭子の影を追っているわけではないのだ。
「二人とも、まるでタイプの違う美人ですが。どちらが優れているか、という問題ではなくて、タイプが違いすぎて比較しても意味が無いような気がするんです。」
 そもそも、女性同士を比べて評価するような趣味はありませんが、と笑う。
「…でも、敢えて二人の共通点を挙げるとすれば、『面白い』ってところでしょうか。何しろ、一緒にいて飽きるということがありませんからね。」
 田中は溜め息をついた。
「ああ、もうじれったいな。二人とも、お互いに好意はあるんでしょ?さっさと既成事実を作っちゃえばいいのに。」
 何のために?とは、御雷にも言えなかった。
 菊池は魅力のある女だ。抗し難い欲望を感じているのも事実だ。
 御雷が一歩踏み込めば。素顔を晒して本気で求めれば、彼女が応えてくれる可能性は、ある。
 だが、その先に何がある?菊池は御雷に何を求めるだろうか。
『私が死んだら、K2をパートナーにするより、後添えを娶った方がいいかもしれない』
 今になって、恭子の声が耳元で甦る。
 菊池を後添えに…か。それも悪くない。でも。
「―――要するに、再び失うことを恐れているだけなのさ。」
 心の声が、呟きになった。
 え、何?と田中が問い返す。
「いえ。ぼくは、やっぱり疲れてるみたいです。昼ご飯まで一時間くらい寝たいんですが。」
 台所の菊池にも聞こえるように呼びかける。
 菊池がひょい、と顔を出す。
「もうすぐできますけど。簡単に親子丼にしましたから。御雷先生の分だけ分けておいて、起きたら卵を入れるようにすれば大丈夫です。私たちは先にいただきますね。」
 そうしてください、という言葉の後半が、すでに欠伸と混ざっている。
 田中が寝室と茶の間を隔てるふすまを開けた。
「おお、これはこれは。菊ちゃん、これを見なさいよ。もう準備万端じゃない。」
 御雷の言葉通り床が延べられているのを見て、菊池は赤面する。
「もう、やめてください。私のために敷いたわけではないでしょ。」
「ただの万年床ですよ。」
 御雷の呂律が怪しい。眠気に抗しきれないのだ。
 まさか、K2の言うように昏睡期の予兆だろうか。そんなこともどうでもよくなるくらい、眠い。
「じゃあ、一時間経ったら起こしてください。それと、田中先生、ぼくの寝顔を覗きに来ないでくださいよ。」
 田中の顔を見れば、図星を指されたのがわかる。ふすま一枚隔てたところで素顔で眠らざるを得ないのだ。来てもらっては困る。
「菊池先生、あなたの解釈でかまいません。ぼくが寝顔を見られたくない理由を田中先生に教えてあげてもらえませんか。」
 頼みます、と言い残してふすまを閉めた。スーツを脱ぎ捨て、スウェットの上下に着替えた。ウエストにゴムが入っているので対応サイズに幅があるところがいい。
 布団に潜り込むと、念のためにふすまに背を向けて目を閉じた。ぼそぼそと女二人が話しているのが聞こえてくる。今は田中も菊池と共に台所に立っているのだろう。会話の内容までは聞き取れない。
 菊池の解釈に任せる―――ほぼ間違いなく、彼女は御雷の素顔を醜い、あるいは恐ろしいものとして田中に伝えるだろう。その方が都合はいい。
 御雷は一分も経たないうちに眠りに引き摺り込まれる。
 いつものごとく、炎に包まれ何もかも失う夢を見た。いつもは恭子と武が目の前で焼き尽くされる場面で目が覚める。
 珍しく、夢は終わらなかった。
 不器用に、しかし一途に御雷に尽くそうとするK2の可憐な姿を、夢に見た。
 小柄な体に決意を漲らせて、生徒に語りかける菊池の凜とした姿を、夢に見た。
 御雷先生、と菊池は名を呼んだ。何度も、繰り返し御雷の名を呼んだ。
 それが夢ではないことに気付くまで、少しかかった。
「御雷先生、そろそろ起きてください。」
 ふすまの向こうで菊池が呼んでいる。
 もう、一時間経ったのか。
 軽い驚きがあった。
 普段であれば、目覚まし時計などなくても、きっちりと時間通りに起きられる。そんな自分が、正体もなく寝入ってしまったことに対して、だ。
 まったく…二人とも、変わった女だ。妙な安心感がある。危険なことではあった。が、おかげで疲れは取れている。
 身体が、軽い。
 声を、作った。
「わかりました。今、行きます。」
 外見を作った。
 ふすまを開けて、のっそりと茶の間に入った。
 美味そうな匂いがする。出汁が効いたつゆの香りだ。
「今から卵を入れますから。」
 菊池の声は台所に移っている。田中が湯飲みに茶を注いでくれた。
「お二人はもう食べたんですか。」
 田中はにやりと笑う。
「ええ、もうたっぷりと。給食もいいけど、あれはあくまで中学生向けのメニューが多いですからね。」
 菊池が盆に丼を載せて持って来た。
「田中先生はいつものように一升近く食べましたから。」
 田中は赤面する。今日は、稽古の後だから、という言い訳は通用しない。
「その口振りだと、最初からそれを見越して多めに作ったんですね。」
 ええ、と屈託無く笑う。
「たくさん食べてくれると嬉しいですから。御雷先生のお口にも合うといいんですが。」
 目の前の親子丼を、御雷は眺めた。
 見事な半熟の卵。鮮やかな、三つ葉の緑。僅かに覗く飯の、粒が立った感じ。
 何より、湯気と共に立ち上るこの香り。
 不味いわけがない。
 箸の代わりにレンゲが添えられている気配りが嬉しい。
「それじゃあ、いただきます。」
 最初の、一口。
 御雷は目を見張った。
「美味い…。」
「でしょ?」
 田中は自分が作ったわけでもないのに得意げである。多分、彼女は「自分が普段いかに美味いものを食べさせてもらっているか」ということを自慢したいのだろう。面白い女だ。
 菊池は、それでも心配そうな顔をする。味の好みは人それぞれだ。
 御雷は「美味い」を連発する代わりに、無言で食べ続けた。
「もう一杯、いただけますか。」
 菊池はようやく笑顔になった。御雷の食事量も把握しているから、準備は怠りない。
 一杯目より多めによそってやる。
「山椒をかけてみてください。京都ではそうやって食べるそうですけど…なかなかいいものですよ。」
 言われるがまま、山椒を振りかけてみる。卵の甘味に、山椒の鮮烈な香りが立った。
 無心に食べ進めるうち、不意に御雷は鼻の奥が熱くなった。
 鼻を啜りながら親子丼を食べる御雷の姿。
 涙を流しているわけではないが。まさか。
 何の抵抗もなく、菊池は踏み込んだ。
「泣いて…ます?」
 御雷は否定も肯定もしなかった。いや、できなかった。あの日―――業火が彼の人生を破壊した日以来、涙は流れなくなったのだ。
 自分が泣いているかどうかもよくわからない。
 そのまま素直に言葉にした。
「どうでしょう。自分でも、よくわからないんです。最後に泣いてから、随分経ちますから。ただ――」
 空になった丼を見詰めながら言う。
「誰かと家でご飯を食べるのは久しぶりだ、と思うと…少し胸が一杯になっちゃって。」
 御雷の口調は、これまでとは違っていた。
 先を見通し、計算尽くで、あくまで冷静なベテラン教師。経験の浅い菊池から見れば、何でも完璧にこなす飄々とした男。
 そんな、いつもの御雷とは違う。ぽつりぽつりと、思い付くままに気持ちを言葉にしている様に、菊池は胸を打たれた。
「ちょっと、トイレ。」
 席を立った田中の眼が赤くなっている。
 菊池も席を立とうとした。御雷に涙を見せたくはない。
「私も、洗い物をしてきます。御夕飯の用意もあるし。」
 それを御雷が制止する。
「その前に。もし、まだ残ってたら、もう一杯いただけますか。」

 結局、二人の女が帰ったのは午後十時を回っていた。御雷が布団に入ったのは午後九時である。夕食後、再び耐えがたい眠気が襲ってきたのだ。
 まだ洗い物や片付けがあるという菊池に、玄関のスペアキーを渡して施錠を頼んだ。鍵は学校で返してもらえばいい。
 御雷が再び目を覚ましたのは、ちょうど日付が変わろうとする時間帯であった。
 台所は綺麗に片付いている。
 冷蔵庫の中に、夕食のすき焼きの残りが入っていた。明日温め直して食べろ、と言われている。
 それにしても、三人でよく食ったものだ。菊池の食事量は平均的だから、田中と御雷が規格外なのである。大量の肉と野菜を消費する様は、さながらちょっとした相撲部屋のようであった。
 肉も良いものを準備してくれていた。田中と折半だろうが、若年教員に結構な金を使わせてしまった。何かで埋め合わせをしなければ、と思う。
 御雷は大げさに巻かれた左肩の包帯を解く。どうせ、湿布を貼ってあるだけのことだ。
 薬を剥がした患部は、全く腫れていなかった。肩を回してみると、抵抗や軋みは感じられない。
 医師の見立ては完全に間違っていた。
 たとえ自分で外したにしろ、脱臼すれば多少の腫れや患部が熱を持つことは避けられない。
 それが常識だ。
 しかし、余計な体液が患部に集まることを防ぎ、炎症を抑えるように肉体をコントロールできるとしたら?
 肩の脱臼程度で行動に支障が出るようでは、御雷の名が泣く。
 今夜は、狙撃練習に出るつもりだった。左腕は、万全とはいえなくとも、状態としてはそこまで悪くない。これなら、撃てる。
 河津組を襲った以上、相手に大きな動きがある前に片付けられる奴から手を付けるべきだ。
 茶の間の隅に、小さなスポーツバッグが転がっていた。人目を避けるように壁際に寄せてある。
 ああ、菊池のやつ、忘れて帰ったのか。
 菊池の好む淡い藤色のバッグは、本人にも内緒で田中が持って来たものだ。田中曰く、「今晩のためにお泊まりセットを作ってやったぞ、菊池ィ」ということだった。
 菊池本人は中身を確かめると大いに慌て、また赤面して部屋の隅に押しやった―――そのまま忘れて帰ってしまったらしい。
 何気なく、バッグを開いてみる。なるほど、着替えにジャージを入れているところが田中らしいというか、菊池に似合っているというか。と、下の方に下着類が詰まっているのが見えて、慌ててファスナーを閉めた。これは、見てはいけない。いや、見なかったことにしよう。
 それにしても。
「これ…いつ返せばいいんだろ。」
 学校で―――「お泊まりセットを返します」―――言えない。
 菊池に取りに来させるか―――いや、それはまずい。
 いっそ、俺が菊池のマンションに持って行くか―――それじゃあ、家に来させるのと変わらない。
 嗚呼、面倒臭い。
 御雷は、そっとバッグを元の場所に戻した。これは、後で考えよう。
 座卓の上に、皿が置いてあった。添えてあるメモを、取って見る。
『夜食に食べてください。夜中にお肉を食べるのは身体によくありません。すき焼きは明日まで我慢すること。』
 菊池の字だった。
 御雷は、コンビニに寄ってから峠に向かうつもりであった。彼の意図を読み取っているかのように、握り飯が用意してある。大食いの彼に合わせたサイズで、三つ。
 あいつめ。
 苦笑しながらラップを剥がし、一つ頬張った。
 握り飯に巻いてある海苔は、焼き海苔ではなく味付け海苔だった。―――四国では、そうだったな。
 飯を咀嚼していると、また鼻の奥が熱くなった。
「菊池…これは、反則だぞ…。」
 御雷は鼻を啜りながら二つ目の握り飯に手を伸ばした。

      16
 西本祐司は、その爺が嫌いだった。正確には、苦手なのだ。
 馬越の起こした騒ぎのどさくさに、学校を抜け出した。そのまま家には帰らず、沢田のところにいる。どうせ両親も心配したりはしない。白井を抱く気にもなれない。
 夜になっていた。
 老人は、西本が撮影した映像を面白そうに見ている。ソファで寛いでいるが、立てば身長は一メートル七十センチほどはあろうか。腰は曲がっていないが、身体は細い。枯れ木のようだ、と西本は老人を見る度に思う。剃り上げたような頭部には髪の毛がないが、白い口髭と顎髭が長い。夜の、しかも室内だというのにサングラスを掛けている。
 枯れ木のようだ、という西本の印象は訂正される。
 肌の艶と張り―――皺はあるが枯れてはいない。声も同じだ。嗄れているが、奇妙な精気が潜んでいる。
 道服か作務衣でも着たら似合うだろうが…仮にヤクザであっても少々場違いな服装であった。仮にも組幹部の前に出る格好ではない。
 白いTシャツの上に派手なピンクのアロハを羽織り、下は短パンである。素足に履いているのは安そうなビーチサンダルだ。すね毛は薄い…というよりも髭とサングラスから僅かに覗く眉以外に体毛らしきものが無い。
 肌の色は白い。
 誰だったか…何かの漫画に出てきたキャラクターに似ている。
 西本は思い出す。亀仙人とかいう爺さんによく似ているのだ。
 思い出しはしたが、可笑しくはなかった。状況が、西本の思考から笑いを奪い去っていた。
 代わりに、老人が笑う。声に出して嗤う。
 沢田の客分だというこの老人が、西本は初めて逢ったときから好きになれなかった。
 どこか、気味の悪い爺さんであった。
 何がそんなに面白いのか。
 西本にはさっぱりわからない。
 小さなビデオカメラから大型のテレビにケーブルが繋がれ、繰り返し同じ映像を流している。
 画面の中で、馬越が守矢を殴ろうとする。
 かばった男性教諭が殴り倒される。
 御雷が割って入る。
 馬越が御雷の腕を取って顔面を殴りつけようとする。
 コマ飛ばしのように御雷は逃れ、馬越は無様に自分の身体を傷付ける。
 何度見ても、大量の出血と骨が飛び出した傷口の映像は気持ちのよいものではない。
 しかし。
「ふむ。実に面白い。」
 老人は陽気に言ってのけたのである。
「そんなに面白いかい、玄(げん)さん。」
 声を掛けた沢田は、たった半日ほどで酷くやつれてしまっている。周囲に控えている厳つい顔の男たちも似たようなものだった。
 沢田の所有する物件の一つ―――河津組の幹部として活動する拠点である。今原市の中心部からは離れているが、敷地は広い。一軒家であった。
 その場所に、部下と共に籠もってまだ二十時間ほどでしかない。が、状況の変化が激しすぎた。
  *
 沢田が河津組の事務所詰めの交代に赴いたのは、今日の午前三時二十分。深夜である。
 今にして思えば初めから不審な点はあった。
 組員用の駐車場に、二班分の車が停められている。普通に考えれば、事務所にいるのは詰めている一班だけのはずだ。交代要員が来たら、前の班の人間は入れ替わりで帰ることになっている。
 妙なことだと思いながら、ドアフォンのボタンを押した。反応は、無い。
 事務所の照明は煌々と点いている。ただ―――人の気配が、しない。
 困惑する沢田の横で、玄がぼそりと呟いた。
「沢田よ。血の匂いがするな。」
 会長―――蔡範善=チェ・ボムソン直々の推薦で沢田の食客となった老人は、主人のことを呼び捨てにする。会長をすら「あの男」呼ばわりするが、チェ・ボムソンの老人に対する態度を見れば、どちらの立場が上なのかは明らかだった。
 老人―――玄にすれば、「ヤクザの手伝いなど、ただの暇潰しでしかない」ということだ。沢田のところを訪れた当初、カチンときた若い衆が、玄に突っかけたことがあったが、一瞬で昏倒させられた。間近で見ていても、沢田には彼が何をしたのか全く見えなかった。
 沢田は全身の皮膚が粟立つあの感覚を、一生忘れることはできないだろうと考えている。殺しのプロなどというような生やさしいものでは、ない。殺すために生まれてきた機械。それが玄という男だ。
 本能が教えている。世の中には、化け物が実在するのだ。会長が「世話になった」と言い、頭が上がらないのも理解できる話だ。幸いにも、というより玄が手加減したくれたおかげで、若い組員は殆ど無傷で済んだ。圧倒的な実力差がなければこうはいかない。
 以来、沢田は玄の能力に対しては全幅の信頼を置き、子飼いの組員を鍛えてもらったりもしている。人間性については―――正直言って未知数だ。
 兄貴と慕う沢田が心の底で抱いている不信感と警戒心は、西本にも敏感に伝染した。黙って従ってはいるが、心は許していない。
 それでも。血の匂いを嗅ぎ分ける玄の嗅覚には独特の説得力があった。
 幹部といえども、事務所の鍵を持たせてはもらえない。外部に流れると大変なことになるからだ。
 咎められるのを承知の上で、沢田はピッキングツールを取り出した。鉄製のドアに設けられた鍵穴に差し込もうとして舌打ちした。みっしりと詰め込まれたコーキング剤が硬化して、器具を受け付けない。
 玄が進み出た。
「ドアノブごともぎ取るのも一興だがな、ここはスマートにやってやろう。」
 薄暗い中、真っ黒なサングラスをしたままで見えるのか。沢田から受け取ったピッキングツールの一本を摘まんだ指先が、一瞬霞んだように見えた。
 密度の高いゴムに、何の抵抗もなく突き刺さっている。玄は、二本、三本と異なった形のツールを差し込んだ。コーキング剤は溶けたようになっている。
 無造作とも見える手付きで摘まんだ三本のツールが、それぞれ異なったタイミングで霞んで見えた―――かちゃり。
 あっさりと解錠してみせた。
「声を出した奴は、儂が殺す。吐いた奴も殺す。ただ、黙って儂の指示に従え。」
 恐るべき内容とは裏腹に、玄の声は軽かった。
 玄関ドアを開いたとき、沢田を始め、玄を除く全員が口を押さえた。
 赤黒く固まった血溜まりの上に、段ボールが敷いてある。踏みつけられた跡のある段ボールは、明らかに人の形に盛り上がっている。少し捲って、それが沢田班の前の事務所詰めメンバーの死体だと確認する。
 交代のために玄関を入ったところで、皆殺しにされたのだ。
 事務所に潜んでいた何者かによって。
 と、いうことは。
 他の連中はどうなってしまったのか。
「では、行くとするかの。拳銃は出さんでいい。お前たちの腕前では、仲間を撃つのが関の山よ。」
 玄の声は一切の反論を許さない。
 ビーチサンダルを履いた脚が、段ボールを踏んで歩き始めるのを見て、西本は肝を潰した。
 段ボールの下にあるのは死体だ。西本のような餓鬼にもよくしてくれた連中も含まれる。
「来い。お前らの事務所だろう。」
 命じられるままに、沢田が段ボールの橋を渡る。他の連中も続いた。
 西本の番が来たとき、段ボール越しに足裏に伝わるぐにゃりとした感覚に、胃が痙攣した。口いっぱいに苦酸っぱい胃液の味が広がる。
 吐いたら、殺される。
 涙を流しながら、嘔吐しそうになったものを胃に押し戻した。
 不意に先頭を行く玄が振り返った。ニヤリと笑う。
「小僧、なかなかいい根性をしてるじゃねえか。沢田よ、こういう餓鬼を大切に育ててみな。面白い男になると思うぜ。」
 事務所の中は徹底的に荒らされていた。秘匿していた銃器がことごとく使用できない状態にされている。大量にあったはずの弾も無い。防犯カメラは完全に機能を停止していた。
 要所要所に配置されている電子ロックも機能を失っている。が、玄が軽く殴りつけると―――傍目には殆ど触れただけのようにしか見えなかったのだが―――何故か開いた。
 階段室に積み上げられた死体に、一同は息が止まる。
「まず、毒だな。弱ったところを銃で仕留めておる。」
 上階に上がる。組長は、どうなった?
 用心棒と組長夫人の死体は発見した。用心棒の一人は口をステープラーで綴じられ、全身に信じられない数の銃弾を撃ち込まれていた。組長夫妻の息子も、顔面を吹き飛ばされた状態で見つかった。
 様々な場所で死体を作ることも、ヤクザの仕事のうちには含まれる。とはいえ、事務所にこれだけの数の死体が揃うことなど、普通はあり得ない。一生に一度も経験せぬまま引退する者の方が多いのが現実なのである。
「抗争が激しかった頃を思い出すが、お前の所の連中が反撃した形跡が無い。これは抗争なんてもんじゃないな。」
 だったら、この惨状は何なんだ。
 玄の回答は極めて明快だった。
「一方的な、殺戮よ。それも、たった一人の相手に皆殺しにされたのさ。」
 そんな馬鹿な。弱小とはいえ、それなりに屈強な連中も揃っているし、銃器も刃物もある。
「例えば、だ。」
 玄は人差し指を立てて笑みを浮かべた。サングラスのおかげで眼の表情までは窺い知れない。
「儂ならば、この程度のことはやってのけられる。誰の助けも借りずに、河津組全体を潰すことなんぞ簡単さ。」
 老人の言葉に腹を立てる者はいない。この男なら、その気になればやれるだろう、という確信めいたものがある。
 沢田が反論を試みた。
「相手が一人だというのは、まあいい。としても、そいつは銃も使うし毒も使ったという。玄さんとはレベルが違うんじゃないかい。」
 素手が基本の玄には劣るのではないか、と言っているのである。
 玄はからからと嗤った。死体の山を前に嗤える神経が、沢田たちには理解できない。
「それは、お前さんたちが儂を買い被っているだけのことよ。いや、逆だな。襲撃者の実力を過小評価していると、今度はお前たちが死ぬことになる。」
 あくまで飄々と語るが、最後の部分は剃刀の鋭さを持っていた。
「確かに、儂は銃やらナイフやらは持たないがね。襲撃した男も、その気になれば素手で殆ど同じ事ができるはずさ。奴は単に…速やかに、そして目立たぬように、事を運びたかっただけのことよ。」
 その証拠に、夥しい数の空薬莢を、回収しようともしていない。十中八九、減音装置を着けた拳銃を使ったのだろう、と玄は言った。
 おかげで。
 まんまと奴に二十四時間以上もの活動時間を与えてしまったことになる。
 沢田は気が付いた。
「玄さん、あんた今、襲撃した『男』と言ったな。『奴』とも言った。そいつがどこの誰か、心当たりがあるのか。」
 玄は顎に手を当てて、思案する素振りになる。
「あるといえば、ある。いや、儂が思う男であってほしい。ただ、確証が足らぬのよ。」
 それきり黙ってしまった。
 組長の死体だけが見つからなかった。脱出した形跡はなかった。
 だとすれば。
 一同は施錠された上で鍵を壊された金庫の前に集まっていた。
 溶断機で強引に開けるしかないのか。
 皆がそう思ったとき、玄はある物が床に落ちているのに気付いて拾い上げた。
 日本刀の刀身である。柄はない。
「仕方ない。開けてやるか。」
 茎(なかご)を直接、握っている。玄にはその方が都合がよかった。
「下がれ。危ないぞ。」
 高波の構え。振り下ろした刀身は、音もなく閂の部分を抜けた。
 解錠の手順を踏まず、金庫の扉がじわりと開く様を、沢田らは呆然と眺めた。
 玄は日本刀を投げ捨てた。刃が赤熱している。
「鋼を斬るのは、難しい。不十分だな。」
 玄の、不満を含んだ声に、沢田は特殊鋼の閂そのものが綺麗に切断されていることを知った。切り口も赤熱していた。
 人間に、こんなことができるものなのか。
 その驚きは、金庫の扉を開けて別のものに変わった。
 金庫内の隙間という隙間に詰め込まれた得体の知れない物。それが、組長その人の変わり果てた姿だと気が付いたのである。
 恐慌は起きなかった。あまりに現実離れした状況に、感覚が麻痺している。
 全滅か。
「さて、沢田よ。これからどうするね。」
 この場面で、主人に決断を求めるのは客分としては当然だ。玄はヤクザではない。ヤクザとしての判断はヤクザがやれ、ということだ。
 食えない爺だ。だが、使える爺ではある。
 得体の知れないこいつを、得体の知れない襲撃者に、ぶつける。
 ぎりっ。
 沢田は奥歯を噛みしめた。
「警察には知らせない。壊されているとはいえ、これだけの銃を捨てるのも手が掛かる。時間を掛ければ部品も調達できないことはない。」
「それで?」
 沢田の目が据わっていた。
「死体は全部始末する。人手も要るし、死体処理場も動かさなければならん。これは、俺一人では無理だ。会長に報告せねばならん。――河野。」
 はい、と返事をしてスーツ姿の小太りの男が進み出る。撫で付けた髪や金属フレームの眼鏡は会社員風だが、レンズの奥の三白眼は怖い。
「お前は幹部連中に連絡して、ここに人を集めろ。なるべく静かに来てもらうようにな。奴らが来たら俺が状況を説明する。」
 どやどやと駆けつけられたら、深夜の住宅街がちょっとした騒ぎになる。抗争だと疑われて、警察の介入を招くことだけは防がねばならない。
 内部抗争、という言葉が頭に浮かんで、沢田は溜め息をついた。
 組長であった河津幸三郎のリーダーシップに不満を持っている幹部は多い。それが何とかまとまっていられるのは、会長である蔡範善=チェ・ボムソンの威光に依るところが大きい。麻薬による巨大な資金は、河津組の生命線であり、それを握っているのが会長なのだ。アジア系マフィアとの繋がりも深い。
 様々な利権は、幹部たちに分散されている。例えば、沢田であれば麻薬の取引を仕切っている。他にも、銃器や武器に関することや売春など、それぞれの担当分野がある。そこからの金を組が吸い上げて、幹部たちに分配することになっている。それをもとに幹部は舎弟を養うわけだ。
 死体を処理する施設は、沢田の管轄ではない。だから、使用するにはそこを仕切る幹部の了承が要る。無論、死体処理専用の施設などではなく、普段は産業廃棄物処理場として稼動している。そこを、時間外に、違う目的で動かすだけのことだ。
 いずれにしても。
 微妙なバランスで成り立っていた幹部同士の連携が、危うくなっているのは明らかであった。組長は既に亡く、跡取り息子も死んだ。幹部も二人殺されている。
 大きな利権を握らされている自分の身は、今危機に瀕している。そういう自覚が沢田にはある。もともと、若い沢田が実質的に組長に次ぐ力を持つことを、面白く思わない幹部は少なくない。
 残り四人の幹部が結託して、沢田の追い落としを図ったら、どうする?内部抗争の主犯に仕立て上げられて、粛正される可能性もあるのだ。手は打たねばならない。
 今はシンガポールに滞在している会長に電話をした。手短に状況を報告し、今後の段取りを打ち合わせる。
 上手く行くだろうか。そう思うと、白いスーツの上着にまで染みるほどに、沢田は冷や汗をかいた。
「連中に現場を見せて、説明をする。お前たちは何があっても手を出すなよ。俺と、玄さんだけで話をする。俺も拳銃は持っていかない。いざというときは――。」
 低い声で玄が嗤った。
「任せておけ。今はお前を殺させたりはせんよ。だが、見せしめに何人かは殺ってもかまわんよな?」
 今は、か。
 沢田は胸の内で苦く笑う。
 果たして、幹部たちとの会談は沢田の危惧したとおりになった。
 事務所内の惨状を幹部とその次席の連中に見せた後、一同は二階の会議室に場所を移している。そこで、普段から彼のことを疎ましく思っている古参の幹部が、惨劇の黒幕が沢田その人だと言い出したのである。幹部の数が減った今、利権の再分配を行う必要があった。それ故の、言いがかりと追い落としだ。
 秘密裏に事件を処理してしまえば、警察の介入を免れることはできる…が。極道が面子より利益を優先するようでは、河津組も長くはない、か。
 苦い思いを噛みしめながら、かねてよりの手筈通り、沢田は会長に電話を掛けた。
 幹部たちの携帯電話が一斉に鳴り始める。着信番号は―――会長からだ。
 会長はそれぞれの幹部と話すために、個別の携帯電話を使っている。誤って別の相手に掛けてしまわないように。今は、五台の携帯電話を前に話しているのだろう。無論、操作は秘書がやっているに違いない。
 幹部の後に控えている連中にも聞かせるために、沢田は自分の電話の音声をスピーカーから出るようにしてやった。
『儂だ。何やら騒がしいな。』
 紛れもなく、チェ・ボムソンの声だ。
 会長、と沢田を糾弾していた幹部が電話に訴えた。
「沢田の奴が、組長や他の連中を皆殺しにさせたんです。」
 沢田を今すぐ殺させてください。
『黙れ、飯田。』
 電話越しであっても、会長の言葉には逆らえない。
『沢田を殺す、だと?そんなことは儂が許さない。むしろ。』
 少し、間があった。会長の息遣いに、笑う気配があるのを幹部――飯田は信じがたい思いで聞いた。
『死ぬのはお前の方だな、飯田よ。』
 後に気配を感じて、飯田は振り向く―――ことはできなかった。
 瞬時に頸をへし折られ、頭が奇妙な角度に垂れ下がる。崩れ落ちた飯田の後に、玄が立っている。口元に薄い笑みを浮かべていた。
 会長の言葉が続く。
『玄さん、飯田は』
「死んだ。」
『済まんな。これから儂の言うことに同意しない奴も、全員殺してくれ。』
「心得た。」
 恐ろしいことを、簡単に請け負う。
 西本は見ていた。他の連中に混じって、ずっと見ていた。他の幹部が連れてきた連中が殺気立っているのに対して、沢田の部下たちは平静を保っている。
 玄が恐ろしいからだ。わかってはいるつもりだったが、あっさりと目の前で人を殺す様を、西本は初めて見せられた。
 会長は、あっさりと宣言した。
『組の跡目は沢田に継がせる。』
 声に、凄味が増した。
『沢田は、儂の息子だ。幸三郎の腹違いの弟よ。』
 やっぱり、そうか。
 沢田自身、ようやく腑に落ちる。道理で会長が可愛がってくれたわけだ。兄が――組長がボンクラでよかった。切れ者であれば、とっくに始末されていたことだろう。
『沢田。』
「はい、会長。」
『今日からはお前が組を背負え。名は――変えたければ河津になれ。』
「いえ、今はまだ。その名にふさわしい働きができるようになるまでは、沢田のままで結構です。」
『殊勝よな。』
 嘘、である。父のいない子を産んだ母の苦労を、沢田は知っている。当時幼かった彼は、父の顔をよく覚えていない。それが会長だったというわけだ。早くに母を亡くして生活が荒れていた沢田を河津組が拾ってくれたのも、決して偶然ではないということだ。が、早死にした母の葬式にも来なかった父の姓――通名に変えるのは、正直言って気が進まない。
 それでも、血筋という奴は十分利用させてもらおう。そう考えている。
『取り敢えず、だ。薬の取引は予定通り行え。』
「こんな時にですか。」
『こんな時だからだよ、組長。』
 チェ・ボムソンは「組長」という言葉に力を入れた。他の組員に自覚を促すためだ。
『取引の予定を変更すれば、何かあったのではないかと相手方を不安にさせる。河津組は盤石だ、と思わせねばならん。』
 なるほど、一理ある。ハリボテであっても、見るものに「本物だ」と認識させれば十分なのだ。資金源を繋いでおくことは、組の立て直しにも必要不可欠だ。
『玄さん、現場のことは頼むよ。』
「なあ、会長。儂は思うんだが。」
『何かね』
「取引を利用して、組を襲った奴を釣り上げることができないだろうか。」
 ざわめきが、起こった。
『何か考えがあるようだね、玄さんには。』
 玄に対しては会長の言葉も柔らかくなる。
「奴は、薬の取引を潰そうなんてことは考えちゃいない。多分な。ただ、必要だったから、事務所を襲った。それだけだ。けど、このままじゃあんたらの面子も丸潰れだ。そこで、だ。」
 玄の白髯が揺れた。口元を歪める―――笑ったのだ。
「取引は予定通りやる。そこには物騒なものを持った連中も大勢やって来る。その網の中へ、奴を誘い込めれば…どうだね?」
『できるのか。』
「奴が、儂の思っている男ならね。ただし、餌が要る。まずは、それを確かめねばならんな。」
 玄は、西本に向かって手招きした。
「小僧。少しばかり仕事をしてもらうぞ。」
 玄と共に、一旦沢田の屋敷に戻る。事務所では、大勢の男たちが息を殺して死体の搬出と建物の洗浄を行っているはずだ。
 大量の死体を見せられ、また目の前で玄が殺人を犯すところを見た。否、あれは「殺す」というより人体を「壊す」という感覚に近い。
 ともかく、西本は完全に登校する気を失っていた。油断すれば、嘔吐しそうになるほどに、気分が悪い。
 それを、無理矢理行かせたのが玄であった。「例の教師を映像に収めてこい。そいつが暴力にどう対処するか見てみたい」と、売り出されたばかりの小型ビデオカメラを渡された。
 馬越の一連の行動は、全て西本の指示によるものである。午前中の菊池の授業であれば、御雷は教室にいる。授業直後にトラブルを起こせば、御雷の動きを全て映像に納めることができるはずだ。そう考えた。「映像が撮れたら可能な限り早く戻って来い」と言われていることもあって、西本は気が急いていた。
 馬越に与えた命令は、極単純なものだ。授業が済んだら煙草を吸いながら三年生の教室あたりをうろついて、教師に注意されるのを待て。注意されたら。そいつを殴れ。できれば女がいい。御雷が出てくるまで、殴り続けろ。最終目的は、御雷を痛い目に遭わせることだ。思い切りやっていいぞ。
 今年に入ってからの稲見中の雰囲気を面白くないと感じているのは馬越も同じだ。馬鹿だけに、鬱憤晴らしができると喜んで引き受けてくれた。
 その挙げ句が、あのザマだ。
 こうなることを玄はわかっていたのか、と思う。
 三年生の教室周辺を選んだのは、周囲に人の気配が満ちていれば、撮影していることを御雷に気取られにくいからだ。女を殴れ、と言ったのも、玄にそうしろと言われたからに過ぎない。
 何でもお見通しか。
 当初感じていた薄気味の悪さは、今や明確な禍々しさとして西本には感じられる。
 重傷の馬越を放置したまま、沢田の屋敷に直行した。
 西本からカメラを受け取った玄は、実に嬉しそうに笑った。サングラスで眼を隠しているため、口元の表情から推察しただけのことだ。皺深い顔に似合わず、白い歯が綺麗に揃っていた。
「さてさて。本物の御雷であればよいが、の。」
  *
 そして、今。
 玄は飽きることなく馬越の―――正確には御雷の映像に見入っている。
「で、玄さん。何か、わかったかい。」
 沢田が再び尋ねた。
 その声が疲れているのは、大量の死体を処理したからというだけではない。
 今や沢田は組長なのである。薬の取引を成功させ、河津組の面子を潰した男に償いをさせなければならない。
 いずれ、組長の交代劇は他所の組にも知られるだろう。その時までにケジメを取っておかねば舐められかねない。弱みを見せればすぐに食い付かれるのは、この世界の常識だ。
 ヤクザの世界でも、管理職とは胃が痛いものなのであった。
 そんな沢田の思いを知ってか知らずか、玄の口調は妙に浮き浮きとしている。
「稲見中学校といったか。この学校には面白い人間がいるな。」
 静止画面にして、指差す。
「例えば、ほれ。この女。こいつは、やばい。」
 田中であった。据わった眼で、馬越を凝視している。
「どんな教師だ。」
 沢田が問う。
「体育の先生。空手の国体選手です。」
 西本は敬語が使える。
「へっ。」
 玄が笑った。
「こいつが、国体選手か。小僧、確かにこいつは強い。が、これまでに優勝したことはないだろう?」
 西本は頷かざるを得ない。
「こいつはな、国体で優勝することになんか興味を持ってねえんだよ。――だって、見てみろよ。こいつの目。」
 吊り気味だが、切れ長の涼しげな眼。瞳に映っている色は。
「こりゃあ、人殺しの眼だ。」
 むしろ剽軽なほどの口調だが、笑う者はいない。西本にとっても意外であった。ただ腕っ節が強いだけの教師では、ないのか。
「だがなあ、この女は直接関わらなければ、どうということはないだろうさ。まだ、経験が浅い。あと三十人も殺せば、裏の世界でもやっていけるようになるだろうがね。」
 とんでもないことを、何でもないような口振りで言ってのける。
 その、玄の声が、変わった。
「本当にやばいのは、やっぱりこいつだな。」
「御雷…。」
 玄の指先が、福々しい青年講師を指していた。
「そうだ。小僧から名前を聞いたときから、もしかしてとは思っていたが。」
 そういえば。四月の最初に「今度来た講師が気に入らない」と愚痴をこぼしたときに、玄が異様なまでの食い付きを見せたのを、西本は思い出した。
「…探していた…?」
 西本の呟きに玄が反応する。
「そうさ。御雷という名のおかしな講師が、あちこちに出没しているという話を聞いてな。極道のネットワークを伝って追いかけていたってわけだ。」
「それじゃあ、うちに来たのも…。」
 沢田にも分かりかけてきた。
「今原市に御雷が来たという情報があってな。会長に口を利いてもらった。まあ、あの男にはいろんな組が痛い目に遭わされているからなあ。直接お互いが手を組むことはなくても、儂に協力するぐらいのことはしてくれるのさ。」
 疑問もある。
「しかし、うちの事務所を襲ったときも、その御雷って奴だとわかるような証拠は何も残していなかった。ましてや、そいつが学校の先生とか。どうやって知った。」
「蛇の道は蛇というが。」
 玄は唇の右端を大きく吊り上げた。
「文部省から情報をもらったんだよ。」
 沢田は―――よくわからないなりに西本も、絶句した。
 文部省といえば、日本の教育界の元締めのような存在だ。そこからヤクザに、いや正確にはこの危険な老人に情報が流れるということは。
 玄は芝居ががった仕草で大きく溜め息をついた。
「可哀想になあ、こいつも。文部省から依頼を受けて仕事をしている一方で、自分の情報を流されているわけだからな。まあ、文部省も一枚岩ではない、ということだろうの。」
 極道の世界より、よほど魔物が多いようだ、と高笑いする。伏魔殿、という言葉が沢田の脳裏に浮かんだ。これでも結構な読書家なのだ。
「それで、玄さん。結局のところ、どうなんだ?この男は、あんたの探している御雷とかいう奴なのか。」
 答える代わりに、玄はビデオカメラを操作した。
 スロー再生だ。
 馬越が殴りつけようとした瞬間、御雷の左肩が異様な伸び方をするのが見えた。
 御雷が避ける瞬間は、スロー再生でも姿を捉えることができなかった。
 だが、カメラは捉えていた。避けきった後、痛そうな顔をする前に、一瞬御雷が浮かべた表情を。
 肉眼では到底捉えきれないほどの短時間ではあったが―――御雷は淡い笑みを浮かべていたのである。その、黒曜石のような瞳の色に、沢田は鳥肌が立った。
「間違いないね。こいつは『御雷』だよ。それも、史上最高傑作といわれた男だ。事故で焼け死んだとも聞いていたんだが、ちゃんと生きていたんだなあ。」
 玄の口振りは、旧知の友の無事を喜んでいるようにしか聞こえない。
「玄さん、何だか嬉しそうだな。」
「ああ、嬉しいね。」
 空気が急激に粘度を上げる―――そんな声で、玄は囁いた。
「ようやく、この手であいつを殺すことができるんだからな。まったく、長かったぞ。」
 重くなった空気を振り払うように、玄はいつもの調子に戻る。
「さて、こいつが御雷だとわかったら、次は釣り上げるための仕掛けを用意せねばな。」
「そういえば、『餌が必要だ』とか言っていたな。」
 そう難しい話じゃない、と玄は笑った。
「御雷の男は、どういうわけか代々女に弱くてな。女たらしのくせに、惚れた女をとことん大事にする。こいつの父親もそうだった。好きな女ができた途端に、現役を引退しちまったよ。ま、こいつは血の繋がらない養子だがね。」
 西本にサングラスの下の眼を向けて、問うた。
「この男に、誰か特定の女はいるか?」
 わからない、と西本は答えた。
 ふうん、と玄は暫し考える。
「まあ、危険な仕事をする者は、弱点になり得る恋人や家族を作らないのが基本ではあるが…。」
 ぽん、と手を叩く。
「よし。ここは一つ賭けてみるか。」
「何に?」
「御雷の男の甘さに、だよ。」
 どうやら、サングラスの下でウインクをしてみせたらしい。
「たとえ恋人にはなっていなくても、自分に惚れている女に危害が及んだら…?その危害の原因が、自分と関わり合いになったことだとしたら…?まあ、こいつがそんなことを無視できる男だったなら、女の方は可哀想なことになるだろうがね。」
 玄は、しばらく画面を送ったり巻き戻したりしていたが、やがて言った。
「この目と表情…この女だ。こいつは、御雷に惚れているな。この女を餌にしよう。」
 玄とて、初見の映像ですぐに判断できるわけではない。普段西本が話している内容から、情報を補っている。常に、御雷が寄り添い、行動を共にしている女。 
 沢田は、「ほう」と称賛の呻きを漏らし、西本は息が止まった。
「小僧、この女の名前は?」
 ぎりっ。
 西本は奥歯を噛みしめた。だが、暴力の世界でのし上がることは、彼の中では既に決まったことだった。変更があってはならない。声は震えなかった。
「菊池由美。俺の担任です。」
 

【鳴神来たりて(仮題)】のための創作ノート⑤

 【第五章 蠢動】

      1
 御雷は手っ取り早く腹を満たすために、今原市に来てからよく利用するうどん店に入った。讃岐――香川県でよく見られるセルフサービスの店だ。
 もともとは、製麺業者が近隣の住民に「玉売りのついでに店の隅で食べさせてやった」のが発祥とも聞く。客が自分であれこれやるのが目新しく、面白くもあったためか、讃岐うどん巡りがブームになるにつれ、全国的に認知されるようになっていった。
 新規に「讃岐うどん店」を開店する際にセルフサービスの業態を取り入れることも多い。御雷が入ったこの店の主人は、讃岐うどん好きが高じて某有名店で修行し、出身地である今原市に出店した。
 かつて香川県で過ごしたことのある御雷は、讃岐うどんが好きだ。打ち手により固めにもなり、また柔らかめにもなる、麺。コシとは固さのことではない。弾力や押し戻しも含めた麺の「力」だと、御雷は考えている。この店には、彼が好む太めの田舎風麺と、イリコを主体とした薫り高い出汁があった。
 入口を入ってすぐのところに重ねてあるトレイを取ると、湯気を上げる釜の側で大将がにこやかに注文を取る。
「まいど、ありがとうございます。何にしましょう。」
 お品書きも見ずに御雷は応える。
「かけ三玉。そのままで。出汁は少なめでお願い。」
 翻訳するとこういうことだ。
『かけうどん。麺の量は三玉(一人前が一玉)。水で締めた麺を温め直す必要はない。出汁はたっぷりかけずに、麺がひたひたに浸かる程度で。』
 麺の量の指定は、店によって違うから注意が必要だ。「小(一玉)、大(二玉)、特大(三玉)」が一般的だと思われるが、「小(一玉)、中(二玉)、大(三玉)」のところも少なくない。うっかりすると、二玉食べるつもりが三玉食わされる羽目になりかねない。だから、御雷は基本的にどの店でも玉数で注文する。
「あいかわらず食べますねぇ。そんなに痩せてるのに。」
 すっかり顔なじみになっている大将が軽口を叩きながらうどんをカウンターに置く。手に取ると、生暖かい。「冷たい麺+熱い出汁=ぬるいうどん」だ。琴平町にあった宮武という店の影響で、「ひやあつ(冷やい麺に熱い出汁)」と呼ばれることもあるこの食べ方が、御雷はことのほか好きだった。
 麺を温めていないため、伸びにくい。そして、ぬるいくらいが一番味が良くわかるのだ。熱々のうどんを好む人は多いが、御雷にとっては熱すぎて味がよくわからない。
 三玉入りの丼をトレイに載せた御雷の動きは速い。一旦熱い出汁がかかったら、麺の腰を味わうのは時間との闘いだ。そのまま天ぷらコーナーに進んで小皿を取り、素早くラインナップを吟味して、ちくわ、ゲソ、そして地物の太刀魚の天ぷらを取る。レジで支払いをしてから薬味コーナーに行き、ネギ、生姜を入れる。
 食事時を外した時間帯であるため、席は空いている。適当に座り、御雷は盛大に音を立てて麺を啜った。回数は少ないが、しっかり噛んで食べる。うどんを「飲む」という人は喉越しや口中で暴れる麺の感触を楽しんでいるだけだ。味そのものは噛まなければわからない。この店の麺は、少しだけ塩気が強い。三分の一ほど喰ってから、ちくわを囓る。出汁に付けて喰うと味が変わる。ゲソ天には少しだけ醤油を垂らして喰った。こんな時間だというのに揚げたての太刀魚はホクホクとして美味い。
 出汁まで飲み干して約五分。御雷は腰を上げる。トレイを返却口に戻し、カウンターに「ごちそうさま。また来ます」と挨拶して店を出る。
 その後ろ姿を、大将が惚れ惚れと眺めた。無駄のない注文――出汁も含めて食べられるだけ、飲み干せるだけしか注文しない。最低限の滞在時間で店を後にする。一時は八百軒余りあった香川のうどん店の殆どを訪れた強者である大将の目から見ても、ほぼ完璧な所作だ。称賛が呟きになった。
「どこから来たのか知らんけど、あの人もかなりな『うどん喰い』だねぇ。」

 再びヤマハに跨がり、郊外に向かう。ヘルメットの中で御雷は派手にゲップをした。生姜と葱の香りが戻ってくる。
 十五分ほど走ると、水田や畑が多くなってきた。今原市に隣接する村に入る。村といっても、人口的には市を名乗ってもおかしくない程度には多い。古い時代には天皇が滞在したこともあるという。当時は校倉造りの建物があったとかで、それが地名の由来としてまことしやかに語り継がれている。古くから開けていた証拠に、県内でも有数の古墳群があった。長く農業が産業の中心であったが、近年では今原市のベッドタウンとして注目されている。
 田の中を走る幹線道路沿いに、田舎には不釣り合いな無骨な施設があった。田んぼに土を入れて押し固め、広大な空き地を作る。そこに大型のクレーン車を配し、海上コンテナの一時置き場として活用しているのだ。今原市は港町である。地価の安さもあり、立地としては申し分なかった。
 御雷は、すでに業務が終了し、無人になったコンテナ置き場にバイクを乗り入れる。きれいに整頓されているとは言い難い。コンテナの山はいくつかに分けられている。
 道路からの目隠しになるように、わざと複雑な置き方をしているのだと、すぐに理解した。そろそろとバイクを走らせながら、目的のものを探す。無数にある四十フィートのコンテナの中から、一つだけを見付けなければならない。
 御雷の眼は、積まれたコンテナの最下段だけを見ている。人目に付きにくく、御雷が利用しやすいのは、どれだ。
 あった。グレーに塗られた古ぼけた一個に注目する。白いペンキで描かれたRISING SUNのロゴが掠れて消えかけている。相も変わらず、このフレーズか。シールドの下で苦笑いしながら、バイクを停めた。コンテナ群の壁が上手い具合に四方からの視線を遮るように配置されているのを確認して、御雷はヘルメットを取る。
 闇が降りかけている。
 コンテナに近付くと、微かな振動が伝わってくる。御雷だから、わかる。目に付きにくいように偽装されているが、このコンテナには電力が来ている。
 まずは扉を開かねばならない。目立ちにくいところに指紋照合式の鍵が付けてある…が、それは非常用だ。わざわざ指紋を残すような真似は他に方法がない時のために取っておく。
 御雷は上着から携帯電話を取り出す。都会のビジネスマン以外で持っている者はまだ少ない。
 十一桁の数字を打ち込んで、通話ボタンを押す。
 反応があった。片側の扉の閂がモーター音と共に動き、ついで観音開きの扉が開く。油圧シリンダーの動作音がして、自動車用のラダーが降りた。御雷はヤマハを乗り入れる。内寸で奥行きが十二メートルほどあるから、バイクが一台入っても余裕がある。
 同じ操作をして扉を閉める。内部の照明が点く。
 コンテナの後半分は、水や食料、簡易トイレなどが備えられている。どうしようもなくなったときは、ここに身を潜めて時間を稼ぐ。あるいはコンテナごと運び去ってもらうための備えだ。が、御雷はそれを使ったことがない。失敗しないからだ。
 それらの前には、武器や弾薬が備えてある。AR十五系のカービン、ボルトアクションライフル、サブマシンガン、ショットガン…一通りの火器が複数備えてある。サイモンが準備してくれるこれらものを、御雷はあまり使わない。
 戦争をするのではないのだ。取り敢えず、手に馴染んだ拳銃と、信頼できるライフルがあればいい。
 コンテナの最前部には一台の自動車が停まっていた。漆黒のJZA70。トヨタスープラである。
 この、流麗なフォルムのスポーティーなクーペを、御雷は愛していた。伸びやかな面の構成、力強い二・五リッターの1JZ―GTEエンジンとオートマティックランスミッションの相性もいい。アメリカでの脚に使っていたこともある。もっとも、ボディカラーは青い空に映える白で、エンジンも三リッターの7Mだったのだが。
 照明を受けて艶やかに輝く塗装面を、うっとりと撫でてやる。
 この、黒いボディ。この色こそが、今の俺の魂の色だ。そんな自覚があった。
 ボディの幅は一・七メートルを超える。コンテナの室内幅が二・四メートル弱だから、普通に駐車すると長いドアを開けるスペースが足りない。乗り込むには、ウインチとスロープを使って一旦車を外に出すか、それとも――御雷は運転席側のドアの前に立つと、コンテナの天井に手を伸ばした。取っ手状の金具が二つ。それを掴んで身体を浮かすと、ガラスが下ろされたままになっている窓に、脚から滑り込んだ。何度も繰り返しているせいか、どこにも身体をぶつけることなく運転席に納まった。
 ダッシュボードにはオーディオやエアコンのコントロールパネル、そして灰皿などが並んでいる。御雷は少しだけ突き出したオーディオユニットを掴んで、引っ張った。樹脂同士の填め込みが外れる音がして、それらが一体になって外れる。もっともらしく造り込んであるが、すべて一体で奥にある物入れの蓋になっている。エアコンの操作以外の機能はダミーだ。空調ユニットは取り回しを変更され、より高効率で小型のものが場所を変更して押し込まれている。
 御雷はダッシュボードに手を突っ込んで、拳銃を引っ張り出す。御雷/ボウランドカスタム。あのカスタムガンを、今でも使い続けている。ハンマーはレストポジションだ。載っているスライドは三セット目である。
 質の高い鋼材を高度な技術で仕上げたガンブルーの肌を、憑かれたような眼で見つめる。満装填されたマガジンを抜き、スライドを引く。チェンバーから弾き出された九ミリパラベラムを、器用に空中で受け止める。
 同じく物入れから取り出したダットサイトのマウントをフレームに固定する。載っているのは試合でも使用していたタスコ社のプロポイントである。思うところがあって「スーパータイジャー」仕様を選んだ。ムービングターゲット―――一定の速さで走り去るターゲットを狙うことに特化した仕様である。
 動く的に当てるためには、リードを取る――的が動くスピードに合わせて狙点を前にずらしてやる必要がある。ただし、待ち撃ちでは当てられない。一定のリードを保ち、銃をスイングさせ続けて的の動きを追いながら、撃つ。
 スーパータイジャーは、ダットをリード分だけ移動させることができる。つまり、本来の狙点から移動方向とは逆にダットを移動させればどうなるか?ダットがある場所より着弾点は進行方向にずれるはずだ。要するに、「ターゲートの中央を狙えば、ダットサイトが勝手にリードを取ってくれる」機構を内蔵しているのである。
 電源スイッチのダイヤルを回して、ダットの輝度を調節する。減音器を銃口にねじ込み、マガジンをグリップに差し込む。
 バランスを確認するように銃を左手に移し、構えてみる。ハンマーを起こす。チェンバーは空だ。ワンハンド――ウイークハンドで空撃ちを試みる、左手の親指が、右側のセフティレバーの上に乗せられる。
 無造作とも見える動きで引き金を絞る。プラスティック製のトリガーのタッチは優しかったが、エッジの効いた感触は鮮烈だ。御雷の意志と寸分のずれも見せず、ハンマーは落ちた。乾いた音を立てて撃針を叩く。ダットは微動だにしない。
 御雷は左手を助手席のヘッドレストに当て、窓の外を狙ってみる。右手はステアリングを握っている。
 御雷のマスターアイ=利き目は右目だ。そのまま助手席側の窓の外を狙えば、車の進行方向を見続けることはできない。
 これは…練習が必要だ。一旦嵩張る減音器を外して、物入れに戻す。ボウランド――自作の品を、御雷は怪物ガンスミスへの敬意を込めてその名で呼ぶ――も一緒に収納される。ダッシュボードの蓋がもとに戻される。
 さほど広くないトランクルームには、ケースに収まったスイス製のアサルトライフルが納められている。専用ケースが比較的コンパクトなのは、リトラクタブルストックを畳んで収納しているからだ。信頼性が高く、ボルトアクションライフルにも迫る命中精度を叩き出すこの銃が、御雷の目下一番のお気に入りだ。
 御雷は携帯電話を取りだし、スープラの前を塞いでいる扉をひらくための番号を入力する。通話ボタンを押すと、着信信号でスイッチが入る仕組みになっている。
 観音開の扉が開放され、続いて直立していたスロープが油圧で降りる。
 御雷はイグニッションキーを捻った。二百八十馬力を発揮する二・五リッター六気筒のターボエンジンはほぼノーマルだ。ごく簡単に目を覚まし、安定した回転を保つ。始動直後の高めのアイドリングが、TRD製のスポーツマフラーから野太い排気音を奏でる。
 ギアセレクターをDに入れ、パーキングブレーキを外す。フットブレーキを緩めるとスープラはするするとスロープを下った。ノーマル車高だからフロントバンパーの顎を地面に擦りつけるような醜態を見せることはない。ダンパーやスプリング自体は強化されている。床面を中心とした車体の補強も行われている。外見はあくまでノーマル然とした地味なものだ。ターボR――グレードを表すエンブレムも外されている。見るものが見れば、レカロのセミバケットシートを備えた室内で気付くかもしれない。ホイールはボルクレーシングのディンプルが入った五本スポークに変えられている。大径ホイールへの換装やタイヤサイズの変更は行っていない。デフは機械式LSDが組み込まれている。
 コンテナのハッチを閉じると、御雷はコンテナヤードから幹線道路にスープラを出した。アクセルを踏み込むと、ドライの直線路でもリヤタイヤのグリップが怪しい。ステアリングで器用に修正しながら、御雷は笑みを浮かべている。
 すでに後継のJZA80スープラにモデルチェンジして久しい。向こうはスポーツカー寄りで、旧型のJZA70は明らかにGTカーだ。気の利いた電子制御もなく、重い。明らかに車の素性では雲泥の差がある。それでも御雷は旧型スープラのフィーリングが好きだった。絶対的な速さよりも、手足のように振り回せることが重要だ。
 御雷が向かっているのは、いわゆる旧道である。中低速コーナーと短いストレートの組み合わせから成る、短いワインディングロードがある。高低差が大きい。かつては待避所だったスペースがあちこちに残り、週末になるとドリフトを初めとした危険運転を楽しむ若者が集まってくる。若年のギャラリーも多い。
 まずは法定速度で流して、コースを確認する。路面が荒れている。途中にゴルフ場の出入り口があるから、時間帯によっては危険だ。
 峠の出口に小さな集落があり、地元の老人がゲートボールを楽しむような小さな公園があった。そこの駐車場でスープラをUターンさせる。ライトを点ける。ボンネットのノーズ部分からライトユニットがせり上がる。
 御雷は無造作にスープラを発進させた。コーナーへの進入速度が速い。ブレーキングで重心を前方に移動させ、後輪の荷重を抜きながら、セレクターを二速に落とす。アクセルを踏み込むと簡単にリヤタイヤがグリップを失った。
 コーナリングGでグリップを失ったリヤ側のボディが振り出され、そのままスピンモードに移行しようとする。御雷はアクセルの開度を巧妙に調整してリヤタイヤがスライドした状態を保ちながら、決定的な破綻を迎えないようにする。最小限のカウンターステアで、重い車体が派手にドリフトしながらクリッピングポイントを掠め、コーナーを脱出することに成功する。短いストレートを終え、ブレーキングする。二速のままだ。ブレーキング、アクセルオープン、リヤタイヤがブレイク、カウンター、アクセルコントロール…繰り返しながら、御雷は峠道を四輪流しっぱなしで抜けていく。
 彼が駆使しているのは、きっかけにパワースライドを利用したドリフトである。慣性によってリヤタイヤを振り出すテクニックに比べてれば、難易度は低い。が、御雷はそんなことには頓着しない。意外に思われるかもしれないが、JZA70スープラはATでもドリフト走行が容易な車種の一つだ。御雷の目的はドリフトそのものではない。むしろ、楽に余裕を持って運転できた方が狙いには合う。
 日没直後の峠をドリフトで走り回る暇人は多くない。おかげで御雷は存分に練習できる。
 慣れてくると、よそ見をしながらでも走ることかできるようになってきた。身体がコースを覚えたのだ。タイトなコーナーで、車体をほぼ真横に向けながら、眼は助手席の窓の外を見続けている―――そんなことができるようになった頃、ガソリンの残量警告ランプが点いた。
 法定速度を守りながら給油に向かう。のんびり走らせるのは警察に目を付けられたくないのと、簡単なクールダウンを兼ねている。
 四輪を滑らせてのドリフト走行では、グリップ走行に比べてエンジンの回転数を高く保つ時間が長くなる。非力な車を走らせる際に、コーナリング中にエンジンの回転数を落とさないようにして、コーナー出口からストレートへの繋がりで少ないパワーを有効に使うような手練れも存在する。当然ながら、機関への負担も大きい。
 御雷のスープラは吸排気系の効率を少しだけ上げてあるが、基本的にエンジンはノーマルである。だから、安全マージンは大きい。オイル交換さえ怠らなければ1JZは壊れない。峠を攻め込んだ後、平常速度で少し走らせればターボも傷まない。
 セルフのガソリンスタンドに入り、給油しがてらタイヤの空気圧を調節する。トレッドを見ると、溶けたような減り方をしている。重量級の車を振り回せばそうなるのは当然だ。御雷は、故意に派手なドリフトを演じているのだから。
 無駄を減らしてスライドを最小限に抑え、タイヤのグリップを車体を前に進めるために使って効率よくトラクションを掛けたなら。コーナリングスピードは恐ろしく引き上げられ、驚くべきタイムを刻むことができるだろう。
 だが。それではギャラリーには喜んでもらえない。
 これはタイヤ代が大変なことになりそうだ、と御雷は嘆息する。莫大な金を持っているはずだが、給料が入る口座には大して預金がない。ATMを利用すれば映像記録が残る。御雷本来の財布の紐はK2に握られている。彼女の管理能力は完璧だ。頼めば日本の口座に金を送ってくれるだろう。かといって講師姿で大量の現金を扱って目立つのも避けたい。コンテナ内にはある程度活動資金があるが、御雷が現地調達することも黙認されている。
 ハイオクガソリンを満タンにし、スープラを今原市に向ける。

      2
 午後八時を回っていた。
 港に続く大通りは早々に店仕舞いして寂しいものだ。一本入ったところにアーケード街があるが、シャッターを下ろしたままの店が増えつつある。港まで続くアーケード街の入口には県内でも数少ないスクランブル式交差点がある。だが、利用者数を見れば、こんな疑問が湧く。
 何故こんな場所にスクランブル交差点など作る必要があったのだろうか。
 誰もが、今原市の繁栄と成長が永久に続くと錯覚した時代があったのである。スクランブル交差点は、大いなる勘違いの証拠として今も機能し続けているだけのことだ。
 今原市の中心部は意外に私営公営を含め駐車場が少ない。大通りの副道にパーキングメーターが点在しているが、この時間帯にはもう動いていない。
 御雷は数少ないコインパーキングにスープラを停める。少し歩かねばならない。
 街灯の光を避けて移動しながら、御雷は体型を変化させる。歩道を歩き始めた時には、人の良さそうな丸っこい身体の青年に変わっている。
 一軒だけ灯りが点いている中華料理店に入った。
 大将が一人で中華鍋を振っているような小さな店である。こういう店が美味いのだ。
 御雷は小上がりのテーブル席に着き、餡掛け焼きそばの大盛りと麻婆丼の大盛り、さらに餃子を三人前注文した。
 テレビのバラエティー番組をぼんやりと見ながら、淡々と飯を食う。飢(かつ)えているようでもなく、かといって不味そうに食うわけでもない。食べ方が丁寧なのだ。何気なく食べているだけなのに、その姿が端正に見える。さして男前ともいえない御雷だから、逆に店主にとっては印象深かったらしく、暇な時は向こうから話しかけてくるようになった。
 今原市に赴任するのが決まってから、ほぼ毎日のように訪れている。
 適当に相槌を打ちながら、これまでに様々な情報を引き出していた。
 この店は八時四十五分になると客を帰して店仕舞いをする。その日最後の出前をするためだ。常連客はそのへんをわかっているから、八時過ぎには帰ってしまう。
 他に客のいないときに店主は御雷に打ち明けた。そうしたくなるように、御雷が仕向けたのは言うまでもない。新参者故の不案内を演じて、教えてやりたいと思わせたのである。
 この店から数百メートル離れたところに、小さな暴力団事務所がある。今原市にはまとまって秩序だった大組織というものはない。小規模の組同士が小競り合いをしているのである。そこも、そんな組の一つであった。
 その事務所に、夕食兼夜食を出前するのが大将の日課なのである。三階建ての事務所ビルの最上階に暮らす組長とその家族は別として、下に詰めている若い連中は出前で腹を満たすしかない。大将としても嬉しい仕事ではない。が、毎日利用してくれる上に支払いもきっちりしていれば上客だ。何しろ、今原市は不景気なのだ。
 そうはいっても、やはり暴力団員というのは不気味なものだ。カチコミ――対立組織の襲撃を警戒しているのか、大将とは直接会おうとしない。鉄製の玄関扉の前に、出前の岡(おか)持(もち)を置く。そしてインターホンを使って来訪を告げる。後はそのまま帰るだけだ。翌日の開店時間前に事務所に寄ると、玄関前に食い終わった食器が納まった岡持が置いてある。それを店に持って帰って洗う。その後仕込みを完了させ、開店を知らせる黄色の回転灯のスイッチを入れる。
 日課とはいえ一日の終わりと始まりに暴力団と関わらなければならないというのは気持ちのよいものではない。
 御雷は世間話の合間に大将にビールを勧めて、そんなことを喋らせた。さすがに喋り過ぎたと思ったのか、「私がそんなことを喋ったなんて他所で言わないでくださいよ」と大将は口止めする。御雷はにこにこと笑いながら承諾してやる。
 そんなこともあって、御雷に対して細々とサービスしてくれる。いかにも温厚そうな御雷の外見に思考を誘導されて、敵対組織の構成員である可能性など思いつきもしない。今日は注文した品に加え、残り物だからと言いつつ後から唐揚げを山盛りにして出してくれた。
「有難いけど、こんなにあったら八時四十五分までには食べきれないよ。」
 大将は人の良さそうな笑みで応じる。
「お客さんならそれくらいは食べられるでしょう。」
「まあ、量的には問題ないけどね。」
「私はね、お客さんの食べっぷりが好きなんですよ。九時までに終わってればかまいませんよ。」
「それなら間に合いそうだね。」
 御雷は幸せそうに唐揚げに箸を伸ばす。焼きそばと麻婆丼、餃子も適度な速度で胃に送り込んでいく。元々大食いだから、苦しくはない。味も御雷の好みに合っている。
 もちろん、ただ飯を食いに来たわけではない。
 御雷は、待っていた。
 電話が鳴った。大将が応対する。慣れた感じだが、微妙に緊張しているのがわかる。
 こんな時間に出前の依頼か。
 御雷は耳を澄ませる。大将が注文を復唱する。
 丼物、麺類――なるほど。常時事務所に詰めているのは五~六人といったところか。
 大雑把に見当を付ける。おそらく、幹部級――弱小暴力団の幹部がどれほどのものか知らないが――は、一人。あとは下っ端だろう。何人かいる幹部が、持ち回りで自分の手勢を使って事務所を守っているわけだ。
 組長直属の腕が立つ連中は、事務所ではなく上階に待機する場所があるのだろう。そして、常駐する彼らは多分出前の飯を食わない。
 理由は簡単だ。毎日食っていれば、どれだけメニューが豊富でもいずれは飽きる。事務所に詰めている奴らには交代があるから、たまに食うこの店の料理を美味いと感じるわけだ。
 そこまで考えた時、御雷は全ての料理を食い終わった。九時までにはまだ間があった。
 忙しく出前の準備を進める店主に配慮して、釣り銭のないように代金を支払う。「ごちそうさま」と言ってから店を出るのは御雷の習慣だ。
 彼は、買い物をする時にも「ありがとう」と言う。客だから、金を払う側だから、といって傲慢な態度を取る連中の感覚が、御雷には理解できない。
 店を出た御雷は表通りを外れて路地に入る。店と店に挟まれた、狭い空間で本来の体型に戻る。ジャンプスーツを絞る。
 上着のポケットからイヤフォンを取り出して右耳に挿す。
 せわしなく炒め物をする音が聞こえてくる。少し音が籠もっているのは、集音器が箱状の容器に納まっているからだ。電波の強さ自体は十分だった。満足して受信機のスイッチを切る。イヤフォンは耳に入れたままだ。
 御雷は、中華料理店の岡持に盗聴器を仕込んでいた。定休日に店に忍び込み、自作の薄型盗聴器を木製の棚板に埋め込んである。部品はサイモンに調達させた。市販されていないものも多いが、出所を探ることはできない。研究施設由来の一品製作品だからだ。バッテリーの保ちを優先させて、御雷が三百メートル以内で受信機を作動させた時だけ集音と発信を行うように設計してある。普段は待機状態で節電する。
 出前先の暴力団事務所を探る。それが今夜の目的だ。
 黒いジャンプスーツにオリーブドラブのジャケットを羽織った御雷は、街灯の明かりが届かないところを縫うようにして移動する。蛍光灯はどれも黄色っぽく濁った光を弱々しく放っている。照らす範囲は狭い。メンテナンスが行き届いていないのだ。
 不景気な街にもいいところはあるものだ。御雷は皮肉な笑みを浮かべる。
 それにしても。
 夜の闇にあってさえ、仄白く光を放つような美貌が邪魔だ。フェイスペイントや目出し帽で隠したいという欲求が頭をもたげる。が、それをやればかえって不自然に目立ってしまう。
 ここは、戦場ではないのだ。少なくとも、御雷以外の人間にとっては。
 幾度か角を曲がり、御雷の足が止まった。組事務所のある通りに出たのである。塀から片目だけ出して、目的の建物を見る。
 至誠孝道会河津組。
 暴力団としてはごく小規模だ。事務所ビルの間口も狭い。そのかわり奥行きが深い。俗に言う「鰻の寝床」のような白い三階建てのビルには、暴力団であることを誇示するような装飾はない。表札すらない。
 警察の取り締まりもそれなりに厳しくなっているため、ここ数年で暴力団の活動は大人しいものになりつつある。表立った違法行為は減っている。
 御雷はヤクザが嫌いだ。任侠映画の人気俳優は、確かに魅力的だ。だが、所詮は作り物だとわかっていても、御雷は「何故他の生き方を選ばなかった?」という思いを抑えられない。何が任侠だ、と気分が悪くなるだけだ。
 人生の無駄遣いをする奴を見ると、虫酸が走る―――俺も、同じか。
 ヤクザなど、ダニと同じだ。他人の血を吸って丸々と肥え太るだけの汚らしい生き物だ。
 俺も、同じだ。
 汚れた人間が、ダニの住処を探ろうとしている。その皮肉な構図に、御雷は無意識のうちに自嘲的な笑みを唇に刻む。

      3
 御雷が河津組に目を付けたのは、他の暴力団がジリ貧になっていく中で、異例に羽振りがいいからだ。
 FBIの情報網は日本にも及んではいるが、本国ほどの精度は出ない。その代わり、交換研修等を通してFBIとの繋がりをもつようになった警察官が、県警今原署にいるのだという。どんな組織にも異端児は存在する。誰が協力者なのか、御雷には知らされていない。だが、日本の情報はアメリカを経由して、再び日本にいる御雷の元にやってくる。
 河津組が飼っている売人達は、餓鬼共に薬を売って荒稼ぎしている、という。
 近年の違法薬物使用に関する問題点の一つに、使用者の低年齢化がある。昔は、薬を買えるのは大人だけだった。それなりの収入がなければ薬は買えない。依存が深まるにつれて生活が乱れ、やがてまともに収入が得られなくなって最終的に人生を破壊してしまう―――それはまた別の話である。
 昔は売人にもそれなりの良識があったのかもしれない。子供には、売らない。
 御雷は常々思っていることがある。
 暴力団絡みの薬物売買などより、煙草会社の商売の方がよほどたちが悪い。巧妙にイメージを操作し、子供のうちから喫煙への憧れを誘導する。テレビのコマーシャルで。ドラマの中で。煙草に火を点ける男たちは、ある時は哀愁たっぷりに、またある時は野蛮なくらい野性味を帯びて描写されている。
 コマーシャルとは、一種の刷り込みだ。サブリミナル効果が一時問題になったことがあったが、そんなものを使わずとも、子供達に一定の方向性を持たせることは可能だ。
 煙草の習慣性は、強い。酒と並んで「薬物乱用の入口」と呼ばれるだけのことはあるのだ。ニコチンに依存する習慣が当たり前になると、さらに危険な薬物を使うことに対する心理的な抵抗が弱くなる。より深く、より激しい刺激を求めて、転がり落ちるように薬物中毒者になっていくわけだ。無論、低年齢で始めるほど、依存症からの帰還は難しくなる。
 今原署の管内で報告されている麻薬の使用者の最低年齢は、小学校四年生だということだ。中学生の兄も中毒者だったという。家族間、友人間で広がるのは、速い。
 御雷が見た資料の中には、内偵中の売人を撮った写真もあった。ちょうど、客と待ち合わせて薬のやり取りをしているところを写している。現行犯で逮捕すればいいようなものだが、警察は元締めである河津組自体を押さえたいと考えている。現組長の河津幸三郎の父は蔡範善=チェ・ボムソンという。現在は会長職に納まっているが、朝鮮半島と縁が深い人物である。彼が半島の独裁国家からやって来る大量の麻薬をコントロールし、あまつさえ競争相手である他の組織にも流してやることで急速に求心力を増している…というのが警察の見方だ。
 しかし、そう簡単に尻尾を掴めない。売人を抑えても、蜥蜴の尻尾切りに遭うだけだ。普通の取り調べでは、売人は決して口を割らないだろう。報復の恐ろしさもさることながら、口の軽い人間は裏の世界では居場所がなくなる。様々な条件を総合すると、今の警察にできるのは、監視と情報収集ぐらいなものなのである。あるいは、際限なく売人を挙げ続けて辛抱強く力を削いでいくのか。
 河津組に属している人間で、決定的なミスをした者はいない。だから事務所に踏み込むことはできない。きっちりと手順を踏まなければ、ガサ入れもできない。そんな時代にあって、警察では手が届かないところを専門とする人物に期待する人間が現れたとしても不思議ではない。FBIに関わると思考が実利主義的になる――ような気が、御雷はしている。
 ポケットからズングリとした単眼鏡のようなものを取り出した。右目に当てて河津組事務所に向ける。野生動物の観察等に使われる、簡易な暗視装置だ。赤外線照射装置―――要するに赤外線のライトで照らして、その反射を映像化する装置である。安価な民生品であった。
 軍用の暗視装置は、もう自分から赤外光を発したりはしない。同様の装置を相手が持っていたら自分の存在が筒抜けになるからだ。可視光線で真っ暗に見えても、赤外線が見える眼からは煌々と光を放っているのが丸見えになる。
 御雷は、装置の欠点――軍用品に比べて遅れている点を逆に利用してやるつもりだ。暗視装置の赤外線照射装置にはアルミテープが貼られている。ライトとしての機能が殺されているわけだ。
 左目で可視光の映像を、右目で赤外線による映像を見る。脳内で合成して両者の差異を調べてみる。
 何カ所か、可視光では暗く見えるのに、赤外光では明るく照らされている場所がある。
 監視カメラとセットになった赤外線ライトだ。赤外光が自分の方を照らしていないのを確認して、御雷はそろりと通りに出た。無論、街灯の作る影の中に。
 正面入口のところは、前の道路まで明るく照らされている。
 カメラの性能的に、今の照度だとライトで照らされている範囲外のものは明瞭に捉えられないと考えて差し支えない。昼間事務所の前を通りながら見たところ、設置されているカメラは随分古い型だった。
 それ以外のカメラはあまり目立たぬように仕掛けられている。これも、ライトで照らされている範囲に踏み込まなければ脅威にはならないだろう。
 光電子増倍管を用いた可視光増幅方式の暗視装置を持っている奴はいるかもしれないが、常時見張りが立っているわけではあるまい。
 暗視装置を眼に当てたまま、御雷はライトに照らされた範囲を避けて事務所の周りを歩き回ってみる。肉眼でもある程度赤外光は見えるのだが、暗視装置のライトを見るのは得意ではない。御雷には直接的な光より「熱」を視認する方が容易であった。
 河津組の西側は空き地になっている。組関係者の駐車場として使われている。赤外光が降っていた。そちらに面した窓にはことごとく格子が嵌められ、侵入者を拒んでいる。
 東には、木造の商店が軒と軒を接するほどの近さで建っていた。事前に住宅地図で調べ、その店が井門商店であることを知っている。かなり前に廃業した古い建物だが、高さだけは組事務所とほぼ同じぐらいある。入口は東側を向いているが、クリーム色のシャッターは固く閉じられていた。
 その、廃商店の周囲を赤外光が照らしていることを、御雷は知った。光に入らないように気を付けながら調べてみると、非常にわかりづらい位置に、巧妙に偽装してカメラを設置してある。
 組事務所だけではなく、他人名義の古ぼけた建物にまでカメラを仕掛ける意図は、何だ。
 不意に解答が浮かんで、御雷は笑みを浮かべた。中華料理店で見せたのとは正反対の笑み――悪意だ。
 一旦事務所から離れて闇に身を隠す。周囲を窺う。
 この辺りには商店や薬局、建築事務所などがある。この時間にもう営業しているところはない。おあつらえ向きに、事務所の向かいの模型店は廃業して久しかった。かつては子供達で賑わったであろう店は、入口のシャッターが閉じられている。その前にあったガシャポンやら自販機は撤去されているが、自転車置き場として活用された長い軒は今でも残っている。
 御雷はもう一度確認する。組事務所の道路に面した側に窓はない。殺風景なビルだ。
 そこが、いい。
 御雷は薄笑いを浮かべると、手近の街灯に向かって跳んだ。跳び蹴りの要領で靴底を鉄の柱に打ち込む。打撃音はしなかった。膝を曲げて衝撃を吸収する――のみならず、全身の発条をたわめて音を消したのである。次の瞬間には街灯の柱を蹴って、高く身を躍らせている。そのまま、商店の軒に軽々とよじ登る。
 隣接する建物の軒を、そして屋根を、ベランダを伝って模型店の方に戻る。
 御雷が模型店のひさしの上に降り立った時、折り板の屋根が、軽く雨が降った時のような音を立てた。ごく、短くだ。
 屋根材は清潔ではなかったが、寝転がるのを躊躇するほどではない。御雷は横になった。
 少しの間、目を閉じる。
 程なく、軽やかなエンジン音が聞こえてきた。見なくてもわかる。荷台に出前機を付けた中華料理店主のスーパーカブだ。
 盗聴器のスイッチを入れる。
 岡持の内部に響くスーパーカブの排気音は籠もって聞こえた。丼の中で液体が揺れる音は聞こえない。丼ごとにラップで丁寧に蓋をしてあるために多少のことでは汁がこぼれたりはしない。ラップの蓋が不要なほどに、出前機の衝撃吸収機構が巧みに料理を守っているわけだ。
 大した発明だ。
 夜空を見上げながら、ふとそんなことを思った。地方都市の夜は、それなりに星が見えた。かつてアリゾナで見上げた、凄いくらいの星空を思い出して、御雷は思わず目を閉じる。
 聴覚に集中する。
 岡持が玄関前のコンクリート製の床に置かれる音。店主の足音。ドアフォンのボタンを押す気配。会話はない。そのまま足音が遠ざかり、スーパーカブが走り去る。
 店主はこのまま帰宅し、明朝食い終わった食器が納まった岡持を回収して店に出るのだ。
 スーパーカブがいなくなるのを待っていたように、硬い音がして鍵が開く。鉄製のドアが少しだけ軋みながら開かれる。堅い足音は、昔便所で使われていたような木製底の突っかけ履きだろう。ドアが閉まる。
 岡持の蓋を開く音がした。御雷の耳は微かな息遣いを捉えている。
 ひさしの端からそっと覗くと、小柄な影がライトで岡持の中を照らしているところだった。
 何かの拍子で偶然ライトがこちらに向くこともあるかもしれない。御雷は再び死角に身を隠す。
 不審なものが入っていないか確認してから持ち込むように、手順が決められているのだろう。一応はセキュリティにも気を配っている…つもりらしい。蓋を取った途端に起爆する爆弾だったらどうなるだろう、と考えてみる。
 さっきの男は死ぬ。扉や建物はダメージを受けるだろう。しかし、鰻の寝床のような建物の深部まで破壊することは難しい。仮に侵入されるにしても、迎え撃つ体勢を整えるだけの時間的余裕がある、と奴らは想定しているのだ。
 薄型盗聴器は見つからない。ビルの中に持ち込まれたようだ。
 やや聞こえが不鮮明になったことからそう推測する。
 もし、盗聴器に対する備えがあれば、見付けられるかもしれない。盗聴器の発する電波を発見し、設置場所を特定する装置は市販されている。
 しかし、特に動きはなかった。
 最近では個人宅に盗聴器が仕掛けられる事件も珍しくはない。都会の電気街に行かなくても、通信販売で簡単に買うことができる。安物の盗聴器の使う電波の周波数帯には定番がある。御雷が自ら組み上げた盗聴器は、そんな判りやすいものは使わない。
 彼が自作した盗聴器は電源も含めて非常に薄くできている。情報の送信法法も独特だった。音声を生のまま送るのではない。特定のコードに変換して発信する。イヤフォンから聞こえる音を他の人間が聞いたとしても、小刻みなビートの連なり――単なるノイズとしか思えないだろう。それが御雷の脳を通ると普通の音声に変換されるのだ。コーディングの設計をしたのはK2だった。彼女が内緒話をしたいときに、そんな方法を使ったことがあるのを覚えていた御雷が、盗聴内容の暗号化に利用させてもらうことにしたわけだ。
 周波数帯の違いと、独特のパルスが、盗聴器発見装置の眼を眩ませてくれる…ことを期待していた。上手くいったようだった。少なくとも、今回に関しては。
 割り箸を割る音。麺を啜る音。飯を咀嚼する音。
 冷めた飯を食いたい奴はいない。特別なことがなければ、全員が一斉に食事をするようであった。話し声から個人を識別すると、六人。御雷の読みと合っている。
 彼らの会話からわかったことがある。
 基本的に、事務所に詰めるのは六~七人である。幹部が一人と、その手下共だ。武器は自前で準備しているが、非常時には事務所に備えているものを使うこともできる。逆に、突然のガサ入れに対しては迅速に武器類を隠す段取りもしてあった。
 まあ、ガサ入れするところまで漕ぎ着けた警察の眼を誤魔化すことは難しいだろうけどな、と御雷は静かに笑う。
 今回は初めて事務所詰めに加わった若手のために、古株がレクチャーしているのだった。普段は「運」などというものは信じない御雷ですら、幸運だと感じた。
 一回の事務所詰めは二十四時間。交代は午前三時半だ。新聞配達を装う襲撃者を避けるためだという。実害は無かったものの、数年前には玄関ドアに銃弾を撃ち込まれる事件に遭っている。
 遅い夕食だけは時間を揃えて全員で出前を食い、それ以外は交代で仮眠を取りながら適当に飯を作って食う。年寄りにはきつい仕事だから、事務所詰めのメンバーは随時若手に入れ替わっている。それでも、指導役を兼ねた腕利きは幹部と共に毎回参加している。
 持ち回りで、一月のうち一週間程度は事務所に詰めている計算になる。
 結構な過酷労働だ、と御雷は思う。屋内に閉じこもり、来るか来ないかわからない襲撃に備える振りをして、ただただ時間の経過を待つ。自分なら、気が滅入る。
 盗聴器の拾う音が少なくなる。交代で仮眠に入っているのだ。微かにくだらないテレビの音が聞こえる。
 と、乱暴に岡持の蓋が開かれ、ガチャガチャと空の食器が突っ込まれる音がして、思わず御雷はイヤフォンを引き抜きそうになった。この分だと食器を洗ったりはしないのだろう、と推測する。
 奥の方から足音が近付いて来る。七人目の男は、世間的には高級品と呼ばれる靴を履いているようだった。他の連中とは、違う。足音の軽さが、この男が肥え太った老害幹部ではないことを示している。
 起きている連中に手短に指示を出す声が若い。なるほど、実力主義を実践しているわけか。無能な老害ばかりの方が、仕事が楽になるのだが…。
 組長が降りてきた様子はない。幹部だけが最上階に行けるのだろう。
 麻薬の取引で他の組織との融和を図っているとはいえ、その動きを面白くないと感じる勢力も存在する。身内にさえ容易に会おうとしないのは賢明だ。
 さて、と御雷は考える。
 組長ら最上層部とて、建物に籠もりきりというわけには行くまい。麻薬の取引には本人が出向かねばならぬ事もあるだろう。この事務所にもかなりの量の薬を保管してあるのは確実だが、決して全量ではないはずだ。
 御雷にはおおよその見当が付いているが、実際に目視で確認したかった。
 気温が下がってきた。春先の夜は冷える。
 鉄の折り板の上で、御雷は尿意を催した。ジャンプスーツのジッパーを下げ、器用に男根を引っ張り出す。身体を捻って、折り板の凹部に静かに放尿する。小便は樋を伝って静かに配水管に吸い込まれていった。
 苦いコーヒーが飲みたい。腹も減った。
 様々な雑念が浮かんでくる。
 ふと、女を抱きたいと思った。ここから少し行けば、フィリピン人ダンサーが副業で春を売っている店があることを知っている。が、射精のために女を買うのは自分らしくないと考えている。女を物のように大切に扱うことに抵抗はないが、女を物のように売り買いするのは生理的に受け付けないのだ。
 ただ、待った。
 午前三時。
 御雷はその時が訪れたのを知った。
 電動巻き上げ機が鈍い音を立てて作動し、頑丈な重量シャッターが軋みながら開く。そっと覗く。井門商店のシャッターが開いていく。赤外線ライトが照らしていたのは、ちょうどシャッターの前辺りだった。
 御雷は肉眼で見た。ただし、視覚の認識を赤外側一杯に拡張している。考えることは放棄して、視ることに集中する。廃屋であるはずの井門商店に、熱源がある。音と熱量から推測されるのは、六リッターほどの多気筒エンジン――アイドリング状態のV12エンジンだ。
 ほどなく井門商店から滑り出してきたのは、メルセデス・ベンツSクラスであった。脳内で色の補正をし、車体色がシルバーであることを知る。ナンバーは覚えた。
 なるほど。
 こちらが本命の出入り口というわけか。組長や最側近の連中用に、隣接する廃商店を利用して、三階まで直通の通路に仕立て上げたわけだ。無論、事務所の中にも組長の生活スペースに続くドアは存在するだろう。だが、組長が他の構成員にも内密で動き回るとしたら、専用の通路があった方が便利ではある。となると、組事務所の玄関脇にこれ見よがしに置かれている下品な改造を施した白いベンツは「見せかけ」ということになる。
 何処に行くのか。何時に帰ってくるのか。
 それはまだわからない。しかし、この時間までなら組長は事務所内に留まっている。それを知りたかったのだ。
 東の空が藍色を見せ始めている。
 御雷はそろそろとひさしの上を這って事務所から離れていく。数軒先まで軒やベランダを伝って移動し、事務所から死角になる路地に降りた。コインパーキングに向かうまで、一応尾行が付いていないか何度かループを描く経路を取る。

      4
 夜露で濡れたスープラのところに辿り着くまで二十分近くかかった。車内に滑り込む。エンジンは掛けず、姿勢を低くして通りに視線を送る。来るだろうか。
 午前三時四十分。
 こんな時間に、数台の自動車が走り去っていく。やはりこちら側に出てきたか。
 夜目の利く御雷は、乗っている人間の顔を映像的な記憶として覚えていく。二十歳前と思われる青年、三十絡みの中堅、四十半ばのベテラン。
 見る者が見れば、どいつもこいつも堅気ではないのがわかる。最後尾はグリーンのジャグワーだった。ステアリングを握る禿げ頭の爺を見て、御雷は気分が悪くなる。この暗さの中、サングラスを掛けていた。小柄で貧相なのが、窓から見える姿だけで想像できる。嫌な気配を纏っていた。
 あれが、今日の当番だった幹部が連れてきたという腕利きだろう。あの体格で幹部のボディーガードを務めるのだ。妙な技を使わなければよいが。
 幹部はジャグワーの後部座席で寛いでいる。まだ若い。三十歳をいくつも出ていないように見えた。その隣に、がっしりとした長身ながら、まだ幼さの残る若者が座っているのが見えた。御雷の唇が口笛を吹く形になる。
「西本…祐司とかいったな。ヤクザと付き合いがあるっていうのは当たりだったか。」
 中学生が事務所詰めとは世も末だ。
 赴任前に見せられた資料で、顔写真は確認している。彼も今回御雷が行おうとしている大がかりな外科手術の対象に挙げられている。今はどの候補者もグレーゾーンだ。
 切るか、残すか。それを見極めねばならない。
 御雷は二千五百CCのエンジンに火を入れる。暖機運転をしている間に駐車料金の支払いをする。ほぼ一晩停めたので、自動精算機は法外とも思える高額な請求を突きつけた。
 肩を竦めながら御雷は千円札を必要なだけ機械に呑ませた。掛かった経費は必ず回収してやろう、と考えている。
 廃墟のように静まった街を、法定速度でスープラが走る。この速度域ではTRDのマフラーも控えめな音量しか出さない。
 車首を郊外に向ける。
 十分ほど走って着いたのは、閑静な住宅地の外れにある、一際広大な敷地を有する屋敷だった。高い塀に囲まれ、電動式の重厚なゲートがある。門柱には「石上」と彫り込んだ黒御影石の表札が嵌め込んであった。門を入り、自然の林を切り取ったかのような庭を横切ると、二階建ての古い洋館がある。一階部分に幅六メートルほどの木製のオーバースライダーシャッターが嵌め込まれている。
 御雷はサンバイザーに挟み込んだリモコンのスイッチを押す。高価な木製シャッターはするすると開いた。巻き上げ式の金属シャッターに比べると、開閉速度が速く、軋み音も出ないのが特長だ。
 御雷はスープラを頭から突っ込んで、停めた。エンジンを切る。シャッターを閉める。
 車二台分のスペースには、隅にオフロード用のバイクが停めてある。自動車一台にバイク一台。これは、御雷が教員として公式に借りている、あの民家の車庫と同じだ。各拠点間の移動にはバイクが便利だ。何しろ、ヘルメットを被っている限りは顔を見られる心配がない。
 この屋敷は、御雷が本来の住処として借りているものである。教員として借りている方は、いわばダミーだ。通勤用のスバルはここに持ち込みたくないし、逆にスープラであちらに戻ることも避けたいと考えている。そうなると、移動用のバイクが複数あった方が都合がいい。今も、海上コンテナに一台置き去りにされている。それでも、この屋敷にあるもう一台で活動を続行できる。
 まだ確認していないが、残り二カ所のコンテナにも、同様に車と武器弾薬の類い、それにバイクが積まれているはずだ。だが、それはあくまで予備であって、車種もスープラではなかったりする。御雷の要請どおりなら、スズキ・ジムニーも持ってきているはずだ。軽自動車ながら――いや、軽だからこそ、日本国内の悪路走行においては、ほぼ最強といっていい。作戦の組み立てによっては、予備と主力のポジションが入れ替わることも珍しくはない。
 御雷はスープラから荷物――拳銃やライフル、弾薬類を下ろす。ガレージから直接屋敷内に通じるドアを開け、室内に運び込む。ふと思い立って、スープラの車検証と免許証をグローブボックスから出した。
 荷物の一切を、絨毯敷きの広い居間に運んだ。
 薪ストーブに火を入れる。この屋敷の元の住民には、暖炉より扱いやすかったのだろう。彼女は今、高齢者福祉施設に入っている。認知症が進んでいると聞いた。近々面会に行こう、と考える。
 部屋が暖まるのを待つ間に、コーヒーメーカーをセットする。
 小便もした。汗をかかない分、トイレに行く回数が増えるのは仕方のないことだ。そこだけは年齢相応だ、と御雷は苦笑する。
 スエード張りのソファに寝そべり、免許証を見てみる。素顔の写真が貼られ、住所はこの屋敷のものになっている。生年は――常に肉体年齢に合わせて設定されている。氏名欄には石上剣(つるぎ)と記載されていた。
 剣ねえ…もっと地味な名前はなかったのか、と今回免許証を用意した担当者を問い詰めたくなる。が、ものは考えようかもしれない。特徴的な容姿に特徴的な名前の組み合わせは、かえって違和感が無くてよいのかもしれない。そこまで考えての命名なら、大したものだが。車検証も石上剣名義になっている。
 御雷は、今回三種類の免許証を持ってきている。「講師としての容姿+本名」、「素顔+本名」、そして「素顔+偽名」だ。教員免許状だけは本物を使うしかない。だから、講師として行動する時にはそれに合わせた免許証が必要だった。生年だけは捏造である。
 彼の教員免許状を見た者は一様に驚きを示す。一つには、見た目の年齢と、免許状の発行年の落差。そして、文部省自らが発行したという点について。通常は都道府県の教育委員会が発行するものである。一言で言えば「異様な教員免許状」なのだ。
 だから、派遣された際には県教委および市教委の教育長にしか見せない。厳めしい文部省の印が押された薄っぺらい紙切れが、御雷の通行手形であり、彼の行動の白紙委任状でもあった。
 「素顔+偽名」の免許証はもう一枚ある。「田中吾郎」という名で、素顔の写真を使用している。車やバイクにも、交換用のナンバーやそれに対応した田中吾郎名義の書類を用意してある。全て本物だ。田中吾郎という人物は、この屋敷と御雷の繋がりを隠すためだけに存在していた。
 御雷はこの屋敷の主の遠い親戚という立場を偽造している。もとより近隣に血縁者がいない老婦人であった。稲見中での仕事が片付くまでの間、偽の情報が信用されれば十分である。情報は偽物だが、書類は本物だった。これも、政府――というより実務レベルの実力者から御雷が受けているバックアップの一つだ。仕事が片付けば、誤入力の訂正、という形で正常な情報に戻されるはずだ。
 もっとも、いつもこの手が使えるわけではない。今回は、身内になりすます対象となった婦人が天涯孤独であったこと、そして認知症が進みつつあったことが御雷には幸いした。
 何より。
 サイモンから利用できそうな老婦人がいると情報を受け、何食わぬ顔で彼女の様子を見に施設を訪れた時のことだった。事前に偽の情報を整えた上で、施設長に訪問したい旨を伝えてあった。身元の不確かな者が入居者に面会することはできない。
 御雷は、彼女と長い間音信不通であったこと、人づてに彼女の現状を聞いたことなどをもっともらしく説明し、「今さら合わせる顔がないので、遠くから様子だけでも」と控えめに来意を告げる。
 彼女は誰かと談笑するでもなく、日だまりの中で静かに椅子に座っていた。窓の外を眺める聡明そうな横顔に、若き日の美貌を認めて御雷は胸を打たれる。
 ただ、遠くから見ていただけだったのに。
 不意に彼女は御雷に気付いた。目が合うと、立ち上がって童女のように手を振った。兄さん、と御雷を呼んだ。
 すっかり心が子供に還ってしまっているようで…と担当職員が申し訳なさそうに言う。
 あなたのことを、生き別れたお兄さんだと思っているみたいですね。
 それ以来、御雷は定期的に彼女の元を訪れている。
 とりとめもないお喋りをしたり、ままごと遊びに付き合ってやったりする。
 彼女の死後のことについて、施設長とも相談した。御雷は葬式の費用を除いて、動産・不動産とも全て自治体に寄付することを申し出た。施設長が明らかにホッとしたのが感じられた。彼女は自分に認知症の初期症状が現れた時点で、入所の手続きをした。利用料その他は、その際に手続きを終えているから困りはしない。しかし、資産家の入所者については、その資産の処分が悩ましい。
 正直、御雷が現れた時は遺産目当てかと推測した。だが、彼は相続を放棄するという。特定の個人が相続するのではなく、公共のために寄付するのであれば、より簡潔に話を進めることができる。
 弁護士や医師の立ち会いのもと、彼女が死んだ後の段取りが決められた。御雷は、彼女が死んでから一年以内に屋敷を立ち退くことになった。逆に言えば、それまでは自由に使うことができるわけだ。それでいい。仕事を片付けるには十分な時間だった。
 童女に戻った彼女は、兄と家で過ごしたいと願っていた。同時に、それが無理な願いだということを理解するだけの賢さも残している。
 だから、家は兄さんが好きに使って。
 彼女はそう言った。
 本当に認知症なのだろうか。
 そう思わないでもない。時たま、昔の判断力が戻ってくることがあるのかもしれない。活動的で、新しいものを抵抗なく受け入れる逞しい女傑だったという話だ。子はいない。若くして夫を亡くしてからは、彼の事業を引き継ぎ更に発展させた。アメリカを好み、渡米しては方々を旅したという。
 あるいは、どこかの街角ですれ違っていたのかもしれない。
 感傷的になっている自分に気付いて、御雷は強く瞬きした。立ち上がる。
 冷蔵庫から鶏肉の塊を二枚出して、フライパンに乗せた。コンロに乗せてから火を点ける。鶏肉を上手く焼くコツは冷めたフライパンを使うことだ。必要以上に触らず、蓋をして半ば蒸し焼きのようにする。最後は余熱で火を通す。味付けは塩と胡椒だけだ。平行して、ジャガイモを茹でる。
 御雷は機械的に鶏肉とジャガイモを口に運ぶ。結局、一睡もせず河津組を見張った。時計に目をやると、午前五時になろうかという時刻であった。眠らねばならないが、空腹が邪魔をしていた。
 着任初日からよく働いたものだ。熱いコーヒーをマグカップに二杯飲み干すと、眠気が襲ってきた。本当に疲れているときは、多少のカフェインなど眠気覚ましにはならない。
 御雷はすぐにもベッドに潜り込みたいのを堪えて、キッチンにビルトインされた食洗乾燥機に食器を放り込む。銃器と弾薬を寝室のクローゼット奥の壁をくり抜いて拵えた物入れに仕舞う。開口部は巧く隠してあるが、ガサ入れのプロなら見つかってしまうだろう。他の隠し場所を作ることも考えねば。
 そうしている間にも、思考が鈍ってくる。
 車検証を初めとする書類を車両に戻す。防犯装置を在宅中のモードで起動する。歯磨きをする。風呂は――起きてからでいい。
 寝室のベッドに倒れ込むと、御雷は泥の眠りに落ちた。枕の下に差し込まれた右手は、ベレッタを握っている。

      5
 目を覚ますと午後一時を回っていた。
 ベッドを出ると足下が少しふらついたが、身体に活力が戻っている。外食をするのも面倒なので、インスタントラーメンを三袋作り、卵を二個落として鍋から直接食った。トマトを三個囓ってデザート代わりにする。
 クローゼットからボウランドとスイスのスィグ社製SG五五〇ライフルを取り出してリビングに運ぶ。床に新聞紙を広げ、分解した。前回使用した後、クリーニングしてあるため、汚れなどは残っていない。新しいオイルも差してある。
 念には念を入れて、ということだ。
 光に透かして、微細なクラックが入っていないか確かめる。組み立てて手動で動かしてみると、拳銃もライフルも異常は無いようだった。
 それぞれの予備弾倉を出してくる。十本ずつあった。
 薄い手袋を着けた御雷は、まず拳銃のマガジンに九ミリパラベラム弾を込めた。ファクトリー弾の五十発入り箱の封を切り、中身を出す。発泡スチロールの緩衝材から、薬莢の尻がきれいに並んで生えている。何度見ても美しい眺めだ。一発引き抜いて、先端を確認する。酸化していない銅の色をした弾頭は、すり鉢のように先が凹んでいる。ジャケテッドホローポイント弾―――柔らかい物体に命中した際に大きく変形して、貫通することなく全ての運動エネルギーを消費することを狙ったデザインだ。簡単に言えば、「撃たれた時に死にやすい」弾である。
 八発ずつの、全部で八十発。本体に装着しているものに、八発。さらにチェンバーに装填されているものが一発。都合八十九発の九ミリ弾を今すぐ放つことができるわけだ。
 実際に持ち歩く予備弾倉はせいぜい五本ぐらいなものだ。自動拳銃にとって、マガジンの良し悪しは生命線だ。調子を落とした弾倉は使えない。だから、常に余裕を持った数を準備しているだけのことだ。
 ライフルのマガジンは半透明の樹脂製だ。目視で残弾が確認できる弾倉に、やはり工場生産品の二二三レミントン弾を二十発ずつ込めていく。この弾倉は、特別なアタッチメントを使わなくても並列に繋ぐことができる。御雷は使い勝手も考えて、二本を一組にまとめてあった。本体装着分と合わせて十二本のマガジンを用意している。実に二百四十発ものライフル弾を撃てる状態に置いた。
 それでも。
 一人を一発で倒したとしても、拳銃と合わせてわずか三百人程しか殺せない。
 そんな物騒なことを御雷は考えている。
 そもそも、それほどの大量殺人を行うなら、銃撃よりも爆撃の方がよほど効率がよい、とも思う。
 御雷にとっては、銃器も知恵も、そして乗り物を操るテクニックすらも、外科医の振るうメスと同じ意味しか無い。
 切れ味のよいメスを準備したら、あとは何処を切るかを決めねばならない。そちらのほうが、切ることそのものより遥かに難しい。やり直しがきかないからだ。
 とはいえ、切るべきものを残してしまうよりは、余分に切ってしまった方が結果的には良いだろう、とは思う。
「まあ、全力は尽くすけどね。」
 独り言で作業を締めくくる。ボウランドをスープラに戻す。スィグ――ライフルは再びクローゼットの中だ。スィグといえば、新しい複列式弾倉を持つ自動拳銃の評判がいい。日本在住では自由にテストできないのが残念だ、と思った。
 サイモンには、もう十分迷惑を掛けている。いずれアメリカに帰ることがあれば、試すこともできるだろう。
 御雷はスリムフィットのジーンズと襟のあるスポーツシャツに着替える。
 スープラを駆って彼を兄と慕う老婦人のもとへ向かう。差し入れに季節の花を少しと可愛らしい小物を買う。施設の職員に行き渡るだけの小洒落た洋菓子の詰め合わせも用意する。
 久しぶりに会った老婦人―――暁子(あきこ)は喜んだ。いつものように、ささやかながら幸せな時間を過ごした後、仕事が忙しくなってしばらく会えないことを告げる。寂しがる彼女の頭を優しく撫でて言い聞かせる。
 職員達にも同じ事を告げ、手土産を渡して暁子の世話を頼む。無論、彼らは義務を果たしてくれるだろうが、そこに「気持ち」を上乗せすることは大切だ。
 明後日の職員会後は、校務も果たさねばならない。年度初めは忙しい。講師といえども、ある程度は遅くまで学校に残ることになるだろう。
 施設を出るともう四時が近い。そのまま、昨夜ドリフトを練習したワインディングロードに向かった。ゆったりとしたペースで走ってみる。まだ明るいうちに本気で峠を攻める馬鹿はいない。たまに、ツーリング中のバイクがハイペースで通り過ぎるくらいだ。
 バイク乗りの中には、出先のワインディングロードを下調べしておいて、わざわざ走りに行く物好きもいるという。眺めのいい場所を巡るように。地元の美味い店を巡るように。気持ちよく走ることができるワインディングを訪れる。御雷には、それもツーリングの楽しみ方の一つなのだろう、と思えた。
 陽光の下で見ると、路面のアスファルトが思っていたより傷んでいることに気付いた。路面自体がうねっている箇所もある。もしかすると、山自体が少しずつ滑っているのかもしれない。そんな不吉な思いを抱かせるほどに。ここは、国道も酷いが県道もなかなかどうして大した荒れようだ。
 昨夜、スープラは何度か御雷の意図しない挙動を見せた。これが原因か、と納得する。極端に車高を落としサスペンションを固めていたなら、車体が跳ね上がる瞬間があるかもしれない。御雷はスプリングもショックアブソーバーも純正品プラスアルファ程度の強化に抑えてある。公道では挙動が神経質になると扱いにくいからだ。車体のロールはスタビライザーを強化品に交換することで対応している。
 タイヤの空気圧を、少し下げてみようか。
 そんなことを思いつつ、今夜の祭に思いを馳せる。今日は、土曜日だ。この峠にも走りたい者、それを見物する者が集まることだろう。
 中低速を主体としたこのコースは、車体を大きく振り回して派手なドリフト走行をするのに向いている。それぞれのコーナー脇に、ギャラリースペースにおあつらえ向きな待避所跡があった。「跡」というのは、今はガードレールで仕切られてしまい、実際には待避所としての機能を失っているからである。峠族の連中が、四輪二輪を問わずUターンするのに使うため、業を煮やした役所が車両を乗り入れられなくしたというわけだ。
 しかし、人間が入って見物場所に使うことはできる。結果、各コーナーに比較的安全なギャラリースペースを作ってやっただけのことであった。
 御雷は、一つ一つのギャラリースペースを注意深く見ながらコーナーを抜けていく。
 思い浮かべているのは一枚の写真だ。流れるテールランプの軌跡の向こうに、少年が一人立っているのが見える。その真後ろに、黒く太い樹のシルエット―――その樹を、探している。
 二往復して、見付けた。助手席側に捉えるように走るならば。コースの中盤、南側の入口からスタートするとS字コーナーの一つ目になる。このコースで一番長いストレート――最も高低差のある区間を上った先に、直角の右コーナーがある。そこを抜けるとすぐに問題のS字区間に入る。そこから峠の最高点を越えるまで、巧い奴は四輪を流しっぱなしで抜ける。アクセル全開からの四輪ドリフト。コース幅は狭く、逃げ場はない。ドライバーにとっては腕の見せ所であり、ギャラリーにとっても最も見応えがある区間であった。
 御雷はストレート区間の途中にスープラを停め、ハザードランプを点ける。キャンバス生地のバッグを肩から斜め掛けにして車を降り、写真に写っていた場所まで歩いた。土曜日だというのにファミリーカーもこの道は通らない。すぐ下をトンネルが通っていて、そちらの方が遥かに近道だからだ。それに、山道を走って子供が車酔いを起こしても困る。
 問題の樹を、御雷は距離を置いて眺めた。夜間に撮影された写真だが、樹のシルエットは合っている。ガードレールとの位置関係、背後に見える民家の灯り、街灯の配置。
 ここで、間違いない。
「片瀬って奴も、大したもんだ。チビっ子なのにな。」
 苦笑の影が紅い唇を掠めた。
 樹を背中にして、立ってみる。写真の中の少年のように。すると、この場所が抜群の見物場所だということがわかる。その場所を独り占めにして、誰からも文句を言われない少年。どちらかといえば綺麗な顔をしているのに、刃物のような眼をしていた。まだ成長しきっていない小柄な体。怖いのは肉体的な強さではないということか。写真も含め、今回の仕事に関する資料類は全て処分してあるが、御雷はそれらを詳細に記憶していた。
 気持ちを切り替える。
 御雷は、自分が走らせるスープラをイメージしてみる。視野の右端に、上りのストレートエンドが見える。アクセルは全開。上りだが、このコースでは最高速を記録する地点だ。フルブレーキング。リリースしながらステアリングを右に切り込んでアクセル。テールアウトの姿勢を維持しながら、対向車線に入りクリップを舐める。この場所からは車が真横を向いて飛び出してくるように見えるだろう。そこから振り戻しを利用して逆サイドのドリフトに持ち込み左コーナーに進入する。そして、御雷の立つこの場所を回り込み、再び振り戻し。右コーナーに飛び込み―――視野から消えた。
 御雷はバッグから三メートルのメジャーを取り出した。地面から一メートル五十二センチを測り、赤い缶スプレーで樹の幹に印を付ける。その印に合わせて身を屈める。
 少年の視点に合わせて、もう一度イメージの中でスープラを走らせてみる。助手席のウインドウは開いている。運転している自分自身と目が合った。
 もう一度。助手席の窓からボウランドの銃口が見えた。
 もう一度。銃口が御雷の頭を舐めた。駄目だ。
 もう一度。走行ラインを変えてみた。銃口の軌道が変わる。
 もう一度。ドリフトアングルの付け方を変えてみる。また銃口の軌道が変わる。
 御雷は、ビアンキカップでムービングターゲットを撃つ時のことを思い浮かべている。等速で直線的に動くターゲットを、リードを保ち銃をスイングさせながら撃つ。
 もしも。
 ターゲットの方が銃を持っていて、シューターを銃撃するとしたら。
 ターゲットとシューターの位置関係は相対的なものだ。ターゲット側から見れば、シューターの方が動いているように見えるだろう。
 つまり、どちらから撃とうが、要領は全く同じ事だ。
 御雷は今、シューターの位置に立って、スープラをムービングターゲットと同じように走らせるラインを探っている。正確には、スープラの中で構えたボウランドの銃口が、綺麗に等速直線運動の軌跡を描くラインだ。
 うねる路面。曲線を描くコース。繊細なスライドコントロール。
 それらを考慮すれば、正気の沙汰ではない。
 だが。
 御雷はコースを見たとき、「できる」と思った。ドリフトで走ってみて、それは確信に変わった。今は、それを実現するため、思考に没頭している。
 僅かな時間の間に数百通りのラインを試し、見付けた。御雷の望む、ただ一本の走行ライン。
 S字一つ目のコーナーへの進入アングルを深く、しかも次のコーナーへの進入姿勢作りをギリギリまで我慢すれば、可能だ。時間にして二秒程度だが、樹に対して銃口が直線に動く。
 K2に運動モデルを再構築してもらって以来、シミュレーションめいたイメージトレーニングが上手くなった気がする。脳の情報処理の手順に影響を受けているのかもしれない。
 御雷はバッグから白い円盤を取り出した。重い。分厚い鉄板を切り出して拵えた、直径八インチのターゲットである。端の方に小さな穴が開いている。赤いペイントを目安に、長いコーススレッドで幹に固定する。持参した充電式のドリルドライバーが役に立った。
 数歩離れて、見てみる。白いターゲットに、片瀬啓介の顔が重なった。ひとまずは、これでよい。
 鉄板ターゲットの分だけ軽くなったバッグを肩から掛けた足取りが軽い。
 スープラのトランクにバッグを放り込み、発進させる。先程見付けたライン上を、グリップ走行で辿ってみる。対向車線を使う部分は省略した。
 わかっていたことだが、このラインは難しい。おそらく、御雷だけ他の車とは全く違う動きをすることになるだろう。それは、きっと片瀬を悦ばせるに違いない。
 難しくても。
 できるようになるまで練習すればよい。
 御雷は、そういう男であった。

      6
 その後、御雷は残り二カ所のコンテナを確認し、装備品が揃っていることを確かめた。一つのコンテナには何故か日本刀やナイフが大量にストックしてあった。サイモンは、何に使うことを期待しているのだろうか。半ば呆れながら、一振りの刀を手に取ってみる。現代刀だが、本物の日本刀だ。ヤクザ同士の刃傷沙汰に見せかけて――いやいや、持ち運ぶ段階で目立ちすぎる。
 いわゆるハイテクノロジーの類いも持っては来ている。しかし、可能な限り使わない。特殊な技術は出所を辿られやすいからだ。結果的に一番迷惑を被るのは、様々な面で御雷を支援してくれているサイモンだ。軍での出世を犠牲にしてまで、義兄の我が儘に付き合ってくれている時点で、十分以上の迷惑を掛けてしまっているのだが。そうはいっても、御雷の活動を通して、日米双方に独特のポジションを築いているようではある。日本人の妻との間に二人の子を成しているはずだが、妻も含め御雷は会ったことがない。
 それで、いいのだ。
 スープラをしばらく走らせ、コンテナから十分距離を取ってから道端の空き地に停車する。携帯電話を出してサイモンに連絡を取る。呼び出し音三回で繋がった。
「やあ。ぼくだ。荷物は確認したよ。」
 いつも済まないな、と付け加える。
『無事に着いたようで何よりだ。ところで、身体の方はどうだい?』
「特に変わったことはない…と言いたいが、少し疲れやすくなったかな。お前はどうだい?」
 電話を通してもサイモンの声が老けたのがわかる。
『オレも、もう六十歳なんだぜ。いろいろガタが来てるよ。そろそろ現役を引退する歳だな。』
「そいつは困るな。お前が引退した後もぼくはバックアップを受けられるのか?」
 サイモンが屈託無く笑う。昔から変わらない。
「そこは心配いらないよ。『RISING SUN PROJECT』は、この先も続けられるように段取りは付けてある。」
 それよりも、伝えたいことがある、とサイモンが声の調子を改めた。
『実は…義兄さんの脳から破片を取り出す手術の目処が立ちそうなんだ。』
 一瞬、御雷の息が止まった。結果はどうあれ、ようやくその時が来たのか。何年待った?四十年…そんなものだろう。
「誰が執刀する?マシューか?たしか奴は…。」
 電話の向こうでサイモンが我慢できないというように笑い出した。
『御年九十歳を越えてもまだまだ元気だよ。といっても身体の方は大分衰えてきたから、人工体への乗り換えをK2に勧められてる。脳自体はまだ若いんだとさ。実は、乗り換え用のボディはもう用意されてるんだよ。』
「手回しがいいな。」
『何しろ、若い頃の写真をもとに製造するから、K2もデータの作成に手間取ってね。完成品を見て驚いたよ。』
 御雷にはサイモンの驚きの意味がわからない。
『だからさ、すごい美形だったんだ。何というか、ロングヘアのロックスターみたいな感じでさ。』
 マシューの眼差しの鋭さと、シャープな顔立ちを思い出して、御雷はさもありなんと思った。
「危険が無いなら、乗り換えもありなんじゃないか?」
 サイモンの声に困惑が混ざる。
『それがね、また女に追いかけ回されるのは真っ平御免だとかで、渋ってるんだよ。』
「ふうん。随分もてたんだな。手術自体はK2に任せておけば上手くやってくれるのに―――って、ぼくの手術もあいつがやるのか?」
 当たり前だろう、とサイモンは肯定する。
『彼女以上に腕のいい医師はこの地上には存在しないよ。アシスタントの手術ロボットに手伝わせて、それこそミクロン単位の作業をやってのけるんだぜ。』
 だろうな、と御雷は応じた。
「あいつは機能として優れているだけではなくて、ちゃんと努力することを知っているからな。ぼくの身体を直した時よりもずっと腕を上げているんだろう。」
『信頼しているんだね、彼女を。』
「当たり前だ。ま、無断で人工体に脳を移されそうで、そこは少し怖いけど。」
『K2は義兄さんの人工体も既に用意してあると言ってたよ。昔、まだ昏睡状態にあった頃にスキャンしたデータが残っていたらしい。』
 御雷は顔をしかめた。露骨に声に出る。
『心配はいらないよ。義兄さんは会社の社長でもあるんだぜ。たまには姿を見せてやらないと、提携相手側も不安になるだろ。』
 ああ、そういうことか。
「K2が操って、社長を演じさせてくれてるわけか。」
『そうさ。自ら全身機械化の被験者になったという話にしてある。もちろん機密事項だけどね。』
「…あの子にも、苦労をかけてしまってるな、ぼくは。」
『そう思うなら、電話の一本も掛けてやったらどうだい?彼女、ずっと義兄さんに逢いたがってる。』
 御雷はすぐに返事をしなかった。
『やっぱり…まだ辛いかい?彼女の声を聞くのが。』
「ああ、正直に言えば辛い。だけど、二十年もほったらかしにするのは駄目だな。電話するよ。」
『よかった。じゃあ、このあとすぐに掛けてくれ。』
「おいおい、向こうは真夜中じゃないか。」
『だからいいんだよ。義兄さんがいなくなってから、K2はベッドで横になるのをやめたんだ。一晩中座ったままで過ごすんだよ。きっと退屈で長い夜だと思うよ。」
 暗い部屋で、身じろぎもせず朝を待つK2の姿が脳裏に浮かんだ。是非もない。
 一旦電話を切った。随分久しぶりに、自宅の電話番号を入力する。通話ボタンを押した。
 御雷は講師として表立って使用するためのものと合わせて、二台の携帯電話を使い分けている。今使っているのはプライベート用――素顔用だ。衛星回線経由でアメリカにも繋がる。一般人の中には存在すら知らない者も少なくないという、先進的な機材である。
 呼び出し音。心臓が口からせり出しそうになる。
 五回呼び出し音があって、受話器が持ち上げられた。
『もしもし。』
 深夜だというのに快活な声だ。嗚呼、と胸の内で呟いて、御雷は目を閉じる。
 息遣いで気付いたのだろう。
『武さん…?』
「ああ、ぼくだよ。久しぶりだな。」
 電話の向こうで緊張する気配があった。無機質な声が返ってくる。
『お久しぶりです、武さん。またお話しできて、とても嬉しいです。』
 御雷は自虐的な笑みを浮かべた。K2に気を遣わせてどうするんだ。
「なあ、K2。」
『はい。』
「もう、ぼくに気を遣わなくていいよ。頼むから、普通に話してくれないか。」
 K2の呼吸音が乱れた。
『本当に…いいんですか?』
「ああ。」
『私の声…辛くはありませんか。』
 本当に恭子と同じ声なんだな。目を閉じたまま、御雷は応じる。
「辛いさ。でも、それ以上にお前の声を聞きたいんだ。」
 K2の声が滲んだ。
『ごめんなさい。嬉しいのに、上手に話せないんです。たくさん話したいことがあったはずなのに。』
「いいよ。『物忘れ』を覚えたなんて、大した進化じゃないか。」
『もう。意地悪なことを言わないでください。』
 初めてK2が笑った。泣き笑いだ。御雷もつられて笑う。
「散々からかってくれたお礼さ。」
 いろいろと、はしたない言動があったことを反省している、と消え入りそうな声で彼女は言った。赤くなっているのがわかるような声である。
『それで、いつこちらに帰ってこられるかわかりますか?』
「破片の摘出手術の件だな。」
『はい。できるだけ早い方がいいとは思います。』
「今の仕事を片付けてからだ。これが最後の仕事になるかもしれない。済んだら必ず帰るよ。」
 それまでマシューを頼む、と言い添える。
『わかりました。何とか人工体に入ってもらえるように説得を続けます。』
 御雷は苦笑する。頑張り方が少しズレているのは相変わらずだ。
『二つだけ、私の注意を聞いてください。』
「言ってみろ。」
『まず、睡眠時間について。腕時計のデータを月一回送って頂いています。』
 御雷は頷く。
「体温も含めて、取れるデータは毎月送ってるだろ。」
『この半年ほどで、睡眠時間が少しずつ長くなる傾向が出ています。』
 御雷は言葉を失う。
『十分な睡眠時間を確保しているのに、日中の短時間睡眠――瞬眠の回数が減っていません。』
「つまり?」
 K2が息を吸い込んだ。
『昏睡期が近付いている可能性があります。一度検査を受けるべきですが…。』
「今は、無理だよ。」
 ふう、とK2の溜め息が聞こえた。
『だとは、思っていました。でしたら二つ目の注意点は何とか守ってください。頭部検査に限らず、MRIは決して受けないでください。』
 MRI――核磁気共鳴画像法か。
 記憶を呼び出してみる。平たく言えば、人体を強い磁場のもとに置くことで得られる情報を画像化する技術のことだ。体内の三次元映像などを作成することが可能だ。最近は日本でも普及しつつある。今原市でも大きい病院には導入されているはずだ。CT――放射線を用いるコンピュータ断層撮影と違って被爆がないのが大きな利点だが…。
 御雷には危険なのだとK2は言う。
『あなたの脳内の破片は、おそらく鉄です。強い磁場に引かれて移動するかもしれません。』
 さらりと怖いことを言うのは、昔から変わらない。金属片に脳をかき回されるのはまっぴらだ。
『それに、電磁誘導による加熱が起こるかも。』
「ぼくには難しすぎるよ。最近は中学生相手に教えてるもんでね。もう物理は忘れた。」
 嘘ばっかり、とK2が苦笑する気配がある。
『小さな破片ですが、脳の大部分を茶碗蒸しみたいな状態にするくらいの熱量を発生させる可能性があるということです。』
 まったく、ぞっとするような話だ。溜め息しか出ない。
「わかった。そうならないように気を付けるよ。」
 記憶の中で閃くものがあった。
「お前…、結局レールガン―――電磁加速砲を実装しなかったのも、それが理由か。」
 K2は肯定する。
『はい。どんな悪影響があるか、予想できなかったので。』
「まったく…お前はいつもぼくのことを考えてくれてるんだな。」
 ぼりぼりと御雷は頭を掻いた。いつだってそうだ。俺は大事なことに気付くのが、遅い。
 思い切ったように、K2が言った。
『私にも、何かお手伝いできることはありませんか。』
 御雷の瞳が翳る。口元を寂しげな笑みがよぎる。
「なあ、K2。」
『はい。』
「ぼくのやってるのはただの人殺しだよ。前にぼくが言ったことを覚えているか。」
『…お前は人を殺すな。殺せば、お前が本当に【心】を手に入れたとき必ず苦しむことになる―――と言ってくださいました。』
「そうだ。そして、たとえ今のお前に心があったとしても、人殺しはさせられない。」
 何故、と彼女は尋ねた。
「家族、だからさ。」
 K2が息を呑む気配がある。
「お前に手は汚させない。サイモンにもマシューにも、ぼくが始末すべき相手を代わりに殺させるような真似はしない。」
 汚れ仕事は、俺の担当だ。御雷は繰り返した。
 K2は譲歩することにする。
『では、間接的にできることはないでしょうか。』
 防犯装置の無効化に、たまらない誘惑を感じたが、抑えきった。別の考えが浮かぶ。彼女がアメリカにいながらにして、できることだ。
「そうだな…もし、アリバイ作りに助けが必要になったら、お前に頼む。それでいいか?」
 はい、と応える声は、彼をからかって喜んでいた当時と少しも変わらない。
『どうか、ご無事で。私はいつまでも武さんのお帰りを待っています。』
 電話を切って、御雷は大きく息を吐いた。
 耳にK2の声が残っている。少し低めで、耳に心地よい落ち着いた声。恭子も同じ声だった――はずなのに、上手く思い出せなかった。彼女の笑顔も、怒った顔も、気が付けば少しずつ曖昧になりつつあることに、御雷は恐怖を覚えた。悪夢の中ではあんなに鮮明なのに、起きてみればぼやけている。
 かつて。
 建の命を絶った夜のことを、御雷は長い間忘れていた。どんなに痛みを伴う記憶も、時間の経過は容赦なく風化させていく。あのときの苦しさ、胸の痛みが本当に自分の感じたものだったのか。それすら心許なく思ったものだ。
 妻と息子を失った記憶も同じだというのか。自分を駆り立てている炎。我が身を内から灼き焦がし続けているこの炎も、やがては燃え尽きるというのか。
 ずっと避け続けていたK2の声に苦痛を感じることがなかった、という事実。それどころか、懐かしさすら感じてしまった。
 そのことに愕然とする。憎悪と怒りが俺の行動の原動力だったはずなのに。俺はなまくら刀になろうとしているのか。
 二十年は長すぎたのかもしれない。
 それでも、斬れ味が残っている間は、存分に斬ってやる。
 それが、御雷武という男の生き方であった。
 心がどう動こうと。行動に変わりは無い。
 いつものコインパーキングにスープラを停め、いつもの中華料理店で飯を食う。今夜も暴力団事務所への出前があった。スープラの車内で盗聴する。距離はぎりぎり三百メートルといったところだったが、無事に盗聴器は作動した。人数と、構成員の名前を可能な限り割り出してみた。
 さらに数回は、夜を徹した観測をする必要があるだろう。だが、それは今夜じゃない。
 御雷はスープラのエンジンを始動させる。
 そろそろ、祭が始まる時間であった。

      7
 ワインディングロードの少し手前で、御雷は車を停めた。十分にエンジンが温まっている今、アイドリング音は低い。
 窓を開けて、耳を澄ませた。
 聞こえる。
 野太い排気音と、タイヤの悲鳴。絶え間ないスキール音が、すでに祭が始まっていることを教えてくれる。
 スープラを発進させた。ワインディングの入口に数台の国産スポーツカーが停まっている。傍らにドライバーとおぼしき人影がある。
 御雷が通り過ぎると、トランシーバーで仲間に指示を飛ばす。一台そちらに行った。対向車に注意しろ。
 御雷はハイスピードながらグリップ走行で一本目を走った。正確には、タイヤの物理限界付近で僅かに四輪がスライドしているのだが、自車線をはみ出すことなく走る。
 速い。四速オートマティックだから、マニュアルトランスミッションのように微妙なニュアンスでアクセルをコントロールすることはできない。1JZ―GTEのトルクにまかせてずぼらな運転をしている。ただ、ブレーキコントロールと走行ラインが他車に比べて圧倒的に鋭かった。
 新型のホンダ製前輪駆動スポーツの集団が、晃のスープラとすれ違った時。彼らは異常なスピードでタイトな峠道を走り回る巨体の正体を、掴みきれなかった。
 ほどなく峠を抜ける。公園前でUターンする。駐車場に待機する面々の車を見て理解する。なるほど、ドリフト組はこちらからスタートするのが流儀らしい。今走っている連中は、スピード目当ての連中だ。時間を調整しながら、スピード組とドリフト組が交互に走るようなスタイルらしい。トランシーバーで連絡を取り合っている連中が、その辺のことを仕切っているようだ。一般車の進入を警告したりもしてくれる。そのために交通整理用の赤くて長いライト――通称「ニンジン」も用意している。
 特定のチームのメンバーなどではないらしい。現役の走り屋や奇特なOBの中から有志がボランティアでやっていることだという。
 どれほど綺麗事を並べても、彼らのやっていることは違法行為だ。速く走るためにはブラインドコーナーであっても対向車線を使う。それはドリフト組も同様で、派手なパフォーマンスを見せるために、対向車線まで含んで丸々二車線を使って走る。
「本当は、こういうのは好きじゃないんだけどな…。」
 つい、声に出た。
 御雷は、どんなに飛ばす時でも、原則的に自分の車線をはみ出すことはしない。美しくない行為だと考えているからだ。つまらないことで自分や他人の命を危険にさらすのは愚の骨頂だ、と思えた。
 それでも、付き合ってやらねばならない。
 ドリフト組が、間隔を開けて飛び出していく。タイミングもトランシーバーで指示が来ている。御雷も流れに従って、スタートを待つ車の列に加わった。
 前にいる白いFC3Sが出た。低回転では垢抜けないロータリーエンジンの排気音が、一気に甲高く突き抜ける。テールランプが閃いたと見えるや、綺麗にテールアウトの姿勢をキープして最初のコーナーに飛び込んでいく。
 上手いもんだ。
 御雷は低く口笛を吹いた。
 ピーキーな挙動を示すフロントミッドシップのFC―――マツダRX―7を自在に振り回せる奴はそれほど多くない。あれに比べれば、スープラを転がすのは乗用車を運転するような安楽さがある。
 御雷の番が来た。競技ではないから、特別なことはしない。スタートの合図と共にただアクセルを踏み込んだ。
 僅かなスキール音を残して黒い車体が猛烈にダッシュする。路面にはごく短いブラックマークが残っている。トルコンATの悲しさで、マニュアルトランスミッションほど繊細にコントロールすることはできないが、御雷はタイヤのグリップを生かし切ることに全力を傾ける。
 ノーマルパワーの重量級FRクーペが、ここまでの加速を見せる。そのことに、御雷は小さな感動を覚える。
 俺達の肉体と同じ事だ。多くの車が、潜在能力を引き出されないまま乗り回されている。乗り手の能力次第では、余計な改造などしなくとも、この程度の速さを引き出すことは可能なのに。
 勿体ないことだ。
 御雷はブレーキを踏む。踵は浮かさず爪先でコントロールする。ロール方向は強化スタビライザーで抑制されているが、ピッチングモーションは大きい。大きく車体が前のめりになる動きに合わせてアクセルを入れ、テールスライドからアングルの大きい四輪ドリフトに持ち込んだ。リヤタイヤが激しく空転し、もうもうとタイヤスモークを上げる。
 車体が内側を向きすぎないよう、カウンターステアを当てて前輪を逃がしてやる。ドリフトアングルの大きさもあってスープラは瞬時に向きを変え終わる。既に次のコーナーに向かう理想的な角度を保っている。アクセルの開度を抑え、瞬間的にリヤタイヤのグリップを回復させて車体の推進力を得る。ストレートともいえないほどの距離だが、十分にスピードが乗った。
 御雷は早めにドリフトの体勢を作り、スープラの車体を真横にしてコーナーに進入する。常識から言えばオーバースピードだ。
 だが。
 横向きにコーナーに飛び込んだスープラは、タイヤの生み出す抵抗で減速し、リヤバンパーがガードレールに接触する寸前にスライドを止め、矢のようにコーナー出口に向かう。
 異常な進入速度と派手なドリフト。なのに実際は無駄がなく、結果として異様に速い。
 後続車が先行車に追いつくことなど、この峠の、しかもドリフト組では滅多に起こらない。パフォーマンス重視で走ればそこまでスピードが上がることはないからだ。
 普通ならば。
 ステアリングを握る御雷は、唇の右端を吊り上げて笑っていた。無意識の笑みであった。
 瞳の底に炎が燃えているように、先行するRX―7のテールランプを映している。
 追いついたのだ。
 自分としては随分無駄なパフォーマンスをしてギャラリーを喜ばせてやったつもりである。その分スピードは大したことがないはずなのだが…。
 実際、今夜のギャラリーは御雷のパフォーマンスに圧倒されていた。むやみにテールを左右に振るのではなく、きっちりと姿勢を作った上で見事にスライドコントロールしてコーナーを抜けていく。各コーナーのドリフトアングルは無用に大きい―――派手に見えることを重視しているのだから当然だ。しかし、下品なほどにテールを振り出している時でさえ、走る姿が端正なのである。
 距離を詰める前にRX―7がハザードランプを点けた。減速する。「先に行け」の合図だった。このコースで最も長いストレートの入口である。
 御雷は大きくアクセルを踏み込んだ。対向車線に出て一気に並び、そのままRX―7を抜き去る。相手の進路を塞がないよう、対向車線を全力で加速する。高低差が大きい上り坂だから、ドリフトに入るためのスピードを稼ぐのに骨が折れる。
 直角の右コーナーが近付くと、御雷の心臓は縮み上がりそうになる。対向車が、怖い。カーブミラーは何も映していなかった。
 ブレーキング。上り坂だが、十分にスピードが乗っているため苦もなく車体がクラウチングし、テールを左に振り出した。窮屈な進入だが、ノーズがクリッピングポイントを掠めた後も無様に走行ラインを膨らませたりはしない。
 コーナーに進入する瞬間、ヘッドライトの光がS字コーナーのギャラリースペースを照らした。
 昼間、印を付けた樹の前に立つ、小柄な人影。脇にあるのはスクーター――原付か。
 ここからは四輪を流しっぱなしにしてコントロールする。細かくスロットルをコントロールし、ステアリングの修正は――殆どしなかった。コーナーに合わせて切り角を決めてしまうと、あとはアクセルの操作だけで曲げていく。
 そのような練習をしてきたのだ。
 視覚を赤外側に拡張。動体視力を限界近くまで上げて。そんなとき、複雑な操作を平行して行うのは難しい。
 練習は功を奏した。
 御雷は、見た。樹を背に、酔ったような顔で疾走するスープラを見つめる少年の姿を。
 幼いといえる顔に不釣り合いな、刃物を思わせる凶眼。スポーツ刈りという名の角刈り。痩せて貧弱な体躯。
 間違いない。片瀬…啓介。
 その頭の真後ろに、丸い鉄板があるのを御雷は確認した。この暗さの中、片瀬の視力では見えないだろう。
 凄まじいスキール音とタイヤスモークを上げて、スープラは二つ目のコーナーに突っ込む。片瀬の姿はもう見えない。
 十分だ。
 最終コーナーに向かう御雷は、狼のような笑みを浮かべている。美しい、狩人の姿がそこにあった。

      8
 午前一時三十分。静まりかえった峠の入口に、再び御雷の姿があった。コンテナ基地で僅かな仮眠を取った後、公園の駐車場に戻って来たのだ。
 夜風が心地よかった。
 低くアイドリング音を奏でているスープラの脇に立ち、途中で買ってきたコンビニのおにぎりを頬張っている。コシヒカリを使用していることをアピールしているだけに、美味い。常食するのは躊躇われるが、便利なものだと思った。たちまち三個を胃に収め、缶コーヒーを飲み干す。ゴミをまとめ、可燃物と不燃物用のゴミ箱に分けて放り込む。
 運転席に滑り込み、両サイドのウインドウを開けた。ライトを点ける。
 リトラクタブルライトがせり上がり、獣が目を覚ましたような印象を与える。
 無造作に発進させた。
 ドリフトでコーナーを抜けると、開けた窓からゴムの焼ける匂いが室内にまで入ってくる。
 特に表情を浮かべるでもなく、御雷は全開に近いプッシュを続けている。圧倒的なパフォーマンスで、観客を魅了するのだ。マジシャンが派手な身振りに観客の意識を誘導するように。その影に、本命の動きがある。
 コースの前半はいつものように走った。問題のS字コーナーで、昼間見つけ出した走行ラインを試すつもりなのだ。
 右コーナーを飛び出した後、タイミングを調整してS字一つ目のコーナーへの進入アングルを深く取る。不合理なラインだ。身体にかかるGが、おかしな方向に働いている。次のコーナーへの進入姿勢作りをギリギリまで我慢すれば――我慢しすぎた。姿勢作りが僅かに遅れた。不安定なままオーバースピードで進入してしまったスープラを、御雷はわざとスピンさせた。、百八十度ターンして、どこにもぶつけずに停める。
 失敗だ。だが、御雷の唇には笑みが浮かんでいる。
 時間にして二秒程度だが、樹に対して銃口が直線に動く。そこは計算どおりだった。
 繰り返し、御雷は走り続ける。回を重ねるごとに、車体の安定性が増し、独創的なラインでも破綻なくコーナーを抜けられるようになった。カウンターステアを最小に。小刻みにステアリングを操作して前輪のグリップ限界を探るソーイングは、可能な限り行わずに。
 それができるようになると、今度はS時区間の前後で助手席側の窓から外を見ながら走る練習に没頭する。左手は助手席に当てられ、ステアリングは右手一本で操作する。前方は見ない。初めこそ挙動が不安定になる場面もあったが、すぐに安定する。御雷は、歩数で位置を測り、知っている場所でなら完全な闇であっても正確に移動することができる。今行っているのは、それを車の運転に応用したものである。
 無論、生身の肉体を機械のような精密さで操るのと、肉体を介して間接的に自動車という機械を操るのでは難易度が違う。その事実を問題にせぬほどに、御雷の脳は機械との親和性が高い。肉体を道具として扱うことに特化して鍛えられた脳は、肉体の延長たる機械類にまで神経を通すことができるかのようだった。
 公園の駐車場で短い休憩を取る。
 御雷はボウランドを取り出した。チェンバーが空なのを確認して、ダットサイトを取り付け、減音器を装着する。スーパータイジャーのノブを、左向きに走るターゲットを狙うために回す。排莢口に被さるように取り付けられているのは、空薬莢を回収するための袋だ。勢いよく飛び出してフロントガラスに当たればどこに跳んでいくかわからないし、全てを回収するのも困難だ。床に転がったエンプティケースでペダルワークを誤る可能性もないとはいえない。
 満装填されたマガジンを、大きく広げられたマグウェルに差し込む。親指でハンマーをコックし、セフティを掛けた。
 車を出した。左手は助手席のシートの上でボウランドを握っている。
 御雷は右手一本だけでドリフトをコントロールし、コーナーを抜けていく。片手でやれるように、カウンターステアを殆ど当てずに済むよう練習したのだ。
 急勾配のストレートを登り切り、右コーナーを抜ける。
 ストレートエンドでは、すでに左手を持ち上げバックレストに押しつけるようにしてボウランドを構えている。S字への進入に合わせてバックレストからボウランドを離す。
 白い鉄板ターゲットが車窓を左に向かって流れるのが見えた。二秒の間に銃をスイングしながら御雷はトリガーを引いた。
 乾いた音を立ててハンマーが撃針を打った。
 なるほど、こんな感じか。
 御雷は車をスタート地点に戻す。
 ボウランドのスライドを引いて、離す。初弾がチェンバーに送り込まれ、いつでも撃てる状態になった。セフティを掛け、マガジンに一発補弾する。
 エアコンの操作パネルをいじって、デフロスターを作動させる。フロントグラス内をドライに保つためだ。グローブボックスから人工セーム革も出しておく。
 再び御雷はスープラを走らせる。ストレートエンドで既に銃を構えているのは、先程と同じだ。S字に入る。鉄板ターゲットが直線的に左に逃げる。スイングしながら、ボウランドのトリガーを三回絞った。スーパータイジャーの光点が、鉄板を中心に激しく揺れた。
 空薬莢は回収袋に収まったが、排莢口から漏れた発射ガスがフロントガラスを汚す。しかし、ガラス面が乾いているために粒子の付着は少なかった。押し殺したような発射音は、改造車のバックファイヤーの音に比べれば可愛いものであった。
 全弾、外れ。
 汚れたフロントガラスをセーム革で拭きながら、御雷は練習を続ける。ドリフトするスープラからの狙撃。必ず三発撃った。
 やがて。三連射すれば一発は鉄板ターゲットが火花を上げるようになってきた。当たるのは大抵二発目だ。三発目はもしもの時のための抑えとして放つ。
 何度も薬莢受けを空にして、持参した麻袋に中身を移す。新品の弾を何箱も空にする。薬莢受けを着けていたのに、ボウランドは一度もジャムを起こさなかった。
 そして、夜が白々と開け始める頃には、毎回必ず命中弾を送り込めるほどに上達しているのだった。三発撃てば必ず命中する弾がある。
 ボウランドから付属品を手早く取り外して、センターコンソールの物入れに仕舞う。大量の空薬莢と弾の空き箱も、途中で検問を受けたりすれば不味いことになる。が、今は眠気が勝っていた。
 腹も減っている。
 御雷は大あくびを一つして、コンテナ基地に向かう。一旦スープラをコンテナ内に格納した。空薬莢や空き箱はコンテナ内の一角に仕舞っておく。使った分の弾薬を補充する。ついでにボウランドのクリーニングも済ませた。ウエスが煤で真っ黒になる。薄くオイルを引いて、スープラの物入れに戻す。
 日曜の早朝だ。道を行く車の影はないが、慎重にスープラをコンテナから出し、石上家に向かう。ガレージにスープラを納めると、柔らかいベッドに横になりたい誘惑を辛うじて抑え、講師として借りている一軒家にバイクで戻る。
 広い邸宅もいいが、暗くて狭いこの家も、嫌いではなかった。貧しかった少年時代を思い出すからだ。自分の出発点は、そこにある。
 楽な部屋着に着替えた。明日は年度初めの職員会だ。今日だけはのんびり過ごそうと思う。
 部屋着の尻ポケットには、二十二口径のハイスタンダードデリンジャーが収まっている。トリガープルの重いダブルアクションオンリーだが、至近距離なら問題なくターゲットに命中弾を送り込むことができる。装弾数が二発というところに不満はある。本来ならポケットサイズのオートを使いたい。が、銃器の携帯を秘匿せねばならない状況では、小ささこそが正義だ。
 普段はベレッタを使い、より高度な射撃が要求される場面ではボウランドを使う。これが御雷の基本スタイルだ。取り敢えず銃器を持てればいい、という場面ではデリンジャーを持つ。S&W社のエスコートという自動拳銃にも惹かれるが、少し大きい。職場で身に付けておくには目立たないに越したことは無い。
 うどん屋に行きたいと思った。出勤時間帯に合わせて、もう開店しているはずだ。だが、身体が重い。外出するのは億劫だった。
 肩や腕の筋肉が凝っている。鈍い頭痛を感じていた。痛覚はなくとも、この手の痛みはなくならないようだ。
 鎮痛剤と胃の粘膜を保護する薬を一緒に飲む。
 コンロに大きめの鍋を乗せて湯を沸かす。冷蔵庫から、新鮮な卵を一つ取り出した。冷凍室から冷凍うどんを二パック取り出して、沸騰する湯の中に放り込む。その前に丼鉢を熱湯で満たしてやることを忘れない。
 麺が温まってほぐれるのを待つ間に、素早く万能ネギを刻む。バターを一かけ。そして黒胡椒の瓶を出す。
 本当なら、生麺か半生麺を茹でて作りたいのだが――御雷は考えるが、ゆで時間に十分ほど掛かるのを待つ余裕がなかった。何しろ冷凍うどんは手軽である。
 丼から湯を捨て、卵を割り入れる。箸で軽くかき混ぜた。かき混ぜ過ぎないのがコツだ。
 鍋の火を止め、熱くなったうどんを湯から上げて丼に移す。素早くかき混ぜる。いわゆる「釜玉(釜揚げ卵うどん)」を作っているのだ。
 正確には、御雷が作っているのは釜玉ではない。生麺から茹で上げたままの麺である「釜揚げ麺」を使っていないからだ。あくまで釜揚げ「風」なのである。麺の温度が足りない分は丼を湯で事前に温めておくことで対応する。卵は見る間に半熟状に固まってくる。そこへ御雷はバターを入れてさらにかき混ぜる。卵とバターの香りが溶け合って、何とも食欲をそそる。仕上げに醤油を一回し程度――バターの塩気を考慮して控えめに掛ける。黒胡椒を散らし、ネギを適量。
 うどん好きの間では「和風カルボナーラ」とも呼ばれる釜バターうどんが今日の朝食であった。息もつかず、一気にすすり込む。適度な油分と、鼻へ抜けるバターの香りが心地よい。黒胡椒の風味はアクセントとして抜群だ。
 二玉では当然足りない。のだが、温かいものを食ったおかげで激しい眠気が襲ってきた。食器の後片付けもほどほどに、御雷は薄い布団に寝転がる。程なく眠りに落ちる。
 無防備に眠る姿は、どこか死の匂いがした。
 
      9
 月曜日。御雷は午前七時四十五分に出勤した。職員会の開始まで十五分ある。既に見知っている者、今日初めて顔を合わせる者。それぞれに快活に挨拶する。体格と表情、喋り方、声音――それらを動員して彼らの中の御雷像を、御雷にとって都合がよいものに誘導するのだ。
 八時。新規採用および転入者が職員室の前に並ばされ、校長から紹介される。その後、一人一人から簡単な自己紹介があった。
 御雷にとっては何度も経験してきたことだ。当たり障りのない挨拶の後、自分が極端な下戸であることをアピールする。ハンサムな新卒新採の数学科教師は、逆に自身のアルコール耐性の高さをアピールした上で、「今夜の歓迎会が楽しみです」などと言う。
 どうなっても、俺は知らないからな。
 御雷が下戸なのは本当だ。FBI時代には、アルコールの効力から身体を護る薬剤を服用していたこともある。が、肝臓への負担が大きいうえに、現在はFBIから直接的なバックアップを受けられないため、薬が手に入らない。最初から酒は飲まないことにしている。今の御雷であれば、肝機能をコントロールすることも不可能ではないかもしれないが…酔い覚めの虚しい感覚そのものが嫌いだった。
 飲み会は、憂鬱だ。飲むことで本当にわかり合える、飲まなければ絆も生まれないなどと考えている奴を見ると、反吐が出る。「飲みニケーション」などという造語を恥ずかしげもなく繰り出す相手なら、殴り殺しても許されるような気がしている。
 気持ちを切り替えた。
 これも仕事だ。自分たちの歓迎会くらいは顔を出すべきだろう。
 紹介が終わると、いよいよ本年度最初の職員会が始まる。新任は適当に空いている席に座らされる。教諭連中がまず座り、残った席に講師である御雷が座った。
 菊池の隣であった。綺麗な項(うなじ)だ、と思いながら席に着く。今日はダークスーツに身を包んでいるため、先日のジャージ姿とは随分と雰囲気が違う。薄く化粧をしている。職員会の合間に、教育委員会に提出するための職員集合写真を撮るために、身支度を調えてあるわけだ。御雷達新転任者はさらに校区内の小学校や公民館、教育委員の自宅、校医や歯科医などへ挨拶回りに行かねばならない。
 嗚呼、面倒臭い。
 表情に出さずに口の中で言葉を転がしてみる。
 ふと、隣の菊池と目が合った。目礼し、口の形だけで「この前はありがとうございました」と礼を伝えてくる。古傷の痛みを取ってやった件だろう。
 分厚い資料が配られる。教務主任の伊賀が一人一人の机に置いていく。眼の下に濃い隈が浮いていた。御雷の着任から、突貫作業で資料を作り直したのだろう。少しだけ気の毒になる。
 様々な主任が発表されるのを、資料を眺めながら聞き流す。講師である御雷には、いわゆる省令主任は回ってこない。せいぜい校内の仕事があるだけだ。欠伸を噛み殺しながら時間の経過を待つ。
 議題の進行に合わせて資料を捲る。
 それとなく職員室を見回すと、学級担任候補になりそうな連中が緊張しているのがわかって可笑しくなる。それぞれに思惑があるのだろう。昨年度の受け持ち学年の生徒を今年も担当したい者。あるいは、その逆。
 新採君、この規模の学校なら、君が担任になることはまずないから安心しなよ。
 御雷は助言してやりたくなる。
 若手女子三人組も緊張している。今年二十四歳になる菊池と、二十七歳になる守矢は採用から二年目になる。担任が回ってきてもおかしくはない。守矢と同い年である田中は今年が採用三年目になる。大学院に残っていたため、採用試験を受けるのが遅かったのだ。まだ担任の経験はなかった。一般的に、初任校で三年務めた後最初の転勤がある、といわれる。稲見中で初の担任を経験するのか否か。彼女にとっては大きな問題であろう。
 女たちの瞳に、複雑な感情の色が浮かんでは消えるのを、御雷は新鮮な思いで眺めている。
 やる気は、ある。情熱も、向上心も、十分に持ち合わせている女たちであった。
 しかし。
 できることなら担任はやりたくない。少なくとも、この稲見中では。
 その本音を、御雷は非難しない。他のベテラン連中も同じ表情を浮かべているからだ。
 高給をもらうからには、それに見合った仕事をしろ。
 年配の教諭たちを見ながら、内心毒づいてみた。
 その、一番の関心事がついに明かされる。
 ページを捲ると、教員の氏名が配列された名簿が現れた。
 所属する学年団―――中学校では、規模にもよるが所属する学年の教員グループで活動することが多い――と、それぞれの学年内での仕事分担が書かれている。無論、担任名も一覧になっている。
 御雷は、まず自分の名前を探す。あった。二年生の、副担任だ。
 予定どおりであった。週に四時間の授業が、五クラス分。二十時間の授業をこなせばいいわけだ。悪くない。
 二年生の担任の欄を見て、我が目を疑った。
 菊池由美。
 隣を見ると、文字通り顔面蒼白になった菊池の肩が震えている。視線を資料に落としたまま身じろぎもしない。
 御雷の眼が校長に向けられる。
 よりによって、菊池だと?お前はこの女を壊してしまうつもりなのか。
 笑ったように細い目の中で黒い瞳が底光りするのを認めて、尾内校長は身震いした。余人にはわからぬよう向けられた感情が、怒り以外の何物でもなかったからだ。
 昨年、一年生を受け持った渡部が、年度途中で精神を病み、病気休暇中に自殺を遂げたことを御雷は知っている。彼は、英語科の教員だった渡部の穴を埋める形で着任したのだ。
 身も蓋もない言い方をすれば。教育の現場では、講師は消耗品と同じ扱いだ。正規教員よりも安く、劣悪な条件で使える労働力だ。それに耐え、なおかつ優秀な者を採用試験で採ればよい。もし使い潰してしまったとしても、代わりはいくらでもいる。毎年、教員を目指す若者たちが大学から送り出されるのだから。
 ある意味、東南アジア等の外国人労働者と共通する搾取を受けている、といえるかもしれない。だが、この講師に対する仕打ちが、後年今原市を擁する某県で深刻な講師不足を引き起こすことになろうとは、誰も予測していなかった。
 就職氷河期といわれた時期を抜け、民間企業への就職が容易になったこと。
 一向に採用試験の合格率が上昇しないことに業を煮やし、地元大学教育学部への入学者数が大きく落ち込んだこと。
 そして過酷な公立学校の講師生活に見切りを付け、私立学校への就職へ舵を切る者が増えたこと。
 さらに、団塊世代の大量退職時代を迎えたこと。
 これらの要因が重なり、慢性的な教諭不足と講師不足を招くことになったのである。
 無論、御雷にはそんな先のことはわからない。
 正直言って菊池は目障りな存在だ。
 一度は自分の内面を覗き見られるという失態も演じている。もし、不都合な事実に感付かれたなら、稲見中での仕事には菊池の始末も含まれることになるだろう、とも考えている。
 だが、そのことと、人材を使い潰すような馬鹿げた校内人事に腹を立てるのは別のことだ。
 講師である御雷が、ここで声を上げるのは不自然だ。
 菊池。テレパスの素養があるなら、俺の気持ちを汲め。抗議しろ。この際、泣いてもいい。泣いて我が儘を通そうとする女は嫌いだが、この際そんなことは言っていられない。お前が泣けば、管理職や教務主任が悪者に見える。
 すぐ隣の女に、声に出して言ってやれないもどかしさを御雷は感じている。頭の中では大声で叫んでいる自分が可笑しかった。
 菊池がテレパスとして「下の下」だという評価は正しかったと思い知らされる。
 何て、鈍い女だ。
 菊池が震える唇を引き結ぶのを見て、少しだけ見方を変える。
 鈍い、というより頑固なのだ。絶対に泣かないつもりだ。
 抗議の声は田中から上がった。
「菊池先生が二年生の担任というのは、失礼ですが適任とはいえないと思います。」
 教頭――小泉が、蛇のような目を田中に向ける。いつもの人当たりの良さはどこかへ忘れてきたようだった。
 へえ、こっちが本当の顔か。校長はお飾りで、実権を巡って教頭派と反教頭派がやりあっているというのは本当らしい。御雷は冷静な観察を忘れない。
「では、田中先生。代案を出してください。」
 ごもっとも、と御雷は考える。反対するからには、よりよい案を出さねばならない。「反対のための反対」は停滞を産むだけだ。
 昂然と顔を上げた田中は、眉間に皺を刻んだりはしていなかった。
 真顔だと結構な美人だ、と御雷は感想を持つ。同時に、怖い女だ、と思った。
 武術を遣う者が、闘いに臨む際の表情だったからだ。力みも気負いもなく、静かに闘志だけを充実させている状態―――この若さで、達人クラスか。
 先日の接触では気が付かなかった。あまり深く関わらない方がいいかもしれない。
 田中の声は奇妙に落ち着いていた。
「今回、私は一年生の担任になっています。少しだけですが、私の方が経験年数も長いので、私と菊池先生が入れ替わることを提案します。」
 ふむ、と小泉は鼻を鳴らした。田中は特に派閥に属しているわけではないが、扱いにくい教諭であった。腕っ節が強いだけではない。若さ故の純粋さがあり、常に正論で動こうとするからだ。
 守矢も手を挙げた。
「私は三年生の副担任です。私との交換も可能だと思います。」
 なるほど。ただの仲良しトリオではない、というわけか。きちんと年下の菊池を護ってやろうとしている。
 だが、と御雷は考える。お前達の提案は通らない。
「お二人の提案はごもっともですが、却下せざるを得ません。」
 何故ですか、と田中、守矢が同時に食い下がる。
「教科のバランスですよ。菊池先生は社会科。田中先生は保健体育科。そして守矢先生は数学科です。稲見中の規模であれば、一学年の中で、少なくとも五教科の教員を揃えたいのですよ。」
 五教科――国語、社会、数学、理科、英語。担当者が学年団の中に揃っていれば、例えば三年生の進学指導などが格段にスムーズに進められる。また、多学年にまたがって授業に行く教員が増えると、時間割を組むのが難しくなる、という事情もあった。可能なら九教科全てをまかないたいところだが、そうもいかない。美術科や音楽科、技術・家庭科等の教員は、定数確保もままならないと聞く。
「そんなわけで、もし他学年の社会科の先生が菊池先生と交代しても構わないというのであれば、原案は取り下げます。あるいは、二年団の副担任の中で担任を引き受けてもいいという人がいれば。いかがですか?」
 小泉は管理職としては優秀だ、と御雷は思った。少なくとも校長よりは。
 時には非難され、嫌悪されたとしても、論理で押し切るだけの非情さがなければ管理職など務まらない。尾内には、決定的にそれが欠けていた。
 そもそも、職員会議は情報伝達や意識の共通化を図る場であって、議決機関などではない。最終的には、校長が「やれ」と言えば、法的あるいは教育的配慮に基づいて判断して問題なければ従うしかないのだ。俗に言う「職務命令」というやつだ。
 御雷は社会科の教諭達に目線を送る。今年は新採教諭と御雷がいるから、他は全て教諭で固めてある。誰が菊池と替わってやってもいいはずであった。田中も火を噴くような視線で彼らを睨み付ける。
 しかし。
 揃いもそろって、白い顔を資料から上げようとしない。誰とも目を合わせようとしない。
 亀だな、と御雷は思った。あれは亀が甲羅に手足を引っ込めて身を守っているのと同じだ。
 つまり。
 菊池は見殺しにされる。
 ぎりっ。
 周囲に聞こえるほどの強さで奥歯を噛んだのは田中だった。強い視線で御雷を見る。
 本当は、ベテラン教諭勢を心ゆくまで罵倒してやりたい。それどころか蹴り殺してやりたい。
 そんな目をしていた。必死で自分を抑えているのだ。
 自分は菊池とは替われない。二年団に所属を替えてもらったとしても、女性二人で授業を担当することは原則としてできないことになっている。この稲見中の現状では。
 御雷はもう一度資料に目を落とした。二年団の副担任。俺の他はおばさんと爺さんか。俺自身は担任を引き受けることはできない。裏の仕事に障るのはもちろん、教諭がこれだけいる中では、無理だ。
 眼を上げると、まだ田中が食い入るような目で見つめていた。
 まったく…テレパスじゃなくても言いたいことが伝わるような眼をする。
 淡い苦笑が御雷の口元を掠めた。
「菊池先生は、どう思っているんですか?」
 挙手せず、直接菊池に尋ねた。
 当事者であるにも関わらず、すっかり彼女を置き去りにして議論が展開されていたことに、誰もが初めて気が付いた。
 菊池自身もそうだったのかもしれない。我に返ったように顔を上げ、御雷を見た。
「菊池先生は、どうなんですか?そこが問題だと思いますが。」
 一旦言葉にすると、御雷はブレーキが効かなくなっていることを自覚した。菊池に語りかけながら、その実この場にいる全員に告げる。
「教頭先生が仰られることはごもっともですが、新卒新採二年目の菊池先生がどうしても無理だというなら話は別です。年度途中で身体や心を病むのがわかっていて、無理な人事を押し通せば、その結果は全て管理職の責任です。それなりの責めを負わねばなりません。それに、若年教員に無理な仕事を押しつけて平気な顔をしていられるほど、稲見中の先生方が恥知らずだとも思いません。」
 静かで柔らかい声だが、内容は辛辣だ。校長と教頭はハンカチで顔を拭った。社会科の教諭たちは赤くなったり青くなったりしている。
 田中は守矢に目配せした。悪気なく核心を突いてしまうところが、やっぱり帰国子女だ。
「私は。」
 言葉を探すように。
 菊池は一度目を瞑る。その横顔を、御雷は見つめた。祈るように閉じた瞼。睫毛が、微かに震えている。
 その瞳が再び開かれた時。御雷は胸を突かれた。
 菊池の瞳が、鋼の色を帯びている。質のよい鋼を、丹念にガンブルーで仕上げた、銃器の肌と同じ色であった。
 こんな眼をする女を、かつて知っていた。不意打ちを食らった気分だった。
 菊池は大きく息を吸い込んだ。立ち上がる。
「私は。正直に言えば自信がありません。彼らを相手にどこまでやれるのか、わかりません。恥ずかしい話ですが、あの子たちが怖いと思う時があります。」
 もう声は震えていなかった。そうだろう、と御雷は思う。こんな眼になった恭子を、俺は結局一度も説得することはできなかった。
「それでも。」
 菊池が息を継ぐ。腹から絞り出すような声で宣言した。
「私はプロの教師として、ここに立っています。やれとおっしゃるなら、お受けします。」
 田中がぽかんと口を開けるのが見えた。
 この、小柄で細身の、一見中学生かと思うような女は、時に周囲を驚かせるような胆力を見せる。
「では、菊池先生。本当によろしいんですね。」
 小泉ですら、菊池の気迫に押されていた。菊池は頷いた。その表情に迷いはない。
「ただし、一つ条件があります。私には経験値が足りません。副担任にはサポートをお願いしたいのです。」
 田中が瞬きもせず御雷を見詰めている。こうなった以上はわかっているでしょうね、という眼だ。
 御雷は苦笑を隠さなかった。
「それじゃあ仕方がない。ぼくを菊池先生のクラスの副担任にしてください。それから、ぼくの授業と菊池先生の授業を可能な限りずらしてください。空き時間にはティームティーチングの形で授業に入らせてもらいます。」
 教務の伊賀が片眉を上げた。
「不可能ではありませんが、御雷先生の休憩時間がなくなってしまいますよ。」
 御雷は笑顔で片手を振った。
「どうせ空き時間は校内を回って煙草の吸い殻を拾ったり、教室から出ている生徒を追い回すんでしょう?だったら最初から教室にいても、そんなに忙しさは変わりませんよ。上手くやれば週に九時間程度は入れるはずです。足りない分は、他学年から男性教諭を借りてきてでも確実に埋めてください。そうしないと、菊池先生の安全を守れない。違いますか?」
 たしかに、と伊賀は頷いた。最年少女性教諭の小柄で華奢な身体を見ていると、守ってやらねばという気になる。彼自身、初めから原案には反対だったのだ。立場上表露骨に反対できなかっただけだ。次善の策として御雷が提案してくれたことには実現性がある。
 伊賀は時間割を組む際に、女性教諭に対するサポート要員のシフトを併せて作成することを約束した。
 ここで、二十分程度の休憩が入る。沈黙を守り通した情けない連中は、バツが悪そうにトイレに立つ。管理職と伊賀は校長室に入って短い打ち合わせをしている。尾内を締め上げてやろうかと思ったが、それは後に回すことにする。
 放心したように座っている菊池と、その横で大きく伸びをした御雷の前に、熱いコーヒーが置かれた。田中と守矢が立っていた。
「菊池ィ。何とんでもないこと引き受けてんだよ。ああいう場合は断れよな、お前は。」
 憎まれ口を叩きながら、菊池の髪をくしゃくしゃと掻き回す。思いやりの籠もった仕草だった。
 不意に、菊池が涙をこぼした。机越しに田中の長身に抱きつく。その身体が震えていることに、田中は気が付いた。
「どうしよう…私、とんでもないこと引き受けちゃった。」
 しゃくり上げる背中を、守矢がさすってやる。
「あれだけの啖呵を切ったのに、今になって実感が湧いてきたの?」
 冗談めかして言うが、それは当たっている。
「たしかに、あの連中を相手に一年間もたせることができれば、とてつもない経験値を得ることになるでしょうけど。」
 田中、守矢両人の視線が御雷に集中する。
「一人では絶対に無理。だから、御雷先生、菊ちゃんをお願いします。」
 その時になって、菊池はようやく気が付いた。新しい涙が化粧を流してしまう。
「ごめんなさい、御雷先生。あなたを巻き込むようなことになってしまって。」
 御雷はいつものように笑顔のままだ。
「これも、ぼくの仕事です。気にする必要はありませんよ。それより、ぼくと組むんじゃなかった、と思われる方が心配です。」
 どうして?と三人が訊いた。御雷は困ったように鼻先を掻く。
「どうも、ぼくの身の回りにはいろいろと事件が起こりやすいものですから。ぼく自身はいたって元気なんで、いわゆる『不幸体質』とかではないと思うんですがね。菊池先生は単なる生徒指導以上のことで悩みが増えることになるかもしれない。」
 真顔で応える御雷の言葉をどこまで信じてよいものか。
 結論から言えば、全てを信じるべきだった。虚実を交えて話すのが人を騙す基本だが、この時の御雷は真実だけを語っていたのだった。

      10
 職員会が再開される。部活動の担当者が発表されると、早速抗議の声が上がった。何かにつけて教頭に反発している太田だ。四十台半ば、といったところか。曰く、若い御雷が顧問も副顧問もやらないというのはおかしい、というわけだ。
 やれやれ、と御雷は内心溜め息をつく。この手の人間は、何かにつけて必ず一度は文句を言ってからでないと行動できない。俺のことなど引き合いに出さずとも、はっきり「自分は部活動をやりたくないのだ」と言えばいいのに。部活動自体、もともと教育課程外の活動だ。基本的に教師のボランティアで成立するようなシステム自体が問題なのだ。たとえ投げ出したとしても非難される筋合いはないはずだ。
 結局は、自分の思いを直接出すことのできない小心者なのだ。投げ出すことも、本音を言うことすらもできないのであれば、黙って受ければいい。
 それに。もし御雷が副顧問になったとしたら、実務は殆ど彼に丸投げするつもりだろう。要するにしんどい仕事はしたくないのだ。
 御雷は、こういう男が嫌いだった。対応を誤れば、講師だと甘く見て、何かと噛みつかれ、理不尽な要請も受けることになるだろう。
 初手で、気持ちを折る。
 校長も県教委の教育長から御雷採用について条件が付けられていることは口外できない。それでも、方法はあるのだった。
 御雷は立ち上がった。そのまま太田の机の前に立つ。身長こそ一メートル七十五センチとさほど大きくもないが、たっぷりと肉が付いた身体は実際以上に大きく見えた。暴力の匂いを感じて、太田の顔が強ばる。
 御雷は、にこやかな笑みを作った。
「個人的なことなので黙っていようと思っていたのですが。」
 上着を脱いでシャツの袖をまくる。奇妙に白い腕が剥き出しになる。紅い線があちこちに走っているのが見えた。例えるなら――アフリカの国境線のように人工的に引かれたもののような印象を受ける。
 太田が思わず尋ねた。
「この線は、一体――。」
 いつもは細めている眼を大きく開き、黒曜石のような瞳を見せてやる。瞬きはせず、声に感情も込めなかった。
「昔、全身を火傷しましてね。これはその時皮膚を移植した名残です。全身の八割以上が他人からもらった皮膚です。色が白いのは、複数の人種からもらった皮膚の色を合わせるために色素を抜いてあるからです。」
 他の教員にも、見せた。
「死ぬか生きるかという状態から、命だけは助かりましたが…その際に汗をかけない身体になりました。だから、運動は基本的にできないんですよ。夏は屋外にいるだけで危険な状態になることもあります。」
「全身が、そんなふうに継ぎ目だらけなのか?」
 魅せられたように太田が質問する。
「ええ、服を脱ぎましょうか?ぼくの皮膚の大部分は、死体から剥ぎ取ったものです。この顔だって、後から作ったものなんです。何しろ、もとの顔は焼けてしまったもので。」
 校長が言葉を継いだ。
「そんなわけで、御雷先生には部活動免除ということでうちに来てもらっているわけです。事情が事情だけに、教育委員会へ送る職員の集合写真にも写らなくてよいという許可をもらっています。」
 なかなか上手いことを言う。主体を曖昧にしておけば御雷に関する様々な情報をある程度開示しても困りはしない。
「ぼくは今のこの顔があまり好きではないもので。勝手を言って申し訳ありませんが、行事や授業中の写真を撮る時は、ぼくが入らないようにして頂けませんか。」
 太田が我に返る。随分と不躾な質問をしたことを恥じる程度の良識はあるらしい。
「それは失礼なことを訊いてしまいました。許してください。写真のこともみんなで気をつけますから。」
 本来、主流である教頭派にいれば、伊賀よりも先に教務主任になっていてもおかしくない能力の持ち主である。納得すれば対応は早い。
 御雷は礼を言ってから服装を整え、席に戻る。その身体に赤い筋などは浮いていない。見せるためにわざと出したのだ。特別な場合を除いて継ぎ目が可視化することはない。
 菊池が心配そうにこちらを見ているが、微笑を返しておく。身体のことを話したのは、御雷はあまり無理ができない身体なのだという印象を与えるためである。写真を避けるのは、裏の仕事をする者の基本ではあるが、理由付けは難しい。虚実入り混ぜて話すことで難問を一つクリアしたわけだ。
 御雷は既に二十年ばかり教壇に立っている。そろそろ教え子たちが保護者になっていてもおかしくない。かつて、他県から嫁いできたという保護者に、いきなり懐かしそうに声を掛けられてぞっとした経験があった。写真さえ残っていなければ、記憶は曖昧になっていくものだ。後は他人の空似だろうが、親戚の別人だろうが、言い逃れはどうとでもなる。
 つまり、この場で我が身の秘密の一端を明かしても御雷が失うものは何もないわけだ。むしろ得るものの方が多い。
 御雷の計算は緻密で、どこまでも冷徹であった。
 その後、細々とした校務の分担が発表され、主任職等との整合性が取れているか確認される。いくつか変更すべき点があった。その場で修正される。
 これといった混乱もなく、会議の後半は進行し、十一時過ぎには終了した。
 席を立つ者はいない。
 ここからが今日の本題だとわかっているからだ。
 生徒指導の青山が、リングで綴じられた細長い冊子状のものを配る。手に取ってみると、学級写真を細長く切ったものの左上の隅に穴を開けて、全クラス分をリングで綴じたものであった。生徒の顔の部分だけを切り出してあるわけだ。だから細長い。
 表紙には前年度の年号が打ってあった。上向きに捲ってみると、表紙の裏には一年一組の名簿が貼られている。一年一組の写真と並べて見ることができる作りになっているのだ。一年一組の写真を捲ると、その裏には一年二組の名簿が貼ってある。それが各学年五クラスずつ、計十五クラス分揃っている。生徒の名前と顔を確認するための資料であった。
 菊池を初めとする残留組は、昨年度に使ったものを机から取り出して開く。
 それとは別に、数枚綴りの文字だけの資料を全員に配ってから、青山が口を開いた。
「生徒写真については、入学式当日に全クラスの学級写真を撮りますから、それをもとに今年の分を作ります。今日のところは昨年度のもので話を進めていきます。」
 資料に目を落とし、次いで全員の顔を見渡す。
「ご存じのように、本校は県下でも指折りの生徒指導困難校です。新しく来られた先生方にも、指導上配慮を要する生徒の情報を共有して対処して頂きたいと思います。」
 個別の生徒について語る前に、稲見中の荒れの背景となっている事柄について分析してみせる。
 稲見中の校区には三つの小学校がある。荒れる生徒の殆どは、そのうちの一校から上がってくる者たちであった。その小学校の校区の大半が漁師町で占められていた。
 御雷は既にその漁師町に行ってみたことがあった。角を一つ曲がるだけで、全く違う町並みが現れたのには驚かされた。軒が接するほどの間隔で立ち並ぶ古い家屋。どこが土地境界なのかもわからない。他人の家に行くために通っているのは細い道なのか?それとも他人の庭先を通らないと行けないのか?それほどに家々が密集している。
 今なら建築許可が下りないだろう、と御雷は考える。だから、古い家を建て替えないのだ。建て替えを望む者、漁業に携わらない者は、近年この町から出て行くことが増えているという。
 道路上にずらりと並んだ、自転車や自動車が異様だった。センターラインのある二車線の道なのに、車一台が通れるほどのスペースしか残されていない。そういえば、そこに入り込んだ市外のタクシー会社の運転手が不用意にクラクションを鳴らしたところ、住民たちから暴行を受けて車を潰された挙げ句、頭を割られる重傷を負わされた、という話を聞いたことがあった…。今原市に来て間もない頃、市内のタクシーを利用した時に聞いた話だったはずだ。
 現代日本とは違う空気感と時間の中に存在するような町であった。この町では日本の法律は効力を発揮しないのか、と御雷は苦笑いするしかなかった。自分自身のことは棚に上げている。
 河津組の事務所とさほど離れていない事実も無意味ではないのかもしれない。
 昼間から酒を飲んでいる成人男性がいるのは、早朝の漁を終えた後だと思えばおかしなことではない。昔ながらの漁村ではよく見る光景だ。労働の後に飲むのは、悪くない。
 しかし。
 御雷は―――いや、この町を知る者は、みんなわかっている。
 彼らの多く――全員とはいわない――がやっているのは、違法な漁だ。たまに、瀬戸内海を挟んだ向かいの県で検挙され、新聞に載ることもある。
 違法な漁は、金になる。資源保全の観点から見れば、将来の取り分を前借りしているだけなのだが、そこまで考えられる頭が彼らにはないのだ。
 今がよければ、それでいい。
 自分さえよければ、それでいい。
 捕まらなければ、それでいい。
 だから、違法漁で荒稼ぎする連中は、高級車を競い合う成金のように、金を掛けて漁船を改造する。強力なエンジンを載せる。あるいはエンジンを二基載せる。そうやって脚の速い船で追跡を振り切るのが彼らのやり方であった。要は「やった者勝ち」なのである。
 常に検挙の危険と隣り合わせであるため、よそ者への警戒心は強い。町に足を踏み入れた時から出て行くまで、一挙手一投足を監視される。老婆が、主婦が、子供達までが、監視役だ。
 FBI時代にスラム街に潜り込んだ時のことを思い出した。奇妙な連帯感と強烈な警戒心。そこだけが周囲から隔絶されているかのような独特の浮遊感。
 ここは、本当に日本か。そう思わずにはいられない。
 今原市は、かつて大空襲の被害を受けた。整然と区画整理された中心部の様子は、復興の足跡だ。そのすぐ脇にあって、この町は奇跡的に焼け残った。
 そして、時代から取り残された。
 その結果が、これだ。大人達が将来を見通す眼を持っていなければ、子供にそれが備わるわけがない。飯は違法漁をすれば十分食える。地道な努力なんて馬鹿のすることだ。学校は、自分が海に出るまでの時間を過ごす遊び場でしかない。
 かといって、社会に違法漁師予備軍の子供の居場所などありはしない。
 日本の社会にあって、彼らはあくまで少数派なのだ。
 だから、本人が望んでいなくても学校に来るしかない。他人から望まれていなくても学校にしか居場所がない。
 綺麗に焼け野原と化していれば、よかったのに。
 戦後の復興を経験している御雷ですら、そう思わざるを得なかった。
「問題行動が目立つ生徒は、遅刻はしても欠席はしません。律儀なくらい毎日学校に来ます。」
 青山の説明が続いている。御雷はそれをぼんやりと聞き流す。
 「腐った蜜柑理論」というものがある。大量の蜜柑の中に少数の腐った蜜柑が混ざると、周囲の蜜柑まで腐らせてしまう―――学校の荒れを説明する際に持ち出されることがあるが、御雷はそんなものを信じてはいなかった。
 たとえ腐った蜜柑が隣にあったとしても決して腐らない蜜柑は存在する。単純に「腐る蜜柑と腐らない蜜柑が存在する」というのがシンプルな事実だ。そして、腐りかけた蜜柑が健全な状態に戻るケースもある。
 御雷の仕事は腐った蜜柑を打ち捨てることだ。腐りかけて回復の見込みがない者を選別し、それも捨てねばならない。
 話題が中心とされる生徒個人に移ったので、思考を中断して資料に意識を向ける。部外秘の資料である。
 十名程がピックアップされ、簡単にこれまでの問題行動と特性が記されている。写真と照らし合わせながら確認してみる。全員が二年生だ。氏名に○印が付いているのが中心人物ということらしい。要点だけを拾い読みしてみる。
 
○西本祐司:体格もよく頭も切れる。本来ならリーダーになれる能力。影の司令塔。決定的な証拠を掴ませない。父は会社員。家庭の教育力はなく放任。自宅の庭のプレハブ小屋が自室。殆ど一人暮らしに近い気ままな生活を送っている。白井希美と同棲しているが、他にも肉体関係がある女性がいる模様。暴力団組員との繋がりも。サッカー部。
○石川賢治:父は漁師。違法漁で捕まったことがある。将来は自分も漁師になる。ボス格だが自分でも実行犯になることがある。兄は教師を殴って高校中退。野球部。
○片瀬啓介:父は漁師。非常に短気で喧嘩っ早い。小学生の時、担任にハサミを突きつけて「刺すぞ」と脅したことがある。手加減しないため恐れられている。サッカー部。
○南方 猛:粗暴。過去に対教師暴力あり。興奮すると我を忘れる。対応は男性二人以上で。一年時郡市体育大会で準優勝。柔道部。
 白井希美:不純異性交遊。西本と付き合っている。西本のプレハブで夫婦同然の暮らしをしている。親は無関心で連れ戻す気はない。バレー部。
 馬越良太:南方の腰巾着。弱い者に暴力を振るう傾向あり。柔道部。
 玉井淳也:母子家庭。片瀬の腰巾着。中学卒業後は片瀬所有の船に乗る予定。柔道部。
遠藤秀一:石川の腰巾着。気が弱いが、集団になると抑えが効かなくなるタイプ。野球部。
田村浩二:全体のパシリ的存在だが、個人でもカツアゲで得た金を遊興費に充てていたことがある。親は叱らない。サッカー部。
 白石直哉:特にメンバー間の上下関係に組み込まれない立ち位置。面白いことには首を突っ込み、善悪の区別なく関わってしまう。感情の起伏が激しく、スイッチが入ると粗暴な面を見せる。卓球部。

 なかなかよく書けている、と御雷は思った。腰巾着とは…青山という教諭は言葉の使い方に独特のセンスを持っている。全員が部活動には所属しているが、当然のように幽霊部員だ。細かく見ていけば、喫煙や授業妨害、シンナーの吸引、生徒に対する暴力行為、万引き等、少年犯罪と聞いて思い浮かぶものは取り敢えず網羅しているようだ。捕まってはいないが、バイク盗や自動車の無免許運転でも警察にマークされているという話だった。
「文字では伝わらないかもしれませんが、新学期が始まればわかります。彼らの厄介なところは、校外では地域住民から苦情が出るほど目立ったトラブルを起こさないところです。」
 御雷が手を挙げる。
「外でやらない分、校内で好き勝手やってくれるわけですね。」
 青山が頷く。
「その通り。こちらが実力行使に出られないと思って足下を見ているんですよ。」
「警察を校内に入れるようなことは?」
 校長が答えた。
「たとえば、暴力行為があったような場合には、警察を呼ぶことにします。教師が被害者なら、原則として被害届を出す方針です。」
「急を要する場合には、管理職の判断を待たず通報していいですね?」
 御雷の念押しは妥当なものだ。肝心の所で管理職にブレーキを掛けられたのでは堪らない―――これも、本気で取り組む姿勢をアピールする手段だった。あくまでポーズだ。警察力を当てにできないからこそ派遣された御雷なのである。
 管理職は顔を見合わせて沈黙する。緊急通報には教育委員会への事後報告が要るため、躊躇しているのだ。
「ぼくは通報しますよ。犬死には真っ平です。」
 涼しい顔で宣言する。
 田中が手を挙げる。
「事件が発生してから通報するのは当然ですが、未然に防ぐことは許されないのでしょうか。」
 彼女の意図を教頭は理解したようだ。
「田中先生。気持ちはわかりますが、生徒に対して暴力を振るうのは許容できませんな。」
「我が身を護るための抵抗も駄目ですか。」
 若手の女性教員たちが心細そうな顔で教頭を見る。
「だから、昨年度と同様、校内での単独行動は控えてください。休み時間の移動は、原則としてサポートに入る男性教員と一緒にお願いします。」
 田中があからさまに悔しそうな表情を浮かべている。それはそうだろう。空手道で国体選手に選ばれ続けている女傑だ。女性教諭に要らぬちょっかいを掛けてくるような輩は痛い目に遭わせて当然だと思っているフシがある。
 あれは、わざと隙を作って相手を返り討ちにしかねない顔だ。田中の一撃をまともに食らえば、死人が出るかもしれない。それほどのものを彼女は持っている。何気ない身のこなしを見るだけで、御雷にならそれはわかる。ふと、なぜ彼女は国体で優勝しないのだろうかと不思議に思った。本気でやれば、彼女に勝てる選手がそんなにいるとは思えない。
 青山の話は続く。
「資料を御覧になっていただければわかるように、殺人以外のことはほぼ一通りやっている連中です。」
 おい。麻薬が抜けているだろう。御雷の呟きは声にならない。
「なお、確定ではありませんが、男子生徒の殆どは女性経験があると思われます。」
「西本は白井と同棲しているっていうじゃありませんか。他の連中は誰とヤッてるというんですか。」
 御雷は敢えて下品な表現を使って尋ねた。
 青山が渋い顔をする。
「多分、ですが。西本は市内の暴力団の組員の舎弟のような状態だそうです。暴力団の収入源には、女も含まれます。」
「なるほど。プロの連中が西本経由で彼らに売春婦をあてがうことでセックスの味を教え、彼らを飼い慣らそうとしているわけですね。」
 英語科教諭の端的な指摘に、青山は鼻白んだ。が、御雷は気にした風もなく続ける。
「女と薬は、違法組織が若年層をコントロールする有効な方法です。ですが、既に彼らが女性を知っているということで、実際的な問題が無視できなくなります。」
 それは何か。全員の視線を浴びながら、御雷は何ともいえない表情を浮かべた。
「本気で護らなければ、女性の先生方の安全を確保できません。」
「校内だし、ちょっと大げさなんじゃないですか。」
 田中の口調が軽くなる。しかし御雷は笑わない。
「海外では、玄関先に停めたクルマを降りて、家の鍵を開けるまでのたった数歩の内に襲われ、性的な暴行を受けた上で殺された例もあるんです。そもそも、田中先生は。」
 御雷の眼がすうっと細められたのを見て、女傑は何故か薄寒さを感じた。
「露骨な言い方で申し訳ありませんが、男性が女性の体内に射精するのに必要な時間をご存じですか。」
 田中は答えられない。
「女性を押さえつけ、下着を取り去って強引に犯すまで、最短で十五秒。単に射精するだけなら三十秒もあれば婦女暴行は完了する、とFBIでは教えます。この場合、女性は怪我をすることを避けられないでしょうが。」
 無論、FBIにそんな教えはない。ハッタリというより、長年の間に得たデータの蓄積が御雷に言わせた言葉である。
 菊池、そして守矢の顔色が悪い。管理責任のある校長と教頭も、だ。
「わかりましたか?わずか数分を守り切れなければ、ぼくらの負けなんです。彼らが大人の女性に興味をもつ、というのは当然としても。」
 嘆息にも似た息を、御雷は吐いた。
「怒りの捌け口として。さらに言えば、単純に自尊心を傷付け踏みにじるためだけに、襲うことだって予期しておかねばなりません。」
 大げさには聞こえなかった。レイプは「魂の殺人」とも言われる。文字通り、魂を、精神を殺すだけの力があるのだ。
 僅かな油断で身体を蹂躙され、命を奪われる。
 菊池は大きく身震いした。
 姉の死に様を思い出したのだ。
 すがるように御雷を見たが、彼は目を合わせなかった。

      11
 稲見中の教員たちが遅めの昼食に出た後。
 日直の瀬原が弁当を広げるのを見届けてから、尾内は校長室に戻った。
 後ろ手にドアを閉めて、小さく溜め息をつく。
「どういうことです?校長先生。」
 囁き声に近い声量で呼びかけられ、心臓が停まりそうになった。
 振り向かずとも、声の主はわかっている。ドアの陰に潜んでいたのだ。
「御雷先生…。」
 職員室と校長室を隔てるドアの横に立つ御雷の唇が、皮肉な笑みを浮かべている。
 白い手がドアに鍵を掛けた。
 勧められるのを待たずに、来客用の応接セットに腰を下ろす。背もたれに体重を預けて足を組んだ。立ち尽くす校長を見上げる眼が、笑っていない。
 座れ、と命ずる視線だった。
 奇妙な磁力のような視線に、逆らえない。テーブルを挟んで御雷の向かいに腰を下ろす。不思議と腹は立たなかった。
「どういうことなんですか。」
 繰り返す御雷の声は、あくまで静かだ。
 だから、恐ろしい。
 学校再生専門員派遣事業の対象は、生徒だけではない。必要があれば生徒の荒れの背景そのものや、教職員にも何らかのアプローチがあると聞いている。詳細について尋ねたが、県教委の教育長は「知らぬ方がよい」とにべもなかった。ただ、学校再生専門員は目的を達成するための「道具」だ、と語ったのみである。この場合の目的とは、死にかけた学校を健康な状態に回復させることである。
 目的を達成するためには、善悪の判断をせずに行動する。それが「道具」だ。
 目の前に座っている温厚そうな丸っこい男が、その「道具」だという。それは、「御雷を『人間』の規準で見てはならない」という意味だ。
 笑っているような目の中で、黒曜石のような瞳が尾内を凝視している。その表面に、先程菊池が見せたのと同じ、鋼の色が浮かんでいた。
 尾内は冷や汗すらかかせてもらえない。絞り出した声は嗄れていた。
「菊池先生の件ですね。」
「何故、よりによって二年生なんです?他の学年も酷いもんですが、まだマシなんでしょう?」
 尾内は即答できない。御雷の口調が、変わった。
「俺の仕事を邪魔する気か?」
 ぎょっとして目を上げると、まともに御雷の視線とぶつかった。彼の眼はしっかりと開かれ、暗い穴のような黒瞳がひっそりと尾内を映している。
 淡い笑みを浮かべた唇が、紅い。こんなに紅かっただろうか?
 子供のような印象の丸っこい顔に、白い美貌が二重写しのように重なって見えた―――ような気がして、思わず目を閉じる。
 数秒。
 恐る恐る目を開けると、怪訝そうな表情を浮かべて御雷が見ていた。今のは、気のせいか…。
 気を取り直す。
「実は、県教委から…正確には教育長から直々に要請があったのです。」
「菊池先生を二年生の学担に、御雷をそのサポートに当てろ、と?」
 尾内は頷いた。彼自身は、娘のような歳の菊池を使い潰すような案には反対であった。原案ではベテランの男性教諭がそのポジションにいたのである。
 御雷は天井を見上げた。
「県教委から…ということは、文部省から下りてきた指示ですね。」
「よく、あるのですか。」
 御雷は否定する。
「基本的に、赴任校での行動に制約が付くことはありません。もちろん、教師としての責を果たした上での話ですが。こんなふうに、行動の枠組みを文部省が決めるなんて初めてのことですよ。全く異例のことです。」
 尾内に教えてやる義理は無いが、敢えて話してやる。この普通ではない状況の中で、「ケツを捲ろうとしても逃がさない」と釘を刺す意味もある。
「まったく、文部省も何を考えているんでしょうねぇ…。」
 溜め息とも嘆きともつかぬ言葉を最後に、校長との話を終わりにした。
 一度廊下に出てから職員室に戻る。弁当を食っていた瀬原が声を掛ける。
「やあ、トイレですか?男の先生たちが探してましたよ。昼飯に行こうって。」
 校長との会談はほんの数分だ。駐車場に出てみると、エンジンを掛けたライトエースが停まっている。
「すみません。トイレに行っていました。」
「そんなに待ってませんよ。ところで蕎麦屋でいいですか。」
 異論はない。助手席に座って後を見回すと、男性ばかりだ。新採の谷杜もいる。ハンドルを握っているのは岩下という数学科の教員だった。ワルの扱いが巧いと評判の男だ。太田の姿もある。伊賀や教頭は別便らしい。
 何のことはない、反教頭派に誘われているのか。御雷は可笑しくなる。派閥争いなど所詮は猿山の権力闘争と変わらない、と考えている俺を誘っても、戦力にはならないだろうに。
 稲見中学校の裏山は標高が二百四十メートル程ある。ちょっとしたハイキングコースなどもあり、桜の木も多い。
 見事に咲き誇っていた。もう、散り始めているものもある。
 ほう…と、御雷は感嘆の声を上げる。
 後部座席で男たちが話しているのが聞こえる。こう桜が見事だと、午後の仕事を放り出して花見に行きたくなりますなぁ。桜を見ながらビールを飲んだら最高でしょう。
 程なく蕎麦屋に着いた。県下に店舗展開をしている店で、蕎麦自体は特筆すべき点はない。
 太田は、「取り敢えずビール五本」と頼む。おでんを皿に山盛りに取ってくる。蕎麦を注文し終えると酒盛りが始まった。
 おいおい、と御雷は呆れる。まだ、勤務時間中だろうに。いや、昼休みの時間だからいいのか?…なるほど、帰りの運転手を俺にさせるつもりで待っていたんだな、と納得する。
 既に真っ赤な顔をしてビールを煽っている谷杜を見て、柄にもなく心配になった。
 若者よ、こんなのが当たり前だと思ったら、大きな勘違いだからな。
 反教頭派に露骨に誘われることはなかった。単純に、職員会での御雷の発言に対する管理職の反応が面白かった、ということらしい。それはそうだ。ごく短期間しか勤めない予定の御雷を派閥に引き込んでもメリットは少ない。
 帰りの運転を、御雷は任されなかった。赤い顔の岩下が、上機嫌でハンドルを握る。
 おいおい、マジか。御雷は呆れを通り越して気分が悪くなった。現代日本に比べれば、酒を飲んで運転することに目くじらを立てる者は少なかった時代ではある。それでも、ハンドル操作を誤りはしないか、学校に着くまで冷や冷やした。おかげで、学校に着く頃には早くも腹が減り始めていた。
 職員室に帰ると、田中に咎められた。
「あー、どこに行ってたんですか。せっかく女子会でお昼に行こうと思って探してたのに。」
「女子会、ですか?ぼくが参加してもいいんでしょうか。」
 目を白黒させてみせた。守矢がフォローする。
「久仁恵はですね、職員会のお礼に、御雷先生を食事に誘いたいんですよ。」
 ああ、と御雷は笑った。
「お礼を言われるようなことはしてませんが、もしよければ明日はみなさんとお昼をご一緒させていただけると助かります。」
 そう言う顔色が、よくない。菊池がそれに気付いた。
「どうかしたんですか。気分が悪そうです。」
 御雷は昼食時の様子をかいつまんで話してやった。
 さもありなん、と田中が意地悪そうな笑みを浮かべる。
「そんなんじゃ、うちの歓迎会で生き残れませんよ。」

 午後は挨拶回りから始まった。職員の集合写真は、午前中の会議の合間に業者が来て撮影を済ませている。
 小一時間ほど校区内を回り、何度も同じような自己紹介をさせられた後、ようやく御雷は解放された。
 休む間もなく、学年ごとに集まって学年会が行われる。
 学年の所属教員で、正式に受け持ち学級を決定するのだ。その前にやっておくことがあった。
 二年団は三階の理科室に陣取っている。机の上に、五つの封筒が置いてある。前年度のうちに仮に組んであった学級編成がクラスごとに入れられているのだ。
「じゃあ、やろうかね。」
 学年主任の矢沢が声を掛ける。美術科を担当する五十絡みの男だ。
 御雷は封筒を一つ手に取った。中身を確認すると、輪ゴムでまとめられた細長いカードの束が二つ入っている。
 その一つをバラしてみると、生徒の名前が書かれたカードだった。一人につき、一枚。学習成績、リーダー性、運動能力、所属する部活動、行動面の評価…等の項目が並んでいる。上から順に機械的に縦に並べていく。成績上位者から順に、男子のリストが形作られた。同様の作業を女子のカードについても行う。女子のリストもすぐに形になった。
 各クラスのバランスが極端に崩れないように学級編成を行うのが原則だ。極端に勉強が苦手な者が多い学級や、成績上位者のみが集まった学級を、普通は作らない。運動面もそうだ。最初から勝負にならないほど差が開いていたら、体育大会等の行事は成立しない。
 程よく勝負になるように調節することで、向上心や対抗心を成長の原動力とすることができるのである。適度な競争は成長を加速させる。これも教育的配慮だ。
 しかし、教育困難校では少しばかり話が異なってくる。重要なのは、「問題生徒をいかに上手く分散させるか」であった。リーダー性のある生徒との相性も重要な要素だ。
 五クラス全体を眺めてみて、御雷は苦笑せざるを得なかった。先程話題に上がった中心メンバーには赤で×印が付けてある。一クラスに集中しないように上手く振り分けているようだ。
 御雷が苦笑したのは、さっきはまったく話題にもならなかった生徒たちに大量の△印がつけられていることであった。
「矢沢先生、△マークの子っていうのは、『浮動票』を握っている連中のことですよね。」
 矢沢が相好を崩す。ロックスターを意識して髭を伸ばした顔が一見厳ついが、その眼差しは穏やかだ。
「上手いことを言うね。そう、雰囲気によってどちらにでも――いい方にも悪い方にも転ぶ連中だよ。」
「その中で、一年生の終わりには悪い方に傾いていた連中、ということですね。」
「最初にそこを見るところが、御雷先生はいいねぇ。」
 菊池には矢沢の言っていることがよくわからない。そこで御雷が説明してやる。
「『授業がやりにくい』と感じる時は、△印が付いている連中が原因であることが多いんですよ。×印が付いている連中は、授業を壊そうと火を付ける役です。いわば種火ですが、燃えるものがなければ火事にはなりません。」
 ああ、と菊池は納得した。
 荒れた学校――その縮図としての学級の中には、絶対的なリーダーと絶対的な秩序の破壊者が存在する。そしてそのどちらにも属せる選択権を、保留にしている連中がいるのだ。この連中の選択をどう誘導するかで、学級は死にもするし生き返りもする。
 矢沢と御雷は、「どっち付かずの中間層をいち早く掌握することが、学級経営の重要事項だ」と教えてくれているのだ。
 ありがたい、と素直に思う。
 全員で点検し、必要があれば学級間で生徒のトレードを行う。原案がよく練られていたため、殆ど修正の必要はなかった。
 いよいよ、自分のクラスを決める時が来た。今回は経緯上、菊池が最初に好きなところを取るべきだろう、と矢沢は宣言した。
 菊池は五つのクラスのメンバーを注意深く吟味する。
 それぞれのクラスに問題の中心人物がバラで配されている。情景を頭に浮かべてみると、どの生徒とも上手くやっていく未来を見ることができなかった。
 気が付くと御雷が後ろに立っていた。背中で彼の声を聞く。
「そういう時は、リーダーに注目するんです。菊池先生が信頼を置くことができて、同時に全力で支えてやりたいと思える子がいるのはどのクラスですか。」
 そういうことか。リーダーたちはより落ち着いて学びたいと考えている。そういう生徒たちと協力して、中間層を望ましい方向に誘導するのだ。菊池が最も信頼を置いている生徒は…。
「このクラスです。」
 菊池が指差した。どれどれ…と全員が見て驚いた。西本祐司と馬越良太がいる。二人とも体格がいい上に、授業妨害の常習犯なのだ。菊池が辛い思いをするのは、目に見えている。それでも、彼女はリーダーとの共闘に賭けてみたい、と言った。
 御雷は別のことを考えていた。今日、青山から配られた資料には、御雷が文部省から渡された資料以上の新事実はなかった。情報の正しさは、御雷によって確認される。万全を期すためだ。ふと、今回の情報提供者は誰だろう、という疑問が浮かんだ。通常は、一~三年ほどの時間を掛けて内偵をするらしい。そして、御雷の赴任に合わせて転勤したり病気休暇に入ったりする。亡くなったという前任の渡部がそうだったのか?そんな神経の細い男に、学校再生専門員派遣事業の内偵者の責を全うすることは不可能だ――。
「御雷先生はどう思いますか。」
 思考を中断する。
 菊池の目が、御雷を見上げている。
「これはまた…正面突破ですねぇ。」
 口に出してみて、それもいいかもしれない、と思い直す。菊池に自覚があるのかは不明だが、戦略としては悪くない。
「ぼくより、矢沢先生の意見を伺う方がいいでしょう。特に、リーダーについて、ぼくは何も知りません。」
 嘘、である。問題のある生徒と同じぐらい、リーダーと呼ばれる連中についても掴んでいる。表の顔と裏の顔が違う場合もあるからだ。隠れた患部を見逃せば、取り返しが付かない。
 矢沢は、のんびりとした口調で答える。
「まあ、真面目な子は多いねぇ。特に、高木や広瀬は渡部先生のことを慕っていたから…。」
 口調が、変わった。穏やかな眼差しの底に、西本らに対する怒りが見え隠れする。
「彼女たちは怒っていると思う。あいつらのやり口にね。菊池先生が必死で頑張っている姿を見て、知らん顔をできる子たちじゃない。…と、ぼくは信じてるんだけど。」
 御雷に目配せする。こいつが情報提供者だろうか、と考えてみる。矛盾は、ない。
「矢沢先生は、教諭には言いにくいことを、ぼくに言わせようとするんですね。」
 苦笑に皮肉を乗せてみたが、矢沢は涼しい顔で受け流した。食えない男だ。が、菊池にとっては頼もしい学年主任になってくれるだろう。少なくとも、名ばかりで仕事をしない他学年の主任よりは遥かにマシだ。
「じゃあ、ここだけの話ですが。」
 少し声のトーンを落とす。
「西本と馬越に、あなたの方を向かせようとする必要なんてないんですよ。」
 菊池の黒い瞳が、瞬きもせずに御雷を見つめている。一言も聞き漏らすまいとするかのように。
「菊池先生は、高木や広瀬や、他の大勢の生徒がちゃんと勉強できるように頑張ればいいんです。もちろん、西本と馬事をわざと弾き出すことはしないでください。彼らにだって授業を受けるチャンスは必要です。でも、授業を壊すための妨害に付き合う必要はありません。勉強したい、きちんと授業を受けたい、という雰囲気が多数派を占めるようになれば、彼らは自分から退場するでしょう。」
「退場って…授業中に教室から出してしまうのはまずいんじゃないですか。」
 御雷は片目を器用に瞑って笑顔を作った。
「原則としては、ね。でも、ここは教育困難校です。授業放棄して廊下を歩き回るような連中に対処するのは、その時間に授業がない教員の仕事ですよ。」
「まあ、いろいろ言ってくる先生もいるだろうけどね。そっちはぼくが何とかするから。」
「矢沢先生…ご迷惑をおかけします。」
 笑うと、口元の歪み方が一層矢沢をロックスターに似せる。
「いやいや。職員会での菊池先生の受け答えは、実にロックだったから。」
「ロック、ですか。」
 きょとんとした顔で菊池が問う。矢沢はお気に入りの一曲を鼻歌で奏でながら、気障な仕草でくるりとターンして見せた。
「そ。ロック。何というかなぁ、反骨心っていえばいいのかなぁ。あの時、ベテラン勢もたくさんいたわけじゃない?」
「ええ。」
「で、菊池先生が追い詰められているのに、誰も手を挙げなかった。」
 あの時の緊張と孤独感を思い出すと、菊池は今でも涙が出そうになる。
「だけど、菊池先生は折れなかった。それどころか、連中の横っ面を張り飛ばすような啖呵を切って見せた。いやぁ、痛快だったなぁ。これがロックじゃなくて何だっていうの?ねぇ、御雷先生。」
 はあ、と気の抜けたような返事を返すしかない。
「とにかく菊池先生が折れなければ、何とかなると思います。そして、折れないように支えるのがぼくたちの役目です。」
「ま、そういうこと。それから、教頭さんはああ言ったけど、いざとなったら殴っちゃっていいから。」
 菊池だけでなく、学年所属の他の教師もぎょっとする。平然としているのは御雷だけだ。
「ただし、最初の一発だけは我慢して殴られること。怪我をしないように、上手くね。その後は殴り返していいよ。なるべく怪我をさせない方がいいけど、そのへんは田中先生から習っておいてね。」
 これは御雷も初耳だった。
「田中先生から空手を習ってるんですか?実戦空手なんでしょう?」
「市の体育館で空手教室を開いてるんですよ。初心者や子供用のコースもあって、そこに入れてもらっています。何しろ国体選手ですから、人気があるんですよ。」
 ちょっと変わった護身術講座もあるんだよね、と矢沢が付け足した。
「親しい人にだけ、実戦で使える技を教えてくれるんですが、これが厳しくて。」
 思い出したのか、菊池が辛そうな顔になる。稲見中の女性教諭にも習う者がいたが、今は菊池だけになってしまったという。普段の空手教室後に、一対一でしごかれるらしい。
「落ちるまで絞められるし、関節技は痛いし、投げられれば受け身を取っても痛いし。辞めずに続けているのは自分でも奇跡だと思います。」
 それは空手の技じゃないでしょう、と思わず口を挟んでいた。
「何でも実家は代々古武道を伝える家系だとかで。本人も小学生の時に空手を始めるまでは、父親に随分厳しく仕込まれたと言うことですよ。」
 古流の稽古なら、かなりきついでしょう、と御雷は同意する。
「よく続きますね――まあ、菊池先生は、見た目に似合わず頑固ですからねぇ。」
 思わず口を突いて出た、その言葉尻を捉えられた。
「私のどこが、頑固なんですか。」
 眼に、力がある。菊池の少し藍色がかった瞳が御雷は苦手だ。どこまでも真っ直ぐに見詰めてくるから。
「頑固ですよ。一度決めたら、絶対に意志を曲げないでしょう?それも、苦しい状況であればあるほど、強くなる。矢沢先生風に言えば『ロック』なんですよ。」
 どうやら褒められているらしい、と菊池は思うことにする。
 それにしても、だ。
「『見た目に似合わず』、が気になるんですけど。子供っぽいのに、という意味ですか。」
 御雷はしれっと応じた。
「あれ?前にも言いませんでしたっけ。あなたは可愛いですよ。わざと野暮ったく見えるようにしているのかもしれませんが、ぼくが保証します。あなたはとても綺麗です。」
 この、帰国子女め。田中が乗り移ったような言葉が心に浮かんだ。そんなことをストレートに言う日本男児はいない。
 菊池の顔が火を噴きそうな色になるのを見て、御雷は「王手」だな、と思う。少なくとも、今日の所はこれ以上菊池の追求を受けずに済みそうだ。
 他の教員も思い思いに自分のクラスを取る。次いで教室が決められる。問題生徒のトップと目される西本を擁する菊池の学級は、二年五組になった。第二教棟の四階にただ一つ配された教室を使うことになる。
 危険な教室であった。何かあっても、隣のクラスで授業をしている教員がすぐさま助ける、というわけにはいかない。
 しかし、他への影響力のある西本を、いわば隔離しておくことには意味があった。必ず男性教師が同行する、という基本さえ忘れなければ、取り敢えずは菊池を護ることはできるだろう。
「今日は、ここまでにしましょうか。飲み会が我々を待っている。」
 矢沢の一声で、続きは明日ということになった。
 勤務時間の終わりも近い。今日だけは、皆そそくさと帰って行く。六時半より転入者の歓迎会があるのだ。

      12
 稲見中には三十名ほどの教職員がいる。それだけの人数が気兼ねなく飲み、かつ語ることができる場所はそれほど多くなかった。酒が入るとついつい仕事上の話題に触れてしまうこともある。隣室で保護者の飲み会が開かれている可能性にも注意を払う必要があった。
 今回、歓迎会の会場として用意されたのは、町外れの、瀬戸内海を望む小さな旅館の大広間だった。旅館といっても宿泊客は滅多になく、食事や宴会で利用する客がほとんどである。
 建物は古いが、飯は美味い。何しろ、今原市は瀬戸内海でも海流の激しいところに面しているのだ。時には海が河のように音を立てて流れていくのを見ることができた。そこで採れる地物の魚が美味い。
 御雷は教員の飲み会が嫌いだ。普段ストレスを溜めているせいか、酒の飲み方が汚い連中が少なくないからだ。今日のように、昼間から酒を飲む様子を目の当たりにしてしまうと、正直言って気が滅入る。
 しかし、顔には出さない。にこにこと笑いながら主賓席の端を占めている。畳敷きの広間に胡座をかいて座った。
 歓迎会が始まった。
 校長が挨拶する時も、乾杯の時も、御雷は正座はしなかった。阿呆らしい。
 最初から下戸をアピールしておいたから、御雷の前にはウーロン茶のグラスが置かれている。
 まずはビールで乾杯する。といってもビールを飲んでいたのは最初の内だけで、ものの十五分も経つと熱燗の注文が入る。お猪口でチビチビやっていたのでは酔えない、と言い出す者がいて、大振りの湯飲みになみなみと注がれた日本酒が各テーブルに配られる。
 その様子を、御雷は半ば唖然として眺めている。下戸には理解できない世界だ。
 仲居たちが、金属製のやかんをいくつも持ってきて、各テーブルに二個ずつ置いていく。
 御雷はやかんの蓋を取ってみた。途端に仰け反って顔を背けてしまう。慌てて蓋を戻した。
 やかんには大量の熱燗が入れられていたのである。ウワバミのような教師たちは湯飲みとやかんをキープし、手酌で飲んでいる。恐るべきスピードだった。
「御雷先生は本当に飲めないんですね。」
 ほんのり頬を紅くした菊池が、向かいに座った。
 鯛の刺身を口に運びながら、御雷は彼女を見る。かなり飲んでいるはずだが…。
「菊池先生はお酒が強いんですね。うらやましいですよ。全然酔ってない。」
 菊池は手で顔を扇ぎながら「酔ってますよぉ」と笑った。羽目を外しすぎない良い酔い方だ、と思った。
「御雷先生は飲まない分しっかり食べてくださいね。」
 そう言いながら、鯛飯を茶碗によそってやる。
「このあたりの名物なんです。美味しいですよ。」
 勧められるままに口にしてみる。ほとんど塩だけで炊いたのではないかと思われるほどに、米の色が薄い。ほぐした鯛の身が贅沢に入っている。噛みしめて、「海の塩で炊いたのだ」と直感した。感じたとおりに菊池に伝えると、彼女は目を丸くした。
「よくわかりましたね。醤油を使うことも多いんですが、海水で炊くのが一番美味しいという人も多いんです。お店で出す分にはそうもいかなくて、海水由来のミネラル分を残した塩を使う…という建前になっているらしいです。」
「いやあ、料理を勉強されているとは聞いてましたけど、さすがに詳しいですね。」
 菊池は赤面した。田中の軽口を覚えられていたのだ。が、酔っているために顔色の変化を気付かれることはなかった。
 美味い美味いと言いながら、あっという間に茶碗を空にする。、菊池はお代わりをよそってやる。その食いっぷりが見事で、小食な者や酒を飲む際に食事を必要としない者から、「これもどうぞ」と天ぷらや寿司が回ってくる。
 見る間に、御雷の前に食い物の山が盛り上がった。
 教員連中は自分の席を離れ、思い思いの場所で飲んでいる。教頭を中心とした輪があり、太田や岩下、中町らを中心とした反教頭派の輪がある。目が据わって、今にも喧嘩を始めそうな奴らも居る。校長は一人ぽつねんと座って車海老の塩焼きを囓っていた。
 バラバラだな。
 御雷には、情けない思いが少しだけある。学校の荒れに対する教員側の反応は大きく分けて二つだ。一つは学校立て直しのため、各自の考え方の違いをひとまず脇に置いておいて、結束して事に当たるというものだ。が、これができる学校体制なら、最初から荒れたりはしないものである。
 もう一つは、戦犯を吊し上げ、責任を押し付け合い、教員団が自滅していくパターンである。こうして勢力争いにうつつを抜かす連中の多さは、稲見中教員団が空中分解の時を迎えつつある、ということだ。校長にはそれを引き戻すリーダーシップがない。
 若手が特に派閥に組み込まれていないのが救いかもしれない。
 そんなことを思いながら二皿めの天ぷらを片付けていると、頭上から声が降ってきた。
「いたなぁ、帰国子女。菊池ィ、ちゃっかり近くに座りやがって。」
 陽気な声だが、相当に酔っている。
「田中先生も大分飲んでますね。」
 そうなのよ、とフォローを入れるのは守矢の役目だが、彼女自身の足下が怪しい。そういえば、御雷に対しても敬語を使うのを忘れている。
「久仁恵がね、さっきから御雷先生と話すチャンスを窺ってたんだけど。こう見えて、こいつも結構な内気でねぇ。」
「うるさいなぁ。」
 言いながらも、菊池の横にどっかりと座る。守矢もちゃっかりと御雷の隣に陣取った。
「洋子、あんたはなんでそこに座んのよ。」
 守矢は不敵な笑みを返した。銀縁の眼鏡が照明を反射する。ああ、昼間と印象が違うのはコンタクトではないせいか、と御雷は納得する。
「なんでって、決まってるじゃない。」
 御雷の口元に付いていた飯粒を取ってやりながら言う。
「久仁恵と菊ちゃんに妬かせるために決まってるじゃないの。」
 科(しな)を作る仕草が妙に艶めかしくて、菊池がさらに赤くなる。
 御雷は苦笑した。
「あなたも、随分酔ってますねぇ。あんまり刺激しないでくださいよ。ぼくは女性にもてた経験がないんですから。」
 セリフとは裏腹に、動じた様子はない。守矢は御雷をからかうのを諦めた。
 田中が意地悪く笑う。
「ほらみろ、お前の色仕掛けなんて通じないって。」
 御雷は、天ぷらの皿を差し出してやる。
「ぼく一人じゃ食べきれない。田中先生もどうです?しっかり食べてしっかり運動するのが格闘家の基本だから、少々のことでは太ったりしないでしょう?」
 嫁入り前の娘に揚げ物を勧めるのもどうかしているが、「そりゃどうも」と受け取る田中も普通ではなかった。自分の席から箸を持ってきて食べ始める。その食べっぷりが見事で、御雷は笑顔になる。
「あんた、その姿をよく御雷先生に見せられるわねぇ。」
 大飯喰らいなのは学生時代から変わらないけど、と守矢は呆れる。菊池は見慣れているのか、にこにこと見守るばかりだ。
「昔っから、お腹が空くのが早いのよ。生徒が見ていなければ、給食だって三人前は食べたいくらい。」
 ふと、思い付くことがあった。
「そういえば、菊池先生に護身術を教えていると聞きましたが。」
 イカの天ぷらを頬張ったまま、田中が頷く。
「夜の空手教室の後に、一、二時間。」
「二時間ですか?終わったら夜中ですね。」
 横から菊池が口を挟む。酔っているからか、言葉にキレがある。
「だから、週末だけ。で、稽古の後は私の家に来て米を一升食べて、お風呂まで入って帰るわけです。」
 田中が噎せ返る。御雷は湯飲みに茶を注いで渡してやった。
「だーかーらー、ちゃんと自分が食べる分の米は渡しているでしょうが。」
「久仁恵…突っ込むところはそこじゃないと思うわ。」
 守矢が眼鏡を外して目頭を揉む。
 まったく…こいつらを見ていると飽きない。作り物ではない微笑が御雷の口元に浮かぶ。
「練習は厳しいんでしょうね。」
 敢えて「稽古」とは言わなかった。答えたのは田中以外の二人だ。
「厳しいなんてものじゃないです。私は早々に脱落しちゃったけど、菊ちゃんはまだ続けてるのよね。」
 菊池は苦笑に近い笑みを浮かべながら、小首を傾げた。
「まあ、厳しいというか、スポーツじゃないですね。初日にいきなり絞め落とされて、『絶対やめてやる』と思ったんだけど…何故か今も通ってます。」
 おかしいですよね、と笑ってみせる。
「おかしくなんか、ないわ。」
 田中の声が思いがけず真剣だったから、守矢すらもニヤニヤ笑いを引っ込めた。
「ぶっちゃけ、菊ちゃんには武道の才能はないと思う。」
 率直な指摘には菊池自身苦笑するしかない。ストレートな物言いが田中の魅力の一つだ。
「だけど、あんたには一番大切な才能があると、私は思ってるの。」
 御雷に視線を転じて、問うた。
「御雷先生は、それが何かわかりますか。」
 御雷は即答した。
「諦めの悪さ、ですか?一度食いついたら、絶対に離さないしつこさ。できるようになるまで投げ出さないしぶとさ、とか。」
 当の菊池がむくれているのに気付いて、訂正する。
「すみません。言い方を変えます。菊池先生、あなたには『努力する才能』がある、ということだと思います。」
 我が意を得たり、と田中が手を叩く。
「そう、それ。あんたには武道の才能に関しては凡人だ。だけど、努力することにかけては一流。だから、今も強くなってるでしょ。」
「自分が強くなっているという実感はないんですけど…そもそも、褒められている気が全くしません。」
 今度は田中が苦笑する番だ。
「まあ、基本は護身術だから、相手を叩き潰すような実感はないだろうけど。最近は私と組み手をやっても息が上がらなくなってきてるでしょ。」
「でも、田中先生は手加減してくれているでしょう?」
 そりゃあね、と再び苦笑する。
「私の本気ってのは…殺し合いだから。」
 気まずい沈黙が降りた。
 田中が慌てたように訂正する。
「違う違う。『言葉の綾』ってやつよ。もう、そんな顔しないでよ、みんな。」
 ですよね、と御雷は笑って助け船を出してやる。
「空手の前は古武道をやっていたと聞きました。多かれ少なかれ、実戦向きの武術にはそういう要素はありますからね。」
「そういうこと。その中から、一般の人にも使えるような技の組み立てを教えてるつもりなんだけどね。過剰防衛にならない程度に。」
 守矢が抗議の声を上げた。
「あれを一般人向けなんて言われたら、私の立場がないじゃない。あんたも、あんたの親父殿も頭がおかしいんじゃないの。」
 田中は肩を竦めただけだ。守矢の毒舌には慣れている。
「たしかにねえ。物心ついた頃から、親父にはしごかれた記憶しかないもの。跡取りは辛いわあ。」
「跡取りというのは、『業を継ぐ』ってことですか。」
 田中は天を仰いで盛大に溜め息を吐いた。
「そういうこと。で、婿捜しの最中ってわけ。」
 嫁には行けない。婿養子になってくれる夫を探しているというわけだ。
「でも、田中先生なら、お婿さん候補ぐらいいくらでも集まるでしょう?」
 御雷の率直な感想だった。切れ長の眼が勝ち気に切れ上がっているが、シャープな印象を与える美貌には清潔感がある。身長が少し高すぎるかもしれないが、スタイルはいい。立ち振る舞いにも節度があった。やや男性的なところがあることは否定できないが、それは愛嬌というものだ。
「確かに、黙ってて、ご飯を貪り食う姿さえ見せなければ美人だと思うけど。」
 守矢が意味ありげに笑う。そういう彼女自身、毒舌を封じれば十分知的な魅力がある。が、本人に自覚はないようだ。
「久仁恵の場合は、お相手の条件が問題なのよねえ。」
 菊池が黒い瞳をくりくりと可愛らしく動かしながら耳を傾けている。酔いが大分醒めてきたようだ。
「私も、田中先生の理想の男性像というのを聞いてみたいです。」
 田中は渋い顔をした。いつもと立場が逆転しているような気がしたのだ。
「私が、というより元々は父が出した条件なんだけど。」
 興味津々に三人の視線が集まるのを感じて、柄にもなく恥ずかしげな表情になる。時代錯誤なのは自覚がある。
「私より、強い男。」
 はあ?と御雷は気の抜けたような声を出した。
「それだけ、ですか?」
「そう。それだけでいいの。私に勝てる男。本気の私を倒せる男だったら、私は夫にする。」
「お父さんが、そんな条件を?今の世の中で、本人の意志を無視してその条件はないでしょう。」
 先日、男尊女卑に対して責めるような発言をしたことへのしっぺ返しだ、と田中も自覚している。
「私らしくない、と御雷先生は思うかもしれないけど、これは私自身も望んでいることなの。自分の家系に、弱い男の血は入れたくない。」
 ふうん…と一瞬御雷が遠い目をする。馬鹿の系譜が、こんなところにもいた。田中が国体で勝たない理由がわかったような気がした。勝てないわけではないのだ。
「よくわかりませんが、伝統のある流派なんですね。おそらく、戦国時代には原形ができあがっていたんじゃないでしょうか。」
 田中が目を丸くする。
「わかるの?」
 いえ、と御雷は笑う。
「以前小耳に挟んだ程度ですが、戦国時代には無手かそれに近い状態で武将を倒すような技を鍛える集団があったとか。そもそもの起源はよくわかりませんし、そんな集団がいくつあったのかも知りません。流派の勢力を広めるのではなく『血で業を継ぐ』ことで強さを追求しようとした…。そんな話を聞かされたことがあるんです。」
「あんた、そんなもの背負ってたの?のんびりと――稲見中じゃのんびりでもないけど、教師なんてやってていいの?」
 田中はポリポリと頬を掻いた。
「そこは洋子の言うとおりなんだけど。今時、強いだけでメシは食えないじゃん。取り敢えず安定収入は必要なのよ。」
 それに、と付け足す。
「やってみると、教師って仕事も案外面白くてね。結婚できなくても、この仕事は続けたいと思ってる。」
 面白い人材だ。根っからの教師でなくとも、徐々に教師になっていく者がいてもいい、と御雷は考えている。
「ところで御雷先生。」
 田中が話の流れを変えた。
「御雷先生も、何か武術の心得があるんじゃないですか。」
「まあ、ないと言えば嘘になりますが。」
 虚実を交えて話すのだ。
「こんな仕事をしていると、割と荒れた学校に行かされることが多いので、護身術程度なら。」
 護身術ねえ…。田中が眼を細めた。瞳の底に光るものがある。
「ねえ、御雷先生。私と闘(や)りませんか。」
 菊池が口を押さえ、驚きを押し殺す。守矢は逆に口を開けたまま固まっている。
 刃物のような鋭さが、田中の視線にはあった。御雷は平然と受けてみせた。
「それはもしかして、ぼくへのプロポーズですか。」
 御雷の口元を一瞬掠めた笑いに、ひどく男性的なものを感じて田中は狼狽する。自分の言葉の意味を反芻してみる。数秒後、酔いの赤味が引いて顔が白くなる。次いで、前よりも遥かに赤くなった。
「ち、ち、違います。この前、『この人なら私に勝てるかも』と思っただけです。ただ、それだけです。」
 こういうときの守矢の指摘は的確だ。
「それって、逆に言えば『御雷先生に勝って欲しい』ってことじゃないの?」
 菊池は、普段豪快な振る舞いが目立つ田中が、ここまで困っている姿を見るのは初めてだった。面白い。だが、田中が御雷に好意らしきものを抱いているとしたら…何故か複雑な気分になる。
 その思いを御雷の声が断ち切った。
「やめておきますよ。ぼくでは数秒で叩きのめされて、あなたを失望させてしまうのはわかりきってます。」
 あんたもかぁ、と叫んで田中は頭を抱えた。最初の頃こそ、大勢の挑戦者がいた。しかし、本気の彼女の前に一分と立っていられる者はいなかった。やがて彼女の強さは周知のものとなり、今は挑戦しようとする者はいない。
 しかし。初見で御雷に与えられたショックは小さくなかった。いずれ、必ずお返しはする。
 田中は密かに心に誓っている。
「うわ、吐いた!」
 反教頭派の方からそんな叫びが聞こえてきた。見ると新採の谷杜が白眼を剥いて嘔吐している。意識がない。
 急性アルコール中毒だな、と思う。
 救急車を呼ぶべきか、あたふたと相談している。呼んでやれよ、と思った。
 な?俺が心配したとおりになっただろう?迂闊に「酒は強い方です」などとアピールするから、そういうことになるのだ。
 だが若者よ、安心しろ。稲見中の飲み会は普通ではない。これが当たり前だと思ったら大きな勘違いだからな。
 騒然とした雰囲気の中で、歓迎会は幕を閉じたのだった。

      13
 御雷はスバルのステアリングを握っている。
 二次会には行かなかった。スナックで女にサービスされても嬉しくない。女子のカラオケに付き合うのも面倒だ。
 適当に理由を付けて一次会後に、抜けた。飲んだ連中がタクシーを待つ間に、駐車場から自分のスバルを引っ張り出したわけだ。
 平日の九時。道を行く車は少ない。
 幹線道路を外れて海沿いの道に入る。路肩が広くなっているところでクルマを停めた。街灯はない。
 車外に出たときには、本来の細身に戻っている。ネクタイを外し、ぶかぶかになったシャツやスーツを脱ぐ。後部座席の床に置いてあったバッグから、黒いジャージの上下を取り出して着替えた。メーカー名や袖に入ったラインまで黒い。脱いだ服をバッグに詰める。革靴もスニーカーに履き替えた。フライトジャケットを羽織る。
 スペアタイヤの下からベレッタを取り出し、ポケット内のホルスターに収める。この隠し場所では、検問に遭えば容易に見つかるだろうという危惧はある。が、コンパクトなスバルに収納の余裕は無い。御雷としても頭が痛いところであった。
 首を一回しすると、頸の骨がごきりと音を立てた。教師の仕事は、肩が凝る。
 シートに身体を滑り込ませ、車を出す。
 姿を変えるために余計な力を使っていないので、身体も頭脳も軽い。荷物を下ろした感覚に、自然と御雷は笑みを浮かべた。
 それにしても、稲見中にはおかしな連中ばかり集まっている。そんな思いがある。
 若手からベテランまで、癖の強い教師が多い。
 集団としてのまとまりは最低レベルだ。個々の能力は低くない。無論、使えない連中もいなくはない。が、それはどこの学校でも事情は同じだ。
 小泉の冷酷な視点は、学校全体を俯瞰する者としては適任だ。伊賀の企画力、処理能力は、将来の管理職に相応しい。矢沢の立ち位置は怪しいが、出世競争とは無縁の立場から率直にものが言える人材は貴重だ。反教頭派の実力については不明だが、単に個人的嫌悪から反発しているわけでもなさそうだった。彼らには彼らなりに、教育者として思うところがあるのだろう。無能扱いしていい連中ではなさそうだ。
 女性ということで軽んじられているように見えるが、若手の三人も面白い。
 田中には人を惹き付けるところがある。良くも悪くも、行動が前のめりなのだ。生徒の方が心配してしまうほどに。心配が信頼に変わり、やがて彼女の元に集う生徒が大勢できることだろう。
 守矢の毒舌には、物事の核心を射貫く鋭さがある。おそらく、自覚的にやっている部分もあるに違いない。婉曲的な指摘より、直球で言われた方が救われる場合もある。直情的だが情の深い田中と、本来の優しさを毒舌で隠した守矢はコインの表と裏だ。
 両者が揃って生み出される独特の雰囲気は、場の空気を軽くしてくれる。
 そして、菊池。一番地味で頼りなさそうだが、芯は強い。努力家、という一言では片付けられないものを、彼女は持っている。田中の流派がどんなものなのか想像の域を出ないが、仮に御雷の業と似たような修練を積むとしたら。その何割かであっても、投げ出さずに食らいついているだけで大したものだ。
 彼女の「努力する才能」については、あの後御雷が説明してやった。菊池自身が褒められていることを自覚できていなかったからだ。
 こんな話をした。
 「才能」とは、例えるなら焚き火をする際の薪のようなものだ。人によって、持っている薪の量が違う。それが「才能」の有る無しというやつだ。才能がある者は多くの薪を。才能が乏しい者は僅かな量の薪を。それぞれ持っている。
 しかし。
 薪はそれ自体があれば燃えるというものではない。火を付け、その火が消えないように燃やし続けなければならない。それには労力が要る。心の強さが要る。
 それが「努力する才能」だ。御雷は、努力を続けられること自体が既に一つの才能だ、と考えている。
 たとえ大量の薪を持っていようとも、それを僅かしか燃やさない者と。
 たとえ少量の薪しか持っていなくても、それを全て燃やし尽くそうとする者と。
 どちらがより大きな炎を生み出すことができるか。
 自明のことだ、と御雷は思う。自分自身が努力の人だからこそ、そう思う。
 才能に恵まれた者が、その才を十分に生かせている例は多くない。だからこそ、凡人であっても才を生かし切る努力をした者が、才能の差を逆転する目があるのだ。
「今はできなくても、できるようになるまで続ければいいんです。」
 それは、御雷が自分に言い聞かせている言葉でもある。どんな才であれ、いずれは細り、涸れる。永久に傑作を生み出し続けることができるクリエイターなど存在しない。アスリートの全盛期など、人生全体から見ればほんの僅かな期間でしかない。天才的な頭脳を持つ者も、衰えからは逃れられない。
 肉体に根を持つ才能は、いつか涸れる。だが、「努力する才能」だけは生涯にわたって保ち続けることができる。心に根を持つ才能だからだ。
 だから、菊池の心を折れないように支えることが必要だ。彼女自身が折れない限り、伸び代は計り知れない。
「なんだ…学校を再生させる種は、もう蒔かれてるじゃないか。」
 無意識に呟いていた。時に虚無を映す黒い瞳に、夢見るような表情がある。
 御雷にとって菊池が厄介で危険な存在であることに変わりはない。一定の距離を取る必要はある。しかし。
「副担任としては、放ってもおけない…か。文部省め、この状況は矛盾がありすぎるだろう。」
 声に苦味があった。御雷がやろうとしていることは、菊池を追い詰め、心を折ることにつながる可能性があるからだ。
 それでも、彼の行動に変更はない。優先順位を整理して確実に処理するだけだ。
 御雷は、そういう男であった。
 スバルは民家の灯りのないエリアに入り込んでいる。少しだけスピードを落とす。
 今原市には、造船と、関連の工場が集中しているエリアがある。
 今は、その中でも小規模の――町工場の集合地のような場所にいる。騒音や臭気等の関係で、民家から離れた海沿いに位置している。
 窓を開けると波の音が聞こえる。住むのに適した場所ではないため、住居兼用の工場がないのは事前の調べでわかっている。
 危険防止のためか、どの工場も高い塀で囲まれている。入口のゲートは固く閉ざされていた。
 スバルをゆっくりと走らせながら、曲がるべき角を探す。あった。
 一瞬だけハイビームにして遠くを照らす。見通せる範囲に車両の陰が一つもないのを確認してヘッドライトを消す。ウインカーを出さずに左折した。
 街灯のない道に入ると、思いの外空が明るいのに気付いた。月は細いが、御雷の視力には十分な明るさだ。ほぼアイドリングでスバルを走らせる。突き当たりに堤防の影が見えた。その向こうはもう海だ。
 道は堤防の手前でT字路になっている。堤防沿いに、違法投棄された廃車の影がある。その間にスバルを滑り込ませた。すぐに出せるように、前方の車に近付けすぎないようにする。
 エンジンを切る。用心深く周囲の廃車を見詰める。熱を視た――冷めた鉄塊だ。パトロールの警官が頻繁に訪れる場所でないのは定点観測で確認済みだ。廃車の中にビデオカメラを仕掛けて、下調べをしたのだ。テープの録画可能時間とバッテリーの保ちを考えると二十四時間撮影することはできない。御雷はカメラから配線を引き出して途中にタイマーを追加した。夜間だけ撮影できるように簡単な改造を加えたわけだ。雨が当たる場所でなければ、河津組の事務所もカメラで見張りたいところだ。
 車から降りる。ルームランプは点かなかった。足音は立てない。御雷はそのまま空中に身を躍らせた。高い。
 二メートルを越える防波堤の上に音もなく着地すると、身を伏せる。片目だけ出して、堤防の向こう側を見た。海側に小さな砂浜がある。平日の夜、暗い海を眺めているような酔狂なカップルはいなかった。ひょいっと防波堤から下りる。やはり着地音は聞こえない。
 道を横切り、黒々と佇む工場に近付く。周囲に赤外線はない。塀で囲まれているため安心しているのか。
 工場を取り囲む塀の高さは四メートル近くある。手を触れると冷たい鉄板の感触があった。表面の塗料が潮風で劣化している。
 おっと、危ない。手を触れてしまったところを、ハンカチにアルコールを含ませて入念に拭った。小道具には事欠かない。
 薄い皮の手袋を嵌める。顔を隠すのはやめた。見られたら見られたで、講師姿の自分が注目されなくなるだけのことだ。
 塀の上端を見つめる。さて、どうやって越えようか。
 いくつか方法は考えてあったが、この場に来るまで決めかねていた。御雷らしくもないが、稲見中の荒れの背後にあるものの全容が見えない今、どこまで手の内を晒していいものか、彼にも判断が難しい。
 塀の上端に指が掛かれば、乗り越えるのは容易い。
 御雷の身長が一メートル七十五センチ。手を伸ばせば指先は約二メートル二十センチくらいまで届く。NBAの選手のジャンプ力が一メートル二十センチほどだというから、六十センチほど足りない計算になる。
 ジャンプする一瞬だけ潜在能力一杯を発揮すれば、届く。限界領域に踏み込む必要はない。さっき堤防に飛び乗ったのは予行演習だ。
 無造作に立ち位置を決め、跳んだ。猫のように、身体の使い方が柔らかい。指先が辛うじて塀に引っかかる。計算どおりだ。鉄板の断面は鋭くはないが、板自体の厚みが五ミリほどしかない。よじ登ろうとすれば、手袋をしていても指先を傷付けそうだ。
 御雷は壁面を蹴った。反動で、指先を支点に身体が回転し、一瞬塀の上に逆立ちする形になる。その瞬間に合わせて指を離した。塀の真上に身体が浮いても、回転力は残っている。それを生かし、身体を丸めてくるりと一回転して、器用に塀の上に立った。
 厚さ五ミリの折り板を立てただけの塀の上で、バランスを崩すこともない。
 敷地内を眺めてみる。
 地面には様々な機材や廃物が積み上げられている。塀を一気に飛び越えなかったのは、着地点の様子がわからなかったからだ。足下を見ると、コンテナ様の金属の箱がかなりの高さまで積み上がっている。それを使えば帰りは楽に塀を越えられそうだ。
 やはり、内部のセキュリティは甘い。金目のものがあるわけでもなく、わざわざ塀を乗り越えて侵入する者がいると本気で考えてはいないのだ。
 ひょいひょいと箱の山を伝って地面に降り立つ。
 御雷が侵入したのは、小さなメッキ工場であった。人の気配はなく、事務所にも灯りは点いていなかった。
 事前の調査では、こちらを向いている監視カメラはないはずだ。二台あるカメラは、御雷の侵入したのとは逆方向――本来の入口であるゲートの方に向けられている。建物に侵入するためには無力化しなくてはならない。
 御雷はベレッタを抜いた。減音器を装着する。死角からカメラ本体を破壊するつもりだった。チェンバーに弾は入っている。左手の親指でハンマーを起こし、御雷だからこそ視認できるカメラのシルエットを狙う。フロントサイトとリアサイトに埋め込んだ夜光チップの光点が綺麗に並ぶ。ゆっくりとトリガーを絞ろうとして――やめた。
 おかしい。
 生きている機械の気配がしない。
 聴覚を研ぎ澄ませてみる。波の音が騒がしい。フィルタリング。電力が供給されている建物なり機械なりが発する微細な振動を感じることができなかった。
 視線を空に彷徨わせる。先日まであったものが、今はない。
 電柱から伸びていた電力の供給線がなくなっている。
 御雷は低く笑った。
 経営が怪しくなっているメッキ工場を選び、いろいろ下調べをした上で忍び込んだというのに。
「一足違いで本当に潰れちまったか。」
 電力会社が電線を撤去するくらいだ。御雷が思っていた以上にやばい状況にあったのかもしれない。おそらく経営者は夜逃げ同然で姿を消し、この工場も取り壊される。だからこそ、一度電線を撤去する必要があったのである。
 この分だと、御雷の欲しいものは既に持ち出されているかもしれない。だが、誰にでも扱ってよいものではないだけに、当面は厳重に保管されている可能性もある。
「まあ、行くだけ行ってみるか。」
 独り言を言うのは、気持ちを奮い立たせるためだ。
 電力が来ていなければ、警備装置も働かない。案の定、カメラに作動していることを示すランプは点いていない。赤外側に拡張した視覚も異状は捉えていない。
 製品や材料の搬入・搬出口の大きなシャッターを横目に、すぐ脇にある従業員用の扉に近付く。もう一台のカメラも死んでいる。
 扉の鍵を、数本の針金とツールナイフだけで開ける。比較的セキュリティ度が高いものを採用しているが、基本的な構造はFBI時代に訓練を受けた機種の発展型だ。もちろん引退後も新型の鍵が出る度に解錠する訓練は続けている。開けられないものもある。これは有難いことに解錠可能だ。
 ものの数秒で鍵を開け、建物の中に身体を滑り込ませる。ライトを点けた。ごく弱い光があれば、御雷には十分だ。
 そろそろと廊下を進み、事務所の中を覗いてみる。オフィス機器や運びやすい機材は粗方持ち去られている。
 手を付けやすいところから始末していくのは、理に適っている。他の部屋も見て回ったが、ロクなものは残っていなかった。
 工場エリアに入ってみると、設備はそのまま残されていた。用途が限られるのと、ものが大きいだけに、嫁ぎ先が決まらないと撤去もままならないのだ。何より――巨大なメッキ槽を横目に歩きながら御雷は考えている。何より、メッキの工程で使われる薬物の毒性が問題なのだろう。たとえ更地にしたとしても、土壌汚染の心配は残る。
 誰がこの工場の権利を手に入れたかは知らないが、危険な物質を安易に処理するような馬鹿でもあるまい。
 薬物保管エリアを見付けた。物々しい表示の割に、付けられた鍵は貧弱だった。思った通りだ。零細企業の悪いところ―――御雷にとっては有難いところだった。
 いかに危険な薬剤であっても、日々使うものは面倒な手順を省きたくなるものだ。
 扉こそ鉄製だが、鍵自体は単純なシリンダー錠だ。針金だけで開ける。僅かに軋む扉を開くと、ペール缶が積み上げてある。表示を確認する。
 シアン化ナトリウム。これだ。やはりあった。
 青酸ナトリウムとか青酸ソーダと言った方が、一般人には通りがいいかもしれない。青酸カリによく似た働きをする、といえば余計な説明は不要だろう。
 御雷は揉み手をしながら鈍く光るペール缶の群れを見つめる。しかし、これをそのまま持って帰るわけにはいかない。量が多すぎるのだ。かといって、この場で必要量だけ小分けにするのは危険だ。万が一にも吸い込みでもすれば、御雷自身が死ぬことになる。
 小分けは最後の手段にする。取り敢えずペール缶の脇を抜けて、部屋の奥に進む。
 雑なセキュリティ、貧相な鍵、先を見通さない経営力―――それらが御雷の中で一つの像を結ぶ。この手の工場にはある可能性が高い。
 薬物保管庫の最奥部に頑丈な金属製のロッカーを発見して、御雷は野獣のような笑みを浮かべた。これも簡単に開く。
 中にあったのは、片手で持てるサイズの薬剤――サンプルか、試験用に調達したものだろう。だから、量が少ない。様々な種類のものが雑多に押し込まれている。この工場の持ち主の性格が知れた。ものの扱いが雑でいい加減すぎる。
 注意深く探す。あった。製造日と保管環境からして、十分な毒性があるはずだ。持参した食品保管用のファスナー付きの樹脂バッグを二重にしてシアン化ナトリウムのボトルを封じた。そのまま、持参したシューズバッグのような袋にしまい込む。
 素早く逆の手順で施錠しながら、撤収に移る。建物の入口を施錠し、積み上げられたコンテナを足場にして塀を乗り越える。その前に、周囲の道路を確認するのを忘れない。
 御雷は無造作に跳んだ。細身だが体重が九十五キロある身体が着地する際の衝撃を、強靱な筋肉と骨格が完璧に吸収した。シアン化ナトリウムのボトルに余計な衝撃を与えるようなことはなかった。
 スバルに乗り込みエンジンを掛ける。堤防にそってしばらく走り、さっきとは違う角から元の道に戻る。
 それからしばらくの間、御雷はループを描いて走り回った。尾行車らしき車両は付いてこない。
 無駄な努力かもしれないが、用心するに越したことはなかった。
 酷く疲れていた。御雷は手袋をグローブボックスにしまう。ベレッタはジャケット内のホルスターに戻されている。
 薬物を使うにしても、文部省は用意してくれない。当たり前だった。外部から――例えば前任地で手に入れた物を持ち込むのも原則としては禁止だ。前任校で起こったこととの繋がりを疑われるからだ。
「そうは言っても、俺が行った先で事件や不慮の死が続けば、怪しまれて当然だと思うけどね…。」
 思いが呟きになるのは御雷の癖だ。独りの時間があまりにも永い。
 役人というのは利口すぎて馬鹿になるのか、とも思う。が、困難校での勤務に挟んで、ごく普通の学校で働くこともあったりするから、それなりに「連続性」を消すことに腐心してはいるのだろう。
 どのみち、銃器を使う時点で類似の事件を抽出すれば、御雷という講師の勤務時期と重なることや、御雷武という人物の存在の不確かさというものにも警察は気付かざるを得ないだろう。だからこそ、政治の中枢にいる者たちの協力は欠かせない。今のところ、警察側に妙な動きはなかった。
 毒だろうと麻薬だろうと、必要なら使うことに制限はない。ただし、現地で、しかも御雷自身が調達するのが条件だ。もちろん、御雷自身が麻薬中毒になるようなら、即座に文部省は彼を廃棄するだろう。
 多少の読み違いはあったものの、今夜は成功に数えていいだろう。向こうは侵入方法もわからなければ、何を盗まれたのかも把握することはできまい、もしかすると、盗みに入られたこと自体に気が付かない可能性すらあった。あまりに杜撰な相手だった。
 FBI時代に学んだことが今も生きている。犯罪者を捕まえるなら、犯罪者の手口を身に付けろ。
 講師として借りている平屋にスバルを突っ込むと、今度はバイクで石上邸に向かう。面倒でも裏の顔と表の顔を分離しておく必要があった。今夜の犯行にスバルを使ったのは危険な行為だ。しかし、廃車に紛れ込ませるには古くて汚れた軽自動車の方が都合がよかったのだ。必要なリスクだと判断した。
 ビルトインガレージの収納棚の奥に設けた隠し物入れを開く。シアン化ナトリウムのボトルを、デジタル秤やポリ素材のテープの横にしまい込む。
 収納棚を閉じて、御雷は大きく息をついた。
 時計を見ると、日付が変わろうとするところだった。
 スープラのエンジンを掛ける。
 どれだけ疲れていようと、鍛錬を怠るつもりはない。
 コンソールの物入れを開き、スーパータイジャーのバッテリーを確認する。予備の電池も持っている。
「できるようになるまで続けるだけさ。」
 菊池に言ったのと同じセリフを、今度は自分に言い聞かせる。
 黒曜石のような瞳には、既に暗いワインディングロードに据えられた鉄板のターゲットが見えているようであった。

      14
 春休み最後の数日は慌ただしく過ぎていった。補足的な職員会もある。新年度の役割が発表されないと、それぞれの担当が仕事を始められないからだ。始業式の翌日に催される入学式についても細かな打ち合わせが行われた。
 学年会が必要に応じて開かれ、年度初めの準備に学年団所属の教員総出で取り組む。
 矢沢はおっとりしているようで、各人をよく見ている。指示は多くないが、無駄がない。
 稲見中では、副担任が特定の学級を専属で担当するケースは稀だ。学年主任を入れても教員数が十分ではない。よって、「当該学年所属の教員」という立場で、必要があればどのクラスの副担任の任も果たす。原則としては、御雷も同様だ。ただ、彼の場合は二年五組――菊池のサポートをすることが最優先事項として求められる。校長命令という形を借りた文部省からの指示だ。
 初めての担任業であたふたしている彼女に、成すべき仕事を示し、優先順位を考えさせて効率よく仕事を進めさせる。リードはするし、雑事の手伝いに労は惜しまないが、肝心の所は菊池自身にやらせる。自分でやらなければ覚えられないことも多いからだ。
 菊池は、御雷に指摘されることで、問題の切り分けを覚えていく。あれもこれもと欲張るのは若さの特権かもしれないが、「やる気の空回り」で終わったのでは意味がない。どのような形であれ、生徒に還元してこそ自分の「やる気」が生きるのだと学ぶ。
 些細な事務仕事であっても、それを通して思考の組み立てや先の見通しをもって行動することの大切さを学ぶことはできる。
 御雷のリードは巧みだ、と端から見ていて矢沢は感じている。仕事への習熟度、若年者への助言の仕方は円熟味さえ感じさせる。おそらく―――自分の直感を信じるなら、ベテランの担任級の実力があるはずだ。田中や守矢らとそれほど違わぬ年齢のはずなのに、不思議な男だ。
 メッキかどうかは、実際に生徒と対峙すればわかる話だ。
 数年ぶりに、新年度の始まりを心待ちにしている自分がいる。矢沢にとっても稲見中での勤務は憂鬱そのものだった。むしろ、教員生活自体が檻のようなものかもしれないとも思う。
 今年は、何かが起きそうな予感があった。
 御雷は菊池の指導の合間を縫って、自分が授業で使う大量のプリントを印刷する。それを整理して置く棚や、細々とした道具類を詰めた段ボール箱を持ち込んだ。それらを置くために、あまり使われていない倉庫を使う許可を校長からもらう。要するに、自分だけが使える部屋を校内に確保したわけだ。同時に、必要に応じては荷物置き場を別の部屋に変更することにも同意させる。校長は御雷の要求に異を唱えることは許されていない。
 夜はワイディングロードでスープラを駆り、狙撃の練習を重ねている。河津組の張り込みも数度、夜を徹して行った。予定を大きく変更する必要はないと判明しただけだ。
 寝不足だが気力は充実している。
 菊池は予想以上に飲み込みが早い。特に、御雷の意図を汲んで、先回りして動こうとする姿勢が好ましい。おかげで、新米担任の指導で苦労することはなかった。
 二年五組の教室も整備した。面白半分で剥がした壁紙を貼り直し、壊されたコンセントの部品を交換する。照明のスイッチが壊れているのも気になっていたので、修理する。一見丈夫そうに見えるが、強く押し込めば填め込みが外れてしまうのだ。
 御雷は慣れた手付きでスイッチのカバーを外す。個々のスイッチは、穴の開いた金属板に嵌め込まれている。ネジ留めなどではない。穴に突き出した爪がスイッチ側の溝に食い込んで固定されるという原始的な造りになっていた。だから、無理な力を加えると柔らかな金属の爪が変形して、スイッチを定位置に保てなくなる。先の細いペンチで曲がった爪を修正し、外れたスイッチを定位置に戻す。爪の根元に開けられたスリットにマイナスドライバーを差し込んで捻ると、ぐっと爪が押し出されてスイッチが固定された。ものの数分で修理が完了するのを、菊池は魔法でも見るような目で見守っている。
 自分も手伝おうかという彼女に、学級での所信表明でも考えていろと指示を出して職員室へ帰す。御雷は鼻歌を歌いながら校内のスイッチを直して回った。他のクラスはもちろん、特別教室も含めて、全部だ。大した手間ではない。「割れ窓理論」からいえば、校舎の破損を放置するなど論外だ。壁紙を貼る場所は想定以上に多かったが、そちらは矢沢が引き受けてくれた。美術科の教員だけあって器用に作業する。
 落書きを消し、木部に彫刻刀で彫り込んだ汚い言葉は木質パテで埋めてから、それらしく細筆で木目を描き込んでやる。
 広大な床の汚れも何とかしたい…と考えてはみたものの、少々途方に暮れてしまう。両手を腰に当てて廊下を睨んでいる御雷の横に、少女が立った。
「床を磨けばいいんですか?」
 体操服なのは部活中だからだろう。肩に触れるかどうかという程度の長さの髪を、一つに括っている。校則では、女子は髪が肩に触れる長さになったらゴム紐などでまとめることになっているのだが、ギリギリまで粘るつもりなど更々ないようだ。
 唐突な申し出に、御雷も咄嗟に反応できなかった。
 床からスポンジを拾い上げて、再び問う。
「これを使って、床を磨けばいいんですか?ええと…。」
 自分のどう呼べばいいか迷っているのだ、と気付く。
「御雷だよ。君は、たしか、初めて来た時に職員室を教えてくれた…。」
 覚えていてくれたんですね、と彼女は笑った。
「一年――じゃなかった、二年生の広瀬由希です。御雷先生、私手伝います。これは洗剤を付けて磨けばいいんでしょうか。」
「いや、水を付けて擦るだけでいい。」
 まだメラミンスポンジは珍しい。広瀬は早速手近の水道でスポンジを濡らし、黒ずんだリノリウムを磨いてみる。途端に歓声を上げた。
「これ、すごく綺麗になりますね。」
「だろ?ただ、人手が足りないんだよなぁ。というか、広瀬さんは部活中だろう?こんなところでサボってていいのかい。」
 広瀬は、そうだった、という顔をする。
「今日は顧問の先生が来られないので、怪我をしないように体力作り中心のメニューなんです。指示されたメニューが終わったという報告に行く途中で、先生が掃除をしているのを見かけたものだから、つい。」
「ふうん、こんなことをしてる教師って、珍しいかい。」
 はい、という返事が返ってくる。教師の無力感や無気力な雰囲気を敏感に感じ取っているわけだ。
「春休みの間に、いろんなところが少しずつ綺麗になっているのは知ってましたけど、先生だったんですね。」
 御雷は、出会った日のように片目を瞑って笑った。
「ぼくだけじゃない。矢沢先生も壁紙を持って駆け回ってるしね。二年生の教室を見たら驚くぞ、きっと。」
 楽しみです。そう言うはにかんだような笑顔が眩しい。と、悪戯っぽい目で御雷を見上げた。
「ところで、私は何組なんですか?」
 御雷は苦笑する。まったく。油断も隙もないとはこのことだ。
「危ないなぁ。つい話したくなったじゃないか。それは明日になればわかること。一晩だけ我慢しなよ。」
 やっぱり駄目かあ、と舌を出してみせる。表情が豊かで、憎めない。
「広瀬さんの担任になる先生も、頑張る準備をしているから。でも、それだけじゃ足りない。先生の本気が見えたら、みんなも本気で応えてほしい―――負けるなよ。」
 御雷の声に込められた思いを感じ取ったものか、広瀬が真顔になる。黙ったまま、ぎこちなく頷く。御雷は目線を下げて、広瀬の目を見た。黒い瞳が少女を映す。
「学校は、勉強するところだ。勉強したいと思う奴が我慢するなんて、おかしなことだよ。でも、もう我慢しなくていい。そういう学校にするために、ぼくは来た。力を貸してくれるかい?」
 広瀬は御雷の瞳を美しい、と思った。訳もなく涙が溢れてきた。同時に、自分がどうしようもなく本当の気持ちを抑えつけていたことを自覚した。ずっと言ってもらいたかった言葉。それを御雷がくれた。
「先生、私…。」
「うん。」
「もっともっと、ちゃんと勉強できる学校にしたいです。」
「うん。」
「誰も自殺なんてしなくて済むようにしたいです。」
 渡部のことか、と思い当たる。大丈夫、もう自殺者は出さない。死人は出るだろうが、まともな人間が死なないように全力を尽くすと約束しよう。
 声に出さずに、御雷は広瀬と契約を交わす。赴任地の生徒との約束が、御雷の学校再生専門員としての始動キーだ。それは御雷自身が心に決めた掟だ。
「広瀬ェ!サボってんじゃないぞ。」
 聞き覚えのある声に広瀬ばかりでなく、御雷まで肩を竦めた。顔を見合わせて笑い合う。
「田中先生が顧問だったね。ぼくの手伝いをしてて遅くなったと、そのまま話せばいいよ。」
 礼を言ってぱたぱたと駆けていく後ろ姿に言った。
「廊下は歩くもんだぞ、広瀬。」
 十分後。
 広瀬を先頭に大挙してやって来たバレー部の女子が、御雷が用意していた大量のメラミンスポンジを手に、一斉に床磨きに取りかかった。広瀬と並んで動きがいいショートヘアの娘が高木だ。スポンジを取り損ねた連中をまとめて、トイレの床磨きを始めている。バレー部に三年生はいない。
 御雷はもう手を出させてもらえない。呆然としていると後から声を掛けられた。
「うちの部員もなかなかやるでしょ、御雷先生。」
「田中先生…ありがたいけど、いいんですか?」
 田中は顔の前でぱたぱたと手を振った。
「いいのいいの。今日は体力作りの日って決めていたから、これもその一環です。それに、広瀬と高木が、久しぶりに自分の意志をストレートに伝えてくれたから。」
「それで、他の部員まで?」
「そう。『汚そうという気が起きないくらい綺麗にしてやろう』だそうです。どうすればいいか、本当は自分たちでもわかっているんですよね。そのきっかけを御雷先生がくれたんだ、って。」
 そりゃ光栄です、とだけ応えた。
「でも、可愛いからって手ェ出したら駄目ですからね。相手は中学生なんですから。」
 堪えきれずに、御雷は吹き出した。
「出しませんよ。少なくとも…そうですねぇ、あと五年くらいは経たないと。その頃には、男を見る目もできてるでしょうから、ぼくなんて相手にしてくれないでしょう。そんなもんですよ。」
 田中は少しだけ疑う眼をする。
「御雷先生って、一部ではもう人気者なんですよ。」
「ぼくが、ですか?」
「プーさんみたい、だそうです。」
 そりゃプーさんが気の毒だ、と御雷は再び笑った。
 稲見中は、ここ数年になく磨き上げられた校舎で、新年度のスタートを迎えることになったのであった。     

      15
 四月八日。一学期の始まりの日である。
 始業式に先立って、まず新任式が行われる。
 新たに稲見中の教職員として加わった者たちを、生徒に紹介する式である。
 全校生徒が集合した体育館で、御雷は他の転入者とともに壇上――フロアから一段高くなったステージに座っている。
 パイプ椅子の座り心地の悪さには毎回閉口する。式典で座った翌日は、腰の調子がおかしくなる。もし彼に痛覚があったなら、腰痛を訴える場面だろう。
 無表情に座りながら、メッキ工場に侵入した夜を思い出していた。
 潮騒が、やけに耳に付く夜であった。
 記憶を呼び覚ましたものが何かはわかっている。
 片時も止むことのない、生徒たちの話し声である。個々の声は小さいのかもしれないが、五百人余りの生徒の大半がひそひそ話を続ければ、どうなるか。
 まあ、こうなるよなあ。
 小さく溜め息をつく。
 まだ新しい担任も発表になっていない中で、留任組の教師が仮の担任として体育館まで生徒たちを連れての集合である。
 ざわつくのも仕方がない――とはいえ、これは酷い。いや、と思い直す。取り敢えず座っているだけで御の字というべきなのかもしれないな。
 個々の転入者の挨拶に先立ち、校長が簡単に全員の略歴や専門教科を紹介する。
 誰も聞いている者はいない。校長はおどおどと手元のメモに目を落とし、生徒の方を見ようともしなかった。
 何度も「静かにしなさい」だの「話を聞きなさい」だのという指示が飛んだが、蛙の面に小便であった。
 続いて各人が年齢順に挨拶していく。講師である御雷は最後だ。
 精一杯虚勢を張る者。生徒に擦り寄るような言葉を発する者。自信のなさが声に出る者。僅かな時間だが、それぞれの人となりを垣間見ることができる。
 御雷の番が来た。席を立ち、他の転入者に軽く会釈して、演壇の前に進んだ。
 昂然と顔を上げて立つ。「プーさんだ」というひそひそ声が聞こえた。上手いことを言う、と内心苦笑する。
 しっかりと生徒を見た。端から端まで、素早く目を合わせていく。常に笑みを浮かべているような御雷の目。その奥にある黒い瞳に気付いた生徒は、反射的におしゃべりをやめた。
 なるほど、今日は全員来ているな。

 二年一組  遠藤秀一  白石直哉 白井希美
 二年二組 ○南方 猛
 二年三組 ○片瀬啓介  田村浩二
 二年四組 ○石川賢治  玉井淳也
 二年五組  馬越良太 ○西本祐司

 先日の資料を思い出しながら、彼らとも目を合わせる。目を逸らしたのは玉井だけだった。
 ほぼ全員が見事に制服を着崩している。男子は上着を第二ボタンまで開け、下に着た派手なTシャツを見せびらかしている。シャツの裾がだらしなくはみ出しているのもわざとやっていることだ。白井希美はセーラー服の胸元を大きく開き、白い肌がよく見えるようにしている。男を知っているからか中学生にしては胸が大きい――と御雷は感想を持つ。しかし、その派手な下着はいただけない。見苦しいだけだ。片瀬や石川に至っては、何処から調達したのか、今時短ランにボンタン――極端に太い変形ズボンだ。小柄なだけに、似合わないことおびただしい。「昭和のコスプレか」と嘲笑いたくなる。
 御雷が生徒を観察するように、糞餓鬼共も新しくやって来た教師を値踏みしているのだ。だからこそ、新学期の初日から遅刻もせず登校し、曲がりなりにも大人しく体育館に座っているのだ。
 俺たちは、商品のように値踏みされ、奴らに付け入る隙を探られるわけだ。
 御雷は、かつて強襲を掛けた人身売買の現場を思い出す。FBI時代の話だ。途上国ではままあるという競りのような形で、幼い少女たちが売り買いされていた。その殆どが誘拐の被害者であった…。
 それにしても。
 問題なのは「その他大勢」の、普通の生徒の方だ。死んだ魚のような目をしている。新鮮な魚が売り物の土地で、その目はないだろう。
 教師の挨拶が終わるごとに拍手をするのだが、それに力がない。
 若者の姿をした、老人。諦観に囚われた哀れな年寄り。
 お前たちが諦めたら、この学校は本当に終わる。
 どっちつかずの中間層をどう掌握するか。
 どのみち、種は蒔いてある。やれるだけ、やってみるさ。
 御雷の思考は加速している。実時間ではほんの数秒しか経っていない。
 生徒たちは締まりのない御雷の身体が、美しく礼をするのを唖然として見詰めた。たとえ体型が美しくなくとも、肉体の端点を的確にコントロールしてやれば折り目正しく端正な印象を与えられるものだ。逆に言えば、意図的にだらしない印象を与えることも可能だということでもある。御雷はプロだ。
「はじめまして。私は御雷武といいます。」
 口火を切った。声質はそのままに、よく通る発声で場の空気を支配する。マイクを通して話す時には、さほど声を張っているわけでもないのに私語に対するジャミングになるような声の出し方というものが、ある。
 一人称で「私」と言ったのは、御雷が自分で自分を「先生」と呼ぶような人間ではない、という宣言だ。無意識に一人称代わりに「先生は~」と言う教師は少なくない。御雷は違う。教師と生徒という関係だけで物事を見る人間ではないのだ。必要であれば教師という枠を越えた判断をし、行動に結びつける。甘えは許さない。
 ただ一言に込められた思いを敏感に感じ取った者は多くない。が、何名かが表情を変えたのが見えた。よろしい。お前たちは起点になれる人材だ。
「着任早々、いろいろとニックネームを付けてくれているそうですが…。」
 ぐるりと生徒たちを探す仕草を見せる。広瀬と目が合った。申し訳なさそうな表情になったが、目は逸らさなかった。悪気はないのだ。
 御雷は引き締まった表情を保ったまま言った。続けた声が、違う。
「ボクは別に蜂蜜が大好きというわけじゃありませぇーん!」
 唐突なプーさんの物真似に、どっと笑いが起こった。笑いの中心はバレー部の女子たちだ。不意を突かれて涙を流さんばかりに身をよじっている者さえいた。
 場の空気が、軽くなる。
 軽く笑みを浮かべた後、御雷は手を挙げて笑いを制した。静けさが降りる様を、古参の教師たちは信じがたい思いで眺めた。
「さて。私は、この稲見中学校を、もっと素晴らしい学校にするためにやって来ました。では、ここで質問です。」
 再び、素早く生徒一人一人と目を合わせる。視線のスキャニングだ。
「『稲見中』って、一体何だと思いますか。」
 戸惑うような空気の中、一人がおずおずと手を挙げる。やはり、バレー部の女生徒だ。人一倍熱心にトイレ掃除をしていた娘だ。蒔いた種が効いている。一人が発言すると、続く者が出てくる。
 学校の名前。ここに建っている校舎のこと。稲見中を運営している教師のこと。
 どの解答にも、御雷は「いいところを突いてきた」、「惜しい」などと返す。生徒の発言を決して斬り捨てない。
 菊池は気付いた。御雷は、もう授業を始めているのだ。矢沢が近くに立っていた。小声で話しかけてくる。
「菊ちゃん、気が付いたかい。」
 頷く。
「惜しくなくても『惜しい』と言う。まだ届かなくても『もう一息』と言う。生徒の発言を全部受けきるのは大変なことだけど、受け止めてもらった側は嬉しいものさ。」
「これって、授業ですよね。」
「そう、授業。でも、あいつらにとっては、どうかな。」
 目線で示した先に、西本がいる。他の連中と違って、制服をきちんと着こなしている。が、その目に宿るのは危険な光だった。今の、この空気感は、西本たちにとって居心地のよいものではない。
 なかなか正解が出ない中、高木と広瀬が顔を見合わせるのが見えた。意を決したように、高木が手を挙げる。
「あの…もしかして、『私たち自身』ですか?」
 御雷は満面の笑みを浮かべた。
「もしかしなくても、正解。稲見中とは、建物のことでも、ましてや教師のことでもありません。建物はただの容れ物で、私たち教師は脇役でしかありません。主役はあくまでも生徒です。例えば――大きな地震などで、この校舎が崩れてしまったとします。ここでは授業ができませんよね?そんなとき、仮に今原市の体育館を借りて授業をするようになったら、そこが『稲見中』です。」
 高木が頷く。広瀬もだ。
 確認して、御雷は声のトーンを落とす。
「そして…もし、私が突然死んでしまうようなことがあっても。私の代わりに新しい教師がやって来たとしても。」
 御雷は、踏み込んだ。高木が、広瀬が、表情を凍り付かせる。同じ表情の生徒が、少しずつ増えていく。渡部の死は公然の秘密だ。胸が冷えるような思いを彼らが共有するのを待ってから、続けた。
「それでも、『稲見中』がなくなったりはしません。何故なら、さっき答えてくれたように、『稲見中』とは皆さん自身のことだからです。皆さんがいる限り、『稲見中』がなくなることはありません。」
 言葉に力を込めた。
「だから。」
 一言一言を噛みしめるように語りかける。
「はじめに私が言ったことを、もう一度思い出してください。私は、『この稲見中学校を、もっと素晴らしい学校にするため』に、やって来ました。そのためには、どうしてもみなさんの協力が必要です。私に力を貸してください。お願いします。」
 深々と頭を下げる。子供に対する礼ではなかった。これは指導や教授ではない。御雷は対等なパートナーとして、共に学校をよくしていこうと呼びかけたのである。
 その姿は荘厳ですらあった。
 拍手が、起きた。数は、まだそれほど多くはない。だが、一つ一つの拍手が力強かった。
 顔を上げて照れたような笑顔になった御雷を見ながら、広瀬は思った。やっぱり、プーさんに似ている。手が痛かったが、拍手をやめることはできなかった。
 菊池も思わず拍手していた。彼女が漠然と思っていたことを御雷が見事に形にして見せてくれたからだ。
「御雷先生の、宣戦布告だねぇ。」
 拍手しながら矢沢が言った。目は笑っていない。
「宣戦布告、ですか。」
「そ。奴らにとってはね。御雷先生の言う『稲見中』には、奴らも含まれるんだよ。それを変える、と彼は言った。それは、奴らにとっては『今のままではいられない』という宣言だよ。」
 菊池は急に不安になった。
「それって、御雷先生が危ないんじゃないですか。」
 危険だろうね、と事もなげに肯定された。
「でも、奴らの敵意が御雷先生に向けば、菊ちゃんの仕事はやりやすくなる。」
 あっ、と菊池は口を押さえた。自責の念が湧き上がりそうになるのを、矢沢の声が止めてくれた。
「ま、それだけじゃないだろうけど。少なくとも単純な自己犠牲なんかじゃない。彼なりに勝算があるんだと思う。若いのに、食えない男だよ。けどね、食えない男なりに、高木や広瀬の気持ちを踏みにじるような奴でもないと思うんだよね。」
 あくまで直感だけど、と笑うところはいかにも芸術家だ。
「不思議な男だよ、御雷先生は。」
 菊池は頷いた。
 壇上からフロアに降りる御雷に、あからさまな敵意を帯びた二十個の眼が向けられる。彼は、平然とそれを無視した。すたすたと歩いて、生徒たちの後ろに回る。菊池の横に立った。
 新任式後に行われた始業式も、大した混乱なく終了した。
 続いて、二、三年生の新しい学級担任が発表される。悲鳴や歓喜の声が生徒たちから上がる。今日、担当が明かされなかった者が、一年団ということになる。
 菊池の名が、二年五組の担任として読み上げられたとき、クラスの生徒の反応は微妙なものだった。喜ぶでもなく、かといって不満を漏らすわけでもなく。馬鹿にしたような空気がないことを、御雷は確認する。
「やっぱり、頼りないと思われてるんでしょうか。」
「でしょうね。」
 あなたが渡部のようにならないか心配しているのだ、とは言わなかった。
「誰でも、最初はそんなものです。」
「御雷先生もですか。」
 ええ、と笑ってみせた。
「さっきの挨拶だって、冷や汗ものでしたよ。…おっと、ぼくは汗がかけないんだった。」
 こんなときに冗談を言ってくれる優しさが、菊池には有難い。微笑みを浮かべたまま、御雷が言った。
「自分の力だけでは足りないときに、『助けて』と言うのが大切なのは、生徒も教師も同じですよ。」
 素直に頷けた。
 退場、の号令が掛かる。いよいよ担任業の本番だ。
「さあ、あなたの生徒たちです。教室へ帰って、思いの丈をぶつけなさい。」
 すうっと、大きく息をする。菊池はしっかりした足取りで、二年五組の先頭まで歩いて行く。その歩幅が普段と変わらないことに、御雷は感心する。
 菊池は自分の生徒たちを数秒見渡した。瞳に鋼の色が浮いているのが見えた。
「では、教室に帰りましょう。」
 少し低めの、よく通る声で宣言する。菊池が歩き出すのに合わせて、二年五組が綺麗な列を保ったまま体育館から出て行く。西本の唇に不貞不貞しい笑いが刻まれているのを御雷は見逃さなかった。
 不吉な思いを胸に刻んだまま、五組の最後尾に付いた。 
先に退場した一組や二組では、既に学級活動が始まっている。担任が改めて挨拶をしているのを横目に見ながら、五組の生徒たちは階段を上る。三階を通り過ぎて、四階へ。そこに一クラス分だけ、教室がある。隣は空き教室だ。
 生徒たちが出席番号順に座るのを待って、菊池は教室に入った。少し離れた位置に、御雷が立つ。
 菊池は教卓を挟んで生徒と向き合った。
「今年、みなさんの学級担任を務めることになった菊池由美です。去年は生まれて初めての教師生活で、わからないことだらけで一年が過ぎてしまいました。今年も生まれて初めての学級担任ということで、とても緊張しています。でも、同時にとても楽しみでもあります。みんなが、どんな成長を見せてくれるのか。私も負けずに成長するつもりです。いろいろ気が付かなかったり、